〈シカ獲った。肉いる?〉
深夜に帰宅した裕子のスマートフォンに、いつのまにか
灘風ソラ。
最初の歯科技工所に入社した当初に教育係を務めてくれた先輩。
裕子がはじめて担当したインレー(歯の詰め物)が歯科医師から「患者の歯に合わないから再製しろ」とものすごい剣幕で突き返され、青ざめて帰社すると「ドクターからもらった模型には合うんやけどね。あのドクター、自分が下手くそなくせに技工士のせいにするんよね。大丈夫、わたしでもいまだにそういうのあるけん。わたしなんか、模型ぶっ壊したりとかあらゆるミスを経験してきた、ミスの総合総社なんやけん、気にせんといて」とフォローしてくれた先輩。
そのあと「これ自慢できることやないね、なに胸張っとんやろ、わたし」と舌を出してみせた先輩。
裕子から新人の肩書がとれたあとも、なにくれと相談に乗ってくれた先輩。
なまじ仕事ができるのでどんどん任されて、絶対に一日では終わらない作業量を背負わされる日々がつづいて、あるとき義歯を製作しながら無表情で涙を流していた先輩。
驚いて、どうしたんですか、と訊くと、「わからん。わからんけど、涙が止まらんのんよ」と技工の手を止めずに答えた先輩。
そのまま身体を壊して、会社をひとり去っていった先輩。12年前のことだった。
以来、音沙汰がなかったソラからの久々の連絡に、全身に鉛を詰められたようだった裕子は一転して目を覚まし、あわてて既読をつけた。それから、返信の文面を書いては納得のいく文章にならずに消すのを何度も繰り返し、苦労しいしい書き上げてからも、こんなテッペンをとっくに通り越した時間に送信していいのだろうかとさんざん悩んだ。ようやく返事ができたのは、ソラからのメッセージに気づいて一時間もしてからだった。
送信ボタンをタップしたあと、なにか変なことを書いてしまわなかったかと、裕子はあらためて返信内容を確認した。
〈お久しぶりです。シカを獲ったというのは、どういうことでしょうか。今はなにをしてらっしゃいますか?〉
なんとも他人行儀で、事務的な、血の通っていない文章だった。裕子はいまさらになって後悔した。三十路に両足を突っこんだ歳になったのだから、いいかげんTPOをわきまえながらも社交的で気の利いた言葉遣いができていなければならない。ビジネスシーンでの業務連絡はそつなく書けるようになった。だが、私信においては、いまの自分よりむしろ大学時代のほうがよほど語彙が豊富だったような気がする。日々の仕事がやすりとなって、言語能力を含む人間性や感性をいつのまにか削り取っていってしまったのかもしれない。先日の週末も気晴らしにむかし好きだったアニメをネット配信で視聴したが、当時感動したり大笑いしたはずのシーンでも、なにも感じなかった。砂を噛んでいるようだった。わたしはこのアニメが大好きだったはずだ、楽しまなければいけないんだ。そう思えば思うほど苦痛だった。裕子は1話も見終わらないうちに電源を落とした。流したかったものとは違う涙をこぼしながら寝た。起きればまた月曜日の朝だった。そういう毎日だった。
風呂にも入らず、自分の送ったメッセージをいまさら推敲していると、ふいに既読の二文字が表れた。鼓動が跳ね上がった。ソラがいま、自分の返信に目を通してくれた。どこか遠くの世界に行ってしまったようだったソラをとても近くに感じた。
泡のように湧き上がる色とりどりの感情を整理しかねていると、スマホが震えた。ソラのメッセージだった。
〈久しぶり〉
立て続けにメッセージが送られてきた。
〈いまね、北海道でハンターしてるの
それでシカが獲れたのね
めちゃくちゃおいしいから食べてほしくって〉
あの先輩がハンター? 裕子には理解が追いつかなかった。裕子の知るかぎり最高の歯科技工士だったソラからは、愛媛から遠く離れた北海道の原野や山林で狩猟をしている姿など、なかなか想像できないほどのギャップがある。
〈獲ったって、どうやってですか?〉
暖房が効きはじめたというのに、文字入力する手は震えた。裕子には疑問に思う余裕もない。
ソラからの返信は早かった。たった一文字だった。
〈銃〉
そのメッセージには画像も添付されていた。長い銃だった。ハリウッド映画で特殊部隊が突入するときに持っていそうな、実用一点張りの、無骨でかっこいいフォルム。
〈本物ですか?〉
〈もち
これで撃った〉
〈なんていう銃ですか?〉
〈サヴェージM212の12番
30万くらいした
手放すときにお店に戻すの条件に25万にまけてもらったけど
銃詳しかったっけ?〉
〈いやも、ぜんぜんわかんないです〉
〈だと思った〉
ソラの苦笑いが行間に透けて見えるようだった。裕子には銃も狩猟もまったくわからない。ただ話題はなんでもいいから、ソラとできるだけ長く話していたかった。それがスマホのコミュニケーションアプリ越しだとしても。
〈どうやって獲ったんですか?〉
〈こっそり忍び寄ってね
狙撃
この銃は、散弾銃でね
散弾銃っていうのは、パチンコ玉みたいな小さな弾をバァーッとばらまく銃
その銃で、サボットスラッグっていう一粒弾を撃って、仕留めた〉
狙撃。まるで『スターリングラード』のヴァシリ・ザイツェフみたいだ、と思った。まだ無理がきくくらい若かったころ、ソラと2人で、彼女の部屋で酒盛りしながら観た映画。「ソ連兵にしてはみんな歯がきれいだ」と笑いあった夜。総銀歯の兵士はやけにリアリティがあると感心しながら飲んだ缶チューハイ。胸がかきむしられる記憶。
〈散弾銃でわざわざ一発の弾をですか?〉
わからないなりに会話を継続させようと裕子は質問してみた。
〈いい質問〉〈散弾銃でライフル銃のまねごとしてるわけ
でもさ、ライフル銃って
散弾銃を使った実績を10年積まないと
許可下りないんだよね〉
〈10年!〉
〈で、じゃあ法的にライフル銃の定義ってなんだって話よ
そもそもライフル銃ってのは
銃身の内側にライフリングっていう溝を彫った小銃のこと
溝で弾に回転与えて、まっすぐ飛ぶようにしてるわけ〉
〈刑事ドラマとかで旋条痕って出てきますよね〉
〈それそれ
ライフリングで弾を旋転させる銃だから、ライフル銃
じゃあ散弾銃の銃身に半分だけライフリングを彫ったら
それはライフリングが不完全だからライフル銃とはいえないと〉
〈いいんですかそれで〉
〈法的にはOK
そういう銃ならわたしでも持てる
これをハーフライフルっていう
たぶんよその国じゃ通じない
和製英語
将来はライフル銃持ちたいから
これで練習〉
いつもなら、裕子は帰宅したらすぐに入浴し、帰り道のコンビニで買ってきた塩分だけは強い弁当を喉に流しこみ、力尽きたようにベッドに倒れこむのが日々のルーチンだった。それ以外になにかをする体力も気力も、時間もなかった。早く寝てしまわなければ、翌日の仕事のための体力回復が間に合わない。だがきょうはいつまでも寝たくなかった。ソラとのやりとりが楽しかった。楽しいという感情さえも久しかった。
〈そのぶん命中精度落ちるから
かえって危ないんだけど
日本の警察は意地でも民間人にライフル銃持たせたくないみたい
まあガラパゴスですわ
もうね、絶対ライフル持ってやる〉
〈先輩、すごく楽しそう〉
文面から感じたことを素直に文字にした。既読はすぐについたが、返信はなかなかこなかった。不快な思いをさせてしまったのかと裕子はにわかに不安になった。
〈楽しいよ〉
やや間を置いて返信があった。裕子は安堵に胸を撫でおろした。
〈ハンティング自体もそうだけど
めんどいことも多いけど
ぜんぶひっくるめて楽しい
充実してる
うん、たぶん、これが充実してるってやつなんだと思う〉
ソラは文字という外部言語に出力することで自身の内面を確認しているかのようだった。
〈見てみたいな〉
自然と裕子の指はそう打っていた。
〈肉?
待ってて
撮ってくる〉
〈すいません
そういう意味じゃなくて〉
最速で文字を並べる。
〈ソラさんがハンターしてるとこです〉
裕子はスマホを握ったままいつまでもぐずぐずとしていた。
〈今度動画撮ってあげようか?
頭にGoProでもつけて〉
裕子はほとんど無我夢中になっていた。
〈じかに見たいです
だめですか?〉
通知音が奏でられるのが待ち遠しかった。
〈わたしは北海道以外では狩猟許可とってないから
裕子に来てもらうことになるけど
それでもいい?〉
〈ぜひ〉
〈死ぬほど寒いぞな〉
〈覚悟の上です〉
〈よし
わたしも裕子にみてもらえたら嬉しい
猟期は来月いっぱいなのね
シーズン中は毎日出猟してる
ことしはとくにシカが多いから
おいでよ〉
裕子はすっかり乗り気になっていた。北海道。まだ一度も行ったことがない最果ての地。そういえば就職してから旅行したことがないことを思い出す。歯科技工士の資格をとるための専門学校を卒業後、最初の技工所に就職してからいままでの15年間、職場とアパートだけが世界のすべてになっていた。週6出勤で盆も正月も有給休暇もないのではどこかへ出かけるゆとりもない。それがあと何年続くのだろう。いまの技工所が倒産するまでか、それともソラのようにみずから去るという選択をするまでか、そうして転機が来るまで、残り時間がいくらかもわからない時限爆弾が爆発するのを待つのか。目の前の仕事をこなすのに死に物狂いだったせいでいままであまり考えたことのなかった、将来への漠然とした不安が、急に具体的な恐怖となって背筋を駆けのぼってきた。
歯科技工士は基本的に歯科医からの依頼で技工物を製作する。いまや歯科医院はコンビニエンスストアより多い。価格競争のしわ寄せは歯科治療の末端である技工士にくる。国の低医療費政策も歯科医院からの値下げ要請と技工所間のダンピング合戦に拍車をかけている。だから歯科医院からこういわれることになる――「この値段でやって。できないなら、ほかの技工所に出すよ」
つまり歯科技工士は下請けにすぎないので、発注元たる歯科医は絶対的強者である。裕子も、午前は取引先の歯科医院を回って営業して、模型と仕事を受け取るついでに歯科医のマイカーを洗車させられる。毎日だ。時間がないので昼休みは20分かそこらですませて、午後からは保険適用のためにひとつ500円かそこらで買い叩かれるインレーをはじめ、
そういう灰色の生活が、変えられるかもしれない、という予感があった。
〈念のためもう一度聞くけど
本当に来る?
無理して合わせなくてもいいよ〉
〈行きます〉裕子の指が勝手に動いていた。〈会いたいです〉
〈やった!〉
そのメッセージからはソラの歓声さえ聞こえてきそうだった。
〈旅費出したげようか?〉
〈自分で出しますよ!〉
〈えらいなあ
飛行機でしょ?
新千歳空港まで迎えに行くから
日程教えてね〉
雪国は南国愛媛の常識が通じないことも多い。しかも猟は当然のことながら山で行なう。ソラは厳冬期の北海道旅行に必要なものを列挙し、山歩きのための装具は準備しようがないだろうからこちらで用意しておく、と話をどんどん進めた。
〈ごめんね〉
唐突な四文字に、裕子は戸惑った。
〈こんな時間まで付き合わせちゃって〉
〈いえいえこちらこそ〉
〈ほんと久々だから、舞い上がっちゃった〉
わたしも話せてうれしかった、と打とうとしたところで、またソラから受信があった。
〈また明日、いや今日かな?
改めて話そう
今日はもう寝たほうがいいよ
おやすみ〉
このように切り出されたときは、たいてい相手のほうが会話を打ち切りたくなっているときだ。さすがに話しこみすぎた。裕子は反省した。
〈おやすみなさい〉
そう書いて送信した。既読がついたのを見て安堵し、入浴の用意をしようと立ち上がりかけると、足がしびれていた。スマホが受信を報せた。
〈おやすみ〉
既読をつける。それだけでは足りない気がして、〈おやすみなさい〉と打つ。さきほどと一言一句違わない文面だと、めんどくさがっているという印象を相手に与えかねないから、末尾に「~」を追加した。つまりこうである。〈おやすみなさい~〉
するとまた受信した。
〈おやすみ~〉
裕子は知恵を絞って返した。〈おやすみなっさ~い〉
それにさらなる返事が届いた。〈おっやすみ~ん〉
裕子はため息をついた。
〈ソラさん
寝る気ないでしょ〉
〈いやー
ごめんごめん
裕子がおやすみ言ってくれてるのに
返事しないわけにもいかなくて〉
ソラの言葉は続いた。
〈正直もっといっぱい話したいからさ
おやすみって言ってくれたら
そりゃあ返信したくもなる〉
裕子は一計を案じた。
〈じゃあ
次でお互い最後にしましょう
ソラさんがおやすみって言って
それにわたしもおやすみって言います
それで今日は最後ってことで〉
〈わかった〉
ソラはだいぶもったいつけて、〈おやすみ裕子〉と寄越した。
それに裕子が返す――〈おやすみなさいソラさん〉
しかし、三十分ほど待っていると、予想どおり通知音が流れた。ソラからだった。〈おやすみ〉
裕子は憤然として画面を操作した。
〈やっぱり寝てないじゃないですか〉
〈ってことは裕子も寝てないんやん!〉
そうしてようやく二人は文字の会話を切り上げることができた。
◇
後日、ソラと連絡を取り合いながら日程を調整し、日曜に日帰りの強行軍を組むことになって、自分で退路を断つために払い戻し不可の格安航空券を往復で手配した。週に1日だけの休日なのに大丈夫かとソラに心配されたが、日曜日以外は動けないので仕方がない。北海道行きが決まってから気のせいか身も心も軽かった。週末に向けてがんばろうと思えた。
ところが、深夜4時過ぎ、月曜に納品する技工物を片付けてタクシーで帰宅した裕子のスマホに電話がかかってきた。残業確定の技工士らをしり目にきょうも定時で上がった営業所長からだった。
「あした、ああいやきょうの朝か、
と、恩着せがましく言ってきた。栴檀歯科はこの技工所のいちばんの得意先だ。裕子にいつもメルセデスを洗車させている。
「きょうは休みなんですけど……」
「バカかおまえは。休みの日ィやなかったら掃除なんかできんかろが。おまえ、平日に掃除に行く余裕あるんか?」営業所長は聞こえよがしにため息をついた。「こういうのは休みの日ィやけんやるんやろが。仕事じゃないけん感謝の気持ちが伝わるんやろが。ほじゃろがや? 技工士やけんてデンチャー作っとったらそれでええ
いつもどおりの
「ええか、技工士なんて掃いて捨てるほどおるんぞ。そのうちCAD/CAM(3Dプリンタのように義歯を製作する機械)で、ますます人間の技工士の仕事は減っていくんぞ。ほんならどこで機械やほかのやつらと差をつけるんぞ? 休日を使って個人的にお得意先のお手伝いをしたりして、ドクターからの覚えをよくしてもらうしかなかろがや。仕事云うのは結局、お得意様からの信頼がだいじなんぞ。これはチャンスなんやぞ。おまえはせっかくのチャンスをふいにしようとしとるんぞ。おれはおまえのためを思って云うてやっとんぞ」
どうせCAD/CAM冠(CAD/CAMで製作したクラウン)は、前歯や大臼歯、インレーやブリッジは保険適用されないなど法的な制約が多いので、技工士の仕事はなくならない。むしろ高価な機械を買うより技工士に安く作らせたほうが得だと考える歯科医がほとんどだろう。だが有無をいわさない断定口調で次々まくしたてる営業所長に抗議できない。精神的に屈服してしまっている。電話から逃れたいがために承諾したくなってくる。いつもそれで損な役回りを押しつけられてきた。
営業所長にいわれるまま、「わかりました」と応じようとして、脳裏にソラの顔が浮かんだ。ここで一歩を踏み出さないと、なにも変わらない、と思った。裕子は拳を握りしめた。
「いやです」
「いやですて、おまえ」営業所長が嘲笑った。「なにガキみたいなこと云よんぞ」
「わたしは歯科技工士です。家政婦じゃありません」
「おまえ!」
「そんなにありがたくて名誉な役割なら、所長がご自分でおやりになったらいいじゃないですか。どうぞ、ドクターの喜ぶお顔が見られる特権を、お譲りいたします。わたしは、行きません!」
裕子からの反撃など予想もしていなかったらしい営業所長は、まだなにかを言おうとした。裕子は電話を切った。またかかってきたので着信拒否にする。
裕子の足はいまさら震えだした。はっきり拒否の意思表示をしたのははじめてだった。月曜にどんな報復が待っているか知れない。いままでの自分からは考えられないことだ。大それたことをしてしまった、という後悔の念もあったが、清々しい爽快感がはるかにまさっていて、少しだけだが新しい自分に生まれ変わったという自信が芽吹きはじめていた。さっさと寝よう。仮眠をとれば朝いちばんで空の旅だ。
◇
機窓の外では、早朝の凍空を瑠璃色の表情で恨めしそうに仰ぎ見ていた海が、波のように迫ってきた苫小牧の地景に追いやられていく。清澄な空気越しに見下ろす街並みは、粉砂糖が丁寧にふりかけられたかのようだった。
その向こうに、緑や青や赤や白の誘導灯に彩られた新千歳空港の滑走路が全貌を現してもなお、裕子は北海道にきた実感がいまだに得られなかった。あまりに永い歳月を職場と自宅の往復に費やしてきたからかもしれない。同時に、世界はこんなに広くて、その気になりさえすれば簡単に飛びだせるのだという感慨も湧きあがっていた。
到着ロビーには大勢の、さまざまな人びとが行き来していて、それぞれがそれぞれの目的をもって裕子の視界を右へ左へと横切っていった。
到着を知らせようとスマホを取り出す。ふと顔をあげる。雑多なベクトルの入り乱れる情景が、唐突に裕子の胸を刺した。自分でも理由がわからずに、背伸びして視線を絞る。とたんに、行き交う人々が色のない背景になる。一点だけが鮮やかに浮かび上がる。フードがついているグレーのロングダウンに、黒いマフラー、中に着込んだスミレ色のツイードのジャケット。厚着だが洗練された着こなしに慣れを感じさせる。彼女は昔から長いブーツが好きだった。
相手も名を呼ばれたようにこちらを見た。顔が輝く。裕子のほほも緩む。自然と身体が動く。人の流れを突っ切る。お互いがお互いに引き寄せられる。裕子は目頭が熱くなった。顔をくしゃくしゃにして人目もはばからずソラに抱きつく。ソラも「よう来たよう来た」と背中に手を回した。しばらくそうして彼女たちは
「痩せたナァ」
「ソラさんはきれいになりました」
「もう38でぇ」
「今のほうがすてきです」
「うそつきぃや。結婚もまだしとらん売れ残りのアラフォーよ」
「しかも来月、また誕生日でしょう」
「よう覚えとるね。裕子は8月やったっけ」
どうでもいい会話を交わした。業務連絡でもドクター相手の営業でもない、生産性のない雑談の仕方を、かえって忘れてしまっている気がして、裕子はせいぜい会話が途切れないように気をつけた。
そこで、裕子の胸中に一抹の暗雲がよぎった。ソラに再会したい一心で北の大地まで来たが、それが叶ったいま、いくぶん落ち着いたため、視野狭窄に陥っていたのが回復して、自分の都合だけを強要していたことにようやく気づいたのである。干支が一周したのにソラに甘えてばかりで、自分がなにも成長していないと思い知らされたようで、耳がにわかに熱くなった。
「ごめんなさい」と、裕子が口にするのと同時に、
「ごめんねぇ」ソラの吐息のような言葉が
ふたりは顔を見合わせた。ソラが吹き出した。
「なに謝りよんの」
「その」裕子はしどろもどろになった。ソラの顔を直視できない。「むりやり押しかけちゃって、ご迷惑じゃありませんでした?」
ソラが爆笑した。「こんな他人行儀になってしもて、まあ!」
衆人環視のなかであまりにソラが笑いものにするから、裕子も悔しまぎれに、
「ソラさんもごめんていいました」
と反撃を試みた。
「いやあ」急にソラは失速した。「むりやりこんなとこまで呼びつけてしもて、迷惑じゃなかったかなって、いまさら気になりだして」
裕子はわざと白い目でソラを見た。
「ずいぶん他人行儀なんですね」
ソラは厚い手袋に覆われた両手を合わせて拝むようにして、片目をつぶった。
「手袋もってきたかえ?」
「もう嵌めたほうがいいですかね」
「関東とかから来て、手袋ないけんてポケットに手ぇつっこんで歩いて、すっころんで病院送りって人が毎年おるんよね。タイツもOK?」
「4
「カイロよぶんに持ってきたけんね、寒かったら
ひらひらと移り気に蛇行する雪が音もなく視界を白く染める光景にも、裕子は、ボブスレーの五輪に出場するべくカナダに降り立ったジャマイカ人たちみたいにためらったりはしなかったが、風除室の自動ドアが左右へ
「軽トラやけど、暖房つけっぱやけん、それまでがまんして」
楽しそうなソラに手を
雪の積もったフロントガラスをワイパーで拭う。「見よって」前方を指さすソラに裕子は、なにかわからないまま助手席からガラス越しに曇天を見上げた。
すると、フロントガラスの外側にいくつもの純白の六角形が生じ、それは見る間に成長して、各頂点から枝を伸ばし、隣接する結晶と結びついて、車内からの視界をすっかり塞いでしまった。
「これがナ、北海道」
自然が生み出すアートに裕子は目を奪われるばかりであった。
「すごいですね、北海道」
見渡す四周のどこにも山どころか
「これがナ、北海道」
涼しい顔のソラに、裕子は青くなってアシストグリップを握りしめた。
「まず銃を取りに行くけんな」
「荷台とかにもそれっぽいのなかったんで、どこにあるんかなとは思ってたんですよ」
「猟銃持ったまんま保管場所と猟場以外のとこに寄り道したら、それだけで免許とりあげやけんね。猟に行く途中にお弁当買いにコンビニ
「厳しいですね」
「指1本で人殺せるけんねぇ」
銃砲店に入るソラのあとを裕子も追った。てっきりものものしくて暗くて下手に私語をしただけで店員ににらまれるような閉鎖的な雰囲気の空間だと身構えたが、いざ入ると、ガラスのショーケースに何十本ものライフルが整然と収められ、シカの剥製が飾られている以外は、同好の士とおぼしき客たちがなごやかに歓談する、社交場としての役割もになうアットホームな店だった。一見の裕子にもわかる、地元の客たちによって大切に育てられてきた商店特有の温かさが、店内に満ちていた。
全長100㎝を超える猟銃をカバーにしまう。軽そうに扱っているが、スコープを乗せた状態で重量は4㎏を超える。スコープだけでも15万円ほどするらしい。
軽トラが山道にさしかかる。きょうは付近の競馬用の牧草を食害するシカを駆除するとソラが説明した。
神が槌と
裕子はソラのあとをついて、リューイ、リューイと雪を踏みしめながら山に入った。登山道ではなく道なき道を登るので慣れない裕子は難渋した。そのたびにソラは嫌な顔ひとつせずに立ち止まってくれた。
下生えとして笹の生い茂るブナ林を30分も分け入ったところでソラが地面を示す。
「この足跡はエゾシカやね。蹄がじゃんけんのチョキみたいやろ? 大きさからしてイヤリング(一歳から二歳)かな。やけどあんま新しないな。蹴爪の跡がほとんどなかろ? 土が
ソラはわずかな手がかりから時間まで遡る。
「足跡の歩幅、見とうみ。間隔が狭かろ? つまりこの獣道を、歩いて通ったいうことよ、走ったんじゃなしに。獣道には、餌を探しに行く用、縄張りの巡回用、逃走用いう感じで、それ専用のもんが別々にあるけん」
「生活道路とハイウェイみたいな」
「そうそ」
歯科技工士のころとおなじ調子でソラは手取り足取り教えた。
「こっちの足跡には糞があるな」
ソラが指し示す。黒豆のような小さな粒がころころと集まっている。
「糞はナ、貴重な情報源。そこにも落ちとろ? 鮮度はどれも
スパイクつきの長靴を履き、髪と猟装が泥で汚れるのもかまわず山林の地面を検分するその活き活きとした姿からは、かつて栓を閉め忘れた水道のように涙を流しながら技工していた面影はみじんもない。
エゾシカは昼夜を問わず数時間ごとに休息と採餌を繰り返す。すぐに追う必要があった。腰まであるくさむらをかきわけ、わずかな気配にも神経を研ぎ澄ませる。
「匂うな」
ソラがささやく。
「この時期のオスジカは精液を漏らしながら歩き回るんよ。その匂いがするいうことは、相手が風上におるわ」
裕子には草木の青臭い匂いしか感じられなかった。慣れていないからだろう。
歩いていたソラが急に止まって、手で裕子を制した。木々のあいだにシカを発見したのだ。ソラが猟銃に実包を装填した。
だが裕子は慣れない山道で足の踏みどころが定まらず、バランスを崩しそうになって、勢いあまってたたらを踏んでしまった。しかも小枝まで踏み折った。シカは全身に火薬が詰められているかのように躍動して、たちまち景色のなかに溶けこんでいった。
「ごめんなさいっ……」
小声で裕子は謝った。申し訳なさで消え入りそうになった。
「かまんかまん。自慢じゃないけどわたしも最初のころはようやった。ノープロブレム」
ソラは苦笑いしながら舌を出した。
「ほやけど、動物っていうんは、やばいって思ったらすぐああやって逃げるんがホントなんよな」
脱包しながらソラがしみじみといった。
「なんで人間だけ、逃げたらいかんっていうようになったんやろな……」
またしばらく探索していると、
「臭っ……」
と、シカの群れに近づいたことをソラが感じ取った。下生えを分けて進むと、おもむろにソラが裕子に振り向いて、無表情で前方を指さす。裕子はソラの隣に移って雑木のはざまから目をこらす。
前方は
ソラが装填した鉄砲を構えた。世界から音が消えていた。無音がうるさかった。耳の後ろを通る血管を血が流れる音などはじめて聞いた。
次の瞬間、落雷のような発砲音が陰森と空を引き裂いた。裕子は両耳をふさいでいたが、頭蓋と脳を殴打されたかのようだった。
固く閉じていたまぶたをほどくように開くと、1頭のシカが横に倒れ、泳ぐように四肢を踊らせていた。
「わあ……」
裕子が讃嘆の息を吐くと、ソラは安堵の息を漏らした。シカはもう動いていない。
シカは首と胴体の付け根付近を撃たれてほぼ即死だった。メスだった。「めっちゃおいしいで」ソラが白い息を吐いてシカの首をナイフで切り裂く。まだ動いている心臓に押された血液が音をたててこぼれる。白い雪に血潮の真紅が映える。
ソラがシカの解体にかかった。狩猟用のハンガーと滑車を使ってシカを逆さづりにする。液体のようにぐにゃりとした80キログラムの死体をうまく制御しながら、ガットナイフで腹の皮を縦に裂き、機械を分解するように手早く内臓を引き抜く。胃や腸からまるで煮えているかのような湯気がたつ。この高温が肉質を劣化させるから捕殺後はいかに早く内臓を抜くかが勝負なのだという。あっという間にシカの腹腔はがらんどうになった。次いで肩関節から前脚を、股関節から後ろ足を外し、胴体も部位ごとに骨付きのまま解体した。素人の裕子が見ても、じつに手際のよい解体だとわかった。
厚手のゴミ袋に肉と残渣(食べない部分。ゴミ)を分別して詰め、持てるだけ持って、軽トラまで何往復かして丸1頭をすっかり持ち帰る。裕子も手伝ったが一往復で手も足も動かなくなった。ソラは笑って軽トラで休むよう勧めた。ピストン輸送の最後で、ソラが褐色の草むらを指さした。いつのまにか遠くでキツネがこちらを見つめていて裕子は息を呑んだ。さらにソラに言われて空を仰ぎ見る。磨きこまれた蒼穹では猛禽が巨翼をひろげて悠然と滑翔していた。集まってきたカラスを圧倒している。
荷台に獲物を乗せた軽トラで、クラブハウスのある麓へ行く。干し場もある。ソラが肉を洗濯もののように干していく。体温の残る肉を冷やすためだ。ふつうは川に浸すが、昼でも零下の北海道ならそこらへんにぶらさげておくだけで冷却できるという。
「これがハンティング。お腹すいたろ。ごはんにしよ」
魚と違って動物の肉はすぐには食べられないという。そのため1週間ほど前に仕留めて熟成させておいたというシカの焼肉をふるまわれた。シカ肉は牛や豚よりヘルシーで鉄分が豊富なため疲労回復にうってつけだ。またシカの脂は融点が高いため冷えるとすぐにワックスのように固まるが、焼肉なら自分で焼いて熱いうちに食べられる。ほんのりと甘いのにさっぱりとしていてまったく胃にもたれないシカの脂肪を堪能できるのだ。ソラに極上の部位だというイチボやシンタマを勧められた。赤身のなかにもきめ細かなサシが入り、噛むと繊維がほぐれるようにとろけていく。かすかに鼻腔へ抜ける花のような香りはいままで食べた肉ではなかった感覚だった。
「ソラさんは、いまどんなお仕事されてるんですか?」
味わいながらの雑談で、裕子はふと訊いてみた。
「いちおう、これが仕事」
ソラは銃を構えるふりをしてみせた。
「ハンターがお仕事ですか?」趣味だとばかり思っていた裕子は驚いた。「それって、ビジネスになるもんなんですか?」
「結論からいえばね」
ソラが腸間膜を鉄板に乗せる。焼かれた膜が身を縮こまらせる。
「裕子は、猟師にどんなイメージ持っとる?」
「毛皮を着こんて鉄砲をかついだおじさんが、山小屋に住んで猟をして、お肉食べて暮らしてる……とかですかね」
「わたしも最初はそう思いよった。いまのハンターはね、エンジニアみたいなもんなんよ」
「エンジニア」
「200億円」
ソラが指を2本立てた。
「この数字、なんかわかる?」
「いえ」
「害獣による全国の農作物の、1年の被害額。毎年、日本全国で害獣が200億円以上の作物を食い荒らしよる云うことやね」
あまりに金額が大きすぎて、裕子にはにわかに想像できなかった。
「害獣ってのは、ようするにイノシシとかシカとかサルとかよね。こういう連中は、台風とか地震とかの一過性の天災と
「用心棒みたいなもんですか」
「そう。ただ、それで食べていけるんかって云うたらね、ノー」
年がら年じゅう、害獣が定期的に農地を襲うわけではない。だから用心棒では安定した収入は望めない。
「それにね、じつは農家とハンターは利害が相反しとんよ」
「農家はハンターに守ってほしくて、ハンターは害獣駆除のサービスを提供するわけでしょう? 需要と供給の一致じゃないんですか?」
「農家は、害獣におらんなってほしいって思いよる。ハンターは、けものがおらんなったら、仕事がないなる」
いわれて裕子ははっとした。ハンターにとって害獣は獲物だ。ハンターは仕事をすればするほど成果物を減らしてしまうのである。
「ほんなら、半農半猟がいけるんやないか思てね、半分農家、半分ハンターで」
これまでは害獣被害が出たとき、農家から農林水産省に被害が報告され、農水省が環境省に駆除隊の出動を要請、環境省から依頼を受けた猟友会が駆除する、という行政間をまたいだプロセスを経て対応してきた。
だが、「被害を受けた本人」なら、許可さえとれば実力行使で駆除してもよいとなっている。
「なるほど、じゃあハンターが農家をやるか、農家がハンターになるかすれば、駆除の許可さえとればすぐに対処できるわけですね」
ソラが「そのとおり」と笑顔を見せた。
「しかもハンター本人が百姓やっとらんといかんってわけでもない。会社で農地を保有して、そこに害獣被害が出たら」
「社員のハンターからすれば、自分とこに被害が出たも同然ってことで、駆除できる……」
「そゆこと」
ソラが興した会社では、農地で栽培した作物と、害獣駆除で手に入ったジビエで、加工食品を製造している。害獣が出なければ農作物で収益を得られ、害獣が出れば肉が獲得できる。どっちに転んでも損はない。農家とハンターがおなじ会社に帰属しているからこそのビジネススタイルだ。また、猟期は一般ハンターを募り、インストラクターをつけて、楽しく猟をしてもらうことで、ハンティングをレジャー産業にした。一般ハンターはふつう、地元の猟友会や狩猟グループに入会して猟をする。だが人間関係や仕事の都合でグループを辞めざるをえなくなったハンターや、猟友会に入るほど出猟するわけでもないライトユーザーからすれば、いっそのこと「お客さま」として扱われるレジャーハントは一定の需要がある。
「そういう会社をやりおって、この7年、突っ走ってきました」
ソラははにかみながら明かした。
「もう四十路が見えとるわけよ。怖いで、40は」
「怖いですか」
「怖い怖い。ハタチのときの、成人式、思い出してみ。それから10年経ったら30やろ。その10年間にやってきたこと、もっかい繰り返したら、もう40やけんね」
焼けた肉がじゅうじゅうと鳴く。
「どうっすか、仕事は」
ソラが尋ねた。
「変わらんです。あれから3回、転職したんですけど、
「どこも
「むかし、
ドクター、歯科衛生士、歯科技工士というヒエラルキーは何十年も昔から固定されている。最下層たる技工士は沈殿を啜るしかない。そういう職場で働いていると心が
「先月、後輩が作業中にいきなりなにか叫びながら飛び出していって、そのまま顔出すことなく辞めたりとか」
「わたしんときよりひどいな」
「泣いてましたもんね」
「覚えとんや」
「衝撃的やったですからね」
ソラに関することは忘れない。
「技工所を変わるんやなくて、技工士自体を辞めるしかないんかなとも思うんですけど、専門学校まで出してもらったんで引っ込みがつかんというか、まあコンコルドの二の舞なのかもしれんですけど」
明確な言葉にすることで、自分がじつは人生の岐路に立たされているのではないかとの不安が、ふたたび見えない蟻の群れとなって背中を這い上がってきた。ただでさえもう若くはない。日一日とやり直しのきく年齢は消費されている。
長い沈黙があった。ソラが勇気を振り絞るようにして「わたしな」と切り出した。
「わたしな、そんなにきつい仕事なら辞めたらええやんって簡単に
裕子には話の行方がわからなかった。
「ほやけんわたしは、あー、その、裕子にな、辞めたいんなら辞めたらええやんって胸張っていえるように、この何年か、いちおうがんばってきたんよ」
半農半猟のことだろう。善人がかならずしも経営者として優秀だとはかぎらないが、ソラなら少なくとも従業員を使い潰したりはしないはずだ。
「起業した会社の10年生存率って20パーちょいやけん、立ち上げてすぐ誘って潰れちゃったら申し訳ないし、10年やって、軌道に乗ったっていえるようになってから、もしそのとき裕子が転職したいとか思っとったら、来てもらおうかなーって、皮算用しとってね。商業出たて云うとったけん、経理でね」
寝耳に水の話だった。ソラを見つめる。
「まだ7年目やけん、早いっちゃ早いんやけど、ごめん、変なこと云うて。裕子の顔見たらがまんできなくなった」
ソラは後悔を苦笑いのなかに隠した。
「あんときな、わたしが辞めたとき。自分のことでいっぱいいっぱいやってな。裕子を見捨てる感じになってしもて、ずっとそれが心残りやったんよ。恨まれとってもしゃあないよなって、それだけが気がかりで」
「恨むなんて、そんな」裕子は激しく首を横に振った。「わたしも、ソラさんが苦しんでるの知らずに頼りっきりで、辞めるくらい追い詰めちゃったの、わたしのせいなんじゃないかって、ずっと」
「まさか。わたしは裕子にむしろ救われとったよ」
「わたしも、ソラさんからメッセージ来たとき、うれしかったです」
ふたりはどちらからともなく小さく吹き出した。
「もし、愛想つかされとったり、まともな職に就いて幸せになっとったら、まあわたしの出る幕じゃないってことやなあって、確認の意味でね、あのメッセージ送ったんよ。いけんなあ。失敗やったかも。まだ誘わんって決めとったのに、結局……」
黙りこんだ。天使が通りすぎるような間があった。
ソラが意を決したように口を開いた。
「会社にとって最初の10年はマジもんの難関なんよ。とにかく固定費を抑えんと、正直、キャッシュフローがすぐに厳しなる。と
「はい」
「ちゃんと給料は出す。でも高うはない。考えようによったら、割りきったサラリーマンでいられた技工士のほうが性に合っとった云うことも、ないとは断言できん」
「はい」
「そもそも北海道での生活が、愛媛とかいう温室からしたらなんかの罰ゲームや云うても過言じゃない」
「はい」
「3年。あと3年したら、うちの会社も裕子に楽させてあげられるくらいにはなってる、と思うんよ。潰れんかったらね。ほやけん、もしよければ、考えておいてくれんかなって」
裕子が答える番だった。
「経理はもういるんですか?」
「わたしがやりよる」
「社長が自分で? たいへんでしょう」
「まあその、OKもらえたらやってもらうつもりやったけんナ、それまで空席にしとかんといけん思て」
「愛着のない仕事ですけど、それでも引き継ぎとかあるんで、すぐ辞めるというわけにはいかないです」
「うん」
「引っ越しとかもありますし」
「うん」
「簿記1級はもっとりますけど、勉強し直す時間も必要ですし」
「うん」
「もろもろ鑑みて、4月にはなんとか間に合います」
裕子にソラは苦笑いした。
「苦労かけるで」
裕子は不満に眉を曇らせた。
「やっぱり、わたしは頼りないでしょうか?」
ソラは虚を衝かれた顔になった。
「ソラさんにおんぶにだっこじゃなくて、ソラさんの隣を歩きたいんです。だめですか?」
ソラが視線を外し、まばたきをした。戻ってきた顔には、不安と期待が等配合されていた。
「本当にかまんの?」
「訊くのが7年遅いですよ」
白い歯をこぼしたソラが、小さく咳払いして、どこか怯えているように瞳を覗いた。
「裕子置いて逃げた女やで」
いまだに負い目を感じているらしかった。だからあえて責めてあげることにした。
「じゃあ、もう捨てんとってくださいね」
裕子の軽口に、ソラはばつの悪そうな笑みを浮かべて、舌を出してみせた。