ソードアート・キリトライン   作:シダレザクラ

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最終話 黒い王子様

 

 

 魔王ヒースクリフと相打つことでHPがゼロとなり、暗転した俺の意識が戻ったのは数秒の後だったらしい。

 クラインの話だと俺の身体がポリゴン片と化した直後、還魂の聖晶石の効果によって仮想体が再構成された時には俺の意識は失われており、立ったまま寝ているような状態だったという。よく平衡感覚維持してられたものだと思う。そんな俺をクラインがおっかなびっくり揺り起こそうとしたところで目が覚めた、という寸法らしかった。

 改めて周囲を見渡し、溜息を一つ。隣に立つバンダナ男もどこか居心地悪そうな様子で身じろぎを一つ。この広い闘技場の中央に男二人がぽつんと立ちつくし、何をするでもなく何千という大観衆に囲まれているのだから居心地が悪い。

 

「なあキリの字よ。これ、どうする?」

「そう言われてもな、俺にどうしろってんだよ?」

 

 コロシアムはその身に内包する熱気とは裏腹に、奇妙な静けさの中にあった。ゲームクリアは果たしたのだからもう俺たちの事は放っておいて騒いでもらって構わないのだが、この場に集う全てのプレイヤーの視線は俺達に集約されていた。……訂正しよう、そのほぼ全ての目が他ならぬ俺へと向けられていた。まるで何かを期待するかのように。

 

「あー、そのだな、胴上げされたいなら俺が音頭を取ってやるぞ?」

「冗談は止めてくれ」

「冗談に出来りゃいいんだがなあ、ゲームクリアの立役者はお前さんなんだぜ? ここでおめえが何がしか行動しないことにゃ、このわけのわからん状況も終わらんだろうよ。ほれ、胴上げが嫌なら演説の一つでも決めてこい。ビシッとな」

 

 俺がそういうの苦手なの知ってるだろ、と小声で文句を言えば、「おめえの苦手は信用ならねえんだよ、つべこべ言ってねえで腹括れ」と呆れたように言い返された。へいへいと投げ遣りに頷く。余興とでも思えばいいか。

 

「失敗してもフォローは入れてやっから心配すんなー」

「心温まる声援をありがとよ」

 

 そんな軽口を交わす俺達をよそに、見渡す限りの大観衆はいっそ清清しいほど沈黙を続けていた。お前たちはこれから敬虔な祈りを捧げようとしている神官なのかと突っ込みたくなるほどである。

 常々不思議に思うのだが、彼らのこの一糸乱れぬノリの良さは何なのだろう? 何というか自然体でロールプレイを楽しむ鷹揚さを身に着けているような、そんな気がしてくる。アインクラッドに囚われたプレイヤーの大半は重度のゲーマーであるし、元々そういったゲーム世界への適応というか、世界観への親和性とでも言うべき《空気に酔うスキル》が高いのかもしれない。

 そうして一頻り観客席を眺め、覚悟を決める。すぅーっとゆっくり息を吸い込み、「皆、そのまま聞いてくれ」と声を張り上げた。

 

「今日この日を以って俺達の戦いは終わりを告げた」

 

 朗々と語る台詞に万感を乗せて。これがアインクラッドに終焉をもたらす一太刀を放った俺――《黒の剣士》に課せられた最後の仕事だと言い聞かせながら。

 

「2022年11月6日、脱出不可能の牢獄に捕らえられた俺達一万人のプレイヤーは、命を懸けたデスゲームの攻略を強制されてしまった。誰にとっても長く苦しい虜囚の日々であっただろう。それでも俺達は常軌を逸したゲームマスターの暴虐に立ち向かい、2024年10月8日、ついにグランドボスたる《魔王》を打倒せしめたのである。無限の蒼穹に浮かぶ鉄と石の城――アインクラッドはここに落日の時を刻むに至った」

 

 一年と十一ヶ月に及ぶ長い長い戦いの日々が脳裏を過ぎる。終わってしまえば『長かったようで短かった二年』になるのかもしれない。今はほろ苦く思い出すことしか出来ない数々の痛みの記憶も、十年後は今とは違う気持ちで思い出すこともあるのだろう。

 

「今日という日を迎えるまで共に戦ってくれた剣の(ともがら)に、そしてゲームクリアを諦めず長きに渡って生き抜いてくれた全てのプレイヤーに感謝を。俺達の先駆となって道を切り拓き、武運拙く戦場の露と消えた数多の勇者に、ゲームクリアの礎となった彼らの尊き挺身に感謝を。俺達の進む道に光を灯して散っていった英雄に、全霊の敬意を捧げよう……!」

 

 三千に迫る死者の数。友人を、恋人を失った者とているだろう。犠牲は大きかった、それは決して否定できない。それでも今だけは悲しみを忘れ、喜びに沈もう。傍らの友と無事を確かめ合ってくれ。

 

「俺達は戦友だ。形は違えど二年の歳月を戦の日々に費やし、皆が降りかかる理不尽に抗い戦った。その労苦と努力の結実が茅場晶彦に勝利する未来を勝ち得たのだ。……皆、胸を張ってほしい。俺達は戦った。戦い抜いた。ならば誰に恥じ入ることも、誰に憚ることもない。どうか笑って現実世界に帰ってほしい」

 

 誰もそれを咎めたりしない。

 しん、と静まり返る幾ばくかの沈黙を挟み、締めの言霊を力強く口にする。

 

「――今ここに、《黒の剣士》が《解放の日》を宣言する!」

 

 わっと歓声が爆発した。

 響き渡る数多の声。喜色にまみれたプレイヤーの顔が並び、彼らの感情全てがうねりをあげて闘技場の端から端まで満たしていた。拳を振り上げ、勝利の凱歌に咽び泣く者。隣に立つ者と抱きあい、歓喜の叫びをあげる者。解放の訪れを噛み締めるように上空高くを見上げ、無言で涙を零す者。熱狂は加速しそこかしこで喧騒が膨れ上がっていく。

 

 そんな中、熱気に押し出されるように観客席から闘技場へと飛び降りてくるプレイヤーも多数認められた。真っ先にアスナが、続いてエギルが、ディアベルがシュミットがゴドフリーが。気づけば攻略組だけでなく、サチやリズ、シリカにピナの姿もある。

 それだけじゃない、ケイタを先頭に月夜の黒猫団の全員が満面の笑みで駆けつけ、グリムロックにカインズやヨルコといった元黄金林檎のメンバーもいる。俺を中心にした輪を形成している中にはシンカーとユリエールさん、少し離れてサーシャさんと子供たち、遠巻きにニシダさんの顔も見えた。一瞬目が合った時に目礼を交わすと、破顔して深く一礼されてしまう。ニシダさんから伝わってくる感謝の気持ちが嬉しかった。

 

 俺は彼らから素直に感謝を口にされたり、魔王へと一人で挑んだ無茶を理由に軽く小突かれたり、時々握手を求められたりしながら最後の時間を過ごしていた。皆の笑顔に囲まれて、よかった、と素直に思うことが出来たのだ。……本当によかったと、改めて安堵と達成感が込み上げてくる。

 皆が皆喜びに溢れ、正しくお祭り騒ぎのような熱狂に沸き立っていた。それぞれがそれぞれの方法で笑い、泣き、アインクラッドで過ごす残りわずかな時間を謳歌しているようだ。……そう、残りわずかな時間だ。コロシアムが興奮の坩堝に晒されまがらもゲームクリアのシークエンスは着々と進んでいたようで、一人、また一人と光に包まれてログアウトしていく。

 

 個人差でもあるのか、ログアウトは一律ではなく順番に訪れているようだ。幾十人かずつアバターが転移時とは似て非なる幻想の美しさと共に消えていく。そこに悲しみはない。なぜなら、彼らの、そして俺達の行き先はあの世ではなく現実世界に他ならないのだから。

 冷めることない熱狂の渦に混じり、無機質な機械音声で『ゲームクリアはなされました――ゲームはクリアされました――ゲームは……』と繰り返しメッセージが流れてきているのだが、はたしてどれだけのプレイヤーが聞き取れていることだか。まあそれもいいだろうさ、と微かに唇を笑みの形に刻む。流れ行くアナウンスなど所詮は形式でしかなかった。

 

 やがて熱気に満ちた喧騒も遠ざかり、十にも満たない少数のプレイヤーだけが闘技場の中央に残された。それはまるで祭りの後の寂寥を抱かせるもので、残っているのは俺とクライン、エギルの男三人。それにサチ、アスナ、リズ、シリカの女四人だけだった。どうやらログアウトのタイミングは、ごく一部の思惑によってある程度制御されているらしかった。

 このあまりといえばあまりに恣意的なメンバーの選出――《黒の剣士》に近しいプレイヤーの集合という心憎い演出を前にして、黒幕を悟った皆の間で何とも言えぬ空気が漂い、誰からともなく苦笑を交し合う。とどのつまり気にしない、という結論でまとまるしかなかったのは致し方あるまい。

 

「湿っぽい別れはごめんだし、最後に一つだけ伝えておくとするか」

 

 そう言って口火を切ったのは、巨漢の斧使い兼雑貨屋のエギルだった。

 

「俺はあっちの世界じゃ《Dicy Cafe》って看板で喫茶店を経営していてな。場所は東京都の台東区御徒(おかち)町ってとこにある。ああ、店は今でも健在のはずだぞ、俺の連れ合いはよく出来た女なんでな」

 

 しれっとのろけるエギルに、ああ、やっぱお前既婚者だったのかとしみじみ納得する俺だった。そりゃあれだけ渋い大人っぷりを発揮していたくらいだ、所帯を持った大黒柱だと言われた方がしっくりくる。今も店は健在のはずだと自信たっぷりに話すエギルのそれが、本心からのものなのかは定かでなかったが、ここで問い返すのはあまりにつまらないことだと自重し、口をつぐんだ。

 クラインは「裏切りものー」などと茶々を入れていたけどな。やっぱりこういう時はこいつがいると場が和む。そんな風に感心している俺と同意見だったのか、エギルも得意気な顔で胸を張ってからかいに応えていた。

 

「喫茶店って言ってもバーと兼用のちと古臭い建物なんだがな。趣深さと癒し重視のコンセプトで、ゆったりした時間を味わいたい人間ご用達って感じだ。お前らにも気に入ってもらえると思うぜ?」

「お、そんじゃこっちもいけるのか?」

「お前さんにも最初の一杯くらいはサービスしてやるよ。愚痴りたくなった時は顔を見せにこい」

 

 くいっと嬉しそうに酒を煽る真似をするクラインに、苦笑を浮かべながらスマートに再会の約束を交わしたエギルは、「ここからが本題だ」と一つの提案を口にしたのだった。

 

「折角この世界で育んだ縁なんだ、ここでお別れじゃ味気ないだろう? うちの店は《ダイシーカフェ》で調べりゃすぐ所在地も電話番号も知れるようにしておく。落ち着いた頃に一報入れてくれ、向こうに戻ってからもお前らの連絡を取次ぐくらいはしてやるからよ。出来ればうちの売り上げにも貢献してほしいがな」

 

 そこでにやっと笑い――。

 

「いつになるかはわからねえが、ここにいるメンバーを中心にオフ会と洒落込もうじゃねえか。うちは学生の財布にも優しいリーズナブルな料理が売りなんだぜ?」

 

 最後に茶目っ気たっぷりな台詞で、商人根性をちらつかせながら親指を立ててみせるエギルに皆が瞳を輝かせた。ネットゲーム初心者のアスナがおずおずとオフ会の意味をリズに尋ねているのが実に微笑ましい。

 俺やクラインのみならず、サチ達もエギルの案に乗り気なようだし、案外現実世界での再会も早い時期に実現するかもしれないな。

 

「よっし、そんじゃあ次は俺様の番だな! 思えば二年前、俺とキリの字が出会った時は――」

「あ、何か時間切れっぽいぞ、クライン?」

「なんだとぉ!?」

 

 いや、だってお前のアバターが光り始めてるし。最後まで締まらないというか、優秀なオチ担当だったな、お前。

 ふむ、もしかして長話を始めようとしたせいで、茅場に『はい、カット』ってな具合に省略されちまったんじゃないか、と冗談交じりの思考が浮かび上がった。もっともエギルにも同時にタイムアップが来ていたようなので、クラインが茅場に嫌われているということもないだろう。……多分。

 

「ちっきしょう、どうなってやがんだよこれ」

「くく。諦めろ、クライン」

 

 低く笑いながらクラインを宥めるエギルは、次いで俺達へと目を向け、口を開いた。

 

「じゃあな、キリト。それにお嬢さん方も。向こうで顔を合わせられる時を楽しみにしてるぜ」

「俺も楽しみだよ。またな、エギル」

「……あー、もう! しゃあねえ、昔話は再会してからだ。おいキリト、向こうに戻っても俺にメシを奢る約束忘れんなよ。俺はお前との縁を腐れ縁にするつもりなんだからな、覚悟しとけ」

「お前も息災でな、クライン」

 

 エギルとクラインは二人とも優しげな目を俺達に向けたまま、笑みを浮かべて光の向こうに姿を消していった。あとは無事に現実世界で目覚めてもらうだけだ。……本当、お前らには迷惑をかけ通しだったな、すまなかった。それとありがとう。腐れ縁か、本当にそうなるといいな……。

 

「あんた達ってさ、あたしら女が入っていけない世界作っちゃってるわよね。えっと、男同士の友情ってやつ? なーんかずるい気がする」

 

 感謝と寂寥の余韻に浸っていた俺の様子を見計らい、真っ先に声をかけてきたのはリズだった。

 

「ずるいってお前なぁ……。普通、同性で馬鹿やってるほうが気楽なもんだろ?」

「まあ男ってそんなもんだとは聞くけどさ、乙女心としちゃ複雑なのよ」

「そんなもんか?」

「そんなもんよ」

 

 そんな軽口を叩きあい、場に和やかな空気が流れ――。

 

「ピナ……ッ!」

 

 シリカの叫び声にすぐさま引き締められる。

 弾かれたように全員の視線がシリカとピナに吸い寄せられる。水色の毛並みを持つ小さな竜はどこか物悲しそうに喉を震わせながら、その身体を光の粒子に変換させ始めていた。

 プレイヤーに起こるその輝きはログアウトの兆候だ。しかしこの世界由来の生物(データ)であるピナの還る場所は……。

 

「いやだ、いっちゃやだ! ねぇ、ピナ、ピナもあたしと一緒に帰ろう。ね?」

 

 それは慟哭だった。昔、ピナがモンスターの攻撃からシリカを庇い、その身を儚く散らした折にシリカが見せた深い悲しみが脳裏に蘇る。家族を失った事実に呆然とへたり込んでいた彼女は、今再び別れに直面していた。

 すすり泣くシリカの嘆きは空しく虚空に溶けていく。胸に抱えた使い魔をぎゅっと抱きしめ、必死にピナに呼びかけるシリカだったが、残念ながらその願いは通じそうにない。ピナは困ったように鳴き声を漏らすだけで、その身を無に還す幻想の輝きが止む気配はなかった。

 

「……シリカ」

「キリトさん! ピナを、ピナを助けてあげて! お願い……お願いします……!」

 

 シリカもそれが出来ないことはわかってるはずだ。……わかっていてもそう懇願するしかできない少女に、俺は何もしてあげられなかった。データの保全という前例を知るアスナが気遣わしげに俺を見るが、それは無理だと無言で首を振る。あれは幾重もの奇跡を積み重ねた例外中の例外だ、ここでピナのデータを保護することは不可能だった。

 俺の無慈悲な否定が止めを刺してしまったのか、シリカの大きな眼から止め処なく涙が溢れ、頬を伝っていった。どうにもできない。俺も、アスナも、サチも、リズも、押し黙ったままシリカに痛ましげな視線を向けていた。――と、そんな時、シリカの腕の中からピナが抜け出し、翼を広げてパタパタと高度をあげていく。

 

「ピナ?」

「きゅくるー」

 

 ぺろり、と。ピナは切なそうに一声鳴くと、そのまま涙を拭うようにシリカの目元を一舐めしてみせたのだった。俺にはピナがシリカに『泣かないで』と訴えかけているように見えた。ピナが自身の心を必死に伝えようとしているのだ、と。

 ピナの最後の奉公は、きっとアルゴリズムに規定されていない動作パターンであり、ビーストテイマーと使い魔モンスターの親密な絆の賜物なのだろう。真偽はわからない。でも、それで良い。それが正解なのだと思えるだけの光景だった。そこにあったのは小さな竜とその主が目線の高さを同じくして見詰め合う、可愛らしくも厳粛な一時だったから。

 

「……そうだね、あたしがいつまでも泣いてちゃピナも安心して眠れないよね」

 

 ぐい、と涙を拭い、悲しみを無理やり追い出すようにぎこちなく、けれどしっかりとシリカは笑ってみせた。

 

「ピナ、あなたに出会えてよかった。本当に……本当によかった。今日まで一緒に戦ってくれてありがと。あたしと一緒にいてくれてありがと。――さよなら、ピナ」

 

 別れの言葉を告げ、ピナの鼻先に親愛の篭もった接吻を落とす。光の中に消えていくピナからシリカは一瞬たりとも目を離すことはなく、最後まで笑顔を浮かべて見送った。避けえない別離の時を恙無く済ませたその儀式は、まるで完成された一枚の絵画のようだった。見ている者の胸を切なく締めつける、そんな一幕だったのである。

 シリカは俺に向きあうと少しだけ涙の残る目尻を指で一撫でし、ぺこりとお辞儀した。

 

「取り乱してごめんなさい、キリトさん。それからゲームクリア、おめでとうございます。あたし達をこの世界から解放してくださって、本当にありがとうございます」

 

 ピナのことは寂しいけれど、と切なそうに笑って。

 それでもシリカは気丈に言葉を続けた。

 

「キリトさんが仰った通り、あたしも胸を張って帰ります」

「ああ。そうしてくれると俺も嬉しい」

 

 シリカのアバターにログアウトの兆候が現れたのはそんな時だった。自身の身体を一瞥したシリカが「もう少しお話ししたかったです」と子供っぽく唇を尖らせる。そんなシリカの可愛らしい我侭に皆が和やかに笑い声をあげた。

 

「キリトさん、最後まであたしの頭を撫でていてくれませんか?」

「喜んで」

 

 短く快諾した俺に向けられる、シリカの蕩けるがごとく無防備な笑みに自然と相好を崩してしまう。

 

「えへへ、キリトさんの手、あったかい。……キリトさん、絶対にまた会いましょうね。あたし、キリトさんとこれでお別れなんて嫌ですから!」

「もちろん。いつか話した俺の妹も紹介するよ。仲良くしてやってくれ」

「はい、楽しみにしてます。それからあたしもキリトさんに猫のピナを紹介しますね。いつかぽかぽかお日様の下で、キリトさんとあたしとピナでお昼寝しましょう!」

 

 夢だったんです、と口にするシリカはやっぱり可愛らしかった。

 

「シリカがそれでいいなら、うん、約束だ」

「はい!」

 

 嬉しそうに答えるシリカ。そこで彼女のアバターはついにログアウトを完了させた。

 ピクニックのお誘いとは気が早いと思ったものの、戯れにその絵図を想像してみるとなかなかに魅力的である。いつのまにやらデートの言質を取られていたのは、やっぱり《鼠》の影響かな? 純真さの中にそこはかとなく強かさが感じ取れた。それも可愛いものだと苦笑一つで流せる程度だけど。

 

「シリカってばハードル上げてってくれたわねえ。あの別れの後っていうのはちょっときつくない?」

 

 そんな風に愚痴を零すリズの目尻にも涙が浮かんでいたことは指摘せずにおこう、これも武士の情けだ。俺は武士じゃないけど。

 

「別に対抗しなくていいだろ」

「ま、そうなんだけどさ」

 

 シリカとピナの別れみたいのは一度だけで十分だよ。シリカが強い娘だったから良かったものの、あのまま泣き崩れられでもしたらどうにもならなかったんだから。

 

「今日でこの世界ともおさらばか。正直言うとね、あたし、まだゲームクリアされたっていう実感がないんだ。てか混乱してる。アスナのとこの団長さんが実はあたし達をこの世界に閉じ込めた黒幕で、そんでもってそのラスボスをキリトが一人でやっつけちゃったんだもの。もうなにがなにやらってなもんよ。しっかしあんたってほんとすごいやつだったのねえ」

 

 まじまじと俺を見つめながら感慨に耽るリズだった。そりゃまあ、衝撃の事実のオンパレードだっただろうしな。リズでなくてもそれが普通の反応だろう。

 だからこそ茅場を取り囲んでみせた攻略組の早すぎる立ち直りは予想外だったし、そこに至る有機的な連携を可能にしたアスナの統率力がすさまじいわけだが。リズの隣でにこにこと笑みを振りまいている、温和な淑女然としたお嬢様からは想像もつかない指揮官ぶりだった。

 

「なんだ、信じてなかったのかよ。折角リズの目の前で『アインクラッドぶっ壊し宣言』までしてやったってのに」

「もう、意地の悪いこと言わないでよね。これ以上ないってくらい信じてました」

「サンキュ。俺もリズとの約束を果たせてよかったよ」

 

 穏やかに笑いかける俺の脳裏に、かつてリズと二人でしめやかに行った剣の儀式が鮮やかに蘇った。その時、過日の《ごっこ遊び》を思い出していたのは俺だけではなかったのだろう、リズもまた懐かしそうに頬を緩めていた。リズが打ってくれた剣は折れてしまったが、彼女が剣に託してくれた心は最後の最後まで俺の命を守ってくれた。

 俺を守ってくれてありがとうと告げれば、感極まってしまったのかリズの双眸に涙が浮かび上がり――そこでリズは臙脂のエプロンスカートを翻し、優雅に一礼してみせた。その一連の動作があまりに綺麗で思わず目を瞠ってしまったくらいだ。

 

「ありがとね、キリト。あの時、この世界を終わらせるって言ってくれてホントに嬉しかった。すっごく心強かった。それだけじゃなくて、今日はこうして皆の悲願を叶えてくれたんだもん。あたし、あんたのこと誇りに思うわ」

「大袈裟だな、リズは」

「そのくらいキリトはすごかったってこと。素直に受け取っておきなさい」

「それじゃ有り難くもらっとく。けどなリズ、俺を誇ってくれるならそれはリズ自身を誇って良いってことだ。それを忘れないでくれよ」

 

 リズが剣に込めてくれた想いは、今も変わらず俺の胸にある。

 涙を拭いながら嬉しそうに笑うリズはすぐに何かに気づいたように「あ、それと」と続けた。

 

「これはあたしからの忠告ね。あんたはちょっと頑張りすぎたんだから、しばらくは休養とって英気を養いなさいよ。こっちの生活習慣をあっちの世界に持ち込んだら、あんたすぐにぶっ倒れちゃうんだから。これ、冗談じゃなくて本気(マジ)だからね」

「わかってるって。リズの言う通り、しっかり医者の言うこと聞いて無理せず体調を戻すよ」

「よろしい」

 

 殊更大仰に頷くリズが何だかおかしかった。リハビリは俺だけが必要なものじゃないのに、そんなの知らないとばかりに俺の身を労わるリズの気持ちがこそばゆくも嬉しい。

 

「少し先の話になるけど、オフ会がありなら皆で集まってどっか遊びにいくのもいいわね。キリトの慰労も兼ねて温泉旅行とかさ。あんたって和贔屓なとこあるし、温泉巡りみたいな若者らしくない趣味もいけそうよね」

「若者らしくないは余計だ。うちの造りからして和風というか古臭い日本家屋なんだよ。だから和贔屓ってより馴染み深いって感じなのかな? 祖父が昔気質の人だったから、その影響も結構受けてると思う」

 

 自宅の敷地内に小なりとはいえ道場を併設させるほど剣道に情熱を燃やした祖父だった。遺言でわざわざ道場を取り壊すのはまかりならんと息子夫婦に言い含めておいたのだから相当だろう。

 残念ながら祖父の期待に俺は応えられなかったが、かといってあの人のことが嫌いというわけではなかった。そりゃ疎ましく思うこともあったけれど、それを差し引いても一本筋の通った人だったし、今でも尊敬すべき先達だと思っている。それをしっかり伝える前に祖父が他界してしまったことが心残りだ。

 

 今思えば、爺さんは実孫のスグよりも直接血縁のない俺に剣道を熱心に教えようとしていたんだよな。俺の方がスグより年上だったから厳しく接せられることに何の疑問も抱かなかったが、爺さんだって俺が貰われ子であることは知っていたはずだ。だとすれば、剣道の師弟関係は不器用だったあの人なりの愛情表現だったのかもしれない。

 帰ったら父さんにそのあたりの事情も聞いてみよう。今なら素直に受け止めることも出来るだろうから。

 

「さてっと、あたしもそろそろみたいね。キリト、次は現実世界で会いましょう。あんたに再会できる日を楽しみにしてるわ」

「俺もリズに会えるのが楽しみだよ」

 

 アスナも向こうでね、と親友同士笑顔を交換しサチに軽く目礼する。おそらくは意識してさばさばとした口調と表情を残し、リズは穏やかに笑んだまま光の中に消えていった。

 リズのログアウトした余韻にしばし無言の時が過ぎ、俺達三人の中で次に動いたのはサチだった。彼女は俺に一歩近づく前に何やらアスナと目線を交わし合っていたようだ。この二人も大概仲が良い。どうやらユイがつなげた絆は俺を交えたものだけではないようだ。

 

「なんだか夢みたい。本当に私は現実世界に戻れるんだよね? 生きて帰ることができるんだよね?」

「そうなるな。君は死なずに元の世界に帰ることができる。おめでとう、サチ」

「それも全部キリトのおかげだよ。ありがとう……。本当にありがとう、キリト」

「どういたしまして」

 

 さらりと黒髪を揺らし、サチは陽だまりのように淡く、けれどとても優しい顔で語りかけてくる。安息をもたらしてくれる、俺の好きなサチの顔だった。

 

「……あ、あれ? どうしてかな、頭の中が真っ白になっちゃった。言いたいこと、言わなきゃならないことがいっぱいありすぎて、何を話そうかずっと迷ってたはずなのに……」

 

 サチは困ったようにはにかみ、右手を胸に当ててもどかしそうに言葉を捜していた。このままではいけないと思ったのか、一度深呼吸をすることでひとまずの落ち着きを取り戻し、じっと俺と見つめあいながらゆっくりと口を開く。

 

「ねえ、キリト。この世界が生まれた意味は結局私にはわからなかったけど、弱虫の私がこの世界に来ちゃった意味は見つけたよ」

「そっか、聞かせてくれるか?」

「うん」

 

 切なげに睫毛を震わせ、涼やかに紡がれる声音はどこまでも優しい響きをしていた。耳に心地よい、彼女の声音。

 

「私ね、キリトと出会うためにこの世界にきたの。二人で言葉を交わして、心を交わして……ふふ、もしかしたら私はキリトに恋をするために生まれてきたのかもね」

 

 ほんのりと頬を薔薇色に染め、サチはとても誇らしそうに詠いあげる。満たされるというのはこんな時に使うのだろうか? サチが寄せてくれる甘やかな慕情に俺の方こそ礼を言いたいくらいだった。

 君を守りたいと思った。君の無事を願い、こうして無事に現実世界に帰すことができる。それはきっと俺の誇りだ、本当に君がいてくれて良かった。

 

「サンキュ、そこまで言ってもらえてすごく嬉しいよ。まあ、それと同じくらい心苦しかったりもするんだけどさ」

 

 自然と口元には苦笑が浮かんでいた。割と立つ瀬がない俺である。

 

「キリトは気にしなくていいよ。ほら、昔の偉い人も言ってたじゃない、『愛は見返りを求めない』って。それに私はキリトからたくさんのものを貰ってたもん」

「俺だって君からたくさんのものを貰ってたよ、ありがとな」

 

 それからひょいと肩を竦め、からかい混じりの声を続けた。

 

「それにしてもやっぱサチは意地悪だな。俺を困らせることばかり言うんだから」

「ふふ、前にも言ったでしょ? 私はキリト限定で意地悪な女の子になるの」

 

 お互い生真面目にそんな事を言い合い、次の瞬間には笑い出していた。俺もサチも陰鬱さなど欠片もない、朗らかな顔をしていた。

 

「でもね、キリト。これだけは忘れないで。私はキリトの傍にいることが、ううん、キリトの全部が私の安らぎだったよ。……さよなら、また会おうね」

「ああ、必ず」

 

 サチは潤んだ目で頷きを返し、切なさに睫を震わせながらログアウトを完了させた。良き別れと言うのなら、その通りだったのだろう。俺もサチも何の憚りもなくさよならを口にし、後の再会を約することが出来ていたのだから。

 

 サチを見送った安堵に息をつき、やがてこの場に残る最後の一人と向き合う。アスナも俺の視線に気づき、にこりと可愛らしく微笑んだ。こうして笑いかけられる度、アスナの美人っぷりを再認識させられてしまうのだから恐ろしい少女である。本人に言ったら頬を膨らませて抗議してくれるだろうけど、と内心笑みを押し殺していると――。

 

「キリト君、大変。わたしが言いたいこと全部みんなに言われちゃった」

 

 そんなことを大真面目に口にするあたり、アスナの茶目っ気も健在だった。以前に比べれば丸くなったのか、それともこちらが素だったのか、リズとの議論が待たれるところだ。と、まあそんな冗談はともかく。

 

「無理に感動的なものにしなくていいと思うぞ?」

「もう、キリト君は女心がわかってなーい。ここで印象的なお別れをして、再会まで胸をどきどきさせてほしいんだけどなあ?」

「俺は素っ気ない別れのほうが格好良いって思っちまうタイプだからなあ。あ、でもそれは男同士の話か」

 

 こう、にやりと笑みを覗かせ、背中越しに軽く手をあげて別れの挨拶とするくらいが丁度良い。もしくは拳を合わせて「あばよ」とか。

 

「あのね、キリト君? 忘れないように言っておくけど、君の前にいるのは女の子です」

「そこはほら、剣士の別れってことで」

 

 慌てず騒がず落ち着いて惚けてみせる俺に、「わたし、剣士である前に女の子でいたいの」とにっこり返すアスナは、当然のごとく可愛らしかった。というか世界の真理と言わんばかりに綺麗だった。

 ホントこいつは将来男泣かせになる素質十分だな。……違った。アスナは既に多数の男を泣かせてるのだったか。なにせ何度もプロポーズを受けたとか言ってたくらいだしなあ。ふられた男に合掌。なーむー。

 

「よし! それじゃ、わたしはちょっとだけフライングさせてもらおう」

「フライング?」

「ええ、自己紹介をしましょう!」

 

 なるほど、そういうことか。

 

「わたしは明日奈、結城(ゆうき)明日奈(あすな)。今年で17歳。それじゃ、君は? 君の本当の名前は何ていうの?」

「和人だ、桐ヶ谷(きりがや)和人(かずと)。昨日16になった」

「かずと君……桐ヶ谷和人君か。うん、覚えた。それにしても君ってば年下だったんだね」

 

 しみじみと頷くアスナに「意外か?」と問いかけてみれば、イエスともノーとも答えず曖昧な笑みで誤魔化すアスナだった。もしかしたら俺もアスナも互いに相手を年上だと考えていたのかもしれない。

 

「んー、あとは……そうだ、株式会社《レクト》って知ってる? そこの最高経営責任者(CEO)をわたしの父が務めてるの」

「へぇ、そりゃすごい。レクトっていえば大手の総合電子機器メーカーじゃないか。アスナって本当に良いとこのお嬢様だったんだな」

「わたしが偉いわけじゃないから感心されても困っちゃうんだけどね。それに会長令嬢なんて肩書きがあったおかげで、婚約者とかいう時代錯誤な相手が用意されてるのよ、嫌になっちゃうわ」

「マジ?」

「大マジ。二年近くも昏睡状態だったわけだし、立ち消えになっててくれると嬉しいんだけどなあ」

 

 ふう、と重い吐息を零してる様子を見ると、アスナ本人にとっては不本意な婚約っぽい。

 

「嫌いなのか、その婚約者のこと?」

「十近く歳も離れてるし、苦手なのは確かね」

「上流階級のお嬢様ってのも大変だ。婚約者とか現実にあるんだな、ドラマの中だけの世界かと思ってたぜ」

 

 困った事にね、と口にするアスナは本気で辟易としていた。これはいよいよ深刻なのかもしれん。

 

「で、どうするつもりなんだ?」

「勿論断るわよ。元々本意じゃなかったし、両親には正直な気持ちを話して白紙撤回してもらうわ。駄目って言われたら思いっきり喧嘩するつもり」

 

 にこりと笑って。

 

「わたしは恋愛結婚をしたいの。それにもう本気で好きになった男の子がいるからね、こればかりは頷くわけにはいかないわ」

 

 俺に向かって「覚悟してね」と朗らかに宣言するアスナには、強がりや気負いはほとんど見受けられなかった。その落ち着き払った佇まいに感心してしまう。色々な意味で強くなってるんじゃなかろうか、この閃光様。

 

「ま、何か力になれることがあれば言ってくれ。協力は惜しまないよ」

「ほんと? じゃあ、わたしの恋人役として説得を手伝ってくれる?」

「あのな、んなことしたら間違いなく話が拗れるっての」

 

 さすがに冗談じゃ済まないから止めておけ。そう言って呆れ返る俺を見ても、アスナはわたしもそう思うと頷き、くすくすと楽しげに笑うだけだった。

 

「それじゃ、いよいよとなったらわたしをさらって逃げてもらおうかな。いいよね、キリト君?」

「いいわけあるか、無茶振りがひどくなってんぞ。つーか花嫁を浚って逃げていいのはドラマの中だけだろ、現実でやったら大変なことになるぞ」

「むー、キリト君のいじわる。もう少し乗ってくれてもいいじゃない」

「常識的と言ってくれたまえ。ってかその言質は怖すぎる、もう少し穏当な要求をくれ」

 

 安請け合いはしないけど出来るだけのことはするからそれで納得しておけ。そう告げるとアスナは本当に嬉しそうに笑うのだから敵わない。その顔を見ているだけで何でもしてやろうという気にさせられてしまうのだから、やっぱり怖い女だと再認識した。こいつ、無自覚で一体何人の男を篭絡してるんだろう? 俺の立場的に追及すればするほど背筋が寒くなりそうだ。

 

「今度は現実世界で会って、そこから新しいわたし達を始めましょう。君は桐ヶ谷和人君として、わたしは結城明日奈として。ね、キリト君」

「そうだな、あっちでは《黒の剣士》でも《閃光》でもないんだ。ただの学生として自己紹介から始めよう。……まあ、今も学生の籍が残ってるかはわからないけど」

「言わないでよー。起きた時に家族に何て言われるか、わたし今から戦々恐々なんだから。勉強の遅れも取り戻して編入できる高校も早く探さなきゃいけないし、ゆっくりなんて出来ないかも……」

 

 同感だ、向こうに戻ってもゆっくりしてる暇はないだろう。

 

「その前にリハビリ地獄だけどな。あー、憂鬱だ。すっかり異世界帰りの異邦人になっちまったぜ」

「しかも浦島太郎だもんね。おおよそ二年、長かったわ。お婆ちゃんにならなかっただけマシかもだけど、それでも玉手箱を開けちゃったことに変わりないもの」

 

 互いに溜息を零す。前途多難である。

 

「箱ってことならパンドラの箱も思い浮かぶな。希望が残っただけよかったよ、マジで」

「それもキリト君のおかげだね。――うん、最後まで迷惑かけちゃったし、お詫びとお礼を兼ねて再会したら特製手料理を振舞ってあげる。こっちで食べてもらった料理を超える傑作を用意するわ」

「おお、そいつは期待できそうだな」

 

 ついに餌付けの責任を取ってくれる気になったのかと笑えば、アスナもおかしそうに声をあげて笑った。

 打てば響く軽妙な掛け合いを続けることしばし。どうにも緊張感が足りないが、これはこれで楽しい時間だった。今しばらく談笑に耽っていたいと考えたのは何も俺だけではあるまい。けれど――。

 不意に会話が途切れた。別れを意味するログアウトの兆候は、等しくプレイヤーに訪れる。アスナにもその順番が来た、それだけのことだ。淡く輝く光が自身のアバターを包み込むプロセスを確認して、アスナは残念そうに首を振った。

 

「まだまだ話し足りないけど、こればっかりは仕方ないか」

「こっちからはどうしようもないからな。……アスナ、君に会えて良かった。君と一緒に戦えて良かった。ありがとう。また会おうな」

「こちらこそだよ。……君を好きになれて本当に良かった。またね、キリト君」

 

 アスナは双眸にうっすらと光るものを湛えていた。やがてその透明な雫は頬を伝ってきらきらと零れ落ちる。最後の時をお互い見つめあったまま、次々と去来する想いを噛み締めていた。

 この世界に負けたくないと口にして、誰よりも強くあることを誓った少女。けれど俺の前では一人の女の子であることを決めた剣士は、煌く粒子に囲まれて幻想の世界から還っていく。

 転移に似た光も消え去り、アスナはアインクラッドから解放された。今頃は現実世界の空気に触れていることだろう。

 

 誰も彼もがログアウトしていき、静まり返った闘技場の中央で立ち尽くす俺に、頃合と見たのかゆっくり近づいてくる影があった。この世界に最後まで取り残された不運な彼女は、得意技である隠蔽スキルで身を隠しているわけでも、殊更足音を殺して近づいてきているわけでもない。一歩一歩、俺との距離を確実に詰めてくるだけだ。

 振り向き、小柄な少女と向かい合う。

 野暮ったい旅装束にフードのついたマント、頬にはトレードマークの三本髭がペイントされ、口元に涼しい笑みを貼り付けたアインクラッド一の情報屋、《鼠のアルゴ》がそこにいた。

 

「遅かったな。真打は遅れてやってくるってか?」

「いいや、単にオレっちが祭りに乗り遅れた間抜けだっただけサ」

「何も言わずに消えるつもりなんじゃ? って心配してたとこだ」

「それも良いかと思ったんだけどネ。どうやらあの男は本気でキー坊のファンだったと見える。図ったように最後までオレっちを残しやがった」

 

 そう言ってアルゴはひょいと肩を竦ませ、表情にも幾分の呆れを滲ませた。

 

「ま、こうなったからにはキー坊に最後の務めを果たしてもらうことにしよう」

 

 いっそ無造作に言い放つアルゴに、やっぱりそうなるのかと諦観の篭った溜息しか吐けなかった。そんな俺を斟酌することなく、アルゴは無慈悲に宣告する。

 

「それじゃ、全部終わりにしようゼ。約束通りオレっちをこっぴどくフッてやってくれ。それでオレっち達はもう二度と会うこともなくなる。……さよならダ、キー坊」

 

 今日まで俺達が築きあげてきた信頼も恋慕も愛情も、その全てをこの場で終わりにしろ。お前が切り捨てろ。

 そんな残酷極まりない要求を、アルゴはあくまで涼しげな顔で口にしたのだった――。

 

 

 

 

 

 アインクラッドには《倫理コード解除設定》という絶対の掟がある。『異性間の性交渉を可能とするか否か』の選択をプレイヤーに委ねるものだ。つまりソードアート・オンラインは人間の三大欲求である食欲、睡眠欲、性欲の全てを満たす事を可能とするのである。デスゲーム故なのだろうが、些か自重を忘れたシステムだった。

 倫理コード解除――性交渉、愛の営み、男女の混交。まあ呼び方なんぞ何でも構わないが、俺がそのシステムを初めて利用したのはずっと昔、それこそ未だこの身にオレンジのカーソルを背負っていた頃のことだ。

 

 最初は単なる情報交換だった。朧月の翳る夜、辺境のみすぼらしい宿で顔を突き合わせて、アルゴがふとした弾みに「いつまでこんなことを続ける気だ?」と零したのが発端だった。そこで俺の捨て鉢な攻略方針――というか自殺未遂すれすれの無茶を諌められ、いつしか口論に発展していったのだ。

 

 思い返すも情けない感情論に終始していたと思う。アルゴに散々挑発され、俺も声を荒げて怒鳴り返した。けれど最後は鬱屈した内心を弱弱しく吐露し、アルゴに優しく抱き締められて恥も外聞もなく涙を流して――後にアルゴがわざと俺を激発させたのだと知った。本人曰く、やばそうだったからそうしたらしい。……否定できなかった。

 俺達はその夜に褥を共にすることで肌を重ね合わせた。そしてその日から俺にとってアルゴは特別な少女となった。……けれど、それは新たな痛みを刻む始まりでもあったのだ。

 

「《鼠のアルゴ》が一番ずるかったのは、俺に《黒の剣士》として『女のため』を理由に戦わせてくれなかったことだな」

「そんな重いもんは願い下げだったからネ」

「ひでえ女」

「優しいと言ってくれヨ。あの頃のキー坊にはその程度の軽さしか受け入れることは出来なかったんだ。キー坊にとっちゃオレっちは実に良く出来た《都合の良い女》だったろ? いつでも捨てられる、捨てて良い仮初の関係ダ」

 

 場違いなまでに陽気な顔の《鼠》に溜息もでなかった。

 お前はいつもそうやって俺の手を引いてきたよな。俺の安全網(セーフティ・ネット)としての役割を自認しているように振る舞い、そのくせ、この世界が終わる時には俺の手を離す事まで織り込み済の……ずるい女だ。

 

「その都合の良さが、俺にとって何よりも残酷だと知りながら、か?」

「……謝らないゾ。オレっちにはそれしかやれるものがなかったんだから」

「責めないよ。お前にそんなことをさせちまったのは俺なんだから」

 

 見透かされていた。

 この世界と一緒に俺の命も終わってしまえばいいと、そんなやけっぱちな心境を抱えながら戦っていたのだ。剣にアイデンティティを預け、刹那的な生き方しか選べなかった俺の愚かしさを、アルゴは俺以上に理解していたのだと思う。

 

 ――オレっちの髪の毛からつま先まで、全部キー坊の好きにしていいゾ。でも、それはこの世界にいる間だけダ。ゲームクリアした時にはオレっちが預けたものも返してもらうから、ちゃんとそのつもりでいろヨ。

 

 そういって自身の心と身体を俺に委ね、俺に《ゲームクリア》という終わりを意識させ、最後の拠り所となることであの世への逃げ道を塞いだ。そのために重過ぎず軽すぎない、いつでも捨てられる不確かな関係をアルゴは望んだ、いや、望ませてしまったのだ。それが俺の限界だと、アルゴは冷静に見切っていたのだろう。

 アルゴに強く望まれるまま、翻意させることなく首を縦に振ってしまったことを今でも後悔している。

 

「にゃハハ、やりたい盛りの中学生にオネーサンの身体は丁度良い未練になっただろ?」

「ノーコメント」

 

 利用し合おうとアルゴは提案した。恋人として気持ちを通じ合わせることもない。夫婦として将来を語り合う必要もない。お互いが寂しいと思った時、ささやかな慰めとなれるならそれだけで十分だと。そうやって打算の関係を築き、それが故に打算のまま別れようと笑ったのだ。

 

「ゲームクリアのご祝儀にしては無体だと思わないか?」

「それはすまないと思ってるヨ。でもネ、オレっちはキー坊が頑張ってくれたことに心底感謝してるし感激してるんだぜ? 最後まで見届けて、今は報われたっていうのが正直な気持ちかなあ。蘇生アイテムを使ったのはクラインのお兄さんだけど、あれを使わせたのはキー坊じゃなくてサッちゃん達だったもの」

「そうだな。少なくともオレンジプレイヤーだった頃の俺じゃ、逆立ちしても出てこない発想だったのだろうさ」

 

 終わらせるためではなく、生きるために。その希求の心が俺に切り札を用意させた。

 

「おやおや、いつになく素直じゃないカ」

「俺は何時だって素直だよ。素直になる相手を選んでるだけだ」

 

 俺はお前ほどひねくれちゃいないぞ。

 

「オレンジプレイヤーになった時はもう死んだっていいと思った。――というか、オレンジのペナルティのせいで生き残る芽が見えなくなったってのが正直なとこだったんだけどな。あの日から、どうせ死ぬのなら誰かの役に立ってから死ね、そう思うようになったんだ。なのにどうしてかこうして生き残ってる。不思議だよな、鼠のご加護かね?」

「ばーか、鼠に女神のご利益なんぞあるもんかヨ。でもまあ、死にたがりにしちゃ上出来カ。おめでとう、キー坊」

「死にたがりか……。確かにあの頃は自棄になってたし、精神的にも限界だったよ」

 

 でも、と続けた俺の口元が歪む。

 

「そんな崖っぷちにいたっていうのに、俺は時折見かける攻略組の戦いぶりを見て、フロアボス戦を共にして、連中にもどかしさばかりを感じていたんだぜ? きっとあれは攻略組の実力に対する物足りなさ、だったんだろうな。奴らの剣の扱いを見るたび『下手くそ』だって思ってたんだから笑っちまうほど嫌なガキだし、我が事ながら何様だって溜息をつきたくなる」

「はいはい、そこまで。そうやってキー坊が悪ぶってると何故かオレっちのせいにされるんだゼ?」

 

 呆れ顔で「迷惑だ」ときっぱり言い放つアルゴに、こっちも「日頃の行いの賜物だな」としれっと返す。疑われるのはどう考えてもアルゴの自業自得である。強いていえば俺もアルゴも元々の性格が悪いだけだろう。

 

「『周りが頼りないからその分命を張る気になった』って一言を随分婉曲に表現するもんだナ」

「こういうのは素面だと言いづらいんだよ。『自分の命を勘定に入れなくなって、ようやく世のため人のために戦えるようになった』なんてさ」

 

 デスゲーム開始直後、俺はまがりなりにもクリアのための戦略図を描きながらその選択肢を選べなかった。一層で打ちのめされていなければ、あるいは利己的プレイに走ったままだったかもしれない。

 自身の安全を度外視することで俺は変わったのだろう。後ろ向きであろうとも多少なり視野が広がり、世界を俯瞰する眼に意思が加わって、初めてゲームクリアのために全力で動く下準備が整ったのだ。

 

「嘘をつかずに嘘をつく、本当を言わずに煙にまいて誤魔化す、そして本当の奥にもう一つの本心を隠す。そんなことばっかりやってるからひねくれちまうんダ。それとも、そういうこすっからい真似が格好良いとでも思ってるのカ?」

「どうだかなあ。必要だからやった、それだけだと思うけど」

 

 他愛もない掛け合いにどうにも口元が緩んでしまう。いつもと変わらず二人してそんな馬鹿を言いあい……けれど最後までそれを続けているわけにはいかない事もわかっていた。会話の途切れる瞬間を見計らったかのように、俺達を包む和やかな空気も終わりを告げる。

 

「……キー坊は、さ」

「うん」

「キー坊はこの世界に来てから、何度『もう嫌だ』と思った? 何回……逃げ出したいと思った?」

「さあな。数えるのも億劫で、もう忘れちまったよ」

「そっか……そうだろうネ。キー坊は誰よりも何よりもゲームクリアを優先した。してくれた。そんなキー坊を誇りに思うヨ」

「皮肉かそれは。罰ゲームの待ってるゲームクリアに全力で邁進してたわけだし、俺って実は被虐趣味でもあったのかな?」

「んなわけあるか、キー坊は絶対加虐趣味だヨ。これだけは譲れないゾ」

 

 そんなに力説しなくてもいいじゃないか、これでもお前のせいで傷心の身なんだぞ?

 

「なあアルゴ。もし俺が攻略を投げ出して、お前とずっと一緒にいたいって願ってたら、お前はそんな俺でも受け入れてくれたのか?」

「キー坊もつまんない事を聞くネ。でも、そうだなあ……キー坊がそれを望んだのなら、きっとオレっちはそうしたと思うヨ?」

 

 何もかも忘れて、二人で悦楽の日々を送ってたんじゃないカ、と。アルゴは至極真面目な顔で、これ以上となく不真面目で不健全な『ありえたかもしれない過去』を語って見せた。そんな風に飄々と言の葉を弄ぶ様がなんとも『らしい』とおかしくて、自然と苦笑が浮かんでしまうのだった。

 

「男を堕落させる悪女ここに極まれり、だな。そこで迷いなく断言できちまうお前だから、俺は意地張って剣を振り続けたんじゃないかって思えてきたよ」

「ふふん、だったらオレっちの勝ちだナ。男を上手く操縦してやるのが良い女の務めだもの」

「ぬかせ」

 

 もっともらしく口にするアルゴにたまらず噴出してしまう。アルゴらしい惚けぶりだ。

 

「いいんだよ、それで。オレっちはさっさとこの世界から脱出したかった、そのためにキー坊を利用しようとした。お互い相手に求めるものがあって取引したんだから、いちいちオレっちを慮る必要もないサ」

 

 その言葉を額面通りに受け取れるほど浅はかなつもりはないし、お前の献身だって安くなかっただろうよ。

 プレイヤー初のPK、しかもそれを隠そうともしなかった男に近づき、身も心も委ねたのだ。たとえ何も語らずとも、たとえ何を偽ろうとも、その行為は雄弁なメッセージを暗黙のうちに伝えていた。俺は一人ではないのだと、死ねば悲しむ人間もいるのだと、そうやって俺から強烈なまでに《死》を奪っていったのだから。

 

「オレっちはこの世界に閉じ込められた時に二つ決めた事がある。一つは『情報屋として公平無私を貫く』。そしてもう一つが『この世界とオレっちを偽者にする』こと。心を向こうの世界と切り離して、役割演技に徹して、《鼠のアルゴ》として生きるって決めたんダ。そうすることで、この冷たい現実の全てを嘘にしようとした」

 

 本物の自分をゲームの外に置くこと。それがアルゴの仮面であり、鎧であり、心を守る術だった。あの夜、そうと語った上で俺との関係を望み、飽きるまでお互いの傷を舐め合えば良いと、そう嘯いた。

 

「全部が嘘だったなんて言わなイ。こんな世界じゃなくても人間誰しも仮面を被るものだし、立場によってそれぞれの役割を演じるもんダ。こんな世界だからこそ育める絆ってのもあるだろうサ」

 

 でもネ、とアルゴは笑う。どうしようもなく俺の胸を締め付ける、切ない笑みを浮かべていた。

 

「程度問題ってのがあると思うんダ。キー坊が惹かれた女は現実世界のどこにもいやしない。《鼠のアルゴ》はこの世界だけの幻なんだゼ? オレっちはそうするつもりだったし、そうしてきたつもりダ」

 

 だからこそアルゴは《鼠のアルゴ》に執着するなと繰り返してきた。言葉だけでなく、行動でも。

 

「わかってるよ。それでも夢を見たんだ。いつか現実に戻って、普通に学校に通って、俺の隣でお前が笑ってる。そんな夢を」

「それは……つまらない夢を見たネ」

 

 まったくだと笑った。

 泣くことはできなかったから、笑って言った。

 

「多分、俺はお前のことを好きになれると思うぜ? 現実世界で再会したお前の新しい一面を知って、その度に得した気分になって、そうやって今よりもっと好きになれるはずなんだ」

「ほんと、キー坊は可愛いことを言うよナ。でも……駄目だ、それは駄目なんだヨ」

「……アルゴ」

「キー坊だってわかってるだろ、それは未練ダ。未練でしかなイ。それにネ、オレっちはキー坊みたいに強くなんてなれないヨ。そんなしんどい恋をしたくないし――させたくなイ」

 

 だから駄目だとアルゴは笑う。切なげに瞳を揺らして、それでも笑っていた。

 

「キー坊は本物の二年を生きた、オレっちは偽者の二年を生きた。それでいいじゃないカ」

「心は移ろうものだぞ」

「移ろう気持ちがあるなら、変わらない心だってあるのサ」

「……意地っぱりめ」

「キー坊に言われたくない」

 

 アルゴは俺がどんなに引きとめようとも、決して言を翻したりしないだろう。俺がアルゴを理由に立ち止まることも、振り返ることも許さず、ただただ自身を振り払う未来しか認めないはずだ。そんな頑固で意地っ張りな女だった。

 

「折角釘を刺したのに無駄になっちまったな。百層に辿り着くまでにお前を俺の虜にして、その面倒くさいポリシーを変えてやろうと思ってたのに」

「最後まで一緒に――。そう言ってくれて嬉しかったヨ。ただ、オレっちもまさかこんなに早くゲームクリアしちゃうとは思わなかった。いや、さすがキー坊だネ」

「驚いてくれてなによりだ」

 

 はあ、と色々複雑な溜息が漏れた。

 何を思ったのか、もうお役御免だとばかりに勝手に俺から離れていこうとする女がいた。そいつは現実世界に帰った時の『《鼠のアルゴ》の代わり』を用意しようとする馬鹿女だったから、そこまで俺は情けない男なのかと苦言を呈して止めた。その矢先にこの結末なのだから運命とは皮肉なものである。

 まったく、どっちが乙女心を弄んでるんだか。アルゴの真意を知ったらアスナあたりは三時間のお説教コースを開催するぞ? 俺と同じ様に余計なお世話だと言ってな。そんなお膳立てされずとも俺は口説きたい女がいれば自分で口説くし、それはアスナ達だって一緒だろう。

 

 サチの言う通りなのだ、アルゴとアスナ達は違う。サチもアスナも、リズもシリカも、皆、現実世界に帰った後の継続した関係を念頭に置いていた。けれどアルゴは違う。この世界で俺との関係を断ち切ることを前提として、アインクラッドの日々を共に過ごしてきたのだから。

 本当、馬鹿な女だ。いや、それを言うなら俺のほうが大馬鹿か。

 何より度し難いのは、そうと知りながらアルゴに縋らずにいられなかった俺の身勝手さだったのだろう。きっと俺の一番の情けなさは、年端もいかぬ少女にそこまで思いつめた決意を抱かせてしまったことだ。だからこそ、俺は彼女の望みを最大限尊重することで彼女のくれた恩に報いるべきなのだろうと思う。

 

「俺に心残りがあるとすれば、それはお前がくれたものに何も返せてないってことだな」

「お馬鹿、そんなことを考えてるからキー坊はニブチンなんダ。――十分だヨ。オレっちはもう抱えきれないくらいたくさんのものをキー坊から貰ってる。これ以上を望んだらバチが当たっちまうサ」

 

 それが本心だとわかる程度には付き合いも浅くなかった。それが切ない。

 

「オレっちは最初から最後までロールプレイを貫き通すって決めてたんダ。ここにいるのは『鼠のアルゴ』、皮肉屋で人をおちょくって楽しむ、道化であろうとした女なのサ。だからこの世界が終わる時は、鼠のアルゴもここに置いていく。キー坊の帰る世界には、鼠のアルゴなんて女は何処にもいやしなイ。……お別れだヨ、キー坊。ずっと前からそう約束してたはずダロ?」

「踏み倒せるなら踏み倒したい約束だったよ」

「女冥利に尽きる話だナ。だからこそ、オレっち達は終わりにするべきなんだと思うヨ」

 

 そう言ってアルゴはふっと寂しそうに笑った。

 

「なあキー坊、オレっち達の帰る世界は願えば何でも叶う御伽噺なんかじゃないんだゼ? 剣を持ってなくても、怪物が存在しなくても、誰も彼も必死こいて生きていかなきゃならない世界ダ。オレっち達は長い長い悪夢からようやく覚めて、これからはそれぞれの現実を歩いていく。――そうでなきゃいけなイ」

 

 特別な事ではないのだ、とアルゴは口にする。

 

「出会って、別れて、また出会って……。そうやって皆生きていく、そうやって皆別れていくんダ」

 

 始まりがあれば終わりがある。季節は等しく巡り、人に永遠などないのだと言い聞かせるように。

 

「キー坊はもうオレっちがいなくても一人で立てるだろ? 人は一人じゃ生きていけないから、だからオレっちはキー坊を一人ぼっちにさせたくなかった。人とつながりを持って生きて欲しかったから、キー坊を無理やり人の輪に放り込んだ。それでも――それでもさ、結局最後は独りなんだゼ? 皆、独りで立たなくちゃいけないんダ」

 

 甘やかな痛みと共に、去来する幾つもの思い出が俺の脳裏を過ぎり、追憶が溢れんばかりに胸を焦がした。こらえきれない感情の渦が出口を求めて荒れ狂う。これは涙腺に優しくないな。 

 

「大人になりなよ、キー坊。きっと今がその時ダ」

「……ずるい女だな、お前は」

「それがアルゴオネーサンだからネ」

 

 もっと褒めてくれていいんだゼ、とふてぶてしく笑うアルゴへの反論の言葉を、俺は何一つ持っていなかった。

 ずっと前から決まっていた、俺たちの間で交わしていた一つの約束。俺の愚かしさが彼女を縛り、彼女の優しさが俺を縛った。お互いに望んで繋ぎ合い巻きつけてきた硬質な、それでいて暖かな束縛の鎖を今、断ち切らねばならない。

 アルゴが俺に一歩近づく。いつものどこか斜に構えた皮肉気な顔など微塵も見せず、穏やかに、優しげに、俺の心を奪った慈愛の眼差しで、ゆっくり、ゆっくりと足を進める。そんなアルゴは俺の目の前で一度立ち止まると、俯き気味になにやらシステムウィンドウを操作していた。程なく作業を終えて露わになった彼女の(かんばせ)に、俺は一瞬呆然の体を晒してしまう。

 

 《鼠のアルゴ》のトレードマークが消えていた。

 

 両の頬に走る三本の線が綺麗さっぱり取り除かれ、切なげに睫毛を震わせる、今まで見たことのない少女がひっそりと佇んでいた。意識して演じていたのであろう少年めいた面影も今は鳴りを潜め、本来の柔らかな少女の輪郭が見事に清楚な印象を醸し出している。お髭のペイントがなくなっただけでこうも変わるものかと感心させられてしまった。

 

「最後だからネ、オレっちがとびっきりの魔法をキー坊にかけてあげるヨ」

 

 くすりといたずらっぽく笑う。

 そのまま彼女はそっと指を伸ばして右の頬に一回、二回、三回、左の頬にも一回、二回、三回と、まるで自身から消えたお髭の代わりとでもいいたげに俺の頬をなぞリあげる。指先に魔力でも灯っているかのようにじわりと暖かみが増していく。アルゴは祈るように両手を合わせ、神聖な空気を纏って厳かに祝詞(のりと)を紡いだ。

 

「どうかあなたの行く道が、穏やかでありますように。どうかあなたの行く末が、幸いで満ち溢れていますように。未だ見ぬ未来で、あなたが愛する人と笑っていられることを、心から願っています」

 

 少女は敬虔な巫女のように朗々と、滔々と、それでいて泣きたくなるほど優しく謳いあげる。ただのおまじないが、厳かな儀式に様変わりしてしまったようだ。俺の幸福を願う彼女の頬は微かに上気し、瑞々しさを主張する唇が俺の目に妖しくも艶かしく映った。

 

「――なーんてナ。やっぱこういうのはオレっちのキャラじゃないゼ」

 

 気恥ずかしげに舌を出す少女がどこか幼く見えて、その魅力に危うい衝動を覚えた。

 神聖な儀式? そんなもん知らん。何で俺はここまで我慢していたのだろうか。そんな疑問が浮かぶに至って、それ以上の思索を挟まず躊躇と遠慮を一思いに捨ててしまう。

 

「キー坊?」

 

 微動だにしない俺を訝ったのか、不思議そうに首を傾げるアルゴに謝罪の気持ち込みで笑みを返す。悪いな、今日から俺の趣味欄に不意打ちと書き込んでおくから許せ。

 

「んぅっ……!」

 

 この瞳に映る景色の全てを独占している少女の細い腰を抱き寄せ――有無を言わさず唇を奪った。

 目一杯瞳を見開き、一度は重ねた唇を慌てて引き離して抗議しようとするアルゴ。しかし俺はそんな抵抗を許す気はない。俺から逃れようとする動きを封じ込め、さらに深く唇を重ね合わせる。最初のうちは脱出を試みようと暴れたアルゴだったが、腕の中に閉じ込めて離さない意思を示し続けるとやがて諦め、全身から力が抜けてその身を俺に委ねたのだった。

 

 粘膜の接触によって生々しく水音が奏でられ、息継ぎに混じって濡れた吐息が小さな唇を彩り始めるのを確認したところで、これ以上はやりすぎになってしまうと判断して仕方なく解放した。永い永い一瞬が終わる。

 思いがけない奇襲によるものだろう、驚きと羞恥にアルゴの頬は鮮やかに紅潮し、女を刺激された名残が彼女を常になく無防備にしていた。ぼうっと火照った表情に目尻がとろんと下がる様が愛らしく、清楚さと扇情さが入り混じる。叶うならばこの場で押し倒してしまいたいくらいだ。

 

 虚飾を剥ぎ取られた歳相応の表情を見たいがために、肌を重ねるたびに快楽で悶えさせ、前後不覚になるまで追い込んでいたのだと白状したら、はたしてこの少女はどんな反応を見せてくれるのだろう。

 とりあえずそんな腰砕けな状態で上目遣いに睨みつけられても、これっぽっちも怖くないのだと教えておくべきなのかもしれない。

 

「……こら、ちょっと強引だゾ」

「あんな可愛いことするお前が悪い」

 

 今回ばかりは冗談抜きでアルゴの責任だと思う。

 

「それに小煩い女はこうして黙らせるんだろ? お前が教えた通りじゃないか」

「ちょっと待った。オレっちそんなことキー坊に教えた憶えはないんだけど?」

「そうだったか? じゃあ俺のシステム外スキルってことにしといてくれ」

「むぅ、反省の色がない。……キー坊の女ったらし」

「何とでも言え」

 

 終わったのだと思った。

 抱き合ったまま息の触れ合う距離で睦言を楽しんで――けれどこの時、確かに一つの恋が終わったのである。俺達は暗黙のうちにそれを悟っていた。こうして別れの口付けを交わして、もう昨日までの俺達ではいられないのだと、ほろ苦い胸の痛みと共に現実を受け入れたのだろう。

 

 アルゴは最後まで賢しらに振舞ってくれた。俺に大人になれと、いつまでも子供のままでいるなと臆面もなく言い放ってくれたのだ。ありがたいやら情けないやらで複雑な気分だった。よくもそこまで言えたものだと苦笑が浮かんだ。

 わかってるさ。人はいつか大人になる。そうでなければならないし、そうでありたいと思ってる。俺達はこの世界でずっと気を張って大人のふりをしてきた。けれど、やはり俺達は子供でしかなかった。

 

 今すべきことはもう俺はお前の助けがなくても大丈夫なのだと、その手を離して一人で歩ける強さがあるのだと示すことだった。いつまでもこのままではいられない。だからこそ未練の残滓を振り払い切り捨てることで前に進む。それが俺からアルゴへのせめてもの恩返しだった。

 

 ――だから覚悟しろよ、アルゴ。俺は俺の望むまま、《鼠のアルゴ》を否定してやるつもりなのだから。

 

 文句は言わせない、お前が俺をそうさせたんだ。俺がいつか大人になることをずっと願っていてくれたのは、他ならぬお前だったんだから。

 

「さて、それじゃアルゴ、俺からもお前に最後の頼みがある。まさか断らないよな?」

「……いやだ、って言ったら?」

 

 アルゴは一瞬口ごもり、その小柄な体躯にも少なからず緊張が走った。無論、その強張りも気づかないふりで流したが。

 

「却下、吐いた唾は飲み込ませないぜ。ヒースクリフとの決闘に勝ったらご褒美をくれる約束だったろ? 俺は《聖騎士》と《魔王》を相手に二連勝したんだ、二つ要求しないだけ奥ゆかしいと思うぞ」

「むぅ、そういうことなら仕方ないな。んじゃ、大サービスで一個だけ聞いてやるヨ」

 

 何でお前は上から目線なんだよ。

 

「あのなあ……少しはお前も俺の苦悩を理解しやがれ。お前がサチやアスナを煽って俺に嗾けようとしてたせいで大変なことになってるんだろうが」

「その認識はちょーっと誤解があるヨ。あの子らは元々キー坊のことが大好きだったんダ、オレっちはそこに少しだけ燃料を投下しただけサ」

「うわ、悪ぶれずに言い切りやがった」

 

 女という生き物は《コイバナ》なる食べ物が大好物らしいが、こいつも例に違わずというわけか……なんて冗談はともかく。

 

「察するに恋愛相談かナ? それならオネーサンに任せておけ」

「……楽しそうでなにより。相談したいのは告白の台詞だ、採点頼む」

「オーケーオーケー。それで誰に決めたんだ? やっぱりサッちゃん?」

「いや、多分俺は選ぶ側じゃなくてフラれる側だと思うぞ。なにせ告白するのは二年後だ」

 

 さすがにそこまで待たせたら愛想を尽かされてるだろうさ、と平素な口調で告げる。ここまで芝居がかった風に陽気な表情を見せていたアルゴが首を傾げてしまった。

 

「二年って……そりゃいきなり誰かと付き合えとまでは言わないけど、それはさすがに傷心期間が長すぎやしないか? せめて半分の半分――半年後くらいにしておきなヨ、じゃないとあの子らも可哀想ダ」

「しょうがないだろ、俺のとっておきの告白台詞は二年後じゃないと使えないんだから」

「……ああもう、キー坊のわからずや。それじゃその告白台詞とやらを聞かせろヨ、駄目出しして考えを改めさせてやるから」

「いいぜ、それじゃ聞き逃さないでくれよ」

 

 らしくないな、《鼠のアルゴ》。普段ならもっと疑問を持っただろうし何がしかに気づいただろうと思うが、今のアルゴは注意力散漫に集中力不足のせいで頭の巡りが悪いし警戒も足りてない。ったく、無理してるからそうなるんだよ、頑固者。

 ともあれ口ばかり達者で初々しさを隠し切れない少女は、俺の言葉にどんな反応を見せてくれるのだろうと楽しみで仕方なかった。そんな邪な思いを隠し、胸に暖めておいたとっておきを披露しようと、彼女の耳元に唇を寄せてそっと囁く。

 

「『俺の子供を産んでくれ』」

 

 愛情と本気をたっぷり溶かして熟成させた声を流し込んだ瞬間、アルゴの動きがぴたりと止まった。それはもう見事に固まった。してやったりと内心でガッツポーズ。

 

「――って言って口説くつもりなんだ」

「キー坊、それ告白じゃなくてプロポーズ……」

 

 その通り。だからあと二年必要なのだ。

 俺は今16歳だから、結婚可能年齢になるには二年待たなくてはならない。そしてこの手の台詞は18を迎えた男が口にしないと無責任になってしまう。だから俺の次の目標はいつでも結婚できる下準備を整えることだと決めていた。

 

 既にユイという少しばかり特殊な事情を持つ娘もいるし、あの子に新たな世界を用意するという意味では彼女は俺の扶養家族に違いあるまい。ユイのためにも俺は暢気に学生だけをやってるわけにはいかなかった。ならば帰還後の目標をもう一歩進めておいても何ら問題ないのである。ユイを迎え入れることも、愛する人と家庭を持つことも、結局のところ進むべき方向性は同じなのだから。

 

「最初に責任は取るって宣言しといたほうが良いだろ? 出来ちゃった結婚とか大変だろうし」

「……うん、やっぱキー坊は感覚すれてるナ。つーかずれすぎダ。なんで根は浪漫主義者(ロマンチスト)なのに妙なところで現実主義者(リアリスト)してるんだヨ。花の十代なんだから甘酸っぱい恋愛とかちゃんと経験しとけっての」

 

 確かに男らしいとは思うけどサ、と頭痛を堪えるように額に手をやるアルゴだった。しかしお前がそれを言うかね? 甘酸っぱい恋をさせてくれなかった張本人のくせに。

 

「言ったろ? 愛想尽かされるのも覚悟の上さ」

「……多分、あの子達はそれでも待とうとするんだろうネ。ま、誰がキー坊の心を射止めるのかはわからないけどそれも一つの答えカ」

「何を他人事みたいに呆れてるんだ? 俺がその台詞を言い放つ最有力候補はお前だぞ」

「はい?」

 

 しれっとお前を逃がす気はないと告げるとアルゴは最初理解が及ばなかったのか目をぱちくりと瞬かせ、わずかの思考時間を経て鋭い目つきで俺を睥睨した。今度の紅潮は羞恥や快楽による興奮じゃなくて怒りによるものだな。

 こんな時だというのにその剥き出しの感情に頬を緩めてしまう俺は存外頭の悪い男なのかもしれない。いや、俺が馬鹿なのは今更言うまでもないことだったか。

 

「キー坊、どういうつもりダ! どうしてここまできて……!」

「――俺はお前を好きにならない」

 

 激昂しかけたアルゴをその一言で止める。俺の言葉の内容を理解できなかったわけではあるまい、しかし真意までは理解できず、アルゴは俺への糾弾を止めざるをえなかった。アルゴの表情に困惑が広がっていく。

 

「あまり俺をみくびってくれるな。ここまで来て時計の針を戻そうとするほど未練がましくはないぜ? お前が俺に遺した最後の依頼は間違いなく完遂させるさ。俺はここできっちりお前をフッてやるし、この先お前に惹かれたりしないって約束する。何なら誓約書にサインしてやってもいいぜ?」

 

 そこで笑みを引っ込めて表情を引き締め、真剣な眼差しでアルゴを射抜く。

 

「それとな、ずっとお前に言ってやりたかったことがあるんだ」

「なにかナ?」

「――たかだか15の小娘が知った風な口を利いてんじゃねえよ、耳年増も大概にしておけ」

 

 知ったかぶるのがアルゴの悪い癖だ。問題があるとすればそんなメッキだらけの役割演技(ロールプレイ)に誰も気づいてないことだな。俺もこの世界では実年齢より上に見られたものだけど、アルゴは俺以上に年齢を誤解されている。下手をすれば実年齢より四つか五つくらい上に見られてるんじゃなかろうか? それくらい完璧に《頼れる年上のオネーサン》を演じきったとも言えるわけだけど。

 悪戯好きで、意地が悪くて、皮肉屋の少女。けれど、ここにいるのは意地ばかり張って素直じゃない、そのくせ寂しがり屋な、俺と同い年の女の子でしかなかった。

 こんな世界に囚われていなければ、俺もアルゴも今頃高校一年生を楽しくやっていたんだろうな。

 

「……キー坊、それをここで持ち出すのは反則だゾ」

「だったらどうして俺の前で髭のペイントを外して素顔を晒すなんて真似をしたんだよ。未練が残ってるのは俺だけじゃない証拠だろうが」

 

 いかにも中途半端な振る舞いだと苦言を呈すと、珍しくアルゴは狼狽しているようだった。……あれ、もしかして自分の気持ちに自覚なしなのか? 可愛いやつ。

 

「もう一度言うぞ。二年後の俺は絶対に《鼠のアルゴ》を好きにならない。男一人繋ぎとめておく自信もない小娘なんぞに、そう何度も心を奪われてたまるか。……だから、もうつまらない意地を張るな。気持ちに整理をつけたら遠慮しないで会いに来いよ、俺の元カノとして歓迎してやるからさ」

 

 その言葉にアルゴは目を丸くし、それから息を呑んで――。

 

「にゃハハハッ!」

 

 大爆笑した。

 

「キー坊の癖に生意気! すっごい生意気! オレっちに向かって正面から『ガキに興味ない』とか恐れいったヨ!」

 

 陽気に、朗らかに――けれどアルゴの目尻には涙が浮かびあがり、語尾は震えていた。

 

「こっぴどく振られて安心したか?」

「うん、安心した。キー坊のひどい態度にオレっち泣けてきたヨ。……ほんと、何でキー坊はこんな女泣かせになっちゃったんだろうネ」

「悪いな、今日はとことん自惚れさせてもらうつもりなんだ。ゲームクリアの立役者なんだぜ、それくらいの権利はあるだろうさ」

「……キー坊のばか」

 

 張り詰めたものが切れたのだろう。くしゃりとアルゴの表情が歪み、小柄な体躯にも震えは伝播していく。やがて耐え切れなくなったのか、弾かれたように俺との距離をつめると、無言で俺の胸へと顔を埋めて嗚咽を零し始めた。

 

「……何も言うなヨ」

「ああ、何も言わない」

「オレっちの顔を覗き込もうとするのも禁止。乙女の秘密を暴こうとしたら絶交だかんナ」

「わかってるよ、心配するな」

 

 駄々をこねる子供のような甘え声に自然と頬が緩んでしまう。ようやくアルゴを泣かせてやることが出来た。

 昔、彼女の胸で泣かせてもらった時に、俺はもう二度と泣かないのだと決めた。そして一人の男として、いつかこの優しくも不器用な女の子を、俺の胸で存分に泣かせてやりたいと思ったのだ。それが俺がこの世界で抱いたささやかな夢だった。最後の最後になって、どうにか叶えることが出来たらしい。……魔王を打ち破った時以上の達成感だとか言ったら怒られるかもしれない。

 どれほどの時が経ったのか。震える背中をあやすように撫でている内に、長く引き伸ばされていたログアウトの兆候がアルゴにも現れ始めた。自身の身体に起きている変化に気づいたアルゴが可愛らしく唇を尖らせ、名残惜しそうな様子で身体を離す。

 

「むぅ、残念。最後までキー坊と一緒ってわけにはいかないみたいダ」

「そうだな。これでお前ともお別れだ」

 

 短く、けれどはっきりと別れを口にして、お互いの唇に小さく笑みを刻んだ。不敵に、素っ気なく、けれど真心を込めて――。

 

「じゃあな、キー坊。大好きだったゼ、オレっちの愛した黒い王子様」

「またな、アルゴ。大好きだったよ、俺の愛した俺だけのお姫様」

 

 俺達は恋人でもなければ夫婦でもなかった。では何だと問われれば、『お互いに片思いをしていただけだ』と答えるのではないだろうか。こうして最初で最後の《好き》を二人して過去形でしか口に出せなかったのだから、この結末は素直になれなかった二人が紡いだ、ひねくれた恋に相応しい終わり方だったのだろう。

 さてさて、次に会う時俺達はどんな関係を築くことになるのやら。再会は雪の降り積もる冬の日か、桜吹雪き薫風舞う春の日か、あるいは――。

 いずれにせよ楽しみでもあり、怖くもある。なにせ最後の最後まで蛇足をつけたがるのが俺達なのだから。

 

「そうそうキー坊、一人寝が寂しくなったらオレっちに会いに来なよ。結婚を前提としない大人の関係でよければ、いつでも付き合ってあげるからサ」

「ばーか、悪女を気取るのは十年早えよ。というか、あっちではそのキャラ通さないはずだろ、お前」

「にゃハハハ、気にしない気にしない。ま、精々男を磨きなよ、キー坊。最低でもオレっちがあっちでも処女を捧げたくなるくらいまでは頑張ってくれよナ」

「そういうお前は、俺が口説きたくなる女になってくれるんだろうな?」

 

 愚問だネ、と聞こえた気がした。

 光が消えた後には静寂が残る。アルゴが去り、俺以外に誰もいなくなったアインクラッドは何とも物寂しい空気が流れていた。このままログアウトできなかったらすぐに発狂してしまいそうな静寂だ。縁起でもないと苦笑を浮かべ、その時になってふとやり残した事に気づいた。

 善は急げとばかりに剣帯を解いて背から鞘を外し、目の前で黒の装飾を施された愛刀を引き抜く。残念ながらリズの作ってくれたダークリパルサーは既に天命を使い果たして無に還ってしまったが、それでも尽きせぬ感謝の気持ちは変わらない。残ったエリュシデータを逆手に握り、勢いをつけて黒塗りの刀身を地面に突き刺す。

 

「お前にも世話になったな。今日までよく戦ってくれた、ありがとう」

 

 威風堂々と屹立する刀身は日光を反射して鈍く輝く。それを見届けてから剣の傍らに大の字で寝転んだ。

 アルゴは《鼠》をアインクラッドに置いていくといったが、俺も気持ちは似たようなものだった。《黒の剣士》の役目はもう終わったのだ、ならば剣と共に剣士も眠らせるのが道理だろう。

 ここが《黒の剣士》の終焉の地であり、魔王を切り伏せたエリュシデータが《キリト》の墓標となる。それで良いし、そうであるべきだった。

 

 寝転んだまま、瞼を閉じて身体から力を抜いていく。まだ日は高いが、さすがに今日は疲れた。

 このまま一眠りしてしまえば次に目覚めた時は病院のベッドの上だろう。そんなことをつらつらと考えている内に、本当に睡魔が忍び寄ってくるのだから俺も暢気なものだった。やがてまどろみの中、アバターに光の粒子が纏わりつくのを確認し――ああ、ようやく帰れるのだと安堵の吐息を漏らしたのだった。

 

 

 

 

 

 気がつけば空の上だった。

 未だ太陽は高く輝く刻限だというのに、俺の目に映る空は斜陽の時を迎え、黄昏に染まる一面の夕焼けが広がっている。それは黄金に輝く稲穂の海かと見紛うほど圧倒的な景観だった。昼と夜の隙間で燃えあがる鮮烈な赤の色彩が眩しく視界に灼きつき、眼下には分厚い雲の絨毯が敷かれている。

 よくよく目を凝らして足元を観察すれば、そこは透明な水晶床が足場になっているのがわかった。黄昏色の幻想が織り成す空中庭園はえも知れぬ美しさを奏で、荘厳華麗な彩りに満ちた景観が立ち尽くす我が身に重力を解き放った浮遊感をもたらす。それはまるで空を住居とする天界の種族に生まれ変わってしまったかのようだ。

 

 視界の先、遥か彼方には崩落して行く巨大な石と鉄の城――浮遊城《アインクラッド》の姿が視認できた。風が微かに運びくる崩壊の音色を耳にし、塔が、街が、山が、森が、湖が、あらゆる建物が崩れ落ち、無に還ろうとしている様を目の当たりにして、本当に全てが終わったのだと胸に実感が染みこんでいく。

 

 されど待ち人は未だ訪れず。

 

 客人のもてなしがなってない浮遊城の主のせいで見事に肩透かしをくらい、泣く泣く無聊を(かこ)つことになってしまったため、彼方の浮遊城が朽ち行く様をじっと眺めやることで暇を潰していた。長きに渡り暮らしていた世界の終焉に、俺自身もう少し感傷に浸れるかと思ったものだが、生憎とそうでもなかったらしい。心は平静のまま無感動を保ち、箱庭の終わりを見届ける双眸は冷めたものだった。

 

「ゲームクリアおめでとう、キリト君」

 

 22層のログハウスが崩れ落ちたところで不意に背後から声をかけられた。突然現れた気配にやっぱり生きてやがったか、と内心で諦観の溜息を一つ。公平性を謳うなら俺らと同じリスクを背負えとか、この期に及んで俺に一体何の用だとか、どんな台詞で詰問するべきか思案に耽りながら、ゆっくりと振り向く。

 

 そこには清潔そうな白いシャツに簡素な柄のネクタイを締め、その上に白衣を羽織るいかにも研究者然とした男が佇んでいた。理知的な瞳に柔和な光を湛え、ぴんと伸びた背筋が痩身ながらも健康的なゆとりをもたらしている。顔はヒースクリフと似ても似つかないと思うのだが、それでもどこかに面影があるように感じるのは、そのどちらもが常人とは異なる超然とした空気を纏っていたからだろう。

 目の前の男こそが俺達の二年を奪った黒幕であり、自らの作品であるソードアート・オンラインをデスゲーム化させ、一万人を虜囚にした張本人だ。最終的に三千近い死者を出す空前絶後の大事件を引き起こした首謀者。まさに狂気の犯罪者と呼ぶに相応しい男――名を茅場晶彦。

 

 この二年間、敬し憧れ、憎んで見上げた全ての元凶は、透明な笑みを浮かべて俺と相対していた。その澄んだ瞳と満足しきった表情がひどく腹立たしく思えて、どうにも心がささくれ立つのを止められない。よくも俺の前に顔を出せたものだ。その厚顔無恥さと傍若無人さは留まることを知らない、感心するやら呆れ果てるやらである。

 結局、胸に渦巻く感情がごちゃごちゃと絡みあい、無愛想な顔をして迎え撃つくらいしか出来なかった。

 

「祝辞はありがたく受け取っておく。けどな、今更何の用だ? 俺はもうあんたの顔も見たくないんだが?」

「相変わらず手厳しいな、君は」

「本気でそう思ってるなら一度頭の中を診てもらってこい。多分世の中が少しだけ平和になるから」

「ふむ、世界平和に貢献できるのならば考える余地はあるな」

 

 また溜息が出た。

 

「実行に移す余地はなさそうだけどな。……本当に何の用だ、茅場。まさか俺と仲良くお喋りしたかったわけじゃないだろう? さっさと用件を言え」

「特にこれと言った理由はないよ。キリト君はこの世界を生き抜き、終わらせた英雄だ。そんな君と最後に話しておきたくてこの場を用意させてもらった。現実世界への帰還が少々遅れることはご容赦願うよ」

 

 本気かと一瞬眉を顰めたものの、詮無き事かと思い直す。アインクラッドの創造と終焉。二つの本懐を果たした男の言葉を今ここで疑うのも馬鹿らしいし、その必要があるとも思えなかった。お互い自身を偽る理由は喪失していたのだ、ここで虚言を弄する意味など何処にもない。

 

「他の連中のログアウトは無事終わったのか? それさえ聞かせてくれればあんたの酔狂にも付き合ってやるよ」

「ありがとう。生き残りプレイヤーについてだが心配はいらない。私と君を除く7102人のプレイヤーがログアウトを完了した事は既に確認している。彼らは今頃何処かの病院で目覚めているはずだ」

「そうか、よかった」

 

 ほっと胸を撫で下ろす。今しがた口にした通り、それさえ聞ければ十分だ。今の俺は機嫌が良いため、少しくらい譲歩してやろうという気にもなれる。初めから選択肢がないとか言ってはいけない、気にせずゴミ箱にポイである。

 

「あの城だが――」

 

 と、茅場が俺から視線を外し、遠くに聳える石と鉄の城のほうへと身体ごと向き直った。俺も合わせて崩壊中のアインクラッドを改めて目に映した。巨城の崩落は止まらず、下の層から順々に剥がれ落ちていく。既に体積の半分近くが瓦礫と化していた。

 

「ソードアート・オンラインを稼動させているメインフレームはアーガスの地下五階に設置されていてね。今はその記憶装置でデータの完全消去作業を行っているところだ」

「なるほど、城の崩落状況がそのまま作業の進み具合になってるわけか」

「そういうことだ、なかなか凝った演出だろう?」

「絶景ではあるな」

「そういってもらえると嬉しいよ。一人で見届けるのは少々寂しかったからね。それでどうだったかな、あの世界は。楽しんでもらえただろうか?」

 

 そんな台詞を臆面もなく言えるお前を尊敬するよ。叩き斬ってやりたい。

 

「それは娯楽としてか? それともデスゲームとして?」

「ではエンターテインメントとしての評価から聞こう」

「俺はこの二年、剣を振ることに明け暮れてたからな。あくまで戦闘方面の意見に留めておくけど……現実世界とは異なる法則を持ち込んだ、という意味では斬新な世界観になってたと思う。HPの概念とソードスキルの意義、この二つを持ち込んだことで既存の常識は通用しなくなった。例えば現実世界の格闘技を修めた経験も、仮想世界で場合によっては不利に働く。この事だけでも相当面白い試みだったはずだ」

「異なる法則か……」

 

 何が奴の琴線に触れたのかは知らない。茅場は俺の言葉に深く考え込むような仕草を見せたが、気にせず続けてしまう。

 

「現実世界の歴史――剣術諸流派の勃興と衰退の中で、変わらずその根底にあった理念が《一撃必殺》だった。この根本思想は現代の剣道にも脈々と受け継がれている。そもそも刃物で切り付けられれば人は死ぬし、そうでなくても大怪我確定なんだから、悠長に防ぐとか避けることを考えるよりは、先手を取る必勝の理を突き詰めた方が合理的なわけだ」

 

 誤解されがちなのだが、カウンターだとか返し技というのはあくまで『仕掛けのタイミングを見切って機先を制する術理』を指すわけで、言うなれば実力の高い側しか成功させることの出来ない戦機だったりする。つまりは強者の技なのだ。アインクラッドでは《聖騎士》が得意とした戦術でもある。

 剣理の帰結として実戦では受身に回った側が圧倒的に不利になるし、一般的な意味で使われている『後の先』の戦い方――『攻撃を受けてから反撃する』のは敗北必至の悪手でしかない。

 

「だが、アインクラッドに現実の武芸百般をそのまま当てはめることは出来ない、HPの概念があるからだ。タンク型のような『頑強さを武器に戦うスタイル』が成立するのはそのためだな。まあ、それ抜きにしても現実世界を生きる人間の身体能力と、仮想世界に存在するプレイヤーの発揮できる身体能力には大きな差があるから、この前提条件を考慮することなく技術の優劣を語る事自体ナンセンスに違いないわけだけど」

 

 少々語弊はあるが、プレイヤースキルの足りない人間はタンク型を参考にするのが一番理に適っていると思う。現実世界では敗北必至の戦術でもアインクラッドでは十分に通用する。それどころか主流ですらあるのだ。

 一事が万事この調子なのだから、つまりは世界が違う、法則が違うという根本的な問題を理解しない限り、この世界では強者足り得ないのだった。

 

「現実とは異なる新たな戦術の構築か。キリト君は火力至上主義を念頭に置く戦闘スタイルを選んだのだったな」

「それが一番デスゲーム攻略に適したスタイルだと思ってな」

 

 やられる前にやれ、あるいは攻撃は最大の防御。

 

「生き残りを賭けた最善は敵と戦わないこと、次善がHPを減じる可能性を徹底排除することだった。回避でも防御でもなく、短期決戦を図ることで相手の攻撃の機会そのものを潰す。それが俺の基本戦術だからな、結果的に俺の命も仲間の命も守れる」

「ふむ、確かに合理的だ」

 

 感心したような口ぶりの茅場だったが、その程度は俺に言われるまでもなく理解していたはずだ。その上で攻勢戦術を選ばなかった。《聖騎士》が英雄として君臨するために、多くの味方を直接守り感謝される絶対の盾となって皆を鼓舞する必要があったのだろう。

 俺は戦死者を減らすためにダメージディーラーとして戦闘時間の短縮を目指し、ヒースクリフは自身のシナリオを作るために実力を見せつけ、戦場を共にするプレイヤーを守る必要があった。つまりはそういうことだ。

 

「ソードスキルシステムは良く出来てたんじゃないか? あれのおかげで戦闘に不慣れなプレイヤーも最低限戦えてたからな。トッププレイヤーになるにはソードスキルに頼りきりじゃ無理なんだし、絶妙なバランスってやつを実現してたと思うぜ」

 

 故にこそ剣の世界であり、剣が全てを決する物語足りえた。

 

「ソードスキルは火力に秀でている代わりに隙が大きい。通常攻撃は自由度が高い代わりに火力不足だ。だからこそ上を目指したいならどちらも使いこなしてやる必要がある。ソードスキルに頼りきりなプレイヤーを『下手くそ』と呼ぶのなら、プレイヤースキルにこだわって通常攻撃に耽溺するプレイヤーは差し詰め『愚か者』だな。どっちもボス戦じゃ使い物にならん」

 

 前者はプレイヤースキルの不足から攻撃を通すことが出来ず、後者は純粋に火力不足だ。

 火力が足りなければレベリングに支障を来たすし、仮にレベルが十分でもボスの強靭さを前にすれば碌にダメージを与えられない。結果的に味方の足を引っ張り、戦闘時間が延びて犠牲者を増やすことになる。

 

「君は言葉を飾らないね」

「遠慮のいらない相手だからな、普段はもう少し取り繕ってるよ」

「光栄と思うべきかね?」

「さてな」

 

 苦笑を漏らす茅場にひょいと肩を竦める。お好きにどうぞ。

 

「諸悪の根源に非難される謂れもないぞ。俺はデスゲーム下での生き残り策を踏まえて実力不足や多様性を否定してるのであって、普通のゲームだったならこうも悪し様に貶したりしないさ。俺自身縛りプレイを率先して楽しむだろうし。そういう意味じゃ決闘のオプションにソードスキル禁止モードがあっても良かったな」

「なるほど、それは考えたことがなかったよ。残念ながら今後の参考には出来ないがね」

「……そりゃそうだろうよ、もう日本国内にあんたの居場所なんざ残ってないんだから」

 

 気にした風もなく笑う茅場に、自然と俺の目つきも険しいものに変わっていく。どうしてこの男は人の感情をこうも逆撫でしてくれるのだろう。どうしてこんなにも――平然としていられるのだ。

 

「なあ茅場、お前は一体何がしたかったんだ。どうしてこんな大それた事件を引き起こした」

「……風がね、吹くのだよ」

 

 茅場は俺の問いにしばし沈思してから、崩壊するアインクラッドを見つめてぽつりとつぶやく。

 

「風?」

「そう、風だ。ここはお前の生きる世界ではないと、常に私の耳に告げて魂を風化させようとする……寂しさを乗せて吹く風だ。いつしか私は、その風を翼に受けて心に焼きついた世界へと旅立つ夢に囚われた。――あの、空に浮かぶ巨大な城にね」

 

 フルダイブ環境の開発を知る以前から囚われていた夢なのだと茅場は言った。同時に、いつか飛び立つために引きちぎらねばならない足枷も感じていたのだと。

 

「破綻した夢だと知りながら、それでも私には信じる以外の道はなかったのだよ。それが茅場晶彦なのだと悟ってしまったのは何歳の時だったか。あるいは、狂わずして叶う夢に価値を見出せなかったのかもしれないな。……キリト君、私は今でも信じているのだ。ここでないどこかには、必ず私が見た城が存在するのだとね」

 

 哀れだと思った。茅場は全てを投げ打って唯一を求めたのだ、醒めない悪夢に命を委ねてまで――。

 後戻りできなかったのかと問う気にもなれない。地位も、名誉も、富さえも、この男には何の価値もなかったのだろう。いや、『あの世界』を作り出す手段としての価値しか認められなかったのか。

 

「狂人の戯言だな」

 

 投げ遣りに吐き出す言葉すら億劫だった。

 

「三千人だぞ、あんたの妄執のためにそれだけの人が亡くなったんだ。彼らを生かして帰す選択肢は本当になかったのか?」

「残念ながら、どんな世界でも死者は消えねばならない。だからこそ命は尊く、決して軽々に扱うことなど許されはしないのだ。その普遍の理を侵すことは命への冒涜だよ」

 

 故に彼らの魂は還らない。そう言って賢しらな言を結ぶ茅場に、カッと頭に血が昇る。激情を押さえつけることもせず、ただただ茅場をきつく睨み据えた。

 

「あんたがそれを言うのか! 誰よりも命を軽くしたあんたが……!」

「死は誰にでも訪れる。良き死も、悪しき死も。そこに例外はない」

「違う! 俺が言ってるのはそういうことじゃない!」

 

 届くはずがないと知りながら、どうして俺はこんなにも猛っているのだろう。頭の冷静な部分がそんな冷めた諦念を吐き出していたが、構わず続けた。意味なんてない。俺が言わずにはいられないだけだ。

 

「チュートリアルの時にあんた言ったよな、既に213人の死者が出てるって。悲惨だと思ったよ、最初に死んだ連中は俺達のように生きるために努力することすら許されずに殺されたんだからな。彼らは不幸な行き違いで死んだんじゃない、デスゲームを成立させるための生贄だった。あんたは彼らを人柱とすることで、現実世界からの干渉を断ち切ろうとしたんだ」

 

 茅場は一万人の人質を取り、実際に大量の死者を出すことで虚仮脅しではないのだと証明した。その唾棄すべき手段によって、政治的、人道的な面で現実世界側からの救出を牽制ないし封殺したのである。

 

「チュートリアル以降に出た戦死者だって同じ理由だ。俺達にデスゲームだと理解させるだけなら、戦死者をアインクラッドとは別の空間に幽閉しておけば済む話だったんだからな。あんたがそれをしなかったのは、継続的な犠牲者を出すことで現実世界に警告を発し続ける必要があったからだろうが」

 

 デスゲーム存続のためには現実世界に『目に見える犠牲』を示し続けねばならなかった。たとえ茅場が《本物の異世界の創造》のために、紛い物ではない死を必要としていたのだとしても、そんなものはそれこそ茅場の都合でしかない。

 

「自分の都合で三千人殺しておきながら、命は軽くないだの死は普遍だの、よくも恥ずかしげもなく言えたもんだな。不愉快だぜ、茅場」

 

 目的のために本物の死を望み、手段のために大量虐殺を選んだ。それこそが茅場晶彦――常軌を逸して妄執に憑かれた怪物の名だ。

 俺の侮蔑にも茅場は何も反応を返さなかった。怒りに声を荒げることも、沈痛に表情を歪ませることもなく、ただそこに黙して在り続ける。凪いだ顔で、大部分が崩れ落ちたアインクラッドを見つめていた。

 その様を目の当たりにして急激に頭が冷却される。どこまでも俺の独り相撲でしかない、その事実を前に空しくなった。

 

「……茅場晶彦は間違ったよ、あんたはどこまでも一人でよかったんだ」

 

 誰にも理解されないまま一人でいるべきだったのだ。寂寥に喘いで、凍える寒さに身を震わせて、それでもあんたは一生孤独を貫くべきだったんだよ。

 

「なまじ他人に共感なんて望むからこんな結果を招く。馬鹿馬鹿しい、あんたの世界はあんた一人で完結させておけ。それで良かったし、そうであるべきだった。――茅場晶彦の都合を俺達に押し付けるなっ!」

 

 乾いた心を世界に押し付けるな、変えようのないものを力ずくで押し潰してまで否定しようとするんじゃない。

 そんな俺の弾劾も、やはり茅場には届かない。叫び。嘆き。その全てが空しく消えていくだけだ。そんなお前が大嫌いだよ、茅場晶彦。

 

「私は間違った、か。ふふ、君の言う通りなのだろうな。だがね、私はこの結果に満足してしまったよ。間違いを正す術など、とうの昔に忘れてしまったのだろうな」

 

 満足したと茅場は言った。嘘じゃないだろう、この男が今浮かべている顔は、ヒースクリフが最後に見せたものと同じものだった。満ち足りた、未練など何一つとしてない、そんな顔だ。夢に溺れた末路だとしても、どうせそれだけでこいつは満足したのだろう。こんな結末を描ききって、こんな最後を迎えて、それでもあんたは満足しきったのだろうさ。

 

 ――最低にして最悪の勝ち逃げだ、禄でもない……!

 

 こうして直に言葉を交わして胸に去来するのは『やってられない』という投げ遣り極まる心境でしかなかった。

 この結末だって滑稽極まりない幕引きとしか思えない。だから俺は否定する。かつて憧れた男の辿った軌跡と、俺が辿ったかもしれない可能性を、決して肯定などしない。

 

「俺はあんたにはならない。あんたが無価値と切って捨てた世界で、噛り付いてでも生を全うしてやる。それが俺からあんたに送る餞別だ」

「それもいいだろう、君の行く末に幸多からんことを願っている。……最後に君と話せて良かった。そろそろ私は行くとするよ」

「待てよ」

 

 振り向く茅場にふてぶてしい笑みを向ける。

 

「まだ何か言い足りないことがあったかな?」

「ああ、とびっきりの文句があるぞ。あんた主催のデスゲームに二年付き合って、その上ゲームクリアをした勇者なんだろう、俺は? それだけ働かせておいてクリア報酬の一つもないのかよ、ケチくさい男だな」

 

 俺の不遜な要求に茅場は最初呆気に取られたように目を見開き、それから泰然とした佇まいを崩して楽しそうに笑い出した。

 

「やはり君は面白いね。……いいだろう、少々待ってくれたまえ」

 

 おや、ほんとに何かくれるのか? そういえばこの男、冗談が通じなかったか。まさかこうも真面目に受け取られるとは思わなかったから、今更ただの嫌がらせでしたとも言えない。澄ました顔で鷹揚に頷き、無言で作業の終わりを待つ。……やばいものなら後で捨てておこう、呪われたら嫌だし。

 そんなことをつらつら考えていると、不意に茅場が腕を振った。すると銀色に輝く卵型の結晶が出現し、ゆっくりと宙を滑って俺の手に収まる。掌の上では結晶が微かに明滅していた。

 

「これは?」

「《世界の種子(ザ・シード)》と名付けた。フルダイブシステムを完全稼動させるための制御プログラム群だよ。そこそこの回線さえ確保できれば誰にでも仮想世界を構築できるお手軽ソフトを開発していたのだが、この卵はプログラムソフトを起動するための《鍵》として用意した。本体はデータチップに落として後々君の手に渡るようにしておこう。その受け渡しをもってゲームのクリア特典報酬とさせてくれたまえ」

 

 茅場の説明を聞くにつれ、顔は強張り頬も引きつっていくのを自覚した。この男、なんて危険なものを渡しやがる。俺の好きにすれば良いと言われてもな……。さて、どうしたものだろう?

 そんな風に戸惑う一方で、毒食らわば皿までと少々リスキーな思考も顔を覗かせていた。ユイの事や俺自身の将来に思いを馳せ、この危険物も上手く使えば大きな武器になるであろうことを踏まえると、軽々に破棄するのも考え物だ。

 

 何にせよまずは情報収集だな。この二年で世の中がどう変化したのか、俺達がこれからどう扱われるのか。MMOを取り巻く環境以外にも確認すべきことは山ほどある。まずはきっちり現状把握に努めよう、動くのはその後だ。

 思索に耽っていたのは極々わずかだったはずだが、俺が顔をあげた時にはもう茅場晶彦の姿は何処にもなかった。物音一つ残さず忽然とその姿を消していたのである。

 

 ――さらばだキリト君。縁あらばまた会おう。

 

 一陣の風が聞き覚えのある声を持ち寄り、空耳だと告げるようにあっさりと吹き抜けていく。

 その時、俺もまた空中庭園を後にする刻限が訪れたことを知った。

 

 茅場は旅立ったのだろう。おそらくは死ぬまで、あるいは死んでからも自身の望む城を求めて彷徨い歩くのだ。身勝手なまま、狂おしい渇望を抱いたまま、一人終わることのない旅路を往く。それが現実を生きることなく幻想に取り憑かれたあの男が見据える、いつか惨めに消えていく未来なのだろうと思う。

 

 もう一度、口の中で小さく繰り返す。俺は怪物(あんた)にはならない、と。

 

 視線を巡らせ、空の彼方に焦点を動かす。雲と共に浮かんでいた巨城も既に崩れ落ちてしまったのだろう、アインクラッドの威容は確認できなかった。そう、あれほどの巨大建造物も綺麗さっぱり消えて、俺の目に映るのは夕焼けに染まる広大な天の原だけだったのである――。

 

 

 

 

 

 一度死んで蘇って、帰れると思ったら上空高くに呼び出されて、三度目の正直で目覚めた先はさすがに現実世界のようだった。筋肉が萎縮しすっかり骨と皮だけになってしまった身体と、落ち武者かと思うほど無造作に伸びてしまった長髪、そして病院を示す消毒薬の匂いがここはアインクラッドではないことを教えてくれる。あの世界ならば身じろぎするのにこれほど苦労することもない。

 俺が裸で横たわっていたベッドはジュル素材の変わった形をしていた。そういえば寝たきりの患者を介護する画期的な発明がなされたとか昔話題になっていたことを思い出す。皮膚の炎症を防ぎ、老廃物も分解してくれるというのだからすごい。こうして世話になった身としては開発者様様である。

 

 ゆっくりと身体を起こし。改めて周囲を確認する。急な光に慣れていない視界はぼんやりと滲んでいたが、備え付けの棚の上に果物が幾つか置いてあるのを見つけた。

 俺が寝たきり状態になっても見舞いに欠かさず訪れていてくれたのかと、安堵と謝意、家族への尽きせぬ感謝が止まらない。つうっと頬を流れる水を自覚し、今までのように我慢しようとせず、自然と湧き出す気持ちに委ねることにした。つまらない意地を張るのはもういいだろうと苦笑を零す。

 

 程なく医師や看護士が駆けつけ、検査やら問診が始まってしまう。関係各所への連絡は病院側でしてくれたらしいので、俺は弱った身体に鞭打って彼らに協力するだけだった。

 安静にと言い残して医師が出て行ってから小一時間ほど経った頃だろうか。戸惑いがちにドアを二度ノックする音が耳に届く。了解を伝えると扉越しにひゅっと息を呑む気配を感じ、そのまましばしの沈黙。やがて意を決したのか、おずおずとした様子で制服姿の少女が病室に足を踏み入れた。

 

 桐ヶ谷直葉。俺の血縁上の従妹であり、戸籍上の妹だった。

 懐かしさに目を細め、穏やかに彼女を迎え入れる。眉の上で一直線にカットし、肩口で切り揃えた黒髪は以前のままだ。しかしながら、昔はやんちゃな印象を与えていた勝気そうな瞳ときりりとした眉も今は気弱げに垂れ下がり、その不安そうな眼差しと相まって一瞬スグなのかと目を瞠ったくらいだった。

 スグが俺の二年を知らないように、俺もこの二年スグがどう過ごしたのかを知らない。とりあえず急激に女性らしい柔らかさを身に着けていたことは間違いなさそうだ。背も伸びているし、身体も女らしい曲線を帯びている。極めつけはアスナやリズに匹敵しそうな豊満な胸に驚かされ――そろそろ止めておこう。

 

「……お兄ちゃん? 本当にお兄ちゃんだよね?」

「ああ、桐ヶ谷直葉の不肖の兄、桐ヶ谷和人だ。ちゃんと足もついてるぞ」

 

 そんな不埒な兄の内心など露知らず、およそ二年ぶりに再会した妹は緊張に強張った顔に憂慮を浮かべた瞳を覗かせていた。それでも俺が目覚めてしっかり受け答えしている姿に安堵したのか、泣き笑いのような顔でふらふらとベッド脇まで近づく。そうして震えた手で恐る恐る俺の左手を包み込むと、声を殺して泣き出してしまった。

 ほんと、俺はなんでこんな良く出来た妹を遠ざけてたんだろう。もう何というか、あまりに健気なスグの様子に昔の自分を縊り殺してやりたくなった。

 

 スグと顔を会わせたらどんな顔をして今までの不実を謝ろうか。

 そんなことばかりを考えていたのに、こうして妹と面と向かい合い言葉を交わしている内に、別の欲求が生まれ出てきてしまった。考えてみれば唐突に謝罪なんてされてもスグは迷惑だろう。今は別の気持ちを届けるのが正解だ。

 右手でスグのさらさらな髪に優しく手櫛を入れ、まずは落ち着かせようと飽きることなく撫で続けた。それからゆっくりと言い含めるように口を開く。

 

「――ただいま、スグ」

「――おかえりなさい、お兄ちゃん」

 

 健気だ、本当に。

 スグはどうにか顔をあげると、涙でくしゃくしゃにしながらもにこりと笑顔を浮かべ、出来る限りを尽くして俺に応えてくれたのだ。身体が自由に動いたなら力一杯抱きしめていたかもしれない。それくらい感謝の気持ちが湧き出て止まらなかった。

 ありがとう、と続けた俺に、スグは幼げな仕草でこてりと首を傾げてしまう。そんな妹の純朴な様を目にして、気づかれぬよう苦笑を浮かべる。

 囚われた二年と、それ以前の数年。スグとの間に作ってしまった溝は決して浅くはないけれど、それはこれからゆっくり埋めていけばいい。穏やかな心境でそう思えるようになれたのがとても嬉しかった。

 

 きっと俺はこの時になって初めて、現実世界に帰還したことへの実感を得た。本当の意味で喜ぶことが出来た。ただいまと告げて、おかえりと応えてもらった事で、やっと俺の二年間に終止符を打つに至ったのだろう。仮想世界に逃げ込んだ二年前には思いも寄らなかった心の声も、何の憂いもなくこの胸に受け入れることが出来る。

 今はただ、この幸福な現実を噛み締めよう。それが俺の勝ち取った最大の報酬なのだから。

 

 

 

 ――帰ってきた、この世界に……っ!

 

 

 




 全24話をもちまして《ソードアート・キリトライン》堂々の完結です。
 初投稿は暁様で2013年9月、その後ハーメルン様に引っ越してきたのが2014年2月、最終話更新が2015年1月ですから、完結までにかれこれ一年半近く費やしてしまいました。初期からお読みくださっていた方、こちらに移ってからお読みくださった方、等しく感謝を捧げさせていただく次第です。最後まで当作品にお付き合いいただき、本当にありがとうございました。

 では恒例の補足です。
 最終話で『アルゴの年齢=キリトと同い年(誕生日はキリトが先)』と明かしましたが、彼女は公式では未だ年齢不詳です。あくまで拙作独自の設定としてご承知おきください。
 参考までに拙作では、アインクラッド終了時点でキリトとアルゴが高校一年生、アスナとリズベットが高校二年生、サチが高校三年生、シリカが中学二年生、直葉が中学三年生となりますね。サチも公式では、アインクラッドにログイン時点で高校生と表記されているだけで正確な年齢はわかりませんし、全員の誕生日が判明しているわけでもないので学年表記とさせていただきました。

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