Bクラスで過ごす男の話   作:冬獅郎

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11話

 

「……これが、私が隠していた過去。……万引きの、全容だよ」

 

 一之瀬の声が、夕暮れの教室に溶けて消えた。

 全てを吐き出した彼女は、断罪を待つ罪人のように深く頭を下げ、微かに震えていた。教室を支配するのは、息が詰まるほどの重苦しい静寂だ。あまりに生々しく、痛々しい告白。クラスの誰もが憧れていた完璧な少女の、泥に塗れた一面。

 だが、その静寂に『拒絶』の色はなかった。あるのは、彼女の傷にどう触れるべきかという、戸惑いだけだ。

 

「……それが、どうしたって言うんだよ」

 

 凍りついた空気に亀裂を入れたのは、やはり柴田だった。彼は努めて明るい声を張り上げた。その声には、空気を無理やりにでも変えようとする必死さが滲んでいる。

 

「誰にだって消したい過去の一つや二つあるだろ。万引き? 確かに悪いことかもしれないけどよ……俺たちが知ってる一之瀬は、そんなことする奴じゃない。そうだろ?」

 

「柴田君……」

 

「そ、そうだよ! 私だって、帆波ちゃんが悪い人だなんて思わない!」

 

 白波が泣きそうな声で続く。その言葉を皮切りに、教室の空気が一気に解凍された。

 

「気にすることないよ」「話してくれてありがとう」

 温かい言葉の雨が降り注ぐ。一之瀬が顔を上げ、瞳に涙を溜める。

 美しい光景だ。これぞ青春、これぞ友情。このままの流れでいけば、クラスは『一之瀬を許す』という感情の高ぶりのまま、なし崩し的にポイントを預けることになるだろう。

 

 ──だが、それでは駄目だ。

 

 『罪を許すこと』と『資産を預けること』は、全く別の問題だ。リスクを提示せず、場の空気だけで契約を結ばせるのは、詐欺の手口と変わらない。それはフェアじゃない。

 

 俺はゆっくりと席を立った。

 椅子の脚が床を擦り、ギィ、という不快な音が教室に響く。

 その音が、感動的な空気に冷や水を浴びせた。数十の視線が俺に集まる。その中には、水を差されたことへの露骨な不快感も混じっていた。

 

「……待てよ。話が進みすぎだ」

 

 俺は意識してトーンを落とし、冷ややかな声を放り投げた。熱気とは無縁の、温度のない声。

 

「なんだよ東城。まだ何か文句あんのかよ」

 

 柴田が食って掛かる。まるで一之瀬を守る騎士のような剣幕だ。

 

「文句じゃない。確認だ」

 

 俺は一之瀬を見据え、それからクラス全体へと視線を巡らせた。

 

「一之瀬が過去を打ち明けたこと、それを皆が受け入れたこと。それ自体に異論はない。……だが、ポイントを預けるとなれば話は別だ」

 

「だから、帆波ちゃんを信じるって……」

 

「確かに、一之瀬の人柄は信用できる。だが、だからといって『全財産を預けるリスク』が消えるわけじゃない」

 

 俺は椅子に深く座り直し、クラス全体を見渡した。ここからが本番だ。大根役者なりに、頑張るとしようか。

 

「お前らは、プライベートポイントがこの学校においてどれだけ重要か、本当に理解しているのか?」

 

「重要って……そりゃあ、お金代わりになるし……」

 

「そんなレベルの話じゃない」

 

 俺は言葉を被せ、断言する。

 

「この学校において、プライベートポイントは『正義』だ。これで解決できない問題はない」

 

 教室内がざわめく。何を言っているんだこいつは、という空気が蔓延する中、俺は冷徹に事実を突きつける。

 

「例えば、退学だ。もしテストで赤点を取ったり、何らかのペナルティで退学が決まったとしても──ポイントがあれば、退学の取り消しができる」

 

「は……? 退学の取り消し?」

 

「そんなこと、できるわけ……」

 

 クラスメイトたちが顔を見合わせる。新入生では知っている人間の方が少ないであろう情報だ。

 

「できるさ。莫大なポイント……『2000万プライベートポイント』と、『300クラスポイント』を捧げればな」

 

 2000万。

 

 その桁外れな数字が出た瞬間、教室の時が止まった。誰もが言葉を失い、その意味を咀嚼しようとしている。ジュース一本が百円程度の価値観で生きている彼らにとって、それは天文学的な数字に聞こえるだろう。

 

「……おい、東城」

 

 神崎が鋭い声を上げた。眉間に深い皺を寄せ、怪訝そうな顔で俺を見ている。

 

「随分と具体的だな。どこでそんな情報を仕入れた? 生徒手帳の細則にもそんな記述はない」

 

 射抜くような視線。感情に流されず、情報の真偽を最優先する姿勢は、さすがとしか言いようがない。

 だが、ここで一瞬でも言葉を濁せば、疑惑の矛先は俺に向く。

 俺は即座に、用意していた『権威』を盾にする。

 

「……昨日、星之宮先生に裏を取った。嘘だと思うなら、後で職員室に行ってみるといい。あの人は否定しないはずだ」

 

 教師の名が出た瞬間、神崎の鋭気がわずかに鈍る。

 その隙を逃さず、俺は畳み掛ける。

 

「テストの点数も、退学の取り消しも、全てポイントで解決できる。……なら、もっと大きな『権利』が買えないなんて理屈は通らないだろう?」

 

「……まさか」

 

「気づいたか? 退学の取り消しができるということは、その対極……『Aクラスに上がる権利』。それすらも商品棚に並んでいるってことだ」

 

 俺はあごで一之瀬をしゃくった。

 一之瀬の顔色は変わらない。以前俺が教えた通りだからだ。だが、その表情は痛ましげに歪んでいる。自分の持つ可能性が、仲間にとってどれほどの脅威になり得るか、彼女自身が一番理解しているからだ。

 

「Aクラスへの移籍に必要な額も、2000万ポイントだ。……これが何を意味するか分かるか?」

 

 息を呑む音が聞こえる。全員の脳裏に、最悪の想像がよぎったはずだ。

 俺はあえて、その想像を言語化してやる。

 

「これがリスクだ。もし、一之瀬の手元に2000万ポイントが集まったらどうなる? 彼女はその瞬間、クラス全員を裏切って、自分だけAクラスに行く切符を手に入れることになる」

 

「なっ……! そんなこと、帆波ちゃんがするわけないでしょ!」

 

 白波が金切り声を上げて反論する。その通りだ。今の一之瀬ならしないだろう。だが、人間が変わらないという保証はどこにもない。

 

「そうだな、普段の一之瀬ならしないだろう。だが、人間ってのは追い詰められれば何をするかわからない生き物だ」

 

 俺は視線を一之瀬の瞳に固定する。

 

「ましてや、一度犯罪に手を染め、その事実を隠し通そうとした人間なら、な」

 

「お前……ッ! ふざけんなよ!」

 

 柴田が激昂し、机を蹴って詰め寄ろうとする。

 だが、俺は表情を変えずにそれを受け流す。俺は今、彼らにとって最低のクソ野郎でなければならない。定説だが、共通の敵がいれば、結束はより強固になる。

 

「俺は事実と可能性を話しているだけだ。クラス全員の生殺与奪の権を握る『2000万』という大金と、Aクラスへの片道切符。それを、前科のある人間に預ける。……それがどれだけ危うい橋か、本当に理解してるのか?」

 

 俺の声は、決して大きくはない。

 だが、その内容はクラスメイトたちの心に冷たい棘として突き刺さったはずだ。

 

 金銭の管理において、性善説は通用しない。

 システムとしての欠陥がある以上、そこには必ず悪魔が宿る。2000万ポイントという『絶対的な自由』を前にして、人はどこまで清廉でいられるのか。

 

 重苦しい沈黙が落ちる。

 さっきまでの「一之瀬なら大丈夫!」という楽観的な空気は消え失せた。全員が、ポイントの重さと、裏切りの可能性を突きつけられ、青ざめている。

 

 誰も一之瀬を見ようとしない。疑念という種は、一度植え付けられれば容易には消えない。

 これでいい。リスクを知った上で選ばなければ、それはただの思考停止だ。

 

「……皆がどうするか、それは好きにすればいい。……だが、俺は預けられない。自分の身がかわいいからな」

 

 吐き捨てるように言って、視線を逸らした。

 教室は凍りついている。罵声すら飛んでこない。俺が提示したリスクがあまりに現実的で、致命的だったからだ。

 

 これ以上、ここにいる必要はない。

 俺が教室を出ようと背を向けた、その時。

 

「……一理あるな」

 

 低く、落ち着いた声が響いた。

 

 神崎だ。

 彼は静かに立ち上がり、無表情のまま俺を見ていた。その瞳の奥には、冷徹な理性が宿っているように見えた。

 

「東城の言うことはもっともだ。感情論を排して考えれば、リスクしかない。……前科のある人間に巨額の資金と、裏切りの権利を与える。狂気の沙汰だと言われても反論できない」

 

 神崎の言葉は、重いハンマーのように教室の空気を打ち砕いた。

 唯一の希望と思われた神崎までもが、俺の論理を肯定した。その事実は、クラスメイトたちにトドメを刺すには十分だった。

 

「か、神崎……お前まで……」

 

 柴田が信じられないものを見るような目で神崎を見る。だが、反論は出てこない。誰も、俺が突きつけたリスクを論理的に否定できないからだ。

 

「…………」

 

 一之瀬は何も言わなかった。

 『でも』とも、『信じて』とも言わない。ただ、血が滲むほど唇を噛みしめ、膝の上で握りしめた拳を震わせていた。

 理解しているのだ。俺の言葉も、神崎の言葉も、すべてが正論であることを。自分の過去が招いたこの状況は、甘い言葉だけで乗り越えられるものではないと、彼女自身が一番痛感している。

 

 終わった。誰もがそう思った。

 このままクラスは分裂し、ポイント預託の話は白紙に戻る。誰も傷つかない代わりに、誰も救われない、冷たい結末。

 教室に、重苦しい沈黙が澱む。

 俺はその沈黙を心地よく眺めていた。これでいい。甘ったれた幻想は砕かれた。一度底まで落ちなければ、這い上がるための足場は固まらない。

 

 神崎が、ふう、と短く息を吐き出した。

 彼は俺から視線を外し、天井を仰いだ。まるで、自分の中にある論理と必死に戦っているかのように。

 

「論理的に考えれば『否』だ。100回シミュレーションして、100回とも止めるべきだという結論が出る」

 

 神崎はゆっくりと視線を下ろし、俯く一之瀬を見た。

 

「だが、俺たちは機械じゃない。人間だ」

 

 彼は懐から端末を取り出した。その動作は緩慢だが、確かな意志が宿っていた。

 

「俺は、計算式よりも自分の目を信じたい。この1ヶ月間、一之瀬がクラスのために何をしてきたか。誰よりも早く登校し、誰よりも遅くまで残り、クラスのために奔走していた姿を見てきた。……あれが全部演技だったと言うなら、俺は喜んで騙されよう」

 

 神崎は一之瀬の方を向き、言った。

 

「一之瀬。週に一度でいい。Bクラスの誰かに口座残高を確認して貰うが、いいか? そうすれば、東城の言う『持ち逃げ』のリスクは減らせるはずだ」

 

「神崎くん……」

 

「それに、もしそれで裏切られるなら、俺の人を見る目がなかったというだけの話だ」

 

 ピロン、という電子音が静寂を切り裂いた。

 それは、論理という分厚い氷が砕ける音だった。

 神崎は画面を一之瀬に見せ、それから俺の方を見て、小さく、しかし挑発的に顎をしゃくった。

 

「悪いな、東城。お前の忠告は正しい。反論の余地もないほどにな。……だが、俺はこっちに賭ける」

 

 神崎のその行動が、凍りついていたクラスの時間を再び動かした。

 

「……東城、お前の言ってることは正しいぜ。正直、ビビっちまった」

 

 柴田が頭を掻きながら、それでも力強い瞳で俺を見る。

 

「けど、俺は一之瀬を信じることにするよ」

 

 ピロン。

 

 彼もまた、迷いのない手つきでボタンを押した。

 

「私も……信じる。これは『なんとなく』じゃない。私がそうしたいから、そうするの」

 

「俺もだ。このクラスの武器は結束だろ? ここで引いたら、俺たちは一生Aクラスには勝てない」

 

 ピロン、ピロン、ピロン。

 

 電子音が連鎖していく。

 そこに狂乱はない。あるのは、静謐な意志の連鎖だ。

 彼らは理解しているのだ。東城京司という異端者が突きつけた『最悪の可能性』を直視し、恐怖を飲み込んだ上で、それでも『信頼』という道を選び取った。

 

 一之瀬が、涙を堪えながら皆を見渡している。

 一瞬、目が合う。

 彼女は何かを言いかけ、そして止めた。

 俺が送った冷ややかな視線に、彼女は気づいたのだろう。

 

 『余計なことは言うな』

 

 俺の意図を汲み取った彼女は、小さく唇を噛みしめ、そして力強く頷いた。

 

「……みんな、ありがとう」

 

 一之瀬は涙を拭い、凛とした声で宣言する。

 

「私は逃げない。このポイントと信頼、命に代えても守り抜くって誓うよ。……もし私がこの誓いを破るようなことがあれば、その時は自分で退学届を出す」

 

 その言葉に嘘はないのだろう。

 この瞬間、Bクラスは真の意味で完成した。

 一之瀬という圧倒的な光と、それを支える神崎たち。そして、その光をより強く輝かせるために、あえて濃い影となった俺。

 その光景を見届けた神崎が、俺の方を向き直る。

 

「これで文句はないか? 東城」

 

 勝利宣言ともとれるその言葉に、俺は肩をすくめてみせた。

 

「……好きにすればいいと最初に言っただろ。個人の判断は、止めようがないからな」

 

 俺は小さく鼻を鳴らし、教室の出口へと足を向けた。

 歓喜の輪の中心で、一之瀬は去り行く俺の背中をじっと見つめていたのかもしれない。だが、俺は振り返らない。

 

 これ以上、あの眩しい輪の中に俺の居場所はない。

 重たい引き戸を開け、廊下に出る。

 背中で扉を閉めると、教室内で響いていた電子音の連鎖と歓声が、ふつり、と遮断された。

 

 そこにあるのは、放課後の校舎特有の、冷ややかで張り詰めた静寂だけ。

 窓の外を見れば、太陽は既に地平線へと沈みかけていた。茜色の光が廊下に長く伸び、俺の影を黒々と映し出している。

 

 誰に聞かせるわけでもない、深いため息が漏れた。

 

「明日からの学校が憂鬱だな……」

 

 俺の目標は『友達を作ること』だったはずだ。

 それなのに、結果はどうだ。友達を作るどころか、クラス全員を敵に回すような大演説をぶち上げてしまった。

 明日教室に入った瞬間、俺に向けられる視線は冷ややかなものになるだろう。"空気の読めない奴"、"一之瀬を疑った最低な奴"。そんなレッテルが貼られてもおかしくはない。

 せっかくの青春が、音を立てて崩れ去っていく。

 

「……いや。自業自得だな、これは」

 

 自嘲気味に呟き、ポケットに手を突っ込む。硬質な学生証を指先で弾いた。

 

 普通の高校なら、俺はただの浮いた嫌われ者で終わっていただろう。

 だが、金が全てを支配し、結果だけが正義とされるこの特殊な箱庭ならば──俺のような『悪役』にも、存在価値が生まれる。

 

 そう考えれば、この学校に通えていることには感謝すべきかもしれない。

 

 入学してまだ一ヶ月。本当の試練は、これから牙を剥いてくるはずだ。

 きっとこの学校は、感傷に浸ったり、孤独に落ち込んだりする暇など与えてはくれないのだろう。

 

 俺は一つだけ息を吐き出すと、夕日に向かって歩き出した。

 孤独な舞台裏こそが、俺にはお似合いだ。

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