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「日本酒、冷やで」
男は空になったとっくりをつまんで、おかみに振って見せた。
「そんなに飲んで大丈夫?」
夜道にぽつりとある屋台。割烹着姿のおかみが一人で切り盛りしている。人里からわずかに外れたところにあるので、おかみは妖怪だという噂もある。
「もっと、飲みたいんです」
男はさらにとっくりを振ってアピールする。
「わかったから、ちょっと待っててね」
おかみは渋々といった具合で男からとっくりを受け取った。
男は朦朧とする意識の中、おかみの顔を見ていた。女性にしても身長は低めで、高い位置にある棚のものを取るには台に載らなくてはいけない。けれど、そんな中でもテキパキと動いていて、仕事によどみがない。
「顔に何かついてる?」
「いいや、全然」
当然のことながら、人の顔をじろじろ見るのはよくない。けれど、おかみはきつい口調で注意したりしない。酔っ払いなんて面倒な人種だ。けれど、そもそも酔っ払いになってしまうのには理由がある。日々の悩みだったり、仕事の疲れだったり。それらを敏感に察知して、あくまで受け入れてくれる。
「泣いてるの?」
「ちょっとね」
辛いから酒を飲むんだ。悲しいから酒を飲むんだ。寂しいから酒を飲むんだ。言い訳だと責められることもあるけれど、本当にどうしようもないとき、酒は最後のオアシスになる。
「ここの料理はいつもおいしいよ」
「またそんな調子のいいこと言って」
男は酒のあてにと頼んだ料理に手をつける。ここのイチオシはヤツメウナギ。癖が強いので人を選ぶ食材だ。正直これを好きだという人間は少数派だろう。けれども例えばこの男のように、ピタリとはまってしまう人間はこの屋台の虜になる。
「だってこれのために来てるんだもの」
「ありがとう。はい、お酒できたわよ」
「アチ! これ熱燗だよ」
「ちょっと飲みすぎてるから、熱燗でゆっくり飲んだら?」
男はそっと自分のおちょこに酒を注いだ。酒のゆらめきが、提灯の明かりと合わさり、淡い紅色に見える。その赤が、男の心に訴えかける。実際の温度よりも、おかみの酒は温かく感じた。この熱燗の温度は、おかみの心の温度だ。
「それ飲んだら帰ったほうがいいよ」
「うん」
男はじっくりと酒を舌で転がしていた。おかみにこれ以上迷惑はかけられない。飲んだら帰ろうとうすぼんやり考えたけれども、動きたくない自分もまた確かにいた。
「ごめん、ごめんね」
「私に謝ったって、しょうがないのに」
何があったのかは聞いてこないけれども、おかみにはなんとなく伝わっている気がした。
「ふぅ、今日はもう他のお客さんも来そうにないし、私も飲んじゃおうかな」
おかみは男の隣に座った。
「あげるよ」
「そう? じゃあごちそうになろうかな」
男は自分のとっくりからおかみのおちょこに酒を注いだ。
「あぁ、おいしい」
おかみが自分の隣にいるというのが、なんだか不思議だった。こういうことは今までも何度かあったけれども、普段とは違う距離感が男を戸惑わせる。人間関係で傷ついていた男にとって、他人とのつながりが、何より特効薬だった。
「ごめん、ごめんな」
「さっきから何あやまってるんだか」
「うん、そうだよね。ごめんな」
男はなおも謝り続け、目には涙も浮かんでいる。
「寂しいよね」
「うん」
男はつい頷いた。
「寂しいとさ、涙がでるんだよ」
「うん」
男なら泣いてはいけないと言われる。子供の時からそうだ。だから男は辛い時でも声をあげられない。男がこの屋台に通っているのは、ここは泣いてもいい場所だから。おかみの前でだけは、男でも泣いていい。
「そっか、私も寂しくなる時あるよ」
「そう?」
「そうだよ。だからね、ちょっとだけだよ?」
朝、男が意識を取り戻したのは、家ではない場所だった。
「おはよう」
ハッとしてあたりを見ると、屋台のすぐ近くで落ち葉を枕にしていた。
「ねえ、おはよう」
「あ、おはようございます」
すっかりシラフに戻った男は、なんでおかみが目の前にいるのか理解できなかった。
「昨日のこと、覚えてる?」
少し乱れた服の襟を正しながら、おかみは男に聞いた。昨日のこと……。思い出すのは、飲んだくれておかみに迷惑をかけたことばかり。
「私、あなたに食べられちゃった」
瞬間、男の頭はせきを切ったように回転しだした。自分は一体なにをやらかしてしまったのだろうか。全身から汗が噴き出すのを感じながら、それでも何とか言葉を発した。
「責任取ります」
「責任って、何の?」
おかみは笑いながら男の肩を叩いた。そういえば、昼間におかみを見るのは初めてだった。提灯の明かりに照らされたおかみは、頬が赤く染まって見えたけれども、朝日を浴びたおかみの顔は、透き通るように美しい白だった。
「気にしないで、私もつい、情がわいちゃっただけだから」
腰を抜かしていた男に手を差し伸べて、おかみは男を立たせる。
「はい、だからね、この話はおしまい」
服についた埃を払って、男はなんとか二本足で立っていた。
「けど、もし私が役に立ったら、また夜に来てね」
男はおかみに背中を押されて、二日酔いの足で家路についた。二日酔いで体の調子は悪くとも、心はどこか満ちていて、ちゃんと目的地を目指していた。
「あ~あ、最初は人間なんてカモだと思ってたのに、私って甘いなぁ」
男を見送って見えなくなったころ、おかみはぼそりとつぶやいた。
「けど、料理やお酒を褒められるのも、最近じゃ板についちゃった」
おかみは今日も、夜の分の仕込みをする。