独自展開が続きます。
蝶屋敷の病床の窓からは、明け方を象徴する薄明の空が見えていた。気温は未だ低く、夜間に冷えた外気が緩やかに屋内へ染み込むのを感じる。
柱との稽古が終了してから五日が経過した。今日は新たな任務の実施日……遂に蝶屋敷を出立する時がやってきたのだ。訪れる鬼との戦闘に向けて、笑顔が特徴的な青年は着々と準備を進めていく。
「…へぇ、全然変わらないや」
宗次郎は姿見の前で、
今までは標準の隊服を着込み、その上から普段着を羽織っていた。新しい
元から着ていた服は、刀鍛冶である黒曜重吉の家に届けておいた。後から知った事実だが、彼は裁判の際に自分を擁護する手紙を本部に送っていたそうだ。免罪の助力までしてくれて、此方の世に来てから随分とお世話になっている。今回の任務が終了したら御礼を言いに行こう。
軽い荷造りを済ませ部屋も大まかに片付けた。細かい箇所は、屋敷の少女達が後に清掃してくれるだろう。他の滞在者も朝餉を済ませ、各々の任務に備えている頃だ。最後に日輪刀を腰に差し、宗次郎は部屋を後にした。
階段に繋がる渡り廊下を歩いていると……
ーー曲がり角から、「猪の頭」が覗いていた。
『…………』
獣特有の大きな眼が此方を見定めるように凝視している。事情を知らぬ者が見れば、屋敷に動物が侵入したと思い錯乱するだろう。暫しの沈黙を挟み、徐に思い付いた宗次郎は……縮地"三歩手前"を発動する。柱をも圧倒した超神速の歩法で、瞬時に対象の背後へ回り込み…その
「伊之助君、おはようございます」
「——ッ!?!!?のわぁ!!!!」
様子を窺っていた対象が、突如消え失せたように見えたのだろう。大きく跳び退いた彼は、獣が威嚇するが如く低い姿勢で変な構えを取り始めた。
「
「瀬田宗次郎です。いい加減覚えて欲しいなぁ」
「…やっぱり何も気配を感じねェ!流石はあの山のヌシだぜ……!!!」
「はは、全然違いますけどね」
呼び方に全く進歩を感じられない様子に、宗次郎は笑顔のまま即座に否定した。
彼の名は嘴平伊之助。我流で編み出した"獣の呼吸"を使いこなす、上半身裸の野生児である。実際に山育ちで、猪に育てられたという驚愕の経歴を最近知ったばかりだ。同期の炭治郎と善逸とは仲が良く三人で行動する事が多い。常識に乏しく、最終選別終了後に勝手に姿を消すなど…中々自由奔放な性格と独特の感性の持ち主だ。
彼が述べたあの山とは、最終選別の舞台となった「藤重山」の事である。実は選別開始から半分が経過した頃に、彼とは一度
蝶屋敷での再会以降も、本名を覚えられずに変な渾名を付けられてしまった。得体の知れない者と判断した故なのか、彼の中で藤重山の
「…それで、何か用ですか?」
「しのぶに呼んでこいと言われた!勘八郎と紋逸も全員お前を待ってるぞ!!!」
「ああ、出発時刻は一緒だったなぁ」
炭治郎達同期の三人組も、本日から新たな任務を遂行するそうだ。滞在期間の大半を機能回復訓練に充てていた彼等は、以前より実力が増したように感じる。全集中の呼吸の基礎となる"常中"を正しく会得し、能力が向上した影響だろう。三人揃って巨大な瓢箪を破裂させた様子は記憶に新しい。
彼等が赴く舞台は「無限列車」。単なる移動手段ではなく、列車自体に鬼の出現報告が出ているらしい。乗車してからは"炎柱"である煉獄と共同で鬼を討伐するそうだ。柱が任務に関わる以上…敵は"十二鬼月"である可能性が高いだろう。尤も、それは此方も同じ状況だが。
明治初期世代の宗次郎にとって、鉄道は馴染みの薄い乗り物であった。鬼殺任務の過程で初めて利用し、その便利さに感銘を受けた記憶がある。伊之助を連れて集合場所へと向かいながら、列車に関しての雑談を続けていた。一度だけ乗り遅れた際に、後ろから追いかけて飛び乗った経験を語ると…彼は興奮気味に捲し立ててきた。
「何!?そのレッシャとかいう奴と競争できるのか!?」
「向こうが最高速度で疲れましたけど、体力を温存すれば並走出来ると思いますよ」
「面白れェ…どっちが速いか勝負してやる!!」
互いに常識が欠如した者同士、混沌とした会話内容を正す人間は存在しない。世間一般の知識が乏しい少年に対し、宗次郎は屈託の無い笑顔で……淡々と自身の基準を吹き込んだ。
♦︎
宗次郎達が屋敷の正門前の庭に出た頃には、空は段々と蒼く染まり始めていた。朝日が放つ暖色の光と混ざり合い、幽玄の空模様を描いている。沢山の蝶々が舞う憩いの場には、炭治郎と善逸…加えてしのぶと彼等を見送る少女達の姿があった。既に隊服と日輪刀を装備し、任務への準備を整えている。
伊之助は善逸を視界に入れるや否や、彼に突撃して首根っこを掴み…引きずる形で門を飛び出し爆走を始めた。炭治郎の制止も聞かず、まだ見ぬ好敵手との勝負を想起し大地を駆けていく。
ギャアア!!!と喚く少年の悲痛な叫び声が遠ざかっていく様子を、全員が呆気に取られて眺めていた。喧騒が過ぎ去り唯一人取り残された炭治郎は…此方と向かい合うと苦笑いを浮かべて挨拶を述べてきた。突然の出来事に戸惑いつつも、何処か微笑ましく二人が出て行った方角を見返す。
「善逸がいるから道は大丈夫だと思います。宗次郎さんも今から出発ですよね?」
「ええ、少し遠出しないといけないので」
早朝から現場に向かうのは珍しい事ではない。本部から実力を認められていた宗次郎は、入隊して間も無い頃でも多くの地域で任務を任されていた。
柱に次ぐ"甲"へと昇格して…今後も更に担当区域を広げられるだろう。だが、大正の知らない土地を巡る事で多くの知見を得られる。任務を含む様々な経験は真実を見つける情報に繋がり、地域特有の甘味処を探す機会にもなる。
宗次郎にとっては慣れた話だった。むしろ三年の旅の期間も含めて、同じ場所に長く滞在する方が珍しいくらいだ。蝶屋敷にいる間は割と食事の栄養を管理され、茶菓子を食べ過ぎると…炊事を担当する子に怒られてしまった。最近の出来事が随分と懐かしく感じられるのも、此処を去るからだろう。
「それにしても、煉獄さんと一緒なんですね」
「俺も驚きました!宗次郎さんとの稽古で人柄は理解しているので、とっても心強いです!」
確かに彼が参加すれば、並大抵の事態は解決出来るだろう。炎の呼吸を直に受けて捌ける鬼など存在するのかと考える程に、凄まじい強さだった。実際に稽古を観戦していた炭治郎なら、連携を取る戦術も可能かもしれない。
「…そういえば、稽古の関連でお聞きしたかった事があるんですけど、良いですか?」
「ええ、改まって何でしょうか」
話を切り替え、彼にしては珍しい小声の問い掛けに疑問を抱く。その意味深な所作の理由を、宗次郎は次の言葉で直ぐに理解した。
「宗次郎さんは…
「—–——!」
「稽古を始める前、煉獄さんとの会話で歳は十九だと仰ってましたよね?あの時、嘘を言ってる匂いはしなかったので…」
「あぁ、成る程……」
彼の鋭い嗅覚は、人間の感情や嘘を正確に感じ取る特性を有している。冗談に聞こえるだろうと高を括り、安直に話した事実が…その特殊な技能に引っ掛かってしまった。その利便性の高さに改めて驚かされてしまう。
「あはは、すっかり忘れてたなぁ」
「急にすみません!あれ以来凄く気になって…迷惑なら答えて頂かなくて結構です!」
「別に構いませんよ」
困った顔で身振り手振り慌てる炭治郎に、宗次郎は笑いながら返答した。逆の立場なら、先ず興味を示すのは間違いないだろう。自身の事情と過去を正確に把握しているのは、重吉と珠世のみだ。転移する前の世を打ち明けるなら…必然的に自身の軌跡を話す事に繋がる。
屍の山を築こうと何も感じなかった自分を、真人間の代弁者たる彼がどう捉えるのか興味が湧いて来た。真反対の価値観を持つ人物からの意見も、考えてみれば貴重なものだ。色々と話すのも、丁度良い機会なのかもしれない。
「じゃあ、互いの任務が完了したらゆっくりとお話しましょうか」
「…ッ!はい!!!」
鬼殺隊士である以上は常に死と隣り合わせだ。また話せる機会を願い、楽しみに待っていよう。先程から彼の鎹鴉が上空から見据えている。本人もそろそろ頃合いだと気付き、別れの言葉を告げた。
「それでは、宗次郎さんも頑張って下さい!」
「ありがとうございます。煉獄さんにも宜しく伝えておいて下さいね」
「分かりました!行ってきます!!!」
輝く太陽のような笑顔で応じた炭治郎は、自分と屋敷の住人達に手を振りながら……二人の後を追って駆け出して行った。
「———彼は本当に素直で良い子ですね。貴方とは大違いです」
「はは、それはお互い様でしょう」
凛とした音色で緩やかに呟いたのは、蝶屋敷の主である胡蝶しのぶ。少女達との会話を終えて背後から歩み寄り…宗次郎の真横に並び立った。正門から入ったそよ風が、二人の髪を柔らかく棚引かせる。
「……さて、"私達"も向かいましょうか」
「ええ、そうですね」
数多の蝶々が遥かなる影を残して、新たな舞台へと導くように一斉に飛び去っていく。互いに熾烈な剣撃を扱う者同士、これから向かう先に様々な想いを馳せて…"天剣"と"蟲柱"は歩き始めた。
理を超越した"鬼"が人を喰らう世の中。強ければ生き、弱ければ死ぬ「弱肉強食」の世界で…懸命に抗う鬼殺隊の隊士達。常に弱き立場である筈の彼等には、凄まじい覚悟と真実が宿っている。"楽"以外の感情が欠落して以降、常に様々な影響を与えてくれる新たな環境。千差万別の信念が渦巻くこの闘いの中で、自分は何を見出すのだろう。
転移した際に聞こえた謎の"声"も…現時点では何の手掛かりも掴めていない。偶然か必然かも分からない中でも…確かに前へ進む道は存在する。
新天地での真実探しは、始まったばかりだ。
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複雑に回廊が入り交じった無規律たる空間…人を脅かす鬼の本拠地である「無限城」。上下左右の概念が消失した出鱈目な内装は、城内を引っ掻き回したような錯覚を覚えさせる。悍ましく奇怪な空間の至る所で、行燈が静かに明滅を繰り返していた。
その一角で、黒き礼装に包まれた"男"が…前方へ移動する床に佇んでいた。男は異様な程に色白で、何処か品性を感じさせながらも……内なる狂気を隠しきれず滲み出ている。冷然とした双眸からは、拝む者を震撼させる圧倒的な権威を感じられた。
ーー"始まりの鬼"、鬼舞辻無惨。
絶対的統率者たる巍然とした姿は猛々しく、暴力的な生命力に満ち溢れている。鬼の頂点として永遠に君臨し続ける男は現在……凄まじい"怒気"を撒き散らしていた。
累の死亡により、この短期間で"下弦の鬼"の半数以上を葬られた。柱かそれに匹敵する鬼狩りには悉く敗北を積み重ねている…余りにも脆弱な者共。存在意義を見出せない程の大きな失望感。残った二体の片方のみに血を授けて機会を与えた。下弦の鬼は事実上の
全ては「浅草の夜」から狂い始めた。忘れる筈も無い…"花札の耳飾り"を付けた痣の鬼狩り。それを眼にした途端、完膚なきまで斬り刻まれた
そして何より……
ーーあの"半透明の刀"の鬼狩り。
ギリィ!!と歯を砕き、発せられた強大な怒気に呼応して城全体が激しく揺らぎ始める。
最も忌み嫌う、"変化"が訪れている。
千年に亘る永き年月の中で、羽虫のように湧き続ける鬼狩り共。徹底的に絶やした筈の血筋と、自身の障害と成り得る特殊な剣客。永遠の停滞を破壊し得る異分子の出現に不快極まる。最早血を分け与えた下弦の壱にも成果は期待出来ない。要求に応え、強者を葬ってきたのは…常に"上弦の鬼"達だ。いい加減、鬼狩りの殲滅を優先させる時が来た。蒼き彼岸花などに現を抜かしている状況ではない。
暗鬱とした思惑を巡らせる内に……移動式の床が宙空に隔絶した領域に到達する。滲み出る氷のような情動を抑えて、鬼舞辻は自ら歩を進めた。始祖の鬼の意志に従い、前方が螺旋状に広がり幾度も構造を変え始める。不気味な琵琶の音が絶えず鳴り響き目指す場所へと導いていく。そして……
ーー巨大な"漆黒の門"に辿り着いた。
領域を隔てるように聳え立つ
視界が開けた、その先には………
————"紅い月"が、闇夜を照らしていた。
「…………」
鬼舞辻は、
巧妙に創造された———『偽りの都』。
理から外れた街の中で、永遠に夜は廻り続ける。無限城を構成する他の建造物とは一線を画す…特異な領域。広大な屋敷や荘厳な塔が連なる光景を…鬼舞辻は静かに俯瞰していた。上空から地面へ境界は移動し、領域へ脚を踏み入れると…背後の巨大な門は消滅する。
月光を覆い隠す雲が妖しく蠢く。何処までも現実と差異の無い空間が異常を際立たせる中、鬼舞辻は真っ直ぐに都を歩き続け……
一際大きな"武家屋敷"の前で脚を止めた。既に開かれた正面から入れば、外とは比較にならぬ程の恐ろしい威圧感が立ち込めている。
暗い闇の最奥に—————
———その「鬼」は、座していた。
刀を肩に乗せ、片膝を立てて壁に凭れ掛かる…紛う事なき《剣客》の姿。赫い長髪に隠れて表情は窺えない。時の流れに身を任せつつも、瞑想するように静かに…"剣気"は研ぎ澄まされていた。眠れる龍の如き圧迫感を直に受け、鬼舞辻の口角が上がる。
「…上弦の鬼には本格的に動いてもらう。"奴"の二の舞は断じて赦さん」
鬼の首魁は居間へ上がって歩み寄り、剣客を間近で見据える。歳が二十前後の若々しい全盛の肉体。そして何度書き換えようとも…依然として修復されない"頬の傷"。其処に意味を見出す行為を、鬼舞辻は行わなかった。希少な手駒として、再び鬼狩りの柱を蹂躙し続ければそれで良い。在りし日の躍動を…惨劇を齎す存在として。
「貴様の"幕末"は、まだ終わってはいない…」
冷艶な笑みを浮かべながら、鬼舞辻は剣客に向かって鋭い手を翳す。敵を滅ぼし尽くすまで、何度でも燦然たる記憶と共に……黄泉帰る。絶対的な脅威という名の波紋を、動乱を投じる為に。やがて翳した手に呼応するように全身が脈動を打ち、閉じられた双眸が覚醒する。
鋭い眼光に刻まれるは……
「目覚めよ———」
—————『人斬り抜刀斎』。