どうにも膨れて、でも吐き出せるところはなくて。
ぶくぶく太っていくだけだ。ぶくぶく。
駄文ですがよろしくお願いします。
「この電車、どこへ行くんだろうね」
右隣に座った老人が疑問を投げてきた。受け取った僕は特に考えることもなく正面にあるブランコに乗せる。
狼の車掌が切符を求めてくる。僕はポケットの中を探るがなかなか見つからない。どこかへ落したのだろうか。
「車掌さん、これ、二枚」
いつの間にか正面に座った老人が二枚の切符を車掌に渡している。狼は舌打ちをして切符を食べ、次の席へと移動していく。
「よかったね、私が二枚持っていて」
「ええ、ほんとに」
感謝はしない。別段助けを求めていたわけでもないのだ。狼に食われるのも食われないのも僕の自由だ。僕を助けるのだって老人の自由。だから感謝はしない。
外では大怪獣がビル街を破壊している。飛んできた破片が後方の車両を直撃するが、電車は止まらない。
「君、どこまで行くんだい?」
「さあ、わかりません」
これから何が起こるかなんてわからない。体育の時間にゴールを3本決めて人気者になる未来もあれば、クラスカーストの最上位にいじめられ、みじめに毎晩枕を濡らす未来もあるだろう。高校、大学と順調に進学してエリート出世コースへと一直線に突っ走る未来もあれば、中卒で土方となり、肉体労働にうめき声を漏らし続ける未来もあるはずだ。
いずれにせよ、僕の未来は平坦のはずだ。幼稚園に通い、小、中と進学してきた。成績はいつも平均少し上。目立つような真似もせず、ずっと静かに過ごしてきた。かといって陰湿な雰囲気は漂わせず、集団の中ではいつも笑いを取ってきた。
「ふふん、なかなか斜に構えているねぇ」
「現実的だと言ってください」
進路だってしっかり考えている。すでに高校入試は終わり、よく話題になる進学校への入学が決まっている。
奥の座席には大きな蜘蛛が座って、いくつもの新聞を読み比べている。傍らには蜘蛛の糸でぐるぐる巻きになったなにかがいくつも横たわっている。人のようなそれは、きっと餌だろう。今まさに一つが叫び声をあげながら飲み込まれていった。
大学もそれなりのところへ進学して、それなりの会社に就職する。安定した収入を得て、それなりに生きていく。
「『それなりでいきなさい』が、親の口癖でした」
「へえ、なんだかつまらないね」
いつもいつも、二言目には「それなりに」だった。
『お母さんは高卒でしばらくはアルバイトだったのよ。アンタはそれなりでいきなさい』
『お父さんは野球やってたんだが肘をやっちゃってな、それで自暴自棄起こして高校退学だ。お前はそれなりでいきなさい』
親だけじゃなかった。じいちゃんとばあちゃん、親戚のおじさんも、皆一様にして「それなりに」だ。
いつもそれなりだった。
それなりの友人関係。バカ騒ぎはするけど心は許しきれない。
それなりの学力。クラスの平均点ちょっと上はとれるけど一位はとれない。
それなりの運動神経。なんでも割とそつなくこなせるけど、エースにはなれない。
「じゃあ、この電車も『それなり』かい?」
僕と老人の隣では悪の怪人と正義のヒーローが戦っている。どうも会話をしながら戦っているようだ。「私の野望はクソみたいな日常をこわすこと」とかなんとか。「そんなことはこの『それなり』なヒーローが許さん!」とヒーロー。
外では石油王主催の大きなパレード。わけも分からず唾をまき散らして叫びまわる男どもが象に踏みつけられてぺちゃんこになっている。人が入っていない、空っぽのスーツだけが歩き回り、会社を目指す。紙吹雪が舞って楽しそうな雰囲気だ。
大蜘蛛はさらに餌をむさぼり続ける。狼の車掌は無賃乗車した人を飲み込んで満足そうに歩いている。
「いえ、なかなか奇妙な列車です」
「そうだろう。どうだ、君の日常と比べて」
大きく違う。何もかも違う。お菓子が食べたいなと思えばすぐに出てくる。コーラが飲みたいと思えばすぐに出てくる。ふと窓を見ればぶくぶくと太った醜い僕の姿が写っている。それはどんどん溶けていって、ついにはソファーのシミになった。
パチン、と老人のフィンガースナップの音が響いた。僕は元通りになっている。
「何もかも違いますね。景色はめまぐるしく変わるし、乗客はおかしな人たちばかりだ」
「そうだろう、そうだろう。面白いだろう?」
「ええ、とても面白いです」
普段と比べてとても面白い。いやまて、今僕は何と比べた? そう、「普段」と比べた。比べてしまった。
ひび割れた窓の外には見慣れた部屋がある。食卓には父さんと母さんが座っている。後は僕を待つだけだ。
『遅いわねぇ、――』
『そうだな。何をやっているんだか』
勢いよくドアが開き、僕が入ってくる。泥だらけのその顔は随分と嬉しそうだ。
『聞いてよ父さん! 今日大会のメンバーが発表されて、僕ね!』
『うるさい。早く着替えて座りなさい。ご飯が冷めるだろうが』
『まさかスタメンになったんじゃないでしょうね。それならあとでお説教よ。「一番」じゃダメ。「それなり」じゃないとだめなのよ』
思い出した。これは小学校の時に入っていた野球クラブで、初めて大会にスタメンで出られることになった日だ。どうしても大会にでて、活躍する姿を両親に見せたかったから、夜遅くまで練習していたのだった。
監督が声をかけてくれて、『お前、スタメンにしてやろうか』と。
「自分勝手な親だねぇ。自分の夢を子供に押し付けて、そのくせ理想で押しつぶす。理不尽だと思わないかい?」
「いいえ、子供は親に従わないといけませんから」
本当はスタメンになってはだめだった。それはほかの子たちを押しのけてなった「一番」になってしまうから。「それなり」ではないからダメだった。
『お父さんなぁ、一応これでも甲子園で投げたことあるんだぞ。二年の夏だったな。エースだった三年の――先輩に代わって投げたんだ。そのせいで負けたんだけどな。いいか――、他人を押しのけてなった「一番」はみじめだぞ。妬まれて、嫌味を言われて。面倒くさいんだ、だからお前は「それなり」に、な』
それが約束だった。地元の強豪野球チームに僕を入れたのも父さんなら、「それなり」にとどまれと押し付けたのも父さんだった。
「君、結構実力はあったんだろ?」
「やめた原因は今のと、小6のころの嫌がらせです」
今思えばくだらない。ただの妬みだった。「女のくせにエースだなんて生意気だ!」なんて言われて、よく殴られていた。
それからだった。やっと「それなり」になれた。ストレートも変化球も「それなり」で、男子には到底かなわないものになった。
いつも控えで、スタメンはすべて男子。ベンチから声援を送ることが多くなった。
「そろそろ行き先が分かってきたかな?」
「『それなり』な未来です。職種はなんにせよ、それなりな学歴をひっさげてそれなりの企業に就職して、それなりのスーツでそれなりに仕事をこなす、そんな未来」
上司に取引先に頭を下げている。地面が妙に近いと思ったら土下座だ、土下座をしている。納期がどうだ、デザインがこうだといろいろな注文を前に僕は土下座をしている。
上司に殴られている。妙にアンモニア臭がすると思ったらトイレだ、トイレの中で殴られている。
寒い、服を着ていない。先輩も、僕も。
「これでも『それなり』かね」
「僕ではない。僕が決めたのではなく、親が決めたのが『それなり』です。僕はそれに従うだけ」
列車が激しく揺れる。蜘蛛はどんどん大きくなり、天井を突き破った。よくよく見れば、蜘蛛の糸につかまっているのは「私」だ。たくさんの「私」が食べられていく。大怪獣はいつの間にか二人組になり、一緒になってきれいな草花を踏みつぶしている。狼はもはや見る影もない化け物となって乗客を飲み込み続けている。
「答えは出ないままか。それも道かね」
「それも道です。これが答えです」
老人は席を立ち、手を振って歩き出す。電車と一緒に吹き飛んだ僕は――。
「――、朝だぞ」
父さんの声で起き上がる。時刻は午前七時半、まだまだ余裕のある時間帯だ。
「――、ご飯できてるわよ、起きなさい」
確かにトーストのいい匂いがしている。「それなり」の朝ごはんだ。
「それなり」の髪型にセットして、「それなり」の速さでご飯を食べて、「それなり」の時間に家を出る。
変わらない「それなり」の日常だ。これがきっと死ぬまで続くのだろう。
「あいつが男だったらなあ」
「仕方ないじゃないの、女の子だったんだから」
リビングから漏れる両親の「それなり」の不満がBGM代わりだ。
これが僕の「それなり」だろう。いつも通りだ。変える必要はどこにもない、どこにもない。
「今日も平和だなぁ」
切り傷の残った左手首を隠した。