その後、オールマイトから呼び出しを受けたのは、ナイトアイからそう言われてから数日後の放課後だった。
廊下には部活へ向かう他の生徒たちの足音が響いていたが、この一角だけは妙に静かだ。喧騒が遠のくほど、自分の心臓の音だけが耳についてくる。 一度、二度、三度。私の右手がドアの取手の前の中空を横切る。掴もうとして、やめる。
そんな無意味な動作を繰り返した後、ふぅ、と息を吐いてなんと無しに横を見た。 ずっと長く続く、この無駄に大きな校舎の廊下。
その先からは、相変わらず放課後の喧騒が聞こえてくる。あっち側はあんなに明るいのに、と場違いなことを思った。
きっと、良い話ではない。
それはこれまでの経験から分かる、なんとなくの直感であり、あるいは養父さんのクセを無意識に私が感じ取っているからに違いなかった。
彼はこういう話のとき、おもむろに形式を大切にしたがる節がある。真っ向から向き合うのが怖いのか、それとも彼なりの誠実さなのか。
そして私はこういう話のとき、聞きたくなくて、逃げたくて、気持ちや行動の言い訳がましい内容が頭の中で増えていくのだ。
左肩にかけたスクールバッグが、重みでずるりとずれる。 その小さな衝撃は、私の覚悟のなさを自覚させるのに十分で。曇りガラス越しにぼんやりと映る自分の情けない姿は、いつまでも立ちっぱなしの私に、自分自身で嫌気を差させるのに十分だった。
仰々しく「相談室」と書かれたプレートが掲げられた部屋の扉をノックして、室内へ入る。
西日が真正面から顔にかかって眩しい。
思わず顔をしかめてしまう。 ソファに座るオールマイトの眉間のシワが、いつかのナイトアイのそれとそう変わらない程には深まっているのを見るに、あまりいい話ではないのは間違いなかった。
「……やぁ、悪いね、呼び出してしまって。さ、そこに座って」
促されるまま、革張りのソファに体を投げ出すようにして座る。
一見、高級そうに見えるソファだったが、どこか座り心地は良くない。
スプリングが妙に硬いのか、私の心が尖っているせいなのか。 居心地の悪さを払拭するように一つ咳払いをして、私は腹から声を出した。
「それで? なんの用かしら。家ではなくて、わざわざ学校の相談室を選んだからには、私用じゃないんでしょう?」
「ああ、そうだね……うん」
言い方を吟味しているのか、どうにも歯切れが悪い。
大の男が――いや、今は大きくないが、しょぼくれた顔でモジモジするな! その煮え切らない態度に、喉の奥がチリつく。肩に下げていたカバンを隣の椅子に放り投げ、養父さんに、オールマイトに食って掛かる。
「もにょもにょしない! なにか言われたって、今更気にしないわよ。シャキッと言いなさいな!」
私に言われて、ようやく彼の覚悟が決まったらしい。
改めて背筋を伸ばした彼は、静かに口を開く。
「今回の雄英体育祭、君の参加について、警察や上層部から懸念の声が上がっている」
「……そう」
途端に、室内に沈黙が重くのしかかる。
漠然と、何となくそんな気はしていた。 時期とタイミングと、それからやっぱり何となく、自分の血の巡りがそう告げていた。 私自身、自分がどのような存在で、どのような立ち位置にあるかは理解しているつもりだ。
過去、私が被害にあったあの事件のことを考えれば、広く世界に発信されるような活動は控えるべきだという大人の理屈は、痛いほどによく分かる。
やるせない苛立ちを逃がすように、右手の指で毛先を弄ぶ。
「私としても、非常に悩んだ。ヒーローとしては、正直心配だ。この間のUSJでの一件もあるし、警察から怪しい動きの話も聞いている」
しかし、と一息置いて彼は続けた。
「父としては、当然君のチャンスを不意にしたくはない。限られた三年間の学生時代で、たった三度の大きなチャンスなんだ」
言っていることは分かる。
そして、これから養父さんがやろうとすることも、手に取るように分かってしまう。 だからこそ、私は強く言うべきだ。
これから先、私が、そして彼が、余計な後悔を抱かないように。
「だから――」
「だから、私が責任を取る形で、無理にでも出場させる。そう言い出すつもりね?」
「!!」
目を見開いて驚く養父さん。 コケた頬で口をあんぐりと開き、言い当てられたことに驚愕する様子を見て、私は鼻を鳴らす。
何をびっくりしてるんだ。 自己犠牲が趣味の男だと、一体これまで何年見せつけられ続けてきたと思ってる。
私を、誰の娘だと思ってるのか。
髪をかきあげ、座り心地など忘れたソファを立ち上がり、顎を上げて養父さんを見下ろす。
「別にいらないわ。チャンスなんてね。だって私には、いらない階段だもの」
「――!!」
「私はね、強いのよ。私は強いの。それだけで、他のクラスメイトが必要としているステップをいくつもスキップしている。高く羽ばたく為に、より高い場所へ向かうのは、今低いところを走っているからでしょう」
私は、今更そんなところで自分を証明する必要なんてない。 放り投げたスクールバッグを掴み取り、一瞥もくれずに相談室の扉へ向かう。
「いい? 変な気は使わなくて問題ないの。養父さんは、自分の体のことだけ考えなさいな」
言い捨てて、私はドアノブに手をかけた。背中に、養父さんの言いよどむような気配を感じたが、振り返るつもりはなかった。ここで振り返れば、彼の情けないほどに優しい"父親の顔"に、私の決意が綻んでしまうことを知っていたから。
パタン、と静かに扉が閉まる。 相談室の外に出ても、廊下の空気は相変わらず重く澱んでいた。放課後の喧騒はまだ遠くで鳴っている。私は深く、深く息を吐き出した。
「……いらない階段、ね」
自分で言っておいて、口の中に苦い後悔が広がる。 本当は分かっている。体育祭に出られないということは、ヒーロー志望の生徒にとって、将来の道を半分閉ざされたも同義だ。それを「いらない」と切り捨てたのは、私の精一杯の強がりであり、彼へのあてつけだった。
旧時代のオリンピックに匹敵すると言われる視聴率はそれだけの影響力がある。
しかし、もう半分は事実だ。免許を取ったあとで、華々しい活躍を果たせば、当然体育祭での露出がなくとも社会に認知されることは可能であり、ヒーローとしての活躍は認知度だけに頼ったものではない。
そう自分に言い聞かせて、歩き出そうとしたその時だった。 背後のドアの向こうで、電子音が鳴った。 それは、彼がプライベートで使っているスマートフォンの着信音だ。 普段なら無視して立ち去るところだが、その直後に聞こえた、彼の「声」に足が止まった。
「……ああ、塚内くんか。どうしたんだい、こんな時間に」
親友である塚内警部からの電話。その声のトーンが、いつもの世間話のそれとは明らかに違っていた。 私は、ドアのすぐ横の壁に背中を預けた。盗み聞きをするつもりはなかったが、足が動かない。私の直感が、これは「聞いておくべきことだ」と警鐘を鳴らしていた。
「……なんだって? ――場所は。……そうか、例の廃ビルか」
壁越しでも伝わってくる、八木俊典の緊張。彼が「平和の象徴」としての顔を取り戻す時の、あの空気が変わる感覚。 私は息を潜め、耳を澄ませた。
「……ヴィラン連合の残党か。いや、それにしては動きが組織だっているな。……『彼女』のことを? 警察の内部から漏れたというのか。……分かった。すぐに、いや、今は……」
『彼女』。 その単語が出た瞬間、私の指先が冷たくなる。 彼が私を呼ぶ時、あるいは私の存在を隠そうとする時に使う代名詞。 塚内さんの声は聞こえないが、話の内容は容易に想像がついた。USJの事件以降、水面下で動いていた「悪意」の断片が、ついに形を成してこちらを覗き込んでいるのだ。
「……わかった。また連絡してくれ。ああ、体育祭の件も、改めて……。いや、本人は今……。……ああ、また後で」
通話が切れる音がして、室内が再び静まり返った。
その静寂が、今の私には何よりも耐え難かった。
私は、ドアノブにかけようとしていた手を力なく下ろした。 今の話を聞かなかったことにして部屋に入ることも、さっきの強気のままに彼を論破することも、今の私にはできない。会話は続いていく。 「リスト」「ヴィラン」「私の個性」……。 聞こえてきたそれらの単語が、泥のように私の足元にまとわりついて離れなかった。
「……っ」
私は、弾かれたようにその場から駆け出した。 背後でガタりと椅子が鳴る音が聞こえた気がしたが、振り返る余裕なんてなかった。
走る。 ただ、この場所から、あの人の優しすぎる懸念から逃げ出したかった。 廊下を叩く自分の足音が、無機質な校舎に反響してひどく騒がしく響く。 あっち側の放課後の喧騒が、急に遠い世界の出来事のように思えて、視界が歪んだ。
「……はあ、……っ、は」
放課後の廊下は、先ほどよりもさらに人気がなくなっていた。 西日のオレンジ色はさらにどぎつい赤へと変わり、長く伸びた私の影が、まるで追いかけてくる怪物のように足元で踊っている。
無意識に、個性が反応していた。 走るたびに、自身の脚が実体を持たない液体へと融解しかけ、それを私のプライドが無理やり人間のカタチに繋ぎ止める。 そのせめぎ合いが、肺の奥を焼くような痛みに変わった。 私は強い。そのはずなのに、どうしてこんなにも呼吸が苦しいのか。 心臓がうるさい。ドクドクと、不愉快なほどに生を主張して、私の冷静さをかき乱していく。
「Shit……! なんで、私ばかりこんな……!」
階段を一気に駆け下りる。 一段、二段……さっき私が彼に言い放った「いらない階段」という言葉が、皮肉にも頭の中でリフレインした。 階段なんて必要ない。
私はもう、高い場所にいる。 そう虚勢を張ったそばから、私はこうして、現実の階段を転げ落ちるように逃げている。 上を目指すための階段ではなく、ただの逃げ道として、私はこの段差を消費していた。
なぜ? ヴィランが怖いから? 違う。 私が本当に恐れているのは、私が私として、この力で敵を蹂躙した時、養父さんが見せるであろう「悲しみ」と「後悔」が混ざった、あの特有の顔だ。
彼は私に、清く正しい「普通の女の子」として、この平和な世界を享受してほしいと願っている。 けれど、裏社会に回った「リスト」が、私の平穏を許さない。 彼らにとって、私は「八木霞」という一人の少女ですらなく、ただの便利な素材、あるいは平和の象徴を揺さぶるための道具に過ぎないのだ。
校舎を出て、誰もいないグラウンドの隅……大きな桜の木の影まで走り、ようやく足を止めた。 肺が焼けるように熱い。 膝に手をつき、荒い呼吸を整えようとするが、酸素がうまく入ってこない。 視界が、西日の残像でチカチカと明滅する。
「……ふぅ、……あ、……っ」
少し落ち着くと、今度は別の不快感が私を襲った。 走った拍子に乱れた髪。額に張り付いた数本の藍色の毛先。 そして、何より――。
「……最悪。バッグの角が当たって、スカートにシワが寄ってるじゃない」
私は荒い呼吸のまま、震える手でスカートのプリーツを丁寧に整え始めた。 誰が見ているわけでもない。けれど、ここで身なりを崩したまま立ち尽くすことは、私の中に住まう「彼女」が許さなかった。 指先で髪を梳き、耳にかける。 USJの時、お茶子さんに抱きしめられた時の温もりをふと思い出し、胸の奥がチリりと痛んだ。 あの時、私は「守られるだけのお姫様」にはならないと決めたはずなのに。
「……何よ、オールマイト。自分の体のこともままならないくせに、私の心配なんて、百年早いわ」
地面を睨みつけながら、私は拳を握りしめた。 塚内さんの言っていた「不穏な動き」。 裏社会で私の情報が回っているというのなら、それは私がそれだけ「異物」として、彼らの喉元に突き刺さる刃として認識され始めた証拠だ。 体育祭という、たった三回しかないチャンス。それを、ヴィランが来るかもしれないからという理由でゴミのように捨てさせられる?
「……あの、自己犠牲バカ。本当、反吐が出るわ」
養父さんの顔が浮かぶ。 彼はきっと、今頃またあの相談室で、特大の溜息をつきながら「もにょもにょ」と悩んでいるはずだ。 私をどう守るべきか。どうやって、私の未来を傷つけずに済むか。 そんなこと、答えなんて一つしかない。 彼が私を特別扱いすればするほど、私はあの人の「弱点」であることを証明してしまう。 それが敵の狙いなら、まんまと策に嵌っているじゃないか。
私は、ゆっくりと顔を上げた。 校舎の窓に反射する夕日は、まるで燃え盛る炎のようで。 その光の中に、あの日、USJで見た死柄木弔の、あの乾いた眼光が重なって見えた。
――私の舞台を、あの不潔な連中に汚させる? ――私のダンスを、私の芸術を、私の「誇り」を、あんなゴミ溜めの理屈で封じ込める?
「……ありえないわ。そんなの、美しくなさすぎる」
私は、肩からずり落ちたバッグを強く引き寄せ、背筋を伸ばした。 逃げるのは、ここで終わりだ。 走り回って、心臓をバクバクさせて、惨めな思いをするのは、もう十分。
狙われているなら、狙わせておけばいい。 私が「平和の象徴」の弱点だと思っているなら、その傲慢さを、私の刃で、棘で根こそぎ引き裂いてやる。 彼らが私をただの「獲物」と呼ぶのなら、その名前を呼んだ瞬間に、呼吸さえ忘れるほどの絶望を刻み込んであげる。
私は、私よ。 この世で最も傲慢で、最も美しい「刃」なのだから。
「……さて。そうと決まれば、こんなところで油を売っている暇なんてないわね」
呼吸が、完全に整った。 冷たくなった指先に、じんわりと熱が戻ってくる。 私は、もう一度だけ、三階の相談室の窓を見上げた。 あそこにはまだ、迷える英雄が一人で立ち尽くしているのだろう。
「シャキッとしなさいな、養父さん。あなたは、自分の心配だけしていればいいの。……それから、帰りに美味しいスイーツでも買ってこなかったら、一生口を利いてあげないんだから」
誰もいないグラウンドに向かって、小さく、けれど鋭い独り言を放つ。 それは、私なりの、彼への最大限の信頼と「決別」だった。
校門へと歩き出す足取りは、もう乱れない。 一歩、踏み出すごとに、自身の脚が最適化されていく感覚。 体育祭まで、あとわずか。 あのアホみたいな爆発頭や、眼鏡の優等生や、お茶子さん。 彼らと同じ土俵で競い合うのは、正直言ってどうしていいか分からなかった。けれど、今は違う。
ヴィランが私を狙うというのなら、体育祭という世界中の目が集まる場所こそが、最高のカウンターになる。 私が誰よりも高く、美しく舞ってみせれば。 私が、あの「平和の象徴」さえも凌駕するような輝きを放ってみせれば。 誰も私を「弱点」だなんて呼ばなくなる。
「見てなさい、オールマイト」
あなたの守りたかったものが、どれほど「鋭く」育ったか。 この体育祭という舞台で、私が最高に美しく証明してあげる。 これは、駄作なんかじゃない。 私というプリマドンナが、絶望を優雅に踏みつけ、勝利を掠め取るための序曲よ。
私を狙う全ての愚か者たちへ。 せいぜい、その浅ましい首を洗って待っていなさいな。
歩きながら、私はスマートフォンを取り出した。 画面に映る自分の顔は、まだ少しだけ少女の脆さを残しているけれど、その瞳には、凍てつくような決意が宿っていた。
「……まずは、新しい運動着のスペアを用意させないと。あんなに埃まみれになるのは、一度で十分だもの」
ふんと鼻を鳴らして、私は夜の帳が下り始めた街へと、優雅に、けれど誰よりも速く踏み出した。