親しき仲にも礼儀あり。
この言葉を私は、どれほど親密な関係となっても越えてはならないラインがあるという意味で捉えている。
一歩そのラインを越えてしまえば最後。それまでの親愛は、瞬く間に消えてしまうだろう。
……いや、考え過ぎか? ちょっとは残ってくれるか?
ってダメダメ。楽観視はどれほど危険なものか、私は今まで見てきただろうに。
『イャンクックがターゲット? 余裕余裕。それより聞いてくれよ。俺、この狩りが終わったら結婚の申し込みするんだ。付き合って3日だけど、気持ちはもう3年になってるからよ……そろそろいいかなって』
とか言ってたワイルドが売りのアイツは、イャンクックを狩猟中、背後から迫るババコンガのうんこをべっちょりつけられ臭いが落ちないまま求婚。あまりの臭さと馬鹿さ加減に、即答でフラれて未だに独り身だ。臭いを気にする人間よりコンガの方が優しいよな、と言い出すほどにおかしくなってしまった。
馬鹿な行いで狂人になったアイツを見てきたから、私は楽観視の危険性をよく理解したのだ。
うん、楽観視は良くない。越えてはいけないラインを越えるのは慎重にならなければいけない。
そもそもラインを越えなければいい話だが、私にはラインを越えなくてはならない、やむを得ない事情がある。だから慎重に越えるしかないのだ。
そうだ、一方的にラインを越えて、相手の領域に土足で踏みこむのがダメなのではないか。相手側にも何かメリットを与えれば、ラインを越えても許してもらえるのではないか。何か、交換条件があればいけるか?
ってダメダメ。交換条件がどれほど危険なものか、私は今まで見てきただろうに。
『回復薬が足りない? 調合手伝ってあげるよ。あたしなら一日で100個できると思うよ。代わりに今日のご飯奢ってネ』
とか言ってた有言実行がモットーのあの子の部屋は、燃えないゴミが大量生産されて片付かないままだ。未だ一日で100個の回復薬を調合しようと頑張っているらしいが、現在一日の最高記録は34個で止まっている。一日で100個完成させるまでチャレンジするつもりらしい。
軽はずみに出した交換条件でゴミ溜めに落ちるあの子を見てきたから、私は交換条件の危険性を理解しているのだ。
……ダメだ。考えれば考えるほど、八方塞がりに感じる。
「先生? 先ほどから黙り込んでいますが、お口に合いませんでしたか?」
「ああ、すまない。少し考え事をしていてね。君の料理はとても美味しいよ」
心配そうな表情を浮かべる弟子に微笑みを返す。
弟子のゲインの料理は本当に美味しい。彼には料理人の道を進んでほしいと思えるほどだ。だが彼が進んだ道はハンターだった。
5年ほど前、彼の一家が行商のため砂原を旅していたときにハプルボッカに襲われた。その時に私が助けたのだが、その記憶が鮮烈だったためハンターに、というか私にものすごく憧れたらしい。本人が言ってた。
今では私の弟子として住み込みで働いている。正直何も教えていない。押しかけてきた時にはすでにハンターとして問題ない技量だった。
「考え事ですか……僕で良ければ話を聞きますが」
「気持ちだけ頂くよ。考え事と言っても大した話じゃないからね」
大した話じゃない、なんて嘘だ。だが内容が内容だけに、言えるはずがない。
君の股間のガムートを見せてくれなど、言えるはずがない。
ことの始まりは、有言実行がモットーのあの子のゴミ屋敷に行った時だ。
「頼まれた物、持ってきたよ」
「ありがと! キャロがいてくれて助かるわ~!」
「また溜まったら持ってくるよ。できれば持ってきたくはないが」
「あたしもいい加減達成したいよ……毎日毎日回復薬の調合なんて……」
その日、回復薬調合の刑に処されている子に材料を渡しに行った。せっかく来たのだから上がってと言われたが、強い抵抗感を覚えつつも人付き合いだからと我慢して入った。だってゴミ屋敷だし。
足の踏み場はまだ辛うじてあるが、次に来る日があれば歩くことが困難になるだろうと予想できる散らかり具合。
「いい加減片づけたらどうだ? 近所から苦情が来るんじゃないか?」
「そりゃ来たけどさぁ。これは全部あたしの努力の結晶だよ? 捨てるに捨てれないよ。一日100個を達成するその日まで……」
「そうやって独りで寂しく年を重ねていくのだな……」
「ひどくない!? キャロだって独り身じゃない!」
「ち、ちげーし! 私はもう同棲してるし!」
「え!? 嘘!? いつの間に!?」
勢いで言ったが嘘ではない。
この時すでにゲインは住み込みで弟子になっていたし、弟子とはいえ同棲といえなくもない。細かく言ってないだけで嘘ではない。
「じゃあ毎日ズッコンバッコン……?」
「変な擬音はやめろ! そんなことするわけがないだろう!」
「あ、なぁんだ。やっぱり嘘なのね」
「う、嘘じゃねーし! 毎日じゃないだけでもう週2のペースでズッコンバッコンだし!」
勢いで言ったが嘘ではない。
週2のペースで狩りに出ているし、この間はズッコンバッコンやってそうな火竜の番いを一緒に狩ったし。細かく言ってないだけで嘘ではない。
「へー! キャロってばお盛んなんだね~!」
「普通だ普通!」
「ねね、キャロさんキャロさん、聞いていい?」
「なんだ!」
「お相手さんのアレ、どれぐらいの大きさだったの?」
「……アレ?」
アレとはいったい……
いや、この流れでボカす単語なんて限られる。私は知識が疎いわけではない。
「アレだよアレ」
「……言う必要なくないか?」
「えー、気になるじゃない。言えないってことはやっぱり嘘なのかー。そもそもキャロってこういうのとは無縁そうだしねー」
「嘘じゃねーし! ほんとのことだし!」
「無理しなくていいんだよ? キャロはこういう話、疎いってわかってるから。だいたい男の人のアレがどんな見た目なのかも知らないでしょ?」
「し、知ってるしー! それぐらい知ってるしー!!」
勢いで言ったが嘘ではない。
ガムートに似ているという噂は聞いたことある。だからどんな見た目か知っていると言っても過言ではない。ガムートなのだろう?
「ほんとぉ? じゃあちょっと描いてみてよ。簡単でいいからさ」
「あ、今日はもう帰らないと! 用事があるんだ! すまん、また今度な!」
勢いで言ったが嘘だ。用事などない。
ただガムートを描いたところで笑われる予感がしたから逃げたいのだ。この気持ちは嘘ではない。
「あ、ちょっと! また今度描いてもらうからねー!」
そんな言葉を背に受けながら、私は全力で家に向かって走った。
あの子は有言実行がモットーなのだ。ああ言ったからには、次会う時はまず描かせてくるだろう。男のガムートを。
しかし実際のところ、見たことがないものを描けるほど私は想像力豊かではない。そしてアレを見せてくれるような知り合いなどいない。いたらいたで嫌だが。
そもそも親しい異性も数少ない。だからといってこのままではいけない。数少ない親しい異性の中で、最も近しい存在が私はいる。
それが弟子のゲインだ。ゲインのガムートを描けば、あらゆる点が繋がるのだ。
同棲している相手とそのガムート。同一の存在でないと私がビッチ扱いを受けかねないのだから。
ううむ、とはいえゲインにガムートを見せてくれなんて言えば、「先生……気持ち悪いのでもう喋らないでください」となってしまうだろう。
そもそも「股間のガムート見せて?」なんて私のキャラじゃなさすぎる。知的で頼れるキャロ先生だぞ私は。ゲインにだけだが。
そうだ、言い方を知的な感じにすれば可能性が粉塵レベルで存在する……? 想像してみよう。
『ゲイン、少しいいか?』
『なんですか先生』
『学術的研究のために、君の股間のガムートをスケッチさせてくれないか』
キツい。
慕っていた先生がこんなことを言うなど、ゲインの心にトラウマを与えかねないぐらいにひどい。
もっと別のアプローチ方法を考えるべきだ。さっきのは知的要素が皆無すぎる。
「ううむ……」
「先生……何かお悩みでもあるんじゃないですか? 先ほどから1ページも進んでいませんよ」
夕飯を終え、雑誌に股間のガムートの絵でも載ってないか探しながら、またも深く考え込んでいたようだ。
ゲインが心配そうに見ている。
「いや、興味深い項目だったからね。ついつい凝視してしまったんだよ」
嘘である。露出が少しある絵を見ていただけで、何の項目か全くわかっていない。ちょっと文字を読めばすぐにわかるが。
なになに、狩人耳より情報、秘境の温泉特集? 【月刊狩りに生きる】もいろんな分野に手を伸ばしつつあるのかもしれない。
「どんなのですか? へぇ、温泉ですか」
「ああ、たまには娯楽をと探していたんだ」
その場しのぎで言った。もちろん嘘である。
本当は、ただイラストの人物が半裸だったので、股間のガムートを描いていないか探していただけとは言えない。
……いや、これはひょっとして使えるのではないか。
温泉。しかも秘境。見たところ、番頭がいるような温泉ではない。行くのは自己責任で、と注意書きがしてあるぐらいだ。
つまりこれは混浴が可能。合法的に、かつ自然に弟子のガムートを見るチャンスとなる。
「どうだ、ゲイン。今度温泉旅行に行ってみないか?」
「いいですねぇ。ひょっとしてそのページのですか?」
「ああ、注意書きにはモンスターもいるため一般の方は注意とあるが、私と君なら問題あるまい」
「なんだか結局は狩猟になりそうですね……」
「そう言うな。雪山の温泉だなんて楽しみじゃないか」
知的アピールで開いていた本も、たまには役に立つものだ。
互いに予定は特に無かったため、とんとん拍子で温泉旅行の日程が決まった。
秘境というだけあって、辺境にあり移動時間で疲れが募る。鳥車で最寄りの村まで行き、あとは徒歩で雪山を登るだけとなった。注意書きの件もあったことだしと普段使う狩猟道具はいくつか持って。
「しかし……いつものことだが重そうだな」
「そんなことないですよ。慣れれば軽いものです」
弟子の背負う武器がいつ見ても重たそうだ。
ゲインの扱う武器はバベルと言う名の金色のランス。その槍だけでも重たそうなのに、さらに大盾付きだ。
一方で私は弓。クラリチェエテノルクだ。火を扱う竜の素材で作られたもの。
なんだかんだで大きく感じていた自身の武器だが、バベルと並ぶと小さなものに感じてしまう。
周辺の情報を聞いた限りだと、この辺りで目立つ動物はガウシカぐらいだとか。ポポぐらいはいるだろうと思ったが、今のところ見ていない。案外ポポにも草の好き嫌いがあるのかもしれない。
「そろそろ温泉が見えてくるはずなんだが……」
「あ、あれじゃないですか?」
ゲインが示した方角には、雪が積もった白い地面ではなく岩肌を露出させた地面。
そのそばには湯気が立つ水場があった。
「結構小さいですね……」
「この特集によると、上流の方まで温泉ポイントが点在しているらしい。探せば大きい温泉もあるかもしれないな」
「なるほどー」
ゲインの股間ガムートを見るためなら小さい温泉で混浴も構わないと思ったが、先のことを予測するとこのままでは観察不可能だと判断した。そのため他の温泉の存在を示唆する。
理由としては単純だ。このまま混浴で一緒に入ろう、などと言ったところで、どうせ腰にタオルを巻かれる落ちに決まっている。
だが近くにいくつも温泉があると言えば「キャロ先生は向こうの温泉にいることだし、僕はこっちの温泉で全裸になります」ってな具合で油断するに違いない。そうなれば最後、私が「様々な景色でも眺めながら温泉に浸かりたくて」などと言って移動すればアラ不思議。ラッキースケベの出来上がりだ。
「それでは温泉を堪能するか」
「はい!」
「ああ、その前に。先に入っててくれないか。温泉に入る前に薬草を摘んでおきたくてな」
「それぐらいなら僕がやりますが」
「いや、私の趣味も兼ねているから」
もちろん嘘だ。そんな趣味はない。
私は二重三重に策を巡らす。この行動も策の一つだ。
温泉に入るには服を脱がなければならない。脱いだ服を持って温泉に入ることはまずない。
となれば、脱いだ服はどこかに置いておくしかない。
ここで私が離れることによって、ゲインは脱いだ服を先に置くことになる。そして私がそのそばに脱いだ服を置けば、温泉を堪能したあと服を着に行くとアラ不思議。第二のラッキースケベ地点の出来上がりだ。
薬草詰みという名の時間潰しを始めておおよそ3分後。
再び温泉地帯に戻ればゲインの脱いだ服が畳まれていた。鞄とバベルもそばに置いてある。いささか無警戒すぎる気がするが、この近辺にポポがいないことを考えると肉食の竜もそういないだろうから大丈夫か。
私もゲインと同じく服を脱ぎ、クラリチェエテノルクを置く。当然矢も一緒だ。とはいえ少し不安だったので剥ぎ取りナイフだけはタオルと一緒に持ちこむことに。
ナイフさんもたまには労わないとね。温泉に全身浸かりたまえ。
だがその前にだ。
「ラキスケ作戦、始めるか」
まずはゲインのいる温泉探しだ。
できる限り気配を隠して探し回らねば。
困った。これは困った。
ラッキースケベを求めて、もとい弟子のガムートを探して半裸で動き回っては身体が冷えるからと温泉に浸かり、再度探し回って、結局見つからずトボトボ戻るとそこには飛竜がいた。フルフルだ。
フルフルは畳んで置かれた私の服と武器、およびゲインの服と武器の匂いを嗅いでいる。嗅ぐだけ嗅いで、どこかへ行ってくれたら幸いなのだが……。もしもの時に備えて、タオルでくるまれた剥ぎ取りナイフを逆手で持ち観察する。
どっか行け。
そんな願いが通じたのか、フルフルは翼を動かし飛んでいく。あまり高度を上げていないが、どこかへ移動するならなんだっていい。もし戻ってきても、今度はちゃんとした武器を持って出迎えてやろう。
しかしどこへ向かったのだろうか。巣に戻ったとか? 空腹ではなかったのか。この辺りは自然の恵みも多そうだし、その分だけ餌と成り得る動物も多そうだ。
……いや、楽観視は危険だ。私は楽観視の危険性をよく知っている。
もっと真剣に考えるべきだ。匂いを嗅がれていたのは私の服だけではない。ゲインの服も嗅がれていたのだ。フルフルが飛んでいった先はゲインの元、という可能性はゼロになったわけではない。もしもそうだとしたら、ゲインは武器もなくフルフルと対峙することになる。
「……股間のガムートを見せてくれなどと言ってられないな」
フルフルの所在がどこであろうと関係ない。
弟子を持つ先生として、やるべきことをやらなくては。
先生と混浴にならないようにと離れるようにうろついて、上流の近く、洞窟のそばに目立たない小さな温泉を見つけた。
ここならば間違っても先生の裸体を見るなんて失礼なことは起きないだろうと考え、身体を湯につける。自分で考えていたより疲労していたのか、温泉の温もりが染みるように効く。
……最近、先生は何か悩んでいるようだった。今日の旅行で少しでも悩みが晴れればいいけども。
温泉へ行く前の先生の憂い顔を思いだし、自然とため息が漏れる。そんな中、それに気づけたのは偶然だった。
それは視界の端に映る、音もなく巨体を歩かせる白い竜の姿。
鱗を持たず、特殊な皮膚に覆われたその飛竜は無音のまま移動していた。
温泉の中にいるというのに、背筋に寒気を感じる。
今はまだ距離が空いているが、あの竜は、フルフルは、確実に僕を狙っている。回り込むように背後へ移動しつつある。
フルフルは獲物に気配を悟られずに捕食を行う飛竜だ。一度、フルフルが捕食する瞬間を見たことがあった。その時獲物となったケルビは食いつかれる寸前までフルフルに気づかず、ゆっくりと呑み込まれていく姿を覚えている。逃れようと弱々しく抵抗したが、最期には完全に体内へと収められたあのケルビを。
もしも今気づかなかったら、背後から喰われていたと簡単に想像できた。
だが気づけたおかげで命を長らえることができる。しかし手元に武器はない。逃げることが優先される。
向こうは僕に気づかれたことを、まだ悟ってない。だが、バレればすぐに臨戦状態となるだろう。臨戦状態に入る前、ただの捕食が狩りに切り替わる瞬間の空白に、逃走するべきだ。
もうフルフルの姿は視界から完全に消えた。振り向くことなく中腰になり、足に力を込める。フルフルの情報を改めて思い返しながら。
そして一気に走りだす。それと同時に耳を塞いだ。
フルフルは激しく動きまわらない代わりに、獲物の動きを止めにかかる竜だ。
「────ッ!」
そのひとつが、耳を劈くフルフルの咆哮。
その声量の大きさも耐えがたいものだが、甲高く悍ましい音もまた、足を竦ませる要因。
来るとわかっていて、なおかつ耳を塞いでいる上からでも足がもつれそうになる。
早く咆哮を止めてくれ。ふらつきながら、背後を、フルフルのいる方角へと振り向く。
そこで気づく。未だに耳に聞こえる絶叫……はもう無くなっているはずなのだと。耳があまりの大音声で飽和状態になり、余韻として残った幻聴なのだと。
フルフルの口に青白い光が迸っていた。
獲物の動きを止めに掛かる手法のもうひとつ。電撃による攻撃だ。
当たれば感電し、動きを封じられてしまう。
地を這いながら進む電撃。単純な放電と異なるものゆえか、迫る速度は対応できないほどではない。だが掠りでもすればすべてが終わってしまう。
────この電撃に当たれば、意識を失うことができる。
脳裏によぎった考えを捨て、軌道上から大きく離れる。
今は逃げることに集中だ。対抗するには武器を取らないことにはどうしようもない。
────武器を取りに行く余裕はない。あのフルフルは完全に僕を獲物として見ている。執拗に追いまわされ、意識を残したまま喰われるかもしれない。
フルフルの大声量による咆哮で、先生も異常事態に気づいたはずだ。
あの人が駆けつけてくれるまで粘るだけでもいい。
────どの辺りへ行くか告げずに離れた場所まで来た。先生が探すのに手間取っている間に、意識を残したまま喰われるかもしれない。
フルフルの動きは知っている。動きを注視していれば対応できる。やつの動きはすべて遅い。
────対応できても自分の体力が持たない。湯から離れた今、外気の寒さは確実に肉体を蝕んでいく。いつかはフルフルの動きに対応できず、意識を残したまま喰われる。
「くっ……!」
フルフルの飛び掛かりが見えた。
転がるように横へ跳ぶ。身体を守る布もなしに転がったために、岩肌で全身が擦り切れてしまう。血の匂いを覚えられてしまう点も最悪だが、もうひとつ悪い情報が目の前にある。
山を下りる道がフルフルに回り込まれてしまった。
やつの横をすり抜けていくか、回り道をしなくては先生の元へ行けない。
いくら動きが鈍い飛竜だといっても、それは離れていての話。伸縮自在の首の動きは激しいものだ。盾でもあれば凌ぐことはできたが、そんなものはない。
どうすればいいか、頭がパンクしようとフルフルは待ってくれない。その白い全身に、青い雷光を帯びさせる。
そのまま放電するのか、それとも帯電したまま飛び掛かるのか。
どちらにしろこの場に立ち尽くしていてはダメだ。距離を取らなくては。
足が動いた先は、そばの洞窟だった。風がないためか、中は外より暖かく感じた。
半ばパニック状態に陥った自分の頭では、冷静な判断もできていなかったのだろう。洞窟へと逃げ込んだのは確実に悪手だった。
この洞窟は、ただの横穴だと入ってすぐに気づいた。トンネルのような通り道ではない。完全な袋小路となる洞窟。少しでもフルフルから離れようと壁際まで逃げる。
入口にフルフルが陣取り、その場で高く跳躍した。そのまま天井にへばりつく。
一見すれば、道を空けてくれたような行為。
だけどそんなはずがない。通ろうとした途端、上から抑えられるか、電撃を落とされるか。いずれにせよ、追い詰められた状態に変わりはない。ほとんど手詰まりだ。
いつか見たケルビの姿が、脳裏に浮かんだ。
あのケルビは食いつかれる寸前までは、恐怖などなかっただろう。果たして今の僕とあの時のケルビ、どちらがマシなのだろうか。
恐怖を感じる時間の長さで言えば、きっと僕の方が悲惨だ。
フルフルに襲われた被害者で、即死した者は幸運だと言われる。
他の肉食動物であれば、抵抗されないように命を奪い捕食する。だが、フルフルは違う。フルフルに喰われた者は、生きたまま呑み込まれ、やつの体内で全身をゆっくりと砕かれるのだ。
フルフルの牙は獲物を噛み千切るためのものではない。獲物を逃さないためのものだ。噛まずに獲物を呑み込み、胃に行くまでに首の筋肉で獲物を消化しやすいように砕く。凄惨な最期。
身体が震える。
寒さのせいもあるが、恐怖によるものが大きい。意識を失うことができれば、まだ幸せかもしれない。
フルフルは尻尾を天井に張り付けて、その場でぶら下がっている。
何をしているのか、獲物との距離感を測っているのか、わからない。やつの首の伸びる距離が届けば、その瞬間喰われ、ゆっくりと呑み込まれていく。
フルフルがじりじりと洞窟の中央へと動きだす。
その間も僕は動けない。首が届く距離に少しでも入るのが怖い。ここから一歩も動かなければ、ほんの僅かに生き長らえることができるかもしれない。そんな正常さから離れた錯乱染みた考え。
じっと、ただやがて来る時間を待つ。
不思議と、先生と出会った時のことを思いだした。
あの時も僕はじっと待っていた。
あれは、行商人の父について行き、商隊と砂原を移動していた時だった。最初に最後尾の荷車が大きな砂柱を立てた後、消えたのを覚えている。原因はハプルボッカだった。
当時、竜について何も知らなかった僕にはハプルボッカの存在は非常に怖ろしいもので、パニックに陥った者の周辺に砂柱が立ち、そして何も残らない様子は非日常そのものだった。
他の人が悲鳴をあげる中、僕は横転した荷車の中、ただじっとしていた。冷静だったわけじゃない。今と同じで、ただ怖くて動けなかっただけだ。
動けなかったからこそ、襲われなかった。
全員が全員喰われたわけではない。蜘蛛の子を散らすようにみんなが散り散りに逃げて行ったのだ。当然漏れだって多くいるわけで、そんな逃げるチャンスを僕はものにできなかった。ずっと動かなかった。
動かなかったからこそ、ひとり逃げ遅れた。
やがて悲鳴も聞こえなくなり、竜の鼻息しか聞こえなくなった。
だが日が暮れ始めたころ、異変が起きた。
竜の暴れる音、立ち向かう人の雄叫び。そして、
『よく我慢できたな。君はとても勇敢な子だ』
荷車の中、恐怖で動くことができなかった子供に、優しく声をかけてくれた。それが先生との出会いだった。
あの時と同じだ。
背が伸びただけで、僕は何も変わっていない。結局こうして恐怖から動けずにいるままだ。
そして、その恐怖の時間ももうすぐ終わる。
フルフルがまたも尻尾で天井にぶら下がり始めた。先ほどよりも近い距離。
そのまま唾液をポタポタと落とす。餌にありつける気持ちの昂ぶりが唾液を分泌させているのだろうか。
フルフルの唾液は酸性が強いのか、それとも何らかの毒性があるのか。狩猟中という緊迫した環境下であっても、皮膚に当たれば痛みのあまりハンターでさえ気を失うもの。
本来であれば警戒しなくてはならないもののひとつだ。
だけど今は、酷く甘美なものに見えた。
────どうあがいてもこの状況から脱出は不可能だ。これが気を失う最後のチャンスだ。
よた、よた、と、吸い寄せられるように唾液の落下地点へと向かう。あまりにお粗末な動きのためか、フルフルは動かない。ただ、落ちる唾液の数が増えた気がした。
意識を失えるという誘惑に誘われ、唾液の落ちる場所へと手を伸ばし、白い滴が当たる瞬間、
『よく我慢できたな。君はとても勇敢な子だ』
痛みと同時にあの時の言葉がフラッシュバックした。
僕は何をしようとしていた?
何故恐怖を我慢しない。
────何も持っていない状態でここまで耐えたんだ。十分我慢できたと言っていい。
脳裏に浮かぶ言葉を否定する。
どこが十分なんだ。我慢するなら最後まで我慢するべきだ。
────これ以上立ち向かっても無駄なだけだ。どう考えても助からない。助けは来ない。諦める決断も勇敢なはずだ。
馬鹿みたいな言い訳ばかり浮かぶ。
助からないなんて、僕だけが決めていいものではない。助けは来ないなんて、なおさらだ。
あの時だって助からない、助けは来ないと思っていた。だけど助かった。助けが来た。もはや助からないなんて言い訳にはならない。
勝手に押し掛けた先生の弟子として、あの人の言葉を否定しないために、僕は勇敢にならないといけないんだ。
2滴目の滴が腕に当たる。視界が白く染まり、意識が遠のく前に舌を思いっきり噛む。
「あぁぁああ!?」
腕も痛いが舌も痛い。
どちらも痛い。反射的に涙が出る。これ以上痛くなる前に、こんな洞窟出なくては。
正気を取り戻したからこそ、脱出を図るもそうはいかないとばかりに白影が伸びる。
当然来るのは予想している。痛む身体を無視して転がり避けようとするも、鞭のように首をしならせぶつけてきた。首だけの動きだというのに人間を吹き飛ばすには十分な力。出口が遠ざかる。
地面を転がったせいで全身がバックリ切れたかのように痛い。すでに見えている範囲の手足はズタボロだ。寒さにより切れやすくなっているというのもあるだろう。
手足に目をやったのはほんの一瞬。次に目線をあげた時、目の前には牙が生えそろうフルフルの口内が見えた。もう完全に間に合わない。だけど、
「馬鹿にするな!!」
叫び、抵抗した。
すでに視界は完全に闇の中だ。フルフルの牙は腰まで届いている。上半身が口内にすっぽり入ってしまった。口内が蠕動し、呼吸ができなくなるほど締め付けられる。
締め付けたまま上へ上へと、少しずつ呑み込まれていく。幸い両腕は下がっている状態だった。ギリギリ手首は外に出ている。これ以上呑み込まれないように、フルフルの牙が刺さる痛みを無視して口を掴む。
あの時見たケルビと自分が完全に一致した。
────やっぱりダメだった。あの時のケルビのように、最期には完全に呑み込まれる。胃の中へ行く前に、消化しやすいように、全身を砕かれて命を落とす。
だからなんだ。もうここまで来たら抵抗する以外選択肢はない。
僕は最期まで抵抗する。先生の弟子として、先生に勇敢な子だと褒められた者として、最期の最期まで。
両手両足を使って抵抗する。手の感覚はすでにない。牙の痛みと唾液の痛みで感覚が麻痺している。ただ、まだ掴んでいる気がする。
足は持ちあげ、釣り針のように引っかける。これ以上呑み込まれないようにと。
────フルフルに咥えられたら、自力は脱出は不可能だ。
抵抗しない理由にはならない。自力で脱出できないなら他力本願だ。だからって完全に人任せにはしたりしない。
助からなかった時「どうして助けてくれなかった」なんて泣き言を言いたくない。助けてもらえるように、助けられる側だって努力すべきだ。
ハプルボッカの時、助かる行動をしていたのは偶然だったが、今度は僕自身の考えで助かる行動をする。でないと本当に何も変わっていない。そんな体たらくで先生の弟子を名乗れるものか。
「───!」
ズルり、と上へ吸われる感覚が上半身を襲う。
手が離れてしまった? 足も太ももまで呑み込まれている。なら膝を曲げて引っかけを……うまく力が入らない。
いや、諦めちゃダメだ。身体をくねらせて中から突っかかりを……。それがダメなら足首を、足の指を、最期まで使いきって……
途端、全身を包む圧迫感が消え去り、冷え切った空気が襲った。
そして落ちる感覚。
「あがっ……!?」
背中を冷たく硬い地面に強打する。
呼吸すらできなかった状態から、声を出せる状態に。つまり、フルフルの口内から脱出が叶った……?
自力で脱出は不可能な捕食。なのに逃れられたということは。
「間に合ったな」
「せ、ん……せい……」
2本の矢をつがえる先生の半裸姿がそこにあった。
「うん、私だ。よくここまで耐えたな。強い弟子をもって私も誇らしい」
まるであの時の再現のように、そこにいた。
悪い予想通り、フルフルがゲインを狙っていた。
しかし困った。助けが間に合ったのは良かったが困った。
フルフルとフルチン、どちらを注視すべきか悩む。
前にいるフルフルが余りにも脆いせいだ。
助けるために先程射った矢が、フルフルの首に突き刺さってしまっている。このフルフルはかなり年老いた個体だ。
「筋肉に張りがない。すぐに終わる」
そう宣言する。
ゲインを安心させるため、先生として振る舞うため、落ち着いてガムートを観察するため。
つがえた2本の矢で狙うは首だ。正確には首の左右。矢自体は当てない。
矢と矢を結ぶ鋼線によって、対象を切断する技。
このフルフル相手なら、1回で首を落とせる。
「……」
ちらりとゲインを盗み見る。
次いで天井にへばりついたまま私を警戒しているフルフルを見る。
……このフルフル、ガムートじゃね?
新事実への驚愕をひた隠し、矢を放つ。
今まで幾度となく弓を扱ってきた。動揺しようが問題ない。狙い通り、矢はガムートの……じゃない、フルフルの首の左右へと飛び、そのまま首と身体を2つに斬り分けた。
首と胴体、2つの落下音が洞窟内に響き渡る。
予想通りの高齢個体だった。だからこそ、かなり筋肉が衰えていたお陰であっさり終われたし、ゲインも耐えきることができたのだろう。
「温泉旅行に来たはずなのに、結局去勢してしまったな」
「は、い?」
あ、間違えた。
結局狩猟してしまったな、と言うつもりだったのに。いや、まだゲインの聞き間違いで押し通せるだろう。私は何食わぬ顔でいればいい。
それにしてもゲインの目がいつも以上に眩しい。助けられた反動だろうか。尊敬の眼差しが、もはや圧が、とても強い。
「先生……! ありがとう、ございますっ。助かりました」
「先生が弟子を助けるなんて当然だ」
だからあまり感謝しないでほしい。
そんな真っ直ぐな目で見られていると、君のガムート……いや、フルフルか? とにかく観察しにくくなる。
「それよりほら、ホットドリンクをまず飲め。芯まで冷えきって苦しいだろう」
「ほんとに、本当に、ありがとうございます!」
「い、いいから。感謝しなくていいから」
だが先生として尊敬されるのはなかなかどうして、こそばゆくて嬉しい限りだ。
渡したホットドリンクを飲むゲインの全身は、痛々しい怪我だらけ。見た目が派手なだけで致命傷は無さそうだが、簡易手当てぐらいはしておいた方がいいだろう。
そうだ、手当てをするという名目でじっくり見れるではないか。
幸いにも1人分の医療品なら洞窟入口まで持ってきている。ここですぐに手当てへと取り掛かれば、邪魔な布を着られることもない。
「しかしボロボロだな」
「すみません……」
「ああ、責めているわけじゃない。手当てが必要だと思ってな。さ、身体をじっくり見せてくれ」
「あ、いや、自分でやれます……そこまで先生のお手を煩わせるわけには」
むむ、逃げる気か。だが、そうはいくものか。
「そう言うな。先生らしいことをさせておくれ」
どうだ、この先生ムーヴは。
少し寂しげに言うのがコツだ。そうすることによって、相手に甘える口実を強く持たせるのだ。
「わ、わかりました」
「よーしよしよし」
さーて、全身ボロボロだからな。全身くまなく手当てをしないとな。これは大事な措置なんだ。必要不可欠なことなんだ。
……改めて見ると、ガムートというよりフルフルだな。ガムートは間違いだったのか?
「僕……ハンターになって、少しは先生に追いつけたたと、思ってました」
……いや、でもこれ通常状態だろうし、狂竜化したら形状が変わるのではないか?
「でも、ひどい勘違いでしたね。まだまだ距離があるって、今回で強く実感しました。技術面でも……精神面でも」
どうしたものか。さすがに手当ての名目で「ちょっと君のフルフルを狂竜化させてくれ」なんて言えない。手当てに必要なことにするには難しすぎる。
「不甲斐ない、弟子で……迷惑ばかりかけて、申し訳ないです……。先生は強い弟子と言ってくれましたが、僕にはとてもそうは思えません……」
はて? 何故かゲインが暗くなっている。
考え事に熱中しすぎてしまった。ゲインはなんて言っていた。フルフルの狂竜化や極限化のことじゃないのは確かだ。
「先生は優しいから、立派な方だから、僕なんかにも、優しい言葉を掛けてくれますが……僕は何もできません……」
「何を言ってるのかさっぱりわからないが、ひとつ言えるのは、気にするな、だ。弟子が成長途中なのは当然だろう? それに何もできないなんてことはない。いつも美味しいご飯を君から頂いているのだからな」
こ、これで大丈夫か?
なんだかうじうじモードだったが、今の言葉で問題ないか。誰か教えてくれ。先生に先生らしさを教えてくれ。
「以前も助けられて、弟子にして頂いて、しかも住みこませてもらって、今回も助けられて……なのにご飯なんて……! そんなの誰だってできます……」
掛ける言葉を間違えたか?
そもそも私は先生だが、何かを教えたことのない先生だ。そんな私に適切な言葉など難しすぎる。
「このままでは僕は申し訳なさでどうにかなりそうです……」
愚痴るようにゲインが溢した言葉。
この言葉でようやくわかった。おそらく助けられてばかりの罪悪感を勝手に感じているのだろう。
やはり私は知的な先生だな。解決の糸口がもう見えた。
何も返せないと思い込んでいるためにできた罪悪感。それに苛まれているのであれば、恩返しの機会を作ってやればいい。
きっと今なら踏み越えても大丈夫なはずだ。先生がそう思うのだから間違いない。
「……申し訳ないと思うなら、ひとつお願いがあるんだが」
「は、はい! なんですか!」
あっさりと食いついたゲインが微笑ましく思える。
やはり恩返しの機会が欲しかったのだ。となれば、私の提案は互いにとって良いものになることは間違いない。
だから私は、努めて知的な顔で言った。
「君のフルフルを獰猛化にしてくれないか。それを学術的研究のために、スケッチしたい。事細かに」
「……はい?」
あ、しまった。
「ああ、言い回しが婉曲過ぎたな。すまない。君のおちん〇んの臨戦態勢をスケッチしたい。もちろんあれだ。後世の学術的研究のために」
努めて知的な顔で言った。
「あ、キャロ、いらっしゃーい! 今日は前言った通り、描いてもら……ってどうしたのその顔……」
「弟子が口を利いてくれなくなったぁ……! ち、知的に言ったのに……かっこよく言ったのにぃ……! しかも見せてくれなかったぁ……!」
ゴミ屋敷のあの子に私は全てを話した。
ただ、味方が欲しかったから。私は間違っていないと認めて欲しかったから。
しかし、そんな願いもむなしく、全てを聞き終えた彼女の言葉は短く非道に満ち溢れていた。
「うっわぁ……」
ドン引きの目に耐えられず、すぐさま強走薬を飲んで、その場から走って逃げるしかなかった。
結局、ゲインが口を利いてくれるようになったのは、1週間ほどしてからだった。
『僕、今まで先生のことをすごく高潔な人と勘違いしてたみたいです。あ、責めてるわけじゃないですよ。誰にだって、欠点ぐらいありますよね……は、ははは……』
嫌われはしなかったが、前より扱いがどこか残念になったと思える。
ただ「おちん〇んを見せて」をボカして言っただけなのに、どうしてこんな目にあうのか。もちろん理由はわかっている。
親しき仲にも礼儀あり。
たとえ恩義があったとしても、越えてはいけないラインがあるのだ。
私の失敗談は、瞬く間に広がった。
精神コンガの恋の狩人、燃えないゴミ屋敷の主、学術的フルフルウォッチャー。
近隣ではこの3人の不名誉な徒名勢が一躍有名人となってしまった。
フルフルか、ガムートになりたかった……
学術的研究のためにおちん〇ん見たくなった結果、こんな話が思いつきました。
途中でた弓の技は狩技。
キャロさんはG級ハンターさんです。
ゲインさんは下位ハンターさんです。
ガムートは雌個体しかいないそうです。男のガムートなんていない。でも男にガムートはある。いいね?