いや、その姿はまごうことなきバッタだった。玉虫色のメスバッタだ。
~とある下位ハンターの記述より~
操虫棍使いを、なるべくゲームに忠実に書いたらどんな人物になるだろうっていうお話です。
虫に関わる過激な描写が入ることもあるので、虫が苦手な方はご注意ください。
――どこかでこんな言葉を聞いたことがある。
「3匹のセッチャクロアリが、竜に勝てると思うか?」――と。
今の状況はまさにそれだった。
僕以外の二人は――僕と組んでいた二人のハンターは、目の前の竜にねじ伏せられてしまった。ネコタクのアイルーたちが死に物狂いで回収していったけど、無事かどうかも分からない。そんなことを気にしている余裕もなかった。
「あ……あ、う……」
吐息が、白い霜を孕んでいるように見える。
ズラリと並んだ牙の奥から、白い吐息が漏れ出している。爛々とした瞳で僕を見定めるその竜は、餌を目の前にするかのように、どろりと涎を垂らした。
蒼色と金色の入り混じった甲殻。
白く生え揃ったたくましい体毛。
まるで角のように天を刺す、三角形の耳。
あまりにも太い前脚で地面を掻き鳴らし、奴は遠吠えを上げた。狼を思わせるようなその声が、原生林を木霊する。
無理だ。勝てるわけがない……!
僕は、何の特徴もない下位ハンター。ハンターへの憧れを胸に村を飛び出して、バルバレの門戸を叩いた。誰もが憧れるような、竜と渡り合う強豪のハンターを目指して――――。
ところが、現実はそうもいかなかった。四人がかりで、何とかイャンクックを討伐できた程度。いや、僕はライトボウガンで安全圏から撃っていただけで、本当の実力はもっともっと劣っているだろう。気づけば、「採取専門」とまで呼ばれていた。
「――っあッ!」
振り下ろされる前脚を、寸でのところで飛んで躱す。
とはいえ、受け身なんてとれずに地面を転がってしまうのだけど。
軋む体に鞭を打って、何とか上体を起こしてみると――先程のものとは反対の手を、高く高く振り上げる奴の姿があった。
その掌だけで、僕の体よりも大きいくらいだ。
目の錯覚かもしれないが、青い電光を纏っているようにさえ見える。
こんな、うつ伏せの状態ではとてもとても避け切れない。
あんなのを叩き付けられたら、僕は――――。
「……死――――」
死ぬ、と言いかけた瞬間だった。
どこか耳障りな羽音が、僕の鼓膜をくすぐった。
目の前をよぎる、一筋の影。
光を跳ねる甲殻に、そこから伸びた六本の足。
「――――む、し……?」
「そこの貴方! そのまま立ち上がっちゃダメですわよ!」
羽音と共に、りんと響く女の子の声がした。
そう思った瞬間、頭の上を鋭い刃が走る。
「いっ……ッ!?」
あのまま立ち上がっていたら、僕の体と頭がおさらばしていたのではと思うほど、容赦のない一閃だった。
それが、あの竜の前脚から伸びた親指を、鋭く弾く。同時に、宙を舞っていたあの影が、奴の左目を鋭く穿った。
赤黒い甲殻から伸びた、鋭利な一角。それに突かれては、流石の奴も悲鳴を上げ、大きく背後に跳躍。悲鳴を低い唸り声に変える。左目からは、どくどくとどす黒い血が溢れ出していた。
一方で、颯爽と現れたその女ハンターは、手にした棍棒のようなそれをしゃんと振り、右腕を掲げた。すると、その腕をまるで止まり木に見立てるように、竜の目を穿った虫がひしっとしがみつく。
風に靡く、緩やかなウェーブを描いた赤い髪。その奥から垣間見える、眩しい色のうなじ。
光沢を放つ玉虫色の鎧をまとったそのハンターは、凛とした姿で、僕を庇うように前に立った。
勇ましい鎧を纏いながら、しかし良き家系を思わせるようなお嬢様然とした佇まい。光を映す白い肌に、幼さを残しつつも整っている顔立ち。
思わず、その姿に見惚れてしまう――――。
「はああぁぁぁ!! ケーちゃんえらいねぇ! かっこいいねぇ!! かわいいねぇ!!!」
そんな彼女から飛び出たのは、先ほどのりんとした声とは程遠い、とろけにとろけただらしない嬌声だった。
そのまま嬉しそうに。"ケーちゃん"と呼ばれた腕の甲虫を撫で回す。
虫の方は心地良いのか不快なのか、「キュピー」という声を上げている。
「……あ、あの、あなたは……」
「あ、こほん……。えっと、貴方が救援対象のハンター様でしょうか?」
「えっ、捜索……え?」
「貴方達がクエストに出発した後で、原生林にこのモンスターが確認されまして。下位ハンターには荷が重いということで、救援に参りましたわ」
救援。ギルドが寄こしてくれた、救援。
彼女の装備は、僕の見たことのないものだった。それに、あんな長い獲物も初めて見る。ランスのように長いのに、振り回せるほどに軽く、さらに右手には謎の甲虫を従えている。
明らかに、上位ハンターの装備だ。
「……他に二人いると聞きましたけど、そちらは?」
「二人はネコタクに回収されました……けど、無事かどうかは……」
「そうですか……。そればかりは祈るしかありませんわ。ま、雷狼竜相手にネコタク回収ができただけ運が良いでしょう。息があるということですし」
「……雷狼竜? あれが!?」
「見たのは初めて? そう、あれが雷狼竜ジンオウガ。無双の狩人と名高いモンスターですわ」
無双の狩人。
雷狼竜ジンオウガ。
噂には聞いていたけど、まさか目の前にいたあれがそうだったなんて。
小さい頃、ジンオウガごっこなんてしていたことを思い出す。今まさに、それに殺されかけていたのだけれど。もう二度とあんな遊びはしないぞ……。
「さ、彼の相手は私に任せて。貴方は退避をしてくださいな!」
彼女に引き上げられて、僕はようやく立ち上がる。しかし立ち上がったのも束の間、彼女は僕の退場を促した。
視界の奥には、忌々しそうにこちらを睨む竜が一頭。体格も、力も、持久力も、何もかも桁違いだ。それに、ジンオウガといえば過去にユクモという村で大きな事件を起こしたとも聞く。
とてもじゃないが、人間が敵う相手じゃない。それこそ人間なんて、奴にとっては虫みたいな存在じゃないか――――。
「む、無理ですよあんなのと戦うなんて! 僕ら、虫みたいに殺されます! 虫が何匹集まろうが、竜には勝て――――」
しゅびっと、刃が唸った。僕の目と鼻の先を、彼女が持つ棍の先についた刃が撫でた。
「……あぁん? なんですって?」
「……え、いや……あの……」
「聞き捨てなりませんわ……虫がなんですって? もう一度仰ってくださらない?」
さっきまで僕に逃げろと言っていた彼女が、僕の襟首を掴んだ。真紅の瞳はぎらぎらと輝いていて、それだけで凄く怒っていることが分かる。
何? 僕、どこで彼女の逆鱗に触れたんだ……?
「よくご覧なさいな! 貴方の言う虫が竜をしばくところを、見せて差し上げましょう――!」
そう言って、彼女は僕を離し――しゃんと、鈴の音を鳴らした。
一体どこに鈴があるのか、なんて一瞬思ったけれど、それは見ればすぐ分かった。
あの棍だ。あの棍の先に、鈴がついている。
そして、それに呼応するように、彼女の腕についていた虫が飛び出した。
「さぁ、やってやりなさいケーちゃん!」
そう呼ばれて飛び出したのは、彼女の腕についていたあの虫だ。ひゅんと風を鳴らし、ジンオウガの周囲を飛び回る。
耳障りな羽音に、先ほど目を貫いた鋭い角ときたもんだから、流石の彼も警戒を怠らない様子だった。飛び回る影を目で追って、ふすふすと鼻を鳴らしている。
直後、彼はその後ろ脚で地を強く蹴った。跳躍し、体毛を擦らせて電流を起こす。尾の先まで帯電させて、虫を撃ち落とさんと薙ぎ払った。
「あっ……!」
それに当てられたあの虫は、まるで砲弾のように原生林の奥へ弾き飛ばされる。
あんな風に跳ね飛ばされたら、もうあの虫は――――。
「ほああぁぁぁ~……あれが噂の、超電雷光虫ぅ~!!」
再び、だらしない嬌声が耳に届いた。
見れば、だらりと涎が垂れていた。あの女ハンターが、だらしない顔で両手を頬に当てている。街で、屈強なハンターの背中を見てあんな顔をしている女性は見たことがあるが、彼女の場合は。
彼女の場合は、もしや。
「ちっちゃいのに、あんなに頑張ってるなんて……なんて可愛らしいの……」
「あ、あの……」
「ジンオウガに擦り寄ってるだけでも可愛いのに、ただ寄生してるだけじゃないっ! 宿主を守ろうと気張ってるなんて……やだ涎が……興奮しちゃいますわ……っ」
「あの、あの、ハンターさん?」
「あらごめんあそばせ。まだいらっしゃったの?」
「いや、あの……」
「私は雷光虫ちゃんの頑張りを眺めて、隙あればお持ち帰りするのに忙しいんだから! さぁお帰りになって!」
ご覧になって、とか言ってた癖に、見ていたらキレられた。なんて理不尽なんだろう。
――って、それよりも!
「いやいや待って! あの子は!? 吹っ飛ばされたんですよ!?」
「あら、猟虫はそんなやわじゃないありませんわ」
びゅんと、木々を駆け抜ける音が響く。
かと思えば、先ほど吹き飛ばされたはずのあの虫がこちらに一直線に帰ってきていた。
「うわああ! 生きてる!? なんで!?」
「おかえりケーちゃん! ……あら、また美味そうなエキスつけて!」
彼女が右腕を掲げれば、ケーちゃんは元気よくそれに飛び付いた。
その甲殻には、どこかどろっとした粘液が付着している。血ではないが、どこかうっすらと色がついているようにも見えた。血漿か何かなのだろうか――――。
「では、味見を……」
「へっ……!?」
彼女は、何の迷いもなくそれを舐めた。
虫の体に付着した、得体のしれないそれを――ためらいなく舐めた。
「んっ……酸っぱいようでほんのり甘い……! 生臭みは、飛竜に比べるとちょっと強い……?」
「……っ??????」
「あ、えぐみちょっとありますわね。ふーん、こんな味なんですの……」
虫の体を両手で掴んで、そこに付着したエキスを全て舐め取る美少女。
僕の前世がどんな悪行を積んだら、こんな状況を目の当たりをするようなことになってしまうのか。
羽交い絞めにされるようにして舐められる虫が、「キュピー」と切なそうに鳴く声が原生林に溶けていく。
「――――ッ!」
俺を無視するな、と言わんばかりにジンオウガが吠えた。同時に、その全身が激しく輝き出す。電流が迸り、原生林の木々が新たな影を描き出した。
「あっ、あれは……あれがジンオウガの帯電……!」
モンスターリストで読んだことがある。
ジンオウガは、体中に雷光虫を付着させていると。その雷光虫の力を借りて、雷属性のエネルギーを増幅させるのだと。
金色の甲殻は逆立つように開き、体毛は静電気のせいか揺れている。鋭い角は天を穿つように伸び、動く度に激しい電流が大気を裂いた。
まさに悪魔だ。体に力が入らない。恐怖のせいか、足ががくがくと震えている。
「これが超帯電状態……! すごいですわ!! 雷光虫の力が、こんなにまでなるなんて!!」
彼女の反応は、僕とはまるで正反対だった。
ぴょんぴょんと跳ねながら、興奮を抑え切れない様子だ。ウェーブの掛かった髪がゆらゆらと揺れ、跳ねる度に棍の鈴がしゃんしゃんとなっている。
「……! んっ、こほん……」
僕の視線に気づいたのか、彼女は一度咳払いして、しゃんと棍を構えた。
表情は一変し、獣のように口角を上げる。
「さぁ、行くわよケーちゃん! 可愛い可愛い雷光虫よ、待ってなさい!」
彼女は、高く掲げた棍を地面に突き刺し、まるで棒高跳びのように前へと飛び出した。その勢いを利用して、刃先を剥き出しにする。
まるで工房にある機械仕掛けの鋸のように、激しく縦回転してジンオウガへと迫り――――。
「せやっ!」
打ち付けた瞬間、それを基点に跳び上がった。奴の肩を穿ったその刃は、血飛沫を撒き散らして再び唸る。
風を切るような乱回転で、ジンオウガの甲殻を荒々しく削った。
「たりゃりゃりゃあっ!」
空中で棍を激しく振るい、締めと言わんばかりに振り抜く。その振り抜いた切っ先を基点に、彼女はさらに跳び上がった。
その姿は、まさに空中戦だ。彼女は棍を利用して跳び上がり、空中戦を仕掛けている。
人間の背丈では、竜の足や腹にしか刃が届かない。それが、ハンターたちの共通の悩みの種だった。そのため顔や肩、背中など高所にある部位はガンナーが狙うというのが定石だったはず。
ところが、彼女はそれを覆している。ガンナーの手も借りず、自らの力で跳び上がってジンオウガに肉迫しているのだ。
「……人間技じゃない……っ!」
人間が飛び上がる光景には、流石のジンオウガも驚いていたようだけど、やはりただ殴られるだけではなかった。いくら切られても、所詮甲殻や体毛が薄く削られるだけ。彼にとってはそう痛くもないのだろう。
それよりも、視界に映るのが鬱陶しい様子。彼女も、あの猟虫と呼ばれる虫も区別することなく、タックルをもって打ち落とそうとした。
身を屈める雷狼竜。
それに合わせて、体中の雷光虫がスパークを起こす。
目を開けていられないほどの眩い光が僕を刺した。
しかし、その甲殻が彼女を刺すことは――――なかった。
「ほっ!」
彼女は、棍の切っ先を彼へと向けた。その切っ先の根元に備え付けられた"銃口"を、ジンオウガへと向けた。
直後、発砲。甲高い音と共に弾が撃ち放たれる。
それに出鼻を射抜かれて、怯むジンオウガ。
射撃の反動を利用して、タックルを躱す彼女。
直後、棍を振り回して銃口を背後に向け、彼女は再び引き金を引いた。
「はあっ!」
先程回避のために利用したその反動を、今度は強襲に利用したのだ。空中で急加速して、彼女は再び棍を振るう。同時に、周囲を飛び回っていた猟虫もまた角を振るった。先程着弾した鼻を目掛けて、甲高い唸り声を上げている。
あのジンオウガが。
あの無双の狩人が、少女と虫の二匹に手も足も出なかった。
先程まで虫を潰すかのように僕を狙っていた彼は、今まさに虫に潰されようとしている。
「あはは! 甘い甘いですわ! 当たりませんよそんなもの!」
必死に爪を振るい、少女を叩き落とそうと唸る竜。それを、身軽に躱して追撃を仕掛ける少女。
本来ならば、翼でもない限り空中で身動きなんてとれやしない。しかし彼女は、棍に備えつけられた射撃機構を利用して軽々と飛び回っていた。
振り下ろされる爪も、少女にとってはただ風を鳴らす程度。竜の乱撃のはずが、どこか犬の"お手"を見ているような錯覚さえしてしまう。
「ケーちゃん! おいで!」
呼ばれて、彼女の元へ舞い戻る甲虫。
その背中を、彼女は再び舐め回す。ジンオウガの爪を軽々と避けながら。
「おほォ~! 甘露甘露ですわ!!」
「……人間じゃ、ない……ッ! いろんな意味で!」
マボロシチョウのように舞い、キラービーナスのように刺す。その光景は、まさにその一言に尽きた。
いや、マボロシチョウにも、キラービーナスにも、失礼かもしれない。
「うははははっ! 雷光虫ちゃーん!!」
――蝶でも蜂でもなくて、バッタだろう。皇帝バッタ……いや、玉虫色のメスバッタだ。
「さぁ、倒れなさい!!」
突き刺した棍を軸に、さらに高く舞い上がる少女。
そこから、勢いをつけた縦回転を繰り出した。少女の全体重――さらには鎧の重さを加えた一撃だ。申し訳程度に、その瞬間に猟虫は彼女の腕に戻り、さらなる体重を上乗せした。
流石のジンオウガも、それには耐えられなかったらしい。何度も肩や足の付け根を削った甲斐があったのか、彼は大きく体勢を崩した。同時に、その白くふさふさの背中が露わになる。
「お背中ちょうだいですわっ!」
「うわっ……飛び付いた!?」
彼女は、何のためらいもなくジンオウガの背中に飛び付いた。
棍も背に回し、両手を自由にした上でその体毛に潜り込む。
「あははは! 雷光虫っ、雷光虫がたくさん!! あはは、あははは――あばばば!」
電流に震える彼女の声が響いた。
そりゃそうだ。あんな電流が走ってる体毛の中に入るなんて、感電するに決まってる。
「あばば! この雷光虫すごく青く光ってあばばば! すごば! あっこの子は緑いばばばば! かわあばばばばばいい~!!」
「…………」
感電しながら雷光虫のレビューするハンターなんて初めて見た。
たぶんこの先も見ることはないと思うけど。
できれば今も見たくなかったな。
「あばばば――ぶはっ!」
しかし、ジンオウガが堪らない様子で暴れ回るのには、流石の彼女も勝てなかったらしい。体毛から弾かれるように、こっちに飛んでくる。
「うわっ!」
それに驚き、思わず目を閉じて――――恐る恐る開いてみる。
そこには、雷光虫まみれになった少女が、満足した様子で大の字に転がっていた。
だらしなくこぼれた涎に、焦点の覚束ない瞳。紅潮した頬。時折、快感を抑えられないように身体を痙攣させている。
彼女の容姿も相まって、すごく蠱惑的な姿だったのかもしれない。虫さえいなければ。
「ふへへぇ……しゅごかったですわぁ……しあわせぇ~……」
「…………」
かける言葉が思いつかなかったので、代わりに生命の粉塵をかけておいた。
怪我しているのかどうかはよく分からないけど、あんなに電流を受けていたら無事ではないだろう。
彼女の腕の猟虫が、心地よさそうな声を上げた。
「……あぇ? 貴方、まだいたの……?」
「あの……大丈夫ですか?」
「私は全然平気……です。むしろまだ足りないですわ」
「あ、大丈夫じゃないんですね……」
主に頭の方が、と言おうとして、しかしその言葉は呑み込んだ。
一方で、彼女は背伸びをしてから起き上がり、慣れた手つきで体に付着した雷光虫を掬い上げる。その一匹一匹を丁寧に手に乗せ、大事そうに虫篭へと忍ばせていく。
「えへへ、超電雷光虫がこんなにいっぱい……しゅごいぃ……」
「……あの、ジンオウガを狩るんじゃ……?」
「あたしは雷光虫と戯れたいだけですわ。その間に貴方はご帰還を……と思ってましたのに、なんでまだここに?」
「いや……えっと」
「さぁ早くお帰りになってくださいな。私は、もう少しだけ……えへへぇ」
そう言いながら両手をワキワキとさせながら、彼女は歩み出した。
電気を浴びても変人具合は変わらないのか、とこの残念な美人に呆れてしまう。
少女一人に任せて逃げ出す気にもなれなかったが、こんな狂人――間違えた、強靭な人ならそんな心配も杞憂だろう。
そう思って、踵を返そうとした――その時だった。
ずん、とジンオウガが倒れ込む。
まるで事切れたかのように、彼はその巨体を伏せてしまった。
「……あれ? 死んじゃった……?」
「……仕留めてたんですか?」
「いえ、そこまで深く斬ってはいませんわ……それに、この感じ……」
力なく開いたその顎から、黒い瘴気が漏れる。
まるで汚染されたような、黒いもやが。
「……まさか! 貴方! 早くお逃げに――――」
どん、と腹を震わすような重低音が響く。
伏せていた奴が、再び起き上がった。
血走った眼で、黒く濁った甲殻で、低く響く壊れた機械のような声で。ジンオウガは、再び遠吠えを上げる。
明らかに今までとは違う。恐ろしいまであるその風貌に、僕は背筋が凍るような感覚を覚えた。
「な、何だあれ……」
「狂竜化……マズいことになりましたわ」
「きょう……?」
「モンスターを凶暴化させる、未知のウイルス性物質ですわ。彼はもう正気じゃない」
「そんな……あのジンオウガが、さらに凶暴になるなんて、そんなの……!」
「マズい、非常にマズいですわ……!」
あの強気な少女が、初めて眉を歪ませた。
形の良い口元が強張っている。
彼女がこんな表情をするということは、相当にまずい事態なのでは――――。
「これじゃあ、雷光虫たちが浮かばれないわ! こうなったら、共生関係も何もないじゃない!」
「……え?」
「あら、ご存知ないの? 雷光虫とジンオウガは共生関係なの。雷光虫は安全を提供してもらい、ジンオウガは電力を提供してもらう。互いに助け合うパートナーなのですわ」
「は、はぁ……」
「でもあれじゃ、ジンオウガは暴れるだけ暴れてすぐに力尽きてしまう。それまで多くの電力を絞り取られて、雷光虫たちは逃げる力も奪われてしまいますわ! ……仕方ないけど、早く引導を渡して次の住処を探せるようにしてあげなければ……っ!」
そう言いながら、彼女は棍に備え付けられた弾倉を取り外す。
同時に散らばる、空になった薬莢たち。
「ふぅ、弾薬費も馬鹿になりませんわ……」
彼女はそうぼやきながら、ポーチから新たな弾倉を取り出しては、捻じ込むように装着させた。
そうして、棍とは名ばかりの銃剣を竜に向け、力強く大地を蹴る。
「貴方は早くお逃げになって! ケーちゃん、彼をキャンプまでご案内なさい!」
ばっと飛び出した猟虫は、僕の周りを飛び回っては甲高い声を上げた。「キュピー!」と吠えて、まるで道案内でもするかのように先導し始める。
振り返ると、竜の腹下に潜り込んで棍を振るう彼女の姿が映った。
「くっ……彼女に任せて、そのまま逃げる……でも、それじゃあ……」
ジンオウガの動きは、それはそれは変則的なものだった。
緩急ついた連撃に、彼女は捌くのも一苦労といった様子。先程のように跳び回る余裕もなさそうだ。
「くっ……僕なんか見向きもされてない……それでも、彼女でもいなすので手一杯ってことか……?」
ジンオウガは、動く度に電力を増幅させていく。
腕を振るう度に電流は増幅されていき、彼女に刻まれる傷の量も増えていった。
「くっそ痛ェですわ!」
「……ダメだ! このまま逃げるなんて、できない!」
抗議の声を上げる虫を無視して、僕は駆け出した。彼女に向けて、駆け出した。
その瞬間だ。ジンオウガは真上に跳び上がり、溜まりに溜まった電気を背中に集め――その背中を彼女へと向けた。
先程の仕返しと言わんばかりの、全体重を乗せた叩き付け。あまりにも質量の違うそれが、彼女を襲う。
「あっ――――」
慌てて撃ち放った銃の反動のおかげで、彼女は直撃こそ免れた。
しかし、落下と同時に溢れだしたスパークからは逃れられず、大きく弾き飛ばされる。
「うおおおぉ! 間に合えっ……!」
吹き飛ばされた先は、崖を越えたところだった。そのまま彼女は重力に捕まり、底の水源へと引き寄せられていく。
僕は無我夢中で、彼女目掛けて走り続ける。その先が崖になっていたことには、踏み越えた後に気がついた。
「うぇっ!? 落ちっ……あああぁぁぁ――――っっ!!」
落ちる。踏み抜く地面を失った僕の足は、どうしようもなく宙ぶらりんだ。
けれど、落ちるおかげで彼女との距離は次第に縮まっていく。たくさん弾薬を持っていたおかげか、僕の方が落下速度が速いみたいだ。
「う……」
電流によるショックのせいか、彼女は気絶しているらしい。何とか追い付いて抱き寄せてみるも、反応はない。
それよりも――――。
「このままじゃ、地面に叩き付けられて死ぬ……!」
落下速度は依然として速い。
地面もどんどん近づいてくる。
このままじゃ、何もできず死ぬ。
「っ! ケーちゃん……!?」
不意に、背中に何かの感触が走った。
振り向いてみれば、そこには彼女の猟虫の姿があった。僕の背中にしがみついて、羽を震わせている。僕たちを何とか救おうと、必死に羽ばたいていた。
「……ごめん。そうだよね、このまま諦めるなんて……!」
思い出せ、彼女の動きを。
彼女は銃の反動を使って、空中を自在に飛び回っていた。
僕の背中には、ライトボウガンがある。条件はきっと一緒だ。反動を使えば、何とかなるかもしれない。
通常弾じゃだめだ。反動が弱すぎる。拡散弾や麻痺弾みたいな、凄く重い弾があれば何とかなるかもしれないけど、生憎今は持ち合わせがない。
今使えるのは、この弾だけだ。
ライトボウガンなのに、反動が強すぎるためにしゃがまなければいけない弾薬。
あまりの使い勝手の悪さに、評判は悪い特殊弾。
しかし、装弾数と連射性、そして反動の重さは随一だ。
「頼むよ……"ラピッド弾"!」
ポーチから特殊なマガジン――ラピッド弾を取り出して、ライトボウガンに装填する。そして、銃口を地面に向けた。
「うわっ……!」
引き金を引いた瞬間、凄まじい負荷が体にかかる。
弾が飛び出る度に、空気が体を打ち上げた。
ジグザグと揺さぶられながらも、速度は少しずつなりを潜めていく。
銃身が熱くなっていくのが分かる。踏ん張りがきかないため、体が上下左右に回転してしまう。それでも、照準だけは懸命に地面に向け続けた。
「……っ!!」
いよいよ地面が迫った。
速度がどんどん押し殺されて、がくんがくんと体が震える。鼻や口の中に空気が入り込み、唇がぶるぶる震えていく――――。
「おあっっ!!」
けたたましい水の音と共に、地面に転がった。水源に見えたここは随分と浅かったようで、仰向けに転がっても口は水面の上に出るほどだ。おかげで、口や鼻に水が入り込むなんてことはなかった。
視界に映る木々からは赤い花びらが舞い降りてくる。青い空に、緑の木々。それを彩る紅蓮の花々。何とも幻想的な光景だった。
それらを見ることができる。
認識できる。
なんとか、生きている――――。
「……あの子は!」
はっと起き上がって、辺りを見渡すと、心配そうに飛び回る猟虫の姿が映った。
その下では、横たわりながらも苦し気に息を吐く少女の姿があった。
「……くっそ、痛ェ……ですわ……」
ж
「……傷はどうですか?」
「貴方の治療のおかげで、大したことありません。感謝いたしますわ……」
夜も更けた頃に、彼女は落ち着いた様子で回復薬グレートを飲みながらほっと一息ついていた。
キャンプのたき火は風に揺れ、それに合わせて彼女を照らす光を揺らす。
少し濡れた赤い髪を耳にかけるその姿は、やはりとても綺麗だった。
「一時的とはいえ、まさか撤退することになるなんて……私もヤキが回りましたわね」
「あはは……でも、命あっての物種ですから」
あれから、僕たちはひとまずキャンプに戻っていた。
すぐに陽は沈み、辺りは夜の静けさに包まれたものの――時折狼のような遠吠えが響く。雷狼竜が、僕たちを探して彷徨っているのは明らかだ。
「……なんですの?」
「あ、すみません……」
先程とは打って変わり、落ち着いた様子で猟虫を撫でているその姿。
優しく甲殻を撫でる彼女の顔に見惚れていたら、不意に目が合った。
「……貴方も不思議に思っていらして? 私がハンターをやっていることに」
「……? はぁ……」
「よく言われますわ。『お嬢さんにそんな仕事は似合わない』って。そんなの、家にいた頃から言われてましたから分かってますけどね」
「……家?」
「あら、言ってませんでした? 私、王都の貴族の出なのですわ。ま、家出した身ですし、今は関わりはないですけど」
「あ、だからそんな話し方……」
「おほほ、やはり滲み出てしまいますわね。私の高貴さは! このオーラは! ごめんあそばせ!」
そう言って、彼女は満足げに頷いた。
その話し方は気になっていたけど、気取ってるだけだと思ってたことは内緒にしておこう。
「私、おしろいなんてしたくないですわ。高価なドレスも好きじゃない。それよりも、虫が大好きでした」
「……虫が?」
「えぇ。あんなに美しく摩訶不思議な生物はいませんわ。愛おしくて、愛おしくて。小さい頃から野山を駆け回って虫集めに興じる日々……。よく怒られましたわ」
「は、はぁ……」
「そして、ある日虫のトレーナーの方に出会いましたの。大柄の虫を育て、
「へぇぇ、そんなトレーナーが……」
それが彼女の、猟虫なんだろうか。
虫と共に戦うなんて初めて見たけど、こうしてクエストに出ることができるということは、確かにギルドが認めたものなのだろう。
とすると、こうした武器を扱うハンターは他にもいるかもしれない。
「ま、ハンターになりたいと言えば揉めること必至ですわ。それで私は家を出て、今に至ると……。貴方はどうなんですの? どうして、ハンターを?」
「えっ……」
意外にも、彼女は僕に話を振ってきた。ハンターになった経緯なんて、最後に話したのはいつだろう。
とはいえ、僕には大層な理由もないし、彼女みたいなドラマもない。
「……大した理由はありませんよ。モンスターに家族を殺されたとか、村を滅ぼされたとか、そんなんでもありません。平凡な農家で、平凡な暮らしをするのが嫌で、憧れのハンターを目指した。それだけです」
「憧れの……」
「とは言っても、この通りダメダメなんですけどね。酒場では、『採取専門』なんて揶揄されるくらい役立たずなんです」
「あら、採取専門。悪くないと思いますわ」
「え?」
「虫のコミュニティが成り立つのも、健気に採取に勤しむ方々がいるからこそ。彼らは働き者の象徴ですわ。貴方だって、そうでしょう?」
「……でも、僕は……」
「私の治療のために薬草やアオキノコ、ハチミツに何から何まで、貴方は短時間で集めてきました。その収集能力も素晴らしいと思いますわ」
「……そ、そうですかね……?」
「自信をもってくださいな。貴方は私を救ってくださった。それはまぎれもない事実ですから」
そう言いながら、彼女は僕の手をきゅっと握った。玉虫色の腕甲が、火の光を浴びて幾重にも輝きを重ねていく。
どきんと、心臓が跳ねた。
思ったより柔らかい手が、どうしようもなく熱く感じる。
火のせいだろうか。長い時間たき火に当たっているからだろう、きっと――――。
「……ん?」
それを伝って、猟虫が僕の手の上まで登ってきた。
じゅろりと、奇妙な感触が不意に走る。
「わひゅいっ!?」
「あらあらケーちゃんったら。貴方に懐いたのかもしれませんね」
「じょ、冗談ですよね……」
「ケーちゃんが私以外を舐めるなんて珍しいですわ。あぁ……私もケーちゃんを舐めたい……」
彼女は抑え切れなさそうに猟虫を抱き上げた。
"ケーニヒゴアビートル"と呼ばれる猟虫の一種。そんな大層な名前に似合わず、彼は「キュピー!」と悲鳴を上げていた。息を荒げる少女を前に、ジタバタともがいている。
「……雷光虫も、救ってあげないといけませんわね」
「でも、傷が……」
「もう大丈夫ですわ。私は動けます。とはいっても、先ほどのようなのは難しいですけれど」
「……そうですよ。まだ痛むでしょう。無理は……」
「しませんわ。一撃、一撃で仕留めます」
「一撃で? あれを? どうやって……」
「動きさえ、止められれば。そのために、貴方には――――」
――――是非、お力添えを願いたいのですけれど。『採取専門』さん?
そう言って、彼女は妖艶に微笑んだ。
蠱惑的な声色だった。
ж
「さぁさぁ、こちらですのよ!!」
彼女は、ジンオウガを挑発するように、棍の先についた虫笛を鳴らしている。
棍を振る度にしゃんしゃんとそれは鳴り響き、雷狼竜は忌まわしそうに吠え、駆け出した。
その動きは、まるで千鳥足だ。人間が酔っぱらっているかのように、ふらふらとして全く動きが読めない。ゆっくり足を上げたと思えば、凄まじい速さで転がってくる。素早く背後に回ったと思えば、誰もいないところに爪を振るうなど、正気じゃないのは誰が見ても明らかだ。
その動き故に、彼女は先程窮地に追い込まれた。
今回は回避に徹するものの――先ほどとは違い、辺りは暗闇に包まれている。条件としては悪化しているだろう。
それでも、ところどころに僕が置いて行ったたいまつを頼りにして、彼女は走り続けているのだ。
「雷光虫さんが明るく照らしてくれるおかげで、動きが何とか分かりますわー!」
ジンオウガの全身には発光する雷光虫がついているため、夜闇の中でもそのシルエットはよく分かる。そのおかげで、彼女は寸でのところで躱し続けていた。
「不幸中の幸いだなぁ……。もし夜闇に溶け込むタイプのモンスターだったら……」
ナルガクルガ、などにもし遭遇していたらと思うとぞっとする。
でも、今ここにいるのはジンオウガだ。
そして、位置は分かるとはいえ、油断はできない相手である。
「むあっ、雷光虫の群れですわ……!!」
体を空中で、ひねるように回転させる雷狼竜。その動きに合わせ、体に付着した雷光虫が弾かれる。それが彼女目掛けて、雷球となって飛び出した。
一匹一匹が強い電力を持った、虫の集合体。ただの虫と思えば、痛い目を見ること必至だろう。
「おほ~!! 雷光虫さんがいっぱ――あばばば!!」
「…………」
ほぼほぼ電力の塊だというのに、彼女はそれを正面から受け止めた。
呆れるどころか笑えてきてしまう。苦い方の笑いだけど。
「あひぃ~、ごほっ……効きましたわ……でも、雷光虫さんゲットですわ……!」
あの雷光を受けながら、彼女は虫たちを掬い上げていった。
だが、それだけ雷光虫を失ったということは。ジンオウガは、発光部分を減らしてしまったということで。
「ハッ――くっ!!」
闇に紛れた一撃が、風を鳴らす。
彼女は慌てて棍を振りかざし、迫る爪へと打ち当てた。しかしそのまま拮抗するのではなく、衝撃を押し殺すように受け流す。
それでも衝撃は抑え切れず、彼女は後ろに弾かれてしまうが――体勢を崩すことはなく、流れるように棍を背中に収納する。
「ひぃ~~っ、めっちゃくちゃ痛ェですわ!!」
空いた両手にふうふうと息を当てながら、彼女は涙を滲ませていた。やはりあの衝撃をいなすとなると、相当痛いのだろう。
「もうちょっと、もうちょっとです! こっちに向かって走って! ジンオウガの方を見ないでください!」
「分かりましたわ!」
こちらに向けて走り出す彼女。
それを追いかける雷狼竜。
鎧の響く音に、後を追う重苦しい音が夜闇を奏でる。
そんな両者の間に、僕はか細く唸る一粒の弾を撃ち放った。
その直後に、地面に丸まるようにして身を屈める。
「ああぁぁ! すげぇ光ってますわ!」
彼女の悲鳴ともとれる声が響き渡った。
放ったのは"閃光弾"だ。光蟲を閉じ込めた弾薬であるそれは、射出の衝撃で炸裂し、辺り一面を強い光で覆い尽くす。
ジンオウガは、見事にあの光にやられたようだ。夜目で慣れ切っていたからこそに、今の光は強烈だったと見える。
甲高い悲鳴を上げながら、その場で暴れ回る奴の姿が見えた。文字通り、彼女の姿を見失っただろう。
「あぁぁ~……光蟲さん、成仏してくださいませ~! 貴方の命は無駄に致しません!」
その間も、彼女は走り続ける。
両手を合わせて、念仏を唱えながら。
「着きましたわ!」
「よし! さぁ早く配置に!」
「分かりましたわ!」
このエリアに辿り着いた彼女は、再び棍を出して上に跳び上がる。
何度も連射して、その反動でどんどん高く昇っていった。
「……ん」
不意に、光が走る。
見れば、山間の向こうから、木々の隙間から、うっすらと光が昇りつつあった。
"採取"に時間をかけすぎたようだ。直に、夜が明けてしまう。
荒々しい竜の遠吠えが響く。
視力を取り戻したジンオウガが、憎々しげに僕を睨む姿が目に入った。元々の予定では、暗闇に紛れることでもう少し時間を稼ぐつもりだったが――夜明けが早い分それはおじゃんになってしまった。
まだ彼女は、登り切っていない。ツタの上に、届いていない。
「くっ……来るなら来い!!」
ここは、大量のツタで絡めとられたエリア。地面と木々とツタの、多重構造となっている。
僕は地面で、雷狼竜も地面。
僕は彼女のように身軽でもないし、足も遅い。同じようにツタを登ることはできない。
こちらに迫るジンオウガから逃げる手立ては、何一つとしてないのだ。
「まだだ……まだ、目標のポイントには届いていない……!!」
じりじりと背後に下がりながら、通常弾を速射する。
しかし、彼にとっては豆鉄砲もいいところだろう。まるで怯む様子もなく、ひたすら前進を続けている。
「くっ、くそ……!」
彼女のように、目や鼻のような急所に当てられたら、怯ませることができるかもしれないけど。
がくがくと震える照準では、とても狙えそうにない。
あの巨大な爪が、僕に迫ってくる。
「そこですわっ!」
その瞬間に、彼女の狙撃が届いた。同時に、目頭を撃ち抜かれてジンオウガが怯む。
見上げれば、木々の上からあの棍をボウガンのように構えている彼女の姿があった。
弾倉が空になったのか、彼女は持ち手の一部を取り外す。空になった薬莢が飛び出し、まるで木の実のようにバラバラと落ちてきた。
新たな弾倉を装着して、その反動を利用して加速。彼女もまた、"ポイント"に向けて駆け出した。
「……僕もっ……!」
彼女に負けじと、僕も走り出す。ジンオウガが怯んだ今がまさに好機だった。
見えてきたポイント。
地面に刻まれた網目模様。
あそこに、あそこにジンオウガを――――!
「後ろっ、後ろですわ! 気を付けて!!」
「っ!?」
走るのに夢中になりすぎて、背後への注視を怠っていた。
見やれば、こちらへ全力で駆け寄ってくるジンオウガの姿がある。
あの巨体が、物凄い勢いでこちらに突進してくる。
人の足と竜の足では、まるで速度が違う。
彼らの一歩は、僕らの何歩分なのだろうか。
その圧倒的な速度が、僕を撥ね飛ばさんとする――まさにその時だった。
「……ケーちゃん!?」
「キュピー!」と雄叫びを上げながら、彼女の猟虫が飛び込んできた。それが再び、雷狼竜の目元を穿つ。流石に二度目は通じないのか、奴は首を振って避けるものの、確かに突進の勢いは殺してくれた。
「今ならっ……!」
僕を救うために、あの猟虫は健気に飛び回っていた。このチャンスを、無下にするわけにはいかない。
走って、走って。
大地を強く踏み抜いて。
夜明けの朝日を追うように、僕はひたすら走り続けた。
気付けば、あの網目模様を踏み越えていた。
「今ですわ……!」
しゃらんと虫笛を鳴らし、彼女は猟虫を自らの元へと呼び寄せる。
舞い戻ってくるその姿を横目に、彼女は髪紐を取り出した。それでその赤い髪を後ろでひとまとめにする。
少し印象が変わったその姿に見惚れるのも束の間、ジンオウガの低い唸り声が僕の注意を呼び戻した。
ようやく邪魔者が消えたと言わんばかりに、鼻から息を噴き出すその姿。やっぱり、恐ろしいことこの上ない。
でも、今は違う。
今の奴は、この"ポイント"の目の前だ。
「さぁ、来い……!!」
体をバネのように撓らせて、ジンオウガは飛んだ。
飛んで、空中で体を反転させる。電光に満ちたあの背中を、僕に向けてくる。
あの時彼女を弾き飛ばした技だ。着弾と同時に電気を開放する、奴の奥の手――だろうか。
「うっ……!」
突進が来ると思えば、こんな方法で攻め込んでくるなんて。
驚いた。
驚いたけれど――何とか引き金は引けた。
「うあっ!!」
同時に、物凄い圧が体にかかる。視界が流線模様を描き出し、朝と夜をごちゃまぜにした。まるで背後から巨大な手に掴まれて引っ張られるような、強烈な感覚。
――しかし、そのおかげで奴の奥の手を間一髪で逃れることができた。
「あでっ! うわあぁっ!」
受け身に失敗して、地面をみっともなく転がってしまう。
けれど、同時に奴の悲鳴も耳にした。
背中から落下して――落とし穴に嵌り込んだ奴の悲鳴が。
「へへ、やったぁ……あぐっ、バレットゲイザー……めっちゃ痛いんだけど」
全身を打ち身してしまったのか、すぐには立ち上がれないほど痛い。
ライトボウガンの回避技――バレットゲイザー。銃撃の反動で横っ飛びする技なんだけど、これは慣れないうちは使わない方がいいな……。
「――――ふぅ。行きますわよ……!」
背後から穴に墜ち、もがきにもがいているジンオウガ。
そんな奴目掛けて、彼女は背後に倒れ込むようにして木から飛び降りた。
ただの落とし穴であれば、あのように半狂乱で暴れる竜には大した効果は得られないだろう。ましてや、狂竜化と呼ばれるあの状態ならなおさらだ。
ただのネットは弱く、簡単に引き千切られてしまう。
だが、これなら。この落とし穴なら、長時間奴の自由を奪うことができる。
――長い間、彼を足止めするための素材を集めて来てほしいのですわ。
――そうは言っても、どんなものを使えばあんなのを止められるんですか?
――ありったけのネンチャク草を。そして、セッチャクロアリの煮汁に、ゲンセイハゼとヤドリギの樹皮を。あとクモの巣。欲を言えば、ネルスキュラのものが望ましいですわ。
――えっと……?
――要は多重層の落とし穴ですの。底にはネンチャク草と煮汁などで作ったとりもちを敷いて、その上にクモの巣とネットによる二重の絡め手を用意しましょう。
――それだけあれば、あいつを止められる……?
――長時間、とまではいきませんが、私が一撃を決める分には十分ですわ。さぁ、貴方の採取の力、見せてくださいまし……!!
遥か高所の木々から、彼女は跳び降りる。
高所をもってして、その長い落下距離をもってして――彼女は新たな弾倉から弾をばらまいた。
落下に反動による加速を重ね続ける。地面でもがくジンオウガの、その喉仏にめがけて。彼女は、まるで一筋の稲妻のように刃を前に押し上げた。
「はぁっッ!!!!」
玉虫色の一閃が、ジンオウガを穿つ。
バッタがハチのように、鋭い針を突き刺した。
「…………っ!」
「――――ッ!!」
ずぶりと、甲殻に穴を空けるその一撃。首元を貫かれ、ジンオウガは掠れた声を漏らしていた。
一方の彼女は、ジンオウガをクッション代わりにして衝撃を押し殺す。垂直に伸びた棍を握りしめ、ポールダンスでもするように彼の腹へと足を付けた。
「……ふぅ」
鮮血が、まるで間欠泉のように舞い上がる。
舞い上がったそれが地面に戻ってくるその光景は、まるであの水源を舞う紅蓮の花びらのようだった。
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深々と刺さった刃は、彼女一人の力では引き抜けなかった。
そのため僕も付き添って、共に棍を握る。何とか抜けた暁には、その反動で背後に転げ落ちてしまった。
「…………」
「…………ぷっ」
耐え切れなくなったように、彼女は笑う。
「私としたことが、こんな大の字で寝っ転がってしまうなんて……はしたないのに、可笑しいですわ~」
「びっくりした……こんな時まで、反動が……」
「あら。反動のおかげで勝てたのですから。馬鹿にできませんわ」
そう言って笑う彼女は、とても愉快そうだ。気取らない様子が、年相応に幼く見えた。
横たわって、動かなくなった巨体。
その巨体を照らす、眩い陽の光。
この原生林に、夜明けが訪れた。
「……ね」
「はい?」
川の字で寝っ転がっていた彼女が、不意にこちらを向いてきた。
真紅の瞳に見つめられ、僕は思わず緊張する。朝日を吸い込むその紅色に、吸い込まれそうだ。
「助けてくれてありがとう。貴方のおかげで、なんとか勝てました。雷光虫さんたちも、次の住処を目指して旅立つと思います」
そう言う彼女の視線の先では、巨体を這い回る雷光虫の姿があった。
宿主が動かなくなったことに気づいたのだろう。となれば、彼らも新たな住処を探して旅立つのだろうか。
「……私、貴方のことが気に入りましたわ」
「……え?」
「私だけじゃない。ケーちゃんも、貴方が好きみたいですわ」
そう言いながら、彼女は腕にしがみ付く猟虫を優しく撫でた。
「キュピー」と、感情を察しにくい声が鳴り響く。
「街に戻ったら、私の部屋に来てくださらない? ぜひ、御礼がしたくて。
「……良いことって」
「よくお似合いですわ!!」
彼女の自室。
そこで手渡されたボーンロッドを握らせられて、僕の思考は停止した。
一方の彼女は、目を輝かせては両の掌を合わせている。
「貴方には、虫と共に生きる才覚があると見ましたわ。ケーちゃんが懐くなんて、滅多にないことですもの!」
「……はぁ」
「だから、貴方には是非とも操虫棍スターターキットを!」
「良いことを、してくれるって……」
「ええ! そうですわ! 私、差し上げるって言いませんでしたっけ?」
「…………」
完全に、期待した僕が馬鹿だったと思う。
この人は、こういう人だったよなぁって。
「貴方の相棒になる虫は、この子が良いと思いますわ……」
そう言う彼女の背後には、まるで盆栽のような植え木がいくつも並んでいる。
その木には、それぞれ姿の異なる虫がしがみついていた。それぞれが彼らの巣の役目を為していることは、火を見るよりも明らかだ。これが女の子の自室なんて、僕は信じたくない。
しかし彼女は、そんな僕の心も露知らず、その中の一匹に向けて腕を差し出した。それに反応して、がさがさっと動き出す影。
「"オスパーダドゥーレ"……この子はパワーとスタミナに優れた個体ですわ。そして何より、貪欲な性格! エキスを、よりたくさん塗りたくって戻ってきますわ。このビジュアルも独特の邪悪さと気品さがあって、美しいと思いませんか……?」
差し向けられたその虫は、「キィー!」と金切り声を上げる。
全長よりもさらに長く伸びた一対の触覚。細長い手足に、ケルビの頭蓋骨を思わせる不気味なフォルム。
つぶらな瞳が僕を見る。首を左右に二転三転させながら、その虫は忙しなく口元を動かした。
「さぁ、これで貴方も操虫棍デビューですわね! ともに、虫道を極めて参りましょう……!」
「いりません」
「え?」
「虫臭いし、薬品臭いのでお断りします」
ボーンロッドをつき返す。
「…………」
一瞬の静寂が流れるが――――。
「……私ちょっと考え事してて聞き逃してしまいましたわおほほ。それはそうとこの子の舐め心地は何とも言葉にしても足りない感覚ですわよ何といっても舌が絡めとられるような独特の質感と言いますか舐める度に舌が痺れるような感じがありましてエキスを吸う際の香りなども甘さとほろ苦さを混ぜ合わせたようなものが鼻腔を駆け抜けていくのですこれは吸わない手があるのでしょうかいやありませんねさらに飛竜や牙獣などによって得られるエキスの香りも味も違いますからそれに合わせて猟虫も考えるっていうのも手ですわね私のおすすめはやはり甲虫種でありまして私の着込んでいるこの防具の元となったセルタス種からとれるエキスの味わいはもうこの世のものとは思えないほどですので是非とも貴方にも体験していただき――――」
「だからいりませんってば――っっ!!」
僕の悲鳴が、夜のバルバレに響き渡る。
玉虫色の光を映した、彼女の腕の中にいるケーちゃんが、少し虚しそうな声で「キュピー」と鳴いた。
前から書いてみたかった、操虫棍使いのお話でした。
エキス吸ったりするのをなるべくマイルドに描写してみた所存です。当初はカービィみたいに口移しとか考えてたんですが、流石にそれは絵面がやばいのでこうなりました。動きに関してはIB(+大量の脚色)までのものを取り入れています。舞台はバルバレですけどね。いやこれRWBYでしょ。
これは短編作品なのでここまでですが、もし連載するとしたら他の虫のエキスの味をレビューしたり、シナトモドキをもふもふしたり、下位ハンターくんが影響受けてエリアルライトに目覚めたり、彼女の実家が彼女を連れ戻そうとする事件が起きたりするんだろうなーと漠然と考えています。ラスボスは絶対にあれだね、アトラル・カでしょうね。
女の子をお嬢様口調にしたのは、彼女のモデルが短編物語集「堤中納言物語」の『虫めづる姫君』なのが一割、「くっそ痛ェですわ!!」を言わせたかったのが九割の理由です。
閲覧ありがとうございました。