海老名姫菜は、渇いた女の子である。

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海老名姫菜は、渇いた笑みで世界と繋がる。

 

 カーテンの隙間から薄く差し込む光。その小さな針に意識の柔らかい部分をちょんと突かれた、そんな様子で海老名姫菜はその重い瞼をゆっくりと持ち上げる。顔をしかめて布団をかぶり直すが、思い直したようにむくりと起き上がった。

「まだ、はちじ」

 視線の先にて、この世界の規則を面白味もなく刻む文字盤をぼんやりと見つめる。海老名姫菜は昨夜、学校から出された課題を終わらせるために夜更かしをしていた。霞がかった意識でそこまで思い出してから、海老名姫菜はベッドから這い出る。出かける用事があったのだ。自室を出る直前にドアの横にある姿見をちらと見ると、下着にシャツ一枚という出で立ちが自分を責めるように写っていて海老名姫菜は苦笑する。どうせだらしないですよ、と小さくごちる。スマホをもってリビングに行くと、テーブルの上にラップのかけられた朝食が寂しそうに置いてあり、その前にある椅子を引いた。透明な膜を剥がしてもその侘しさは消えなかった。皿洗いを手早く済ませ、洗面台の前でしゃこしゃこと歯を磨いていると、ダボついたシャツがずり落ちて華奢な右肩が剥き出しになる。色気のない白い下着が覗く。海老名姫菜は面倒くさそうに襟を引っ張り上げた。

 

 午前十時。千葉のローカル線に揺られていると日差しが陰り、一瞬、景色を見ていた自分の呆けた表情と対面する。その冴えない顔に、見慣れた眼鏡がないことに小さくため息をついた。今朝、部屋に戻って眼鏡の存在を思い出した。勉強机の上は片付けた課題が山になっている。諦めて布団を持ち上げた。見つけたのは、つるが明後日の方向を向いた、元々眼鏡だった物体だった。久々のコンタクトレンズに違和感を覚えながら、海老名姫菜はベレー帽を被り直した。

 休日の駅前は混雑していた。春が過ぎ、ゴールデンウィークまで小休止。引いては返す波の様な世間の都合のいい雰囲気にもうんざりだった。海老名姫菜は足元に視線を落として、黒色の膝丈ワンピース、そしてそれを覆うトレンチコートを確認した。艶のあるローファーの踵を鳴らすと、それを合図にしたように名前を呼ばれた。海老名姫菜は顔を上げる。

 

 オンリーと呼ばれるイベントを一通りまわり終え、海老名姫菜と他二人の女性は駅にほど近いカフェに入った。

「あ、私カフェオレ」海老名姫菜の向かいに座る眼鏡女子が楽しそうに口角を上げた。その横にいた前髪ぱっつん女子も笑顔を浮かべ、クリームソーダ、と少し厚い唇をゆっくりと動かす。店員に目で問われ、海老名姫菜も口を開いた。

「ブレンドください」店員が一言問う。海老名姫菜は首を振る。「いらないです」

 ブラックですね、と柔和な笑みを浮かべてから、店員は踵を返す。わざとらしく背筋をピンと伸ばした後ろ姿に既視感を覚えていると向かいの眼鏡女子が、今の人カッコいい、と甘ったれた声を出す。前髪ぱっつんも同じような単語を吐いた。

 海老名姫菜は、そのツイッターで知り合った女性二人の本名を知らない。あるいは覚えていないと言うべきか。海老名姫菜はそんなものに興味はなかったし、趣味の共有という一線上で、名前など画面の表層に映る文字列以上でも以下でもなかった。

 だから海老名姫菜は運ばれてきた黒い液体(正確にはワインレッドより濃い赤色をしている)を口に含み、目の前で繰り広げられる年相応の甘い話に、渋面を作って不快感を表す。やがて馬鹿らしくなり、購入したグッズでもとリュックに手を伸ばしたところで、間違った恋のキューピッドが間違った矢を不躾に放り投げてくる。

「あ、ねえねえ姫菜さん、この間一緒に歩いてたカッコいい人って、彼氏?」

 眼鏡女子が堪えきれなくなった、という様子で訊ねてきた。待てのできない犬と言うべきか、理性のない卑しい家畜と言うべきか、海老名姫菜はそんな印象を抱いた。隣の黒髪ぱっつんも興味はあるのだろう。なになに、と困惑しつつも醜い尻尾が見え隠れしている。

 めんどくさ。

「え、いつのこと?」

 海老名姫菜は切り揃えた前髪に軽く触れて記憶を回想し始める。口の中で舌を噛む。あれか、と数週間前の映像を引っ張り出したところで、「えっとね、二週間前の金曜日」と眼鏡女子がいう。そんなしっかり覚えてんだ。海老名姫菜は顔を上げて、にこりと微笑む。

「彼氏じゃないよ、ただの友達」海老名姫菜がいう。

「えー、まあでも、そっかあ、すっごいイケメンだったもんね」眼鏡女子がいう。

「うっそ、そんなに? 姫菜さん写真とかないの?」黒髪ぱっつんがいう。

「ないよ、ないない。そんなに親しくないから」海老名姫菜は嘘はついていない。

 海老名姫菜を取り巻く環境はきっと恵まれている。海老名姫菜の眼前で繰り広げられる会話劇から抜粋しても、その容姿の整いは言わずもがな。飾らないことで飾ってしまうその風貌は、きっと恵まれている。だから海老名姫菜は自分の事が話題に上ることを避けてきた。排他されることを知っているから、排他されることを容認してしまうから。メイクもファッションも、身に付けようともしない内から他人を羨む光景。愛とか性とか、ショールームで見学でもしているのかと言いたくなる物言い。そのすべてを海老名姫菜は容認し、昇華し、そしてナイモノになることができるから。

 だから海老名姫菜は自分自身が嫌いだった。

 

 

          ×  ×  ×

 

 

 カフェを出ると、海老名姫菜の足元にある影は東を強く長く示していた。結局、海老名姫菜に対する興味は尽きず、唯一できるはぐらかしも、揺れる炎に酸素を送る結末になった。やがて失せるその燃料は不完全燃焼、煤を撒き散らして消える。どこを見てもその痕はあり、もう意識の端を焦がしてしまった。海老名姫菜の言葉は先を歩く二人を上滑りして宙に消える。何度かそんなことがある。海老名姫菜は諦める。

 海老名姫菜は認めた。

 前から歩いてくるその人物を。

 休日。夕方。駅前。そのどれともマッチしない存在が小さく左右に揺れながら近づいてくる。けだるげに、しかし規則正しく踏み出されるその両足を包むパンツは日に焼けている。濃いグリーンのパーカーは身体のサイズに合っているはずなのに、なぜかだらしなく見える。海老名姫菜の頬は思わず緩んでいた。猫背の彼とすれ違い、こちらに気が付かないことを認めると、海老名姫菜は前方の二人に声を掛ける。あっけに取られる二人をよそに海老名姫菜は身体を反転させた。

 

 海老名姫菜が横に並ぶと、比企谷八幡はぎょっとした様子でたたらを踏むように距離をとった。この世のものではないなにか、幽霊、いや、未確認生命体をその視界に収めたかのような驚きを海老名姫菜は受け取る。声もあげず海老名姫菜の半歩後ろで硬直するその姿には、具現化した不条理を嘆くような諦めがあった。風が吹く。アホ毛が揺れる。

「はろはろー、ヒキタニ君」海老名姫菜が手をひらひらとさせる。こちらを睨む比企谷八幡は警戒心剥き出しで、世のすべてに怯えたようにか弱く、気丈な姿に海老名姫菜の二の腕は小さく粟立った。

「ああ、海老名さんか」比企谷八幡がそう呟き、海老名姫菜は二の句を言わせまいと言葉を差し込む。「ヒキタニ君、どこか行くの?」

 海老名姫菜の問いに、比企谷八幡は渋面を隠そうともせず口を曲げた。咄嗟の判断で比企谷八幡は海老名姫菜に真実を告げることに決めるが、それを後悔することになるとは、今の段階では微塵も知らない。

「飯を食いに行くんだよ」

 比企谷八幡はそれを捨て台詞に、いや、別れの合図のつもりで発したのだろう、駅前のコンクリートを規則正しく踏みしめ始める。だから海老名姫菜が隣に並んだ時、比企谷八幡は心底驚いた。

 そして、海老名姫菜も心の底から驚いていた。

 寂しさ。

 醜さ。

 弱さ。

 

 最低だ。

 

 

          ×  ×  ×

 

 

「ここ、美味しいの?」海老名姫菜が不毛な質問をすると、「まあ、美味いな」と比企谷八幡は簡素に答える。海老名姫菜はその乾いた風のようなやりとりに、透明な何かをみた。それは朝食にかかっていたものと似ていて、海老名姫菜はそれがもっと欲しくなる。乾いた風が欲しくなる。

 海老名姫菜はカウンターの席で比企谷八幡に選んでもらった食券を店員に渡す。意味もなくキョロキョロする海老名姫菜を比企谷八幡は一瞥すらしない。海老名姫菜は、また一枚透明な膜をみつけて大事に羽織る。麺をすする音がこだまする店内は微かに靄がかかっていてコンタクトレンズを守るように瞬きを繰り返した。注文から三分と経たず運ばれてきた器にはたっぷりの麺とたっぷりの脂。海老名姫菜はごくりと喉を鳴らした。感嘆と緊張を半分ずつ含んだその音は立ち上る湯気に溶けた。視界の隅に差し出された割り箸を海老名姫菜は驚きながら受け取る。お礼を言おうと隣を見るが既に比企谷八幡の関心は目の前の細麺に集中していた。ありがと、と小さく呟き海老名姫菜も器に向かう。店を出るのは、海老名姫菜が想像するよりずっとはやかった。

 

「ねえねえヒキタニ君、普通こういう時って、『なんかあった?』とか聞くのが定石だと思うんだけど」

 海老名姫菜は面倒くさい女子を演じている、フリをしていた。海老名姫菜はそういう女子とは違うと、比企谷八幡を通して得ていた透明の膜、その奥からチラリと覗いた海老名姫菜の本当に汚い部分。今の瞬間を海老名姫菜は後悔する。それはきっと比企谷八幡の姿がなくなった時、いや、恐らく背を向けた瞬間から始まる。意識の深淵に潜っていると知っていて先に進む。光を向けても手が届く闇に呑まれる。海老名姫菜は知っている。

 海老名姫菜は比企谷八幡からの返答がないことに気が付く。知らず視線を落としていた海老名姫菜は、その大きな瞳を比企谷八幡の淀んだ目にぶつけた。心臓がドキリと跳ねた。海老名姫菜は見透かされていると悟る。細い首に冷たい手が忍び寄る気配がした。顔がかっと熱くなる。眼鏡のブリッジを触る。コンタクトレンズをつけていたことに気が付く。比企谷八幡が言い残したことがあるかのように口を開け、海老名姫菜の肺が縮む。やめてと叫びそうになる。頬がつる。比企谷八幡は口を閉ざし、それを飲み込んだ。そして、

「はっ、よくそんな心にもないことを」

 と鼻を鳴らした。

 耳鳴りがして、海老名姫菜の目頭が熱くなる。鼻の奥で空気が詰まり、視線が定まらなくなる。視界が震えているのか、世界が揺れているのか分からなくなる。やがて海老名姫菜は怒りを覚える。ふざけるな、と心臓が胸を叩く。屈辱だ、と思う。辱めを受けたとすら感じる。こんなのレイプと何が違う。こんなペシミストに。

「じゃあ、気をつけて帰れよ」

 気が付けばそこは駅の改札前で、海老名姫菜の乗る路線のものだった。なんで、と考え、海老名姫菜は上の空で駅名を答えたことを思い出した。同時にもうひとつ、なんで、が浮かび上がる。なんで比企谷八幡がここまで。

「ありがと、本当に素直だよね、そういうとこ」海老名姫菜はピントの合わない世界で話す。「私がどうでもいい人だから」

 あ、しまった。と思うのは、きっと海老名姫菜が面倒くさい女を演じていなかったからで、自分自身の柔らかい、多分内臓みたいな色をした部分をめくりあげたからで、そこに風を当てなければいけなかったからだ。海老名姫菜は風を感じていた。隙間風なんかじゃない、すべてがむき出しの状態の風。一瞬、自分が服を着ていないかのような錯覚を覚え、我に返り、全裸の方がどれだけマシかと海老名姫菜は再び舌を噛む。

 早く消えろよ。

 比企谷八幡が海老名姫菜の前に存在する限り、辱めを受け、醜いペシミズムを塗りたくられているのと変わらないのだ。海老名姫菜は自分の身体をぎゅっと抱き締める。もう無理。

「あんま、抱え込むなよ」

 海老名姫菜が背を向けた時。海老名姫菜が精神の逃亡を図らなければならなかった時。天啓のような音だった。それは荘厳な鐘の音にも、生卵が地面に落ちたような音にも聴こえた。

 海老名姫菜は耳を疑った。目を見開いた。

 振り返ればきっと比企谷八幡はいる。海老名姫菜には分かる。海老名姫菜の全神経が振り返れと指令を出す。喉が渇いている。さっきからずっと渇いていた。からからだった。唾を飲み込んでも奇妙な音が鳴るだけだった。海老名姫菜は、海老名姫菜は、海老名姫菜は、足を踏み出した。

 海老名姫菜に振り返るという罪を犯すことはできなかった。比企谷八幡にも罪を着せることなんてできなかった。だってそれはあまりにも身勝手だから。醜いなんて言葉で代用できるような代物ではなかったから。多分、世界中の全部の言葉を並べて、その全部探しても当てはまらないから。

 きっと、終わってしまうから。

 海老名姫菜は歩き出す。

 ホームへ続く階段に足をかけるとき一度だけ振り返った。海老名姫菜の潤んだ瞳が比企谷八幡の姿を認めることはなかった。あるいは、ないと分かっていたから振り返ったというべきか。ホームに電車が滑り込んだらしく、海老名姫菜の顔を風が吹きつける。それは湿っていて、不快で、最低で、とても心地がよかった。

「ありがとう、ごめん」海老名姫菜は呟く。

 電車が発車し、海老名姫菜はホームに一人残される。屋根の隙間から空を見上げれば、くすんだ紺に星が頼りなく光っていた。

 

 きっと、いつか、海老名姫菜が恋をしたとき、気付くのだと思う。

 きっと、いつか、迷わずそれを認めることができるのだと思う。

 

 だから、今だけは認められない。

 

 海老名姫菜は、渇いた笑みで世界と繋がる。

 

 

                                  (完)

 



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