春の午後、礼園の正門には花束と笑顔が溢れていた。
卒業生の藤乃と鮮花が門出の言葉を受け取る中、織姫はその様子を少し離れた歩道の陰から見つめていた。
──ああ、もうそんな季節か。
制服を脱ぎ、未来へ進んでいく者たちの背中が、どこまでも明るく見えた。
彼女──否、“彼”は、小さく吐息をつきながら、すでにひとつの決意を胸にしていた。
◇◇◇◇◇
夕刻、伽藍の堂。
火の気はなく、ほこりっぽい空気が漂うその部屋で、橙子は義体の調整をしていた。
黙って隣に立っていた織姫が、ぽつりと告げる。
「……大学に、行きたいんです」
カツリ、と金属の部品が机に落ちた。
橙子は手を止め、ゆっくりと顔を上げる。
「……は?」
「大学へ進学したい、と。今日、あの子たちの卒業を見送って……ふと思ったんです。もう一度、始めてみてもいいのかもしれないって」
橙子の目が、じっと織姫を捉える。
「中卒が何を言ってる。お前、高校すら通ってなかったろうが」
「はい。中学までは普通に通っていましたが……高校へ進むことは、できませんでした。……あの時は、藤乃と“高校に行こう”って約束していたのに」
それは、叶わなかった願い。
荒耶宗蓮という呪いを終わらせるため、命を削り、時間を費やし、ありとあらゆる“普通”を手放してでも果たさねばならなかった戦い。
「……けれど俺は、それを選ばざるを得なかった。彼女の未来を守るために」
織姫の声には後悔と、誇りと、微かな期待が混じっていた。
「だけど、今日藤乃たちを見ていたら……もう一度、“一緒に歩いてもいい”んじゃないかって、そんな気持ちになったんです」
橙子は椅子に深く腰を下ろし、言葉を選ぶようにゆっくりと口を開いた。
「……織姫。お前は“物語”を救うために、己を空想にした。語り手であることを、選んだ。その結果がどうなったか、分かってるな?」
静かに、確かに、そう言い切る。
「お前は人類史を書き換えかけた語り部だ。根源に到達し、空想具現化を手にしてなお、現実に触れたいと願うのか?」
「……はい。だからこそ、現実が必要なんです。俺が語るべき物語は、今を生きる人たちの中にある。その隣で、同じ時間を過ごしたい。俺の物語を、過去だけで終わらせたくないから」
「未練がましいな」
「……そうかもしれません。でも、“未練と矜持と、少しの愚かさ”が物語の本質だと、先生は仰っていた」
橙子は鼻で笑った。
「そんなのは、私が昔口にした与太話だ」
「でも、俺は今、それを信じたい。……未来の物語を語るために、俺自身の物語も、まだ歩き続けたいんです」
橙子はしばし無言になり、懐から煙草を取り出す。だが火はつけず、指で転がしていた。
「……受験勉強、誰に教わるつもりだ?」
「先生に、お願いしようかと」
「却下だ。私は教師じゃない」
「でも、弟子の物語の続きを見届けるのも、師の役目では?」
「……お前、ずいぶんと生意気になったな」
「根源に接続しても、先生の前では“未熟者”のままですから」
橙子はついに、ふっと微笑んだ。
「いいだろう。面倒は見てやる。ただし、試験会場でうっかり世界の構造を解析して書類を具現化したりするなよ。……お前が空想すると、洒落にならん」
「心得ています。“一般的な知性体”として受験します」
「……面接の志望理由に“過去の約束を守るため”とか書いたら不合格だぞ?」
「はい。“未来の物語を、共に紡ぎたくて”──とでも書いておきます」
橙子は煙草を戻し、立ち上がる。
「まったく、厄介な弟子を持ったもんだ。式の頃が恋しくなる」
「それ、本人に言ったら怒られますよ?」
「知ったことか。……ほら、課題を片付けたら勉強の時間だ。未来に生きるつもりなら、過去のツケも精算しておけ」
織姫は微笑み、深く頭を下げた。
「はい、先生」
静かな堂の中に、春の陽が差し込んでいた。
その光は、根源から戻った者の肩にも、柔らかく注いでいた。
◇◇◇◇◇
──それは、藤乃と鮮花の卒業式を見送った数日後のことだった。
境織姫は、伽藍の堂の一角に設けられた客間にて、ソファに座しながら、黙々と英単語帳をめくっていた。
その背後で、足音もなく扉が開く。
「……で、本気で受けるつもりなのか? 高卒認定なんぞ」
やや呆れたようにして紅赤の髪を揺らした橙子が、コーヒーのカップを手に現れる。
「ええ、本気です。大学に行くためには、どうしても通らなければならない道なので」
織姫は顔を上げずに、淡々と答える。
机の上には国語、数学、英語、現代社会、生物基礎といった参考書が整然と並べられていた。
加えて──
「……“現代文と漢文の違い”、ねぇ」
橙子は一冊の問題集を手に取り、乾いた笑いを漏らした。
「根源に接続した者が、“送り仮名”と格闘している図は、なかなか珍妙だな」
「先生。空想具現化は、現実を知ることで強くなるんですよ」
織姫は、眼鏡の奥で小さく微笑した。
「“世界”を語るなら、“現実”に触れなきゃ」
「……お前、“人間”をやるつもりなのか?」
その問いに、織姫はページを閉じて顔を上げた。
「“やる”つもりじゃありません。“いたい”んです」
「……」
「式さんや、藤乃さんたちが歩んでいる場所に、僕も立っていたい。魔術師であるとか、根源接続者だとか、そんな役割以前に、“同じ時間に生きる人間”として」
橙子はしばらく無言だった。
織姫は付け加えるように言う。
「“物語”って、語るだけじゃなく、誰かと一緒に“進める”ことでもあると思うんです。……それに、そうでもしないと──」
「“約束”は果たせない、か?」
橙子は低く問い返す。
「お前は“物語”を救うために、己を空想にした。語り手であることを、選んだ。その結果がどうなったか、分かってるな?」
「ええ。……だからこそ、今度こそ、語りの続きを」
織姫の手が、再び単語帳を開く。
「で、“トゥゲザー”って、どういう意味だ?」
「……先生、それはちょっと……」
「読み仮名は?」
「つ……つぎゃざー?」
「落第だな」
橙子はくつくつと喉の奥で笑いながら、コーヒーを一口啜る。
しばらくそのまま静かな時間が流れた。
扉の向こうでは、式が柱にもたれて腕を組みながら、「“こっち側”に来やがって」と呟いていた。
巴はリビングで溜息を吐きつつ、問題集を覗き込み、さらりと答えを言ってしまって織姫を困らせていた。
「“普通”って、案外難しいんですね……」
織姫は笑った。
魔術を捨てるわけではない。
空想を捨てるわけでもない。
けれど──その空想で未来を語るために、いま、彼女は“現実”を手に取っている。
◇◇◇◇◇
午後の陽射しが伽藍の堂を斜めに照らし、白い紙にやわらかく反射していた。
書きかけの問題集の上を、鉛筆の音が律動のように響く。
その傍ら、霧絵はソファに沈んで織姫の手元をじっと見つめていた。
どこか呆れたような、けれど愛しさも含んだ視線で。
「ねえ、織姫……本当に、やるのね。大学」
手を止め、織姫は顔を上げる。
「うん。やるよ。高認試験からだから、それなりに大変だけど」
「ふふ……そうよね。だって、中卒だものね、あなた」
笑いながら言うその声には、どこか遠くを見るような響きがあった。
「……なんだかね。見てたら、私も行ってみたくなっちゃった」
織姫は鉛筆を置いて、少しだけ霧絵を見つめた。
「霧絵が?」
「うん。私、あの頃──病気のことも、家のこともあって、全部やめちゃったでしょ。気づいたら時間が止まってて……だからね、今から少し、巻き戻してみたくなったの」
「……うん、いいと思うよ。それ、すごく霧絵らしい」
言葉を選びながらも、織姫は自然と微笑んだ。
「誰が決めたんだろうね、“間に合わない”ってさ。もう一度くらい、自分の時間を生きても罰は当たらないと思う」
霧絵も、静かに微笑を返す。
「ありがと、織姫……やっぱり、あなたは不思議な人ね。何かを壊して、でもちゃんと育ててくれる」
そのやりとりを、部屋の端で聞いていた巴が、小さく鼻を鳴らした。
「……俺もさ、高校、やっぱ通っとくべきだったかなって思えてきた」
霧絵がそっと目を向ける。
織姫は少し首をかしげながら、にやりとした。
「珍しいね。巴がそう言うの」
「うるせぇ。別に引きこもってたわけじゃねえし……生活回すのに手一杯だっただけだよ」
「知ってるよ。言い訳しなくても」
巴はむっとしながらも、それ以上何も言わなかった。
織姫の声には、責める色がまったくなく、ただ事実として受け入れているだけの響きがあったからだ。
「でも……まあ。こうやって霧絵さんまで一緒にやるなら、俺も“ちょっとだけ”考えてみてもいいかなって」
「ふぅん、上からだね」
「お前が下からすぎんだよ」
「そう? 俺はただ、歩き出した人がいたら“いいね”って言いたくなるだけ」
織姫は、柔らかく笑う。
「霧絵も巴も、止まってたわけじゃない。走れなかっただけで、今、こうして立ってる。だったら、遅くても間違ってても、それは“ちゃんと生きてる”ってことだろ」
「……お前、年上風吹かせんなよ」
「実際、俺のほうが年上だって」
「うっせぇな……」
巴が照れ隠しにそっぽを向いたとき、霧絵がくすっと笑った。
「……なんだか、いいわね。遅れてきた放課後って感じ。まだ制服が似合いそうな空気」
「いや、霧絵さんはもう似合わないだろ」
「あら失礼ね?」
「……でも、似合ってたよ。高校の頃の霧絵も、今の霧絵も」
織姫がふと言ったその言葉に、霧絵は目を細めた。
「……それ、ちゃんと覚えててくれたんだ」
「忘れないさ。……“止まった時間”をもう一度動かしたいっていう願いは、俺も同じだから」
陽が傾き、部屋の奥の時計がゆっくりと針を進めていく。
遅れてきた学び舎の午後。
そこで確かに、三人の物語がまた一歩、前へと進み始めていた。
◇◇◇◇◇
春の午後というのは、どうしてこうも眠気を誘うのでしょうか。
柔らかい風が帳のように窓辺を撫で、伽藍の堂の片隅には、薄紅色の陽だまりが長く伸びていました。
その光の中に、三人の人影がありました。
織姫さんは、静かに問題集に目を落とし、鉛筆を握る指先まできちんとした所作で。
霧絵さんは、その横で口元に微笑をたたえながら、古い参考書を読み込んでいて。
巴さんはというと、少し不貞腐れたように体を椅子に沈ませて、でも視線だけはちゃんとページを追っていました。
──なんて、不思議な光景でしょう。
ついこの間まで、この三人のうち誰一人として、勉強机に向かうことなど想像もしていなかったのですから。
……正直なところ、驚きました。
けれど、胸の奥にはそれ以上に、あたたかいものが広がっていました。
私のために、時間を犠牲にしてくれた人が、こうして“自分のための時間”を歩き始めている。
それは──きっと、赦されるべき未来なのだと、思います。
「……お邪魔ではないでしょうか?」
声をかけると、織姫さんがぱっと顔を上げて、微笑みました。
「ああ、藤乃。見学? 霧絵がいいモデルになってるよ」
「もう。言葉の選び方が雑ですよ」
微笑み返すと、霧絵さんも恥ずかしそうに「ふふ」と笑いました。
巴さんは少しぶっきらぼうに手を挙げましたが、その手にはちゃんとシャープペンが握られていて。
「……皆さん、とても楽しそうに見えます」
そう言うと、織姫さんが少し照れたように言いました。
「楽しいかどうかは別として……こうして並んで問題解いてるの、なんか悪くないって思えてきた」
「そうですか……“青春”みたいで、いいですね」
私が呟くと、霧絵さんが少し目を伏せて、懐かしむように小さく言いました。
「本当は、ずっと……こういう時間が欲しかったのかもしれないわね」
……ええ、きっと、私も同じです。
戦うために失われた時間。奪われた日常。傷ついても、見えないままにしてきた“普通”という希望。
けれど、それを取り戻すために歩いている人たちが、今、私の目の前にいる。
そんな彼らの後ろ姿を、私は心から誇らしいと感じました。
──“あなたたちはもう、救われていい”
そう思いながら、私は鞄から包みを取り出しました。
「ささやかですが、甘いものを用意しました。休憩になさってください」
織姫さんが目を輝かせ、巴さんが「マジか」と言い、霧絵さんが嬉しそうに手を合わせました。
笑い声がこぼれる、そのひととき。
私は──何よりも、それを大切にしたいと思ったのです。
◇◇◇◇◇
窓から差し込む陽光が、テーブルの上に置かれた問題用紙を照らしていた。
カリカリと鉛筆の音が響く。
伽藍の堂の事務所の一角──今や“仮・勉強会場”と化していた場所で、3人がそれぞれ真剣な表情で筆を走らせていた。
「──はい、終了。じゃあ、答え合わせするか」
巴が配布された解答冊子をめくりながら言う。
真面目な顔つきに加え、どこか達成感のようなものも滲んでいる。
「ふぅん……難しいところもあったけど、案外いけたわね」
霧絵は表情を崩さず、ゆったりとペンを置いた。
まるでカフェで雑誌でも読んでいたかのような余裕の佇まいだ。
「……すごいね、霧絵。ほぼ満点。こっち、ちょっと見せてもらっていい?」
織姫が目をしばたたきながら、霧絵の答案に視線を寄せた。
その表情には明らかに“危機感”という名の色が差していた。
「どうだった、織姫?」
巴が問いかけると、織姫は答え合わせ表を見つめながら、静かに言った。
「うん、英語と現代文はほぼ問題ない。倫理政経も……まあ、許容範囲かな。ただ……」
織姫は世界史の赤い丸の少なさにため息をついた。
「……世界史と、古文と、数学が、非常に厳しい。下手すれば、落第ラインだね」
「……ふふっ。意外と苦手科目あるのね」
霧絵が悪戯っぽく微笑んだ。
「うん、まさかここまで落ちこぼれるとは思ってなかったよ。正直なところ」
織姫は頬を押さえながら、肩を落とす。
「世界史は暗記ばかりだし、古文は品詞の活用で脳が焼けるし、数学は数字を見ただけで逃げ出したくなる。……これは、俺にとっての戦争だ」
「大袈裟すぎる……」
巴が苦笑しながら首を振る。
「俺も歴史と古典は怪しいけどさ……でも織姫、お前って記憶力すごいんじゃないのか?」
「記憶する速度と、興味の有無は比例するんだ。世界史より魔術史の方がずっと面白いし、古文より現代詩の方が肌に合ってる。数学は……うん。俺の敵だよ」
「……敵って」
巴は笑った。
一方、霧絵は頬杖をついたまま、目を細める。
「でも、そういう苦手を前にしてもやめないのって、ちょっと羨ましいかも」
「霧絵の方がずっと出来てるじゃないか」
「私は……たぶん、今まで“何かに向かって勉強する”っていうのを、したかったのよ。できるできないじゃなくて、したいかどうか。そういう気分でしか生きてこなかったから」
霧絵はふわっと笑って、続けた。
「昔の私は、大学に行く余裕もなかったし。だから今、こうして問題を解いてるだけで少し楽しいの」
織姫はその言葉に、ほんの少しだけ表情を緩めた。
「そっか……そうだね。……だったら、苦手でも、もう少し粘ってみるよ。別に点数で全部が決まるわけじゃないし、今は“やりたい”って思ってるんだから」
「……ああ。頑張れよ、織姫」
巴も頷く。
答案用紙の上、数字の羅列や無味乾燥な設問の先に、それぞれの“これから”が浮かび上がる。
春の気配がまだ遠い伽藍の堂の中で、3人はまた、鉛筆を握り直した。
◇◇◇◇◇
試験会場の前──その光景は、思ったよりずっと“普通”だった。
制服姿もいれば、ジャージ姿、私服、スーツの者まで。年齢も服装もまちまち。
高卒認定試験という場の特性上、それぞれの事情を背負った人間たちが静かに、しかしどこか鋭い空気を纏って並んでいる。
その列の中に、巴・織姫・霧絵の3人の姿があった。
「……なんだよ、この視線……」
巴はそっと身を引きつつ、左右を一瞥して溜め息をつく。
理由は明白だった。
右には、どこか儚げで、しかし涼やかな美貌の霧絵。
そして左には、見る者の視線を自然と引き寄せる、均整の取れた中性的な麗人──織姫。
その二人に挟まれた彼が「普通の男子」に見えるかどうかは別として、やたらと注目を集める構図となっていた。
「……モテる男の気分って、こんな感じなんかな」
小声で呟く巴の背中を、織姫が控えめに小突いた。
「……気のせいじゃないかな。それより、もうすぐ説明始まるから、ちゃんと確認しておこう」
織姫は冷静に装っていたが、目元にわずかに焦りの色が見える。
「……数学の範囲、やっぱり第三問が鬼門だった気がする……解の公式の変形……ああ、胃が……」
織姫は胸元を押さえて小さく息を吐いた。
「胃がキリキリするって、お前、本当に魔術師か?」
巴のツッコミに霧絵が隣でふっと笑う。
その声には、どこか楽しげな響きがあった。
「……久しぶりよね、こういう緊張感。でも……ちょっと楽しい」
「霧絵、試験が“楽しい”って言える人間は希少種だよ」
「だって、学生時代って、私にとって途中で終わっちゃったものだったから。だから、今日こうして“続き”をやれるの、嬉しいのよ」
そう言って、霧絵は試験番号が印字された紙を見つめる。
ほんの少し、目が潤んでいたのは、朝日が差しただけのせいだろう。
一方、織姫は既に頭の中で数式を転がし、心の中で“x”を何度も処理していた。
だがその横顔は、真剣そのもので──静かな覚悟のようなものがあった。
「んじゃ、行こうか」
巴が一歩、足を進めた。
彼もまた、制服とは違う、地味なシャツ姿で、周囲の高校生たちとは雰囲気が異なる。
だが、その歩みに迷いはなかった。
3人は、それぞれの春へ向けて、試験会場の扉をくぐっていった。
過去の続きを、未来に繋げるために。
◇◇◇◇◇
まだ肌寒さの残る午後。
陽光が落ちるテラスに、木製の丸テーブルと三脚の椅子。そこに白い封筒が三通並んでいた。
「ふふ……この感じ、なんだか懐かしい」
封を開けながら、霧絵が楽しげに笑う。
その声には緊張よりも、むしろ“嬉しさ”が滲んでいた。
「……ちゃんと通ってた。全部、合格」
成績表を見ながら、ふわりと髪を揺らして霧絵は満足そうに微笑む。
病で止まっていた時間が、ようやくまた一歩進んだような、そんな安堵がそこにはあった。
「……俺もまあ、なんとか、ね」
巴が控えめに口を開く。
手にした通知には、ややバラつきはありつつも、全科目で合格の二文字。
「英語はそこそこだったけど、数学と理科は……やっぱ詰めが甘かったな」
それでも表情は晴れやかだった。
学業の中断と家族を支える責任の中で、ここまで辿り着いた事実が、胸を張らせていた。
そして──。
「……俺は……ちょっと、ギリギリだった」
織姫が封筒を持ったまま、項垂れるように呟いた。
「世界史と数学、ほとんど合格ラインにかかっててさ……特に数学、ギリギリ。あんなに勉強したのに……正直、もうちょっとどうにかならなかったのかなって……」
「いや、待て待て」
巴が目を丸くして笑う。
「織姫、お前……“魔術師”だろ? なんつーか、もっとこう……物理とか数式とか得意ってイメージだったんだけど」
「……俺、よく言われるんだけどさ。魔術と数学は、全然別物なんだ」
苦笑を交えながら、織姫はテーブルに頬杖をつく。
「確かに、座学では数式も使うよ。けどそれは“理解”のためであって、計算力や公式の記憶とはまた違うんだ」
「……なんか、意外だな」
「でしょ?」
気安い笑みを返しつつも、どこか少し悔しそうな織姫の横で、霧絵がくすくすと笑った。
「でもね、織姫。私は好きよ? そういうとこ。全知全能の天才さんより、ちょっとずつでも壁を登っていく方が……ずっと“人間らしい”もの」
「……そうかい。ありがとう、霧絵」
少し照れたように、織姫が苦笑する。
春の風が吹き抜ける。
どこか暖かく、そしてほんの少しだけ眩しい風。
全員が、それぞれの通知書を手に握っていた。
それは、数字の結果以上に、「もう一度歩き出した証」だったのかもしれない。