鬼滅の刃最終巻まで読了し、本日は家族の日と言うことで、思い浮かんだお話を投稿させていただきました。
最後までお付き合いいただければと思います。
終章:家族
街道の交差点にあたる町は、今日も今日とて賑わっている。多彩な小間物屋や八百屋、食事処などには多くの客が出入りし、威勢のいい店主の声や、親し気に値引きをする客などで活気に満ちていた。
帝都では西洋の文化を取り入れつつあり、場所によっては自動車なる便利な移動手段も流通しつつあるらしい。だが、少なくともこの町はまだ、その類のものはない。強いて言えば、元々は茶屋だった店がハイカラな飲食物を扱う喫茶店に変わったぐらいだ。
そんな町には、賑やかな雰囲気とは一線を画す静かな佇まいの店もある。それは取り扱う商品や店主の雰囲気など理由は様々だが、そうした店は騒いではならないと理性が訴えてくるのだ。
暁歩が立ち寄った和菓子屋もまた、その静かな佇まいの店に含まれる。元々底抜けに明るいわけでもない性格だが、こうした店では『なお静かにしなければ』と意識が引き締まるのだ。
「和三盆カステラ、二十箱だ」
そんな静かな店に入る、とんでもない注文。
店員の笑みが、面食らったような引きつったものに変わる。カステラはそれなりに高価なもので、これまでの客も一度に買うのは二~三箱がせいぜいだろうから、その前例が打ち砕かれたわけだ。
しかし、注文をした当の小芭内は、何もおかしなことは言っていないという風に堂々とした態度だ。さらに、首に巻き付く鏑丸が舌をチロチロと出しつつ店員を睥睨すると、店員たちはせかせかと用意しだす。
「どうぞ…」
ぎこちない笑みで、店員がニ十箱のカステラを用意する。小芭内は頷くと、しっかりとその分の代金を渡す。現実離れした注文に、店員たちは代金を受け取ってもなお驚きが引かないようだ。
「あ、自分は二箱お願いします」
そこで暁歩が付け足すように注文すると、今度は特に緊迫感もなく店員がカステラを用意してくれた。小芭内の二十箱という注文の衝撃が過ぎたか、地に足のついた数量に安心したのかもしれない。
「それ、全部甘露寺さん宛にですか?」
「愚問だな。他に誰に贈るとでも?」
代金を払い、店を出たところで訊いてみる。だが、量云々は兎も角、小芭内が自分以外の誰かのために買うとなれば、もはや一択だ。小芭内の答えでそれを確信したので、暁歩は『ですよね』といっそ安心感すら抱いて笑った。
「お前は、蝶屋敷の連中にか」
「ええ。もし余るようなら、来客用にでも取っておきます」
蝶屋敷で暮らしているのは暁歩を除けば六人。二箱も買えば数に不足はないだろう。
こうして並んで歩く暁歩と小芭内だが、別に予め約束を取り付けていたのではない。買い出しに来ていた暁歩が、偶然にもこの町で小芭内を見かけ、そして現在に至っている。小芭内は気晴らしの散歩とのことだ。
「時に佐薙」
「はい?」
「お前、胡蝶と祝言を挙げる予定と甘露寺から聞いたが?」
「ええ、そのつもりです」
歩く中で小芭内が訊ねるが、暁歩は逡巡もなく答える。
暁歩と小芭内は、鬼殺隊所属の頃から交流があり、解隊後もそこそこにやり取りはしている。しかしながら、未だにこうした内輪の話を気軽に話すほどに打ち解けてはいない。だから、しのぶや蜜璃たちとのやり取りも話してはいなかった。
それでもこうして訊ねたのは、蜜璃から聞いたことで多少なりとも興味が湧いたからだろう。
―――――――――
蝶屋敷ぐるみで付き合いのあった蜜璃は、今も度々暁歩たちの下を訪れることが多い。同じ柱であったしのぶは元より、きよとすみ、なほやアオイも可愛がってもらっているし、最近では感情豊かになったカナヲとも仲良くなっている。暁歩も個人的な交流に加え、しのぶという共通の守りたい親しい人がいるから、関係は希薄とは言えない。
そんな彼女に、暁歩はしのぶと祝言を挙げることを先日伝えていた。無論、その場にはしのぶもいて、承諾も得た上で。
「えっ、嘘っ?ホントに?」
それを伝えた時の蜜璃は、土産に持ってきた好物の桜餅を落としてしまうほどに驚き、驚愕と安堵の二つの感情が入り混じった表情を浮かべていた。
だが、状況を飲み込むと、目尻に涙を浮かべてしのぶを抱き締め、喜びを露にする。
「よかった、よかったねぇ…」
「甘露寺さん…」
「自分のことじゃないのに…何だかすごく嬉しい。あはは、可笑しいかな…?」
「いいえ…甘露寺さんが喜んでくださると、私も嬉しいですから」
元々、自らが理想とする男性と出会うことを強く願っていた蜜璃は、他人の幸福にも素直に喜びを見せる女性だ。感情表現が豊富なのもあり、自分以外の誰かにも感情移入しやすい。だからこそ、女性としての幸福を掴み取ったしのぶに対し、こうして喜びを露わにできるのだろう。
「あれ、告白はどっちからしたの?」
「…俺です」
素朴な蜜璃の質問に対し、暁歩は躊躇いつつも答える。自分のしたことに後悔はないし、それが間違っているとは思わない。それでも、自分が想いを伝えたのを改めて第三者に伝えるのは、何とも気恥ずかしい。
だが、暁歩の答えに蜜璃は『きゃー』と口元を手で覆ってはしゃいでいるし、しのぶはしのぶで暁歩に愉しそうな笑みを向けている。自分の劣勢は明らかだ。
「でも、そっかぁ…しのぶちゃんが祝言かぁ…」
しのぶを解放すると、感慨深そうに蜜璃が呟く。
しんみりしているようだが、その気持ちは暁歩も分かる気がした。何せ、蜜璃はかなり前からしのぶが心の奥底にどす黒い感情を押し込んでいるのを見抜き、その心がいつか押し潰されてしまわないかと案じていたほどだ。
そのしのぶが心に背負っていた重荷から解放され、幸福に一歩近づくことは、蜜璃からしてみればとても嬉しいことだろう。蜜璃にとっての心配事も払拭されたのだから、その喜びは殊更強いはずだ。
「暁歩君も頑張ってね」
「もちろんです」
蜜璃から微笑みかけられると、暁歩も力強く頷く。
暁歩もまた、蜜璃からしのぶの支えになるよう言われていた。その言葉があろうとなかろうと、暁歩はしのぶの過去を聞いた時からそうするように自分の心に決めている。その上で、自らしのぶを好いて想いを通わせ合ったのだ。この先暁歩も、多くの意味で頑張らなければならないのは分かっている。
でなければ、残りの人生を共に歩むなど、半端な覚悟ではしのぶに伝えない。
―――――――――
「そうか。まぁ、精進することだな」
「そうします」
小芭内は真偽を確かめられて満足したらしい。暁歩はその言葉に、頷き返す。
そこで暁歩は、話の流れで一つ訊いてみた。
「伊黒さんはどうなんですか?その…甘露寺さんとは」
小芭内が蜜璃に気があるのは、既に暁歩も知っている。最終決戦以降も一緒にいるのは何度か見ているので、関係が進展していてもおかしくはない。元柱を相手に大胆な質問だろうが、流れ的にこれぐらいは訊いてもいいだろう。
「…お前に教える義理はない、と言いたいところだが…お前たちのことを聞いた以上それは邪険すぎるか」
小芭内も、暁歩の話を聞いた手前、無下には断れないと判断したらしい。前にしのぶや蜜璃から聞いた話では、小芭内も言い方が厳しいだけで、実のところ協調性はあるとのことだ。根は意外と真面目なのかもしれない。
「鬼殺隊の時から、特に変わりはない」
「変わらない?」
「時々町へ行って店を見て回ったり、甘露寺が美味しそうに食事をしているのを眺めたり、あるいは文通をしたりしている。それ以上のことはない」
小芭内の説明に対して暁歩は心の中で首を傾げる。
聞いた限りでは、鬼殺隊の時から進展していない状態だ。鬼殺隊の解隊からまだ一年は経っていないが、それでも月日はそれなりに流れている。それでもなお関係に変化がないとは、意外にも小芭内は奥手なのだろうか。
「お前と胡蝶のようになるのを期待しているようなら先に言っておく。今の俺にそのつもりはない」
「え…」
「そんな資格は…甘露寺の傍にいる資格は、今の俺にはない」
歩調こそ変わらないが、その口ぶりはいつになく悲しみを帯びている。首に巻き付く鏑丸は、彼の意思を全て理解しているかのように目を伏せた。
そんな空気の変わった小芭内を見て、暁歩の中に嫌な予感が走る。
小芭内の言葉は、これまでのねちっこい言動とはまた別の意味で重みがある。それは単に自分に自信がないだけではなく、それ以上にもっと大きな事情が背後にあると察することができるほどだ。
しのぶやカナヲ、天元もそうだったが、鬼殺隊には鬼に親しい人を殺されただけでなく、複雑な事情を抱えて入隊した者も多い。もしかすると、小芭内も話さないだけで何かしらの紆余曲折を経験したのかもしれない。それも、乗り越えようとして乗り越えられるものではなく、本人からすれば罪のような深いトラウマだ。
「…そうですか。分かりました」
そこまでの考えに達し、暁歩はそれ以上触れるのを止めて、当たり障りのない返事だけしておく。それを聞いて、小芭内の纏う空気がほんの少しばかり緩んだのを感じた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「…伊黒さんがそんなお話を」
屋敷へ戻った後、暁歩はしのぶと居間で今日あったことの話をしていた。傍らにはしのぶが淹れてくれた緑茶と、暁歩が買ってきたカステラが置かれている。
しのぶは、暁歩の話を聞くと苦笑いを浮かべた。
「確かに、伊黒さんはご自身のことをあまり多く語らない方でした」
「俺も何度か話をしてますが…そうですね。生い立ちとかは話しません」
「後話すことと言えば…甘露寺さんのことがほとんどですし」
「それは…確かにそうでしたけど」
冗談じみた言葉だが、過去に暁歩は蜜璃に関する相談を受けた例がある。それ以外でも、小芭内と話をする際は必ず蜜璃の名が出てくるものだから、しのぶのそれも一概に否定はできない。
小芭内の過去は気になるところだが、同時にその意中の相手である蜜璃についても気になった。
「甘露寺さんは、どうするんでしょうか…」
「さて。伊黒さんは兎も角、甘露寺さんは伊黒さんのことを憎からず思っているようですし」
最初の頃は、小芭内は蜜璃に対し片思いを抱いているだけかと思ったが、蜜璃としても小芭内に対してはそれなりの感情を向けているのが最近では窺える。正直なところ、蜜璃もまた小芭内に淡い想いを抱いていると、暁歩としのぶは踏んでいた。
だが、そうだとすれば小芭内の意思を考えると色々収まりが悪い。
それだけでなく、蜜璃も小芭内も寿命を縮める『痣』を発現した者同士だ。残された時間は二人とも数年と、あまり長くない。寿命が縮むのは避けられないにしろ、それなら最期の時までは悔いなく過ごしてほしい。
「けれど、私たちがどうこうできる話ではありません。ここはお二人に任せるとしましょう」
「やっぱり、それしかないですよね」
結局のところ、しのぶの言う通りに第三者でしかない自分たちは静観するしかないのだ。元鬼殺隊の誼と言えど、口出しできる限度というものはある。
「ところで」
すると、しのぶはお茶を一口飲んで仕切りなおす。浮かべているのは普段と同じ微笑みだが、心なしか真剣みを帯びているようにも見える。
「祝言を挙げること、伊黒さんにも伝えたんですね」
「はい。聞かれたのもありますが、伊黒さんになら伝えても良いかと」
この話を他にしたのは、蜜璃だけでなく、蝶屋敷で一緒に暮らすカナヲやアオイ、きよたちだ。彼らにとっても関わりの深い炭治郎や禰豆子たちにはまだ話しておらず、手紙などで伝えようかと思っている。
今そのことに言及されたのは、しのぶの与り知らない場所で話してしまったのが不味かったのかと思ったが、どうも違うらしい。
「まさか…少し前まではこうなるとは思ってもいませんでしたから…。その時が近づきつつあるのだな、と感慨深く思うんです」
そう告げるしのぶの表情に翳りは見られない。しかし恐らく、今のしのぶの心の大部分を占めているのは不安や緊張だろう。
無理もないと、暁歩は思う。元々しのぶは、自分の身体に毒を溜め込み、命を擲ってでも仇敵を討とうと覚悟を決めていた。生きること、幸せを掴むことを半ば諦めていたからこそ、その先でどうあるべきか悩み、暁歩にも相談するほどに揺れていた。
そして、何度目かの人生の転換点が今近づきつつある。それを、他人に話が伝わるという形で実感しているからこそ緊張感が増すのだ。それも、この先の人生は自分一人だけのものではないから、より気が揉めるのだろう。
「それは正直、俺も思っています。この先のことに緊張しているし、不安もないとは言えません」
暁歩は、机の上に置かれたカステラに視線を落として告げる。しのぶがこちらを見ているのを感じ取った。
暁歩だって、これから先がどうなるかなど、全ては見通せない。だが、初めてのことだらけで、上手くいかないこともあるのは目に見えている。そこに暁歩は不安と緊張感を抱かずにはいられない。
そして、しのぶが最も恐れている、幸せが唐突に失われる可能性さえ無きにしも非ず。そうならないために、暁歩は勉学なり刀術なりの精進を重ねている。しかして、その成果も目に見えているかはまだ微妙なところだ。不安にさせない、幸せを守ると宣言しても、それを確信させる材料は足りない。
だが、それは自らの想いを曝け出し、互いに結ばれることを誓い合った時から覚悟していたことだ。
「しかし自分は、不安であると同時に、楽しみでもあるんですよ」
「楽しみ…ですか?」
「ええ。これから先、あなたと歩む人生がどうなるんだろうと」
言いながら、思わず笑みを堪えられなくなる。
不安はある。これから先、やらねばならないことは山ほどある。しかしそれ以上に、その先のことを考えると心が温かくなる。期待とも少し違う、どうなるのだろうという興味に近い高揚感だ。
「そして、それはきっと幸せなんだろうと、思わずにはいられないんです」
その不安でもあり楽しみでもある未来は、幸せになると自信はあった。
自分たちの気持ちを知ってから今に至るまで、二人で過ごす時間はとても穏やかで心が満たされるものだった。その中で、時として過去のことに心を痛めることもあったが、その時はお互いにその心に寄り添い、幸せが絶えぬよう支えていた。
だからこそ、これから先に二人で積み重ねていく時間もまた穏やかで、幸せなのだろう。それだけは自信が持てる。
「けれど、しのぶさんが恐れていることも、俺自身が言ったことも、忘れてはいません」
「……」
「そのために俺は、今はまだ自分なりに努力を続けている最中ですが、自分の言葉を口先だけのものには決してさせません。だから、少しでも信じてもらえませんか」
幸せを失うことを恐れているからこそ、その幸せを守る。
過去に深く心を傷つけられたからこそ、その傷を一生を懸けて癒す。
今までに多くのものを背負い生きてきたからこそ、その抱えた重荷を共に背負う。
今はまだその約束を、結果ではなく過程で示すことしかできない。それでも、その約束は何一つとして破りたくないし、破ってはならないと自負している。どれか一つでも欠けてしまっては、立ち行かなくなるから。
その意思を言葉に乗せて、正面からしのぶに告げる。視線は決して、しのぶから離しはしない。逸らせばその言葉も軽いものと思われるから。
「…暁歩さんて」
わずかな時を挟み、しのぶは反応を見せてくれた。注意深く見なければ分からないほどに、頬が朱に染まっている。
「結構、そう言うことを臆面もなく言えますよね」
指摘にも近いその言葉に、暁歩は自らの言葉を顧みる。確かに今思えば、自分の台詞は多少、いや結構気障たらしかった気もする。
「…ダメでしたか」
「いいえ。暁歩さんの言葉はきっと、自分の中にある感情…特に誰かの力になりたいという気持ちを全て伝えたいと思ってのことなのでしょう。それを全て言語化できるのはあなたの長所です」
半分謝りつつ訊くが、しのぶは責めているつもりではないらしい。
「それに、その言葉で私の心も軽くなっているのも事実ですし。こそばゆくは思いますけど」
暁歩としては、少しでもしのぶの心の負担を軽減しようと努めているに過ぎない。狙って気障な台詞を宣おうとか、逆に言いくるめてしまおうとか、そんなつもりはない。ただ、それを長所と捉えてもらったのは意外だった。
しのぶの言葉に暁歩は頭を下げつつも、ふと思ったことを告げる。
「…こそばゆくなるしのぶさんと言うのも、新鮮ですね」
「私としても、初めての感覚や経験がたくさんあって、新鮮な気持ちでいっぱいですよ。暁歩さんと暮らすようになってから」
暁歩が茶を一口啜り、しのぶはカステラを一口食べる。
食べ終えたしのぶが、暁歩に向けて微笑みかける。自分の負担を押し殺すのではない、自然なものだ。
「…あまり私を悲しませないでくださいね?」
「当然です」
言葉にして、直接伝えた以上、それを反故にしてはならない。何よりも、しのぶを悲しませないのは、暁歩にとっては義務にも近い。だから力強く、頷いた。
暁歩の返事に対し、しのぶが笑みを深めたところで。
「…あのぅ」
控えめに、部屋の外から声をかけてきたのはきよだった。そばにはなほとすみもいる。
三人とも、やけに表情が穏やかと言うか、微笑ましいものを見るような感じだ。それは三人の元の顔立ちだけでなく、まさに暁歩としのぶのやり取りを耳にしていたからなのだろう。それに気づき、暁歩の中で恥ずかしさが湧きあがる。
「…どうかしたの?」
「実はお洗濯ものが枝に引っ掛かってしまって…」
「分かった、手伝うよ」
きよが説明をすると、暁歩は食べかけのカステラを口に放り込み、腰を上げる。三人に連れられて庭へ向かうが、しのぶも後ろからついて来てくれた。
洗濯物を干すのは、決まって陽当たりの良い南側の庭だ。その近くにある木の枝には、確かに一枚の手拭いが引っ掛かっている。どこか遠くへ飛ばされなかっただけまだマシだが、その枝はそれなりに高い。きよたちはもとより、暁歩でも背伸びをしても届かない。
「梯子を持ってこようか」
「いえ、暁歩さんが肩車してくれれば届くと思います!」
現実的な案を示すが、きよは肩車を提案してきた。改めて高さを確認すると、確かに暁歩がきよを肩車すれば届きそうだ。梯子を取ってくるのは若干の手間なので、効率的な面を考えてもそうした方がいいだろう。
「じゃあ、そうしようか」
「お願いします~」
言いながら暁歩がしゃがむと、きよが首の辺りに跨る。落ちないようにきよの足首を掴んで、暁歩はゆっくりと立ち上がる。それなりに肩と首に負担はかかるが、鬼殺隊の時から鍛えている身としてはそれほど苦でもない。
だがその時、そばにいるすみとなほから、どういうわけか羨望の視線を向けられた。そして背後からは、突き刺さるような視線を感じ取り頭の中で嫌な予感がはじける。目を向けるまでもなく、その視線はしのぶのものだと分かった。
だが、一先ずそれは置いておき、まずは枝に引っ掛かっている手拭いを取ってもらうことにした。
「取れました~」
頭上からの報告を聞くと、暁歩はきよを下ろそうとする。だが、きよは降りる気配がない。
「どうしたの?」
「暁歩さんに肩車してもらうと、視線が高くなるなぁって」
なるほど、肩車を提案したのは、この高い視線を経験したかったかららしい。
蝶屋敷で一番背が高いのは暁歩だ。元柱の天元ほどの上背はないにしろ、それでも平均よりやや高めの身長を誇っている。逆に、きよたちは背が低いからこそ、その視線の高さに憧れるのだろう。
「それに…何だか懐かしい感じもして」
続くきよの言葉に、暁歩もはたと考えが止まる。
その懐かしさは、恐らくは生前のきよの親との思い出から来るものだろう。以前しのぶは、きよたちが暁歩のことを父親のように見ていると言っていた。そんな存在の暁歩に肩車をしてもらったことで、かつての本当の親との思い出、感覚が蘇ってきたのかもしれない。
そこに気付くと、このまま無下に下ろすわけにもいかなくなり、少しの間だけ肩車を続ける。
「暁歩さん、私もやってみたいです~!」
「私も~」
「はいはい」
続けてすみとなほもせがんできたので、暁歩は一旦きよを下ろす。続けてすみ、なほをそれぞれ肩車し、庭を一周して回ってみせる。すみは『高くて気持ちいいです~』とはしゃぎ、『不思議な感じですね~』となほは新鮮さを感じたりと、反応には差があるものの概ね好評だった。
「疲れないものなんですねぇ」
「これでも一応鍛えていますから」
そうして肩車をしている間は、しのぶも暁歩の隣を歩いていた。
先ほどからしのぶの視線が向けられるたびに、暁歩の中に嫌な予感が走っている。その理由は、自分たちの関係を鑑みれば嫉妬だと分かった。無論、暁歩はきよたちに対し邪な感情など抱いていないので、しのぶの心配も不要なのだが口にするのは野暮だろう。
「暁歩さんは、肩車とかをしてもらったことはあるんですか?」
頭上のなほが訊ねてくる。暁歩は、なほを落とさないように気を付けながら昔を思い出してみる。
まだ暁歩の親が生きていた頃のことは、とても懐かしい記憶だ。同時に、親の死も忘れ難い辛い思い出だが、今はそちらに気を取られず楽しかったことを思い出してみる。
「んー…俺はなかったかな。背負ってもらうことが多かったと思う」
「そうなんですか…でも、暁歩さんが誰かに背負ってもらうのって、何だか想像できないかも…」
「まぁ、今の俺を見たらそうかもね。けど、俺にもきよちゃんたちみたいな歳の頃があったんだよ」
そばを歩くすみは、悩むように首を傾げる。暁歩がここに来た時は、今と背丈はそこまで変わりはしなかったものの、確かに暁歩には今よりもずっと幼い時期があった。きよたちからすれば、暁歩の姿かたちは今のものしか知らないから、逆に想像がつかないのだろう。
「まぁ、三人とももう少し大人になったらこの感じが分かるようになると思うよ」
「その台詞は何だか年寄り臭くありませんか?」
暁歩の言葉にしのぶが指摘すると、きよたちはくすくすと笑う。特に笑っているのは、きよだった。
「…そんなに可笑しい?しのぶさんのツッコミ」
「いえ。ただ、今の私たちが何だか家族みたいな感じがして」
純粋なきよの言葉に、暁歩もしのぶも足を止める。上にいるなほや、そばにいるすみもまた過去を懐かしむような表情を浮かべていた。
きよたちにだって、本当に血の繋がっている家族はいたのだ。その家族は、鬼によって喪われ、二度と帰ってくることはない。どれだけ蝶屋敷で長いこと一緒に暮らし、家族同然の絆を育んでも、本当の家族の存在と記憶は消えない。それはきよたちだけでなく、暁歩もしのぶも同じだ。
新しくできた家族は尊いものだが、本来の家族もまた同じくらい尊い。今日のことで本来の家族のことを思い出しても、それについて多くは言わない。懐かしさに触れることは悪ではないし、今よりも昔の家族を思うことも血の繋がりを考えれば当たり前のことだ。
「…もしもまた、こうして肩車とかしてほしくなったら、いつでも言ってよ。これぐらいお安い御用だから」
暁歩は、頭上のなほや傍らにいるすみ、きよに伝える。
家族との死別は辛い。きよたちや以前のしのぶのように、幼い時分にそれを経験したのなら、その悲しみや苦しみは殊更強いだろう。それを乗り越えるためには、その悲しみを上書きできるほどに今を懸命に、幸せに生きるほかない。それができるように、暁歩は少しでも力添えをする。
「…今は時間に大分余裕がありますし、私のことも頼ってくれて大丈夫ですよ。それに、暁歩さんからすれば私は
隣を歩くしのぶが笑って伝える。『暁歩からすれば』と言うのは、以前しのぶから『暁歩がきよたちから父親のように思われていると聞いた時、暁歩が返した言葉だ。今でも、その言葉はあながち間違ってはいないと暁歩自身は思っている。
そのしのぶも、鬼殺隊がまだ発足していた頃は柱として多忙な生活を送っており、屋敷のことはほぼアオイや暁歩などに任せきりだった。全てが終わった今は、蝶屋敷全体の意向もあってゆっくりしていることが多く、しのぶとしても頼ってほしいのだろう。
そのしのぶの言葉に、きよたちは頷き表情を綻ばせた。
「…何をなさっているんですか?」
すると、別の声が前方から聞こえた。
視線を上げると、そこにはアオイとカナヲがいた。入用で出掛けていた二人だが、帰ってきて庭から聞こえた声を頼りにここへ来たらしい。
アオイに問われて、暁歩は今の状況を確かめる。そう言えば、なほを肩車したままだった。
「アオイさんおかえりなさい!」
「ええ、ただいま。で…」
きよたちが笑顔で出迎える一方、アオイは暁歩に対し未だに疑わしげな視線を向けたままだ。そのなほに向けてカナヲは軽く手を振り、なほも同じように手を振り返す。カナヲは、今の暁歩に対し特に疑問を抱いていないようだ。
さてアオイだが、蝶屋敷で長いこと暮らす中で暁歩と打ち解けてきたものの、いまだにある程度の一線を越えさせないところがある。特に、以前暁歩がしのぶと夜にまぐわったのを言伝に聞いて―――しかもきよたちから―――以来、距離が開いたと言うよりも警戒心が強まった。
「きよちゃんたちに頼まれたんです。肩車してほしいって」
「はぁ…またどうして」
「暁歩さん、背が高いですし楽しそうだなぁって」
傍に立つきよが補足し、なほとすみも頷く。
きよたちが過去のことを思い出したことに関してはどう説明しようかと悩むが、その答えを出すよりも早くしのぶが先に前に歩み出た。
「洗濯物が木の枝に引っ掛かったので、それを取ったついでですよ。それで、アオイたちも用事は済ませられた?」
「あ、はい。どうにか終わりました」
「ならよかった」
手早くしのぶが事情を説明し、加えてアオイたちのことも聞いて話題を逸らす。実にありがたかった。その間に、暁歩はなほを地面に下ろす。
「他の洗濯物は取り込んだんだよね?だったら、おやつにしようか。買ってきたカステラもあるし」
「「「わーい!」」」
暁歩が提案すると、きよたちは手を挙げて無邪気に喜ぶ。その反応を見ると、暁歩も自腹を切って買ってきた甲斐があると言うものだ。
とてとてと母屋に戻るきよたちを見送りつつ、暁歩はアオイとカナヲにも目を向けた。
「二人もどうですか?」
「…ええ、いただきます」
「うん」
暁歩が言うと、アオイは仕方ないと、カナヲは嬉々として頷いて、きよたちの後に続いていった。最後に暁歩としのぶが向かうが、その途中でしのぶが屈むように手で示してくる。
「食べ物で場を治めるのは、女性としてはどうかと思いますけどね」
「そんなつもりはなかったんですが…」
耳打ちされると、暁歩は軽く頭を下げる。お菓子で釣ったつもりはないのだが、見方によってはそう捉えられてしまうらしい。今後は気を付けることにしよう。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
その日は、何だか妙に寝苦しかった。
部屋は暑くない。体調だって寝る前は特に問題なかった。だのに、布団に入り込んでも眠気は中々湧いてこないし、体勢を変えてみても同じだ。
そして頭の中では、自分の中で最も辛く悲しい記憶が主張を繰り返している。
「んぅ…」
それでも目をぎゅっと閉じ、少しでも眠りやすくしようと試みた。
そうしていると、自分の意識が、身体全体が綿のような柔らかさに包まれながら、沈んでいくような感覚になる。
すると、閉じた瞼の裏側に一つの光景が弾ける。
赤い血が飛び散った畳だ。
「っ!はぁ…」
そこできよは、目を覚ました。その後は見てはならないと本能が訴えかけ、意識が強引に覚醒したのだ。
胸に手を置く。張り裂けそうなほど心臓が脈動している。背中にはじんわりと汗が滲んでいるのが分かった。
(…どうしよう)
こうなった原因はさておき、半端な眠りと覚醒を繰り返してしまったせいで、眠気は薄れている。さらに視界が少しずつ広まり、明かりのない自分の部屋の全体像も見えるようになってきた。
今の状態で寝直しても気分は悪いままだ。少し、何か他のことをして気持ちを切り替えた方がいいかもしれない。そう思ったきよは、障子戸を開けて空気を入れ替えつつ、少し屋敷を歩くことにした。
だが、廊下に出ると同時に、すみとなほの部屋の戸も開いた。
「「「あっ」」」
三人の声が重なる。こんな夜中に三人揃って部屋から出ることなどなかったから、驚くのも無理はない。
しかし、今いるのは他の皆も眠っている私室の近く。普段の声量で起こすわけにもいかないので、一先ず居間へ移動することにした。
「何だか変な夢を見ちゃって…」
「きよちゃんも?実は私も…」
「二人もなんだ…同じだね」
三人は、それぞれどうしてこんな時間に目が覚めてしまったのかを話す。しかし不思議なことに、理由は『嫌な夢を見た』で三人とも同じだった。自分たちの背格好や顔立ちが似ているのは自覚していたが、何も見るそんなところまで同じでなくてもいいのに。
「こんなこと、今までなかったよね?」
なほが聞くと、きよとすみは頷く。その通りで、揃って同じような夢を見ることなど今までなかった。初めてのことに、きよたちはその夢を見たことによる不快感よりも、今は驚きの方が上回っている。
「でも、その夢って…」
すみが何かを切り出そうとするも、すぐに言葉に詰まる。それでも何が言いたいかは、きよとなほにも分かった。
見た夢は、鬼によって自分たちの家族を喪った夜のことだ。死別して間もない頃、この蝶屋敷に拾われたばかりの頃は、嫌というほど見て魘された悪夢。ここしばらくは見ていなかったその夢を、久方ぶりに見てしまった。
「どうして…」
きよが言いかけたところで、異変が起きた。
廊下の奥から、床の軋む音が聞こえたのだ。
「「「っ!」」」
思わず、三人は身体を震わせ身を寄せ合う。
普通に考えれば、音の正体は同じ蝶屋敷に住む人間以外あり得ない。だが、今は丑三つ時も間近な深夜で、普通なら誰も起きていない。おまけにあんな夢を見たばかりなせいで、警戒心と恐怖心が未だ胸の中で燻っている。
足音は確実に迫ってきている。足が竦んで動かなくなり、三人で手を重ね合わせて少しでも安心感を得ようとする。
やがて廊下の奥に、ぼんやりと明かりが灯ったのが分かった。
その足音が近づく毎に、明かりが大きくなってくる毎に、心臓が跳ねる。
「…どうしたの?三人とも、こんな時間に」
そして姿を見せたのは、ろうそくの灯る燭台を持つ暁歩だった。
見知った人の姿が明らかになると、きよたちは安堵からたまらず暁歩に向かって駆け出し、勢いのままに抱き着く。驚いた様子の暁歩だが、それでも緊張から解放されたことで涙腺が緩み、啜り泣きながら暁歩の服を握る力を強くする。
「?」
そんな三人の様子に、暁歩は小首を傾げた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
きよたちが落ち着くまで待ってから、暁歩は夜風の涼しい縁側に三人を誘う。傍らには、井戸から汲んだ水を入れた茶碗が人数分置いてある。
「…なるほどね。悪い夢を」
「はい…」
ぽつりぽつりと紡がれる話を聞き、暁歩は頷く。
今夜に限ってそんな夢を見た理由は、大方予想できる。昼に暁歩が三人を肩車した時、きよたちは『懐かしい』と言っていた。さらには、自分としのぶ、そして三人での団欒を『家族のよう』とも。
それがきっかけで、それぞれの生前の家族とのことを思い出し、そして家族を、幸せを奪われた夜の夢を見た。三人揃って同じ夜にその夢を見るというのは、にわかには信じがたいが。
「暁歩さんは、こんな遅くにどうしたんですか?」
「あぁ、俺は…習慣みたいなものかな。鬼殺隊の時からの」
すみの質問に、苦笑いを浮かべ答える。
ここが鬼殺隊の医療施設として機能していた頃は、交代で夜の当番をしていた。それはアオイやきよたちも経験していたので分かるのか、納得したように頷く。
「それに、しのぶさんとの約束もあるしね」
「しのぶ様と?」
暁歩の言葉に興味を示すなほ。
そこで暁歩は、しのぶと交わした話を今ここでするべきか僅かに悩む。だが、今の三人は以前のしのぶとほぼ同じような状態で、自分と三人の関係も軽んじるものではないし、話しても問題はないと判断した。もし後で不都合が生じるようであれば、素直に謝るほかない。
「前に、しのぶさんが『怖い夢』を見たって話をしたの、覚えてる?」
「ああ…はい。そう、でしたね…」
前置きとして告げると、きよたちは曖昧に頷いたと思ったら、なぜか赤面して俯く。
どうしてかと一瞬思ったが、その話をした日は、暁歩としのぶが肌を重ねていたのを三人に聞かれていたと知った日でもあった。その事実に、ようやく消化できていた羞恥心が再燃するが、それは後回しだ。
「…で、そのしのぶさんが見た夢は、自分の親が鬼に喰われた夜のことだったって」
「……」
「その夢は昔に何度も見ていたものだけど、しばらくは見ていなかったんだ。けど、鬼との戦いが終わって、今を幸せに思うからこそ見てしまったんだって」
あの時、しのぶの話を聞いたのも同じ場所だった。今日はあの日と違って月は出ていないが、その分星は綺麗に見える。そんな夜空を見上げながら、暁歩は続けた。
「しのぶさんにとっては、鬼がいなくなった今、ここで皆と一緒に暮らすことが幸せなんだ。だからこそ、過去に幸せを目の前で失くしたことを夢に見て、今の幸せを喪うことを恐れている」
きよたちの表情が曇る。
しのぶは、きよたちの前ではいつもニコニコと優しく微笑んでいることが多い。それだけでなく、姉のカナエがまだ存命だった頃は少し尖っていたらしい。そして、カナエを喪ってから今に至るまでも、きよたちは見ていただろう。
だが、三人の反応を見るに、しのぶが家族を喪って悲嘆に暮れていたのは知っていても、今幸せを失うのを恐れていることまでは気付かなかったようだ。しのぶだってきよたちに心配をさせまいと、あの笑みを保って振る舞っていたのだから、気付かないのも仕方がないだろう。
「きよちゃん、昨日言ってたよね。今の自分たちが、家族みたいだって」
「はい…」
「そして多分、すみちゃんとなほちゃんも同じ気持ちだったのかな?」
暁歩が訊くと、すみとなほは頷く。
それで暁歩は、予想が確信に変わった。
「今の自分たちが家族みたいだと思うからこそ、三人にとって本当の家族を喪った時のことを夢に見たんだよ」
きよたちが顔を上げる。
暁歩は一度立ち上がり、きよたちの前で屈んで視線の高さを合わせた。
「三人とも家族を亡くしていて、その辛さや悲しさは俺にも分かるよ。それが全部理解できるとは言わないけど、俺も家族を鬼によって喪っているからね」
「……」
「だからこそ、同じ痛みを感じたきよちゃんたちの力になりたい。もしも皆が不安な気持ちに駆られているのなら、みんなが安心できるようにやれることをやりたい」
それに、と暁歩は続ける。
「今まで言う機会がなかったけど、俺はきよちゃんたちのことを妹、自分の子供…とにかく、本当の家族みたいに思ってるんだ」
「え?」
「この屋敷でそれなりに長い時間過ごしてね。皆のことをそう思うようになったんだよ」
今までは内心でそう思うことがあったが、実際に口にしたことはなかった。それを言うのは少し後ろめたかったし、差し出がましいとも思ったから。
しかし今のきよたちに必要なのは、自分たちを確かに支えてくれる人の存在と、そこからくる安らぎだ。暁歩だって支えたいと思う気持ちに偽りはないし、また三人のことを家族のように思っているからこそ、その気持ちを今伝えるべきだと思った。
「だからきよちゃん、すみちゃん、なほちゃん」
三人にそれぞれ視線を巡らせて、笑って見せる。しのぶには劣るだろうが、安心させる笑みを作ろうと試みる。
「もしも何か、怖い思いをしたり、不安になったりしたらいつでも言ってほしい。その時は、俺に対して迷惑だとか遠慮だとか、そういうことは考えないで」
ふわっと、夜風が吹く。
「三人とも今まで頑張ってきたんだ。どれだけ悲しくて、辛いことを経験しても、鬼殺隊を支えてくれたんだから。これからはもっと、周りを頼ってもいいんだよ」
厳密に言えば、三人は鬼殺隊の正式な隊員ではなかった。それでも、医療施設の蝶屋敷で傷ついた隊員たちの治療を手伝い、機能回復訓練にも積極的に協力し、確かに鬼と戦う人たちを支えていた。普通なら、鬼によって幸せを奪われた幼い子供に、間接的でも鬼と関り続けるなど荷が重すぎる。
そんな彼女たちは、暁歩から見れば立派に鬼殺隊の一員だった。目を背けても仕方がないような鬼との戦いに向き合い続け、真摯に治療と回復に寄り添うその姿は、歳と見た目にそぐわずとても頼もしい。
だからこそ、鬼との戦いから解放された今は、普通の女の子としてもっと周りを頼って良い。これ以上の恐怖や不安を飲み下さずに、素直に吐き出しても構わないのだ。
暁歩の気持ちが伝わったのか、きよたちの表情に明るさが戻ってくる。
「…はいっ」
やがて、すみが笑って頷くと、暁歩は三人の頭を優しく順番に撫でた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
暁歩に話を聞いてもらったことで、きよたちの不安はある程度解消された。
けれど、また部屋に戻って一人で眠るのには少々心許ない。そのことを、先ほどの言葉に甘えて暁歩に伝えたところ、『三人で同じ部屋で眠ろう』と提案をしてくれた。
「これで大丈夫かな」
暁歩は居間に置かれていた座卓を壁際に立て、布団を敷く場所を確保してくれた。そこへきよ、すみ、なほが自分の部屋から布団を持ち寄り、縦に三人分を並べて敷く。もちろん、他の部屋で眠っている人たちは起こさないように、静かにゆっくりと持ってきた。
「暁歩さんはどうしますか?」
「俺はここで見守ってるよ。それじゃ眠れないって言うのなら移動するけど…」
「でしたら…ここにいてほしいかなって」
なほが言う。きよとすみも同意見で、文句は言わなかった。暁歩は頷き、畳に腰を下ろす。
すると、すみが布団の中でくすくすと笑いだした。声が漏れないように、口元まで布団を被っているが、それでもその声と仕草にきよとなほ、暁歩が視線をそちらに向ける。
「どうしたの?」
「いえ、何だか楽しいなって」
暁歩が訊ねると、すみは嬉々として答える。それに関しては、きよとなほも同じ気持ちだ。
三人で一緒の部屋で寝ることは、過去にも何度かあった。しかし、それはまだ家族を喪って間もない時期で、あの時はただ寂しさや悲しさを埋めるため、安心感を得るために三人で眠りについた。
加えて、蝶屋敷に拾われたばかりの頃は、しのぶやアオイ、そしてカナエが一緒に寝てくれていた。その三人はきよたちが何を言わずともそうしてくれたが、それは自分たちのことを安心させるために傍にいてくれたのだと、今ははっきり分かる。
しかし今日は、安心感を得るだけでなく、こうして三人で寝ることが久しいから、それに対する新鮮さ、楽しさが強い。以前の時とは違い、そこに暗い気持ちはない。そばで暁歩が見てくれているのも、要因の一つだろう。
「でも、もうそろそろ寝ないとね。明日もあるんだし」
「はぁい」
暁歩に促されて、きよたちは改めて眠りに就こうとする。
『明日もある』という言葉が強く頭に響いていた。
鬼殺隊は、常に生死の瀬戸際で鬼と戦うのを強いられていた以上、明日もまだ生きているという保証はなく、自らにとって大切な人がずっと笑って生きているなんてことも信じられない過酷な環境だった。きよたちは鬼殺隊でなかったが、身近な存在故にそうした厳しい環境であることを知っていたし、三人も家族や関わり深いカナエの死を経験している。嫌というほど理解していた。
だからこそ、『明日も』という言葉には、不安定な印象が多分にあった。
しかし、鬼との戦いは終わった。もう理不尽な理由で命が奪われることはそうそうなくなり、自分たちの生活が脅かされる心配もほとんどない。
今は以前よりも、『明日』に希望を持ち、楽しみにしてもいいのだ。
「…~♪」
不意に、何かが聞こえてきた。
注意深く耳を傾けると、それは暁歩の歌う子守唄だと分かった。決して眠りを妨げない声量と、心地良い布団の温もりに、睡魔が訪れ瞼が重たくなってくる。だが、もう寝苦しさや悪寒からくる汗はない。
(子守唄なんて歌ってもらうの、久しぶりかな…)
そう思いながら、きよの思考は徐々にゆっくりになっていく。
やがて意識が完全に落ちる直前、今は亡き自分の両親が傍にいてくれているような、そんな懐かしい感じがした。
□ □ □ □ □
遠くから、鳥のさえずりと、木々のざわめきが聞こえてくる。
「ん…」
そこで暁歩は、ゆっくりと目を開けた。
壁に背を預けたまま意識が覚醒しだす。視界が開けてくると、空が明るくなってきているのが分かった。
そして、すぐそばには三人分の布団が並んでいる。そこで横になっているきよ、すみ、なほはまだ三人とも目を覚ましておらず、実に穏やかな寝顔を見せていた。その様子からして、どうやら悪夢に魘されているわけではなさそうだ。
暁歩は安心すると、一旦立ち上がって身体を伸ばす。きちんと横にならずに眠ったせいで、変に身体が凝っていた。
しかしそこで、ぱたぱたと一人分の足音が近づいてくる。
「え?」
その正体は、アオイだった。自分の部屋ではなく居間で三人並んで眠っているのに加え、傍には暁歩もいるのが不可解でならないのだろう。
しかし、アオイが声を発する前に、暁歩が人差し指を立てて静かにするよう暗に伝える。きよたちがまだ寝ているから、とアオイも察したのか一先ずは何も言わなかった。
「実は昨日の夜、きよちゃんたちは悪い夢を見て起きちゃったんです。それで話し合って、あの部屋で三人一緒に寝ようって話になったんですよ」
「で、暁歩さんがいたのは?」
「いてほしい、って頼まれたんです。でも、三人のことは責めないであげてください」
場所を台所に移し、事の顛末を簡単に説明する。最初は疑わしげだったアオイだが、暁歩の説明を聞くとすぐに頷いてくれた。
「分かりました。そういう事であれば、多くは言いません」
「ありがたいです」
「では、朝食の準備を始めますので手伝っていただけますか?」
「はい」
アオイもまた、家族を喪って悲しんだのはきよたちと同じ。恐らく、夜中に魘され起きてしまった経験もあるからか、その気持ちも分かるのだろう。
きよたちのことを妹あるいは娘のように思っていると言った暁歩だが、アオイは姉のような立ち位置だ。年齢こそ暁歩より下だが、てきぱきと行動できる点や、蝶屋敷で治療をしていた時間の長さを考えればとても頼もしい。
気持ちを切り替えて、暁歩はアオイの手伝いに当たる。暁歩も言われる前にそうしようと思っていたし、きよたちも半端な時間に起きていたので、これ以上早く起こすのは気が引けた。
「そうだ、アオイさん」
「はい?」
準備の最中、暁歩は米を研ぎながら、手際よく大根を切るアオイに話しかける。アオイは手元の包丁と大根から視線を逸らさないが、その方が安全なので暁歩も気にしない。
「時々でいいので…きよちゃんたちと一緒に寝てあげてくれませんか」
言うと、アオイは手を止めて暁歩を見た。少し話の切り出し方が唐突だったか、と暁歩は自省する。
「…どういうことですか?」
「三人とも、その見た悪い夢って言うのが…家族を喪った夜のことだったみたいで」
その言葉に、アオイも視線が下がる。その夢を見ることの辛さや苦しさは、アオイも重々理解しているらしい。
「以前は誰かと一緒に眠りに就くことで、不安を和らげることができたみたいなんです。けれど、全てが終わった今でもその昔の夢を見てしまうのだそうで…。だから、三人のことも考えてそうした方がいいかと」
米を研ぐ手を止めてアオイに話す。
蝶屋敷できよたちの世話をし、さらには三人と共に機能回復訓練と治療を隊士に施していた。経験と知識もあって、彼女も三人から頼りにされていた面がある。
「…そういうことなら」
「助かります」
「ただ…」
受け入れてくれたアオイに、暁歩は頭を下げる。
だが、再び大根を切り始めたアオイはボソッと続けた。
「暁歩さんって、子供ができたら過保護になりそうですね」
「え?」
何か聞き捨てならない言葉だったが、アオイはそれ以上とやかく言う気はないつもりのようで、朝食の準備をせっせと続ける。暁歩も、一旦疑問は棚上げして準備を再開することにした。
「おはようございます」
「おはよう…」
それからしばらく経ち、準備も最終段階になったところでしのぶとカナヲが食卓に顔を出した。特にカナヲは、まだ眠気が抜けきっていないのか眼をこすっている。一方のしのぶは、普段と変わらない微笑みを携えており、同じ寝起きとは思えない。
暁歩とアオイは、『おはようございます』と挨拶を返すが、暁歩は違和感も覚えていた。
「しのぶさん、今日は早起きですね」
「ええ、夜中に目が覚めてしまって。どうにも浅い眠りだったんです」
しのぶは低血圧の気があり、朝起きるのは蝶屋敷でも一番遅い。だが、今日に限ってはカナヲと同じぐらいの時間だ。困ったように笑うしのぶは、暁歩に対して視線を向ける。
「目が醒める直前、部屋の外から足音が聞こえたのですが、何かご存じですか?」
「ああ、それは…」
訊かれて暁歩が答えようとしたが、それよりも早くにきよたちが食卓に滑り込んできた。
「おはようございます!」
「ごめんなさい!」
「寝坊しちゃいました!」
そして開口一番、謝ってくる。今来たばかりのしのぶとカナヲは、その突然のことに驚いた様子だったが、事情を聞いたアオイは起こりはしないし、暁歩も屈んで視線の高さを合わせた。
「大丈夫、準備はこっちで済ませてあるよ。あれから眠れた?」
「はい。でも、変な時間に起きちゃったから…」
「分かった。ちゃんと眠れたのならそれで十分だから、気にしないで」
きよが申し訳なさそうに言うが、暁歩は首を横に振る。睡眠を摂ること自体悪いことではないし、昨日は夜中に起きてしまったのだ。この年頃であれば、寝坊してしまうのも仕方あるまい。
暁歩の言葉に、三人は再度『ごめんなさい』と告げ、配膳の準備を始める。それを見届けつつ、暁歩はしのぶに耳打ちした。
「後で話します」
「…分かりました」
しのぶも、人前で話せる内容ではないと理解したようで、追究はしなかった。
そしてようやく眠気から脱したカナヲが配膳を手伝い始めたところで、暁歩としのぶも準備を手伝い、朝食の準備を粛々と始めた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
その日の午前、暁歩はしのぶと共に縁側で静かな時間を過ごしていた。お互い、自分たちの先のことを考えてやるべきことは多くあるが、それでもこうして二人の時間は必ず一日に一回は作っている。そして、その時は決まって傍らにお茶と少しの茶菓子も添えられていた。
「―――と、言うことなんです」
「そうですか…きよたちが」
この日最初に話すのは、もちろん今朝話せなかったきよたちの寝坊の理由だ。
話を聞き終えると、その表情に辛い気持ちが滲み出たのが分かる。
「吹っ切れた、筈がないんですよね。思えば」
「ええ。特に、あれぐらいの子は…」
「私もそうでしたから」
ある種の達観ともとれるしのぶの言葉に、暁歩は口を閉ざす。
しのぶの両親が殺されたのは、今のきよたちよりもずっと幼い頃だ。人格を形成し始める時期に辛い経験をし、それは心に深い傷を残し、悪夢を何度も見せてきた。同じ苦悶を経験したからこそ、かつての経験に苛まれるのがどれほど胸が痛むものかは想像に難くないのだろう。
「それで、暁歩さんは何て?」
「…三人は、家族を亡くしてからも、鬼殺隊を支えて鬼との戦いに力を貸してくれていました。普通のあのぐらいの子には、到底できないことです。鬼に対して恐怖しているだろうに、それでも鬼と人間の戦いに関わり続けて…」
きよたちだって、蝶屋敷で治療を手伝っていたからこそ、見るに堪えない傷を負った隊士をこれまで多く見てきたはずだ。それでもなお、恐怖を乗り越えて治療を続けるのは、本当に誰にでもできることではない。
「今まで辛くても耐えてきたんだから、この先はもう我慢したりしなくていいんだって、周りをもっと頼っていいんだって。そう伝えました」
暁歩はそこまで言って、お茶を一口飲む。暁歩の言葉に、しのぶは僅かに笑ってくれた。
「きっと三人も、今が幸せなんだと思います。だからしのぶさんと同じように、幸せを突然奪われたその時のことを夢に見たんでしょう」
「ええ、恐らくは…。それと、昨日の暁歩さんとのこともあるでしょう」
しのぶの言葉に頷き返す。暁歩自身も予想はしていたが、昨日の肩車ややり取りで懐かしさを抱いたのも、その夢を見るきっかけの一つとなってしまったのだろう。ただし、どんな時にどんな夢を見るかなど、いくら暁歩としのぶが医療に秀でていても分からない。推測でしかないが、理由はその辺りが妥当と思えた。
「それですが、しのぶさん」
「?」
改めて暁歩は、しのぶに向き合う。
「昨夜三人に話したのですが、俺はあの子たちのことを実の妹…娘のように思っているんです。この歳で娘なんて、おかしな話ですが」
おどけて見せると、しのぶもくすっと笑う。
「それでこれは、俺からの提案…というより願いです。あの子たちのことは、自立できるまで面倒を見たい。俺と、あなたで」
アオイもカナヲも、それぞれが自分の未来を考え始めている(アオイに関しては微妙だが)。暁歩としのぶは添い遂げるつもりだし、そうなればきよたちは残ってしまう。しかし彼女たち三人は、とてもではないが自立できる歳ではなく、今日のような悪夢にまた苛まれるかもしれない。だからこそ、年長者の暁歩やしのぶが傍で見守るべきだと思う。
「それに関しては、私も前々から考えていました」
しのぶが答える。
「むしろそうすべきだと私自身考えています。それは姉さんの遺志でもありますから」
既にこの世を去った花柱のカナエ。暁歩はどんな人物かを詳しく知らないが、しのぶたちが慕い敬愛するほどの優しい人だったのだろう。家族を喪い悲しんでいる、幼い子供たちの過去も未来も案ずるぐらいに。
「それに私としても、あの子たちのことは可愛く思っていますしね」
しのぶが母屋を振り返る。部屋の中では、きよやすみ、なほが忙しなく掃除を進めていた。暁歩が昨夜見た、怯えているような様子はもう見られない。
「それと、暁歩さんの性格を考えれば、あの子たちのこともちゃんと考えるだろうと思っていました。だから、あなたの願いは私の願いでもあるんです」
「なら…」
「ええ。私たちで、始めようではありませんか」
考えることは同じだったようで、暁歩も胸を撫で下ろす。ただ冷静に考えれば、しのぶだってあの三人のことを考えていない筈もないのだ。
するとしのぶは、普段とも違う蠱惑的な笑みを向けてきた。
「もしかしたら、あの子たちが
言いながらしのぶは、自らの下腹部をさする。その顔と仕草に、心疾しさを暁歩は僅かに覚えてしまう。
「…
「はい。ですがいずれは…」
身体を重ねたのは一度きりで、それから時間も経っている。それでもなお、身籠った兆候はない。子孫を残すことに関してもお互いに望んでいるため、それには回数を重ねる他ないだろう。
だが、その最初の一回は音を聞かれるという恥を経験したので、今後は場所や時間に注しなければならない。
「期待していますよ?」
「それは、しのぶさんにも言えることでは?」
お互いに言い合って、笑い合う。
そこで暁歩は、一つ気になっていたことを口にしてみた。
「そういえば、アオイさん曰く、俺は子供ができたら過保護になるみたいです」
「あー…それはそんな気もしますね」
するとしのぶは、同意に近い反応を示す。
「きよたちはもちろん、私に対しても気を配っていますし、それ自体は良いのですが、人の気持ちに真正面から向き合おうとするところもありますから」
暁歩自身でも、誰かのことを気にかけて、思考の大半を占めているのは他人のことのような気がしている。自分のことをほぼ全く考えないわけではないが、まずは誰かの不安や悩みに応えることを念頭に置いているからだ。
ただ、あまり誰かのことばかり…一人に対して集中しすぎると、心配性な面と併せてアオイの言う通り過保護になるのかもしれない。それについては、暁歩自身が自分を御する必要がある。
「ただ、暁歩さん」
その時、暁歩の肩にしのぶの手が優しく添えられる。
「あなたは私やきよたちに、『一人で抱え込まなくていい』と言ってくれましたよね?あの言葉は、暁歩さんに対しても言えることですよ?」
「……」
「何せ私たちは、『家族』ですから」
それに近いものではなく、本物の『家族』。家族を亡くした者同士、助け合うという意味合いではなく、本当の家族。そうなれば、どちらか一方が他方に対して気を遣うだけでなく、また自らも周りを頼り不安を打ち明けてもいいのだ。そこについて、遠慮をしてはならない。
「…本当に、頼っても?」
「ええ、もちろん。特に、私とあなたの子供については」
自分たちと血の繋がる肉親だからこそ、暁歩一人で全てを抱え込まないでほしい。しのぶがそう願っているのが分からない暁歩ではなかった。
頷いて、暁歩は口を開いた。
「ありがとう、しのぶさん」
感謝の気持ちを、言葉で伝える。
するとしのぶは、笑ってくれた。
□ □ □ □ □
屋敷を穏やかな涼風が吹き抜ける。今日は天気もいいし、こういう日は窓を開け放って空気を入れ替えるにはもってこいだ。医療施設の空気はどうにも籠りがちになるから、定期的に換気するのが大切になる。
「…落ち着きましたか?」
「ええ、ようやく」
背に暁歩の声がかかる。その声量が抑え気味なのは、しのぶの腕の中で眠る赤子を気遣ってのことだろう。しのぶも、すやすやと眠る我が子を起こさないよう、小さめの声で答える。先ほどまでは元気な泣き声が屋敷中に響いていたが、今は水を打ったように静かだ。
「半日、ありがとうございます」
「いいえ。私は療養扱いですし、あなたも診察があったんですから」
律義に謝る暁歩だが、しのぶは悪い気など少しもない。同じ診療所とは言え、お互い医師として生計を立てつつ育児をするとなれば、どちらかに負担が掛かるのも仕方がない。それに、しのぶは出産もあったとして、暁歩はしのぶに対して自分よりも負担がないように計ってくれた。正式に夫婦となり、子供を授かってからは家族想いである面が強くなった気がする。
「…不思議ですね」
「?」
腕の中で眠る娘の頬を、暁歩が静かに優しく指で撫でる。
「ずっと昔は、自分も同じ赤ん坊だったのに。自分の子供を見ると親近感とも懐かしさとも違う、言葉にできないような感慨深さがあります」
その時、娘がほんの少し笑ったように見えた。しのぶも口を開く。
「まぁ…私としては、今日まで生きて、これだけの幸せを享受できること自体が不思議なんですけどね」
自嘲気味にしのぶが言うと、暁歩も悲し気な笑みを浮かべた。
ここまで永く生きるなど、鬼殺隊の柱だった頃は考えもしなかった。自分の命を捨ててでも仇敵を討つことを第一とし、天寿を全うしようとも、女としての幸せを得ようともしなかった。
しかし今は、どうだろう。鬼との戦いが終わった今もなお健在で、自分の傍には最愛の伴侶がいて、その間には新しい命が生まれた。かつては想像もしなかった未来が今ここにある。
「けれど、私がかつて決意した覚悟の上に今がある。だからこそ、今のこの幸せは何物にも代えがたい」
その今は、他人からすれば無謀とも悲惨ともとれる過去や覚悟の末に、成り立っている。何かが違えば実現することはなかったであろう今に、しのぶ自身は大きな安心感を抱いていた。それと同時に、幸せを強く実感している。
しのぶは、暁歩を見上げた。
「この幸せは、あなたと出会わなければ掴むことはできなかった…。あなたには、感謝してもしきれません」
「感謝なんて。俺は、あなたとこうして過ごせるだけで十分ですから」
暁歩もまた、しのぶを見て微笑む。
お互いの間には、今なお『感謝』と『信頼』、そして『愛情』が強く根付いている。お互いに向けるその気持ちが同じだからこそ、自分たちの関係は続き、そしてこの先も絶えることはない。予想もつかないことが多い人生だが、それだけは確信していた。
「あっ、こちらでしたか」
自分たちに、また別の声が掛けられた。
振り返った先にいたのは、なほだ。特徴の三つ編みは以前と変わらないが、背格好は昔と比べると大分成長している。幼かった彼女たちも、今は頼れるお姉さんと言ったところか。
そんななほだが、普段ここでお手伝いの看護婦として働く際の白衣ではなく、綺麗な着物を着ている。おまけに少しばかりの化粧も施されており、明らかに外行きの格好だ。
「もうそろそろ、準備ができますよ」
「うん、分かった。それでは行きましょうか」
「はい」
なほに促され、しのぶは暁歩と一階へ降りる。しのぶが抱えていた娘は、暁歩が代わりに抱えてくれた。
居間へ降りると、同様に外行きの支度を整えているきよとすみ、さらにはアオイとカナヲもいた。
「アオイさん、カナヲさん。ありがとうございます」
「いいえ、これぐらいのこと」
暁歩が礼を言うと、アオイは謙遜でもなく本当に大したことはしていないという風に返す。きっちりとしている性格は、以前と変わらないと暁歩も安心する。一方のカナヲは、おめかしをしたきよやすみと楽しそうにお喋りをしている。
「二人とも、アオイさんに化粧と着付けをしてもらったの?」
「あぁ、きよは私が…」
「私はカナヲ様にやってもらいました!」
アオイが答えると、すみが嬉しそうに答える。反対に、そのすみの準備を手伝ったカナヲはモジモジと恥ずかしそうだ。
そのカナヲだが、着物のアオイと違って鬼殺隊の隊服と似たような襯衣とスカートを着ている。鬼殺隊に入る前の袴も似合っていたが、こういった服の方が好きなのだろうか。
「でも、少し意外かしら。カナヲがお化粧とかも得意だなんて」
「禰豆子に教わったの。とっても上手だったから…」
しのぶが聞くと、カナヲはにこやかに答える。成程、禰豆子の指導の結果であれば、納得もいく。すると今度は、カナヲがきよたちに目を向けた。
「今日は、誰がお見合いなの?」
「私です!」
手を挙げたのはなほだ。
こうしておめかしをするのも、今日はなほがお見合いに出向くためだった。それなのに、きよとすみまで化粧をしているのは、相手先から
「相手はどんな方なんですか?」
「ウチの患者さんのご子息です。何度か軽くお話はしていますが、良い人かと」
アオイからしても、妹のような存在だったなほの相手はやはり気になるらしい。だが、暁歩が言った通り予め人となりをある程度知っているので、こうして顔合わせの場を設けたのだ。向こうから『交際を』と言われた時は面食らったが。
「大丈夫。もしもあちらの方がナメてかかってきたらこうしますから」
言ってしのぶは、いつぞやのように拳をシッシッと振って殴るような動作を取る。割と本気でやりかねないと思っているのか、アオイたちも笑顔がひきつった。
「いやいや、それは流石に。痕跡がバレるとマズいので、お茶などに薬を盛った方が良いでしょう」
「なるほど…それもそうですね」
暁歩が宥めると見せかけて有用な手段を披露する。しのぶも半分面白がり、半分感心したが、なほたちが割と本気で怯えだしたので『冗談は兎も角』と切り出して、閑話休題と相成った。
「私たちも半端な人に大事な家族を任せたりはしませんよ」
「俺たちで十分話した結果です。アオイさんやカナヲさんの心配には及びませんよ」
「…分かりました」
元来家族思いなしのぶと、心配性(過保護とも言うか)の暁歩の言葉に、アオイもカナヲも頷く。蝶屋敷として暮らしていた時に、二人の性格や経緯を知っているからこそ、納得が行ったのだ。
「それにしても、ね」
すると、アオイが急に鼻をすすりだし、目元を擦る。よく見ると、涙ぐんでいた。
「三人にも、ついに春が来たなんて、ね…ウオォォオォイ…」
「アオイさん、まだそうと決まったわけじゃなくて…」
ついには泣き出したアオイを、きよたちは必死にあやそうとする。きよたち三人が、それぞれ新たな一歩を踏み出している事実に感動する気持ちは、しのぶも分からなくはない。だが、以前二か月も意識不明だった炭治郎が目覚めた時だけでなく、アオイ自身やカナヲ、さらに禰豆子が祝言を挙げる時も泣いていたので、案外彼女は涙もろいのだ。
その時、暁歩の抱える赤子が『うぅ…』と声を洩らした。少し騒がしくしてしまったと、その場にいる誰もが理解したようで、一斉に静かになる。やがて、再び安らかな寝息を立て始めると、空気が緩んだ。
「ええっと、炭治郎さんと伊之助さんは?」
「伊之助さんはまた裏山へ…」
「炭治郎は伊之助に連れられて」
話題を変えようと訊ねてみると、アオイは諦めたように答え、カナヲはしれっと答える。先ほど挨拶はしたのだが、伊之助は裏山を大層気に入っているようだったので、仕方があるまい。とはいえ、アオイは『まったくあの人は…』と言いつつも口は笑っているので、痘痕も靨という奴だろう。
「まだ聞けなかったんですが、善逸くんと禰豆子さんは?」
「禰豆子さんのお産が近いので、善逸さんはその付き添いで今日は来れないと。ですが、お手紙は預かってきています」
暁歩が聞くと、アオイが封筒を一つ差し出しながら答える。字の書き方からして、書いたのは善逸だろう。まだ蝶屋敷の世話になっていた頃は、下品な発言をして女性陣の顰蹙を買っていたが、彼も根は真面目なのだ。
そこで、しのぶは時計を見上げる。そろそろ、出発するのによい頃合いだ。
「では、そろそろ行きましょうか」
「はぁい」
「夜までには戻ります。それまで台所や居間は自由に使って大丈夫ですので」
「ありがとう」
暁歩もカナヲたちに伝えておく。二人とも今はそれぞれが自立しているが、元はと言えばこの屋敷で暮らしていたのだ。診療所として色々配置を変えたところはあるが、台所などはそのままなので、使ってもらっても何の問題もない。
「ああ、それと伊之助くんは診察室付近には近づかせないように」
「それはもう、重々と」
最後にしのぶが付け加えると、アオイは深々と頭を下げた。もしそうなったらどれだけ恐ろしいことが起きるか、アオイも想像がつくのだろう。
◆ ◆
草履に履き替えて、最後尾の暁歩は玄関の戸を閉める。
「……」
ふと、玄関先に植えられているアジサイのが目に入った。季節を過ぎて花は枯れてしまっているが、緑の葉は鮮やかな色を保っている。この屋敷に来てから何度も季節は巡っているが、いつでもアジサイは鮮やかに花開いていた。
最初にこの屋敷に来た時もそうだ。綺麗に咲くアジサイと、ひらひら舞う蝶が出迎えてくれた。あの時は、まさかこんな未来に達するとも、鬼殺隊であれだけ多くの人と関りを持つとも思わなかった。その関りがあった人の中には、様々な理由でこの世を去った人もいるが、それでもその人たちとの交流は今なお暁歩の中に残っている。
「……」
腹のあたりに手を置く。そこにある傷痕は、思いもよらなかった強敵との戦いで負ったもの。あの戦いから生還したのは、まさに奇跡と言っていい。それでも時折、あの時の痛みが脳裏に蘇ることがある。
「暁歩さん?」
かけられた声に、目を向ける。玄関前で足を止めているのが不自然だったか、しのぶやきよたちがこちらを見ていた。
「どうかしました?」
「…いえ。ただ、ここへ来て随分経ったなぁと」
心配そうなしのぶの質問に、笑って答える。
まだ自分に自信が持てず、臆病者と思っていた頃は、今しのぶと夫婦になるなどとは頭を掠りもしなかった。しかし、夢見心地を何度も味わいながらも、これは現実だと自分に言い聞かせている。最終決戦から命からがら生還し、想いを通わせ合ったのだ。もうこれ以上、現実を疑うべきではない。
ただし、今のように長い時の流れを痛感することは何度もある。ふとした瞬間、あの時はああだったとか、この時はどうだったとか、つい考えてしまう。
「…あぅ」
その時、腕の中の娘が不意に口から空気を洩らす。
見ると、額に蝶が一頭留まっていた。しかし、暁歩が特に何かをする前に、すぐに額から離れると、近くを舞っていたもう一頭と共にひらひらと舞い、やがてアジサイの葉に揃って留まる。
「ただ、この先もっと長い時間、ここにいるんですけどね」
「…そうですね」
蝶の行く末を見届けながら答えると、しのぶも笑う。
これまでを顧みると、どうしてもかつて接していた人たちとの思い出は蘇る。鬼殺隊とは、それだけ生き死にが身近なものだったから。
だからこそ、この命が尽きるまでは、できる限り懸命に生きると決めている。自分の家族の命と幸せを守ると。
「では、行きましょうか」
「ええ」
「「「は~い」」」
玄関先で待っていたきよとすみ、なほの三人にも声を掛けて、目的の場所へと歩き出す。
中天に昇る太陽は、家族六人を優しく照らしてくれていた。
これにて、完結でございます。
最後までご覧いただきありがとうございます。
ここで少々、あとがきを。
原作最終話にて、鬼のいなくなった現代で登場人物たちの子孫や生まれ変わりが普通に過ごしているのを見て、筆者個人はとても感慨深くなりました。生死を懸けた戦いの末に、こうした平和な一時があるのだと思うと、心がとても穏やかになりました。
また、ある柱二人の結末に関して胸がひどく痛むと同時、最終話でのその後を見た際は非常に心躍りました。
中でも個人的に注目したのが、蝶屋敷の三人娘きよ・すみ・なほにも子孫がいる点でした。『鬼滅の刃』と言う生死が強く描かれた作品で、戦いに関わりつつも幼く描かれた三人も、戦いの後で晴れて女性としての幸せを掴み祝言を挙げることができたという事実が、とても嬉しく思えました。
今回のお話は、そんな三人にスポットを当てたものです。本作でもほんの少し注目することはございましたが、今回のように主役級に据えたのは初めてでした。
伊黒さんと甘露寺さんに関しては、最終決戦の結末を知るまでは『二人もくっつけばいいな』と思っていましたが、伊黒さんの心情を鑑みるとこの作品内でも結婚するのは少し違うと個人的に判断し、敢えてこのような形とさせていただきました。それでもきっと、来世ではああして幸せに暮らしているかと思います。
あくまで、独自の結末を迎えたこの作品だけのお話ではありますが、楽しんでいただけたようであれば幸いでございます。
最後になりますが、評価をしてくださった方、感想を書いてくださった方、本当にありがとうございます。
これほどまでの反応と評価をいただけたことを、とても嬉しく思います。
それではまた、別の作品でお会いすることがございましたら。