あれ? 私なんで戦ってるんだっけ?
※鬼滅の刃キャラは登場いたしません。世界観をお借りしたという形となっており、「マリア様がみてる」を知っている方向けです。
ーーー1ーーー
墨をひっくり返したかのように黒く塗りつぶされた闇の中を2人の少女が駆け抜ける。走って、走って、時には地を蹴りふわりと宙に舞うと木から木へと飛び移っていく。そして木々の切れ間が訪れれば再び地面を疾駆した。
2人の後ろから迫るのは異形の群れ。『鬼』と呼ばれる者たちがその身体を揺すり、少女たちを追う。あるものは複数の足を…、複数と言っても2、3本では収まらない数十本にも及ぶそれを器用に動かして。またあるものは身体をぼこぼこと覆う吸盤によって地面を滑るように移動している。怖ろしいのはいずれも音が感じられぬということ。足音や木を蹴る音のする人の身と違い、彼らは音もなく前進するのだ。
哀しきことに2つの影との距離は時を追うごとにみるみる縮まっていき、追いつかれた際の少女たちを待つ運命は想像に難くない。
「祐巳さん、そろそろ」
「了解っ!」
とまぁカッコいいのはここまで。声を掛けた側であるはずの由乃さんは目測を誤ったのか木の枝を踏み外し、祐巳の見てる前で「へっ?」と声を漏らすと頭から綺麗に地面へと落下していった。どうやら後頭部を打ち付けたらしくフギャッともウギャッとも聞こえる不思議な悲鳴が響き渡る。その直前に聞こえたゴチーンという音がその衝撃を物語っていたが、どちらかと言えば恥ずかしさの方が大きく、同僚だと思われたくないなって一瞬思ってしまった。
しまらないなぁ由乃さん。バランスを崩した瞬間がやけにスローモーションに見えること。皆さんも花瓶を落としてしまった時なんかに経験があるのではないだろうか? そう、あんな感じ。おかげで少々間の抜けた顔もバッチリと見えちゃったんだけど由乃さんには内緒にしておこう。
「いたたたた」
「大丈夫、由乃さん?」
鬼殺隊の隊士ともあろうものがこれくらいでどうにかなるわけないんだけど、念のため祐巳も地面へと降りると駆け寄って声を掛けた。
戸惑ったのはむしろ鬼たちの方だったみたいで、何か作戦があるのかと身構えるように足を止める。と言うと聞こえがいいけど、傍から見るとなんだか見てはいけないものを見てしまって、ばつが悪くて止まってあげた、という風に見えないこともない。あちらさんだってそりゃあ自分たちを討伐しに来たはずの連中が足を滑らせて木から転落するとは思ってもみなかっただろう。
「ふっ、ふふふふふ。引っ掛かったわね、この間抜けどもめ。全ては由乃ちゃんの手の平の上よっ!」
さも計画通りと言わんばかりに虚勢を張る由乃さん。まさかとは思うけど、引っ掛かった数の中に私も含まれているんだろうか? そういうとこ強気だからなぁ。含まれてる気がする。
「私たちの役目はあんたたちを引き付けるための囮役。足を止めた時点で私たちの勝利は決まったも同然というわけ。
━━━ってことで、令ちゃんッ!!」
「まったく…何をしてるんだ由乃は。雷の呼吸 壱ノ型 霹靂一閃」
由乃さんのピンチに颯爽と駆けつけた『黄柱』こと令さま。居合の構えから繰り出された一閃が瞬く間に鬼たちの首を落としていく。それに少し遅れて登場なさったのは…。
「なにをしているの、祐巳? しっかりなさい」
凛々しくてお美しい私のお姉さま。『紅柱』こと小笠原祥子さまである。その惚れ惚れするようなお姿に、祐巳の口からは「お姉さま…」と甘い言葉が零れた。
「炎の呼吸 伍ノ型 炎虎」
文字通り刀から生み出された炎の虎が鬼たちへと襲い掛かると次々に噛み砕き、その通った後には何一つ残りはしない。それでもなお油断することなく構えたまま、パチパチと見える火の粉に照らされたお姉さまと言ったらもう。何度見たって溜息が出ちゃう。
「行くわよ由乃さん」
「そうね。ボーッと突っ立てるわけにはいかないものね」
出遅れた私たちも戦線に加わるべく鞘から刀を抜き放つ。そして鬼たちに向かって鋭い斬撃をお見舞いする………はずだったんだけど。
「てぇーーーりゃーーーーー」
おいおい由乃さん。なんだいその隙だらけの構えは。大きく上段に振りかぶったまま真正面から突撃だなんて、大好きな池〇正太郎先生が見たら泣くぞ。冗談のつもりかい?
頑張ろうという気持ちが大き過ぎて、覚えた剣技をどこかに置き忘れてしまったらしい。そのまま馬鹿正直に突っ込んだ由乃さんは鬼の反撃を貰い、ペシッとぞんざいに弾き飛ばされると、再び不思議な悲鳴を上げながら木にベチッと叩きつけられた。
ほら、言わんこっちゃない。呼吸を使って受け身は取ったみたいだけど動きが鈍い。このままだとやられちゃう。
「世話が焼けるんだから。炎の呼吸 壱ノ型 不知火」
由乃さんに肉薄した鬼との距離を詰め一気に袈裟斬りをプレゼントすると鬼の片腕が宙を舞った。よし、ちゃんと通用する。戦えるぞ。と思ったのも束の間、反対の腕で弾き飛ばされた祐巳は、仲良く由乃さんの隣へと着地するはめになった。
「お早いお帰りね、祐巳さん」
「由乃さんの方こそまだいらっしゃったなんて。随分ゆっくりとなさってるのね」
と緊迫した状況にもかかわらず互いに皮肉を言い合っている辺り、同レベルなのかもしれない。
「って祐巳さんっ! 前! 前っ!!」
「えっ? ええええ? えっと炎の呼吸 弐ノか━━━」
「━━━霞の呼吸 弐ノ型 八重霞」
咄嗟に迎撃のために出そうとした祐巳の技よりも早く、上空から現れた幾重もの斬撃が鬼を切り裂いた。その技の切れ味に最初は志摩子さんが助けてくれたのかな、と思ったほど。見事な鮮やかさである。
「遅れてすみません」
「ううん、ありがとう乃梨子ちゃん」
後輩でありながら頼もしいというかなんというか。うかうかしてたらあっという間に追い抜かれちゃいそう。由乃さんもそう感じたのか頬をパチンッと叩いて気合を入れると、今度はしっかりと居合の構えを取った。忘れていた剣技を思い出したようで私も一安心だ。
視線の先では『白柱』である志摩子さんが、お得意の舞いを踊るような艶やかな動きで鬼たちを次々と屠っている。同い年の志摩子さんがあれだけ出来るんだから私たちにだって、と祐巳も戦意を奮い立たせた。
「祐巳さん。とりあえずあの弱っちそうな奴から狙うわよ」
コソコソッと話しかけてきた由乃さんが指差したのは、いかにも雑魚キャラですといった風体の小さな鬼だった。
えぇっ!? まさかとは思うけどあれに2人掛かりで攻撃するの?
「何よ祐巳さん。不満があるの? まずは1体1体確実に行くべきよ。これ以上の失態を晒すわけにはいかないでしょ。乃梨子ちゃんの手前もあるし…」
あらら、顔に出てましたか。言葉に出さなくても伝わるから戦場では意外と便利だったりするんだよな、この百面相。それにしたって思った事を100%読み取ってくださるとは。さすがは由乃さん。慣れていらっしゃる。
「行こう由乃さん!」
「よっしゃあっ!」
横に並んで構えたりしてると漫画のワンシーンみたいでちょっと興奮する。互いに目で合図かなんかして一斉に飛び掛かったりしたらまさにそんな感じだ。
「では私が引き付けますのでお二人は首を狙ってください」
「乃梨子ちゃん………もしかしてさっきの聞こえてた?」
「結構声大きかったですから。あの距離なら誰だって聞こえてたと思いますけど」
「そ、そう…」
気合十分で今にも踏み込もうとした瞬間、横から声を掛けてきた乃梨子ちゃんにそう提案された。
これは非常にまずい。なにがまずいかっていうと後輩に手柄をお膳立てして貰うという、情けなさ満点の構図だ。いくらしっかり者とはいえ流石にちょっと…。
「き、気を遣う必要ないわよ。ねっ? 祐巳さん」
「そ…そうだよ乃梨子ちゃん」
「いえ、鬼が倒せればそれでいいので。お仕事ですし」
ガーン! 乃梨子ちゃんのあまりのクールっぷりに頭を金槌で殴られたみたいなショックを受ける。それは由乃さんも同じだったみたいで金魚のごとく口をパクパクさせていた。二人して顔を見合わせ、どこからともなく訪れる気まずさに一旦顔を背け合い、その間を季節外れの冷たい風がヒューッと音を立てて吹き抜けていった。
さっきの燃える展開はどこへやら。テンションの下がり切った由乃さんの「じゃあ行きましょうか…」というお通夜みたいな掛け声と共に祐巳たち3人は鬼へと刃を向けるのだった。
「一匹残らず倒せたみたいね」
「まさか鬼がこんな大きな群れを作っていたとはね」
流石と言うべきかなんというか。この程度の鬼相手では息一つ乱していない祥子さまに令さま。刀を鞘に納めた後も周囲への警戒を怠る様子はない。同じく柱である志摩子さんも涼しい顔をしているもので、「これから皆さんでお散歩ですか?」なんて声を掛けたくなってしまうほどだ。最後にどうにかこうにか人並みの働きは出来たけれど、まだまだ修行不足かなぁ。
「で………、大丈夫なの? 由乃さん」
「平気に…決まってるじゃない。これくらい…へっちゃら…なんだから」
誰がどう見てもへばってますといった感じなんだけど。ハァッハァッと荒い呼吸に掠れた声。おまけに大切な刀を杖代わりに地面に突き刺しちゃって…。怒られても知らないよ? とは言ってもプルプルと震える足腰を見てたら怒る気もしないか。生まれたての小鹿といい勝負だ。
「由乃さんがだいぶお疲れのようですし、早めに藤の家へ向かいましょうか。乃梨子、場所は分かるかしら」
「ここへ来る前に挨拶をしておきましたから大丈夫です」
「そう。乃梨子は本当に気が利くのね」
白柱さん家は相変わらず独特の雰囲気だ。お姉さまと妹というよりかは対等な同士のような関係に見える。そうやってそれとなく志摩子さんたちを観察していたら、横にいた由乃さんが突然「はいっ! はいはいっ!」と元気よく手を挙げた。小学生みたいに何度も勢いよく挙手する姿に疲れてたんじゃなかったのか?という疑問が浮かんだけれど、由乃さんに対して大変、それはもう大変お優しい令さまは、これまた甘い声でお尋ねになる。
「どうしたの由乃?」
「今日は私、祐巳さんと一緒の部屋がいい」
「ええっ? 令さまとじゃなくていいの?」
「いいの。今日はそういう気分なの」
「なら私は祥子と同じ部屋にするよ。祥子はそれでいい?」
「ええ。構わなくってよ」
やったぁと無邪気に喜ぶ由乃さんを見て嬉しそうな顔をする令さま。黄柱さんのとこもお変わりないようでなにより。だけどあんまり甘やかすと由乃さんが後々苦労するんじゃなかろうか。
肩を指でトントンと叩いた由乃さんが、悪戯っぽく「枕投げしようね」と笑顔で囁いた。ニシシっと笑った顔は底抜けに明るくて何でも許せてしまいそうになる。「そんな子供っぽいことしないわよ」って言えたら良かったんだけど、試しに想像してみたら楽しそうでやりたい気持ちがムクムクと首をもたげてきた。
「仕方ないなぁ。少しだけだよ?」
少しだけ。お姉さまに怒られないようにほんとに少しだけなんだから。
ーーー2ーーー
深夜だというのに戦いを終えた一向を温かく出迎えてくれたのは藤の家のご主人と奥様。さらになんとその息子さんまでもが眠い目を擦りながらお行儀よく挨拶の列に参加していた。話を聞いてみると、この家が藤の花の家紋を付け始めたのは最近の事らしく、なんでもやたらとカッコをつけた気障(きざ)な男隊士によって息子さんの命を救われたそうだ。「きっと優(すぐる)さんのことね」と耳元で囁いたお姉さまの予想は、たぶんみんなが思い浮かべただろうし、実際のところ当たっていると思う。
案内された広間に座って待っていると、目の前に次々とお膳が並べられていった。葉物を胡麻で和えたものだとか芋を似たものなど。豪華な食材を使っているわけではないが、どれも手間暇が掛けられていることが分かるお料理の数々だ。百合根とか銀杏とかが好きな志摩子さんにはたまらないだろうなって横顔を覗き込むと、案の定目を輝かせて喜んでいた。
「大したものではありませんが」
「そんなことありません。私の好物ばかりで目移りしてしまいます」
「そう言っていただけると用意した甲斐があります。それでは私どもはこれで」
「お心遣い感謝致します」
ご夫婦が出て行った後は、祥子さまの合図でいただきます、の合唱を行い遅い夕ご飯をいただくことに。
「あ、乃梨子ちゃん。ご飯なら私が…」
「そうですか? なら私はお茶を淹れますね」
誰かに言われるでもなくスススッと動いて茶碗にご飯をよそろうとした乃梨子ちゃん。気が利くなぁ~。志摩子さんの教育がいいんだろうか? 油断してると先輩としての立場が危うくなっちゃいそう。それに比べて由乃さんときたらふんぞり返って待ってるんだから。危機感持った方がいいぞ由乃さん。
鬼殺隊の隊士だなんて厳つい名称がついていても普段は年相応の女の子たち。動けばお腹が空くのは当たり前のことで、いざ食べ始めるとみな夢中で食べ始め、やれこの御惣菜は味付けがいいだの言いながら和気あいあいと口に運んでいく。
「そういえば令は由乃さんを継子にするか決めたの?」
食事の最中、ふと思い出したように祥子さまが口にした。由乃さんは当然気になるらしく耳をダンボのようにして聞いてるけど、これって食べながら話すことじゃないような…。
「よしてよ祥子。さっきの見たでしょ? とてもじゃないけど由乃には無理だよ。他の隊士たちにも示しがつかないし」
「うぐっ…」
令さまの評価に言い返したいのはやまやまらしいが、今夜は自分でも失態だったと思ったらしく由乃さんは黙ってご飯を飲み込んだ。せめて今日じゃなければ、盛大に反論出来ただろうに。
「祥子はどうなの? 祐巳ちゃんを継子にするの?」
えぇ!? 私の話もするの? 聞きたくない。けど…聞きたい。由乃さんに負けず劣らず耳をダンボにした祐巳は箸を止めてお言葉を待った。
「そうねぇ。頑張っているし、もう少ししたら正式に決めても良いと私は思っているわ」
「本当ですかお姉さま? やったぁ!」
「ちゃんと鍛錬を続けたら…の話よ。妹であってもそこは厳しくするから覚悟しておきなさい祐巳」
えへへ。私が継子かぁ。やっぱり正式に認められるのって嬉しいな。って喜んでいたらいつもの癖でまたまた百面相が出てしまっていたみたい。「顔に出てるわよ祐巳さん」と、面白くないのかむすっとした由乃さんにたしなめられてしまった。自分だって令さまに同じこと言われたらはしゃぎまくるのが目に見えてるのに。
「志摩子は乃梨子ちゃんが優秀で良かったわね。今日だってとても良い動きをしていたわ」
「ありがとうございます。でも頼り過ぎてしまわないように気を付けるのが大変で」
祥子さまの問いにそう答えた志摩子さんは、チラリと乃梨子ちゃんを見た後、照れ隠しするみたいにお膳の方へと目を伏せた。きっと乃梨子ちゃんのことを褒められて嬉しかったに違いない。柱の方々に対しても堂々と意見する乃梨子ちゃんは、時には火種になることもあるが、志摩子さんはそんな乃梨子ちゃんの個性を大切にしているのだ。
「それじゃあ片付けてそれぞれの部屋に引き上げましょうか」
最初と同様に祥子さまの合図で賑やかな食事も解散となり、私は由乃さんと共に1階の端にある部屋へと向かった。そっと襖を開けると既に布団が2組、仲良さげにくっつけて敷いてある。食事をしている間にご夫婦が用意していってくれたようだ。
「由乃さん、どっちがいい?」
「どっちでもいいわ。
ありゃりゃ。さっきのことを根に持ってるのかな。といっても由乃さんの場合は、継子になりたいんじゃなくて、令さまに認められたいってのが大きいんだろうけどって考えて、それは私や乃梨子ちゃんも一緒か、って思い直した。
機嫌直してよ、と祐巳が呼びかけると、由乃さんはクスクスと笑いながら振り返る。なにやら嬉しそうだ。
「別にいいのよ。私は継子になれなくたって令ちゃんの傍にいられればそれで充分。それより私の方こそさっきはごめんね。素直におめでとうって言えなくて」
「由乃さん…」
「おめでとう祐巳さん。祐巳さんなら立派に務められるわ」
むすっとしてたと思ったら急にこんなこと言い出すんだもん。由乃さんには敵わないなぁ。ちょっと泣きそうになっちゃった。
「あ、もしかして今、結構感動しちゃってたりして? 由乃ちゃんマジックにかかったみたいね祐巳さん」
「うんっ…。泣きそうだった」
「そこは元気に言い返してくれないと、むしろこっちだって泣きそうに━━━フギャッ」
しんみりとした雰囲気になって俯いた由乃さんに向かってこっそりと手に取った枕を投げつけた。本当は顔じゃなくて胸の辺りを狙ったんだけど。軽くだったし、いいよね?
「や~い。引っ掛かった~」
枕投げをしようとこっそり耳打ちしてきたのは由乃さんなのだ。だからこれは由乃さんの希望通りというわけで…。不意打ちではあるけれど、これはまぁ優しい照れ隠しみたいなものなので、きっと許してくれるだろう、なんて考えていたら予想以上の剛速球、いやこの場合は剛速枕?が顔の横を通過していった。
「ちょ、ちょっと由乃さん? 今の本気で投げたでしょ?」
「ふっふっふ。不意打ちとは卑怯千万。この由乃が成敗してくれるわ~」
そっちがその気ならこっちだって! 負けじと枕を投げ返して応戦する。そのうち枕だけでは飽き足らず、置いてあった座布団だのを引っ張り出して枕投げ合戦が始まってしまった。由乃さんは投げるのは速いけど狙いが甘く、私のばかりが命中してちょっと申し訳ない。とはいっても当たってあげるにはちょっと…、という速度で飛んでくるのでつい身を躱してしまう。
「そんな攻撃当たりませんよ~だ」
ーーー3ーーー
「祐巳さんっ! 後ろ!」
枕投げの最中に由乃さんが突然手を止めたと思ったら、急に私の後ろを指差して盛んに叫び始めた。はは~ん。注意を逸らして隙を突こうというわけね。おあいにくさま。その手には乗りませんよっと枕を投げても、それでもなお由乃さんは反撃してこない。おや?っと思って流石にこちらも手を止めると…。
「祐巳さん。落ち着いて聞いて頂戴。祥子さまがね、さっきから鬼のような、と言っても私たちが狩る『鬼』のことじゃないんだけど、あ、でもだいたい一緒だからいいのか。とにかく鬼のような形相で祐巳さんのことを見てるのよ」
「は、はは。まさか…」
そうは言いつつも内心ビビッているのは事実だ。本当のことを言うと今すぐにでも後ろを振り返りたくて仕方がなかったりする。だって枕投げの音が騒がしくてお叱りに来た、ってパターンは充分に想像できるんだもの。それに『紅柱』である祥子さまなら私たちに一切気付かれずに後ろに回り込むなんて朝飯前に違いない。
「信じたくないのは分かるけど本当よ。私も一緒に謝ってあげるから早く謝りましょう?」
由乃さんの迫真のセリフに私もなんだか本当の事のような気がしてきてしまう。ううん、ここで振り向いたら私の負けだ。騙されないわよ由乃さん。でも、一応…ちょっとだけ…どんな様子か尋ねるくらいは…してもいいよね? いや、もちろん信じてるわけじゃないけど。
「祥子さま、どんな感じ?」
「見たことないけど、上弦の鬼ってきっとこんな感じなんだろうなって…」
「へ、へぇ~」
下弦を通り越していきなり上弦ですか。それは御大層なことで。まぁ下弦の鬼さえ見たことないんだけどね。
「いいの祐巳さん? 謝るなら今のうちよ」
あぁ~もう。私の負け。そんでもって由乃さんの勝ち。根負けした私はとうとうプレッシャーに圧し負けて後ろを振り返ってしまった。
「お姉さま。なんの御用で━━━ってやっぱりいないっ!!」
「卑劣な祐巳殿、この島津由乃が打ち取ったりーーーー! 覚悟ぉーーーー!」
由乃さんの投げた枕は向き直った私の顔面にものの見事に命中。ボフッという音と共にそれなりの衝撃が伝わってくる。ううう、不覚。
「この、やったなぁーーーー! ………………。あれ?」
おかしい。由乃さんがいない。というかここって。
枕を振りかぶった体勢で固まったままの祐巳がいたのは『藤の家』の一室ではなく、他ならぬ自身の部屋であった。布団も、壁も、見慣れた天井も間違いなく自分の知っているものである。
「うそ…。まさかこれって」
ゆ、夢? 今までのが全部? あんなにリアルだったのに。あ、でも思い当たる節はある。昨日弟である祐麒から借りた漫画。あの漫画の内容にそっくりな夢だった。
「な~んだ。夢かぁ…」
我ながらなんて単純なんだろう。読んですぐその夢を見るなんて。だけど楽しかったなぁ。過酷な世界ではあったけどお姉さまやみんながいて大変ではあったけど楽しかった。なんだか御伽噺の世界に迷い込んだみたいではしゃぎにはしゃいでいた気がする。
あ~あ、もう一度夢が見れたらな~。なんて思ってベッドに寝転がってみても、見ることは出来ないんだけど。それはそうと今何時だろう?たしか今日は朝から薔薇の館で打ち合わせがあったはずだ。
「ええ~~~~~?」
時計を見た祐巳は素っ頓狂な声を上げると、慌てて着替えを始めた。時計の示した時刻はもうすぐ打ち合わせが始まろうか、という時刻で、今からだとどれだけ急いだって間に合いそうにない。なんで? どうして? ちゃんと目覚まし掛けたはずなのに。
制服に袖を通し、髪を結んで階段を駆け下りると、弟の祐麒はとっくの昔に家を出た様子だった。声くらい掛けてくれればいいのに。まぁ今更言っても仕方ないか。今はとにかく急がないと。「朝ご飯は~?」と心配してくれた母親に大声で「大丈夫~」と返しながら家を飛び出すと、爽やかな朝の空気があたり一面に広がっていた。
マリア様のお庭に集う乙女たちが、今日も天使のような無垢な笑顔で、背の高い門をくぐり抜けて━━━なんてやっている暇もなく、祐巳は白いセーラーカラーを翻さないギリギリの速度で薔薇の館へと急ぎ足で向かう。
どうしよう? どう考えても大遅刻だ。お姉さまはさぞやイライラしてるに違いない。だけどふと、もしかしたら自分が怪我してないか心配してくれていたりして?って思ったら祐巳の頬はつい緩んで、笑顔なんか浮かべちゃったりする。能天気だなぁ。
泥棒にでもなった気分でそぉ~と階段を上がっていき、お馴染みのビスケット扉の前に立って様子を窺うものの、特にこれといった話し声は聞こえない。不思議に思って首を傾げながら扉を開けた祐巳の目に飛び込んできたのは、見るからに苛立ったオーラを漂わせた祥子さまのお姿だった。そのあまりの迫力は思わず入ってきた扉から出て行きたくなるほどで、祐巳の姿を捉えるや否やピリピリとした視線が飛んでくる。
「祐巳。これは一体どういうことなの? ちゃんと説明して頂戴」
「そ、それが…その…これには浅い事情がありまして…」
「だから、それを答えなさいと言っているの。理由があるのなら責めたりはしないわ」
当然のごとく開始された麗しの祥子さまによる裁判。被告はもちろん私で、傍聴席には黄薔薇と白薔薇姉妹が勢ぞろいだ。
「どうしたの祐巳? はっきりとおっしゃい。私は情けないわ。昨日あれほど気を付けるようにと念を押したのに」
「うう…面目次第もありません」
「まったく。ようやくつぼみ(ブゥトン)としての自覚が出来てきたと思ったら━━━。
あなたがしっかりしてくれないと、姉である私(わたくし)の立場が━━━。
先代の薔薇様方が見たらなんて仰るか。祐巳にはそれはもう期待して━━━」
な、長いですお姉さま。ネチネチとした祥子さまのお説教が延々と続き、さしもの祐巳も意識が他へと移ってしまいそうになる。頭ではちゃんと聞いていなくては、と思っていても、ついつい楽しかった夢の方へと吸い寄せられてしまうのだ。
いっそのこと、素直に言ってしまおうか? 鬼退治する夢を見ていて爆睡していましたって。案外あまりの可笑しさにお姉さまだって笑ってお許しになるかもしれない。なんてのは楽観的すぎるかな。
結果論になるけど夢の事を考えていたのは大失敗も大失敗だった。だって私ってばどんな風に話そうかと策を練るのに忙してくて、お姉さまのお言葉を全く聞いていなかったんだから。
その証拠に祐巳は祥子さまが一旦お説教をやめ、少し咳ばらいをしてから緊張した面持ちで、とは言いつつもどこか誇らしげな顔つきで「祐巳は私のことをどう思っていて?」と尋ねた事にさえも気付かなかったのだ。
「えっと…。あれがああなって…」
「何をぶつぶつ言っているの祐巳? 私の話を聞いていて?」
「えっ!? は、はいっ!
本当は夢の中で鬼を退治していました、と答えるはずが、思い返すのに必死で慌てて答えたせいか『鬼』という単語だけが祐巳の口から発せられた。満面の笑顔と、小さなガッツポーズと共に。
この回答にはさすがの一同も絶句し言葉を失ってしまい、普段はクールにツッコミを入れそうな乃梨子ちゃんでさえもあっけに取られて反応出来ないでいて、唯一由乃さんだけが、ちょっと遅れて、祐巳さんてばやる~って顔をしていた。
「ゆ、祐巳。悪いのだけれどもう一度言ってもらえるかしら? よく聞き取れなかったみたいなの」
お美しい顔を僅かに引き攣らせた祥子さまに向かって祐巳がもう一度『鬼』という単語を口にすると、内心では「素敵なお姉さまです」とか「一番大切な方です」なんて言葉を期待していた祥子さまは、頭に手を当て貧血の時みたくその場でよろめいた。
「だ、大丈夫かい祥子。ほら、掴まって」
「ありがとう令。ちょっと眩暈が…」
すかさず駆け寄った令さまに支えられ、椅子に座ったお姉さまを見て祐巳はようやく事態を飲み込み始めた。
「あ、あれ? 私…もしかして…なにかまずいことを…」
「な~に言ってんのよ祐巳さん。あんなにはっきり威勢よくバッチリ答えておいて」
近寄ってきた由乃さんに、「このこの~。意外と大胆なんだから~」なんて言われながら肘でぐりぐりされつつ見回すと、志摩子さんと乃梨子ちゃんにはサッと目を逸らされ、椅子の方に目を向ければ、顔の前で手を組んだお姉さまのお姿が。
「祐巳ッ!」
「は、はいっ。なんでしょうお姉さま」
「私が祐巳に厳しく接するのは、祐巳を思えばこそなのよ。それをまぁ言うに事欠いて『鬼』だなんて」
あぁぁどうしよう。突然大声で名前を呼ばれたもんだから背筋をピシィッと伸ばした返事したものの、祥子さまは相当にお怒りでいらっしゃる。真っ白で綺麗なお顔のこめかみの辺りには、青筋が見えるような…。
「座りなさい祐巳ッ!」
「ひゃいっ」
「あ~あ、祐巳さんご愁傷様。まぁ仕方ないわよね、どう思ってる?って聞いたお姉さまに向かって『鬼』だなんて答えたんですもの」
「でも祐巳さん、お答えになる前に少しボーッとしていたようにも見えたわ。乃梨子にもそう見えて?」
「ああ、たしかにそんな風にも見えましたね。心ここにあらずというか」
おおっ。ありがたい援護射撃。由乃さんのおかげで事態も把握出来たし、白薔薇姉妹の擁護も当たってる! これならなんとかなるかも。
「でもそれだと祐巳ちゃんは祥子の話を全然聞いてなかったことになるけど…」
「うっ…」
令さま真面目過ぎる。
「そもそもどうして『鬼』なんて単語が出てきたのかしら? 鬼よ、鬼。本当は私のこと普段からそう思っているのではなくて?」
「そ、それはですね~。お、鬼退治をする夢を見まして、それが楽しくて…つい寝坊を」
「へぇ~そう。鬼退治。祐巳はとても純粋な心を持っているのね」
すっかり拗ねてご機嫌斜めな祥子さま。まるで信じてないって感じの声と共に溜息をつくと、指に艶々の長い髪をくるくると巻き付けていじけっぷりをアピールしてみせて、目が合うなりプイッとそっぽを向かれてしまった。これはこれでどことなく可愛らしいのだけど、今そんなことを口にするわけにはいかない。
助け舟を求めようと志摩子さんに目配せしてみたけど、あいにく志摩子さんは冗談だと思ったらしく、もっと上手い嘘をついてくれないと、って目で私を憐れむように見つめ返してきた。
「なるほど。それでその鬼退治の鬼ってのが祥子さまのわけですか」
「の、乃梨子!?」
一人納得したように頷いてるけど、地雷原にかなり足を踏み入れていることに気付いているんだろうか? その横では志摩子さんが目に見えてあたふたしては、祥子さまと乃梨子ちゃんを交互に見ていた。それでも動じない辺り、乃梨子ちゃんの大物っぷりはとんでもないのかもしれない。山百合会としては良いこと…なのかな。
「語るに落ちたわね祐巳さん。そろそろ素直に白状した方がいいわよ」
それを聞いた途端に刑事みたいな口調で話し始めた由乃さんが私に自白を求めてくる。私の座っているテーブルに手を置き、指でトントンと叩く仕草なんかなかなかにそれっぽい。時代劇だけじゃなく刑事物とかも好きだったりするんだろうか。
祥子さま側の方が有利と見てそちらにつくあたりがなんだか由乃さんらしいというかなんというか。そのうえ口元がにやけていてちょっと憎らしくもある。親友なんだから白薔薇さんを見習ってフォローの一つでもしてくれればいいのに。
「由乃さんだって好き放題言ってたじゃない。(夢の中でだけど)」
「えっ? ちょ、ちょっと何言ってるのよ祐巳さん。変なこと言わないでよ。私は関係ないじゃない」
なんとなく悔しくなって苦し紛れで言ってみた言葉だったけど、由乃さんは異様に慌てて弁解しだした。この慌てっぷり。さては日頃から思ってるな。その様子があまりにも一生懸命なものだから逆に本当っぽくてみんなの疑いの目がそちらへと向く。
「そうなのかい? 祐巳ちゃん」
「もう、令ちゃんのバカッ! 惑わされちゃだめよ。これは祐巳さんの策略なんだから」
「その割には焦ってるように見えますが」
「そ、そんなわけないでしょ」
「由乃。お願いだから誤魔化さないでちゃんと答えて」
乃梨子ちゃんの鋭いツッコミと保護者モードになった令さまに囲まれ、さすがの由乃さんもタジタジだった。
「あぅ…。くっ、こうなったらかくなるうえは━━━逃げるわよ祐巳さんっ!!」
「うぇ? ちょっと由乃さん」
逃げようとした由乃さんに手首を掴まれ強引に連れ去られそうになる。まずい。ここで逃げたら本当にそう思ってることになっちゃう。由乃さんには悪いけど弁解だけはしておかなくちゃ。
すんでのところで祐巳はなんとか踏みとどまると愛しのお姉さまに向かって叫んだ。
「お姉さまのことを『鬼』だなんて思ったりするはずありません。信じてください。お姉さまはいつも素敵で、私の憧れです!」
隣では目を丸くした由乃さんが、ウゲッて顔をしている。言いたいことは分かる。自分でもちょっとあざといかな?って思ったもの。けど背に腹は代えられない。下から覗き込むように見つめて精一杯可愛い妹オーラを演出していると、本当にそんな気がしてきて瞳も潤んできた…ような気がする。だいたい、よく考えたらこの手っていつも由乃さんが令さま相手に使ってるじゃない。
祈るような気持ちでそうしていると、ピタリと足をお止めになった祥子さまが、祐巳を優しく抱き締める確認するように尋ねた。
「本当? 祐巳は私のこと、素敵なお姉さまと思ってくれていて?」
「もちろんです。どんなときも、祐巳は祥子さまの妹です」
自分で言うのもなんだけど、部屋の中にキラキラとした百合の花でも咲き誇りそうな絵面だったと思う。横で由乃さんがズルいとか卑怯だってやかましくしていなければの話だけど。
正直上手くいくとは思ってなかったので由乃さんには「ごめん、今度何か奢るから」と片手で謝罪の意を示しながらウインクしておいた。一人だけ助かってしまって申し訳ないという意味も込めて…。
「祐巳さんの裏切り者ぉーーーーーーーーーーー!!!」
ビスケット扉を勢いよく開け放ち、逃走していった由乃さんの絶叫が薔薇の館に木霊した。
━━━チャーーラーーチャララッチャッチャッチャッチャ♪━━━
マリア様にはないしょ。
ヨーイハイッ
由乃「ふぅ~。祐巳さんのせいでえらい目に遭ったわ」
祐巳「由乃さんっ!? 祥子さまから逃げ切れたんだ」
由乃「私を生贄にするなんて祐巳さんの薄情者。だいたい祥子さまも祥子さまよ。あんなに怒らなくたっていいじゃない」
祐巳「それは………あっ、お姉さま」
由乃「ふっふーん。ノンノンノン。そんな手には乗らないわよ祐巳さん。しっかり追跡を振り切ってきたんだからそう簡単に追いつけるはずないもの」
祐巳「いや、でも後ろに…ほら」
由乃「祐巳さんも案外しつこいわね。あんな
一同「━━━ッ!?━━━」
令「よ、由乃…」
志摩子「由乃さん…それはいくらなんでも」
乃梨子「チャレンジャーすぎやしませんか?」
由乃「へっ…?」
祥子「コホンッ。由乃ちゃんは本当に素直でいい子ね。だからあっちで
由乃「ゆ、祐巳さん? 私たち友達よね? 大親友よね? ねぇ祐巳さん、聞いてる? あ、ちょ…祥子さま引っ張らないで。待って。祐巳さん? 祐巳さ~~~~ん。お~~~~~い。ヘ~~~~ルプ」
ヨーイハイッ
祐巳「ここまでスクロールしてくださった皆様に心から御礼申し上げます。『マリア様にはないしょ。』はDVDの映像特典でした。最初の音は1期目及び2期目のものを採用しています。そしてこの最後の挨拶は3期目の最終巻っぽくなっていたり…。気付いていただけました?そんなこんなでお送りした今回ですがここでひとまず終了です。どうもありがとうございました」
「マリア様と鬼退治!?」いかがでしたでしょうか。もしよかったら一言とかでもいいので感想をいただけたら嬉しいです。ぜひぜひお気軽にどうぞ。