そんな彼女の元に、とある音楽が流れてきて……。
ラブライブ! × 仮面ライダーキバ の短編クロスオーバー作品。
※本作品は、2016年に投稿されたラブライダーアンソロジー企画にて掲載されたものです。
時系列は2013年の12月。ラブライブ!都内最終予選前の出来事となります。
北風が寂しさや切なさを運んでくる冬の空。夏よりも空気が乾燥し、透明になっていくのが肌で感じる。故に今日の空もまた綺麗な青色で塗りつぶされていた。そしてそんな晴れ渡る空にも黄昏が迫り、薄い茜色が染み渡り始めていく。しかし私の心を覆うのはそんな優しい色ではなく、重い埃のような鈍色だった。未だ晴れることのない焦燥に胸の内を燻らせていたからだ。
「どうすればいいのよ……」
誰に言うでもない不安がつい口から零れてしまう。事の発端は数日前に遡る。「ラブライブ!」の都内最終予選を目前に控え、私たちは新曲を用意することに決めた。それはみんなで出し合った歌詞を綴ったラブソング。私たちの大事な仲間の夢であり、私たちからの彼女へのプレゼントでもあり、そして私たち全員の想いが込められた大切な歌。今の私たちに伝えられる最高の歌詞を、最高の仲間たちで作り上げることが重要だった。そして、それはメンバー全員の結束を固めるという最高の結果とともに達成されることとなった。
残りは全て私に託された。歌詞──みんなの想いが籠った魂とも呼べるほどのタカラモノを、私は託された。故に私はそれに答えなければいけない。みんなで作り上げた歌詞を、想いを、他の人たちへ最大限に伝えられるような曲を、私は作り上げなければいけない。私に残された最後の仕事は、この歌詞の作曲だった。今までもそうしてきたように、私はμ'sの作曲担当。だからこれまでのように歌詞と向き合い、それに調和する曲を作ればいい、と……そう思っていた自分は実に甘かったと言わざるをえなかった。
──真姫ちゃん! 歌詞できたよ!
──っ、ありが……とう……
──真姫ちゃん……?
出来上がった歌詞を手にした時、みんなの前では口にしなかったけれど、今までに感じた事のないほどの重責が身体に圧しかかってきた。歌詞は最高だと私は思っている。ならばこの曲自体の良し悪しは、私の作曲次第で決まってしまうということになる。それはつまり、みんなの想いが込められたタカラモノを私が台無しにしてしまう可能性があるということ。そんな思いが頭を
それをすぐに認めることができなかった私は、帰ってすぐに作曲に取り掛かった。だけど無理だった。どうしてもこの歌詞にあう旋律が想像できなかった。どんなハーモニーもリズムもまるで浮かんでこなかった。この文字の羅列を見て、その意味を理解しても、私の中に何かが宿る事がなかった。何度その歌詞やピアノと向かい合っても結果が変わることはなかった。そしていつしか私は自分で思うようになってしまった。
私は曲を作る事ができなくなってしまったのだと。
歌詞を受け取って既に三日が過ぎている。しかし前奏どころかメロディラインすらままならないのが現状だ。楽曲分析や音楽理論、様々な作曲法の本も読み漁ったけれど結果は変わらず。理論から何とか解決しよう努力したけれど、それでもあの歌詞に合う曲を見つけることができなかった。
「何なのよ『心のメロディ』って……どうすれば作れるのよ……」
思わず歌詞の中にある一節を浮かべてぼやいてしまう。大切な歌詞の一部に向かって不満を漏らしてしまうなんて最低な事なことだ。しかしこれは作曲もできず、みんなの期待にも応えられず、このままμ'sを腐らせてしまうかもしれない自分への失望が生んだ言葉だった。
本当に私は作曲ができなくなってしまったのかもしれない。私の作る曲を今か今かと待ちわびている仲間たちの姿を想像すると情けなくなってくる。あまりの不甲斐なさに涙が零れそうになる。助けてほしくて、泣きたくて仕方なくなる。
「どうしたら……」
冬の渇いた風が肌や喉の奥を突き刺し、悲しみを誘いだす。不安が耐え切れなくなり、ため込んでいたものが崩壊しそうになる。
そして遂に目から涙が零れそうになった、その時だった。
──♬~♪~
「っ……バイオリン?」
私の耳にとても美しくて、健気で、強かで、暖かな音色が流れてきた。冬の空に溶け込んでしまうような細く透き通った、だけど生命を感じさせる力強い旋律が私の心を揺らし、浮かんでいた涙が引っ込んでしまう。
「綺麗……しかも……暖かい……」
冬の風に吹かれて冷えていた私の心をも温める優しい音色。その音源を求めて、自然と私の足は進んでいくのだった。
そして、見つけたの……。
「……(男の人……)」
流れるような亜麻色の髪が風に揺れ、首にかけたストールが特徴的な線の細い男性。異様にきめ細かく色白い肌がまるで陽のもとに出ない吸血鬼のようにも思えて、少し刺激的に感じてしまう。そんなまだ幼さの残った顔の男性が、とても様になる格好でバイオリンを構え、あの不思議なメロディを奏でていた。私はそんな彼の元へとゆっくりと近づいていく。
親に連れられてバイオリンのコンサートに何度か足を運んだことのある私から見ても、彼の演奏はプロと相違ない実力だと断言できた。それ程までに彼の演奏は美しく強かで、しかし教本通りの型に嵌まったものではなく、彼自身の個性が顕著に表れた彼だけのメロディが、私や私のいる空間を彩っていた。聴くだけで心がすっと軽くなるような彼の演奏を、このままずっと聴いていたいと思っていた。
しかし物語に
「……ありがとう。最後まで聴いてくれて」
「っ!? えっと、あっ、その……」
流れるように自然な動作でバイオリンを下しながら、彼はこちらに振り向いた。突然のことで動揺してしまい、他の誰かに向けられた声なのかもしれないと、ちらりと辺りを見渡す。しかし私以外の他に誰も彼の音楽を聴いていないため、その声が自分に向けられたものだと認めざるを得なかった。辺りには誰かと話し込んだり、ランニングしていたり、イヤホンで耳を塞いでいたりで周囲の音を遮断している人ばかりだった。
──こんなにいい演奏だったのに……。
と、彼の音楽を聴いていない他の人間に向けて不満を感じてしまう程に、私は彼の奏でる旋律に聴き惚れてしまったようだ。
「……ここには、よく来るの?」
「え?」
「っ、その……あまり、見ない顔だったから……」
他に言いたいことがあるはずなのに、私の口から出てくるのは探るような言葉ばかり。素晴らしい演奏だった、心が天に上るようだった、と素直に称賛の言葉が出てこないところは私の悪い癖だ。
「う~ん、普段はもう少し遠いところにいるかな」
「そう、なんだ……」
彼は嫌な顔一つせずに私の質問に答えてくれた。嫌な質問をしたつもりはないけれど、多分彼の欲しがっていた言葉じゃなかったと思う。きっと演奏者なら、称賛の一つや二つは欲しかったはずだ。しかし彼の顔には不満の色どころか、腹に一物を抱えたような感じも全く見られない。依然、白くて綺麗な、そう、まるで王子さまのような顔のまま……。
「(王子さま、ね……)」
そう言えば、と私は彼の顔を観察し直す。すごく静かな雰囲気で大人びた印象を持つけれど、その顔はどう見積もっても成人には見えない。もしかすると私と同じ年齢くらいかもしれない。そう思ってしまうくらいには彼は童顔だった。そしてまた彼の容貌を見つめてしまう。幼く、でも芯が通ったような凛とした器量。雪のように白く、漫画の中から飛び出してきたかのような端整な顔立ち。世の穢れを知らないかのような純真な瞳。それこそ私が子どもの頃に読み聞かせてもらった、絵本の物語に登場する王子さまのようだった。
「(……ってなに変なこと考えてるのよ私は!?)」
「?」
ふと、その可愛らしくもある彼の顔を見ることに耐えられず、地面を向いて頭を抱え、雑念を祓おうとする。柄にもなく男の人の顔を見てそんなことを考えてしまうなんてどうかしていると自分に言い聞かせる。これも全部「恋の歌」を作ろうって言ったみんなのせいよ。ええ、きっとそう。頭を押さえながらそう自分に唱え続けていた。
「いろいろ大変そうだけど、さっきより元気になってよかったよ」
「えっ?」
しかし彼の突然の指摘に、私は頭を押さえるのをやめて間抜けな声を出してしまう。別に元気になったという自覚はないけれど、それを別としても彼の言葉を言い換えるなら、彼は「私に元気がなかった」と見抜いていた。そこまで顔に出ていてしまったのだろうかと、私は気になって彼に訊ねてしまった。
「どうして……?」
「君の音楽が、泣いていたから」
「音楽? 私の……?」
「うん」
奏者の感情は演奏に影響を及ぼすことがある、という話は聞いたことがある。聴く人が聴けば、その奏でる旋律だけで奏者の抱いている感情が分かるらしい。しかし今の私は楽器すら持っていない。何の楽器も奏でていない。だから音楽を奏でることなんてできない。だというのに、私の音楽が聞こえるという彼の言葉が至極不思議に思えてしまった。
「何か悩んでるんだよね。よかったら話してよ。きっと楽になるから」
「えぇ? な、なんでそんな……」
「演奏、聴いてもらったお礼かな」
「……っ」
そう言って彼が浮かべた笑みはとても眩しく、無条件で私に安心感を抱かせてくれた。他意を感じさせない温かい言葉に救われるような思いがして、そして──
「スクールアイドルって、知ってる?」
「スクールアイドル……う~ん……なんだったかなぁ……確かキバットがそんな感じのこと言ってたような……」
「学生で結成されたアイドルって思ってくれていいわ。それで私は──」
その子どものように純真な彼の瞳を信じて、私はあっさりと彼に自分の抱く悩みを打ち明けた。μ'sの誰にも打ち明けられなかった問題。むしろ彼女たちにこそ聞かせられなかった悩み。それを会ったばかりの人間に打ち明けようというのだ。いつもの自分なら軽率だと言って斬り捨てた考えだ。
しかし今なら信頼がある。
彼が私の悩みを聞くに値する理由が。
それは彼の奏でる音楽。
嘘も穢れもない、乙女のごとく美しいメロディ。
私の心を温めてくれた優しいメロディ。
……それだけで十分だった。
「──だから、どうしたらいいか分からなくて……」
近くのベンチに移動して、全てを話す私を、彼は無言で聞き続けてくれた。私がスクールアイドルをしていること。もうすぐ大きな大会の本戦が始まること。都内予選に向けてみんなで新しい歌を作ったこと。そして、私が曲を作れなくなってしまい一人で苦しんでいること。その全てを彼にさらけ出し、彼もまた静かに聞き届けてくれた。
そして彼の言った通り、話しているうちに幾分か気分の軽くなった私は、まだ僅かに思い胸を押さえて笑顔を作りだす。彼が私の悩みを解決してくれるかもだなんて考えていない。わざわざこんな自分の情けない苦悩を聞いてもらっていたのだ。これ以上望むのは贅沢すぎるというものだ。
「……ありがとう、話していたらなんだか少し気が楽になったわ」
「そう……」
「ねぇ、それよりさっき、どうして私が悩んでいるってわかったのよ?」
話すだけ話して会話を切り上げた私に対する彼の顔は、やはり納得のいかないといった色が滲んでいた。しかしその先を言わせる前に、私は先ほど気になった彼の観察眼について尋ねることにした。論点をすり替えているようで少し気が進まないけど、これ以上彼に迷惑をかけるわけにもいかないと思っていたから……。
「さっき言った通りだよ。君の音楽が悲しんでいたから」
「それよ。私の音楽って一体何のことなのよ?」
そうなれば自分の悩みなんて頭の隅に追いやられ、もう一つの興味へと意識が集中する。私も、きっと彼も。
すると彼はおもむろに頭を下げ、自身の手に持つバイオリンを優しい目で見つめほほ笑んだ。何かを慈しむかのような、誰か尊い人を思い出しているかのような美しい笑み。そんな彼の表情に思わず見惚れていた自分に向けて、彼はその答えを教えてくれた。
「人間はみんな、心の中で音楽を奏でているんだ」
その言葉は頭では理解できず、しかし私の心と拒否反応を起こすこともなく、ふわふわと私の胸の周りを飛んでいるようであった。
「心の中で?」
「うん、僕には聞こえたんだ。君の心の奏でる音楽が泣いているのに」
「私の心の……音楽……」
そのふわついている言葉が、一瞬だけ心に触れた。ちょうど問題になっていた新曲の『心のメロディ』という歌詞が啓発されたからだろうか。彼の話をもっと聞きたいと思ってしまうのもそのせいかもしれない。
それにしても本当に不思議なことを言う人だ。人の心が音楽を奏でているなんて……いや、もしかするとこの人には本当に聞こえているのかもしれない……私の心のメロディが。人の心は本当に音楽を奏でているのかもしれない。そして彼だけがそれを聞くことができるのだろう。
「変な人ね、アナタ」
「よく言われてたよ。でも、心の音楽は君にだって聞こえるはすだよ」
「え?」
しかし彼の言葉は私の考えをすぐに裏切ってくれた。
「本当はみんなにも聞こえるはずなんだ。心の音楽は。でも聞こえないのは、それを意識していないから」
「……意識したら、私にも聞こえるって言うの?」
「そんなに難しいことじゃないよ。それにみんなで作った歌詞なら、その子たちを見ていれば心の音楽も聞こえてくるはずだよ」
「っ?」
不意に話題が先の問題に戻ったことで短く息を飲んでしまう。自分では話題を逸らしたつもりだったが、彼の中ではまだ地続きの話だったようだ。しかし突然訪れた希望の光に、私はつい食らいついてしまう。
「曲を作るのに歌詞じゃなくてみんなを見ろって言うの?」
「歌詞を見ていても何も聞こえてこないよ。それを作った自分の心、それにみんなの心を見るんだ。そうすれば自然と聞こえてくるはずだから」
「簡単そうに言ってくれるわね……」
人の心の音楽を聞いたこともない私によくもいきなりそんな難易度の高い要求をしてくるものだと思う。しかし、今まで歌詞を見ていても何も浮かんでこなかったのも事実。やはり彼の言う通り、みんなの心の音楽というものを聞かなければいけないのだろうか。彼は私の文句なんてまるで聞こえていないかのように笑顔で教えてくれた。
「今までいろんな曲を作ってきたならきっとできるよ。でも今回は曲を『作る』んじゃなくて『聴く』だからね」
「『作る』んじゃなくて……『聴く』……」
しかし最後の彼の言葉が私の胸にストンと落ちた。上手くいく確証なんてどこにもないというのに、それをするべきだ、してみたいという気持ちが私の胸で騒いでいた。今までやってきたことのないことだからだろうか。いや、私は既に……。
「みんなどんな気持ちでその歌詞を作ったのか。その時、確かに感じるものがあったはずだよね。それが──」
「……心のメロディ」
そうだ。私には既に聞こえていたはずだった。あの雪の降る夜、みんなで気持ちを一つにした瞬間に。
──♬~♪~
可愛らしい鈴の音。
雪のように綺麗なストリングス。
切なさを押しとどめた旋律。
「(あれが……っ)」
あの時あの場所で聞こえたものは幻聴じゃなかった。あれこそが彼の言っていた心の音楽だったんだ。
──もっと聴きたい。みんなの音楽がもっと……っ。
それを知ってしまった私は、早くみんなの心の音の続きを聞きたくなって仕方がなかった。あの曲の続きが彼女たちから聞こえるような気がしたから……!
「(みんなの……心の音楽……)」
「憑き物が落ちたみたいだね。君の音楽も軽くなった」
「っ、アナタ一体何者なのよ。私と歳そんなに変わらないのに……」
心の中の雲が晴れ、ようやく心が落ち着けることのできた私に、彼の優しい言葉が降り注ぐ。しかしあまりにも達観しすぎたその姿勢が異様に感じられて、またしても礼よりも先に探りの言葉が出てしまう。心の中で自分に悪態をついてしまうのも心の音楽に流れてしまうのだろうか。そんなことを考えていた時、彼の口から予想だにしない言葉が返ってきた。
「僕、二十六なんだけど……」
「え゙っ!?」
自分と同じ歳どころか、彼は私よりも十歳も年上の人だった。その童顔や華奢な体つきからは想像もできないほど、彼は人生を歩んでいたようだ。と彼の顔をまじまじ見つめるが、どう見ても成人している風には見えなかった。
「幼い顔付きなのは一応自覚してるんだけどね、あはは……ちょっとがっかりさせちゃったかな?」
「あ、違っ、別にそんなこと──」
自分が年上だったことで私の期待を裏切ったのかと勘違いした彼に私が弁明しようとした時だった。
──♬~♪~
「っ」
「えっ?」
突如、彼の持つバイオリンが独りでに鳴り始めた。先ほどまでの心安らぐような音色ではなく、人の不安を煽るような警報音のような音が辺り一面に響き渡る。私は幻聴かあるいは他の誰かが弾いているのかと思い、辺りを一瞥したがそれらしきものはどこにも見当たらず、やはりその音色の音源は彼の持つバイオリンであると認めざるをえなかった。非科学的で、そして恐怖心すら煽るその現象に不安になりながら、そのバイオリンの持ち主である男性の顔を見上げる。すると彼の顔は今まで私と話していた時の優しいものとは一転、きりっと見開いた目でバイオリンを見つめていた。それは幼く女々しくも思えた先の彼と同一人物とはまるで思えないほどの、凛々しい男の人の顔だった。そんな男らしい彼の表情と、ギャップにまた胸が高鳴るのを感じてしまった。
「ごめん。僕もう行かなきゃ」
「えっ、ちょっと!?」
そう言って彼は小走りでその場から駆け出してしまい、私も反射的に後を追ってしまう。そして彼の走る方角を見てその目的が分かった。近くに止めてある、誰のものかと思っていた巨大な真っ赤なバイクへと向かっていたのだ。
「(えっ、まさかこれに乗るの……)」
その予想通り、彼はそのバイクに跨り、ヘルメットを被ろうとしていた。しかし、細い彼の見た目にそぐわないバイクだと言わざるをえない。よく街中で見かける前傾姿勢で乗るタイプとは違いシートが低く、代わりにハンドルが高くなっており、そのハンドルも運転手に向かって曲がっている。それに両足を置くステップもシートより先方に設置されており、これでは乗る時に大分シートに座り込むことになる。
とはいえ日本でも偶に見かけるし、洋画でならよく見るタイプのバイクだ。こういうのをアメリカンバイクっていうのかしら。それともクルーザー? よくわからないが、それでも先ほどのバイオリンを弾いていた青年からは想像も出来ない機体であることには間違いない。デザインが派手なら色彩も派手だ。真っ赤っかだし……。
「(って、そうじゃなくて……っ)ねぇっ、ちょっと待って!」
バイクの衝撃で思考がそっちに飛んでいってしまったが、私は彼に伝えなければいけないことがあるのを思い出す。私の声に彼は被ったヘルメットのシールドを上げて、今しがた見た真剣な目ではなく、さっきまでの優しい目を向けてくれた。
「どうしたの?」
「あ、あのっ、演奏……すごく、よかったわ……」
──ようやく言えたっ。
彼の演奏を聴いて心が軽くなり、少し救われた。そんな彼の演奏を称賛したいと、この気持ちを伝えたいという願いが、このタイミングでようやく成就した。バイクのエンジン音が邪魔をしてしまうのではないかと不安だったが、どうにか伝わったようだ。その安堵からか息を漏らして頬が緩んでしまう。
「……ふふっ、ありがとう」
「っ……わ、私は
今更になってようやく自己紹介というのも可笑しな話だろう。しかしその話題が出てこないほど、自分は参っていたのか、それとも彼の話に夢中になっていたのかもしれない。そして彼が名乗らなかったのも、恐らく私が名乗らなかったから。自分が名乗れば普通は相手も名乗らなければいけないというもの。私が余計な事を喋りたくないと思って気遣ってくれたのだろう。
時間がかかってしまったけど、私はようやく彼の名を知ることができた。
「
「紅……渡……」
彼が語った名を、私は自分の胸の中に沈めるかのようにゆっくりと呟く。その名を忘れないように、大事に胸にしまい込みながら……。
「渡でいいよ。それじゃあね、真姫ちゃん」
「あっ──」
「また会えるよ。きっと」
ただそれだけ言って、彼──渡はヘルメットのシールドを下げてバイクに跨り走り去っていってしまった。物惜しさを感じる間もなく、私の目に映るのは、遠くなっていく彼の背中だけだった。
「……あら?」
しかしその背中に、私は奇妙なものを幻視した。
煌びやかに輝く黄金の鎧。疾風になびく真紅のマント。
その荘厳さは王子さまというより、まるで皇帝のようだった。
皆に愛される柔和な王子さまではなく、全てに対し圧倒的な威厳を見せつける、気高き皇帝。
そんな力強い面影が、彼の背中に映ったような気がした。
「っ、あれ?」
しかし一度瞬きをした後に見えたのは、別れたばかりの彼の背中だった。先ほど見えた黄金の影はどこにも見えない。私の目に映るのは、依然小さくなっていく王子さまのままだった。
「今のは……」
幻覚でも見たのだろうかと一瞬考え込むも、すぐに意識を彼に戻した。そんなことで、彼が視界から消えていくのを見逃したくなかったから。そしてバイクに跨り遠ざかっていく彼の背中がビルの影に消えていくまで、私は最後まで見届けていた。
あとに残ったのは、バイクの吹かした熱と、その独特の匂いと、そして、彼の音……。
彼の心が奏でていた、優しい音……。
「ありがとう……渡」
──♬~♪~
私の心から、温かい音が鳴った。
甘く、切なく、高鳴る音色。
その音の正体はきっと……。