アトランタさんがやって来たので短いお話を

寒い夜にはドーナツが食べたくなるよね

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アトランタさん好き。好き。以上


明けない夜にドーナツを

 ……夜は、怖い。

 何もない。何も見えない。明かりなんてない。頼りなんてない。どこにも(しるべ)はない。手を伸ばした先の、その指先すら、闇が溶かしてしまう。

 そんな世界に、あたしが一人、取り残されている。

 苦しい。動けない。痛い。胸が詰まって、喉が貼りついて、呼吸ができない。どれだけ叫びたくても、体が声を拒絶する。

 あたしはやっぱり、一人ぼっち。

 だから夜は怖い。怖くて……そして、大嫌いだ。

 

 

 

「アトランタさん、大丈夫ですか?」

 

 工廠で艤装を脱いだあたしに、真っ先に駆け寄る声がある。身を屈め、あたしを覗き込む、栗色の瞳。少しはねっ返りの強い短髪をした彼女の名前は、比叡。たった今まで、あたしの訓練に付き合っていた艦娘だ。

 心の底から心配している声。それを受け入れない理由はなくて……けれどだからこそ、言葉は容赦なく、あたしの中へ突き刺さった。

 

「大丈夫なわけ、ないじゃない」

 

 最早一歩も動けない。突っ張り続けて、結局一ヤードも航行しなかった両足が、がくがくと震える。両の手を膝に置いて、必死に抑えようにも、震えが収まる気配はない。ふと力が抜けて、あたしはその場に座り込んでしまった。

 自分でもわかるほど、息が荒い。全身を滝のように流れる冷や汗に、今更ながら気づいた。ぐっしょりとした服がへばりついて、気持ち悪い。

 

 夜間航行訓練。それが、今日の訓練の内容だった。いや、結局、あたしの艤装は全く言うことを聞かなくて、航行はできていないわけだけど。

 

 ……ああ、本当に、嫌だ。

 

「……とりあえず、お風呂に入りましょうか」

 

 比叡の提案に、頷くだけで精一杯だった。

 比叡の肩を借りて、なんとか立ち上がり、歩いていく。シャワールームまでの道のりが、果てしなく、遠いものに思われた。

 

 

 

 夜は嫌いだ。それは、多分、あたしという軍艦の最期が、夜戦だったから。〔アトランタ〕という艦が、激しい夜戦の末に、水面へと飲み込まれたという過去を持つから、だと思う。

 だから、夜は嫌い。夜戦なんてまっぴらだ。

 だというのに。いいや、それを知ってなお、あの男は、あたしを夜の海へと放り込んだ。その結果がこれだ。

 

「絶対文句言ってやる」

 

 固く誓って、あたしは全身の泡を流す。髪を上手くまとめてから、湯船へ。夜間訓練に参加した艦娘限定で解放されている大浴場に、今はあたしと比叡しかいない。

 足先からゆっくりと、湯船に浸かっていく。これが日本の文化。裸の付き合い、というやつだそうだ。

 たっぷり三十秒の時間をかけて、全身をお湯に沈めた。季節は冬。暖冬と言えどよく冷える。夜の海に出て、物理的にも、精神的にも、体の芯まで凍る思いをした今のあたしには、この暖かいお湯が何よりありがたい。

 体の奥底に溜まっていたものと一緒に、自然と溜め息が出た。ほんの少し、肩が軽くなった、気がする。

 

「アトランタさん」

 

 ふと、すぐ隣で、比叡の声がした。いつの間にか、あたしの隣へ這い寄って来た比叡。頭だけ浮かぶその姿は、スイトンノ術という奴だろうか。忍者の末裔が生きてる国なだけある。

 

「少し楽になりました?」

 

 器用に首を傾げながら、比叡が尋ねてくる。その顔面に水鉄砲を見舞ってやりたい衝動を抑え、あたしは答える。

 

「うんまあ、少しはね」

「よかったぁ」

 

 にへら、っと比叡は笑う。締まりのない、というか、風呂だけにふやけているというか。こちらまで脱力してしまうような、そんな笑い方だ。思わず緩みそうになった口角を溜め息でごまかし、そっぽを向く。

 

「この大浴場、露天風呂もいいですよ」

「暗い。寒い。いやだ」

 

 明らかに残念そうな顔をする比叡。湯船を上がるまで再三誘われたが、全て丁重にお断りさせてもらった。

 例え陸でも、夜の世界へ踏み出すなんて、ごめんこうむりたい。

 

 

 

「ご苦労様。報告はすでに受けてるよ」

 

 大浴場を出て、程よく温まった体のまま、あたしと比叡は執務室を訪れた。当直をしていたのは、提督さんだけだ。

 第一印象は、眼鏡をかけた温和な青年。しばらく関わってみて、その印象に間違いはないと思ってたけど……あたしを躊躇なく夜間訓練へ放り込んだところを見るに、サディストの気があるに違いない。

 

「アトランタ、少し話がしたいんだ。いいかな?」

 

 そんなあたしの疑念など露知らず、という感じで、提督さんが問いかける。まあ、夜間訓練があったとはいえ、まだ夜の十時だ。世間話をするくらいの時間はある、か。

 

「ん、いいけど」

「ありがとう。そんなに時間は取らないよ。――比叡も付き添いありがとう。明日の朝はゆっくりでいいからね」

「はーい。それじゃあ、おやすみなさい、司令、アトランタさん」

 

 執務室を立ち去る比叡は、金剛仕込みだというウィンクを華麗に決めて、扉の向こうに消えていった。

 さて、執務室には、あたしと提督さんだけ。

 ……何だろう、妙にソワソワする。

 

「適当に座って。今、暖かい飲み物を出すから。コーヒーでよかったよね?」

「あ……うん」

 

 手伝おうか、と言う暇もなく、提督さんの姿が隣の給湯室へ吸い込まれていった。手持無沙汰のあたしは、勧められたソファに腰掛ける。来客用で、仕立ての良いソファはやや硬く、しっかりとあたしの体重を支えてくれる。つい先程まで足をガクブル言わせていた身としては、これくらいの方がありがたい。

 一分とせず、給湯室から提督さんが戻って来た。お湯はすでに沸かしていたのだろう。二つ並んだマグカップから、芳醇な香りが漂ってくる。それから――

 

「夜に甘い物は、御法度かな?」

 

 コーヒーの隣にちょこんと佇むもの。きつね色の焼き色をしたそれには、真ん中にぽっかりと大きな穴。まぶした砂糖が、蛍光灯の光で輝いている。

 

「……ドーナツ?」

「そう。当直の夜食用に、とっておいたものでね」

 

 提督お手製だというそれは、当直の艦娘たちに大人気の代物らしい。

 ことりと、机の上に置かれるマグカップ、そしてドーナツ。その見た目は実に暴力的だ。一ヤードも航行できず、カロリーなんて微塵も消費していないはずなのに、お腹の底から鳴き声がする。逆らうことは微塵も許されていない。

 この二つを並べて出されて、断れるやつがいるんだろうか。やはりこの提督さん、超がつくドエスに違いない。

 

「……いただきます」

 

 遠慮はせず、ドーナツへ手を伸ばす。そのままゆっくりと、かじりついた。

 さくり。耳に優しい歯の通り。

 もちもち。あごに嬉しい食感。

 ふわふわ。いつの間に舞い飛ぶこの心地。

 感想を述べることすら忘れて、あたしは二口目をかじった。さくり。もちもち。ふわふわ。時折、口の端から、砂糖がこぼれそうになる。それを慌てて、舌でなめとった。

 

「……おいしい」

 

 ありきたりな感想を漏らした時には、すでにドーナツが半分になっていた。立派な穴は見る影もない。

 

「それはよかった」

 

 穏やかに笑う提督さん。その表情だけは、最初の印象通り、温和な好青年だった。

 コーヒーを一口。それからまた、ドーナツをかじる。たった一個がもったいなくて、今度はちびりちびりと。間にコーヒーを挟み、ドーナツ、コーヒー。

 

「……ごちそうさま」

「おそまつさまです」

 

 呆気なく、ドーナツはあたしの胃の中へ消えていった。空になったお皿を恨めしく見つめて、残ったコーヒーを啜る。なんでこう、ドーナツというのは食べると消えてしまうんだ。いや全ての食べ物がそうだけれども。

 

「疲れた時は、甘い物と、コーヒーに限るね」

 

 向かいで同じようにコーヒーを啜りながら、提督さんはそんなことを言った。

 それっきり、大した会話はなかった。ドーナツが無くなったことで、急速に消費されるコーヒー。マグカップへ口づける合間に、ぽつりぽつりと、雑談を挟む。鎮守府の生活はどうか。他の艦娘とはうまくやれそうか。何か不便はないか。食堂のご飯は口に合うか。本当に、取るに足らないことを、二言三言交わすだけ。

 そろそろぬるくなってきたコーヒーの残りを、最後まで飲み干して、マグカップを置く。

 

「引き留めて悪かったね。今日はよく寝て、しっかり休んで。明日の朝はゆっくりでいいよ」

 

 そう言って、あたしを見送る提督さん。

 

 結局、彼の話とは何だったのか。そんなことを、歯を磨きながら思った。後ついでに、文句を言いそびれたことも思い出した。

 

「……まあ、いいか」

 

 ベッドに倒れこめば、そんなことはどうでもよくなってくる。目を閉じて寝返りを打つあたしは、さっき食べたドーナツの味を思い出していた。

 

 

 

 夜は怖い。夜は嫌い。絶対に慣れたりしない。理屈とか理性とか、そんなものは全部吹っ飛んでしまうくらい。それは、あたしという艦娘の奥底、もう自分でもどうしようもないところに刻まれた感情にも思える。

 出撃ドックから一歩、夜の海に出るだけで、足がすくんで動けない。星なんて映らない。月なんて輝かない。暗闇に浸るあたしが一人、そこにはいるだけだ。まとわりつく夜を払う術を、あたしは持ち合わせていなかった。

 何度やったって、変わらない。

 

 今夜も同じだ。比叡と共にドックを出ても、あたしの足は進まない。主機は回らず、スクリューは止まったままだ。艤装が絶好調なのも当然、あたしはここ数日、全く艤装を動かしてないわけだし。

 

「アトランタさん……」

 

 ああ、ったく、どうしたもんだろう。一緒にいるはずの比叡すら、夜闇に飲まれてわからない。声は聞こえても、姿はない。あたしはここでも、ただ一人。

 本当に、嫌になる。

 今夜も私は、前に進めないまま――

 

「アトランタ」

 

 聞こえるはずのない声に、はっとする。今まで聞こえたことのなかった声。漆黒の世界へ溶け込みつつあった意識が、気力が、視覚が、微かに蘇る。目の前の比叡を――そして振り返れば、岸壁に立つ提督さんを、あたしの目が捉える。

 チョイチョイ、手招きされるままに、あたしは提督さんの側へと寄っていく。海面より一段高い岸壁に身を屈め、提督さんはあたしの顔を覗き込んだ。

 

「ちゃんと、見えてるみたいだね」

 

 今日二度目の驚きだ。夜の海で、あたしが何も見えていないことに、彼は気づいていたのだろうか。どうしてそんなことを知り得たのだろうか。疑問が浮かぶと同時に、ぽろりと、あたしの口から言葉が零れる。

 

「……見えない。何も見えないよ、夜の海なんて」

 

 月明りなんて嘘だ。星明かりなんて嘘だ。夜っていうのは、どこまでも、果てしなく続いていて。ちっぽけなあたしなんか、一瞬で飲み込んでしまうくらい深くて。声を枯らす叫びだって、瞬く間に溶け込んでしまう。

 それは、夜の海に立ったことのある者のみが、知っていることだから。

 

「それでも、君はちゃんと、見てるじゃないか」

 

 それなのに、提督さんはそう言って、あたしの主張を否定した。

 

「夜が暗いことを、君はちゃんと見ている。そこから決して、目を逸らしていない。怖いのは当然なんだ。誰も彼も、暗闇なんて見ようともしないんだから」

 

 その上で。提督さんはそう言い置いて、真っ直ぐに手を伸ばした。中空への距離を測るように……あるいは、あたしに差し出すように。

 

「私から言えるのは一つ。どんな夜でも、君が自分を失わない限り、伸ばした手の先は見えるんだ」

 

 提督さんが、手を握ったり、開いたりして見せる。あたしは自然と、自分の手を見た。グローブを嵌めた手。しげしげと眺めた手を、開いて、閉じて。それから、提督さんと同じように、暗闇へ手を伸ばす。

 鎮守府の反対側、いまだ闇に飲まれる、漆黒の大海。決して先の見えないそこへ、恐々と手を差し出す。

 あたしの手が、闇を払うことはない。海は暗いまま、夜は深いまま。けれど、指の先から、この身が闇に溶けることもない。

 やがてあたしの手は、これ以上伸びないところまで届く。一寸先の闇。それでもしかと、あたしの手は見えていた。

 その手に、触れるものがあった。

 

「大丈夫ですよ、アトランタさん!」

 

 暗闇の中から、あたしの手を握る比叡。彼女の笑顔を、あたしは今度こそ、はっきりと目にした。

 ……ああ、そっか。届くんだ。あたしの手は、届くんだ。暗闇の中、同じように一人で立つ彼女に、届くんだ。

 

「……行ってきます」

 

 提督さんを振り返る。岸壁に立つ彼は、大真面目な顔で頷いて、送り出してくれる。

 主機がゆっくりと回転を始めた。おぼつかない足取りのまま、海面を滑る。比叡に手を引かれるあたしの姿は、端から見れば、産まれたての小鹿のように、無様なものだったに違いない。けれど幸いにも、夜がそれを隠してくれた。

 鎮守府近海、ぶらり夜の旅。三マイルに満たない航海。それが、今夜のあたしの、戦果だった。

 

 

 

 ……夜は嫌いだ。

 うん、嫌い。どう頑張ったって、好きになれそうはない。夜戦とか正気の沙汰じゃない。絶対、パス。

 ……ただ、まあ。

 

「……ドーナツ、おいしいな」

 

 夜間演習終わりのひと時。揚がりたてのドーナツをかじる。さらさらとした砂糖の粉は、程よく熱で溶け、舌へ絡みつく。しっとりとした食感が、コーヒーの摂取を無意識へと呼び掛ける。

 マグカップを傾ける。口に残った甘さと、コーヒーの苦さが違和感なく混じり、喉の奥へと収まっていく。夜戦上がりの体には、お風呂の次に染み入る暖かさだ。

 

「お疲れ様」

 

 エプロンを畳みながら、提督さんが改まって労う。手にした山盛りのドーナツは、同じく夜間演習終わりの駆逐艦たちに出すものらしい。有り余った元気を風呂で発散していたチビどもは、今まとめて霧島に怒られている。

 ……まあ、できたてをかじれるのは、大人な軽巡の特権ってことで。

 ドーナツを一かじり。コーヒーを一口。すぐ無くなるのはわかりきっているから、心持ちゆっくりと、今夜はちゃんと味わって。そうは言っても、騒がしい駆逐艦たちに巻き込まれたくはないから、その辺り上手く見計らって、退散しなければ。

 たっぷり十分。コーヒーがぬるくなるくらいの時間をかけて、ドーナツを楽しむ。さくり、ふわり、もちもち、そんな擬音ばかり、執務室に響く。

 提督さんはといえば、そろそろ強襲をかけてくるであろう駆逐艦に備え、ジュースやら紅茶やらを用意し始めた。

 執務室に二人きり。断片的な会話が、ぽつりぽつりと繰り返されるだけの、十分間。別に、悪いものでは、ない、かな。

 

「……ごちそうさま」

 

 直感というレーダーが、迫る駆逐艦の存在を告げる。今夜はここでお暇しよう。おいしいドーナツも食べられたことだし、概ね満足だ。

 

「おやすみ、提督さん。またドーナツ食べに来るから」

 

 就寝の挨拶とともに、自然な風を装って、手を差し出す。あの夜、提督さんがそう見せてくれたように。あたしの見える先、暗闇の境目。

 不思議そうにしながらも、提督さんは意味を察してくれたらしく、あたしの手に、その手を重ねた。恐る恐る、その手を握れば、確かな感触と暖かさが、この手に伝わってくる。

 ……うん、やっぱり、暖かい。

 

「ありがと。……じゃ、今度こそ、おやすみ」

 

 入れ違いの駆逐艦どもをなんとか引っぺがして、執務室を後にする。歩くのは、半分蛍光灯の落とされた、就寝時間中の廊下。夜と白のコントラストの中で、自分の手を、見つめる。

 仄かに残る温もりを握り締め、自室の扉を開いた。今日もよく、眠れそうだ。




この提督さんとアトランタさん、恋に落ちるんですかね、どうなんですかね

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