(小説パートのみ)
張り詰めていた意識が解けた。カネキの視界には男が横たわっているのが見える。
──血だ、と。
見つめる最中、どこか他人事でそう思っている。
肩を上下させ、血反吐を吐きながら。いかにも満身創痍という風貌で。
カネキは、生まれて初めての我が犯行を眺めていた。
眼前の男…名を『西尾錦』
カネキと同じ上井大学に通う大学2年生。
ふと、カネキが件の男の姿を見直せば、腹には大穴が開き、そこから吹き出した大量の鮮血は彼の栗色の髪と服をドス黒く染め上げていた。
誰による負傷なのか、などは言うべくもない。それは間違いなくカネキであるし、カネキに取ってしてもそれを弁明することはないのだから。
それは、紛れもなくカネキの行いであった。
──だがしかし、これはなんというか。
カネキは途方に暮れた。
『金木研』は冴えない青年である。
本人にとってしても、どこか諦めに近いような確信を持ち合わせるほどに。
運動神経は最悪、性格は内向的で、趣味は読書。勉強こそ出来たが、それは上記の内容が導いた当然の帰結──他にする事がない──であった。
その上、いくらマンモス校の上井大学に受かったとして、上には上がいる。勉学に励むのが素晴らしいことではあるが、しかし、取り立てて長所かと言われると疑問符が浮かんだ。
絵に描いたような内気かつ凡庸な青年。喧騒とは無縁な生活を送っていた。
──筈なのに。
我が手は血塗れ、己が刺した男は生死も判らぬ様子で突っ伏している。
──くう、とお腹が鳴った。
どこか現実味が無い。ふわふわとした、夢見心地の様な感覚。ある種の高揚感すら覚えている。
そんな気分に侵蝕されるように、確固たる何かが見えなくなった。
──ああ……私、とてもお腹が空いている。
喰種であるから、こんな場違いな感情に身をやつすのか。
否、と心が叫んだ。だって事実、人間だ。
喰種に堕ちた男は、せめて心だけはと人間に縋りついたのだから。どんなに空腹に苛まれようとも、決して種の本能には従わなかった。
だから、カネキケンは人間だったのだ。
「ええ……
──そうして。意地汚くも人間を張り続けた結果がこれだった。
夢見とは是即ち人の残滓。
現実味の無さとは、喰種として覚醒した己に切り離された『人間』が、人ならざる己に付いていけずに思考停止したが故の数瞬の呆け。
目覚めてみればすぐさま気付いた。
他者を害することへの躊躇いの無さも、赫子なる触手も、まだ人間を捨てる理由には至らなかっただろう。
ただ、親友を目にして涎を垂らすのは、どう足掻いても人間ではないだろうさ。
そうして、自らのどうしようもない喰種性を自覚したカネキの下に、
それはカネキにとっての喰種の象徴故。自我崩壊を回避する為の身代わり人形でしかないが、それでも。
女は嗤いながら甘く囁くのだ。狂おしい程に愛らしい…その甘露を求めるように、と。
渇きのみで満たされていく。決して満たされない欲望のみで満たされていく。
やがて、酔いが覚めた。
冷えた頭で現実を見た。醜い化け物が立っていた。
俯瞰して、そっと舌なめずりをする。女は嗤う。酔いは覚めても狂気は止まない。
だから止まれない、戻れない。
また、くう、と鳴いて──その刹那、燐光。
羽音が轟いて、微睡む様にもたれた。
カチリ、カチリと音がした。ドク、ドクと脈打った。青年は確かに生きていた。
その口に罪の色を纏わせて。
「──ッ……は…ぁ……」
忙しく、藻掻くようにしてカネキは飛び起きた。窓からは斜陽が差し、彼が随分と眠っていたことを知らせる。
「──そ…うだ、ヒデ……!」
そして、意識が覚醒するにつれ、醜い事実を思い出した。
暗転する前、最後に。狂気に呑まれた己が見ていたのはその親友の姿だったこと。己には、親友が至極得難いご馳走にしか見えていなかったこと。
恐ろしかった。耐え難いと思った。故に確かめようとした。
「──君の友達なら、大丈夫だよ」
ふと、そこで。大層落ち着く、バリトンの様な声が響いた。一度記憶した声だった。
そして──全くもって考えていなかったが──ここが何処かということも理解した。
「あ、なたは……」
「…起きた様だね。随分と焦っているようだけれど、お友達なら別の部屋で休んでいる。ちゃんと無事だ」
現れたのは行きつけの喫茶店の店長、芳村。見知った彼の一言に安堵して、カネキはようやく深く息を吐いた。それだけで救われた気分だったのだ。安直に『良かった』と思った。
そんな自分に嫌気が差した。
やがて、喫茶『あんていく』の店長、芳村は未だ眠りこけるヒデの下へとカネキを案内し、諸々を話したのだった。
曰く、カネキに飢えを脱させる為、人肉を食べさせたこと。
曰く、暴走したカネキはトーカに介抱してもらったので、後で礼をしておくこと。
そして、カネキに対して、この喫茶店で働かないかという旨のお誘い。
喰種としての生き方を学ぶことで人間としての自らの居場所を守れるようにと。
最早、喰種でも人間でもない、なり損ない。それを、どちらにも居場所を持てる存在だと言い切って。
──本当はどちらも分かっている。方便、偽善、まやかしの類。
当人がどう思おうと、人を喰わなければ生きてはいけないのであれば、他者から見てそれは喰種でしかない。
しかし、カネキという名の喰種は、自らは人間であると宣った。一笑に付すのは簡単か、否定してしまうのは簡単か。
少なくとも、それは芳村には出来なかったのだ。
彼は、かつて限りなく人間に近づいていたのだから。彼は確かに、この世界での人間と喰種の在り方の境界を超えていたのだから。
そして、その在り方を失ったのだから。
だからこそ。今、芳村の目の前にいる青年は紛れもなく昔日に掴み損ねた希望であったから。
で、あるならば──笑えよう筈もなかった。
そして、功善は慰みの様に虚辞を連ねた。当然、カネキはその言葉に縋りついた。
故に、これは家族を護ることが出来なかった老父の過去の後悔と、人間で在りたいと願う青年の理念の一致でしかなく。
きっと、どちらも互いを見てはいない。
暮れ。未だ『あんていく』の一室に佇むカネキの周りには誰も居ない。
ただ、彼の本の頁を捲る音とコーヒーカップの往来で器の擦れる音のみが響いている。
カネキが読んでいるのは三島由紀夫の『金閣寺』
この物語の主人公を思い出し、読み返す気になったのだった。
『金閣寺』の主人公は初め、自らの美の象徴となった金閣寺を疎ましく思い、自らの死すらも望んで金閣寺に火を付けた。しかし、結局は生き延び、その果てに極端に在った筈の生を見つけた。
喰種にも人間にも成りきれず、孤独な己。思えばどこか死滅願望があった。では自分は、果たして生を見つけるのだろうか、と。
──かっこよく死にたい、なんて。
きっとこんなことを言えばヒデは止めるんだろうなあ、とカネキは独り言ちる。
この死滅願望は喰種になってから日に日に増していた。自らが生きてはいけない生き物だという大義名分がある故だろうか。
──でも、きっと僕は死ねない。
この物語の主人公の様に、最終的に生にしがみつくのは分かりきっていた。カネキには、仮に生きる気力が無いとしても死ぬ勇気は無い。
──死にたいのではなく、生きる理由が無い。
生きる欲が無い──それが本質だった。『金閣寺』の主人公も同じではないかと思った。
『金閣寺』の主人公にとっては、いっそ憎む程に心を占めていた金閣寺を燃やすことこそが、物理的にも消し去ることこそが、生きる欲へのファクターだった。
では、カネキにとっての金閣寺とは。
そして、それはこの物語の主人公のように壊さなければ生きていけないものなのか。はたまた、ただ在るだけで生きるに足るものか。
そも、本質的にそれを見つけたくないのか、やはり根底では死を望んでいるのか──
というところで部屋の扉が開いた。カネキは見上げる瞳に親友の姿を幻視した。
実の所、ここで時間を潰していたのは重篤のヒデを家まで送り届けるため、彼の目覚めを待っていたからなのだ。
だが、実際に現れたのは彼ではなく。
「うっす、お邪魔しまーす」
胡散臭い壮年の男。顔は童顔の部類にも見えるが、伸ばした髭と地味な服装で調和を取って歳相応の大人びた…というよりは、寂れた様な。そんな雰囲気を作り出している様に感じられた。
「カネキくん、彼が──」
その後ろから芳村が顔を出す。
そして、芳村はこの突然現れた男こそが、実はトーカと共にカネキを鎮圧させていた人物だと紹介した。
カネキに事情を説明していた段階では、助けに入った人物が誰か分かっていなかったため、芳村は混乱を避ける目的でカネキには話さなかったのだとも話す。
それを聞いたカネキはといえば──唖然。助けてくれたのはトーカだけではなかったのか、と単純な驚き。
続けて芳村に詳しく話を聞く内に、忘れかけていた自らの醜態を思い出し、何か恥ずかしい様な気がして。
兎にも角にもといった様子で、カネキはすぐさま頭を下げたのだった。
「あの、さ、先程は助けていただいてありがとうございました!」
「うん?そんなこと全然気にしなくていいのに」
男はカラカラと笑う。
爽やかな、こちら側まで気持ちの良さを感じる様な笑い方だった。
やがて男は着ていたコートを掛けてはソファに座るのだが、すぐさま、ずい、と身を乗り出した。燻る煙の様な香りがカネキの鼻腔を突いて、男の瞳は爛々と輝く。
好奇心に依るものとあからさまに見て取れた、そんな男の行動は歳不相応に幼い。
と、そこで。対する男は、そのような雑感に興じているカネキにとある要求を提示するのだった。
──君に聞きたい事があるんだけど、助けた礼ってことで受けてくれないかな、と。
先程の笑顔とはまた違う、獰猛な笑みがカネキを貫いた。
次いで、忘れていた様に男はマモルと名乗り、カネキの返答を待っていた。
本当にカネキを助けたことはどうでもいいらしく、早く本題に入りたい旨がありありと見てとれる。
それが分かったカネキは、助けた恩義には代えられないということもあり、やや勢いに押されながらも承諾したのだった。
「──じゃあ早速一つ目。君、隻眼だよね。片目だけ赫眼になってたけど」
尋問が始まる。
しかし、一つ目に関しては質問というよりも確認というニュアンスの強い問いであった。
カネキは自らの付けていた眼帯を取り、赫眼が現れる方の目を晒す。
未だカネキには赫眼の制御が利かず、空腹から解放され、落ち着いている現状の瞳では何の証明にもなりはしないが、男はそれでも納得した様子だった。
「それじゃあ、君が手術を受けて…その、隻眼の喰種になったっていうのは本当かい」
続けて、先程芳村から聞いたという事実を付け加えて男は言った。疑い半分という様な表情だった。その細めた瞳からはぎらぎらとした怪しい光が顔を覗かせている。
「ええと、僕とリゼさん──ああ、喰種の方なんですけど…」
空中で目が泳いだ。カネキは必要な言葉を、適切な言葉を選びとっている。
そも眼前の男がどこまで信用出来るのか分かっていない。真実を話すべきかと尻込みしたが、芳村も同伴であるということは信用に値するということだと結論付けた。事の顛末は自らの口で紡いでいく。
「……僕らどっちも鉄骨落下事故に巻き込まれて、リゼさんが即死だったらしくて。執刀医の人は彼女が喰種だって知らなかったから臓器を僕に移植して、僕は…喰種に…」
途中途中、言葉を詰まらせながらもカネキが言い終えると、男はやはり怪訝な顔を見せたが、すぐさま薄らと笑みを浮かべ、確認する様に呟く。
「えっと、それじゃカネキ君は…鉄骨落下事故に遭って、喰種の臓器を移植されて…喰種になった、と」
男は納得してないとでも言いたげな、曖昧な口振りで話を纏めた。
その言葉にカネキが相槌を打てば、男は思案するように腕を組み、やがて細かい質問を幾つか繰り出すのだった。
どこの病院に運ばれたのか、執刀医の名前、事故に遭った場所、果てはリゼの苗字まで。
暫く一問一答が続いて、男は満足した様にソファから腰を上げると、カネキに向き直り、口を開いた。
「よし、色々とわかった。じゃあ質問は終わりで、こっから提案なんだけど──」
男は不敵に笑った。対するカネキは、尋問の末に出された突然の提案に呆気に取られる。
そんなカネキを尻目に、男は自信ありげな笑みを崩さない。何を言い出そうというのかカネキには見当もつかず、振り下ろされる言葉をただ待った。
男は言葉を溜めに溜め、やがて切り出した。
「──カネキ君のこと、俺が鍛えてあげようかなって思ってるんだよね。こう見えても俺ってまあまあ強いからさ。それに、鱗赫なら俺と一緒だし、教えられることは沢山あると思うんだ」
どうかな、と男は尋ねた。同意を確信している様な声色だった。
しかし、期待とは裏腹に当のカネキからは素っ頓狂な声が漏れる。
なぜなら、この話の流れで何の説明も無しに、であるから。
これでは、端的に言って──
「ちょっと、その、意味が分からないんですけど……」
──意味が分からない。
言ってみれば、いっそ無情なまでの静謐。
カネキだけでなく芳村すらも呆然としている裏で、男は何が悪いのか分からない様子で首を傾げていた。全くもって、男が天然なのが救えないところである。
やがて、芳村は大きな溜め息混じりに呟いた。
「……すまない。この男には一度決めたら相手のことなど考えずに物事を運ぼうとする癖があるんだった…」
簡明に言うならば、彼はせっかちなんだ、と。しかも無自覚の。先天性の自己中心的思想の持ち主、とも言えるかもしれない。
一度自分の中で決めたことは、相手の思考や事情を考慮せずに押し進めようとする。そんな、どこか急かされているかの様な生き方。
失念していたという風に芳村は頭を抱えてそう言った。
しかし、その口元は呆れた様な言葉とは対照的に弧を描いていて、その声にはどこか幸せな響きがある。
カネキは確かにそこに情の類を感じたが、どうにもぎこちなさを覚えるのだ。本心ではないような、しかし全てが虚偽という訳でもない──
等と、カネキがそんなことを考えているとは露知らず、芳村はカネキに謝りつつ、続けて言葉を投げかけた。
「説明が不足していたから伝わらなかったろうが、これでも彼なりに喰種になったばかりの君の事を心配しているんだ。人間のときとは違って争い事は多々あるだろうし、隻眼というだけでも狙われる危険性はある」
──こんなところかな、と芳村は男の方を向いた。
視線を向けられた、提案をした筈が説明を丸投げした当の男は満足そうに頷いていた。あまりにも自然に行われた芳村のフォローであったので、このやり取りは一度や二度のものではなく。二人の関係性の深さがカネキにも感ぜられた。
そして芳村は、この男の提案自体には賛成であることも示した。理由に関しては芳村の言葉通りである。
人間の在り方を損ないたくないとはいえ、喰種の肉体を持つ以上争い事は免れないことがある。隻眼ならば尚更。
万年帰宅部という事もあり、訓練、鍛錬といった単語とは無縁であったカネキではあるが、芳村にまで後押しされては断ることなど出来る筈もなく、半ば流される様にして男の提案に同意した。
──ふと、ちらりと、横目で見た。だって、芳村の顔に翳りが差していた気がする。
カネキは先程から感じる違和感を少し疑問に思ったものの、大したことではないだろうと見切りをつけて、記憶の片隅へと流してしまった。
打ちつける水の温度が心地良い。運動とはこんなに良いものだったのか、とカネキは少しばかり筋肉質になった己の身体を眺めた。
蛇口を捻ってシャワーを止める。身体を拭いて、セットはしないが髪の毛を乾かす。『あんていく』の制服に着替えていると、見知った顔と出くわした。
「おっ、今日もやってたのかい、特訓」
はい、とカネキは言葉を返した。話しかけてきたのは『古間猿児』
20区の魔猿と呼ばれた喰種集団を率いた強大な喰種であるが、普段の彼の姿は能天気なおじさんにしか見えない、という総評の人物であった。
ちなみに、評を投じたのは総勢2名。カネキとトーカである。
「いやあ、にしても大変だろう…相手があの『アンカー』じゃあ」
アンカー、と。聞き慣れぬ言葉に、カネキは再度古間に問うた。
すると、古間がそっと手を顎にやる。鼻息が聞こえるほどにふん、と鳴った。自慢話等、得意気に話す内容の時の古間の癖だ。
「──なんだ、知らなかったのかい」
「『アンカー』ってのは彼の通り名さ。何でも、巨大な二対の鱗赫を広げた姿が彼の身体を含めて船の錨みたいだからそう呼ばれてるらしいよ」
確かに、とカネキは納得する。言われてみれば、赫子を発現させた姿も、その重厚な攻撃の圧も、錨そのものの様な質量が意思を持って向かってくる様にも思えた。
「まあまあ良いネーミングセンスだよねえ、『魔猿』には負けるけどさっ!」
苦笑いを返してその場を後にする。カネキと入れ替わりでシフトに入っていた古間は、るんるんと楽しげに帰り支度を始めるのだった。
──古間さんと話すのは楽なんだけど、最終的に自慢話になっちゃうのがなあ。
カネキは一人こぼした。
「あら、お疲れ様。鍛錬にバイトにと大変ね、カネキ君は」
店内へと足を運ぶと、声を掛けてきたのは、こちらも20区で恐れられていたブラックドーベルという名の喰種集団、その頭領──『入見カヤ』であった。
入見は食器類を洗いながら、徐に男の話題を口に出した。
「にしても、アンカーがねぇ…気を許し過ぎないようにね。良い噂はあんまり聞かないから……まあ、芳村さんが居るから大丈夫だとは思うんだけど」
そう言って入見は表情を曇らせた。
芳村も古間も、本人からもそのような暗い話は聞かされていないカネキは単純に疑問を呈す。
「…あ……初耳よね…それはそうよね…店長は友達だから教えないだろうし、古間は馬鹿だからそういうの知らないだろうし…他のみんなは世代じゃないものね…」
どやされちゃうわ、等とはにかむ入見。焦った風だが言葉の端々から余裕さが窺える。
ここまで話してしまえば、むしろ覚悟が決まったのか、困惑するカネキを見て、入見は周りを見渡し、喰種客しか居ないことを確認するとひっそりと口を開くのだった。
「……大したことではないんだけれどね。私が現役の時は、彼、喰種も人間も見境なく殺し回って一年で何百人と殺してたし…今は今で何か悪い組織と繋がってるって噂もあるみたいなのよ」
「まあ、前者に関しては私も沢山殺したから彼のこと言えないし、後者は噂でしかないから…過度に怪しむ必要はないけれど、かといって信用しすぎるのはやめた方がいいと思うわ」
入見は男に対する配慮の様に言葉を付け足したが、その実本心からの心配であるのが感じられたカネキは、その言葉を素直に受け取ることにした。
芳村やカネキに向けられた穏やかな笑顔。その裏には得体の知れない何かが有るらしい。
火のないところに煙は立たぬとはよく言ったものだが、生憎とまだ喰種になって日の浅いカネキには、それは漠然と存在するだけであり、火かも煙かも分からぬ。
蓋を開けてみれば人畜無害な代物かもしれないが、パンドラの箱である可能性も孕んでいる。なんなら今のカネキには、その箱を開ける鍵すらも持ち合わせていなかった。
故に、得られたものはただただ不審を感じる心だけ。
やがて、二人はそれっきり話を切り上げ持ち場に戻ったが、数秒経って。入見が小さく声を上げ、カネキの方へと振り向いた。
「──言い忘れてたけど、カネキ君」
すっと、言葉が聞こえて振り返った。そうして入見から目が離せなくなった。
先程の話の雰囲気とはまるで違う。しかし、それは怒っている訳でも、悲しんでいる訳でもなかった。何か特別な態度を取っている訳ではないのだ。
ただ、全てを悟った様な、見透かす様なその瞳。それに吸い込まれた。
きっと、今から入見が放つ言の葉は、漏らしてはならない真実だ。
「──『痛み』を忘れないでね」
ただの、一言。
何を意図するのか計りかねて、鸚鵡の様に『痛み』という同じ単語を繰り返した。
入見はやや微笑んで、口を開く。
「……痛みとは、力そのものには無関係だけれど、その力に意味を持たせる為には必要なもの。己の感じる痛み、他者の感じる痛み。私はそれを忘れないでいて欲しい」
「善悪は置いておくとしても、少なくともアンカーは忘れているだろうから。カネキ君まで、そうはならないで」
そう言って入見は目を伏せた。遠く、懐かしむ様な瞳だった。経験則であることをカネキは察知した。
それ故の言葉の重み。入見が話す前に纏っていた、不思議な雰囲気の所以。
痛みを忘れるとは、謂わば心が欠けるということ。本来必要な、一つの感情が欠落するということ。
そしてその、痛覚は何も物理的なものだけじゃない。同情、痛みを共有するという、感傷としての痛み。むしろ入見の意図するところとしては、こちらの意味合いが強かった。
痛みを想うから他者を思いやれる。逆もまた然りで、自分が傷付けば自分のことを想ってくれる誰かが存在する。
想い想われる。それは時として行動に現れる。誰かが他者を想って、その結果守ろうとするその行為。
それは両方向に作用する。則ち、守り守られる。それが力の本質、振るう意味。争いに許された正当性。
それを忘れてしまえば、待ち受けるは孤独。どうしようもないまでの孤立。
──言い換えれば、痛みを忘れるとは、人と寄り添えなくなるということなのだ。独りよがりで、相手がどんなに想おうと本人が拒絶をするならばそれまで。
そんな状態で、何を成そうとも側から見れば虚しいだけだった。自分で気付くのなら尚の事、いっそ笑えるくらい。
人も喰種も精神性が同じなら、他者が居なければ生きていけないのに。
入見はそれを憂慮した。
かつての自らの過ち。ただただ強さを追い求め、そばに居てくれた仲間を蔑ろにした。自分が想われていたことに気付かなかったのだ。
入見は『あんていく』に入って、やっと。そのことに気付き、深く後悔した。自らの情けなさに憤慨した。今もまだ自らの愚かを痛感しては、来たる断罪を粛々と待ち受ける。
かたやアンカーは──まだ気付いていない。あるいは、気付いていても省みることをしていない。孤独を良しとして生きている。
入見にとってすれば、そんなアンカーはどうでもいいとしてもカネキは別だった。
もうカネキは『あんていく』の一員なのだから。歴は短くとも、確かにカネキは想われる存在へと成っているから。
で、あれば。孤独になんてさせてたまるものか、と。
入見の言葉は、アンカーにカネキが何を教わったとしてもカネキに我々と同じ道を征かせてはならないという、その意思から出た忠告だった。
やがて入見は、カネキに鍛錬でアンカーの戦闘は見たのかと問うた。
カネキは若干気まずそうに頷いた。心当たりがあったのだ、入見の意図するであろうところに。
模擬戦でも、攻撃を意図的に食らうなどの戦術を当たり前の様に実践する。自分の体が傷付くことを厭わない、最早何とも思っていないのは明白だった。
入見の言葉を借りれば、痛みを忘れている。この例は物理的なものだけだが、同じことだった。
自分の傷に頓着がない、自分で自分を顧みない時点で、他者がどれだけ自分の心配をするかなど考える筈がない。
外面だけは治るから、誰も中身に気付かない。本人でさえ。
入見の忠告を受けての、アンカーへの疑念。それはカネキの中で確信めいたものに変わっていた。
アンカーのあの笑みはただ純粋なものではない。仮面の裏には計り知れない何かが渦巻いている。
やがて、入見との会話も終わり、持ち場に着いたカネキではあるが心此処にあらずで業務をこなしていた。
というのも、先程から思考が逡巡している。
考えるのは、やはりアンカーとの鍛錬は止めた方がいいのか、そもそもアンカーについて何も知らないのは不味いのではないか、等といった内容。
思案は深まっていく。元々読書家であるからして、スイッチが入れば思考の沼に嵌るのは簡単であった。
──すると突然、脇腹に鋭い痛みが走る。
その痛みの方向に顔を向けると、そちらにはカネキを助けた少女、トーカが拳を携えて立っていたのだった。カネキがバイト中にも関わらずに呆けていたのがお気に召さなかった様である。額には青筋が浮かび、視線はそれだけで人を射殺せそうなものだった。
──痛みって言ってもこんなのじゃないよなぁ…
なんて、カネキは謝りながらも考えた。
だって、違うけれど──この痛みですら忘れてしまうのは少し寂しい様な気がしたのだ。
──俺はアンタを殺すよ。だから、その代わりといってはなんだけど、俺も死ぬことにしたんだ。
RTA書くと反動で小説パートクソ長くなりがち。
金閣寺は小説に組み込むに当たってめちゃくちゃ内容端折ってるので気になった方は調べてみてください。良い作品です。
こんな書いたのにこの回、正直何も話進んでないです。入見に喋らせた内容は作者の妄想です。公式要素皆無。
よってこれは自己満足回でしたごめんなさい。なので1月中に続き出します。良かったら見てね。