穂乃果には想い人がいて、にこにもまた、想い人がいるのだが――……。
「なぁーにが、にっこにっこにーよ!!」
グラスを思い切りテーブルに叩きつけ、溢れるお酒と一緒にマスターに愚痴を零す。仕事が終わった後の私の日常である。
カランと、氷が溶けて崩れる音が店内に響いた――――……。
「全くもう……! どいつもこいつも、あたしのことをおバカアイドル扱いなんだから……! いい!? あたしはおバカで売ってるつもりなんてこれっぽっちもないんだからね! たまたまやったネタが笑いを誘って、それがおバカアイドルみたいな感じで人気でちゃったけど……そうじゃないの!!」
「にっこにっこにー♪ は嘲笑されるためにやってるんじゃないんだから! お客さんをとびきりの笑顔にさせるための魔法の言葉なんだからね!」
「んっんっ……。ぷはぁーっ!!」
「あーもう! マネージャーのやつ!! 腹が立つったらありゃしないわ!!」
「お代わりっ!!」
愚痴を言うのも一区切り付いた私は、はぁ、と、大きなため息を零した。だんだんと酔いが回ってきたのか、自然とうつ伏せ状態になる。
グラスから滴った水滴で、テーブルの上にののじを書く。
「あたしがやりたかったアイドルの形は、こんなんじゃないはずなのよね」
「あたしの求めているもの……」
伸ばされた水滴は丸く線を引かれ、中に大きな点と半楕円形。とびっきりの笑顔が眩しい、にこちゃんマークの出来上がりだ。
「お客さんを笑顔にさせる、か。笑顔には間違いない、んだけどね……」
額のすぐ傍に新しいグラスがそっと置かれる。ひんやりと冷たいとグラスが、激情していた私の頭を少しだけ癒やしてくれた。
「ありがと」
重たい身体を起こしてマスターが用意してくれたお酒に口をつける。
私はアルコールがそこまで強くない。これが三杯目だ。たったその三杯だけで、この小さな身体は十分に出来上がってしまう。
これ以上のアルコールの摂取はコミュニケーションに多大な影響を及ぼしかねないので、なるべくなら回避したいところではあるが……如何せん、待ちぼうけを食らってしまっているのだ。口さみしい私はどうしてもグラスに手が伸びてしまう。食事は既に済ませてしまっていた。
三杯目のお酒が底を尽きようとする頃合いに、背後からコツコツというハイヒールの響く音と嗅ぎ慣れた香水の匂いが近づいてくる。
――ああ、やっとか……。
「あ、にこちゃん、やっほー♪」
「遅いッ!!」
振り向きざまに怒りをぶつける。そいつはまるで反省の様子もなく、ごめんごめんと手をひらひらさせながら謝罪した。
――――そう。
こいつが私の待ち人、高坂穂乃果だ。
***
「はぁーっ!!」
「ありゃ、もう酔っ払いだぁ」
「あんたが遅いからよ!!」
「わぁ! お酒臭いよぉ……! あ、マスターいつものお願いします♪」
私の絡み酒をかるくかわしつつ、慣れた様子でマスターに注文し隣に座った。
――さっきよりも強く香水の匂いが鼻をくすぐる。
「もう、にこちゃん何杯目ー? え、三杯?」
「わーるいー!?」
「悪くはないけど……。にこちゃんにしてはめずらしーね。そんなに強くないんだから、あんまり飲み過ぎちゃダメだよ?」
「うっさいわねー! あんたはあたしの親かっての!」
「また二人してこころちゃんにお説教されちゃうよぉ」
「う……」
酔って自制の効かなくなった今の私にも、その名前はグサリと刺さる。
この場で酔いつぶれた私を介抱するのは穂乃果だが、最終的にお世話をしてくれるのは家で待つよく出来た妹様なのだ。
甲斐甲斐しく世話をしてくれるこころに感謝してもしきれないのだが、年々立場が弱くなっていくのが困りものなのである。
「わかったわよぉ、もう飲まないー……」
「いや、そんな飲まないまでいかなくても。程々にね、飲も?」
オレンジ色のカクテルが入ったグラスが穂乃果の前に静かに差し出される。
「わぁ、ありがとうございます♪」
「んっんっ……。はぁ……おいし♪」
「……」
ぺろと、舌を出してなめる仕草が、昔の子供っぽい穂乃果を彷彿とさせた。
しかし、今の穂乃果は違う。化粧をし、耳にはピアスを付け、タイトスーツを着こなす立派な大人の女性だ。
だからこそ、そのギャップにドキリとする程の色気を感じしてしまうのだ。
「穂乃果、はしたないわよ……」
「ん? ああ、ごめんごめん、つい」
エヘヘと屈託なく笑う穂乃果は、やはりあの頃のままの穂乃果だ。
その笑顔に私の心はかき立てられる。
「でも、今日のにこちゃんには言われたくないなぁ」
「何がよ」
「だらしのない酔っぱらいさんだもん」
「アンタのせいだって言ってんでしょ」
「えー、そんなに遅れたつもりもないんだけど……」
実際のところ、お互いに仕事を終えてやってくる都合上、きっかりとした待ち合わせ時間などない。その日の業務内容によって、幾らでも時間は変わるのだ。それはお互いに了承の上、ここに集まり、愚痴り合い、酒を嗜んでいる。
「何かあったんでしょ?」
「……フン」
詮索してくるのが穂乃果側からというのに、若干の苛立ちを覚える。
いつもとは違う立場で、ここぞとばかりにマウントを取ろうとする穂乃果のしたり顔が憎かった。
「あたしはねー! 生半可な覚悟でアイドルなんてやってんじゃないのよー!」
「おお……予想以上の怒り……。わかってるよぉ、にこちゃんのアイドルの対する想いは」
それもその筈、この集まり自体の理由が穂乃果の悩みを聞く為だからに他ならない。
元々は、悩める穂乃果を世話するために、私が一肌脱いでやってやろうということで始めた会合なのだ。
「ねぇ!? アタシはそんなに可愛くない?」
「えー!? に、にこちゃんは可愛いよ」
「本当にー? あたしの目を見ても同じことが言えるのー?」
「う、うん……」
「……」
だから、私から穂乃果に絡むというケースは極めて少ない。
……お互いに酒が回ってくるとその限りではないのだが。前述したとおり、私はすこぶるアルコールに弱い。
「フン。まぁアンタは可愛いと思ってくれてるわよね」
「だから言ってるじゃん。にこちゃんは可愛い。にっこにっこにー♪ だって、私は大好きだよ」
「あ、ありがと……」
「あれ? 意外な反応……」
高まっていく話の熱とは裏腹に、私の記憶は徐々に曖昧になっていく。
穂乃果の顔も声も次第に薄れていき、気がつけば穂乃果に介抱され、そして最後は家でこころに説教されている。
――――そんなだらしない大人の、夜の日常。
「でも、にこちゃんがそういう方面で売り出されるのはちょっと意外だったなー。にこちゃん、キャラ作れば割と完璧なのにね」
「割とじゃない。完全完璧。最高ににこにーよ」
「じゅよーときょうきゅう? ってことなのかな?」
「あんた本当に意味わかって言ってる……?」
「わ、分かってるよーっ! TVの前のみんなは面白いにこちゃんを求めてたーってことでしょー?」
「……そうなのかしら、ねぇ」
「でも、今ほんとにグイグイ来てるよね! 結構TVで見れるようになったし!」
「おかげさまでねー。確かに色々なところに呼ばれるようになったわよ」
「凄いよね! 本当にアイドルだよっ!」
穂乃果の言うとおり、私のアイドルとしての仕事はそこそこ順調だった。銀河系宇宙No.1アイドルとはいかずとも、堅調に仕事は貰えている。レギュラーこそまだないが、恐らくその部類の中では"売れている方"にカテゴリされるだろう。
「私の求めているものとは、遠くかけ離れてるのよ……。はぁーっ」
「むー、それは贅沢な悩みだよー」
きっと仕事すら貰えない子は、この世の中掃いて捨てるほどいる。
……そういった意味では幸せであり、贅沢な悩みであるのだ。
「わかってるわよ……。でもね、それだけあたしは努力してきたつもり。TVに出させてもらうために、色んな人に媚も売った」
「だから、この結果は自然なもの。特別ではない。……だと思うからこそ、私は今ある場所の次を夢見てもいいと思うの」
少しだけ瞳の色を変えて、私なりの本気の想いを吐露した。
酔いが回っていなければ恥ずかしくて口にすることすらはばかれるだろう。
「……にこちゃんってカッコイイな」
「へ?」
思わず出た間の抜けた甲高い声と一緒に、顔をぐるりと穂乃果の方へ向ける。
「やっぱりにこちゃんは、いつでもどんな時でもカッコイイ先輩。穂乃果にとって、一番頼れる先輩。……憧れの、先輩」
嘘偽りない純粋な笑みを浮かべ、バカ真面目に真正面からそんなことを言われたら私はどうしていいのかわからない。
ただただ、顔を火照らせていくのみだった。
――――いつも思う。
コイツの笑顔は反則だと。
「な、何言ってんのよ! 見直したかしらー!?」
「あはは、見直すも何も、最初から尊敬してるし」
「そ、そそそそう!? しゅ、殊勝な心がけじゃない!!」
「あ、もしかして照れてる?」
「そんなわけないっ!」
「だよねー♪」
どこまでも純粋な穂乃果の心は大人になっても変わらない。
変わらなすぎるのだ……。
「あ、おかわりありがとーマスター♪」
「……そういうあんたも、今日は結構飲むじゃない」
「にこちゃんがそんなに飲むならと思ってー」
「二人して説教されるわよ……」
「あはは、それは勘弁したいけど……」
穂乃果は私と違ってアルコールに弱くない。特別強いわけではないが、恐らく人並みといったところであろう。飲めば普通に酔うが、タカが外れるようなことはない。嗜むという表現がぴったりだ。女性として、一番美しくある姿だと思う。
横目でチラリと穂乃果を見る。
普段はどこかぽやんとした表情の彼女だが、今は程よくアルコールが入り艶のある表情を見せていた。
目はとろんと、頬をピンクに染まり、唇はぷるんと色気をふりまいて――……。
「ん?」
「あっ……」
チラチラと様子を伺っていることに気付かれ、私はバツが悪そうに俯く。
「にこちゃん、どうしたの?」
「な、なんでもないわよ!」
「?」
私は一体何をやっているのだろう。クラスの隣の席の男子じゃあるまいし。
一緒にお酒を楽しみに来た友人同士なのだ。面と向かって顔を見ればいいはず。
なのに、それが出来ない。穂乃果の顔を見れない。
――――何故? 今日の私は必要以上にアルコールを摂取している。そういうことにしておこうと思った。
「……あ、あんたとアイドルユニットでも組めば、少しは違うのかもね」
「えー? 急にどうしたのー?」
恥ずかしさを誤魔化すための話題替えとはいえ、さすがに唐突だったと思う。そんな感想も仕方がない。
しかし今更後には引けないので強引に続けようとした。
「いや、前から思ってたことだけどさ。あんた……最近やけに綺麗になったじゃない?」
「え、そ、そう……?」
「自分じゃ気がつかないの?」
「いや、その、気が付かないというわけじゃないというか、えと」
急にもじもじしながら子供のように手を遊ばせている。恥ずかしさからか、頬はピンクから赤に染まっていた。
「わ、私なりに、がんばってみたとゆーか……。変じゃない……?」
「変じゃないわよ。可愛い」
「あう……」
耳まで真っ赤にして恥ずかしがる穂乃果は本当に可愛い。
思わず食べてしまいたいなんて、口が裂けても言えない。
「だからね、あんたのその美貌が横に並んでくれればきっと私だって……可愛さを売りに出来るアイドルができる気がするの」
「そんなこと……」
元々、スクールアイドルをやっていた身だ。プロではないとは言え知名度もそこそこあり、人に見られるという活動していたのだ。
容姿に置いて、人に見られるというファクター程重要なものはない。場数をこなし、一定以上のレベルにある穂乃果が可愛くないはずがないのだ。
そしてそんな穂乃果が、大人としての女性の色気を纏っている。……今となっては本物のプロの世界に足を突っ込んでいる私ですら、その容姿には太鼓判を押す。穂乃果はその道で、十分に通用するだろう。
「私が保証するわ」
思いのまま穂乃果の容姿を褒めちぎっていたら、今度は穂乃果が俯いてしまう。
「あはは、そんなに褒めてくれるのは嬉しいんだけどさ……」
穂乃果はグラスのフチを指でこすりながら何かを考えていた。
その仕草は妙に絵になる。……穂乃果は悩む姿が美しいのだ。
――――きっと、私は答えをわかっていた。
「穂乃果には、やりたいことがあるから……」
「……」
ただそんな仕草を見たいがために、私はわざと穂乃果を困らせたかったのかもしれない――……。
「そっか。残念ね」
「……にこちゃん、本気?」
「んー? 勿論本気よー」
「……ごめんね」
穂乃果の返答は心得ている。
「穂乃果は――……」
「……絵里ちゃんと一緒にいたいから」
――――そう。私はその答えを知っていた。
「フン、わかってるわよー。穂乃果の一番がどこにあるかなんて」
「にこちゃん……」
「困らせるためにわざと言ってるの。ふふ、いい顔してるわ」
「えー……にこちゃんのいじわるぅ」
もとより、なびくはずのない風を待ちぼうけているのだ。そんな顔を楽しませてくれるくらいのご褒美は許してほしい。
「……で、あんたの方は最近どーなの?」
穂乃果を困らせるのは私にとっての至高ではあるが、しつこいのは良しとしない。私は私の本来の役目に戻ろう。
「あ、うん……」
きっと、彼女はそれを望んでいるのだろうから。
「最近、絵里ちゃんね――――?」
私は、穂乃果のことが好き――――
穂乃果は、絵里のことが好き――――
なんてことない。単純な三角関係。
いや、そんな大それたものじゃない。
穂乃果と絵里は恋人同士だ。
既に遥か昔。学生時代には二人は交際を始めていた。
そして私はただの相談役。
恋のライバルでも、憎まれるべきお邪魔虫でもない。
むしろ、お互いをくっつけたキューピットと言っても過言ではない。
本当に、ただそれだけ。
三角関係など、私のような立場には分不相応な言葉だ。
……相応の立場になろう勇気もない。
そんな、関係。
「そしたら、絵里ちゃんがさぁ――」
「絵里ちゃんがひどいんだよ――」
私が促したのだから当たり前のことなんだけど、その口から零れるのは絵里のことばかり。
「でも絵里ちゃんだってぽんこつなのに――」
「絵里ちゃんなんてキライだよ―――」
「……」
この短い間に穂乃果が発した絵里という単語。およそ25回。
……なんという皮肉な数字だろう。
意味なんであるはずもない、数える必要もないのに。感情というのは時に無意味なことを人に課すものである。
結果、私の心は暗鬱とした想いで支配される。
「あ、にこちゃん、聞いてたー?」
嫌というほどその名前を聞いている。呆れるほど、聞かされ続けている。
いっそ聞いてないふりでもすればいいのにバカ正直に答え、そして必要以上の世話を焼く。
それが、私なんだ――――。
「そんなに嫌なら別れちゃえばいいのよ」
それでも意地悪な私はそんなことを言い放つ。
「あ、でもね? 本当に嫌ってわけじゃなくて」
「はぁ……」
「そんな呆れた声ださなくても……」
二人の仲を取り持つのがどれほど大変だったかを知っている私だからこそ、その果ての絆も分かっているつもりだ。
少なくとも、穂乃果側から別れを切り出すなんてことはしないだろう。
……私がため息をついたのはそこじゃない。
これぐらいでは穂乃果の困り顔を見れないかという意地の悪さからでたものだ。
「やっぱり私は、そんな絵里ちゃんのことがす――――」
「……」
それなのになんで。
なんで――――こんなにも私の心は苛ついているのだろう。
私と穂乃果は仕事が終わったあと、どちらからともなく誘い。
お酒を飲みながら、自分の環境の愚痴を言い合う。
そんな、友人同士の関係。
――――それだけのはずなのだ。
***
「……ん」
気がつけばすでに深夜を回っていた。
いつのまにかうつ伏せになって寝ていたらしい。目の前には中途半端にお酒が残ったグラスがポツンと置かれていた。
随分と酔いが回っていたのだろう。寝る直前の記憶がはっきりしない。
「すー……すー……」
ふと横に目をやると、穂乃果も似たような体制で寝息を立てていた。
大の大人が揃って寝こけているというのも恥ずかしい話である。こんな状態をこころに目撃されたら一時間のお説教は固いだろう。
……しかし、二人揃って寝てしまうというのも珍しい。いつもはどちらかが正気を保ち、介抱する役目を必然的に負うものだが。
その役目は九割方穂乃果なのだから面目ない。
「ううん……」
寝顔は天使そのもの。起きている時とはまた違う可愛いらしさ。
無防備なこの子はあの頃のまま。純粋無垢な高坂穂乃果……。
「穂乃果、起きなさいよ」
「まだねむいよぉ……」
声をかけても肩を揺すっても、ちっとも起きる気配がない。
まったく世話が焼けるんだから……。
「――――やめてよぉ、えりちゃん……」
「っ」
そんな寝言が耳に届いた時、私の手に幾分力がこもるのがわかった。
「……」
ドクンドクンと、心臓の脈打つ音がイヤにうるさい。
何故だろう――――?
そっと、穂乃果の横顔を覗き込んだ。
吐息が穂乃果の前髪を撫でる。
ねぇ――?
ゆっくり、ゆっくりと……顔を近づけていく。
穂乃果の吐息が私の鼻をくすぐった。
私は何をしようとしているの――?
「穂乃果……」
穂乃果の顔が、唇が、すぐそこにある。
あと少し。ほんの少しで――――
「にこちゃん……」
「!!」
ばっと、電気でも走ったかのように顔を離す。
その名前を、声を聴いて、私は正気を取り戻した。
「はぁ……はぁ……」
私は今、何を――?
今、自分の取った行動がわからない。理解ができない。
何故? どうして?
私は穂乃果にキスをしようと――?
震える右手を唇に当てる。
もう少し、もう少しで穂乃果の唇を――……。
「はぁ……はぁ……くっ」
頭が今の行為を理解すればするほど呼吸が、動悸が激しくなる。
「……ん」
額に流れる汗を拭う。
……穂乃果の香水の匂いが、嫌に鼻についた―――。
***
「ん……」
「おはよう」
「あれ……にこちゃん……? おはよう……」
重そうに頭をぷるぷると振る穂乃果は小動物みたいだ。
「穂乃果、寝ちゃってたんだ……」
「寝顔、可愛かったわよ」
「もう、起こしてくれればいいのにぃ……」
そうやってふくれる穂乃果はどこか幼いのに、仕草は艶のある大人の女性のそれだ。
寝ている時に垣間見た純粋無垢な昔の穂乃果はいない。
――――ふと思う。
私は一体、どちらに恋をしたんだろう?
「♪」
どっちでもいいか。
穂乃果の天使のような笑顔を見ていたらどうでも良くなってしまった。
カランと、乾いた氷の音が響き渡った――――……。
***
「……」
「……」
その日の帰り道。私たちは無言のまま歩き続けていた。
いつもなら酔いが回ったまま愚痴を零しながらの帰路になるのだが、今日はそれがない。
どこか気まずい空気のようなものが漂っていた。
気がつけばお互いが別れる道の分岐点。どちらともなく歩を緩め、そして立ち止まった。
何を話すわけでもないのに、その場で動けずに時間が過ぎていく。
「――えいっ!」
「ちょ!?」
その重たい空気を壊したのは、穂乃果の突然の抱擁。後ろから覆いかぶさるように抱きしめられた。
まったく理解できない穂乃果の行動に、私は呆然としてしまう。
振りほどくこともなく、ただただ、されるがままになっていた。
「な、何よ急に……」
「えへへ」
「……なんとなく、こうしたくなったんだよ」
優しい穂乃果の声が、そっと耳に届いた。
ぴたりと動きを止めると、途端に鼓動の音だけが響いて聞こえてくる。
……これは私のじゃない。穂乃果の心臓の音だ。
ドクンドクン――
「ほ、穂乃果……」
穂乃果にも私の鼓動が伝わるのか、心なしか音が早くなっていってる気がする。
それを感じれば感じるほどに、私は耐え難い恥ずかしさを覚えるのだった。
「ねぇ、にこちゃん」
「何よ……?」
「……明日も」
「会えるよね――?」
ほんのちょっぴり、声が掠れている気がした。
抱きしめる両の手の力が緩んだのを感じ、私はくるりと首だけを回して穂乃果の顔を覗く。
その顔は、さっきまでの大人の女性の艶ではなく……。
昔の純真無垢な穂乃果でもなく……。
――か弱い、少女の泣き顔だった。
「にこちゃん……」
――――穂乃果っ。
私はさっきと似たような不思議な感情の昂りを覚える。
―――――穂乃果の唇を奪いたいっ。
しかし、私はそれを必死で抑制させる。
――――私が求めるものは何!?
私が欲しいのは……っ!!
「……えいっ!」
「いたっ!?」
無防備な穂乃果の額にデコピンを御見舞した。
軽くしたつもりなのだが、綺麗に赤い点ができてしまったのは私の手が震えているからだろうか。
穂乃果の抱く手をほどいて、正面から見据える。
「にこちゃん……?」
「あったりまえでしょ? 私がこなかったら、誰があんたの愚痴を聞くってのよ」
「……」
「むしろなんでそんな顔してんのよ! お互いに明日も仕事なんだから、しゃきっとしなさい!」
「……うん」
「いい? 明日も飲むわよ? いつもの時間、いつもの場所で。今日みたいに遅れたらぶっ飛ばす!」
「……」
「いいわね!?
「……うん!」
そう。私の欲しかったものは――――……。
瞳に涙を溜めながらも、エヘヘと笑う穂乃果の顔は……どんな笑顔よりも美しかった。
「じゃあ……また明日ね?」
「ええ」
「じゃあね」
「またね」
穂乃果はそう言いながらも、名残惜しそうにこちらを振り返って見ていた。
やがて決心がついたのか、振り返るのを止め、ハイヒールの音を響かせながら闇へと消えていった。
……ふと、香水の匂いが鼻をくすぐる。
「まったく。罪な女よね、あいつは……」
さて、こころにどう言い訳しようか。
そんなことを思いながら、私も夜の闇へ溶けて消えるのだった――。
終わり。