お題「雨」
阿求と小鈴の話。

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 店内ではいい感じの音楽がかかっていた。小鈴はストーブの前に椅子を引っ張り出して、ブランケットを膝に舟を漕いでいた。床にはミヒャエル・エンデのはてしない物語が青く広がっている。外の世界の小説だと言っていたかしら。

 分厚くて、血に濡れたように乾いた赤い本だ。しゃがんでそれを拾い上げ、ずっしりとその重みが膝から腕から全身に伝わっていく。ストーブの炎のとろみと音楽の混ざるこの不思議な感覚は、雨の日に似ていた。

 小鈴の顔を仰ぎ、目を細める。

「んがっ」

 音より痛みの方が速い。小鈴が変な声を上げたとたん、面白いほど重力に引かれて彼女が落ちてきた。目の前に天井が見えて、むっとする。

「重いわよ小鈴!」

 未だに寝坊助の小鈴は私にしがみついてうなされていた。右手の拳をその頭に振り下ろしたあと、力一杯小鈴を押す。

 ようやく起きた小鈴は腫れ上がった頭を押さえ、とろんとした目で辺りを見回す。私の顔と、散乱した本、ブランケット、ストーブ、蓄音機。呆然とまばたきを繰り返し、溜め息が短く落ちてきた。

「……ごめん」

 がくん、と尋常ではないスピードで小鈴の頭が床に衝突した。頭を下げたのだ、と分かるまで多少時間を要した。「う」くぐもった声が聞こえる。

「いったあっあっああがあああっはっああぁ……」

 大音量で響いた声に、びくりと肩が震える。徐々に静まるが、泣いているのか笑っているのか分からないような呻きが混じってくると私は思わずくすくす笑いだし、しまいにはお腹の底から声を出して笑う。

 小鈴が顔を上げて恨めしそうに見つめてくるのがおかしくてたまらず、見ないでくれと懇願してしまった。やはり、小鈴は床に頭をぶつけるまで目なんて覚めていなかったのだ。一連の流れが頭の中で繰り返し再生された。

「ね、ねえ、私頭から脳みそとか出てない? 頭ぱっくりいってない?」

「だっ、大丈夫よ、少しくらい減ったって」

「えっちょっ」

 本気で小鈴が泣きそうな顔をしたところで笑いが消え、呆れが顔を見せた。

「大丈夫。その頭はどこにぶつけても割れないくらい石頭よ」

「それ褒めてる?」

「褒めてるわ」

 私だって下半身から背中までじんと痛みが熱くなっているのが分かる。立ち上がれずに二人して座っていると、だんだん周りの音がよく聴こえてくる。

 どんよりした雲に釣られてか、外の人通りは少なく小さな声と気配がうろうろしている。店内はやはりいい感じの音楽。ピアノの柔らかい音。ぬるま湯に浸かっているような、雲の上を歩いているような心地になる。

「これ、いい音でしょう」

 小鈴が唐突に話し掛けてくる。一番近くにいるのに、いないと錯覚していたようだった。机の上の蓄音機に視線が集まる。そうね、と返事した。

「壊れたみたいなの」

「壊れた? ちゃんと聴こえるわよ」

「違うのよ。古くなって、本来の音が聴こえなくなったの。プツ、プツ、プツ、って、途切れて聴こえる」

 よく耳を澄ますと、確かに変な音が混じっていた。しかし違和感はない。元々その様な音楽だったと言われれば、納得できる。

 それに、今しがた小鈴はそれをいい音だと言った。壊れた音を。壊れただなんて、私は思わないけど。

「プツ、プツ、プツ」

 ぼんやり、ぼんやり。

「ねえ阿求、雨の日みたいじゃない?」

「雨の日?」

「そうよ。雨が降ってるみたいに聴こえるわ」

 言われて、目を閉じてみる。古く、低く揺れている音の中にプツ弾けるような音がプツ聴こえてくる。プツあたたかいものが傍プツにあり、床の湿プツった冷たプツさがよプツり濃く感じられプツる。

 不思議な感覚。私はさっきも同じことを思った。まるで、雨の日みたいだ。弾ける音が、雨が石を穿つ音みたいだ。もやがかかって向こう側が見えない。

「雨が降ってる」

 小鈴が呆然と言った。

「そうね、雨が聴こえる」

「ふふ、違うわ阿求」

「え?」

 目を開けてみる。小鈴が微笑んで店の外を指差した。床に座り込んでいるお陰でよく見える。柔らかい雨が地面に吸い寄せられるように降っていた。

「ああ、なんだ。本当に雨が降っていたのね」

「音楽の中で雨は降ってたと思う?」

「さあ。本当に降ってたから分からないわね」

「本当にそう思う?」

「随分突っ掛かってくるわね」

「ね、本当はこう思ったんじゃない?」

 小鈴は本を腕に抱き、首を傾げて微笑む。

「音楽の世界の中に入っちゃったのかしら」

 唖然とした私に小鈴は本で口元を隠して笑った。そして、その分厚く赤い本で私の頭を軽く叩く。

「今が夢みたいね」

 それが合図のように私ははっとして小鈴を見つめた。今が現実なのか、夢なのか、分からなかった。ただ小鈴は私にいたずらっぽく微笑んでいた。手を伸ばし、彼女の頭に触れる。

 不思議がる小鈴に、私は一人血の気が失せていった。頭から手を離し、指先を見つめる。小鈴はそれを見て今にも倒れそうに顔を青くした。

「……小鈴、頭から血出てる」

 彼女が落とした本の頁がどうしようもなく現実だと言うように、赤い文字で広がっていたのだった。

 そうね、今が夢みたい……。

 

 

 


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