約束を果たす為の物語。
──ああ、また救えなかった。
息絶えた恐暴竜の傍らに力無く佇む青年は、静かに自らの得物を背中の鞘へと納めた。
返り血を浴びた小さな狐の面が、悲しそうに紅い涙を流す。指先以外の感覚はとても鈍く、見上げた先にある太陽の光すら、真っ黒な瞳の、更に奥に眠る闇を刺激することは叶わない。
目の前の狩りによる戦果に感慨や達成感は無く、先刻までの戦火による高揚や戦慄も無い。其処にあるのは唯「彼女」を救えなかった自らの無力感。虚無のみが其処にあった。
──さよなら。
枯れた涙の代わりに、別れの言葉を空に手向ける。指先でなぞった狐の面が心を代弁するかのように、未だ紅い涙を流し続けていた。
真昼の孤島を、溢れんばかりの日光と涼しげな風が覆う。青年はゆっくりと踵を返し、亡骸となった恐暴竜に背を向けた──
「はぁっ……はぁっ……」
──ふと、荒々しい息遣いが聞こえた。青年は無と帰していた精神を取り戻し、張り詰めた緊張感と共に背中の太刀に手を掛ける。
先刻まで恐暴竜が暴れ回っていたこの一帯に入り込むような愚かな生物はいない……と思われる。そのような命知らずな生物は、余程脳が退化しているのか、或いは余程強いのか。
ゆっくりと、足音を鳴らさないように足を運び、気配を探る。荒々しい息の主はどうやら隠れるつもりは無いらしく、その気配はいとも簡単に感じ取られた。それでも尚警戒は緩めず、青年はじりじりと音のする方へ──
「た、助かった……」
──音の主は青年と同じ、人間だった。竜の鱗を使用した防具に身を包み、小さな盾を左手に構えた、小柄な少女。その身形を見れば一目で解る。青年と同じ、ハンターである。
「……なんだ、人間か」
「あの、た、助かりました……一昨日、狩猟を終えたらいきなり途轍もない咆哮が聞こえて、あのモンスターがやってきて……ずっと逃げて、隠れてたんです」
未だ震えた、浅い息遣いで少女はまくしたてた。その声に力は無く、心の底から恐怖を味わっていたことが感じられる。青年は太刀から手を離し、緊張の糸を少しだけ解いた。
「……立てるか?」
「はい、あ、ありがとうございます……!」
青年は少女に手を貸し、へたりこんでしまっている少女が腰をあげるのを手伝った。その身体は驚く程に軽く、手を強く握れば壊れてしまいそうな程に脆いように思えた。
手を、握ることが出来たならば。
狐の面から流れていた紅い涙は、乾き始めていた。
──救えたね。
──そうだったら良かったのにな。
ずっと敏感だった指先の感覚が、少女の儚くも脆い腕を、人間といういのちの体温を、鮮明に記憶に焼き付けていた。
〜〜〜
ロックラックから更に東へ向かった先にある小さな村、ユクモ村。林業と温泉が有名であり、小さい村ながら至る所から観光客が訪れる名所である。
そんなユクモ村のハンター集会浴場に青年がやってきたのは湯治が目的ではなく、討伐依頼の出ていた恐暴竜イビルジョーを討伐した、依頼の達成報告である。暴食の王を討伐した見返りは非常に大きく、少なくとも一月は何もせずとも一切の苦労は無い金額を手に入れることが出来た。
「……済まない、防具の補修をやっている店は無いだろうか」
青年は受付嬢から依頼の報酬金を貰う際、ぽつりとそんなことを尋ねた。
「防具の補修、ですか?……うーん、加工屋さんなら素材さえあればなんとかしてくれそうですけど……」
「加工屋の場所を教えて欲しい」
「わかりました。この集会浴場を出て頂いて、階段を降りて広場に出て頂きまして、更に階段を降りればすぐに見つかります」
「ありがとう」
青年は小さく頭を下げると、ゆっくりと踵を返し、真っ直ぐ集会浴場の出入口へと歩き始めた。その背中はとても静かで。人を見かけで判断してはいけないとは言うが、とてもあの雰囲気で恐暴竜を倒せるようには、受付嬢には見えなかった。
もう一つ。受付嬢は青年を見た時に小さな違和感を感じていた。しかし、その違和感が一体何なのか、探し当てることが出来なかった。
──どうして、そんな辛そうな顔をしているの?
凪が訪れた水面よりも静かな、一切の変わらない表情と共に紅葉の舞う石段を降りる。血液よりも淡く、灯火よりも雅やかな赤い雨を浴びるこの感覚は、このユクモ村でしか味わえないものなのかもしれない。美しい雨を笠に表情を隠し、青年は受付嬢から聞いた加工屋へと辿り着いた。
「あぅ!他所のハンターか、何の用だぃ?」
「……この仮面を、補修して欲しい」
青年が加工屋に渡したのは、自らの頭部を守る小さな仮面。泡狐竜の素材を使い、雅やかな狐を象った仮面である。先のイビルジョーとの戦いで欠損こそしていないものの、返り血を浴びて赤い涙を流してしまった。白い仮面が今は酸素を浴びて黒く染まってしまっている。青年が求めているのは、元の白く儚い仮面なのだ。
「それくらいはお易い御用だわな……だけど解せねぇ。お前さん、後ろに抱えてるその武器は太刀だろう?この仮面、確かにタマミツネの素材から作られる「ミツネシリーズ」に間違いはねえが……これはガンナー用の防具じゃなかったか?」
加工屋は訝しげな表情で青年を見た。そう、青年が先程まで頭に着けていた仮面は確かにハンターが使う防具の一種であるのだが、剣士が使う目的で作られた防具ではない。弓やボウガンといった遠距離武器を使うハンター、即ちガンナー用として作られるものなのである。
「それにこの仮面……女性用のサイズじゃねえか。お前さん、見たところ男だろ?あぅ、いや詮索するつもりは無いんだが……何故この仮面を着けてる?」
青年の顔を覆い隠すには些か小さいサイズ。事実、青年は顔を隠すように仮面を着けていた訳ではなく、一部分だけを隠すように斜めに被っていた。その被り方は、正に女性ガンナーがこの仮面を被る時と同じ被り方で──
「……存在証明、ですかね」
──もう、涙も流せないクセに?
青年の表情が、変わることは無い。まるで仮面を着けたかのような、寸分も変わらない無の表情で、まるで何かを思い出そうと──或いは忘れようと──するかのように、ぽつりと呟いた。
思い出すのは、指先の感覚だけ。忘れてしまったのは、いつか語った星空のような夢。
「その仮面を、救ってあげなきゃいけないんです」
加工屋の訝しげな表情は益々増すばかりである。が、頼まれた仕事を断るわけにもいかず、血に塗れた仮面をどう補修しようか、うんうんと悩み始めた。
「……ちぃとばかり時間がかかるな。明日のこの時間には直しておく、また明日来てくれぃ」
「ありがとうございます。お代は」
「明日でいい」
本当は、今日お代を頂かなくてはならない。然れど加工屋はそれを出来なかった。これ以上、血に塗れた仮面よりも「仮面のように感情が無い」青年を見ていたくなかったのだ。そこには誇り高き狩人の矜恃も、悩み苦しむ青少年の苦悩も、明日を夢見る少女の想いも、何も有りはしない。
存在証明──。その言葉だけが、加工屋の脳裏に残り続けた。
「──その顔じゃ、お前さんは何処にも存在してねぇんじゃねえか、あぅ」
そんな加工屋の独り言は、良きか悪きか青年の耳には届いていなかった。既に踵を返して歩き始める青年の背中は、人と呼ぶにはあまりにも弱く、風景と言うにはあまりにも強過ぎる。吹けば飛びそうなのに、大木のような重さすら感じて。その奇妙な存在感に相対して真っ向から臆せず彼の心に入ること等、きっと誰も出来はしない──
「あの!狩場で、助けてくれて本当にありがとうございました!!」
果たして臆せずだったかどうかは定かでは無い。然れど青年の無色透明な背中を見つけて止めることが出来る者が、確かに今この場にいた。
青年がイビルジョーを倒したその時に、偶然狩場に居合わせた少女のハンターである。少し緊張した、同時に羨望や憧れの眼差しが混じった表情で青年を見つめる彼女。恐らくは集会浴場から追いかけてきたのだろう。青年は仮面のような表情を崩すことなく、少女の無邪気な顔を見ていた。思い出すのは、指先の感覚。
「……別に助けたつもりは無かった」
「それでも、私は助かりました。ありがとうございました!あの、何かお礼をさせて貰えませんか!?」
「いらない。……あのイビルジョーが、俺の狩猟対象だっただけだ」
本当に、助けたつもりは微塵も無かった。青年はあくまでもイビルジョーを、自らの狩猟対象を狩猟しただけ。言わば自らの仕事をただ果たしただけなのだ。
──本当に、狩猟対象だっただけなんですか?
思い出すのは指先の感覚。脳裏に浮かんだその言葉は果たして誰から言われた言葉だっただろうか。
「……だから、本当に何も要らない。狩猟対象を狩るのが、依頼を受けたハンターの仕事だろう?俺はただそうしただけだ」
──嘘吐き。
心の中で、青年は自らをそう罵った。意味は恐らく全く違うのだろうが、少女の少しだけ寂しそうな瞳が、自分を蔑んでいるようにすら見えて……指先が痺れる感覚。取り繕わなくてはならない。仮面より静かな表情を、青年は崩すことは無かった。
──どうして救えなかった?
「そうですか……厚かましくて、ごめんなさい」
青年とは真逆のように、コロコロと表情を変えていく少女。今の表情は少し寂しそうで、悲痛とも言えるような──無邪気で幼げな顔立ちをしている分、余計にその表情は辛そうに、悲しそうに見えた。その顔が、何故かとても青年の心をチクチクと刺して。
どうしたらいいのか、解らなくなってしまった。思い出すのは、指先の感覚。柔らかくて、温かくて……掴むことが出来なかった、空を切る感覚。
「…………あの、一つだけ聞いてもいいですか?」
「……ああ、構わない」
「……どうして、そんなに辛そうな顔をしてるんですか?」
その時初めて、青年は少しだけ自分の顔を歪めていることに気が付いた。ずっと、仮面のように表情を変えていなかったつもりが、少女の七色に触れてほんの少しだけ、表情を変えてしまっていたのだ。その顔は喜怒哀楽で表すなら哀。少女には、それがひどく辛そうな表情に見えてしまっていた。
「助けて貰った時と、全く同じ顔をしているんです」
──その表情の小さな変化に気付くことが出来た少女は、或いは無邪気が故に人間という弱く不可解な生物を、誰よりも理解出来ていたのかもしれない。
然れど……否、だからこそ、次の言葉は青年の心を抉り取るには十分過ぎた。
「私は、助からなかった方が……良かったですか?」
──そんなハズない。
────本当に俺はそう思っている?
仮面が、崩れ落ちる。
〜〜〜
赤い時雨が、二人の時間を引き伸ばした。
二人以外、周りには誰もいない。ただただひらひらと落ちていく紅葉が、青年の言葉に吹かれてあちらこちらへと飛んでいくようだった。
「俺には相棒がいた」
──思い出すのは、指先の感覚。
少女のように表情が豊かで、天真爛漫に笑い、どんな過酷な狩場での狩猟だろうと、常に青年を励ましてくれた。つられて笑ってしまうような、確かなエネルギーが、彼女にはあった。
──必ず、生きて二人で戻ろうね。
狩りに赴く前は、必ず二人で約束をした。小指と小指を重ね、子どものように歌いながら「二人で生きる」ということを約束した。彼女が危機に陥れば、青年は必ず彼女を守り、青年が命の危険を感じれば、彼女は全力で青年を守る。彼女は強く、青年もまた強かった。「二人で生きる」というこの約束が、二人の狩人を強くしていた。
思い出すのは、指先の感覚。
「俺は、相棒を救えなかった」
その言葉は、少女からすればあまりにも予想通りの──聞くべきでは無かったかもしれない、そんな言葉。ハンターという仕事をしている以上、常に付き纏う死の恐怖と、無慈悲な別れ。その覚悟はしていようと、いざそれを体験するのとはまた違うのだろう。──そして、その無慈悲さを誰かから聞く辛さも、また想像だけの産物を上回って心を抉るのだ。
──二人で、生きて帰る。その日の狩りも、そう約束して向かったんだ。その時の狩猟対象が何だったかすら、もう覚えていない。過酷な狩りだったことだけは覚えている……何せ、狩猟環境が酷く不安定な、上級クエストだったのだから。それでも、俺と相棒は二人で狩猟対象を討伐したんだ。嗚呼、今日も二人で生きることが出来たね、そう言って約束の成就を二人で喜んだ。
その矢先だった。不安定な狩場に乱入してきた恐暴竜……イビルジョーが俺達の目の前に現れたのは。
思い出すのは、指先の感覚。
──二人共、狩猟対象との戦いで疲れ切っていた。それでも、イビルジョーは俺達を逃がしてはくれそうになくて。必死に二人で戦ったんだ。一先ず相手にある程度のダメージを与えて、討伐せずとも撃退出来れば……そう考えて。
だけど、イビルジョーは強かった。とてもでは無いが、疲れ切っていた俺達では相手にすらならなかった。相棒が足をもつれさせ、転んだ次の瞬間──相棒の身体は、イビルジョーの口の中に消えていた。
思い出すのは、指先の感覚。
いつも彼女のペースに巻き込まれ、指切りで約束を交わしていた小指の感覚。
たまにはお洒落もした方が良い、と冗談半分で指輪を嵌めさせられた薬指の感覚。
彼女の持つ弓を少しでも理解しようと、彼女に弓を教わった時の中指の感覚。
──最後、助けを求めて手を伸ばした彼女の指先にしか触れられなかった、人差し指の感覚。
──狩猟を終えた後、必ず彼女を称える為に立てていた……最後は立てられなかった親指の感覚。
それら全てが、もう二度と訪れることの無い、青年の感情の全てだ。
「俺は、今は恐暴竜の狩猟依頼しか受けていない」
「……仇討ち、ですか?」
「……いや、違う」
青年の瞳は、歪んでいるのだろうか。
「俺は、今もずっと相棒を救えなかったことを後悔している。だから今でも、アイツが喰われる前に恐暴竜を倒して……アイツを、救ってやりたい」
死して尚、恐暴竜イビルジョーと戦っているその瞬間だけは、青年の感情は、青年の相棒は、青年の恋人は、存在を赦される──否、存在を青年から「盲信される」。青年も解っているのだ、虚空を救おうとしていることは。どう足掻いても彼女は既に死んでいるし、どれ程の恐暴竜を狩っても彼女は救えない……もう存在すら赦されていないのだから。
「……それで、本当にいいんですか?」
恐らく、その質問は愚問であることを。少女は理解していた。それでも、少女は悲痛と少しの恐怖を交えた表情で。青年に、その問いを投げ掛けなくてはならない気がした。
それで、本当にいいのだろうか。
屍人に想いを吐き出す機能は無く、その感情を死した後に聞くことは出来ない。然れど人間は復讐や仇討ちを「死者は望まないだろう」と綺麗事を口にする……が、その彼女はその綺麗事に漏れない例であろう。青年の相棒の声は聞こえない為、その想いは推し量ることしか出来ないのかもしれない。
──いいわけ無いでしょ?……でも、
「……いいんだ。俺にとって、アイツがいたという存在証明はもう、それしか無いから」
仮面よりも動かない表情。本当に救いたかったのは、目の前で告解を聞く無邪気な少女の狩人で無く、家族とも言える程に同じ時間を過ごした相棒。然れどその相棒はもう居ない。
ならば、心だけでも時を戻し、救えないと解っていても、人差し指だけでもまた触れ合えるなら。虚空に手を伸ばし、あの時の感覚を再現し続ければ、彼女の存在は青年の中で完結しないのでは無いだろうか。
「…………もう、死んでるんだ。何度も何度も、さよならをしなければならなかった……それでも、約束をしたから。俺は、アイツを救わなければならない」
そう言った青年の表情は、仮面よりも動かない、「虚空」のような朧気さを抱えていた。
──私は、そんなことを望んでなどいないのに。それでも、貴方はきっと私を救おうとするのでしょう?
少女は、その仮面のような表情を見て、神──或いは、あったことも無い青年の相棒へ向けて、祈りを捧げる。或いは、誰に問うて良いのかすら解らない、生者の想いを推し量る、死人の代弁よりも愚かな行為かもしれない。
──嗚呼。死した相棒では無く、彼自身が救われて欲しいと私が願うのは、愚かなことなのでしょうか──?
〜〜〜
「おい、聞いたか?恐暴竜の狩猟依頼だけを受ける凄腕ハンターの話!」
「ああ知ってるぜ、男で剣士のクセに頭の防具だけ女性用のガンナー装備だっていう奴だろ?」
「ああ、その凄腕ハンターなんだが……どうも恐暴竜に喰われて死んじまったらしい」
「マジかよ!?」
少女がその噂を耳にした時、胸中に込み上げた感情は何故か「安堵」だった。
死が救済だとは思わない、それは死を選ばざるを得ない者への冒涜だから。
誰も彼の相棒の存在証明をする者はいない。然れどそれこそが、彼女の……そして青年にとっての救いなのではないか。少女はそう思わずにはいられなかった。
──私が。例え不本意だったとしても、貴方が最後に救った人間が。貴方の存在証明をしますから。だから、救われてください。
天に向かって小指を差し出す。死者の想いを推し量ることが愚かだとしても、死者の幻を追うことが愚かだとしても。
死者の願いを引き継いで進むことは、愚かでは無いと人間は信じているのだから。
救われた命で「生きる」ことで、新たな存在証明は始まる。