本の虫、という言葉がこの国にはある。『本が非常に好きで読書ばかりしているような人』や『本を四六時中読み漁っている人』などと率直に言えば活字中毒な人物へと向けるべき言葉だ。とにもかくにも本を読み漁ってれば本の虫と呼ばれるべきなのだろう。
ちらり、と自身の座るカウンターの内側から陽当たりの良い席に座る虫仲間を見る。いや、仲間と言うには語弊があるか、僕と彼女の接点など同じ図書室を利用しているだけの他人だ、仲間とは言い難いだろう。
一瞬だけ視線を向けて記憶に焼き付けた姿、背に向けた窓から差し込む陽光に淡く輝く蜜の髪、手元の物語に心馳せているのであろう甘やかな微笑み、細工めいたしなやかな指が頁を捲るす姿は蝶が羽ばたいているかのようだ。
あぁ、彼女は蝶だ。本の蝶だ。
愛らしい蝶の姿に弛みそうになる頬を内側から噛んで押さえる、異性を盗み見てだらしない顔を晒すのは流石に拙い。あまり人目を気にするような質ではないと自覚してるが羞恥心を棄てたつもりはない、まかり間違って一人でにたにたと笑ってる姿を蝶に見られでもすれば僕は恥のあまり舌を噛んで自分を始末してしまうだろう。
焼き付けた記憶を胸にしまい、手元の本へと視線を下ろす。どこまで読んでいたか、そうだ、主人公が片思いしていた相手に想いを伝えたシーンだったはずだ。普段ならばこういったムズ痒くなるロマンチックな話を読むことは少ないがコレを手にとったのはきっと僕自身に心境の変化があったからだろう。そのせいか読み漁るジャンルの幅が増えて蝗のような雑種ぶりになってしまった。
僕は蝗だ。本の蝗、雑食で地味な蝗だ。
人気の少ない図書室、誰かが頁を捲るおとだけが疎らに耳に届く。
ふと、人の気配を感じて視線を手元からカウンターの向こう側へと移す。
「これ、貸し出しお願いします」
「あ、はい」
蝶がいた。
不意打ちに声が裏返りそうになった。
「この図書カードに記入して下さい」
「はい」
間近にいる蝶に心が浮わつくが、図書委員の仕事を果たさねばともう一度頬の内側を噛んで表情を引き締める。だらしなく笑う顔を見られたくないのだ。
蝶が差し出した見覚えのある本、その裏表紙内側に挟まれていた図書カードを取り出して手渡す。
『伊予島 杏』
それが蝶の名前らしい。
かつて借りるために記入した僕の名前の下に蝶の名前が記された。
「はい、確かに。返却期限は一週間です」
「わかりました」
名残惜しいが蝶とのやり取りはこれでおしまいだ。彼女はただ本を借りにきた生徒で僕はただの図書委員、接点などそれだけなのだ。
手元の本に視線を落とそうとして、蝶が去っていないのに気付く。
「……えと、まだなにか?」
声が裏返りそうになるのを耐えつつ、カウンターの前で羽根を休めていた蝶に訊ねる。まさか、僕の仕事に不備があって困らせてしまったのだろうかとヒヤリとしながら今しがたの一連を思い返す。だが、特に何も無いはずだと内心で首を傾げた。
「いえ、その……その本」
「本?」
蝶が細工めいた手で指差したのは僕の手元。
「私、そのシリーズのファンで……でも他に読んでる人がいなくて……」
「あぁ、なるほど」
合点がいった。これは僕にも覚えがある気持ちを彼女は抱えているのだろう。
「いいですよね、このシリーズ。どの話も焦がれる気持ちが鮮明に描写されていてとても没入できる」
「ですよね! ……はっ」
静かな図書実に華が開くような声が通り、蝶が一瞬後に恥じらいながら肩を縮めた。
「好きな本を語れるというのは心昂りますよね、気持ちは解りますが図書室ではお静かに」
「……はい」
同じ穴の狢、同好の士、蝶はそういった相手を求めていたのかもしれない。
僕もいい本を読んだ後は誰かとその話について語らいたいという願望に苛まされる事が多いからすぐに解った。
「ふむ、一週間ですね」
「……えと?」
「僕も委員の仕事を終えたらこの本を借りて帰るつもりだっだんですよ。そして、貴女が借りた本は僕が最近読んだ本の中では特に気に入ってるやつでしてね、誰かと感想を語らいたいと思うほどに」
「……!」
回りくどかっただろうかと考えるまでもなく華を咲かせる蝶。
声が裏返りそうになるのを耐えた甲斐があった。
「また来週、ここで逢えますか?」
「はい、喜んで」
飾り気が無さすぎたかもしれない誘いの言葉、返答は是。
「楽しみにしてますよ」
「こちらこそ」
再会を約束した別れの言葉。蝶の蜜のような後ろ髪を見送る。
「~~~~~~~っ!!」
遠い場所を飛ぶ、華やかな蝶との接点。気付けばカウンターの陰で腕が震える程に拳を握って小さくガッツポーズしていた。
彼女は本の蝶だ。
僕は本の蝗だ。
形は違えど同じ本の虫だ。
この接点をきっかけに深い仲になれたら良いなと、手元の物語のように想いを伝えて心通わせる事ができればと、胸が高鳴った。
あんずんとあんあんずんずんしたい