××の先祖返りだった藤丸立香の話   作:時緒

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書き手はアトランティスまでクリア済みですが、この話のイアソン評はオケアノス時点の印象で書いてます。
あしからずご了承ください。

2020/1/7 タイトル少しだけ変更しました。


Prologue バレるときにはあっさりバレるのが秘密です
藤丸立香は普通の子


 突然かつ今更だが、藤丸立香は普通だ。人類最後のマスターなどという肩書を除けば、欠伸が出るほど普通の女の子だ。

 普通の女の子で、普通の高校生で、普通に勉強はあまり好きでなくて、普通の範囲で読書と運動が好きで、普通に友達がいて、普通に可愛らしく、普通の範囲の体格をしている。

 教科書の本文よりも片隅に載っている雑学の方をよく覚えてしまうせいで、テストに出題される歴史上の出来事よりもその裏話、絡んだ人物の豆知識や雑学に精通していること。年頃の少女らしい遊びは一通り好きだがカラオケには行きたがらず、音楽の授業では「もっと大きな声で歌いましょう」と先生にコメントされること。日本人にしては随分明るいオレンジ色の髪に、琥珀や蜂蜜を思わせる黄金色の瞳を持つこと。学年で五本の指に入る程度には美少女だが、絶世の、とつけるには華やかさより愛嬌が勝る顔立ちであること。走るのは得意だがプールや海には絶対に入らないこと。どんなに偏屈な老人やヒステリックな子供であっても「アイツなら大丈夫だろ」と太鼓判を押される程度にはコミュ力お化けであること。

 人類最後のマスターという仰々しい肩書以外に挙げられる、普通とやや逸脱していると判ぜられる要素は大体この程度。だが、異常だとか異質だとか称するには些か足りない。彼女は普通で、普通の範囲で変わっていて、普通の範疇で個性的だった。

 探せば同じ要素を持つ人間は容易く見つけられようが、そのすべてを持ち合わせた人間を見つけ出すのは至難の業。藤丸立香はそういう、ありふれていながら稀有な、何処にでもいる貴重な人間だった。

 

 

 

 カルデアの厨房はエミヤの城、マルタの聖地でブーディカの領地、そしてタマモキャットの縄張りである。

 そんなことはカルデアに属する者であればスタッフもサーヴァントも知っていることで、だから彼らは基本的に厨房に入ってきたりはしない。料理好きなサーヴァントはさほど多くなく、その上で料理が得意なサーヴァントはもっと少ない。そして厨房を取り仕切るサーヴァント達は、多かれ少なかれ調理器具と食材に敬意を払わない者に容赦が無い。

 だから皆、小腹が空いたときに入口に立って何か強請ったり、明日の夕飯のメニューをリクエストしたりするのがせいぜいだ。餅は餅屋という言葉もある。勝手の分からないものに無暗に手を出すのは争いの元なのだ。

 

「……」

 

 しかし、その例外中の例外以外にも、例外は存在する。例外例外言いすぎてよくわからなくなったが、そこは許容してほしい。大した問題ではないので。

 

「……」

 

 右見て左見てもう一度右……ではなく前見て後ろ見てそして前進。昼間も夜も大体騒がしい食堂は、今の時間帯は流石に静まり返っている。シミュレーションルームや談話室、そして図書館であればまだ誰かがいても、そして英霊達が顕現していてもおかしくはないが、少なくとも此処にはいない。恐らく。

 少女、藤丸立香はそろりと厨房に足を踏み入れる。エミヤの城、マルタの聖地以下略に。此処まで来ても誰からも声をかけられないということは、今此処に霊体化している英霊はいないのだろう。よかった、と息をつきながら彼女がまず手を伸ばすのは、何の変哲もないガラス製のコップだ。誰のもの、と銘打たれているわけでもない、誰が使っても構わない共用のものである。それを水道に近づけ、蛇口をひねる。八分目ほどでまた閉じる。

 なんだ、喉が渇いただけか。仮にこれを見ていたものがいたとしたら、ただそう思うだけだろう。つまみ食いをするでもなく、水を飲むだけならば誰に咎められるわけもない。何故ああも慎重にしていたのかと疑問に思うのが関の山だ。

 しかし少女はその水をそのままでは飲まない。水で満たされたコップを一旦置くと、調味料が入っているハッチを開けた。ありきたりな砂糖や胡椒だけでなく、ハーブや各種スパイス、それも和洋折衷古今東西のものが所狭しと並んでいる。蜂蜜の大瓶も此処だ。大きさも色も多様な瓶の間を縫い、立香の手は迷うことなく塩の容器を取る。そして水だけが入ったコップに向け、中身を勢いよく振り下ろした。

 

「こんなもんかな……」

 

 常温の真水一杯に、塩を一振り、二振り、三、四。文字通り真水からただの塩水になっただけのそれをスプーンでかき回し、素早く洗い流す。塩の瓶はすぐにしまって戸棚を閉める。これで証拠隠滅はほぼ完了。端から見れば水を飲みに来ただけに見える。コップに入ったのが塩水だということも、塩を入れる瞬間さえ見られなければまず看破はされない。

 

 いつものことだけど、やっぱりいけないことしてる気分……。

 

 カルデアの備蓄は無尽蔵ではないが、非常食のレーションを含めて切羽詰まっているというほどでもない。レイシフト先で食料を調達することをオルレアンで学んで以来、現代のそれに比べて以来、肉も野菜も魚もそこそこ腹に入れられている。だから立香がほんの少し、他より塩を沢山取っても困る者はいない。いないのだが……。

 

「先輩?」

 

――ぎくっ!

 

「ま、ま、マシュ……?」

「はい、マシュ・キリエライトです」

 

 こんばんは、と律儀に挨拶をくれる可愛い後輩。こんばんは、と返したのは半分先輩の意地と、「びっくりさせてすみません」とすまなそうにする後輩への気遣いも兼ねている。

 

「こんな時間にどうしたの?」

「借りた本をキリが良いところまでと思って読んでいたらこんな時間で……その、寝ようとは思ったんですが目がすっかり冴えてしまって、何かリラックスできるものを頂こうかと」

 

 なるほど、マシュらしい理由だ。

 

「先輩は?」

「私も似たようなものかな。とにかく喉が渇いちゃって」

 

 塩をしまっておいてよかった。心底そう思いながらコップの中身を飲み干す。

 

「ねえマシュ、ホットミルク作るから付き合ってくれる? やっぱり水だけじゃ味気なくてさ……蜂蜜と、あとブランデーもちょっぴり入れて。だめかな?」

「はい、先輩。ぜひ」

 

 エミヤには内緒ね、なんて人差し指を立てて、チリチリと胸を焦がす罪悪感と後ろめたさを隠す。塩味がちょっぴり残ったコップはとうにシンクに浸かっていて、そこに入っていたのが塩水だなどとは誰にも知り得ない状態と化していた。

 

 

 

 カルデアの人員は多種多様だ。殆どが歴史や物語に名を遺す文字通りの英雄だが、中にはエミヤのように人知れぬ正義の味方もいる。そして歴史上重要な人物とはいえ、『英雄』という言葉から想像される豪傑ぶりとは無縁の存在もいる。

 オルレアンで縁を結んだフランス最後の王妃マリー・アントワネット、そして稀代の音楽家ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトなどは、その最たる例だ。本来は土着の地母神であり、ギリシャ神話のゴルゴーン姉妹が長姉、魔術的には神霊とカテゴライズされるステンノもその枠組みに入るだろう。全員、生前は全く縁のなかった戦う術を、サーヴァントになったことで身に着けたという共通点を持っている。

 

「La LaLa La--La♪ LaLa♪」

 

 さて、そんなマリー・アントワネットだが、十代半ばの麗しい乙女の姿で現界したこともあってかとても天真爛漫で朗らかだ。彼女には彼女なりの苦悩や葛藤があることは絆を深めるにつれてわかってきたが、普段はそんなことをは絶対に感じさせない。いつでも明るく、愛らしく、優しく微笑む、王妃よりもお姫様という肩書が似合いそうな少女。彼女はお洒落とダンスとお茶会、そして音楽が大好きだ。

 

「マリーちゃんそれよく歌ってるよね」

 

 ティーカップとソーサーを持つ手つきもよく洗練されて。ご機嫌なマリー王妃は向かいに腰かけたマスターににこりと微笑んだ。彼女が嫁いだばかりの頃に宮廷で流行った歌なのだという。

 

「マスターも覚えてみない? 一緒に歌えたら嬉しいわ」

「お誘いは嬉しいけど」

 

 歌には自信が無い。立香は苦笑いを浮かべた。

 

「音楽の成績もあんまりよくなかったんだよね。あと外国語は英語で手一杯です……」

 

 十段階で六、頑張って七がせいぜいだった英語の成績を思い出して途方に暮れる。カルデアの設備、そして聖杯のお陰で多国籍どころか多時代にわたる出自を持つサーヴァント達とは何ら問題なくコミュニケーションが取れているが、そうでなければどうなっていたか分からない。それでもスタッフたちは多くが英語に精通していて日本にルーツを持つ者は多くなかったので、必然的に立香は英語を猛勉強する羽目になった。そのかいもあって、今では日常会話どころか多少の医学用語を出されても問題なく会話できる。人理を修復して日常に戻った暁には、厳しいと評判だったオーラルコミュニケーションの講師とさしで会話をしてみたいくらいだ。

 

「まあっ、駄目よ。何事もチャレンジが大事なのに」

「んんーっ、ごもっとも! ごもっともなんだけど!」

 

 彼女の言いたいことは分かる。だが依然として外国語、それも馴染みのない英語以外の言葉には苦手意識があるのに加え、多くのサーヴァント達と立香の間には時代という隔たりがある。端的に言うと、マリーの話すフランス語は現在のフランス語とも違うのだ。仮に此処に最新式のフランス語文法や会話術の本があっても、恐らくその多くがマリー達には通用しない。日本でも江戸時代には公然かつ平然と使われていて、今は影も形もなくなってしまった言葉が山とあるのだ。三百年以上前の王族が話していたフランス語など、ぶっちゃけ未知の領域が過ぎる。今のカルデアにはまだ殆どいないが、数千年前にルーツを持つ古代ギリシャやインド、エジプト、メソポタミアと言った文明の英雄が操る言葉など、きっと宇宙言語にしか聞こえないに違いない。

 

「歌までそう堅苦しく考えなくてもよくてよ? 日本のヒバリ・ミソラはジャズを聴いただけでそれを歌って見せたそうじゃない?」

「彼女はそりゃ天才だもん! アイ・アム・凡才! 勘弁して!」

 

 両手を合わせ平身低頭する未熟なマスターが哀れだったのか、マリーは「もう」と少し膨れたもののそれ以上言及はしないでくれた。

 

「マスター、音楽は好きなのに歌は駄目なのね?」

「聞き専なんだよね。でも耳が腐ってたってアマデウスのピアノなら幾らでも聞けそう」

 

 かつて音楽の資料集で、次から次に音階が殴り書きされたモーツァルト手書きの楽譜を見た覚えがある。経年劣化を差し置いても汚い楽譜だったが、彼の中から溢れる音楽に彼の手と運動神経が追いつかなかった証左だ。流行りのポップスやロックを聴くのがせいぜいだった立香は、実際に触れた神に愛された者(アマデウス)の奏でる旋律を耳にして泣いた。滔々と泣いた。本人は自他ともに認めるゲス(自身が認めているので敢えてこの表現を使う)なのに、その人間性は音楽に欠片も現れていない。創作者と創作物は個別に考えるべきだという好例も好例だった。

 

「流石に"Leck mich im Arsch(俺のケツを舐めろ)"を食堂で演奏するのは断固拒否するけど」

「駄目よマスター、口にするのもはしたないわ」

 

 実際は本当に尻を舐めろと要求しているのではなく、英語でいうところの"Fuck YOU!"くらいの意味合いらしいのだが、それはそれである。

 

「勿体ないわ。マスター、声がとっても素敵だから歌えばもっと素敵なのに」

「あはは……ありがと」

 

 立香は苦笑いしてその場を収めた。これ以上のこの話題は、少しばかり探られる腹が痛い。

 

 

 

 跡形もなく黒焦げてなお燃え続ける二〇〇四年の冬木市、百年戦争の爪痕深い(寧ろ抉られていた)フランス、そして平穏だったはずなのに国が二分されつつあった古代ローマに続いて特異点だと持ってこられたのは、いつの時代とも知れない大海原だった。

 運命的に出逢った人物が歴史上男性とされていたフランシス・ドレイク船長だったのである程度の時代は割り出せたが、場所自体は謎のまま。彼女が古代ギリシャの神ポセイドンをしばき倒して聖杯を得ていたという情報をもとに『オケアノス』と呼ぶこととしたそこは、幾つかの浮島と広すぎる海ばかりの不思議な世界だった。

 

 あー……。

 

 見渡す限りの青い海。青い空に白い雲。波は静かで水は美しい。きっと潜れば何処までも沈める。潮風一つとっても心地よい。これで道中ドレイク船長が保護したエウリュアレ(ステンノと瓜二つの彼女の妹だ。しかし性格はステンノより少し尖っているものの彼女よりだいぶ掴みどころがある)をヤバイ意味で狙う黒髭の襲来を考えなければただのバカンスに近い。聖杯を探して特異点を修復するという目的を忘れたわけではないが、時化の気配も遠い海の真ん中は長閑で平穏極まりないものだ。

 

 およぎたい。

 

 食料の調達は終わったし、船の整備も完了済み、あとは出航を待つばかり。嵐の気配も敵方の気配も無いとなれば、どうしても緊張は緩む。おまけにこの特異点は立香にビシバシ刺さるロケーションだ。古代ローマでも少しばかり船に乗ったことはあったが、あの時はこんな風に堪能している時間と余裕は無かった。

 

 およぎたい。めっっっちゃおよぎたい。礼装脱ぎ捨てて飛び込みたい。

 

 青い海。誰のものでもない海。思う存分に泳ぎ回れたらどんなに気持ちが良いだろう。うっとりと粟立つ白波を眺めていると、「何やってんだい?」とハスキーの利いた声を投げかけられた。

 

「ドレイク船長」

「ぼーっとしてると落っこっちまうよ。気を付けな」

「うん、ありがとう」

 

 フランシス・ドレイク。世界史の授業では名前がサラリと出てくる程度だが、初の世界一周を生きて成し遂げた最初の偉人である。かのエリザベス女王からは「私の海賊」と寵愛を受けていたそうだが、荒くれ者ながら同じく荒くれ者の男共を掛け声一つでまとめ上げるカリスマ性と、「カルデア」という単語ですぐさま天文学を連想する教養深さは、確かにかの女王に目をかけられて然るべきである。まさか女性だとは思わなかったが、顔を横切る大きな傷でさえ陰らせることのできない溌溂とした美貌、陰湿さとは無縁の野心に煌めく瞳は海の中で輝く黄金のようだ。

 悪人ではある。本人も善人ぶろうとはしていない。だがとても気持ちの良い人だ。自分なりの美学とポリシーを持ち、それに準じている。マシュは彼女を善人ととらえ「何故海賊をしているのか」と不思議がっていたが、立香からすれば「悪人だからだろう」で事足りる。何よりたとえ善人であっても善人のまま生きられるかどうかは時代の流れと己の運にかかっている。ドレイクは見るからに幸運値が高そうだし、きっと本当に望んで「奪う側」になっただけのことだ。

 

「財宝でも光って見えたかい?」

「まさかあ。単に、此処から飛び込んだら気持ちよさそうだなって見てただけ」

「泳ぐ? やめときな。そこの辺りよぉく見てみな。穏やかに見えるがだいぶ底が深いし波が荒い。素人が飛び込んだらあっという間に呑まれちまうよ」

「そっかー」

 

 やっぱりなあ。口の中で呟く。

 

「海が珍しいのかい?」

「んー、確かにこんな綺麗なのは始めて見るけど、海自体はそこそこかな。日本は島国だし、私は東京‥…港のある街の生まれだしね」

「ニッポン? 知らない国だねえ」

 

 そりゃそうだ。 この時代を1560年代と仮定すると、日本では丁度桶狭間の戦いがあった頃だ。内輪もめでてんやわんやしていて、とても海外に出ていくどころではない。

マルコ・ポーロの『世界の記述』ではジパングという国名で紹介されているが、あれはほぼ創作に近く、実際のイメージとは全くそぐわない。此処でニッポンはジパングだよ、と説明すると黄金云々で話が長くなりそうなので、立香は敢えてそのあたりの説明を省いた。

 

「物凄い田舎だよ。インドよりちゅうご……明よりもっと東にある。一年で何回も地震があって、あと台風が夏から秋にかけて沢山くるんだ。だから雨も多いし、冬は西側と北側は雪の量がヤバイの」

「そりゃ災難な国だね。さぞ貧しいんだろうさ」

 

 実態は世界第三位の経済大国、識字率も随一の国なのだがこれも黙っておこう。少なくとも識字率については江戸時代の時点で九割を超えていたというのは日本が誇ってよい歴史の一つだと思う。

 

「なるほど、アンタもしかして貧乏生活が嫌でこんなとこまで来たのかい?」

「……んー。まあ、何か変わるかなって思ったのはそうかも」

 

 献血をきっかけに半ば拉致られるような形でカルデアに来た身だが、元々はただのアルバイトだった。泊りがけで少し遠方に行くことになると聞いたが、放任主義の両親からはあっさり許可が出たし、立香自身にも抵抗はなかった。此処ではない何処かという響きには寧ろ心惹かれたくらいだ。

 最初に遠方、とぼかされたせいで具体的に何処なのかは今も分かっていないのだが、少なくともカルデアのある山は日本のものではないだろう。何せ「キリマンジャロの天辺です」と言われても納得するほど雪が深いので。

 

「家族とか友達に不満があったわけじゃないんだけど、まあ、窮屈だったといえばそうかも。誰も自分を知らないところに行きたいなっていうのはずっとぼんやりあったから」

「ふーん。なるほどねえ」

 

 立香の返答にドレイクが何を思ったかはわからない。ただ彼女は少し感慨深げに頷いたようだった。立香はきっと今後も彼女の過去を知ることはないだろうが、稀代の大海賊ドレイクの、その心の柔らかい部分がほんの少し見えたような気がした。

 

「……実際どうだい? 今のアンタの周り、アンタのことなんて知りゃしない奴ばっかりだろ?」

「思った以上に楽しいよ。可愛い後輩も出来たし、海は綺麗だし、女神様にも会えたし、それに」

「それに?」

「太陽を落とした人の船に乗ってる! 最高!」

 

 音に聞くゴールデン・ハインド号。今の彼女はまだ世界一周に臨んでいないが、いずれこの船が三大海洋の全てを横断する。立香の生きる時代にはもはやレプリカしか存在しない幻の船だ。

 瞳を輝かせて飛び跳ねる子供を見て一瞬面食らったドレイクは、「そうこうなくっちゃ」とはじけるように笑った。呵々と気持ちの良い笑い方で、これ一つとっても本当に海の似合う人だと思った。

 

 オケアノスの戦局は二転三転した。もはや隠すつもりもないらしいロリコンの黒髭ことエドワード・ティーチの部下、アン・ボニーとメアリー・リードを退け黒髭を追い詰めたは良いものの、ティーチの船に乗り合わせていた古代ギリシャの英雄ヘクトールが黒髭を裏切った。彼は元々黒髭の持つ聖杯目当てで動いており、本当の雇い主は別にいたのだ。

 イアソンという名の英雄を、立香は幸か不幸か知っている。武勇に優れた者の多いギリシャ英雄の中にも何人か異端の者はいて、例えば琴の音色でケルベロスを眠らせたオルフェウス、医術を極めたアスクレピオスなどはその最たる例だ。イアソンも、どちらかといえばそちらの意味で有名な英雄だ。主に「めっぽう口が立つ」という意味で。

 

「ないわーマジないわー」

 

 綺麗な顔はしている。輝くような金髪が涼し気な爽やか系美青年だ。しかしゲスい。やることがゲスいし言動が俺様、そのくせ思い切りが良くない。ジャイ○ンの懐柔に成功したス○夫にしか見えない。スネ○の言動は彼が小学生でアニメだから許されることであり現実でこれはない。しかもいい年の男だ。何をどうしたらこんなに捻くれるのか分からない。

 

「■■■■■■■■■■――――――!!」

 

 イアソンはどうでもいいが、問題は彼に従っている者達だ。かのトロイアの英雄ヘクトールにコルキスの魔女メディア、そして何よりギリシャの二大英雄がひとりヘラクレス。バーサーカー故に理性が働いていないのは此方にとってプラスでもあるがマイナスも大きい。あの馬鹿力で殴られればさしもの黄金の鹿であっても中の人間ごと吹き飛んでしまうだろう。

 

「アステリオス!!」

 

 エウリュアレが叫ぶ。バーサーカーであり唯一ヘラクレスを僅かでも抑え込める可能性があった子供の名前を。

 ギリシャの反英雄、アステリオス。雷光という偉大な名前をいただきながらも、ミノタウロスという化物としてしか扱われなかった悲劇の人物。子供を殺して食っていた怪物が、自らの罪への懺悔を叫びながらヘラクレスもろとも海に沈んでいく。

 

「――――……っ」

 

 殺した、と。

 罪もない子供を殺した、と。

 胸を引き裂くような後悔と、本当の名前を呼ばれた喜びを抱いた子供が死のうとしている。目の前で。

 

 所長……!

 

  口を開けた死が待ち構える方へ堕ちていく白い髪。色合いは違うが、オルガマリー・アニムスフィアが『二度目に』死んだ瞬間が脳裏をよぎる。赤と青で全く違うのに、そこにある真っ黒な死ばかりが同じだ。彼女も泣いていた。泣きながら怯えていた。誰にも褒められていない、誰にも認められていない、まだ何もしていない。そう言って死んだ。伸ばした手は届かず、何もつかめなかった。

 

 また、こうなる?

 

 また、見捨てるのか。助けて、と泣いた子供を見捨てるのか。仕方ない、なんて自分に言い聞かせながら。

 

 冗談じゃない。

 

 もう二度と、あんな思いをしてたまるか!!

 

「先輩!?」

「ドレイク船長! マシュ!」

 

 突然甲板の手すりに乗り上がったマスターに、可愛い後輩は悲鳴を上げた。だが今は詳しい説明などしてやれない。

 

「ドレイク船長、出航の準備を! 今から三分以内に風と潮の流れが変わるから、アステリオスが戻ってきたら全速力でアルゴー号から逃げて!」

「はァ!?」

「マシュは此処で待機! 令呪をもっては命じないけど絶対私を追ってくるな! ドレイク船長を手伝って待ってて! フォウ君よろしく!」

「先輩何言って……先輩!!?」

 

 小賢しい打算も後のことも全て投げ捨てて飛び込む。死が渦巻く海は呆気なく立香を出迎え、白波でもって飲み込んでしまう。

 

「先輩!! 先ぱぁい!!」

「馬鹿! アンタまで飛び込んでどうすんだい!」

「離してください! 先輩が! 先輩が!」

「はっはははははは! 何だアイツ! あの小娘! 錯乱して飛び込みやがったぞ!!」

 

 マシュの悲鳴、フォウの鳴き声、それから管制室からであろうロマンとダ・ヴィンチの慌てた声が加速度的に遠ざかっていく。イアソンの耳障りな声が一番よく聞こえたのはちょっと腹立たしい。正しくは自分が遠ざかっているのだが、今はまあ置いておこう。

 

『見つけた!』

 

 何十メートルも深い底に沈みこみ、見上げる。巨大な船の影、魚影、岩、小魚の群れ、そしてまるで踊っているかのように揉み合っている人間の影ふたつ。立香は躊躇わず水を蹴った。水を吸ってまとわりつく礼装はおざなりに脱ぎ、かといって捨てるわけにはいかないのでとりあえず片手で丸め抱える。

 

『アステリオス!』

 

 殆ど力尽きかけていた瞼が開く。アステリオスの瞳が立香を捉え、そして見開かれた。

 

『口閉じて! 今それ取るから!』

 

 ヘラクレスとアステリオスをもろとも串刺しにしていた『異物』に触れる。少女の細腕では振り回すどころか持ち上げることも出来ないはずのそれは呆気なく外れ、ぽっかり空いた穴から血潮が噴き出す。

 

『失血死は勘弁!』

 

 骨に届いても構わない、とばかりに己の指に歯を立てる。鋭い犬歯と爪によってあっさり割けた皮膚からは慎ましい量の血が零れる。痛みなど感じない素振りでむごたらしい傷口へと手を突っ込むと、血が溶けて混ざり合ったところから筋繊維、そして皮膚組織が修復されている。

 ごぽん、とまたアステリオスの口から気泡が漏れた。

 

『アステリオス先に戻って! ヘラクレスは私が責任もって抑えるから!』

「……」

『大丈夫だから!!』

「……」

 

 アステリオスはまだ首を振る。本当は息が苦しくて堪らないだろうに、突然わけのわからないものばかり見せつけた立香に不審もあるだろうに、それでも立香を案じる優しさに胸がいっぱいになる。

 

『必ず戻るから! だから行って! ――エウリュアレが泣いてるから、私が戻るまでにちゃんと慰めてあげて!』

 

 幼い少女の姿を取った女神の名前は、彼には覿面に効いた。意を決して振り切るように浮上していくアステリオスの背中を見送る暇もなく、立香の見下ろす先ではヘラクレスが自身の腹を抉る異物を抜き取ろうともがいている。恐ろしいことにもう殆ど復活しかけていた。流石はギリシャ最大の英雄。生命力がヤバイ。

 

"沈め!"

 

 規則的に流れていた海流が突然そのうねる矛先を変える。渦巻くそれはさながら竜巻のようにヘラクレスを押し流す。ただでさえ自由の利かない水の中、突然潮の流れにまで歯向かわれればさしもの大英雄もすぐには対応できない。一気に十数メートル沈みこんだ巨体を確認した立香は、ふたつある船影のうち一つを睨んだ。

 

"――遊びましょう"

 

 ざわり。

 

"遊びましょう そこゆく船の 陸からまろびた 素敵なあなた"

 

 音とはつまり振動である。大気中では問題なく伝わる音は、水の中では大抵役目を果たさない

 

"どうか止まって お耳を立てて 私のおうたを お聞きになって"

 

 何故なら水は大気よりもずっと粘性が強いからだ。音叉を震わせてそれを水につけ波紋のでき方を見るという科学実験を行った経験は比較的誰にでもあるだろうが、最初から音叉を水につけて叩いてみても驚くほど音はしなければ波紋も起こらない。

 つまり、水の中で音を出すには大気中よりずっと大きな力が必要となる――わけだが、それ即ち「水の中には音がない」という意味ではない。クジラが超音波で仲間と会話をするように、水中にも音はある。そしてひとたび生まれた音は、地上よりもずっと早く八方に届く。

 ましてそれが、陸も海も解さない『特殊な声帯』の歌であれば。

 

"遊びましょう 遊びましょう そこゆく船の 素敵なあなた

私は渚 私は白波 私のおうたを お聞きになって

貴方のお耳が 飾りでないなら 私のおうたが 届くはず"

 

"私は渚 私は白波 私はうしお 私は微風 私は雨"

"遊びましょう 戯れましょう 時を忘れて 旅を忘れて"

"私は荒波 私は驟雨 私は雷 私は嵐 我が名は嵐"

"遊びましょう 戯れましょう"

"深い深ぁい 海の底で 命も時間も 失うままに!!"

 

 悍ましい魔力を纏った歌が海を荒らす。規則的だった潮流が激しさを増し、異変を察知した魚たちは塒へ駈け込んでいく。水面の方で何かが光った。目を貫くようなそれは稲妻。古今東西、神の怒り、そして神の恵みといわれてきたもの。

 静かだった海は底からも分かるほど荒れ始めた。聞こえはしないが、きっと船の上ではパニックが起こっているだろう。

 立香はもう一度下を見た。ヘラクレスが丁度自らの拘束から外れたところで、流石に驚いて目を瞠る。

 

『……戻らなきゃ』

 

 流石に追いつかれたら死ぬ。アステリオスにはあんなことを言ったが、自分だってマシュを泣かせたままではいられない。立香は急いでまた水を蹴った。殆ど音にならないヘラクレスの咆哮を背にして。

 

 

 

「ドクター! ドクター、どうしましょう! 先輩が! 先輩がぁ……!」

『落ち着くんだマシュ! 気持ちは分かるが自棄になるな!』

「だって! だってだってだって!」

 

 まるで人形のように落ちて行ったマスターの沈んだ方向へ、半狂乱になったマシュが泣き叫ぶ。薄紫色の髪を振り乱して狼狽する彼女の背中を、ドレイクの広い手のひらが叩いた。

 

「しっかりしな! 立香がなんて言ったのかもう忘れたのかい!?」

「ぁ……」

「アタシだって訳も分かってない! だが此処でごたごたしてたら全員死ぬってことだけは分かる! 帆を張る準備を手伝いな! もう一度訊くよ、マシュ! アイツはアンタに自棄っぱちになれなんて口にしたかい!?」

 

 ひゅう、と一際冷たい潮風が流れ込み、肺を通って脳を冷やす。

 

「アステリオスさんが戻るまで……ドレイク船長を手伝って待てと……」

「そう! わかってるじゃあないか。だったらしっかりしな! アイツはアステリオスを引っ張って戻ってくる気なんだよ! その無様な格好のまんまあの子を出迎える気かい!?」

 

 まるでその言葉を待っていたかのように、エウリュアレの悲鳴が鼓膜を震わせた。それはこれまでに何度か聞いた恐怖や悲痛に満ちたものではない。純粋な驚愕と、そして大きな喜びにみちた歓声だった。

 

「アステリオス……!」

 

 ずぶぬれに血まみれの恰好で、けれど確かに五体満足な身体を引きずったアステリオスがそこにいた。エウリュアレにぽかぽかと胸を叩かれながら、痛くもないだろうに困った顔をしている。

 

「アステリオスさん! よくご無事で……!」

「ぅ……」

 

 ぐったりと甲板に座り込んでいたアステリオスがマシュを見る。筋骨隆々とした体に反し、少年めいてつぶらな瞳がまっすぐにマシュを見つめた。 

 

「ましゅ、ますたぁ‥…」

「っ、」

「ますたぁ…、すぐ……もどるって……まっててって、いってた……」

 

 はく、と吐息が漏れる。すぐ戻る。待ってて。同じ言葉を先ほども聞いた。

 

「よく戻ったねアステリオス、流石にもう働かせやしないからそこで休んでな!」

「う……ううん、だいじょうぶ、てつだう」

「駄目よ! 貴方大怪我してるでしょう!?」

「なおった」

「治ったわけないでしょ!? そんな見え透いた嘘……あ、あら!?」

 

 ボロボロになったアステリオスの、濡れて貼りついた髪をのけたエウリュアレが絶句する。海水にもまれながらもこびり付いていた血の量は確かにすさまじいのに、確かにそこに空けられた筈の穴が何処にも無い。

 

「ますたぁ、が、なおしてくれた。だから、だいじょうぶ」

「マスターが……?」

「アステリオスさん、それはどういう」

 

 大きく張り出していた帆をたたみながらも疑問が抑えきれない。尋ねるマシュを嘲笑うようなタイミングで、それまでご機嫌だった空が急に臍を曲げた。まるで吸い寄せられてくるように灰黒の雲が寄り集まり、ゴロゴロと嫌な音がし始める。

 

「嘘だろ!? ほんのさっきまであの天気だったんだぞ!?」

 

 航海士が絶叫するのもむべなるかな。如何に海の天候が変わりやすいとはいえ、この変化の仕方は異常の一言に尽きる。おののきながらも彼らが動きを止めないのは、時化を前にしたときの対応が一分一秒を争うことを骨身にしみて知っているからだ。

 雷鳴がとどろき稲妻が迸ると、間もなく雨が降り出した。それなりに穏やかだったはずの波は瞬く間に勢いを増し、大型の船ふたつをいともたやすく浮かせはじめる。

 

「おい! 何だこの天気は! さっきまであんなに晴れてたのに!」

「言ってる場合ですか! 帆をたたまないと……!

「イアソン様、おちつ、きゃあ!」

「ヘラクレス! ヘラクレスは何してる!? 早く戻ってきて舵を取れ!!」

 

 パニックになったのは向こうも同じだった。あちらも伝説に名高きアルゴー号、嵐の備えなど慣れたものの筈だが、かつてイアソンの手足となっていた船員はその殆どが乗船していない以上人手の足りなさが浮き彫りになる。基本的に短絡的らしいイアソンの関心はあっという間に黄金の鹿からもエウリュアレからも外れ、反対にドレイク達の船は撤退の準備が完了した。

 

「立香はまだ戻らないのかい!? 流石にこれ以上は待てないよ!」

 

 歴戦の船乗りたちをも慄かせる勢いの嵐はますます勢いを強める。マストから伸びたロープを掴み、手すりにしがみつき、何とか風と雨になぎ倒されないよう脚を踏ん張る。

 海賊らしい黒いトリコーンが飛ばされないよう抑えながら叫ぶドレイクに、マシュが何事か返そうとしたその瞬間。

 

 ざぶ、ん。

 

 荒々しいの一言に尽きる波の音に比べれば、ささやかでさえある水音。それと同時にふわりと船上に浮かび上がり、甲板に堕ちてきた『それ』。

 

「あったたたた……お尻思いっきり打った……いったぁい……」

 

 涙目になって臀部、らしい丸みを帯びた部分をさすり、涙目になっている立香。朝焼けを切り取ったような橙の髪も黄金色の瞳も、愛嬌溢れる愛らしい顔立ちも変わってはいない。

 しかし。

 肩につく程度だった髪は今や腰元まで伸び、その間から時折覗いていた可愛らしい耳のあった場所には、緑色を帯びた半透明のヒレが覗いている。服は纏っておらず、背中や胸は深緑の布、或いは藻のようなものがまとわりついている。

 そして極めつけはその下半身。年相応に柔らかな肉のついた、それでもほっそりとしていた脚は失せ、代わりに腰下から足先程度の長さを持つ魚の尾が生えている。幾つもの青や緑に彩られた鱗と、光を透かすガラスめいた尾びれが美しい。しかし転がっている場所が船の甲板では、まるで下ろされる前の魚そのものだ。

 

「せ、先輩……」

 

 ですよね? 間抜けな問いとわかっているが、マシュはそう尋ねずにはいられない。立香は涙目になったままマシュを見つめると、あは、と眉を八の字にして笑ってみせた。

 

 

 

 人類最後のマスターは、どうやら人魚であったらしい。




思いついたので書いてみました。
頑張れれば続きます。
続いたところで更新速度はクソだと思いますが読んでいただけたら嬉しいです。
お付き合いありがとうございました。

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