催眠おじさんVS美少女勇者:地球最大の決戦!RtA 作:ルシエド
銀と園子は、ジリジリと焼けるような熱さの中、歩道をまったり歩いていた。
八月の猛暑が照りつける。
暑いのではなく、熱い。鉄板の上のように熱い。
焼き肉になりそうな気分であったが、友達と歩いているとそれだけで暑さが和らぐような気がして、園子はこういう時間も割と好きだった。
「須美は用事あるみたいだし、二人でどっか寄ってく?」
「そうだね~どうする~?」
「イネス! アイス食おうぜ!」
「イネス好きやんね~」
その横を、白髪の少女と成人男性が物凄い勢いで走り抜けていった。
「元気だねえ」
「元気だなあ」
シズクが走り、おじさんが追う。
歩幅でおじさんが勝り、脚力でおじさんが勝り、懸命さでもおじさんが勝っている。
それでも互角なのは、シズクの走り方が上手いからだ。
体重移動、関節の使い方、頭の上からつま先までの力の使い方と力の流れの制御、全てがおじさんと天地ほどに差があった。
しなやかで、無駄がなく、技術ではなく感覚で構築されるシズクの疾走は、プロのアスリートというよりは、サバンナの肉食獣を思わせた。
「シズクてめっ逃げんな! そんなことのために人格交代能力付与したわけじゃねえんだぞ!」
「知らねー! 貰ったもんをどう使うかは俺らの勝手だろうが!」
『そうだね』
おじさんがしずくとシズクに任意の人格交代能力を与えてしまったため、しずくを問い詰めようとしてもすぐシズクに代わって逃げてしまう。
シズクは街路樹を蹴って塀の上に飛び上がるといった、軽業師が何百何千と練習してようやくできるような動きを、息をするようにこなしていく。
まるで猫だ。
身軽で軽快で、肉体の使い方を知る猫。
イタズラ防止のために普通の人間は登れないようにしている信号機ですら、シズクは僅かな出っ張りや周囲の建造物を利用し、するすると登っていく。
信号機の上で小馬鹿にした表情をして、シズクはおじさんを見下ろした。
そこまで上がれば、おじさんの手は届かない。
猫のような可愛らしさがあるのがしずくなら、猫の獰猛さがあるのがシズクであり、シズクの動きはまだに猫そのものだった。
他にたとえようもなく、獣そのものである。
獣が人に従う時は二つある。
主に恩義を感じた時と、強者に力で従わされた時だ。
おじさんに、この獣を従えさせる物理的な戦闘力は無かった。
「俺に言うこと聞かせたけりゃ催眠で操ってそうすりゃいいじゃねえか、ほらやれよ」
「ぐっ」
「あっ、悪い悪い。催おじの催眠俺には効かないんだっけ?
じゃあ言うこと聞かせらんねーよな、うははっ! 諦めろよ!」
「テメー! ヤンチャ小娘も大概にしろ! 遊びじゃねえんだぞ!」
「遊びのつもりなんてねえよ!」
「あとスカートの中身見えそう」
「ぶっ殺すぞ!!」
『し、シズク、今日履いてるのは人に見せられるやつじゃない……!』
「くゥらァ! しずくのパンツ見んじゃねえ!」
「たわけたことほざいてんじゃねえぞ。
今表に出てんのはお前だろ。
じゃあ小生が見るとしてもお前のパンツだわ。
姉のパンツを妹が履いてるとこ見られて恥ずかしいのは姉か?
違えだろ?
恥ずかしいのは妹だろ?
誰が履いてるのか、だ。しずくのパンツは見られねえし、しずくの尊厳は守られる」
『あ、私のパンツじゃないんだ。それならよか……よかった?』
「お、俺のパンツも見んじゃねえ! 一万回殺すぞ!」
「もうちょっと右に行ったら小生にも見えそう」
「見んじゃねー!」
おじさんの高度な情報戦によってシズクは顔を真っ赤にし、信号機の上から降りて来た。
獣には知をもって勝利する。
まさしく人間の知性と理性の証明であった。
獣の身体能力を人間の知をもって仕留めるのは、獣を狩る人類の歴史そのものを体現するような美しさがあり、おじさんの人間としてのレベルの高さを見る者に知らしめる。
シズクは機動力を奪われた。罠にかけられて足を傷付けられた俊敏な獣の如く、先程のように飛び跳ねることはもうできまい。
「小生はガキンチョのパンツに興奮はせんぞ。
その辺は安心してよろしい。だが、普段は気を付けろ。
おそらく同年代の男子にはあらゆる意味で刺激が強い。
神樹館は厳格で清楚な名門ですぅみたいなツラして女子の制服も普通にスカートだしな……」
「テメーは時々ガキみたいになるオッサンだろうが! あぁん!?」
「む……否定できんな。困った。すまん。まあそういう目では見てないから安心せい」
「しずくをそういう目で見たらぶっ殺す!」
「へい承知。つかな、しずくをそんなに想ってんなら選択肢ねーだろ」
「あ?」
「お前が戦場で死んだらしずくも死ぬんだぞ」
「―――」
「辞退しようぜ? 平和な場所でしずくを守ろうぜ? な?」
おじさんは優しい口調で、けれど真剣な目で、少女に辞退を求める。
勇者。
それは、神樹と大赦に選ばれし者。
神世紀298年のこの時代、勇者の選定の主導権は大赦にあった。
大赦が名家の娘の勇者適性値をチェックし、能力と年齢から勇者を選定し、神樹が後追いで選ばれた者に勇者の力を与える。
神樹が選んだ勇者とは言うものの、事実上、大赦の選定の追認方式であった。
そうでなければ、大赦が選んだ名家の人間だけが勇者になるなんてことにはならない。
大赦の側には、色々な理由があった。
伝統だとか、昔作った決まり事だとか、勇者の格を保つためだとか、勇者という神聖なお役目を一般人にやらせてはいけないとか、尊い血統を重視せよだとか、勇者を排出した家が力を持つから名家の特権にすべきだとか。
けれども、それが完璧に裏目に出た。
名家で、無垢な幼い少女で、勇者の資質持ち。
そんな便利な人間が、そうそう居るわけがない。
初代勇者の子孫である乃木園子と、ほとんど一般家庭と変わらない名家の末端・三ノ輪銀、合わせて二人しか見つからなかったのだ。
神樹の力を扱う勇者の最適人数は五人、無理をして六人。
そのくらいを目安にしていた大赦は大いに焦った。
それで、東郷美森を鷲尾須美にするという無理なことを実行し、『名家の娘』の総数を水増ししたのである。
それでも三人。
あまりに少ないが、大赦はこれ以上"伝統で決まっていること"を動かせなかった。
300年続く大赦が健全性を失っている証拠のような、そんな経緯であったと言える。
だがそれも、もう終わった。
そして決まったのが『四人目』の選定だ。
いずれ『五人目』の選定も始まるだろう。
四人目は急いで、五人目はゆっくり選ぶと、おじさんは大赦側から聞いている。
緊急事態への対応と、長期的な勇者の育成や選抜を、同時に考慮した形だと考えられる。
四人目は緊急追加の即戦力が求められているため、夏休み前に選定の準備を終え、夏休みの時期を選定の初段階を終える、という段取りのようだ。
何せ夏休みは学校がない。
暇な子供はとことん暇だ。
選定過程の自由度で言えば、夏休みを超えるものはないだろう。
まず勇者選定の内容を説明し、志望者を募る。
志望者を募って、夏休みの期間を利用して共通のカリキュラムで戦闘技能を叩き込む。
夏休みの終わりが迫って来た頃、トーナメント形式で一番強い候補者を決定し、その者に合わせた端末を作成し、神樹にその者を勇者に選んでもらう。
途中までは強者の選定で、途中からは旧来の勇者選定と同じように"人間が選んだ勇者"を神樹が選んで勇者の力を持たせる、変則的な形になるということだ。
真夏の猛暑の訓練に耐えられないなら、壁の外の炎の熱にも耐えられないだろうということで、候補から外していく。
最後の候補者同士のトーナメント戦は、訓練では見ることができない部分、すなわち実戦における勝負強さを見極める。
短期間の訓練で伸びる人間は、才能があるということなので、現行勇者チームに加えて実戦で更に伸びると見込まれ候補に残される。
とことん即戦力が求められている、というわけだ。
長期的に様子を見る気はない。
つまり、四人目に選ばれてしまえば即戦線に加えられる可能性が高い。
しずく/シズクともう赤の他人でなくなってしまった彼からすれば、四人目に彼女が入るなんて絶対に認められないことであった。
おじさんは好戦的なシズクに辞退を求めるが、その言葉は根本的に的外れだった。
「勇者選定の話を聞いて立候補したのはしずくだ。俺じゃねえ」
「!」
「俺はしずくの願いを叶える。
しずくのことも守る。
どっちもやらなきゃならねえ。
どっちもやり遂げんのが俺の役割だ。
しずくにできねえことをすんのが俺の存在意義。俺の生まれた意味だ」
シズクは獰猛な獣の笑みを浮かべ、自信満々に胸を叩く。
「まあ見てろ。サクッと勇者になって、サクッとあんたの役に立ってみせるからよ」
「そういうのいいから。はよ辞退しろ」
「じゃあ、サクッと世界守ってやるよ。大義名分とか大事って話だろ」
「大義名分よりお前が大事じゃい!」
「―――」
「やめよぉぜぇシズクさんよ~しずくもやめよぉぜぇ~ガリガリ君買ってやるからさ」
『シズク、こらえて』
「こんなのに釣られるわけねえだろ! 却下だ却下! 俺達は、勇者になる!」
「分かった、分かった……ハーゲンダッツを買ってやる。これでどうだ?」
「アイスの値段の問題じゃねえんだよ!!」
会話が止まる。
無言が続く。
真夏の猛暑の中、走り回っていたシズクとおじさんの汗が落ちて、道路にあたり、一秒と経たずに蒸発していく。
シズクは顎の汗を手の甲で拭って、舌打ちした。
自分の頭に血が昇って、こんなにも熱くなっているのは、夏の暑さのせいだと、シズクは思おうとした。そう思いたかった。
この怒りの熱は夏の熱だと、そう信じ込もうとしていた。
それが夏の暑さのせいでないことを、一心同体のしずくはよく分かっていた。
「チッ、なんだよ、頼りにしろよ、喜べよ……」
「は?」
「俺としずくは駄目なんだな? じゃあ鷲尾はどうなんだ?
乃木は? 三ノ輪は? それダブスタじゃねえのか? 俺と同い年の女子だろ」
『……』
「それは、あの三人はもう覚悟を……」
「ハイハイハイ!
俺はどうせ頼りねーんだろ!
知ってるってんだよ!
お前に助けられた側だしな!
お前の中じゃいつまでも"かわいそうな子供"だってのは分かってんだよ!」
『そうだね』
「お、おい、シズク?」
「でも、お……しずくはな!
頼られてえんだよ! 鷲尾くらいには!
鷲尾は戦場に出しても平気なくらいには信じてんだろ!
俺達は信じられねえのかよ!
俺は頼れねえのかよ!
宝石みたいに扱ってくれって誰が言った!?
割れやすい人形みたいに守ってくれなんて言ったか!?
他の奴にはいいよって言って、俺には駄目だ戦うなって言って……ムカつくんだよ!」
一瞬、おじさんは、言葉に詰まる。
■■■■■■■■■■
「この幸せは、私が命を懸けて守る価値があると思うんです。
おじさまは私が傷付くだけで、自分のことみたいに傷付きます。
だから昨日は、傷を負わないように戦いました。
おじさまに心配をかけないために。
でもその結果、おじさまが巻き込まれてしまった。
もしかしたら負けてたかもしれない。
これじゃいけないんです。傷を負わないように戦っても、きっと世界は守れない」
■■■■■■■■■■
それは、須美があの日に言った言葉の別側面。
同じようで、中身は違う。
須美は自分が特別大切にされていることを理解したから、怪我しないように戦おうとして、それでも彼や世界を守るために一度決めたことを捨てた。
シズクは自分が大事にされ、戦う権利まで取り上げられて危ない場所から遠ざけられ、安全な場所に置いて行かれるのが嫌だった。
須美は特別扱いが嬉しくて、シズクは特別扱いが嫌だった。
「覚悟が理由なら、俺にだってある!
……不満があるなら、足りないところがあるなら言え!
信じる理由が足りねえなら言え!
ちょっとくらいなら合わせてやるよ!
だけど、そうじゃねえだろ!
不満とか別にねえじゃねえかお前!
俺はそれでどう何を直せばいいってんだよ! クソッタレ!」
シズクはいつだって、自分の感情のままに、しずくの代わりに怒る。
しずくは、怒れない女の子だから。
怒ることすらもう一人の人格に任せないとできないかわいそうな女の子まで、危険なことに巻き込みたいくないと思うおじさんの気持ちを、しずくもシズクも、本質的には分かっていない。
同時に、おじさんも、しずく/シズクの全てを完璧に理解してはいない。
催眠の手が届かない特異点である彼女を理解しきれていない。
須美は"傷だらけになった自分でも愛してくれる人がいるなら戦える"であり。
シズクは"傷だらけになってでも愛する相手を守りたい"なのだ。
そこには、些細だが絶対的な違いがある。
「……いいのか。お前は本当に納得してんのか。しずくが死ぬかもしれねえぞ」
『……』
おじさんが心配すればするほど、少女は大切に思われていることに喜びを覚え、頼りにされていないことに苛立ちを覚える。
幸せになるべき人格のしずくが喜びを覚え、けれど慣れない苛立ちを感じ。
怒りを担当する人格のシズクが苛立ちを覚え、同時に慣れない喜びを感じる。
複雑怪奇なその心の動きに、大昔の人は"乙女心"と名付けた。
少女は嬉しい。だけど、嬉しいだけで終わらない。ゆえに、それは乙女心と言う。
乙女心はいつの世も、いつの時代も、催眠に負ける。
絶対に負ける。それは宇宙の真理であり、森羅万象絶対のルールだ。
催眠おじさんと意見が衝突して押し切れるような、そんな少女の祈りは無い。
そんなものがあるならば、それはきっと、そこにあるだけで奇跡のような何かだろう。
シズクが鬼の形相で、おじさんの襟を掴みねじり上げる。
「うるせーな!」
怒りのままに、言葉をぶつける。
「俺がしずくに持ってる感情は、テメーが鷲尾に持ってる感情と似たようなもんだ!
守りてえ!
傷付いてほしくねえ!
戦ってほしくねえ!
俺が守る!
そう思ってるが、覚悟見せられたらしょうがねえだろ!
"絶対に戦うな"なんて押し付けられねえだろ!
命だけ守りてえんじゃねえ! 体だけ守りてえんじゃねえ! 心も守りてえって思ったろ!」
「―――!」
「だから……せめて一番近くに、隣に居ようって思ったんだよ、俺は!」
他人の中に自分を見た時、人はその他人を否定することが難しくなるという。
「もし死ぬ時はせめて一緒に死んでやるって、そう思ったんだ! 俺は!」
シズクがしずくに信頼される理由が、絶対に守ってくれるという信頼であり、絶対の味方であるという確信であり、最後には一緒に死んでくれるだろうという絶対的な繋がりに起因する、揺らがない心の絆であるのなら。
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「お前が無傷で守ってくれるなら、小生もお前を無傷で守ろう。
傷付く時は共に傷付こう。
笑う時は一緒に笑おう。
お前が死ぬ時は一緒に死んでやる。
だが泣いてる時だけはこれの例外だ。
お前が泣いたら小生は泣かないで、その涙を拭ってやりたい。だからズルだがここは例外」
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それはあの日に、彼と須美の間で結ばれたものと、同じものだ。
しずくとシズクの関係と、おじさんと須美の関係は、明確に違うものだろう。
だが、その二つの関係性の中には、全く同じ心の絆が存在していた。
「やめさせたいなら権力でもなんでも使ってやめさせてみろ。
俺もしずくも絶対諦めねえ。
必ずてめえに認めさせて……俺としずくのことを認めさせて、頼らせてやる」
『そうだね』
「かわいそうな子供なんかじゃねえ。
守られてるだけのガキじゃねえ。
救われてるだけのガキじゃねえ。
生きてるんだ、俺達は。
お前にカゴの中で大事にされてるペットなんかじゃねえ。
……お前が転んだ時、お前に手を差し伸べて、お前を立ち上がらせる、人間で居たい」
それは、この世界に本来無い決意であった。
この世界の人間は皆、神樹に"生かされている"。
結界というカゴの中で、生かされている。
人間が飼っているカブトムシと、神に飼われている人間に、本質的な違いはない。
この世界の人間は、本質的にはカゴの中で飼われているペットと変わらない。
『それは嫌だ』と言える彼女らは―――このカゴの世界の中では、あまりにも異端な存在になりつつあった。
家というカゴの中で苦しめられ続け、そこから異世界の者に救い出された少女は、カゴの中のペットで居ることを強烈に拒絶する。
シズクはおじさんを突き飛ばし、一目散に逃げていった。
突き飛ばされたおじさんはすぐ立ち上がるが、もう追いつけない。
おじさんは悔いるように、髪をガシガシと掻く。
「……催眠が効かない子供相手だと、何やっても上手く行ってる気がしねえな」
普通の父親に育てられなかった人間が、父親の真似事をしようとしても、大抵の場合上手くはいかない……とは言うが、問題はそこにはない。
おじさんはシズクへの接し方を変える必要があるが、そこにも問題はない。
一つ、おじさんはシズクに対して良い意味でも悪い意味でも間違っている。
大人がくれる幸せを、子供は無条件に際限なく、疑問も持たず受け取り続ける。
子供は親に愛されるのが当然だと思いながら成長していく。
それが当たり前の親と子の関係だ。
おじさんも、知識としてそれは知っていた。
だが、シズクもしずくも、そういう育ち方はしていない。
そんな当たり前を、二人は知らない。
だから、当然のように愛を受け取ることなんてできない。
息をするように愛されることを受け入れるなんてできない。
愛される度に、愛を自分の中で空気のように消化していくことができない。
普通の子供は何気ない親の愛の多くを忘れてしまうが、しずく/シズクは愛されたことを全部覚えていて、消化しきれなかった愛を全部覚えている。
おじさんがこっそりゲームを買ってくれたことも。
おじさんが頭を撫でて褒めてくれたことも。
口下手なしずくの言葉をいつまでも待ってくれることも。
シズクがおじさんを照れ隠しでぶん殴っても笑って許してくれることも。
二人を交互に、何度も、夜のラーメン屋に連れて行ってくれたことも。
おじさんはそれらを"大人として当然のこと"として繰り返していて、二人はそれらを"一生忘れない大切な思い出"として蓄積していく。
普通の子供が"いつものこと"として忘れてしまうような何気ないことの全てを、しずくとシズクは"恩返ししないといけない特別なこと"として忘れない。
なんてことはない。
『原因』は、自覚がないだけで、おじさんの方にあったのである。
東郷美森と向き合ってると、シズクはいつも不思議な気分になる。
シズクとしずくは、互いに対し、鏡の向こうの自分という意識を多少持っている。
それは東郷美森と鷲尾須美も同様だ。
彼女らは自分であって自分でないその人物に対し、鏡の向こうの、自分と似て非なる何かを見ているような気持ちを持っている。
シズクとしずくが須美や美森を見ている時の気持ちは、それとは明確に違う。
空が地を見ているような、そんな気持ちだ。
しずくとシズクの間にも、須美と美森の間にも、親近感がある。
"この人は自分に近いところにいる"という、近さの感覚がある。
それとは対照的に、シズクは美森に対し『遠い』という感覚しか覚えたことがない。
遠いのだ。あまりにも。正反対という言葉すら似合わない気がするほどに、遠い。
シズクの短い白髪に対し、対になるような長い黒髪。
親にまともな飯も与えられず小柄で貧相で平たい体型のシズクに対し、どちらの親にも愛され食に困ったこともなさそうな豊満な恵体。
他人と話すことが苦手なしずく、落ち着きのないシズクとは対照的に、他人に何かを言っていくことを恐れない、落ち着きのある振る舞い。
常に自分が愛されることに不安を覚えているシズクとしずくとは正反対の、彼に愛されていることを揺るぎなく信じることができている微笑み。
東郷美森と向き合っていると、シズクはいつも不思議な気分になる。
嫉妬のような、尊敬のような、そのどちらでもないような、不思議な気持ちになる。
神に愛されたがゆえの不幸を与えられる黒と、人に愛されないがゆえの不幸を得た白。
出会って救われた者と、出会って救われた者。
「お前、未来から来たんだってな。少し話が聞きてえ」
「あら……おじさまの話を盗み聞きしてたのかしら。
そういえばしずくちゃんは盗み聞きが得意だったような……」
「しずくは影薄いからな、くくっ」
『黙ってると、存在感がない。便利』
シズクは飄々とした口調で問いかける。
「俺は勝つか? 四人目になれるか? 俺は、あいつの勇者になれるか?」
言葉の最後が、ほんの僅かに震えていた。
「シズクちゃんが四人目の選定に参加する意味は、あまりないの」
「……!」
『……やっぱり』
「あなたは二回戦で楠芽吹という子に負ける」
「そいつが優勝すんのか?」
「その子も、三好夏凜という子に負けるわ。最後に選ばれるのはその三好夏凜という子」
「……」
「シズクちゃんだと、あの子達には勝てない。絶対に。手も足も出てなかったから」
怒り出しそうになったシズクが、深呼吸し、怒りを飲み込む。
些細なことで激怒する親から遺伝した悪癖を、シズクは心一つで抑え込み、話を続けた。
「シズクちゃんの本番は、確か五人目の選定だったと思うわ」
「そうか。そんだけ聞けりゃ十分だ。あんがとよ」
「諦める?」
「ハッ」
心の繋がりを通して、想いは伝わる。
しずくの不安が自分に伝わってきたから、シズクはあえて強がった。
しずくの不安を取り除くために。
そして、しずくにもシズクの不安は伝わっていて、不安なのに強がってしずくを勇気付けようとするシズクに、しずくは思わず笑んでしまう。
「俺は言い切れる。
しずくも言い切れる。
"希望"ってやつが必ずあることを。
そいつは、生きてりゃ掴めることもあるってことを」
『うん、言い切れる』
「笑えよ。"生きててよかった"なんて―――ありきたりなこと、俺は思ってんだ」
生きていれば希望はあり、起こらないことなんてない。……そんな幼稚で前向きなことを教わったから、シズクは今も不敵に笑える。
"お前は絶対に負ける"と言われても、折れない。
美森はシズクに微笑みかける。
「笑わないわ」
「……そうかい」
照れたらしく、シズクが男のような所作で頭を掻く。
この前までしずくの父親の所作を真似したような所作だったそれが、美森のおじさんのような所作になっているのを見て、美森はくすりと笑みをこぼす。
これが"しずくの知る"男性性の反映、であるならば。
しずくとシズクの中で、『何』が大きくなっているのか、誰が見たってひと目で分かる。
「未来を、希望を、幸福をくれた。
そんなやつの未来を、希望を、幸福を守ってやりたい。
そう思うのは変なことか? 俺の考えてることは間違ってるか?」
「間違ってないわ」
美森は覚えている。
彼女のこういう部分に、自分が好感を抱いていたことを。
おじさんが死んだ後に、彼女がどうなってしまったかも。
よく覚えている。
シズクは強く、強く、決意を口にする。
「だから戦う」
目を閉じ、あの日救われた時の光景を思い出す。
「俺が勝てねえ敵に勝つ以上の『ありえねえ奇跡』を、俺はもう見てる」
目を開き、救われた日の光景から現実に帰る。
「しずくは幸せになるために生まれてきた。
俺はそう信じてる。
だから救ってもらえた。
俺は守るために生まれてきた。だから……」
そして、何かを言おうとして、言いかけた言葉を噛み潰して、顔を赤くして腕をブンブン振ってごまかした。
「……俺に恥ずかしいこと言わせようとしてんじゃねえ!」
「あなたが勝手に言ったのよ? ところで、恥ずかしいことって……」
「聞くな!」
「ふふっ」
美森は空を見上げる。
もうこの世界線の行き先は、彼女にすら分からない。
しずくとシズクがどうなるかも分からない。
分からないけれど―――彼が死なずに済む結末を見る、ただそれだけのために、美森は死力を尽くし続ける。
「未来なんて、未来から来た人にすら分からないものなのかもね」
未来を変えてくれるなら、誰でも良い。そう彼女は思っている。
自分でも。自分とは違う道に進みそうな須美でも。……シズクでも。
そして、暗躍する者が居た。
「ふふふ……完璧で御座いまする」
脂ぎったデブハゲのおじさんが、闇の中を蠢いている。
そのおじさんが指をパチンと鳴らすと、その姿が一瞬で切り替わる。
鷲尾須美と細胞レベルで同じ姿・肉体に変化したおじさんは、軽やかな動きで眼前の施設に侵入し、四人目の勇者選定の情報を調べ始めた。
「催眠おじさんが女子小学生になれないと誰が決めたのか」
催眠おじさんの多くは、細胞操作能力を持つ。
アングルによって体型が変わり、身長が変わる。
流行りの原作の同人誌ほどそれは多く、人気のない同人作家ほどそれは多いという。
その中で最も知名度が高い実力派の存在は、間違いなく彼らだろう。
―――『ちんちん亭一族』。
ちんちん亭一族の特徴は『おじさんとショタに境界線が無い』こと。
彼らはその多くが催眠おじさんの一族であり、ショタとおじさんが同じ言語圏に属しており、催眠おじさん達の中でも一目置かれる王者の群れだ。
セックスの前はショタ→最中はおじさん→終わったらショタという風に体型を切り替え、それに特に説明がなく、それが当たり前のようですらあるという。
"体型の一貫性"は万物に通ずる理ではない。
催眠おじさん達はその理の半歩外側におり、ちんちん亭一族の技術を極めることで、ある程度細胞を操作することが可能となる。
同人誌で、中出しした精子がありえない動きをする現象がこれだ。
この技術を極めた系統樹のおじさん達は、全身の細胞と放出した精子を操作することが可能なのである。
そして、女子小学生になることすらできる。
「勇者の力の端末は自分がいただきますよ……これは有用に使えそうで御座います」
「見つかりましたか」
「ええ。いい情報があるで御座います」
三人の勇者に加える、四人目の勇者を選定する祭典が始まりを告げる中。
三人目の催眠剣豪と、四人目の催眠剣豪が、その魔の手を忍ばせていた。