夏休み直前、生徒会長に立候補する伊井野に対し、白銀はそう指示をして、石上にも手伝うように提案する。二人は早速、アガリ症克服のための、特訓を開始する。
夏休みが明け、いよいよ選挙の日がやって来た。一人壇上に立つ伊井野を、石上は見守る。
伊井野ミコ、そして石上優。向き合えない二人の、正義と願いのお話。
※およそ1年ぶりの石ミコ小説です。選挙戦妄想。
石ミコ選挙戦妄想です。
「伊井野。一つ、確認なんだが」
いつになく真剣な白銀の声に、石上はキーボードを打つ手を止めて、顔を上げた。
生徒総会を終えた、放課後の生徒会室。今日の分の仕事を終えて、帰宅しようとした伊井野を、生徒会長の机から、白銀が呼び止めていた。
鞄へ伸ばしかけていた手を引っ込めて、伊井野が白銀を振り返る。
「はい。なんですか?」
会長の証たる純金飾緒を微かに揺らして、白銀は伊井野に尋ねた。
「お前、生徒会長になる意志は、変わっていないか?」
一瞬、ピンと、生徒会室の空気が張り詰めるのを、石上は感じていた。
生徒総会が終われば、生徒会でやる仕事はほとんど残っていない。夏休みが明けてしまえば、すぐに選挙だ。そこで、白銀に替わる、次の生徒会長が決定する。
だからこそ、この生徒会室にいる誰もが、伊井野の動向を気に掛けていた。それと同時に、誰もが切り出せずにいた。
伊井野はまだ、生徒会長になるつもりがあるか、否か。
問われた伊井野に、少しの間があった。しかしすぐに、やや幼さの残る顔が、覚悟を決める。
「――はい。会長選に、出馬します。今でも、生徒会長になる意志は、変わってません」
「……そうか」
それだけ確認できればよし、そう言うように、白銀が頷く。口を挟まなかった四宮と藤原も、同調するように首肯していた。
「なら――」
ここからが本題だ。白銀は両手を組むと、一層鋭い視線を、伊井野へ向ける。それは、目の前の女生徒へ自分の後を託したいという、先輩としての期待のように、石上には見えた。
「伊井野。アガリ症を治せ」
――やっぱり、そうなるよな。
白銀の言うことにある程度予想のついていた石上は、しかしそれがどれほど難しいことかも、同時に理解していた。
伊井野が一瞬、息を飲んだ。彼女自身も、いつか、この指摘を受けるだろうと、覚悟していたはずだ。だから後退ることなく、震える両手を拳に変えて、白銀を見つめている。
白銀の言葉は、なおも続く。
「伊井野に生徒会長を任せることに、異存はない。お前は確かなビジョンを持っているし、仕事もできる。伊井野が生徒会長を務めてくれるなら、俺たちも安心して、後を任せられる。だが――」
そこで一度、白銀は言葉を切った。少し厳しいことを言うぞと、その蒼い瞳が語っている。
伊井野は口を閉ざしたまま、白銀の言葉を聞いていた。
「お前には、自分の意見を、他人に伝える能力が足りていない。生徒会長になれば、部活や委員会、各所との折衝もあるし、生徒を代表して意見を求められることも多い。大勢の前で話すこともざらだ。――だから、伊井野。アガリ症を治せ」
確認と念押しのためか、白銀はもう一度そう言って、言葉を止める。その両目が、現会長としての目が、静かに伊井野を見つめていた。
ごくり。思わず、石上の方が、息を飲んでしまう。
伊井野は、すぐには何も言わなかった。動揺した様子で、丸い瞳が揺れて、視線が宙を彷徨う。何度か口を開きかけ、その度に息を飲んで、唇を閉じる。覚悟は決まっていても、それを言葉にできない。そんな感じだった。
たっぷり十秒ほどをかけて、伊井野がようやく、白銀に答える。
「……わかり、ました。頑張ります」
「ああ。頑張ってくれ。――石上」
首肯した白銀が、今度は石上の名前を読んだ。呆然と事の成り行きを見守っていた石上は、ハッと我に返って返事をする。我ながら、変な声が出た。
「伊井野を手伝ってくれ。石上は、去年の俺の選挙も経験してるし、色々とアドバイスもできるだろう」
「僕は、構いませんけど……」
石上はチラリと、伊井野を窺う。
生徒会で、活動を共にすること、まもなく一年。以前よりは良好な関係を築けていると思っているが、依然反目することの多い同級生だ。向こうは相変わらず、こちらを不良認定してくるし、正直よく思われてるとは思えない。それに、伊井野の性格まで考えれば――
――伊井野は、僕にあれこれ言われるの、嫌なんじゃ……。
石上の手助けなんていらない。そんなセリフが飛び出すのではと、石上は大真面目に考えていた。
白銀を見つめたまま、伊井野は澄ました風に、答える。
「石上、よろしく」
「……お、おう」
珍しく素直に協力を良しとした伊井野に、こちらの方が面食らってしまった。
「それじゃあ、よろしく頼む」
安心したように相好を崩す白銀。そんな彼にきっちりと一礼して、伊井野は生徒会室を去って行った。
次の日から、伊井野のアガリ症を治す特訓が始まった。残った一学期の数日間、さらに夏休みに入っても、伊井野は毎日のように、アガリ症を克服しようと頑張っていた。もちろん、その全てに、石上は付き合った。
当初の予想通りというか、いつも通りというか、相も変わらず、伊井野とは衝突ばかりの日々であった。それもそうだ。顔を合わせる度に、やれゲームを持ち込むなだの、やれえっちな漫画を読むなだの、やれ髪がぼさぼさだの、やれ制服の着こなしがなってないだの、事細かに指摘してくる奴だ。考え方とか、そういうもの以前に、決定的にそりが合わないのだ。
別に、嫌いなわけじゃない。むしろ、これまでの活動を見てる分、人間としては好ましくさえある。だがそれでも、合わないものは合わないのだ。お互いに、磁石のN極でもついているのではと、そんなことを石上は考えた。
長いようで短い夏休みは、あっという間に過ぎていった。二学期も始まって少しすれば、第六八期生徒会は解散し、いよいよ選挙期間に突入した。
選挙活動を行いつつ、伊井野のアガリ症対策は続いていた。伊井野は忙しい人間だ。生徒会活動が無くなっても、風紀委員は続けている。必然的に、二人の練習時間は、伊井野が放課後の見回り活動を終えてからになった。
原稿を何度も推敲し、実際に発声して、録音を見直す。伊井野らしいというべきか、彼女は決して腐ることなく、自分の納得いく仕上がりになるまで、何度も練習していた。さらに、進学や受験の準備の合間を縫って、白銀や四宮、藤原といった前生徒会メンバーも、選挙戦のアドバイスへ駆けつけてくれた。そうなると、単にアガリ症の克服のみならず、公約の見直しや、アピールすべき実績の洗い出し、賛同してくれる委員会・部活動への根回しなど、やることは膨れ上がる一方だった。
二人の帰りは六時を過ぎることも珍しくなく、石上はその度に、伊井野を家まで送り届けた。その道中も、二人の会話は、やれ発声がどうだの、言葉のチョイスがどうだの、坊主はかっこいいだの、選挙に関する内容ばかりであった。
濃密な時間は、夏休みよりもさらにあっという間に過ぎ去り。
いよいよ、選挙当日を、迎えたのだった。
「――そうは言っても、無理な話なんですよ」
相も変わらずたどたどしい演説を披露する壇上の伊井野を見つめ、石上はポツリ、隣の人間にだけ聞こえるように呟いた。
各候補の応援演説(ちなみに、伊井野の応援演説は藤原が務めた)が終わり、選挙戦も大詰め。候補者たちのトリを飾るのが、前生徒会メンバーでもある伊井野だった。
白銀に言われて、すでに二か月以上。できうる限りのことはやって来たし、実際去年に比べれば、伊井野のアガリ症は随分とマシになっただろう。
だが、ことはそう上手く行かないと、石上は――そしておそらく伊井野も、隣の白銀も、わかっていたはずだ。
「伊井野のアガリ症は、たった二か月で治せるような、そんな単純なものじゃないんですよ。……伊井野は、悪意に晒されすぎた」
選挙の度、伊井野は何度も、他人の悪意の目に晒されてきた。それこそ、小等部の頃から、何度も、何度も――謂れなき悪意に、晒されてきた。正しくあろうとしただけなのに、正しくあろうとすればするほど、鋭利な視線に串刺しにされてきた。
伊井野は、
本来、あの壇上に立てていることが、おかしいのだ。用意した原稿を、何十と読み返した原稿を、皺になるほど握り締めて、それでも立っているのだ。
「……伊井野はもう、誰かの前で、まともにしゃべることは、一生できないかもしれない」
数年間に亘って受けてきた傷は、たった二か月やそこらの努力で、癒えるものなんかじゃない。もっと根本的な部分が、伊井野のアガリ症の原因だ。
だから、伊井野ミコは、語れない。今までも、これからも。
「……そうかもしれないな」
白銀は否定しなかった。夏休み前と同じ、鋭い蒼の瞳が、ただ真っ直ぐに伊井野を見ている。壇上で、声を震わせながら演説を続ける後輩を、見定めるように。
同じ目が、一瞬だけ、石上の方を見た。
「人に、世界に、正しくあってほしい。そのために努力を惜しまない彼女の姿勢は、絶対に間違ってない。そのはずなんだがな」
白銀の言う通りだ。石上もそう思っている。
確かに、伊井野には恨みもある。あのくそ真面目っぷりは、どうにかならんもんかと、常々思っている。ゲームの一つ、漫画の一冊、それくらい許してくれてもいいだろう、と。
だが、その頑張りだけは、直視し、評価するべきだ。誰よりも朝の早い彼女を、誰よりも勉学に勤しむ彼女を、誰よりも生徒と学校に尽くす彼女を、その全てを、小さな体と、震える勇気で成し遂げてしまう彼女を、認めるべきだ。その努力を、心無い言葉で貶めるなど、あってはならない。
正しい奴は、頑張っている奴は、誰からも正しく評価されてほしい。努力は報われてほしいし、幸せになってほしい。石上はそう願っている。
その願いに照らし合わせれば、例えどれ程そりの合わない奴と言えど、伊井野ミコこそ、一番評価され、幸せにならなければならない人間なのだ。
だからこそ、苛立った。ムカついた。頑張っている伊井野が、評価されず、幸せになれず、それどころか笑われている、現実に。
だが――
「……だが一つだけ、彼女のアガリ症を治す方法が、あるかもしれない」
白銀の言葉には、どこか確信めいた響きがあった。
頷いた石上は、改めて、今回の選挙戦を振り返った。
色々アドバイスをしたとはいえ、伊井野の基本的なスタンスは、これまでと変わらない。「この学校をよりよくするために、考える機会を生徒たちに与える」、その考えの元、公約を掲げ、チラシを配り、ポスターを掲示する。
ただ、去年までと違ったのは。
――「公約です、よろしくお願いします」
――「ご一読ください」
――「伊井野ミコの公約です」
――「一緒にこの学校をよくしていきましょう」
伊井野ミコは、一人ではなかった。休み時間の度、生徒が入れ代わり立ち代わり、伊井野のところへ現れた。「何か手伝えることはない?」「チラシ、一緒に配りましょう!」「ポスター貰える?部室棟にも貼ってもらうよ」、そんな風に声を掛けられていた。
部活動への根回しで訪れた美術部での出来事を、石上は思い出す。
――「伊井野さんのためなら、喜んで協力するよ!」
伊井野のファンだという女生徒は、協力を快諾していた。チラシやポスターのデザインも、彼女を中心に美術部が全面協力してくれたものだ。
――「私、去年の伊井野さんの演説を聞いて、感動しちゃった。こんなに、学校や生徒のことを考えて、一生懸命になれる人がいるんだ、って。だから、伊井野さんのために、私も頑張るね」
伊井野は嬉しそうに笑って、何度も何度もお礼を言っていた。あるいはその横顔には、涙すら浮かんでいたかもしれない。
伊井野ミコは、一人ではなかった。
「今は、彼女の信念を、正義を、理解してくれる人がいます。伊井野の頑張りを、評価して、応援してくれる人がいます」
石上の言葉に、今度は白銀が頷いた。
伊井野ミコは語れない。この二か月でトラウマは解消されず、アガリ症は克服できなかった。彼女はまだ、自分の言葉で、自分の正義を、信念を、語れない。
だからこそ、伊井野ミコを語りたい。頑張っている人のために、協力してあげたい。彼女が語れない分まで、彼女の正義を、信念を、語りたい。
これはお節介だ。とんでもない自己満足の、お節介。一人で頑張ってきた伊井野の考え方とは、相容れないものかもしれない。見返りを求めなかった彼女の正義とは、根本的に違う考え方かもしれない。
それでも、頑張っている人のためになら。感謝したい、力を貸したい、その努力が報われてほしい。そう思うのが人間だ。
つまるところ、
「……会長は、そういうことを、言いたかったんですよね。だから僕に、伊井野のアガリ症を治すのを手伝うように、指示した」
「……まあ、な」
白銀の返答は、わざと明言を避けているようであった。
「まあ、なんだ。可愛い後輩への、最後のお節介だと、思ってくれ」
照れと罪悪感をない交ぜにした声で頬を掻く、白銀。
「伊井野ミコは正しい。だが、正しいだけではダメだと、俺は思っている。大切なのは、一緒に戦ってくれる人間を作ることだ。――少なくとも、俺はそうやってきた」
「会長も?」
「おう。俺だけじゃ生徒会は、回らなかった。四宮がいて、藤原がいて、石上が入って、伊井野が加わって。……皆がいたから、俺はここまでやって来れた」
壇上を見つめる白銀の目が、優しい。石上も作成に協力した演説用のスライドは、最後から三枚目まで進んでいた。もうすぐ、伊井野の演説が終わる。
白銀は、さらに続ける。
「一人で頑張ることを、悪いとは言わん。そんな風に頑張れる奴は、本当にすごいと思う。自分の正しさのために、誰かを巻き込みたくないという考えも理解できる。――だけど、誰かを頼ることは、決して、悪いことじゃない」
それを、伊井野にも知ってほしかった。白銀はそこまで語って、口を閉ざした。
――確かに、それはお節介ですね、会長。
だけど、それは多分、石上がいつも伊井野に抱く苛立ちと、似たようなものだ。
とかく、人は善意よりも悪意を敏感に感じがちだ。百の称賛も、一の批判に塗り潰される。そもそも、世の中のシステムというのは、称賛より批判を拾いやすくできている。
伊井野を蝕んできた悪意の目。しかし中には、埋もれてしまった、彼女を応援する目もあったはずだ。例えば大仏こばちのように。あるいは今の小野寺麗のように。……もしかしたら、石上優のように。そして今なら、さらに多くの目が、伊井野を応援している。
――「がんばれ」
――「ガンバレ」
――「頑張って」
祈るような応援の視線を、会場の中に、いくつも感じる。
悪意だけではない。自らを認め、応援してくれる目があるのだと気づければ。あるいは伊井野のアガリ症は、治るかもしれない。もちろん、それにはきっと、想像もつかないほど、途方もない努力と時間が必要になるだろうが。
伊井野ミコに語ってほしい。いつか、彼女の口から、彼女のことを、直接、聞かせてほしい。
「……大丈夫、だと思います。今の伊井野なら、きっと大丈夫です」
全く、根拠なんてない確信だ。無責任な期待だ。
だけど。
――「ありがとう、皆」
その笑顔だけで、十分だ。誰かと手を取り合えるようになった伊井野は、最強なのだから。
演説は、いよいよ最後の挨拶になった。これまでの主張をまとめつつ、伊井野は改めて、生徒会長への想いを、覚束ない言葉で語っている。
「よくやってくれた、石上」
白銀の呟きに、石上はかぶりを振った。
「いえ、僕は何も。伊井野が頑張ってきただけですから」
石上の回答に、白銀は苦笑する。
「全く、似た者同士だな、石上。――他人からの感謝は、素直に受け取っておくものだぞ」
それが、先輩・白銀御行からの、最後のアドバイスだった。
『――ご清聴、ありがとうございました』
演説を終えた伊井野が、そう言って一礼する。壇上へ向け、温かい拍手が送られた。
次期生徒会長は、伊井野ミコに決まった。
張り出された得票数を囲む生徒たちの間で、黄色い歓声が起こる。拳を突き上げる者、万歳と叫ぶ者、おめでとうと涙する者。その輪の中心で、たくさんの生徒にもみくちゃにされながら、伊井野は笑っていた。
中庭のど真ん中で胴上げを始めようとする生徒たちを、大仏と共に何とか止めた石上は、伊井野に連れられて体育館の裏へとやってきた。
もみくちゃにされた髪を整えて、伊井野は深々と頭を下げる。
「ありがとう、石上。あんたのおかげで、生徒会長になれた」
「……いや、僕は、」
何もしてない。そう言いかけて、白銀の言葉が脳裏をよぎった。他人からの感謝は、素直に受け取るように、という先輩からのアドバイス。
口を噤み、頬を掻く。照れが勝って、頭を下げる伊井野を、どうしても直視できない。
「……どういたしまして。――よかったな、伊井野。生徒会長になれて」
それだけ、なんとか口にすることができた。
顔を上げた伊井野は、一瞬驚いた表情を浮かべて、けどすぐに、微笑んで頷いた。
「うん。石上が――皆が、たくさん、助けてくれた」
伊井野も照れくさいのか、やや俯き加減の顔は、夕陽に当てられたわけでもなく、赤い。それでも、その微笑みは、とても晴れやかなものに、石上には映った。
「私、ずっと、一人で頑張らないとって、思ってた。私が生徒会長になりたいのは、私が思い描く、正しい秀知院学園にしたかったから。だから、誰も頼っちゃいけないって、思ってた」
だけど。伊井野は言葉を切る。上目遣いの目が、それまでにも増して、柔らかく、優しい。
こちらこそが、本来の伊井野ミコだと、いい加減石上も気づいている。引き締まった目も、笑わない瞳も、彼女が振り絞った勇気の結果だ。文化祭で見たあの笑顔こそが、あるいは生徒会室で見せた笑顔こそが、きっと、伊井野の素の部分だ。
今は、少しずつ、少しずつ、伊井野も他人と笑えるようになった。校内でも、あの笑顔を見かけるようになった。それを、石上は好ましく思う。
伊井野ミコに、笑ってほしい。それもまた、石上の願いである。
「嬉しいね、石上。誰かと一緒に頑張るのも、一緒に笑って、喜んでくれるのも――すごくすごく、嬉しいね」
「――ああ、そうだな」
伊井野がそんな風に笑えるのなら。石上もやぶさかではない。つい、口元を綻ばせてしまうくらいには、嬉しいことだ。
一しきり微笑んだ後、伊井野は咳払いを一つ、挟んだ。一転して、不安げな表情が、しばらく言葉をまごつかせる。
「それで、ね。石上に、お願いが、あるんだけど」
「……ん。なんだよ」
その先を、伊井野はさらに言い淀む。普段、あんなにぶれない彼女の目が、右へ左へと泳ぐ。
やがて、意を決して、伊井野は口を開いた。
「い、石上に、生徒会に入ってほしいの」
思いもかけない言葉に、石上は目を見開く。
伊井野はなおも言い募る。
「石上、一年生の時から生徒会に入ってるし。そういう、経験豊富な人って、あんたしかいないし。私も、生徒会経験者が近くにいた方が、安心できるっていうか」
やたら早いセリフを、なんとか聞き取った。それでも、すぐに言葉が出てこない。
伊井野はもう一度、気合いを入れるように、念を押すように、懇願するように、こう言った。
「――私には、石上が必要なのっ。だから、お願い。私を手伝って。生徒会に、入って」
掠れて途切れた声を残し、伊井野は再び俯いた。想像以上に小さな肩が、石上の目線よりずっと低い位置で、震えている。
多分、これが、伊井野にとっては初めて、他人を頼る言葉なのだ。自分の正しさに、信念に、付き合ってくれと、懇願する言葉なのだ。
――僕で、いいのかよ。
嬉しくないわけがない。他人を頼ってほしいと願っていた人が、思いもかけず自分を頼ってくれるというのなら、嬉しくないわけがない。
だからこそ、その相手が自分でいいのかと、そんなことを考えてしまう。
なんで、僕なんだ。そんなことを尋ねそうになって、口を閉じる。それは今、伊井野が散々、語ってくれたことだ。伊井野はすでに、必要なことは全て、述べている。応えるか否か、それはもう、完全に石上へ託された。
伊井野は今、向き合おうとしている。恐らく初めて、自分以外の誰かと。彼女の正しさを、共有できないかもしれない正しさを、震えながら差し出している。
なら、その勇気に応えなければ、嘘だ。
「……まあ、会長にも、四宮先輩にも、藤原先輩にも、託されたし」
ああ、違う。これじゃない。そう思って、頭を振る。言い訳はなしだ。それは誠実じゃない。
「……生徒会は、僕にとって、初めてできた居場所なんだ。――だから、伊井野。こんな僕でよければ、どうか生徒会に入れてほしい」
頭を下げるのは、石上の方だった。
伊井野があたふたとしているのがわかった。視線の端で、膝下まで伸ばしたスカートが揺れている。
「か、顔を上げてっ」
伊井野に言われて、ようやく、顔を上げる。真っ赤になりながら、頬を膨らませる伊井野が、そこにはいた。タコみたいだと思ったことは、黙っていよう。
「お願いしたのは、私なのに」
ご不満ポイントはそこかと、内心で苦笑する。本当に、律儀で、真面目で、融通が利かない、同級生だ。
コホンと、咳払いを一つ。
「……それで、」
いまだ頬を膨らませている伊井野を、笑いを堪えながら、石上は真っ直ぐに見据える。
「僕は何をしたらいい――伊井野
これで、いいだろうか。僕を頼ってくれた伊井野に、初めて応える回答として、これでいいのだろうか。
伊井野の顔が、パッと明るくなった。遥かな雲居から、隠されていた太陽が顔を出すように。時たま見かけるようになったあの笑顔で、伊井野は何度も頷いた。
「――それじゃあ、生徒会の初仕事。会場の椅子、片しに行くわよ」
どこかで聞いたようなセリフに、石上は頬を緩める。
二人揃って、体育館へと戻っていく。何だか初めて、伊井野ミコという女生徒と、向き合えた気がした。
この二人、恋愛云々の話よりもまず、お互いの正義とか正しさの話をしたくなりますね。
伊井野ミコは正しくありたい。決められたことを守る、規則から逸脱しない。より良い世界であるために、彼女は正しくありたい。
石上優は正しくありたい。頑張っている奴が報われて、幸せになってほしい。正しさが正しいと認められるために、彼は正しくありたい。
でも、その正義を、表に出すことはできない。だから向き合えば、自分の正義を隠してしまう。相手が、当の昔に、その正義に気づいていたとしても。
この二人が、真の意味で他人と、そしてお互いと向き合える日が来るといいと思います。
余談ですが、会長と副会長が海外留学するので、この年の選挙は9月中に行われることになってます。