突然のノックに氷川紗夜は慌てた。スマホを閉じ体を起こすと、ベッドの縁に腰掛けた。
「おねーちゃん、起きてるー?」
ドアの向こうから氷川日菜が尋ねる。紗夜は咳払いを一つ挟むと応えた。
「ええ」
ドアを開けて日菜が部屋に入る。
「どうしたの?」
「おねーちゃん、旅行に行かない?」
「旅行?」
紗夜が反復する。日菜は笑顔で、うん!と答えた。
「旅行って。具体的にはどこに、いつ?」
唇に指を当て、うーんと考えた後に日菜ははにかむ。
「わかんない!」
紗夜は溜息を吐くと頭を抱えた。
「また貴方は――どうしてそんなに適当なのかしら」
だいたい。紗夜は呆れ顔を見せる。
「どこに行きたいのよ」
ベッドを離れ机に座ると、手帳を開く。
「んー。あたしは、おねーちゃんとならどこでもいいなあ」
二度目の溜息を紗夜が吐く。
「日菜、ちゃんとやってちょうだい。それじゃいつまで経っても決まらないわ」
「ええー。じゃあおねーちゃんが決めて!」
「そんなこと言われても困るわよ。あなたが言い出したことなんだから」
「う~ん」
小さく唸ると日菜は考え込んだ。
「――てことがあったんだよねー」
羽丘女子学園三年A組。昼休み、今井リサの机にやってきた日菜はことのあらましを話した。
「おねーちゃん、どこに行ったら喜ぶかな。リサちー、何かない?」
リサは苦笑する。
「ヒナと一緒なら、どこに行っても嬉しいんじゃないかなー。紗夜は。ヒナは逆に、紗夜と行きたい場所とかないの?」
「あたしかー。あたしもおねーちゃんとならどこでもいいんだよねー。あ!そーいえば、温泉とか、テーマパークとか回ればいいかもって、CiRCLEのスタッフさんと話したことがあってね」
「いいじゃん、それ。紗夜に言えば、色々調べてくれると思うよ?」
「あ、あとライブハウス巡りとかいいかも!うんうん!なんかいい感じ!リサちー、ありがと!」
日菜が軽い足取りで去る。
「旅行かあ。てことは紗夜、Roseliaの練習も休まなくちゃいけないよね。今度の休みの日は――う~ん。ヒナの休みとも合わせないといけないからなぁ」
手帳を開いたリサはRoseliaの練習日程を確認しながら呻いた。とりあえず、今日の練習で紗夜にも話を聞いてみよう。
*
「紗夜、ヒナとの旅行について聞きたいんだけど」
その日のRoseliaの練習後、メンバーが揃う手前、リサは紗夜に切り出した。紗夜は微かに背中を震わせると、怪訝な表情でリサと向き合った。
「今井さん、どうしてそれを...日菜ね」
「え、紗夜さん旅行に行くんですか!?いいなー」
あこが真っ先に反応する。他メンバーも興味を示した。
「まあ隠すようなことではありませんし。ただ、まだどこに行くとも決まったわけではないので、おいおい話すつもりでした。日菜が私と旅行に行きたいと言い出して。昨日の話です」
「だいたいの日程とか分かる?その日はバンドの練習自体なしにするのもありかなーって考えてて」
リサに対し首を振る紗夜。
「まだ何も決まってません。ですが日菜の仕事がない日に合わせないといけませんので、もしかしたら練習にお休みをいただくことになるかもしれません」
ご迷惑おかけします、と紗夜は頭を下げた。メンバーは慌てる。
「ぜ、全然そんなことないよ紗夜。折角の旅行なんだから」
「そうね。行くからには二人で楽しんできなさい」
「ありがとうございます」
思いがけず簡単に受け入れられたことに、内心紗夜は拍子抜けした。こと友希那からに関しては、もう少し厳しい言葉を投げられると思っていたのだが。紗夜は静かに微笑んだ。
「氷川さん...?」
それを目敏く見付けた燐子が小さく首を捻る。どうかしたのですか、とでも言いたげな表情だ。
「いいえ、何でもありません。さあ、そろそろ片付けを急ぎましょう。退室時間も迫っています」
リビングのソファでテレビを見ていた紗夜が日菜の帰宅を迎えた。
「日菜、お帰りなさい」
「ただいまー。おねーちゃんあのね!旅行のお休みもらえそうだよ!」
「そう――手は洗ったの?」
「んーん。これから」
荷物をソファの脇に置くと、軽い足取りで洗面所へと向かう。手洗いうがいを済ませた日菜は、リビングに戻り紗夜の隣に腰掛けた。
「おねーちゃん、これ何の番組?」
バラエティ番組だろうか。普段紗夜が見るような番組でもない。
「あなたを待ってる間に、何となく見てただけよ」
日菜は首を傾げた。紗夜がリモコンに手を伸ばし、テレビを切る。
「それで日菜、お休みはいつもらえそうなの?」
「んーとね、再来月の月末に三連休があるでしょ?そこは全部お休みになるみたい」
「再来月の三連休ね――どこも混み合いそうね。行き先も慎重に選ばなくちゃいけなさそうね」
紗夜は立ち上がるとリビングを出た。その背中を日菜が追う。
「日菜、人気のテーマパークとかには行けないわよ」
「どうして?」
「どうしてって、混むからよ。あなたはアイドルなんだから、人の多すぎる場所には連れて行けないわ」
「あたし、変装するよ?」
階段の途中、紗夜が足を止めて振り返る。
「あなた、変装しても目立つじゃない」
「むう~」
ふくれっ面の日菜に、紗夜は小さく溜息する。
「どこか行きたい場所でもあったの?」
「おねーちゃん、去年あたしがパスパレの仕事で無人島に行ったときのこと、おぼえてる?」
「ええ。まさかあなた、無人島に行きたい訳じゃないでしょうね」
紗夜のジト目を笑って受け流す日菜。
「あはは。いーねーそれ。おもしろいかも」
「やめてちょうだい日菜。私は行かないわよ」
「冗談だよ、おねーちゃん。それでね」
三段、階段を登り紗夜に接近する。後退った紗夜の踵が階段にぶつかる。
「ロケから帰ってきたあとに話したでしょ?今度は二人で旅行しようね、って。そのときおねーちゃんは、ビンテージギターを見たり、ライブに行ってみたいって言ってたよね」
「言ってたかしら。よく覚えてるわね」
紗夜は首を捻る。10ヶ月近くも前の話だ。
「でも日菜、その二つが目的にならなくても、今の私は別にいいのよ」
「あたしはどっちでもいいよ。おねーちゃんが行きたい所に、あたしも行きたい」
紗夜は肩を竦めた。いつもの調子だ。こんな感じで互いに譲り合うものだから、なかなか話も纏まらなくなる。紗夜は階段を登った。自室の扉を開け日菜を迎える。一瞬驚いた顔をした日菜だったが、その表情はすぐさまほころんだ。今にもスキップしだしそうな勢いで部屋に入る。
「日菜、あんまりはしゃがないで。ほら、そこに座って」
部屋の中央を飛ぶように徘徊する日菜に紗夜が釘刺す。日菜は満面の笑みで返事を返すと、指定されたベッドの上に大人しく座った。紗夜が扉を閉め振り返ると、いつの間にか座布団を胸に抱えていた日菜と目が合った。
「おねーちゃん、“二人きり”だね」
日菜が目を細め、いたずらなような笑みを浮かべる。紗夜は絶句の後、露骨に顔を逸らした。
「じょ、冗談でもやめてちょうだい!」
「あははは。おねーちゃんかわいいー」
「いい加減にしなさい。そろそろ、ちゃんと話し合うわよ」
うっすらと頬を紅潮させながら、紗夜は椅子に腰掛ける。
「それで日菜。繰り返しになるのだけれど、あなたが行きたい場所はあるの?」
「んーとねー。今日リサちーと話したんだけどね。テーマパークとか温泉とか、どうかな」
「テーマパーク、温泉ね...」
腕を組んで紗夜が考え込む。
「テーマパーク、は難しそうだけれど。どうしようかしら」
「やっぱり難しそう?」
「そうね。あなたの顔も知られてきてるから、人前だと自由に動けなくなるかもしれないし。それに――」
「それに?」
「折角の旅行なんだから、できれば二人でゆっくり出来た方が私は――その」
「なあに?おねーちゃん」
悪戯な笑みで日菜が続きを促す。紗夜はしかし、咳払いでその場を誤魔化した。
「初めての旅行だし、あまり大層な場所には行かない方がむしろいいかもしれないわね――温泉旅行、でも大丈夫かしら日菜」
「うんうん!全然いいよ!むしろそれがいいよ!」
首がもげそうなほどの勢いで、日菜は激しく首肯する。
「そしたら、予算と行き先が問題ね。取り敢えず私の方で候補をいくつか調べておくわ」
紗夜が壁掛けの時計にちらりと目をやる。
「そろそろご飯の時間ね。また今度、詳細を決めましょう」
「はあーい」
二人は部屋を出るとリビングへ戻った。
途中新幹線に乗りつつ、電車に揺られること四時間、最寄駅に到着する。そこからバスに乗り、山道を一時間ほど走ったところに目的の温泉宿はあった。
「わあ~。豪華だねぇ」
バスを降り、建物を見上げた日菜が感嘆を漏らす。木造の大きな平屋旅館だ。造形や装飾に派手さがあるわけではなかったが、乱れ一つない玄関先の石敷や、周辺の剪定された木々が宿の格調高さを支えた。静かな美だ。
「おねーちゃーん!はやくー」
車内から降りてこない紗夜を呼ぶ。返答と共に紗夜が降りてくる。
「何してたの?」
「忘れ物がないか確認してたのよ。何か置いていってたら大変でしょ?」
「大丈夫だよ。こう見えて日菜ちゃん、意外としっかりしてるんだよ」
「そう。じゃあこれは何かしら」
紗夜がそれを掲げる。スマホの充電コードだ。
「あー!忘れてた。まあ、たまにはそういうこともあるよねー」
「まったく、これだから。ほら、行くわよ」
日菜にコードを渡すと、紗夜は宿の玄関に向かった。フロントで帳簿をつけ、部屋の鍵を受け取る。通路奥の部屋だ。
部屋は洗面所と八畳間、それに広縁と露天風呂がそれぞれ独立して存在する間取りになっている。部屋に入るや否や、日菜は露天めがけて駆け出した。
「わあ~~~。凄いよおねーちゃん!紅葉がすんごくキレー」
るんるんと目を輝かせながら紗夜を誘う。荷物を部屋の端に置いた紗夜も外に出た。
「綺麗...」
紗夜が呟く。露天風呂は隣の山に向かって開放されていた。見える景色全てが朱い。紗夜はほっと吐息を漏らした。
「早速入ろーよ!」
「待ちなさい日菜。早く入りたいのは分かるけど、まずは荷物の整理よ。お風呂は一段落着いてから」
「はーい」
日菜は落ち込んだ声で返事をした。部屋に戻った二人は手早く荷物の整理を済ませた。本音のところ、紗夜も少しばかり気が急いていた。
タオルと着替えを持って、二人は脱衣所へ向かう。
「あ、おねーちゃん見て見て!浴衣があるよ」
脱衣籠の中に、旅館側が用意した浴衣が畳まれていた。
「ねえねえ!これ着ようよ!」
籠から浴衣を取り出し日菜がはしゃぐ。紗夜は
「好きにしなさい」
とまるで興味がないといった風に答えた。
「わあ~凄い。ほらこれ、何かヒューンって感じ」
日菜はというと、浴衣を広げてその模様を眺めていた。二色たてかん柄。鎖を繋げたようなデザインの、比較的スタンダードな柄だ。紗夜は脱衣籠に着替えを置き早々に服を脱ぐと、一足先に外に向かった。
「日菜、先に入ってるわよ」
「あ!待って~おねーちゃーん!」
日菜は服を脱ぎ捨てると慌てて後を追った。
「日菜、走らないの。危ないでしょ」
「むう~。おねーちゃんのいじわる」
「何も急がなくっても。お風呂は逃げないわよ」
「そういうことじゃなくてさ~~もー」
日菜の物言いたげな口ぶりに、紗夜は首を捻る。
「よくわからないわ。日菜、何が言いたいの?」
「もう大丈夫だから!おねーちゃん。ほら、早く入ろ?」
日菜が紗夜を奥へと押し込む。紗夜はやはり困惑した。彼女の意図が読めない。氷川紗夜、どうも鈍感な部分があるらしい。
一通り体の汗を汗を流し、それから二人は湯船に浸かった。熱くもなくぬるくもなく、最適な温度が二人の体を包む。そのまま微睡んでしまいそうな程に心地良い。体の芯まで浸透する温もりが、長旅で疲れた二人の心身を癒やした。眼前に広がる朱色の山々もまた美しかった。五感の知覚する全てが、二人を包み込む空間を作っていた。何もかもが二人を優しく抱いてきた。まるで奇妙な感覚だった。二人はしばらくのあいだ言葉を交わさなかった。言葉を発してしまった瞬間この空間を破壊してしまうようで、それがなんだか罪に思えたのだ。
「綺麗――ね」
紗夜をして、その一言が精一杯だった。
「うん。なんだか凄くるんってする。でもね、一緒にしーんとした感じがして、なんだか不思議」
日菜がこれほど大人しいのも珍しい。二人は極限の安息に居た。
「そろそろ上がりましょう」
どれくらいの時間が経ったか。不意に紗夜が立ち上がった。
「ええー。もう上がるの?」
「夜にまた入るでしょ?急がなくてもいいわ」
それよりも。浴槽から上がる。
「ご飯にしましょう。お腹がすいたわ」
もう一度シャワーを浴び脱衣所に戻る。日菜は揚々として浴衣を羽織った。少しサイズが大きめなようだ。裾が余っている。
「おおー。大きい」
日菜は目をキラキラと輝かせた。
ロビー脇の大広間で食事を終えると、二人は大浴場で一休みした。上がった後に卓球台を見付け、日菜が声をあげた。
「おねーちゃん!これこれ!」
「仕方ないわね」
紗夜は溜息の後に、道具を借りにロビーへ出向いた。
「やるからには負けないわよ」
勝負は白熱した。気付けば二人とも汗だくだ。
「折角温泉入ったのに」
日菜は笑った。この後もう一度お湯に浸かろう。ロビーに道具を返し、部屋に戻る。
二人の居ない間に、居間に布団が敷かれていた。思わず布団に飛び込もうとした日菜を制止し、そのまま脱衣所まで引き摺る。
再び足を踏み入れた浴場は、先程とはまた違った姿を見せた。浴槽際の行灯が朧に赤橙色の光を放っている。遠くに聳える山脈の輪郭が月明かりに照らされて仄かに浮かんだが、つい先刻まで見えていた紅葉はとうに見えなかった。浴槽の中で肩を寄せ合った二人は空を見上げた。
「月が綺麗ね」
紗夜が呟いた。絵に描いたように綺麗な形をした弦月が煌々と輝いている。
「綺麗だねぇ」
日菜は繰り返した。紗夜の肩に頭をもたれかける。紗夜は拒まなかった。
「何だか不思議ね」
何が?きょとんとした日菜を見て、それから紗夜は微笑んだ。
「何でもないわ」
「えーなに~?」
「忘れてくれて構わないわ。――伝わらなくても」
今はこれで十分だ。満足げな紗夜とは対照的に、日菜は少しばかり不満な顔をした。自分には分からない姉が居る、それがちょっぴり引っかかった。
でも
「あたしは幸せだよ、おねーちゃん」
今度は紗夜が不思議がる番だった。
湯から上がり再度浴衣を羽織ると、二人は部屋に戻った。日菜は真っ先に布団に飛び込んだ。
「日菜、行儀が悪いわ」
紗夜が一喝する。日菜は返事を返すと布団の上であぐらを組む。
「この後は予定はあるの?」
部屋に供えられた壁掛けの時計に、紗夜は目をやる。時刻は二十一時。外へ出かけて何かをするにしては遅い時間帯だ。とはいえ
「寝るにも早いし。どうしようかしら」
「じゃあじゃあ!」
壁際の荷物から、日菜はトランプを取り出す。
「これ、一緒にやろう?」
「いいけれど...いつの間にそんな物用意してたの」
家を出る前に荷物確認をしたときにはなかったのに。紗夜が驚く。日菜はにへっと笑った。
気付くと、時計の針は二十二時をゆうに超えていた。紗夜がトランプを置く。
「日菜、そろそろお終いにしましょう」
「えー。もうちょっとやろうよぉ」
「今日はもう終わりよ――何もそんな顔しなくても。トランプくらい、暇があればいくらでも付き合うわよ」
紗夜の言葉に、日菜の挙動は停止した。
「え...おねーちゃん、今の本当?」
「ええ、当たり前じゃない。どうしてそんな不思議そうな顔してるのよ」
「んーん。何でもない」
日菜は満面の笑みを浮かべた。
トランプを片付け、二人は就寝の準備を済ませた。
「おねーちゃん、おいで?」
悪戯に笑いながら日菜は、掛け布団を広げて紗夜を隣に誘った。
「日菜、ふざけないで頂戴」
紗夜は部屋の電気を消し、隣の布団で横になる。
「ちえー。つまんないの」
日菜は天井を仰いだ。少しばかりの沈黙が流れる。
「寝れないー」
突然、日菜が起き上がった。
「おねーちゃんの隣、るんってしちゃって寝れないよ!」
「そうねぇ。こうやって二人で枕を並べるなんて、いつ以来かしら」
高校に入ってからは、家族で泊まりに出かけても隣り合わせでは寝ていなかったはずだ。短くとも、かれこれもう二年は経っている計算になる。
「でも日菜、寝るときに寝ないと、体に悪いわ。ただでさえあなたは多忙なんだから」
「大丈夫だよ!あたし、お仕事はしゅばばばーって終わらせちゃうし、ちょっとくらいなら寝なくても動けるから」
「駄目よ。今は寝るの」
「はあ~い」
布団の中に戻る。
「おねーちゃん、また二人でどこか行こーね」
「私はいいけれど...あなた仕事があるじゃない」
「それはどうにかするから!ね!」
紗夜は小さく溜息を吐く。
「まあ、日帰りならどうにかなるでしょうけど」
「あ!いつかパスパレやRoseliaのみんなともお出かけしたいなー。なんだか、るんってしそうじゃない?」
「そうね。いつかできればいいけれど――」
「んー。でもそうすると、今度はおねーちゃんと二人じゃなくなるんだよねー。みんなと居るのも勿論楽しいんだけど、折角のお出かけはやっぱりおねーちゃんとがいいし...」
どうすればいいかなー。返答は帰ってこない。代わりに、小さな寝息が聞こえてきた。
「寝ちゃったみたい。昨日も夜遅くまで調べ物してたみたいだし、仕方ないね」
薄暗い部屋で微かに見える紗夜の寝顔を眺めながら、日菜は微笑んだ。
「おやすみなさい、おねーちゃん」
瞼の落ちる寸前まで、日菜はその横顔を眺め続けた。
翌朝、紗夜の身支度の音で日菜は目覚めた。眠い目を擦りながら体を起こす。
「起きたのね。おはよう、日菜」
「ん。おねーちゃんおはよー」
「お湯に浸かってきなさい。目が覚めるから」
回らない頭で、言われたままに露天風呂に向かう。ぼーっとお湯に浸かっていると、部屋から紗夜が顔を覗かせた。
「あなたの鞄から服は出しておいたから、上がったら着替えなさい」
日菜は生返事で返した。
大広間で朝食を済まし、部屋に帰ってから荷物の整理をする。着替えが荷物のほとんどだったため、部屋が片付くまでにさほど時間は要さなかった。バスの時間が迫ると二人は部屋を出た。紗夜がチェックアウトを済ませ、それからバスに乗り込む。定刻通りにバスが発車した。
「温泉、気持ちよかったねー」
遠ざかる旅館を窓から見詰めながら、日菜は呟いた。
「彩ちゃんたちと来てもおもしろいんだろーなー」
その光景を二人は想像する。
「まるで修学旅行みたいになりそうね」
「Roseliaはどう?合宿みたいになるかな?」
「どうかしら。ただの合宿、というわけにはいかなそうだけれど」
「うんうん。どっちも楽しくなりそうだねー」
「そうね。でも、あなたと来れただけでも楽しかったわよ。日菜」
「あたしもだよ!おねーちゃん!」
二人は微笑みあった。紗夜にとっても、日菜にとっても、この時間は限りなく幸せであった。二人の心が乖離していたあの時を埋めるかのように、何よりも大切な時間。
バスが山を下る。