まほうつかいのおしごと!   作:未銘

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#024 タイトル戦

 元湯・陣屋。神奈川県鶴巻温泉にある老舗旅館であり、大正の頃から将棋や囲碁のタイトル戦で利用されてきた場所でもある。そして第四期以降のマイナビ女子オープン五番勝負は、この陣屋で開幕局を行う事が通例となっていた。

 

 女王戦第一局、その当日。騒がしい前夜祭から一夜明けた朝、一人、天衣は控室で対局の開始を待つ。黒紅色の振袖と、深紅の袴を身に纏い、瞑目した彼女は静寂に包まれていた。

 

 慣れぬ場所、慣れぬタイトル戦。大勝負に名局なしと言われるが、タイトル戦で実力を発揮するのは、それほどまでに難しい。天衣とて、どこまでやれるかは未知数だ。

 

 さりとて臆すはずもなく、ただひたすらに、精神を研ぎ澄ます。

 

「入ってもよろしいでしょうか?」

「――――――どうぞ」

 

 襖を開けて入ってきたのは、月光会長と秘書の男鹿だ。天衣の対面に男鹿が座布団を用意して、月光会長が正座する。彼が纏う静謐な雰囲気は、かつて対局した時と変わらない。変わったのは、天衣の方だ。今なら無様は晒さないと、己の成長を信じられた。

 

「突然の訪問で失礼いたしました」

「いえ、お気になさらないでください」

 

 儀礼的な言葉を交わした後、続く会話もなく見詰め合う。光を失った月光会長の目は閉じられたままだが、たしかに見られていると、天衣は感じた。

 

「……老婆心ながら助言でもと思ったのですが、心配なさそうですね」

 

 月光会長がなにを見たのか、天衣にはわからない。それでも幾度となくタイトル戦の場に立った棋士の眼鏡に適ったというのは、少なからず自信となった。

 

「ところで御影さんは? 昨夜もお見掛けしませんでしたが」

「こちらには来ていません。今頃は神戸の自宅かと」

「それは……なんと言いますか、意外ですね」

 

 驚かれるのもむべなるかな。常日頃から仲の良さを公言して憚らない師が、この大一番で駆けつけていないのだから。だがそれは湊が薄情なのではなく、天衣がそう頼んだのだ。

 

「この一局は、一人で戦いたいんです」

 

 湊には随分と心配されてしまったが、だからこそ。託された将棋を、ちゃんと背負っていけるのだと示したい。独り善がりかもしれないが、天衣はその決意と共にこの場に臨んだ。

 

 あらためて姿勢を正し、天衣は月光会長の顔を見上げた。

 

「月光()()。日頃は多方面でお気遣いくださり、本当にありがとうございます」

 

 将棋の指導を受けているわけではない。日常的に顔を合わせる事もない。けれど永世名人の弟子という肩書きが庇護の傘である事も、月光会長が方々に手を回している事も知っている。

 

 天衣と湊が大過なく過ごせているのも、それらの尽力あればこそ。だから感謝はしているのだ。普段は口に出さないが、こんな時くらいは、ちゃんと伝えようと思える程度には。

 

「覚えておられるでしょうか? かつて御影は、私の将棋を誇りと答えました」

「もちろんです。貴女の棋譜は、いつも楽しみにしていますよ」

 

 その言葉に、きっと嘘はない。そう信じればこそ、天衣は紡ぐ声音に想いを乗せた。

 

「本日の対局を楽しみにしていてください。御影湊の弟子の将棋を、ご覧に入れます」

「……ええ、楽しみにさせていただきましょう」

 

 満足したのか、それからすぐに、月光会長は男鹿を伴って退出した。二人を見送ってしばらく、あらためて気持ちを落ち着けた天衣は、一人で対局場へ向かう。

 

 一歩一歩、板張りの通路を進むたびに、昂揚が抑えられなくなる。凪いだはずの心に、生まれるさざ波。あぁこれがタイトル戦かと、どこか他人事のように天衣は思う。

 

 対局場に入室すれば、遅れて報道陣のカメラが瞬いた。興奮冷めやらぬ様子の彼らが、かえって天衣を冷静にしてくれる。努めて表情を崩さず、彼女は盤の前に座る。

 

 空銀子はまだ来ていないが、持ち込んだ巾着から、天衣は小道具を出していく。目薬やウェットティッシュなどの細々とした物を定位置に置いていき、最後に愛用の扇子を取り出した。

 

 奨励会に入会した折に、湊から贈られた物だ。父の理想を、湊が揮毫した一品。幼い天衣の手に余るサイズだが、その大きさが安心感を与えてくれる。

 

 間もなく、空銀子も対局場に姿を現した。天衣を一瞥して対面に座った彼女は、素知らぬ態度で巾着から小道具を取り出し、自らの対局環境を整えていく。そのまま駒を並べ始めた彼女に倣い、天衣も駒を並べていく。

 

 さすがに女王は場慣れしている。自然体を貫く姿は、タイトル戦の経験があればこそ。

 

 記録係の奨励会員が振り駒を行い、先手は天衣に決まった。やがて立会人が対局の開始を告げ、対局者の二人は無言で礼を交わす。無数のフラッシュが瞬く中で、天衣は駒に手を伸ばした。

 

 

 ■

 

 

 足りない。いつも銀子を苛むのは、満たされる事のない飢餓感。もっと強く、もっと上へ。鳴りやまない前進指令が、内から銀子を衝き動かす。

 

 誰にも負けないと思っていた。誰よりも強くなれると信じていた。

 

 もう、随分と昔の事だ。自分が選ばれた存在ではないと、今の銀子は知っている。白雪姫だとか史上最強だとか、すっかり大仰な肩書きが馴染んでしまったが、所詮は女性に限った話だ。将棋界全体に尺度を広げれば、単なる奨励会員の一人に過ぎない。

 

 幼い頃から共に切磋琢磨してきた八一は史上四人目の中学生棋士となり、最年少竜王となった。昔は自分の後ろをついてきていた弟弟子は、今となっては遥か先。手を伸ばしても届かず、むしろ距離は広がるばかり。それがどうしようもなく哀しく、寂しかった。

 

 だからこそ、前へ。一歩でも、前へ。胸の裡に渦巻くのは、尽きる事のない強さへの渇望。

 

 そして正直に白状するなら、嫉妬していた。夜叉神天衣に。自分よりも遥かに才能の輝きを放つ存在に、自分を追い抜いていくかもしれない存在に、羨望と焦燥を禁じ得なかった。

 

 昨年九月に奨励会に入会したばかりの夜叉神は、先の例会で『1級』へ昇級した。最短で2級を駆け抜け、とうとう入品に手が掛かる位置までやってきた少女に、今の奨励会は揺れている。

 

 直後に竜王の弟子に負けたとはいえ、相手は久留野七段すら破った新星だ。相手の雛鶴あいに興味を向けこそすれ、夜叉神の評価に揺るぎはない。

 

 最初だけだと、いずれ止まると嘯いていた者たちでさえ、息を潜めて動向を窺うような状況だ。そして夜叉神が存在感を増す一方で、銀子を甘く見る手合いも増えている。中学生で二段になった彼女もまた、奨励会全体で飛び抜けた存在なのは間違いない。だが夜叉神ほどじゃない。その魔法の言葉と、女という色眼鏡が相手に余裕を与え、銀子は例会で苦戦を強いられている。

 

 ゆえに勝たねばならない。前へ進むために、少しでも八一に近付くために、夜叉神よりも強いのだと、世間に示さねばならない。その気概を背負って、銀子はこの場にやってきた。

 

 対面に座した年下の少女。銀子が女王に挑戦した時よりも幼い彼女は、初めてのタイトル戦とは思えないほど冷静だ。八一から研修会試験の話も聞いたが、特に引き摺っている様子もない。

 

 化生の類ではなかろうか。どこまでも子供らしくない相手に、銀子は内心辟易していた。

 

 盤上はまだまだ序盤だ。夜叉神の打診を銀子が承諾し、戦型は相掛かりに決まった。予定調和と言えばその通りだが、銀子の立場上、弱気を見せたくないという面もある。

 

 なんの変哲もない穏やかな立ち上がりの中で、まず夜叉神が5八玉に構えた。直後の手で銀子が5二玉と続けば、探るような視線が飛んでくる。

 

 生石との一局については聞いていたから、5八玉型は研究済みだ。その上で後手番となった時に採用しようと決めていたのが、この先後同型だった。研究で出た結論は、先後の優劣なし。最近の傾向から動き出しの早い夜叉神に先手を譲った以上、序盤は局面の均衡を優先したい。

 

 さらに手を進め、まず銀子の方から飛車先を交換する。夜叉神の対応は如何に。自身も歩交換を選ぶか、あるいは歩を打って銀子の飛車を引かせるか。

 

 銀子が出方を窺う中で、白魚の指が迷いなく駒へと伸びる。

 

「――――――ッ!?」

 

 3七桂。その一手は、たしかに銀子の間隙を突いた。飛車先を保留し、8筋に歩を打たず、足の速い桂を優先する。それは絶対に先攻するという、熱いほどの意思表示だ。

 

 迷う。桂頭の歩を取ってもいい。飛車の頭に歩を打つのもいい。どちらも銀子に有利な手だが、夜叉神の致命傷にはなり得ない。瞬間的には気分がいいが、後に続くかは疑問だ。

 

「…………」

 

 長考の末に銀子が選んだのは、攻めるのではなく、自陣を整えること。桂の中央突破を許せば、一気に形勢を損ないかねない。直後に夜叉神が飛車先を交換したが、想定内。まだ悪くはない。

 

 夜叉神の様子を窺うも、やはり落ち着き払ったもの。いや、そもそも――――銀子の存在など、眼中にないのかもしれない。そう疑ってしまうほど、盤面だけに集中している。

 

 コップに水を注ぎ、銀子は喉を潤した。意識し過ぎだと、揺れる心を抑え込む。

 

 夜叉神に構想があるのは明らか。だからこそ冷静に狙いを読み、流れをこちらに引き込みたい。そうして序盤の小競り合いを繰り広げ、いよいよ中盤のぶつかり合いが本格化した、その最中。

 

「休憩時間になりました」

 

 自らの手番で、銀子は昼休憩を迎えた。すぐさま控室に戻り、注文していたカレーを食べながらも、頭にあるのは対局のこと。お陰でカレーの味がよくわからない。

 

 このままでは玉頭を叩かれる。それは認める必要があるだろう。桂跳ねを警戒するあまり、かえって中途半端な対応になってしまった。歯痒いが、切り替えるべきだ。

 

 休憩中は持ち時間の消費はない。その猶予を使い、銀子は今後の方針を整理した。

 

 やがて休憩が明け、対局が再開する。直後の展開は読み通り。中央へ進出してきた桂は仕留めたが、出血を強いられた。囲いは崩れ、玉を引きずり出されている。

 

 ――――――玉を逃がす。できなければ、勝負が決まる。

 

 綱渡りの状態が続く。午前の展開が速かった反面、持ち時間に余裕はあった。それを惜しみなく投資して、銀子は全力で立て直しを図る。

 

 最強の女性でありたいとは思わない。名声に興味があるわけでもない。けれど、ここで夜叉神に負けたくない。負けてしまえば、己はプロになる器ではないのだと、挫けてしまいそうだから。

 

 かつて棋士になれた女性は居ない。将棋の世界で、女は男に劣る。これまでの歴史によって積み上げられた常識を打ち破るには、これまでにない存在が必要だ。

 

 もしも夜叉神天衣が、その立場にあるとするのなら。空銀子は、どうなのか。奨励会に挑み、夢破れて散っていった先人と、同じなのか。背後に迫る足音が、銀子はただただ怖かった。

 

 ――――――どうだっ!

 

 左辺に玉を逃がし、山場は乗り切った。燻る不安を振り切るように夜叉神を睨めば、相手もまた銀子を見ていた。あるいは礼を交わして以来、初めて互いに目を合わせる。

 

 感情が読み取れないのは、自制か素か。銀子の敵愾心と裏腹に、夜叉神はあっさり視線を外す。

 

 直後に夜叉神は、手にした扇子を広げた。奨励会入会当時から持っていたという扇子は、けれど誰も開いたところを見た事がないと聞く。いったいなにが書いてあるのかと話のネタにされていたそれに、ついつい銀子も目を引かれた。

 

 『無縫』。大きく扇子に書かれた、その二文字。一瞬どんな意味かと考え、すぐに『天衣無縫』だと気付く。自意識過剰なのか、由来があるのか。雑念に囚われかけた思考を、慌てて銀子は引き戻す。見計らったように夜叉神も扇子を閉じ、盤上へ手を伸ばした。

 

 ――――――飛車を引いた?

 

 消極的な手に疑問を抱いたのは、わずかな間。その意図に、銀子は気付かざるを得なかった。

 

「あっ……」

 

 攻め手がない。今の一手で、反撃の糸口を封じられた。一時の安全を確保できようと、相手玉を落とせなければジリ貧だ。すっかり見落としていた己の不明に、銀子は内心で臍を噛む。

 

 さりとて、諦められるはずもなく。光明を求めて、攻めに出る。

 

 続く夜叉神の手は角打ちで、銀子の玉に睨みを利かす。仕留めに来たと理解はできても、それで対応できれば苦労はない。苦し紛れの反撃をいなしつつ、夜叉神は着実に寄せてくる。

 

 綺麗な手を選ぶと、思わず唸らされた。勝ち筋は色々とありそうだが、きっちり銀子の手を制限している。ひょっとせずとも、既に最後まで読み切られたか。

 

 ギュッと右手を握り締め、銀子は溢れかけた激情を抑え込む。

 

 自分は特別ではない。呪いのように銀子を苛む、その思い。八一に見える世界が、祭神に見える景色が、銀子には見えない。彼らと自分では、読みの深さも速さも違う。それが才能の壁であり、一つの境界線であり、生物として違うのだと、銀子は理解していた。

 

 だからこそ越えたい。勝ちたい。向こう側に居る夜叉神に、負けたくない。特別ではなくても、素質に差があっても、プロになれるのだと信じたい。八一の傍に、行けるのだと。

 

 強くなりたい。もし『女王』を差し出して強くなれるなら――――――、

 

「…………あぁ」

 

 思わず天井を仰ぎ、目をつむる。銀子の全身から、力が抜けていく。

 

 夜叉神に勝ちたかった。負けたくなかった。でも『女王』を守りたいわけではなかった。それはどうしようもない一つの事実で、そんな人間が、この席に座っていた。

 

 女王。女流タイトル序列一位。多くの女流棋士が手を伸ばし、届かず終わる栄誉の座。

 

 タイトルを獲って銀子が得たものもあるが、失ったものも多い。女王になるんじゃなかったと、後悔しなかったと言えば嘘になる。それでも今は、銀子が女王なのだ。なら背負わねばならない。女王として、タイトル保持者として、挑戦者を迎え撃つべきだった。

 

 タイトルは将棋界の顔だ。それは決して、蔑ろにしていいものではない。

 

 気付いてしまえば笑ってしまいそうで、泣きたくなりそうで、それらを堪えて盤面を見る。あぁこれは綺麗に負かされたなと、今になって銀子は気付く。攻めれば届きそうで、届かなく。相手の刃は、過たず銀子の喉元へ。そんなつもりはなかったが、形作りの途中のようだ。

 

 あえて逆らわずに形作りを進め、銀子は敗北を受け入れた。

 

「――――――参りました」

 

 ここに女王は居なかった。ゆえに勝利は、挑戦者の手に。




★次回更新予定:未定

大変申し訳ないのですが、十分に執筆時間を確保できそうにないため、当面更新停止とさせていただきます。
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