釣りバカ提督は今日も一人で。 作:匿名
「……はぁ」
ようやく机の上に置かれた書類を元あった場所から処理して、全て反対側に動かすことができた。いつもよりペースを上げていたからか、利き手の握力はもうぼったくりのUFOキャッチャー程度しかない。
「提督、今日は随分とお早いですね」
加賀さんが時計を見ながら言う。シンプルな壁掛け時計の短針がもうすぐ真上に着きそうな時刻だ。
いつもは大体夕方の少し前までかかることを考えると、加賀さんの言う通り、かなり早いことになる。
「ちょっと午後から用事があるんです」
「……釣りですか? 最近、
「いえ、釣りではなくて……でもアナゴですか。行ってみてもいいかもしれないなぁ」
アナゴだったら、確か去年作ったぶっこみ釣り*2の仕掛けが残っていたはずだ。奥の方にしまい込んでいたおかげか、あれは無事に保存できている。
「というか、なんでそんなこと知ってるですか? てっきり釣りには興味がないかと……」
「興味はありませんよ。ただ新聞に載っていただけですから」
加賀さんは瞬きもせず、淡々と答えた。
確かにここの酒保で売られている地方紙には、近辺の釣果情報が載っている。僕の場合はネットの速報を利用したり、釣り専門雑誌を読むのであまり活用はしていない。
「では、私は鍛錬がありますので失礼します」
「あ、お疲れ様です。今日もありがとうござい……」
僕のお礼を最後まで聞くことなく、加賀さんは扉を出て行ってしまった。やはり彼女にも嫌われているのだろうか。
ただこんな対応にはもう慣れてしまっている。何処かに、これはあたりまえのことと囁く自分がいた。諦めの笑みを顔にたたえ、僕は深く息を吐いた。
しばらくそのまま椅子にもたれた後、ゆっくり立ち上がって執務室から自室に向かう。昼食を取るためだ。
僕が昼食を食堂で取ることは少ない。昼食はどの時間帯であっても、誰かに遭遇してしまうからだ。鳳翔さんのご飯はいつも美味しい。だからこそ、僕がのそのそ行って、みんなのご飯を不味くしてしまうことは避けたい。
自室の冷蔵庫にはいつも冷凍食品が詰められている。適当にそれらから幾つか見繕い、電子レンジにかけた。暖かいご飯が食べれるだけ幸せだ。
流石に冷凍食品だけでは栄養が偏るので、コンビニで売っているサラダセットも用意してある。今日はツナフレークの入ったサラダを食べる予定になっていた。
「……ん?」
ふと、取り出したサラダに違和感を覚えた。
どことなく包装しているパックの蓋が歪んでいる。じっくりと目の高さに掲げて見てみると、やはり蓋とパックの間にいくつか隙間が空いているようだ。
「うわっ、なんだこれ」
顔に近づけた時に生臭い空気が顔に張り付いてきた。思わず手を離しそうになったが、床にこの臭いのついたものが散らばる方が酷いのでなんとか堪える。鼻が腐りそうな臭いだが、これを放っていくわけにもいかない。流し台の三角コーナーの上で、慎重に蓋を開けた。
中にはツナとレタスとトマトと……なんだこれは。
パックの底に黒の斑点があるピンク色の塊が入っている。周りにはそれから滲み出たのか、同じ色の汁が溜まっていた。
「……オキアミか」
底にある物体はオキアミの塊だ。おそらく、冷凍庫の隅に保存しておいたものだろう。ただどう考えても既に腐っている。黒みがあるのがその証拠だ。冷凍している限りはここまで腐敗することはないし、まずそれがサラダに入っているなんてこともありえない。なぜこんなことになっているのか。どう考えても答えは明白だった。
パックの中身を全て捨て、生暖かい冷凍食品はラップをかけてもう一度冷蔵庫に突っ込む。幸いにも他のサラダは無事で、臭いも残っていなかった。ただ、もう食欲はどこにもない。
フラフラとした足取りで自室を出た。
もう慣れていると勝手に思っていたが、どうやら間違いだったらしい。少なからず、僕はショックを受けている。竿はまだ修理がきく*3し、仕掛けは作り直せばまだ使えた。だが食事に手を出されるのは初めてだ。
僕にとってどちらも生活の一部。その両方が蝕まれ始めたとなれば、もう末期に近い。じきに毒でも入れられてしまうんじゃないのか。そうなれば、もう釣りはできなくなるし、みんなに認められる提督になるなんて夢も潰える。
焦りと不安と恐怖が入り混じり、ぐちゃぐちゃになった胸を引きずって僕は執務室に向かった。まだ少し先だが、赤城さんと一緒に基本戦術の勉強をする予定がある。それまでになんとか気持ちを切り替えたかった。執務室には基本誰も来ないし、あそこにはコーヒーもある。
「あれぇ、提督じゃーん。どうしたの、そんな顔して」
やっとの思いでたどり着いた執務室の扉に手をかけたところで、後ろから呼び止められた。何度も聞いた口調に、うなじに冷や汗が流れるのが分かった。
「風邪でも引いたの? ……あ、もしかして、あのサラダ食べた?」
言葉と裏腹に、声はいつもと同じように明るく心配の色は感じられない。
「……鈴谷さん、なんのことかな?」
「とぼけないでよ、分かってるってー。鈴谷だって悪いことしようとやったんじゃないよ」
振り返ると、そこには緑がかった目をした高校生くらいの女性がいた。
彼女は肩までかかる綺麗な髪をくるくると細い指で巻きながら、しゃがむようにして僕の顔を上目遣いで見ている。
「ただ、やっぱり釣りするなら魚の気持ちも分かる方がいいと思って、オキアミ? 入れといたの」
イタズラっぽく鈴谷さんが笑う。僕は何も言えない。ネコに追い詰められたネズミのように、ただ震えることしかできない。
多くの艦娘に僕はいじめられていたが、彼女は特に攻撃的な"イタズラ"をよくしてくる艦だった。例えば、暴力が絡むようなことだ。
「どうする? なんだったら今度はミミズでも食べてみる?」
生ぬるい吐息が首筋を襲う。味わうように、彼女がゆっくりと、さらに近づいてきた。後ろに下がるが、すぐに扉にぶつかる。
「あっ、今から持ってきてあげようか? それとも取りに行く? 一緒に裏の花壇行こうよ」
「……」
「なんか言ったらどうなの? ……あれ、もしかして泣いてる?」
彼女の指摘の通り、僕の目には涙が浮かんでいる。怖かった。何もできないでいることが、ただ怖かった。
「泣くほど嬉しいんだぁ。じゃあ他の子も連れて……」
「あの、鈴谷さん!」
横からかかった声に反応して、鈴谷さんは顔を離して振り向いた。まだ安心できる状況ではないが、ようやく空気が吸えた。
「あれ、潮ちゃん。どしたの?」
目だけをなんとか動かして、鈴谷さんの視線を追う。すると廊下の角から頭をひょっこり出している少女の姿が見えた。
「いえ、あの……こ、これから海上での連携訓練が……」
「あ、やばい。忘れてた……ありがと、潮ちゃん」
「い、いえ……し、失礼しました」
潮は顔以外を一度も見せることなく、そのままどこかへ去っていってしまった。
「あーあ、仕方ないけど行かないとなぁ。じゃ、提督また今度食べに行こうか」
「……」
「もう、やっぱなんも言わないじゃん。つまんなーい」
鈴谷さんは僕がうんともすんとも言わないところに飽きたらしく、そのまま背中を向けてきた。どうやら助かったらしい。ただ、傷痕なしでは済むわけもなかった。
「そーいえば、あのオキアミ手伝ってくれたの潮ちゃんだからー。じゃ、今度こそバイバーイ」
……とんでもない爆弾を置いていかれてしまった。
鈴谷さんが見えなくなってから、溶けるように僕はその場に座り込んだ。上手く足に力が入らない。荒れる呼吸で酸素を体中に送り込んで、無理やり働かせようとするが、動いてくれる気配はない。
座った拍子に帽子がずり落ちてきて、ゆっくりと視界を暗闇で包んでいく。
何も見えなくなったからか、先ほどの恐怖が頭に形を残しているのがはっきりと分かった。それ以上に、言い残された言葉が心に深く突き刺さっていた。
……今まで潮ちゃんは良くも悪くも、僕に接触してくることはなかった。
「あ、あの……私、人見知りで……ご、ごめんなさい!」
初めて彼女に会った時のことを思い出す。小さな肩を震わせて、口で空気を食べていた。一目見ただけでも、大人しい子なんだな、と分かるような、そんな艦娘だった。
今思えば、怖がられていたことを別にして、頼りない僕の指示を一番誠実に聞いてくれていたのは彼女だったし、イジメが始まったばかりの頃は彼女は僕のことを気にかける素振りを見せていた。
だから僕は彼女を信用しているということはなかったが、少なくとも警戒しないといけない相手とは一切思っていなかった。ただ、そんな彼女ですらイジメに加担しているとは……。
飼い犬までは行かなくても、今まで大人しかった通学路にいたネコに引っ掻かれたような気持ちだ。ただ、傷は自分が思うより深い。
落胆に呑まれて、僕はしばらく動けなかった。寄り掛かった扉の冷たさが、妙に肌に刺さった。
頑張ろうと決めた矢先にこれだ。気合を入れた最初のキャスト*4で、バックラッシュ*5を起こした気分だ。
「提督、大丈夫ですか?」
また聞き覚えのある声がした。ただ、恐怖は感じない。
帽子をゆっくりと上げると、心配そうな顔をした赤城さんがこちらを覗き込んでいた。
「何か、あったんですか?」
「いえ……ちょっとくらっとしちゃって」
赤城さんに無駄な心配をかけたくはない。彼女はただでさえ第一艦隊で戦闘に出ることも多く、それに訓練の指導も務めている。負担は大きい筈だ。彼女の肩には、僕への指導も既に含まれているだろう。これ以上、何かを課すわけにも行かない。
軽くズボンを払いながら立ち上がる。無事なことを伝えるために笑顔を取り繕った。しかし、彼女は微笑み返してくれない。表情を変えずに、僕を見ている。
「……提督、また、何かされたんですね?」
「な、何がですか?」
「笑顔が曇ってます。嘘は吐かないでください」
彼女はいつも穏やかというか、どこか抜けている雰囲気を醸し出しているのに、今はそれが嘘のように鋭くなっている。
「……その怖がり方は、鈴谷さんですね。何をされたんですか?」
「いや、だから何も……」
「とぼけないでください!」
当然赤城さんが大きな声で怒鳴るように言った。そして僕の胸ぐらを掴み、引き寄せる。先ほどの鈴谷さんと同じくらいの距離に彼女の顔が近づいた。
彼女の澄んだ瞳が、僕の視線を捉えて離さない。
「私は、あなたを信用しています。
初めてあなたに会った時、私はいい目をした人だと思いました。そしてその見立て通り、あなたはたとえ下手でも、どんなに失敗しても、やれるだけのことをやろうと前を向ける人でした。だから私はあなたがどこへ行っても、そこへついていくと決めました。あなたならこの戦争を終わらせてくれるかもしれない、そう思ったからです。
加賀さんが大破してしまったときも、あなたは真っ先に迎えにきてくれました。他の提督は、わざわざそんなことしてくれません。私も長くこの国に勤めてきましたが、あんなことまでしてくれる人は初めてでした。
……みんなはまだ、あなたの可能性に気づいていません。それどころか、あなたのことを酷く扱っています。私が彼女たちに注意をしようとしても、あなたは毎回止めました。悪いのは自分だからと、弱々しい笑みを浮かべて。そして、いつかあなたの目の色は変わってしまいました。
とてももどかしいんです! 本当のあなたを知って欲しいのに、あなた自身がそれを拒んでいるから。みんなにあなたのことを伝えたくても、それを止めるから。
だから、あなたが昨日、自分から『変わりたい』と言ってくれた時、どんなに嬉しかったことか……。
変わると決めたのはあなたです。私は全力でそれを応援します。変わるのは戦闘での頭の良さだけではありません。それ以外も変えないといけないと私は思っています。
……その一歩として、本当のことを言ってください。自分のマイナスな気持ちを隠す、あなたの悪い癖です。ここでの経験のせいで、艦娘を信じられなくなっているかもしれません。でも、私くらいには頼ってください。じゃないと、あなたはいつか孤独に死んでいきます。そう言い切れる自信があります。
だから、お願いだから、私のことも信用してください。そうしないと、あなたがどこかへ消えていってしまいそうなんです……」
叱るような彼女の口調はいつしか掠れ始め、目には大粒の涙を溜めていた。僕の目に浮かんでいたそれよりも、一回りも二回りも大きい。
胸ぐらを掴む手は、もう立てかけられているだけだ。
知らぬ間に、僕は傷つけられるばかりではなく、彼女のことを傷つけていたのだ。悔やんでも、悔やみきれない。
僕はそっと、赤城さんの両手を掴んだ。
「ごめんなさい、赤城さん。そして、ありがとうございます。あなたの言葉で、ようやく本当に目が覚めた気がします。昨日も言いましたが、僕、頑張ります。絶対に成長してみせます。
今感じているこの気持ちを、僕は口が達者ではないので上手く言えませんが、きっと嬉しいんだと思います。だって、人生で一度会えるかどうかの美人さんに、こんなにも信用してもらえているんですから」
「なんですか提督、ふざけないでくださいよ……」
赤城さんが顔をしかめて横を向いた。頬が少し赤くなっている。
「ふざけてません。本当に思ってます。ただ、イジメのことは僕の問題です。だから僕自身で解決してみせます。それができたとき、初めて成長できたと言えると思うんです」
「でも……」
「僕は大丈夫です。ただ、もし本当に辛くなったら、その時は思いっきり頼らせてもらいますから、覚悟していてくださいね。僕も赤城さんのことを信頼しています」
「……そう、ですか」
赤城さんは口角を少し上げながらも、やれやれと言いたそうな渋い顔をした。
「分かりました。提督を信頼しているので、今の言葉も信じます」
「ありがとうございます」
手を握り合ったまま、じっと見つめてあっていたが、途中でどこかおかしくて、思わず吹き出してしまった。赤城さんも同じことを思ったのか、肩を縦に震わせている。
「……それじゃあ、そろそろ勉強、始めましょうか」
涙を拭いて、赤城さんが手を差し出してきた。
僕は頷き、その手を取る。
「目の色、戻りましたね」
部屋に入る瞬間、赤城さんは溢すようにそう言った。自分ではイマイチ分からないが、そうだったら嬉しい。
気合を込めて、頬を強く叩いた。