作中の時系列におかしな部分があるのは、10年前の出来事を時系列順に正確に思い出せる人間は滅多に居ないことが理由です。
回想部分とリアルタイム部分の切り分けが不明瞭なことは作者の力量不十分によるものです。
副顧問が元気良く職員室を後にするのを見送り、滝は副顧問がこの高校の1年生だったころのあれこれを思い出していた。もう10年も前になる。
その年は同時に、滝がこの北宇治高校に赴任した年であり、滝の教師生活で初めて部活動の正顧問を勤めた年でもある。
あの年、北宇治高校吹奏楽部は滝の指導もいくらか貢献して久しぶりに吹奏楽全国大会へと駒を進めた。今振り返ればそれは北宇治高校吹奏楽部が強豪へと返り咲く始まりだった。
そして滝にとっては個人的な宿願への前進であり、教師としてのステップアップの始まりでもあった。
赴任して最初に行ったコンクールメンバーの選出に際して滝は気付かぬうちに失策を冒し、部員たちの間に深刻な不和を招いた。
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「滝先生。お話したいことがあります。10分程度、お時間を頂きたい」
デスクに向かい、悩み過ぎて靄が掛かったような頭で対策を考えていた滝は教頭に呼ばれて立ち上がった。
「そのままで構いません」
教頭は隣の席に座ると滝を見据えた。
「このところ、吹奏楽部の部員や部員と親しい生徒の間でよからぬ噂が広がっているように見受けられます」
はい、と滝は認めた。
「滝先生が1年のラッパ……失礼、トランペット奏者の父親と個人的に知り合いであったこと、またその1年生とも以前から面識があったこと。これは事実ですか?」
「事実です。しかし、面識の有無とは関係なく部員たちを審査しました」
「でしょうな。松本先生や学年主任からも話を聞きましたが、滝先生はこと音楽に関する限り決して私情を挟まない。しかし、それが部員たちに認識され、揺らがぬ信頼を確立するにはまだ時間が十分ではなかった」
教頭は嘆息した。
口を開きかけた滝を手で制する。
「滝先生を糾弾するわけではありません。今の事態への善後策を協議したいのです」
「ここでは生徒の耳に入る恐れがありますが」
滝が懸念を示すと、教頭は軽く笑った。
「教頭と言うものはどこの学校でも、生徒に対しても教師に対しても小言を言って回るものです。それは、このような時に役立つのですよ」
「それはつまり、仮に生徒が今職員室に入ってきても『滝先生が教頭に小言を言われている』としか広まらないということでしょうか」
「そうです。さて。滝先生の教師生活はこれからも長く続きます。今回のような急な転任と、転任先で正顧問として責任を負う事態は今後もありえますから、今お話することは決して過ぎたことへの後悔や糾弾ではありません」
「では教頭先生、今回のように赴任から日が浅い場合にはどのように審査すべきだったとお考えでしょうか」
答えの予想はついていた。
「二通りあります。完全公開、部員全員が聴く環境と場所での実技審査。その逆もあります。すなわち完全な非公開。審査する滝先生や松本先生にも、審査する対象の生徒が誰なのか判らないようにする。生徒1人1人に乱数を割り当て、この乱数で生徒を呼び出す。審査を受ける生徒には私語はもちろん口頭での入室退出の挨拶さえも禁じ、生徒と先生の間にはカーテンを設ける」
そう言って教頭は肩をすくめた。
「どちらも手間が掛かる。それくらいは音楽指導経験のない私にも判ります。また後者は荒れた学校でのペーパーテストで答案用紙の名前欄にシールを貼るのと本質的に同じことです。生徒と教師の間に信頼関係が無いことを自ら認めることです」
教頭が示し、嘆く。滝は即答できなかった。吹奏楽部のトランペット二年生に音楽室で糾弾され、部員たちの間に不信と対立が生まれるのを呆然と見てから数日間、そのいずれかの方法を採るべきではなかったかと考えていたことだ。
しかし「それらの方法は考慮しましたが必要ないと考えました」などと答えても意味がない。
「さて。もっと上手い方法や、あるいはより早期に生徒の信頼を確立する方法はこれから考察しまた実地に学んでいただくとして善後策を考えましょう。まず現状について滝先生の認識を伺いたいのですが」
表情を変えずに教頭は尋ねた。
「部員たちが私の公正さに疑念を抱いていることは、時間を掛ければ解決することです。最大の問題は部員間に対立が生じ、まともな合奏練習が行えなくなっていることです」
「そう。チームとして機能しなくなっていることが最大の問題ですな。これに比べれば滝先生の面目や信頼の回復などは後回しで良い。特に3年生には今年のコンクールが最後のチャンスであり、残された日数は少ない。さて、生徒間の対立は何が原因であり、その原因を短期間に取り除くには如何なる手を打つべきか」
教頭の問いかけは穏やかな口調でなされたが、突き放すような厳格さがあった。
「部員間の対立は結局のところ、3年の中世古さんと1年の高坂さんのどちらがコンクールでソロを務めるべきかと言う意見対立です。私が贔屓をしたのかどうかを巡って意見対立している部員もあるようですが、この解決は優先度が低い」
「私は音痴です。吹奏楽コンクールにも大した知見は持ちませんが、野球で言えば誰がエースかあるいは4番か、そういった問題に置き換えて考えています。そして私の経験から言えば、誰がエースに相応しいかを巡って部員の間に対立が生じ、チームが機能しなくなっているならば部員全員の前で実力を再審査するのが最良の方法です」
教頭はごくあっさりと、多感な高校生に対して酷な方法を採るべきと告げた。
3年生の中世古香織は高校生としては十分に上手いトランペッターである。互角の高校生トランペッターは全国に百人といるまい。
教頭の表現を借りれば、強豪高でもエースが勤まる。
ただ、今年の北宇治高校吹奏楽部にはその「3年生エース」を上回る1年生、高坂麗奈が居るのだ。実力差は明らかである。中世古香織が下手なのではない。高坂麗奈がそれ以上に上手いのだ。
それを部員全員の前で再審査する。
しかも中世古香織は部員の信望厚い人格者でもある。
部員たちの心が今よりさらに滝から離れることになりはしないか。
「滝先生。ちょっと話を逸らしますが、部活動の重要目的は何ですか。二つ挙げうるはずです」
考え込んだ滝に教頭が問いかけた。
「はい。ひとつは学生の本分たる勉学とは別の事柄において、『何かに打ち込み、相応の成果を得た』と言う実績と自信を与えること」
「もうひとつは?」
「立ち直りうる敗北を味あわせ、そこからの再起を経験させること。学生時代にしか出来ないことであり、そして本分たる学業において味あわせてはならないことです」
「そのとおり。この二つを生徒に経験させることの重要性に比べれば、顧問教師が生徒から憎まれることなど些細なことです」
教頭はもちろんベテラン教師であり、また複数の高校で野球部を府大会決勝まで進めた顧問としての実績を持っている。その経験を信じることにした。
憎まれよう。中世古香織の信奉者である2年生トランペッター吉川優子などは滝を激しく憎むかもしれないが、それもまた些細なことだ。中世古香織ならば、吉川優子の心に傷が入ったとしても癒すだろう。
「……来週に文化会館を借りての合奏練習を予定しています。その場で告げ、部員全員の前で両者に演奏させようかと考えております」
「生徒間の対立を解決しなくてはまともに練習できない、先ほど滝先生はそのように言われた。まともな練習の再開を来週まで延ばして、コンクールには間に合いますか?」
「間に合います」
即答できた。
「であれば、それまでは毎日の練習時間を減らして生徒たちを早く下校させるようにしてください。私は音楽のことなど判りませんが、悪いコンディションで長時間の練習を行っても何も得る事はない。これはいかなる分野の教育訓練においても共通するはずです。音楽でも、野球でも」
「ご指摘どおりと思いますが、吹奏楽部の部員たち全員が練習できないコンディションにあるわけではありません。コンディションの良い生徒が自主的に居残り練習を申し出た場合、時間いっぱいまで演奏を聴き指導することが私の仕事です。一律に早く下校させることはできません」
「公立校教師には残業手当も部活動指導手当も出ないと言うのに、熱心なことですな。滝先生、ご自身の健康にも留意なさってください。それとひとつ、提案があります」
教頭はそう言って表情を和らげた。
何か連想させられるものがあった。誰かに似ている。
「どのようなことでしょうか」
「来週まで待てるのであれば、吹奏楽部の幹部たちに機会を与えて欲しいのです」
「小笠原さんと、田中さんに?」
「ええ。小笠原晴香が行動を起こすことを、あるいは田中あすかが助言することを待ってやってください。さきほど3年の学年主任と小笠原の担任、そして田中の担任から聞き取りをしたのです。小笠原も田中も部長、副部長に就任して以来、少しずつですが『立場が人を作る』の典型的な形で成長しているとの評が一致しました。小笠原には何らかの部長としての行動を起こしさらに成長する機会を与えましょう。田中にも支える立場での成長の機会を与えてやりたい」
教頭は立ち上がり、付け加えた。
「これもまた部活動の意義と目的のひとつですよ」
滝はようやく気づいた。
容姿も声も全く異なるが、滝の父親が教師を引退してから見せるようになった表情と、今の教頭のそれは似ていた。
「教頭先生、ありがとうございました。今は生徒に機会を与えてみたいと思います」
「ええ。滝先生ご自身のためにも、そうしたほうが良いでしょう」
滝は時計を確認し、ポケットに手を入れている教頭の背に尋ねた。
「ひとつ教えていただきたいことがあります。このような失敗と教訓を重ねてゆけば、一人前の教師になれるのでしょうか」
「単に生徒を教え育てるだけでは、教師として一人前にはなれませんよ。後継者を育て上げるまでは、教師に限らずどんな仕事であっても半人前です。滝先生も、私も」
振り向いて教頭は笑い、そしてポケットから取り出した小さな包みを渡した。
「頭を使ったときは適度に甘味を取ると良いでしょう」
手渡されたものはキャンディーだった。
あのキャンディーは結局、滝から今の副顧問に手渡したのだっただろうか。
あの時に食べてから、再度貰ったものを今の副顧問に渡したのだっただろうか。
翌週のホール練を待つまでもなく、その数日後に小笠原晴香は行動を起こした。
いつになく静かな音楽室の扉を開くと吹奏楽部の部員全員が顔を並べ、そして半数以上の部員が挙手していたのだ。
指揮台の前に小笠原が立っていた。
何のための挙手なのか見当をつけて密かに安堵の息をつき、滝は確認した。
「今日はまた、ずいぶん静かですね。……この手は?」
「オーディションの結果に不満がある人です!」
トランペットの2年生、吉川優子が突き刺すように答えた。当事者のひとりである中世古香織が困惑した表情で諫めるが、吉川優子は決然と滝を見据えていた。
「今日は最初にお知らせがあります。来週ホールを借りて練習する事は、皆さんに伝えてますよね」
そう話しながら黒板の前まで歩みを進めた。小笠原が場所を譲った指揮台の前で滝は立ち止まった。
「そこで時間を取って、希望者には再オーディションを行いたいと考えています」
教室内がざわめいた。
「前回のオーディションの結果に不満があり、もう一度やり直して欲しい人は、ここで挙手して下さい。来週全員の前で演奏し、全員の挙手によって合格を決定します。全員で聞いて決定する。これなら異論は無いでしょう。いいですね」
務めて穏やかに告げた。部員たちが相互に視線を交わした。そして、さまざまな感情が浮かび上がった。
「では、聞きます。再オーディションを希望する人」
滝がそう告げると即座に、静かに中世古香織が立ち上がり右手を掲げた。
「ソロパートのオーディションを、もう一度やらせて下さい」
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何度も思い出したことだ。あのとき、中世古香織の声はかすかに震えていたように思える。
ほぼ負けが決まっている勝負に挑むのだと言うことを中世古香織は理解していたはずだ。敗北の後にどう立ち直るのか、トランペットパートリーダーとしていかにパートメンバーたちに接してゆくのかさえも覚悟を決めていたのかもしれない。
だとするならば、人を教え導く人としての中世古香織はあのときすでに滝を越えていたのかもしれなかった。
もっともそれは、今は府内の病院で看護師を務めている中世古香織の評判を聞いて知っていることの影響があるかもしれない。
「分かりました。では、今ソロパートに決定している高坂さんと二人、どちらがソロに相応しいか、再オーディションを行います」
そう、表情も口調を変えずに告げたことを覚えている。
告げてから音楽室を見渡した。中世古香織にはまず勝ち目がないことを、全ての部員が理解していることが読み取れた。吉川優子に至っては泣きそうになっていた。
音楽室での挙手に先立って小笠原晴香が中世古香織に対して何か話していたことを、滝は後に知った。3年生2人の間にどのような会話があったのか、そして田中あすかが何か助言をしたのかどうかは未だに滝は知らない。
確かなことはホール練を前にして部員たちの間に見られた対立が解消に向かったこと。
その当日、文化会館ホールに高校生離れした2人のトランペッターの演奏が響いたこと。
そして誰がソロを吹くべきかと言う滝の問いに対して中世古香織が背筋を伸ばし、高坂麗奈への信頼を込めて答えたことだ。
吉川優子が周囲を憚らずに号泣したことも覚えている。
あのとき、感情の波が激しいタイプのトランペッター吉川優子が翌年には見事に部長を務めることになること、吹奏楽部をさらに強くする方策を後に打ち出すなどとは予想もしなかった。
吉川優子が提案し滝も認めた部内役職のひとつの常設化と権限拡大、そしてアンサンブルコンテストへの参加は吹奏楽の強豪高として復活した北宇治高校において今や伝統のひとつとなっている。
一方で常設、権限強化されたドラムメジャーと言う役職、その名が示す範囲を超えて「部員に音楽を指導する生徒」を育て導くことに、滝は一度は失敗したことも覚えている。
滝自身も当時は指導者として未熟だった。
「ある曲のあるフレーズの演奏を出来た時に肯定的な言葉を掛け、その翌日に出来なかったときには厳しく叱責する」と言う間違ったやり方で当時の滝は指導していた。
それを初代の常設ドラムメジャーだった高坂麗奈は入学以来ずっと見ていたのだ。
「褒めた生徒は油断し、次の機会には失敗する。心を鬼にしても叱責するのが部員のため」と言う、当時は音楽に限らずいろいろな教育現場で信じられていた迷信を顧問たる滝が信じていたのだ。
3年生となり常設ドラムメジャーとなった高坂麗奈が同じように部員に接して当時の1年生複数を潰しかけたのは当然だったかもしれない。
幸いなことに、当時の吹奏楽部部長は今の副顧問だった。潰されかけた1年生たちに対し素早いフォローを行ってくれた。
思い出に浸っている間に、副顧問が音楽室に到着して挨拶を終えたのだろう。
副顧問が新任の教師として北宇治高校にやってきてから加わった新たな伝統が、ユーフォニアムの柔らかな音色となって流れてきた。
副顧問は毎年、体験入部に訪れた新入部員たちの前で私物のユーフォニアムを抱えてその曲を吹いてみせる。
「これは黄前先生の演奏ですか?」
いつの間にか傍に来ていた非常勤教師が尋ねた。
「ええ、わが高の、吹奏楽部のユーフォニアムパートのテーマ曲です。これを吹ける生徒は複数いますが、この音色は黄前先生ですね。……教頭、そうお呼びしても良いですか」
「滝先生が尋ねたいことは別のことではありませんか?」
定年退職後に再雇用枠で北宇治高校に勤めている老教師は応じた。
「はい」
「滝先生はもうすぐ一人前の教師になります。黄前先生と言う後継者が今まさに育ちつつあります」
滝の評では、黄前久美子教諭はすでに滝を部分的に超えている。
生徒のコンディションの波を読み取り、調子を崩す前に手を打つ。調子を崩してから「なぜ昨日できたことが今日はできない」と叱責するような愚かしいことを若い副顧問は行わない。
滝が一人前の教師になるには、これからも滝自身も成長せねばなるまい。
『響け!ユーフォニアム』の演奏を聴き終え、滝は元教頭に礼を述べてからトロンボーンケースを担ぐと職員室を後にした。
音楽室ではなく、視聴覚室へと向かう。
6月には副顧問の結婚式がある。
滝はすでに招待状を受け取っており、そして何年ぶりかも判らないほど久々に人前でトロンボーンを演奏することになっているのだ。
新郎のトロンボーン、新婦のユーフォニアムと合わせうるレベルまでカンを戻さねばならない。
それは、滝が忘れていた何かを思い出させてくれるだろうし、新たな学びを与えてくれるだろう。
演奏者として、指導者として。
体験入部の新入生たちが奏で始めた不揃いな音色に耳を傾けつつ、視聴覚室へと向かう滝の足取りは自然と軽くなった。
創作意欲が復活してきたので、最近読み耽っている小説の二次創作短編を書いてみました。