【書籍発売中】田んぼでエルフ拾った。道にスライム現れた 作:幕霧 映(マクギリス・バエル)
「おい、なぜ母体がここまで損傷している……!? せめて奥様だけでも命を繋ぐのだ! クリシュタ様の
「む、無理です! 母子ともに脈がありません! こんな時にっ……! クリシュタ様は今
「疫病の蔓延が酷い三つ隣の街に治療へ行っている! 奥方様の出産のご予定は本来、一月後だったであろう!」
白い服を真っ赤に染めた産婆と医者たちが焦燥を顔に浮かべて、床に伏す妊婦の死体を囲んでいます。
まるで腹の内側で爆薬が炸裂したかのような、凄惨な有り様でその妊婦は息絶えていました。
「ぃ"ーぁ……ぃ、ギ」
そしてそのすぐ近くに──皮膚と四肢の無い、人の赤子と呼ぶにはあまりに未熟で、どちらかと言えば
【──あつい、あつい、あつい。
さっきまでじぶんをつつんでいたあたたかな
あれがないとさむいのに。さむいはずなのに。じぶんのからだはまっかであつい。
──いきができない。
なきわめこうとして、のどがさけた。あついのがふえた。
だからまわりでさけんでいる、きっとじぶんとおなじしゅるいのいきものたちに、てをのばそうとした】
哀れな水子は、自分の体には手も脚も用意されていない事などつゆ知らず。ただ助けを乞うように身をよじりました。
産まれたばかりの……いえ。満足に産まれる事すら出来なかった彼女には、自分が今なぜこんなに苦しいのか、なぜ誰も助けてくれないのか、何もわかりません。
しかし水子の半分ぽっちしか無い脳味噌に詰め込まれた生物的な本能は、今の自分の肉体が、もっとも恐るべき『死』へとまっしぐらで向かっている事をようやく理解しました。
【──ああ、こわい、こわい! なにか、くらくてさむくてとてもこわいものに、じぶんはのみこまれてきえようとしている!】
彼女にはものを掴む手が生えていません。
彼女には地を蹴ることの出来る足が揃っていません。
彼女にはものごとを考える頭脳が半分ばかし備わっていません。
彼女には通常の赤子がよく発達させているはずの声帯がろくに形成されていません。
【──
彼女には生きるために必要な臓器の大半が与えられていません。
彼女には母親の愛が与えられることはありません。
彼女には父親の抱擁を受ける事ができません。
彼女には何もありません。
ーーセカイは彼女に、彼女の欲する、なにもかもを与えてくれませんでした。
【ーーーー・・・ーーー
──しかし。水子は。
"おとうさん"からただひとつ、世界の法則を書き換える、凄まじい力だけは受け継いでいたのです。世界を形成する
しかしそれさえも、水子が瀕している死の危機を
ああ、とっくの昔に心臓は止まっています。脳の細胞が灰色に腐り落ちていきます。
早くしないと肉体から
【█■█ ██■███ █████―――――███■██・██■■■■■■■■■■■■■■■・・・██████████
████■■■■■■■■████■■■■■■■█・・・】
水子は、本能のまま最大出力で
そして彼女にとっては
もし、もし産まれる事が出来ていれば、
【──
"おとうさん"と同様、彼女の力は死を覆すことだけはできませんでした。
しかし、彼女の持つ規格外の才は──肉体までは無理でも、自身の"たましい"程度ならば、この世界に焼き付ける事が可能だったのです。
……しかし、それは。
『 ──
──本来なら一瞬で終わるはずだった彼女の苦痛を何万倍もの時間に引き伸ばす、最悪の愚行でもありました。
*
『……ぅ、あ?』
気が付くと水子は、大きな祭壇のある部屋に横たわっていました。そしてそれと同時、自分の全身を支配していた痛みから解放されている事に気が付き、ひどく喜びました。
しかし周りでは何人もの大人たちが悲壮な雰囲気で黙りこくっており、その中心には涙を流す一人の男が立っていました。
男の懐には死に化粧がなされた女の遺体と、布にくるまれた小さな小さな胎児の残骸が抱き締められています。
「……起きてください、二人とも」
『……?』
「起きてください。起きて、ください……悪い冗談はやめてください」
何度も何度も、男は女の死体を揺さぶります。しかし女は肉塊のまま返事をしません。
男の名はクリシュタ・マナス。新興宗教"神の存在証明"──本人は『慈善団体』と言って憚りませんが──の教祖です。
彼をとても尊敬し、崇拝すらしている周りの信者たちの中には、いたましい教祖の姿に涙を流す者すらいました。
「……クリシュタ様。奥様は、もう」
「うるさい……! 今まで私に救えない人間が居ましたか!? かつて私の権能が通じない病がありましたか!? きっと二人ともどこかが悪いんです……! それを治せば、絶対に──」
「クリシュタ様。これは
「黙れ! そんなものの存在、私が認めない……!」
(……このひとたちはどうして、めからみずをながしているんだろう?)
体を苛んでいた激痛から解放された水子は、とてもご機嫌な気分でした。手も脚もありませんがご機嫌でした。
ご機嫌なので、周りに自分の姿が見えていない事など気が付かず、好奇心の赴くままに『自分と同じ種類の動物』だと思っている人間たちの観察を続けます。
あの自由に動く五本の
腰から二本の
まるできちんと産まれた普通の赤子と同じように、彼女は周囲の大人からいろいろな事を学び取っていきます。
その結果、未熟児の形をしていた彼女の
「……あぁ、神よ。どうか、あの方の魂にお救いを……」
『~♪』
その頃になると水子はもっぱら、信者たちが祈りを捧げにやってくる祭壇の上に座って過ごすようになっていました。
それはなぜかーーにこにこ楽しそうに笑って祭壇に腰かける水子は哀れな事に、神に捧げられる信者たちの言葉が、自分に対するものであると勘違いしてしまっているのです。"かみさま"が自分の名であると誤解してしまっているのです。
ここに座っている時だけ皆が自分に気付いて話しかけてくれていると、そう信じているのです。
その勘違いも無理はありません。『水子』も『神』も、人々からは見えない存在なのですから。
彼女には投げ掛けられる言葉の意味は分かりません。供えられる食べ物を食べる事もできません。
しかし寂しがりやな彼女にとって、誰かに話しかけて貰えるのは、それだけで一等の幸福なのでした。
『あ、い、う、え、おー』
数年後、喉を発達させた水子は少しずつ言葉を覚え始めました。
それは、勘違いが見せた幸せな夢との離別を意味すると言うのに。
『ねえねえ、きいて! あのね……っ』
「どうか、クリシュタ様の魂にお救いを……」「神様。心病める教祖様に、どうか救いの御手をば」「神よ、あの方をなにとぞ……」
『……あれ?』
拭いきれぬ違和感との直面はすぐでした。彼らの言う"かみさま"とやらが自分の名前ではないと、彼女はやっと気が付きました。
今まで水子の心を支えていた言葉の全ては、彼女以外の誰かへの言葉だったと気が付いてしまったのです。
「神よ、遠方の祖父にどうか息災のご加護を……」「神さま、息子が空襲で行方不明なのです……どうか……!」
『ボクを、みてよ……? ねぇっ。なんで目をあわせてくれないの……?』
彼らが見ているのは、自分ではなく、その後ろに鎮座するただの偶像で。
『ぼ、ぼくねっ、みんなとおはなしたくて、たくさんことばをおぼえたんだよ!』
「かみさま、どうか……兄さんが戦地から帰ってきますように」「かみさま」「かみさま」
『…………う、あ』
水子は。
自分が生まれてから今まで一度たりとも誰かからの言葉など貰えていなかった事を理解してしまいました。
誰も、自分など見えてはいなかったことを理解してしまいました。
『ぼく、"かみさま"なんかじゃないよ……?』
「かみさま」「かみさま」「かみさま」「かみさま」「かみさま」「かみさま」「かみさま」「かみさま」「かみさま」「かみさま」「かみさま」「かみさま」「かみさま」「かみさま」「かみさま」「かみさま」「かみさま」「かみさま」「かみさま」「かみさま」「かみさま」「かみさま」「かみさま」「かみさま」「かみさま」「かみさま」「かみさま」「かみさま」「かみさま」「かみさま」「かみさま」「かみさま」「かみさま」「かみさま」「かみさま」「かみさま」「かみさま」「かみさま」「かみさま」「かみさま」「かみさま」「かみさま」「かみさま」「かみさま」「かみさま」「かみさま」「かみさま」「かみさま」「かみさま」「かみさま」「かみさま」「かみさま」「かみさま」「かみさま」「かみさま」「かみさま」「かみさま」「かみさま」「かみさま」「かみさま」「かみさま」「かみさま」「かみさま」「かみさま」「かみさま」「かみさま」「かみさま」「かみさま」「かみさま」「かみさま」「かみさま」「かみさま」「かみさま」「かみさま」「かみさま」「かみさま」「かみさま」「かみさま」「かみさま」「かみさま」
『っ、だから、ぼくは……っ!』
ぼくは。ぼくは。
自分の名前を言おうとして、言葉が詰まる。
『……ぁあ』
名前が、無い。
『……ぼくは』
水子はとうとう、自分の
半透明に透けた空虚な胸をぎゅっと握りしめて、自分自身に問い掛けます。
『……ぼくは、なんだ?』
*
そこから、水子にとって地獄の日々が始まりました。
この広い星の上に、ただ一人だけ置き去りにされてしまったかのような感覚でした。
春も夏も秋も冬も、みんな水子を置いてきぼりにして巡っていきます。
何度も、何度も、何度も。止まらない
『……今日は、どこに行こう』
そう呟く水子の瞳は暗く濁っています。
あれから何年もかけて、水子は小さな歩幅で地球をぐるっと歩き回ったりもしてみました。
しかしそれでも。彼女の事が見える人間は一人たりとも見つからないのでした。
『…………』
死にたい、なんて言葉はもうとっくに枯れてしまいました。
なんたって水子の肉体はもう既にどうしようもなく死んでいて、これ以上"死ぬ"ことはどうやっても出来なかったのですから。
『……歩こう。もっと遠くまで、ボクを見つけてくれる人の所まで……』
──きっと。きっとこの星の終わりまで自分はこうして歩き続けるのだろう。そして結局誰にも会えずに終わるのだろう。
しかし、それでも。彼女がこの
その微かな希望を胸に、自分に気が付いてくれる人を探して、彼女はずっと一人の世界を彷迷い続けます。
──やがて。十回目の春がやってきました。
この春も、誰も彼女を見つけてくれませんでした。
『…………』
──やがて。
三十回目の春がやってきました。この春も、誰も彼女を見てくれませんでした。
『……あはは』
──やがて、六十回の春がやってきました。
やはり、誰にも会えませんでした。
『…………ふ、ふふふふふふふふふっ』
荒れた陸地の中心で、彼女は自分自身をせせら笑います。
とっくに心は壊れていました。もうとっくに諦めていました。だけれど、ひび割れた魂を引きずってひたすら歩き続けました。
──そして、彼女の運命を変える、八十回目の春がやってきます。
『…………あぁ、もう、ぜんぶ死んじゃえよ。みんな消えてしまえ。ボクを無視する世界なんて、大嫌いだ……』
八十年目の春。
彼女は、自分が産まれた町の公園にあるベンチでぐったりと伸びていました。
もはや『自分が見える人を探す』なんていう思いもすっかり冷めてしまい、今はひたすら世界に対する呪詛を撒き散らすだけの存在と化しています。
「嫌いだ、嫌いだ、大嫌いだ……」
春の
彼女はすっかりこの世界の事が大嫌いになってしまっていました。
『すべて腐り落ちろ、みんな死に絶えろ、すべからく地獄に落ちろ……ボクが、何をしたって言うんだよ……』
今も、彼女は公園の砂場で城を作る少年と老婆を睨み付けています。幸せそうに話し触れあうその光景が憎らしくて、そしてそれ以上に羨ましくて。
もし視線に力があるなら鉄板でも貫けてしまいそうなぐらい怨念が籠った目で、二人を睨み付けています。
「……
「あ、待ってよ婆ちゃん!」
彼女の思いが通じたのか、老婆と少年は公園から去っていきます。
ざまあみろ、と思いながら彼女は立ち上がろうとして──
『──は、ぇ?』
──ほんの一瞬だけ、
すぐ目線を逸らされてしまいましたが、けして気のせいなんかではありません。
だって、彼女は八十年以上も
『っ……!』
水子は飛び上がるように立ち上がり、転びそうになりながら老婆を追いかけます。
『はっ、はぁ……っ! ねぇ君! ボクのことっ、ボクのこと見えてるよね!? ねぇ!? ねえってば!』
後ろから声をかけますが、老婆は少年と話すばかりで彼女には見向きもしてくれません。
しかし彼女も必死です。この機を逃せばもう自分は一生一人きりだと分かり切っているからです。
無理やり顔を歪め、数十年振りの笑顔を作って老婆に声をかけ続けます。
『も、もしかしてさっき睨んだの怒ってる!? あれは違うんだ! ほら! 見て! 悪い幽霊じゃないよボク!?』
「…………」
『ねえっ、ねぇ!』
「……はぁ」
『ねえ、ボクを、見てよ……お願い、だから……っ』
知らんぷりを続ける老婆に、とうとう彼女は泣き出してしまいました。ぐすぐすと目を擦る彼女を無視して、老婆は少年の手を引いて歩き続けます。
「……婆ちゃん? そこに誰かいるの?」
「いや、鬱陶しい羽虫が顔の周りを飛んでいてね」
虫を払いのける動作をしながら、老婆はギロリと彼女を睨み付けました。鋭い眼光には「付いてくるな」という強い拒絶の感情が乗せられています。
しかしそれはむしろ逆効果。彼女にとっては"拒絶"より"無視"の方が遥かに残酷なのですから。
彼女はやはり老婆は自分の姿が見えているのだと確信し、泣きじゃくっていた顔をぱあっと明るくしました。
『っく、ふふふ! やっぱり見えてる、見えてるっ……う、うぅ……よかっだぁ……』
「…………」
『あっ、ま、待って! 着いて行って良いよね!? 沈黙は肯定と受けとるよ! まあ断られたってついていくけどね!』
彼女が老婆の背中を追うこと十数分。老婆と少年が住む家は、古くて立派な武家屋敷でした。
玄関扉を開けて家に入っていく二人に続いて家に入り込む水子を見て、老婆は諦めたように大きな溜め息を吐きました。
それからの日々は、水子にとって初めて生きた心地のする日々でした。
相も変わらず老婆は水子を無視し続けますが、それでもたまに視線が合ってしまう時があります。そういう時、水子の心はどうしようもないぐらい嬉しさでいっぱいになるのでした。
『んふふ、渚くん小学校行っちゃったねぇ。これで昼過ぎまでは二人っきりだ』
「…………」
ある日の午前中、居間でコーヒーを飲みながら難しそうな本を読んでいる老婆に水子はそう言います。老婆はそれを無視します。
この頃になると老婆のスルースキルもいよいよ熟練してきて、視線に敏感な水子でもたまに『あれもしかして本当に聞こえてない?』と思ってしまう程でした。なので最近の水子は欲求不満気味です。
これは良くない。そう思った彼女は、昨日から温めていた老婆への
『ん、そういえばね。昨日ちょっと小学校の教室まで様子を見に行ってみたんだけどさ……
「っ……」
『ぉ、おおっ! 反応した! 三日ぶりだよ!』
──
老婆の孫であるこの少年の名前を出した時だけ、必ずと言って良いほど老婆は反応してくれるのです。
水子はそれに気を良くして、ぺらぺらと言葉を続けます。
『それとねそれとね! 君がコーヒー好きだから、近くの喫茶店のマスターを観察して美味しいコーヒーの淹れ方を調べたりもしたよ! 聞きたい? ねえ聞きたいっ?』
「渚がいじめられているだと……? く、くくく、怒りのあまり笑えてきた……いじめっ子め、どう報復してくれようか」
『聞いてよ!?』
読んでいた本を閉じ、どこかへ電話をし始めた老婆に水子は叫びます。
やっぱり孫の話題じゃなきゃ駄目だなと思い、水子はネタを増やすため明日から毎日学校へ着いていくことを決めました。
……ちなみに後日談。
次の日から何故かいじめっ子たちは渚の顔を見るだけでビクつくようになり、いじめは無くなりましたとさ。
*
「え、えぇっと……5×9は……」
『そこ昨日勉強したでしょ? "ごっくしじゅうご"だよ!』
「……わかった、59だ!」
『もう! 馬鹿なの!? なんで五の倍数にすらならないのー!』
次の日の学校。簡単なテストで苦戦している渚に、水子はあきれ返っていました。
テスト時間が終了し、やりきったような顔で先生にプリントを渡す渚に、水子は残念な子を見るような視線を向けます。
『全くきみは、あの人の孫とは思えないぐらいだめだめだなぁ……』
勉強も運動もてんで駄目、その癖すぐ泣くし好き嫌いが多くて給食も残す、うじうじしてろくに友達も作れない。渚はそんな子供でした。
『授業中も机の陰で変なもの作ったりしてるし……少しは先生の話聞きなよ?』
水子はつい黙っていられず渚に小言を漏らしてしまいますが、老婆と違い孫の渚には彼女の声は聞こえていません。
『……あーあ、君にもボクの声が聞こえれば良いのにね』
学校が終わり、一人でとぼとぼ道を歩く渚を見ながら水子はそう呟きます。
──そしたらボクが友達になってあげられるのに。
老婆と違い性格のひん曲がっていない渚なら、水子を無視する事も無さそうです。
『ってあれ……急に道の端でうずくまって、どうしたの?』
渚が立ち止まってランドセルを背中から下ろし、歩道の隅で何やらガサゴソし始めました。
なにしてるんだろう、と思い水子が渚の視線を追うと、そこには段ボールの中でみゃーみゃーと鳴く一匹の猫の姿があります。
捨て猫です。薄汚く痩せ細っていて、昨夜からの雨のせいか濡れて震えています。
『うわ、可哀想に。これじゃ今夜中に凍え死んじゃうんじゃないかな』
「ごめんね……婆ちゃんが猫アレルギーだから、うちじゃ飼えないんだ」
濡れた猫をタオル拭きながら、渚はランドセルから何かを取り出しました。授業中に作っていた変なものと、給食で残した牛乳とパンです。
「でもね。図工の授業の余りの段ボールで、きみのおうちの屋根を作ったよ」
水子は、少し驚いた顔でそれを見ています。
『……屋根だったんだそれ。不器用だなぁ』
手から餌を食べるほど信頼されているという事は、かなり前から何度もここに来ているのでしょう。良く見れば子猫の入っている段ボールには度重なる補修と改造の痕跡が窺えます。
どうやら授業に集中せず何かを作っていたのも、給食をいつも残すのも、この子猫のためだったようです。
『……優しいね、きみは』
老婆が渚を可愛がる理由が水子にも少し分かりました。……泣き虫で、どんくさくて、本当にだめだめな子だけれど。
水子は初めてほんの少しだけ、自分の事が見えない人間のことを好きになりました。
『でも、子猫に牛乳はだめだよ。下痢になっちゃうんだ。明日からはちゃんと猫用のミルクにした方が良い。ボクが君のお婆さんに買ってあげるよう言っておくから』
翌日。老婆から何も言わずに大量の猫用ミルクを渡され、渚は「うちのお婆ちゃんはエスパーなんだ」と震え上がることになるのでした。
※
次の日も、また次の日も、そのまた次の日も、水子は渚の小学校へついていきました。
ある日は。
「うぅ、豊臣秀吉と徳川家康ってどっちがフランシスコザビエルを倒したんだっけ……」
『宣教師を倒してどうするのさ!? ばち当たるよ!』
またある日は。
「あぁぁ、また歴史のテストでひどい点数取っちゃった……婆ちゃんに叱られる……!」
『だ、だからフランシスコザビエルは戦国大名じゃないとあれほど……』
はたまたある日は。
「はぁっ……はぁっ……運動会のかけっこで勝つために、たくさん走るぞ……!」
『……がんばれっ、がんばれっ』
春も夏も秋も冬も、水子は傍から渚を見守り続けました。
渚に良いことがあった時は水子も喜び、渚に悲しいことがあった時は水子も一緒に悩みました。
まるで夢破れた老監督が若き選手に己の夢を託すように、水子は喪われた自らの人生を渚の成長と重ねるようになっていました。
いつしか手段と目的は逆転し、もはや老婆の気を引くためではなく、渚を見守るために学校へ付いていくようになっています。
最近の水子の楽しみはもっぱら、学校での渚の様子を老婆に語り聞かせる事です。
『ねえお婆さん、今日はとうとう渚に友達が出来たんだよ! バンダイって言ってね……! 変わってるけど良い奴でねっ!』
「……えらい悪霊に憑かれたと思ったけど、もしかすると座敷童子かもしれないな」
『ん、なんか言った?』
「…………なんでも」
老婆はぼそりと、本当に本当に小さな声でそう呟きました。
『ふーん……って、え、あ、あれっ!? もしかして今返事した!? 今ボクに返事したよね!? なっなに!? デレ期なの!? 今日は槍でも降るの!?』
九十年近く世界を彷徨ってきて初めて会話らしき行為をした事に気が付いた水子は、興奮を抑えるために腕をぱたぱた振りながら老婆の周りを跳ね回ります。
老婆はそれを、以前までより多少優しい顔で見ていました。
*
──渚が高校に入学して少したった頃、老婆が亡くなりました。
なんてことはありません。高齢者には珍しくない、ありふれた脳病です。
水子が水子であるように、老婆は老婆だったのです。
世界で唯一水子を見ることが出来た人が死んでしまいました。
──水子はまた"透明人間"になってしまいました。
『…………』
真っ暗な部屋、布団にくるまって渚が泣いています。老婆が亡くなってから、渚は学校にも行かずに一日中こんな調子です。
そんな渚を、水子は沈痛な面持ちで見下ろしていました。
『……泣くなよ、渚』
そう言う水子の声は震えています。
『君にはきっとこれから沢山の人との出会いがあるんだから良いじゃないか……ボクにはあの人しか居なかったんだよ……?』
渚の頬に伝う涙を拭おうとした水子の手は、しかしすり抜けてしまいました。水子の表情がよりいっそう悲痛に歪みます。
『だからっ、泣くなよぉ……っ、ぅ、ぐすっ……』
ぼろぼろと、水子の目から実体の無い
──人の命は短い。いつか渚までいなくなってしまったら、ボクは一体どうすれば良いんだろう。
そう考えるだけで、存在しない胸の奥がきゅっとなるような気がしました。
老婆の死からおよそ一月後。
心の中で何かしらの踏ん切りが付いたのか、渚は学校へ行くようになりました。
水子はそれに安心しながら、今日も彼の学校へと付いていきます。
「おい、お前」
しかし、その日の下校中に事件は起こりました。
自宅の百メートル前ぐらいまでやって来た所で、そこまで順調に歩いていた渚が振り向いてそう言ったのです。
水子がきょろきょろと辺りを見回しますが、誰も人はいません。
「……?」
「だから、お前だよ。なんでずっと付いてくるんだ?」
「え、なに、大丈夫? イマジナリーフレンドでも見えてるの? 遅めの中二病かな、なぎ、さ……」
冗談めかしてそう言った水子──しかし、次第にその表情は驚愕へと移ろいでいき、思わず声が出なくなってしまうのでした。
「ひっ」
水子はか細い悲鳴をあげ、顔面を蒼白にし、よたよたと後ずさってついには尻餅を着いてしまいました。
──なにせ、
「──ひ、ぁぅ、ぁああっ!?」
「ど、どうした急に大声出して。顔真っ青だぞ……?」
地面にへたりこんでしまった水子へ、渚が手を差し伸べてきます。
水子は、数秒の逡巡の末その手を取り──
その瞬間、水子は更なる驚きに目を見開きます。
「あたた、かい……」
──生きた、人の手。初めて感じる体温。とくとくと命を燃やす
「おい……おい? 立てるのか?」
「……ぇあ、う、うん。……立てる、立てるよ」
トリップしていた水子の思考は、渚の言葉でようやく現実に戻ってきました。
水子の手を引き上げた渚はあまりの軽さに驚きながらも、質問を投げかけます。
「お前、教室に居たよな。名前は?」
「……え、名前?」
「別にそんな顔しなくても、同級生なんだから自己紹介ぐらいするだろ。俺は
名前を聞かれた水子は、すっかり困ってしまいました。なにせ彼女には名前など無いのですから。
しかし水子はなんとか渚の質問に答えようと、必死に思考を巡らせ──
「ボ、ボクはね、神様だよ!」
そう、口走りました。
誰かに名前を呼ばれた(と思いこんでいた)経験なんて、それぐらいしか無いからです。
水子の発言に渚はぽかんとしています。
「え……神様って、この?」
「う、うん」
両手を合わせるジェスチャーをしながら渚は水子にそう
聞きます。それに頷いた水子を見て、渚は合点が行ったように「あー……」と呟きました。
「人のこと中二病とか言っておいて、お前の方がよっぽど
「……え、あ、そっ、そうだよ! 実は中二病なんだボク! 君に同類の雰囲気を感じて後を追いかけてきたのさ!」
「ははは、なに言ってんだよ。わけわかんねぇ」
かなり苦しい言い訳でしたが、最初の奇行もあって渚に『こういう奴』と認識されたのか、なんとか納得を得られました。
それじゃ明日学校で、と言って去っていく渚の背中を見つめながら、水子は立ち尽くしています。
「……何が、起きてるんだ?」
第一に浮かんだ仮説は『渚だけに自分の姿が見えるようになった』という物でした。老婆の血を引く渚なら水子の姿を見えるようになったとしても不思議ではありません。
しかし、すぐにそれは間違いだと分かります。
街の方へとやって来た水子は、道端で酔い潰れているサラリーマンに声をかけてみました。
「あの、おじさん。ボクのこと見える?」
「ヒック……あぁん、んだよお前。女みてぇなツラしやがってぇ、これだから最近の若いのはよぉ……」
おかしい。
「も、申し訳ありませんお客様、なぜお客様にだけ自動ドアが反応しないのか、私どもの方でもさっぱりでして……」
「いやあの、なんかボクの方こそごめんね……」
何かが、おかしい。
そこらの酔っぱらいからコンビニの店員に至るまで、あらゆる人間が水子の姿を認識出来ているのです。
なんの前触れも無く、唐突に。
もちろんこのような状況は水子にとって何度思い描いたか分からない──渇望していたと言っても過言ではない程に待ち望んでいた事態ではありますが。
しかし、突如として発生した原因不明の異常を手放しで喜べる程、水子も脳無しではありませんでした。
「なんだあれ……空に亀裂みたいのが見える」
ふと空を見上げた水子の視線の先。そこにはいつもの青い空──ではなく、その上に深淵を思わせるドス黒く巨大な亀裂が走っていました。そこから赤い霧のようなものも漏れ出てきています。
しかし、そんな空の異常に人々は見向きすらしません。あの亀裂とそこから流れ出る赤霧はどうやら水子にしか見えていないようです。
「他人から見えるようになったらなったで、ちょっと動きにくいな」
それから、水子は自分が一番最初にいた場所である『神の存在証明』の施設にやってきていました。
別に来ようとしたわけではありません。この施設の方向から奇妙な"繋がり"のようなものを感じて歩いていたら辿り着いてしまったのです。
「これは……」
水子は、施設の最奥に設置された墓石のような物の前でしゃがみこんでいました。この石の下から"繋がり"を感じます。
「……ボクの、お墓か」
水子は、この下に埋まっているのがかつての自分の遺体であると直感しました。
水子の感じた繋がりの正体はこれだったようです。
「クシナダって名前なんだボク……お父さんってばネーミングセンス終わってるな。女神の名前は流石に無いでしょ」
墓石に彫られた名前を指でなぞって、水子はつい笑ってしまいました。
水子は父親の事が大嫌いです。なにせ、彼が人間と子を成そうなどしなければ水子の苦しみは無かったのですから。
しかし、曲がりなりにも親から貰った名前です。水子はこれからそう名乗る事を決めました。
「……あ、なんか、使えそう」
水子は目を閉じ、道端で拾った小石の感覚を確かめながら深呼吸をします。
そして、かつて見た"お父さん"の姿を思い出しながら、口を開きました。
「──
──ぼふり。
手の中で一瞬にして粉末上まで崩れ去った小石を確認して、水子の口がうっすら弧を描きました。
*
現実改変能力。
空にあの亀裂が現れた日以来、水子は父と同じその能力を行使できるようになりました。
そうと分かればやる事は一つです。長年の夢を果たす時がついに来たのです。
渚と、友達になりたい。という。
「
能力を発動させると、昨日まで名簿にすら無かった水子の名前が勝手に登録され、教師も生徒も昨日まで影も形も無かったその存在を当たり前のように受け入れるようになりました。
「……こ、こんにちは。渚、くん」
「あ、昨日の中二病の奴」
水子は勇気を出し、バンダイと話していた渚に声をかけます。水子の顔を見た渚は、昨日の事を思い出してそう言いました。
「知り合いか渚?」
「いや、別に知り合いって程では……」
急に話しかけてきた水子に、バンダイは怪訝そうな視線を向けます。
しかし、水子の放った一言でその態度は一変しました。
「バンダイ君、実はボクも君と一緒で"マギ・シャイ"好きなんだ」
「なに!? あ、あの2000年代に僅か二週で放送中止になった伝説の深夜アニメを知っているのか!? 我らは親友だっ!」
「えぇ……?」
同じアニメが好きと分かった途端、バンダイは勢い良く立ち上がり水子の手をがしっと掴みました。渚はそれを見て若干引いています。
水子は二人とすぐに仲良くなることが出来ました。
当然と言えば当然です。水子はずっと二人の会話をすぐ側で聞いていたのですから、彼らの趣味趣向も性格も完璧に網羅してしまっています。
二人と友達になった水子は、三人でたくさんの思い出を作りました。
一緒に見に行った花火大会が雨で中止になり、代わりに高架下でコンビニ花火をやったり。
マラソン大会、バンダイが一人で最下位にならないよう一緒に走ってあげたり。
クリスマスイブ、街をひしめくリア充たちへの愚痴を漏らす渚とバンダイと三人で、夜通しファミレスでお喋りしたり。
そのどれもが、水子にとってかけがえの無い楽しい思い出です。水子は、こんな日々がずっと続けば良いと思いました。
……しかし。そんな楽しい日々は、やがて終わりを迎えました。突如空から降り注いだ大量の緑小人により引き起こされた世界的な災害──"ゴブリン"の襲来です。
街中で殺戮の限りを尽くすゴブリンたちを見て、クシナダは唖然としていました。
『なんだよこれ……! 渚とバンダイは大丈夫なのか!?』
急いで渚とバンダイを探し出し、水子は二人に駆け寄りました。どうやら渚は大型のゴブリンを一体倒した直後のようです。
『二人とも、大丈夫!?』
水子がそう聞きますが、二人は返事をしません。
よほど酷い怪我でもしたのか──と不安になった所で、水子は
『っ、え……?』
半透明で、まるで幽霊のような手。
渚もバンダイも、
『なんで……』
原因不明で訪れた幸福は、原因不明のまま過ぎ去ってしまいました。また誰も水子のことを見えなくなりした。
能力も使えなくなってしまったため、水子は次々と送られてくる怪物たちによって崩壊していく世界をただ傍観するしかありませんでした。
全てに無視される事には慣れ切っていた筈なのに、以前までとは比較にならないほど水子の心はずたずたに引き裂かれてしまいました。なまじ人と話せていた分、その落差は果てしなく残酷でした。
心も体も、高い所から落ちたら死んでしまうのです。
『…………』
なぜ、少しの間だけボクは他人からも見えるようになったんだろう。水子はずっとそう考えていました。
そして、一つだけ思いあたる事を見つけます。
『空の亀裂……赤い、霧……』
水子は、泣き腫らした顔で空を見上げました。そして、忌々しそうに目を細めます。
空の黒い亀裂から漏れ出て、一時は世界に充満すらしていた赤い霧──水子が他人から見えていた時は大気を満たしていた赤霧が、見当たらない事に気が付いたのです。
なぜ見当たらないのかは水子も知っています。亀裂から出てきた霧は少しずつ地球の海や土壌に染み込んでいき、空気中からは無くなったのです。
『……空の亀裂は健在だ。霧が、関係している?』
渚が幼い頃よく見ていたアニメで、透明人間がペンキをかけられ輪郭を暴かれるエピソードがありました。水子はそれを思い出します。
──
あの霧が大気を満たしていたうちは、みんなが水子の姿を認識出来ていたのです。あの
やはりペンキを被った透明人間という
『……』
もしまた、あの亀裂から大量の赤霧が流れ込んでくるとして。それは一体いつになるのでしょうか。一体水子に何日間の実体を与えてくれるのでしょうか。
その間に二人は水子のことを忘れてしまうかもしれません。自分の事を忘れたまま、死んでしまうかもしれません。
そして二人がいない世界を、水子は透明の体で永遠にさ迷い続けるのです。
『ぉ、え……っ』
魂がねじ切れるような痛みに吐き気が込み上げてきて、水子は最悪の想像をやめます。耐えられない、そう思いました。
『……なんで、なんで、なんで』
──ようやく毎日が楽しくなってきたのに。初めて産まれてきて良かったと思えたのに。なんで。
無数の『なんで』が、水子の頭で反響します。
なぜこの世界はボクから奪う事しかしないんだ。こんな気持ちになるぐらいなら、最初から透明人間のまま放っておいて欲しかった。
なぜボクに、温もりを教えた。
『こんな、世界……』
こんな世界壊してやる。ボクを無視し続けたこの世界を殺してやる。
世界を作った神なんて存在がもしいるのだとしたら、そいつを頭から喰らってやる。
希望を失っていた水子の瞳に、
『……そのためにまずは、邪魔なお父さんを殺さなくちゃな』
──それからおよそ三ヶ月後。
彼女の父、クリシュタ・マナスが大気圏から膨大な量の魔力を観測したその日、水子は再び実体を手に入れるのでした。
「さあ、渚は元気かな」
水子は再び学校へと向かいます。
今度は渚と友達になるためではなく、その力を利用して父親を殺すために。