*注意*この物語はフィクションであり、実在の地名、人物、動物が出てきても我々の生きる現実世界とは一切無関係である。いいね?*注意*

 一九五〇年代の六月三日、金剛が上下する気温の変化にうんざりしているとき、多摩動物公園から飼育員のかばんちゃんが現れた。何でもオープンしたばかりの多摩動物公園で飼育されているサーバルの檻で、男性飼育員の死体が発見されたという。
 警察は飼育員がサーバルに襲われた事故として処理、サーバルには速やかな殺処分が下された。しかし多摩動物園の園長と、かばんちゃんはサーバルの仕業であることは信じられないとして、金剛へ調査を依頼しに来たのだった。

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 ようこそ、金剛探偵事務所へ。
 私は金剛探偵事務所で助手をしている五月雨っていいます。
 深海棲艦との戦いも終わって、退役した金剛さんは、なんと女流探偵として東京に並ぶ者が無い名探偵として活躍しているんです。
 私も金剛先生に付き合って、様々な事件に出会いました。
 ところで皆さんは『冤罪』というものをご存知でしょうか?
『冤罪』とは、『無実にも関わらず犯罪者とされてしまう』という意味の言葉です。
 恥ずかしながら、私は金剛先生と仕事をするようになってから、はじめてこの言葉を知りました。
 金剛先生が扱ってきた事件の中でも、こうした『冤罪』事件は頻繁にあります。金剛先生が真犯人を見つけてくれなかったら、彼らはいったいどうなっていたことでしょう。当事者でない私ですら、そう考えると気が遠くなるのに、『冤罪』をかけられた本人にしてみればまさに死ぬような思いに違いありません。それだけに、この『冤罪』を、私は許すことが出来ません。
 今回の物語も、そんな『冤罪』が絡んだ事件なのですが、特筆すべき点が一つだけあります。
 何と『冤罪』をかけられたのは物言わぬ動物なのです!
 ある意味で、これ以上に『冤罪』をかけるに相応しい存在がいるでしょうか? 動物は自身の潔白を主張することも、また、裁判で弁護士をつけることも適いません。
 果たしてどんな動物が、どんな『冤罪』を着せられたのでしょうか?
 金剛先生は、いかなる方法で『冤罪』を晴らしたのでしょう?
 さらに、事件の奥深くに潜む驚愕の事実とは?
 戦艦探偵・金剛~サーバルの濡れ衣~、お楽しみください!


戦艦探偵・金剛~サーバルの濡れ衣~

 五月下旬から大きく上がった気温は、二十二日をピークに再び下がり始めると、六月に入ってまた、何かの間違いのように一気に上昇を始めた。二十二度から一気に三十度、そして再び二十三度まで下がるような、あたかもテニスのボールを右へ左へと打ち返しているような気候変動に、金剛はもとより世の人々もうんざりしていた。ラジオでは五月病ならぬ六月風邪というものが流行っているらしい。要するに、誰も彼もが温度の上がり下がりに、体も付いていけなくなっているのだ。

 こうなったらさっさと梅雨に入って、寒かろうが熱かろうが温度計の針に一服してもらいたいところである。体の調子もそうだが、着る服にしたって冬物を仕舞うタイミングが見つからない。

 六月三日、その日も金剛は何だか疲れたような、だるい体を三階から引きずって二階の事務所へ出勤し、所長の机の椅子にどっかりと腰を下ろした。日差しは快晴で、今日は少し汗ばむ陽気になりそうだった。六月に入ってまだ三日、梅雨の足音は未だ遠い。

 机の上には今日の新聞が置かれていた。毎日の朝刊を金剛の机に置くのは、助手である五月雨の役目であったが、彼女だけはこの気候変動に対して無関心を貫いて、平常運転を行っていた。起きても最近の金剛のようにぼんやりすることも無く、テキパキと朝食とモーニングティーを淹れて事務所周りの清掃を済ませたようだった。姿が見えないことから、給湯室にでもいるのだろうか。

 五月雨の名前は梅雨の別名であるそうだが、この天気を見る限り、気候の方でも彼女のことを無視しているようだった。

 ま、とりあえず朝刊でも読むネ。

 そう思って金剛が新聞の一面を開くと、

『金剛盗まれる』

 という文字がデカデカと踊っていたので、彼女は大いに驚いた。

 盗まれる? 私、誘拐でもされたのデスカ?

 しかし冷静によく見てみると、それは、

『金剛盗まれる』

 ではなく、

『金剛石盗まれる』

 であった。

「はぁ~、びっくりさせるネ」

 大きく息を吐いて、金剛は新聞を置いた。どうもこのよく分からない気候の変化のせいで、金剛の鋭敏な観察眼も若干、陰りが生じているらしい。改めて記事を要約すると以下の通りである。

 

 

 資産家の仲手川義彦氏の自宅から三十カラットの金剛石が盗まれたことが判明した。

 五月三十一日、南米へ長期の出張へ赴くことになった仲手川氏は、かねてより自宅の金庫に保管してあった金剛石を用心のためにN銀行へ預けることにした。

 午後二時にN銀行の職員と二名の警備員が専用の輸送車両で到着し、金剛石を受け取って銀行へ向かった。

 しかしその途中、サングラスとマスクで顔を隠し、拳銃を持った女が現れ、信号で停止した輸送車両へ襲い掛かった。女はリヴォルヴァ―拳銃を三発、輸送車の車体に発射した後で金剛石を要求したが、通りがかった二人の警官とパトカーによって取り押さえられた。

 その後で二人の警官は、女に手錠をはめてパトカーの後部座席に押し込めた後に、銀行職員と警備員に、金剛石の輸送計画が強盗団によってばれていることを告げた。念のために自分たちが金剛石を預かって、輸送車両は後から別のルートを走るように地図を渡した。その際、警官の一人は終始、車の中にいて顔は見えなかったが、もう一人は目撃者の証言から似顔絵を得ることが出来た。

 銀行員は言われた通り、そのルートを辿って銀行へ到着したが、果たして警官は到着しなかった。道が混んでいて遅れているのだろう、と思った銀行員はそのまま夜まで待ったところで異変に気が付き、警察署に問い合わせたところで事件が発覚した。二人の警官は偽物であり、女の仲間であったのだ。

 現在、警察は総力を挙げて三人の身柄を捜査中である。

 なお、盗まれた金剛石は通称『サンドスター』と呼ばれ、一八五八年に原石が南アメリカのプレミア鉱山で発掘され、値段は少なくとも一千万円(現在の貨幣価値で約二億円)はするという貴重なものである。この宝石は、元々イギリスのシーザーウッド伯爵が所有していたものであった。しかし一九三五年に伯爵が、彼の投資していた南米における石油事業において、会社を倒産させかねない大きな損失を被ったことがあり、その際に仲手川氏が損失を肩代わりしたことから、引き換えに譲り受けたものである。

 

 

 同じ『金剛』の字が冠せられた宝石に対し、金剛はどこかシンパシーを感じながらも、一方で強盗のユニークな手法に関心もしていた。かなり計画的な犯行であるから、犯人自らが言うように輸送計画がどこからか漏れていたのだろう。仲手川氏がどの銀行に預けるかは予測しずらいから、スパイを放つとすれば銀行側ではなく、仲手川氏の側にいるのだろう。女中の一人が事件後に姿を隠していたら、まさにそれだ。

「ふーむ、三十カラットの金剛石ネ………一体、どれくらいの大きさカナ? 五月雨はどれくらいだと思いマース? ちなみに一カラットの重さは二百ミリグラムデース!」

 給湯室へ呼びかけるが返事は無い。そもそもさっきから給湯室にいるにしては、何の物音も気配も無かった。

「五月雨ー?」

 金剛は立ち上がって給湯室の中を覗き見る。

 いない。

 トイレを探す。

 いない。

「五月雨ー!」

 金剛が机の後ろにある窓から下を見下ろすと、果たして五月雨はそこにいた。建物のオーナーであり、ビルの一階で書店を経営する大淀も一緒である。通勤ラッシュも一段落したのか、道行く人影も少々、まばらになっていて、道端では靴磨きの少年が暇そうにあくびをしていた。

「はーい?」

 金剛の声を聞いて五月雨が返事をしながら上を向いた。

「そんなところで何してるネ?」

「フーちゃんに餌を上げてるんですよ」

「フーちゃん?」

 五月雨が立ちあがって体をずらすと、五月雨の小さな影から、更に小さい影が出てきた。そこにいたのは、燃えるようなオレンジ色の地毛に、虎の様な黒い模様を浮かべたネコであった。毛の長さは短く、前脚からしっぽの先至るまで美しい曲線美をしていることから、毛並みと合わせてエジプシャンマウの雑種らしい。首輪がないところを見るとどうやら野良猫で、五月雨が離れるとすぐにまた近づいて足へスリスリと体を擦り付け、尻尾を絡ませるのが愛らしかった。

 なるほど、最近、五月雨の足元にオレンジ色の毛が付いているのはそういうわけだったんデスネー。

 金剛が納得していると、五月雨は手を振って、

「先生、先生もフーちゃんと遊びませんか? 可愛いですよ!」

「何言ってるネ五月雨。もう仕事の時間ヨ。早く事務所に上がってくるデース」

「どうせお客さんが来るまで新聞読むか、紅茶飲むかしかしてないでしょう。フーちゃんと遊んでた方が、やや建設的ですよ」

「ここで待つ人間がいなかったら客が来ても分かんないデース! とにかく仕事の時間になったら、暇でも事務所にいるのデース! それが社会の歯車たる社会人の勤めなのデース!」

「社会の歯車………先生の口からそんな言葉が出るとは………」

 五月雨がそう言うと、大淀も笑って、

「明日は槍でも降るのかしら?」

 と言った。

「うぐぐ………」

 正論を言われているのにあの二人の態度はなんなんデース! 仕事している時間に事務所の前で猫と戯れてたら、普通の会社だったら怒られるヨ! 大淀も真面目に店番するデース! こんなんじゃ来る客も来なくなるネ!

 金剛が歯ぎしりをしながらそんなことを考えている時だった。一人の女性が五月雨と大淀のところへ近づいてくる。服装は赤いシャツに短パン、髪はウェーブがかったボブカットで、その上にクリーム色の探検帽をかぶっていた。背中には大きなかばんを背負っていたが、大きさの割に入っているものは少ないようでブカブカに背中から垂れ下っている。格好もそうだが胸もあまり大きくなく、そのせいで遠目には男性か女性か判断が迷う部分があったが、歩き方や細かい仕草を見る限りは女性らしさが見える。金剛の位置からは表情が見えないが、近づいてくる前に意を決するような間があったところを見ると人見知りな感じがした。

「あの~」

 頼りない、か細い声で彼女は五月雨たちに声をかけた。すると直後に、五月雨の足に絡みつく猫を発見して、

「うわぁ、可愛いですね!」

 と、黄色い声を上げた。

「でしょう? フーちゃんって言うんですよ」

 五月雨が自分のことでもないくせに自慢げに言うと、猫は、

「にゃーん」

 と媚を売るような声を出して、早速女性に人懐こく擦り寄っていった。これが野良猫のしたたかさである。愛想がよくなければ、人間の町で生きていくことは出来ない。

「わー」

 女性は夢中で猫を撫でる一方、金剛は女性が言いかけた、

「あの~」

 の続きが気になってしょうがない。直接聞こうにも単に道を聞いただけだったら、と考えると階段を降りるのが何だか面倒くさい。かといって上から声をかけたら、びっくりさせてしまうかもしれない。

 早くたずねるネ五月雨!

 と心の中で檄を飛ばすが、そんな金剛の心中を知ってか知らずか五月雨は子供を見守る母親のように、猫に暖かな眼差しを向けるばかりであった。

「ところで、何か御用があったようにお見受けしましたが」

 結局、質問の端緒を開いたのは大淀であった。大淀に言われると女性は、

「ああ、いけない。えーと、この近くに金剛探偵事務所というものがあると聞いてきたのですが………」

「ここデース!」

 女性の一言を聞いて、金剛は我慢できずに大声を出して、上から大きく手を振った。それを聞いた女性はびっくりして尻もちをつくと同時に、金剛を見つけた。金剛はそんな女性の様子などお構いなしに、

「金剛探偵事務所はここデース!」

「すいません」

 と、代わりに謝って女性を助け起こしたのは五月雨だった。

「うちの先生、ちょっと変わってて」

 そうしている間にも金剛は、

「何してるネ! カモン!」

 と騒ぐのであった。

 

 女性は五月雨に連れられ、おずおずといった様子で事務所の中に入り、ソファーへと腰を下ろした。金剛も同じく女性の前にあるソファーへテーブルを挟んで腰を下ろす。五月雨は紅茶を淹れるために給湯室へ入り、改めて女性と金剛は一対一で向き直ることになった。

 改めてみると、女性は童顔で年齢は二十歳を超えていないのではないかと思われた。胸は無いが、体格は痩せぎすと言うわけではなく、手足にしっかりとついた筋肉から、それなりに体力がありそうだった。

「あの~」

 無言のまま観察を続ける金剛に、女性が恐る恐る声をかけると、それで金剛は自分の癖から我に帰った。それから女性がまだ帽子とかばんを背負ったままであることに気が付いて、

「帽子とかばんくらい横に置いたらどうかネ」

 と言った。

「す、すいません。失礼でしたよね!」

 金剛の言葉を叱責ととらえた女性は、慌てて帽子と鞄をとってソファーの横に置いた。

「ああ、いや、別に怒っているわけではないデース。ただ、暑いだろうと思ってネ」

「そ、そうですか、すいません!」

 うう、会話の歯車がズレてマース………。

 そこへティーポットを持った五月雨が現れた。五月雨の姿を見ると、女性も少しほっとした様子になったので、金剛は少しだけ悔しく感じた。

 やっぱり、一緒に猫と遊んだ方が好かれるのかネ。

「今日はアッサムですよ」

 と、五月雨は紅茶をカップに注いで女性に差し出す。

「はい、どうぞ。えーと、そういえばまだお名前を伺っていないですよね?」

「ありがとうございます。あ、僕は佐原今子って言います。でも、みんなからは『かばんちゃん』って呼ばれています」

「それは何故デース?」

「実家がかばん屋なので」

 と、言ってかばんちゃんはカップを受け取る。

「そうですか、私は五月雨って言います」

「所長の金剛デース。一つよろしくお願いするネ、カバンチャン!」

「もう、先生ったら、それはあだなの方ですよ」

 五月雨が言うと、かばんちゃんは、

「いえ、いいんです。僕も本名よりそっちの方が慣れてるんで。五月雨さんも、そう呼んでも構いませんよ」

 自己紹介が終わったところで、金剛は早速本題を切り出した。

「さて、多摩動物公園の飼育員が、我々に一体どんな相談をしようというのデース?」

 そう言われてかばんちゃんはギョッとした表情を作る。

「驚くことじゃありまセーン。特徴的な帽子と半ズボンの服装は、真新しいがサイズがぴったりと言う感じではない、恐らくは既製品の制服デース。その赤いシャツは自前のもののようですが、すると帽子と半ズボンの整合性が取れません。おそらくは普段はその上にもう一枚作業着を着用するが、今日は出向くのに暑いから取ったのデース。さて、探検帽を制服として用いる可能性がある職業とすれば、東京では上野公園か、探検家を除けば最近オープンしたばかりの多摩動物公園以外にありえまセーン。更に多摩動物公園は上野公園の四倍もの敷地面積を生かした無柵放養式展示を採用しており、サファリパークのイメージを押し出していることを考えると、従業員に探検家のような制服を指定していることは十分考えられマース」

 金剛はここぞとばかりにかばんちゃんを飼育員と判断した根拠を述べていくが、かばんちゃんはその半分も頭に入っていないような顔をして、

「す、すごいですね」

 と、引き攣った顔で感想を述べるにとどまった。

「動物園の飼育員さんなんですか?」

 五月雨が念のために確認すると、かばんちゃんは首を縦に振って肯定した。

「それで、要件は何ネ?」

「それは………」

 かばんちゃんはためらいがちに視線を右左に泳がせて、口ごもった。金剛と五月雨は焦らずにじっと、かばんちゃんの次の言葉を待つ。やがてかばんちゃんは意を決して言った。

「うちの動物園で死亡事故が起きてしまったんです。昨日まで警察が調べていて、このことはまだ新聞にも出ていませんが」

 開園したばかりの動物園で死亡事故とは穏やかな話ではない。かばんちゃんを口ごもらせるには、十分な説得力がある。

 しかし。

「動物園の死亡事故は珍しくないネ。ゾウに踏みつぶされる、クマに引っかかれる、ライオンに噛まれる、ありふれた話デース」

 金剛が言うとかばんちゃんは頷いて、

「はい。ですが、何と言うかこの事故は、ちょっと妙なんです」

「妙?」

 金剛はソファーから背中を放してかばんちゃんの方へ身を乗り出す。

「詳しく話して下サーイ」

 

 かばんちゃんが二人に語って聞かせた内容は以下の通りである。

 六月一日、早朝の午前六時二十五分、多摩動物公園へ出勤してきたかばんちゃんは、担当であるチーター、ライオン、サーバルの世話をするためにそれぞれ順番に檻を回っていた。無柵放養式展示を取り入れている多摩動物公園とはいえ、肉食動物はさすがに他の動物園と同じく、檻に入れての展示を行っていた。肉食動物は来園客が普段、動物を目にする檻と、閉演した後で動物が眠るための寝室の小屋に分かれている。かばんちゃんはまず小屋にいる動物に餌をやり、来園客が動物を見に来る檻の清掃をし、それから各動物たちの健康状態をチェックをして小屋から出すのだ。

 ところがこの日、中央管理棟で管理しているはずのサーバルの鍵が無くなっていたのだ。かばんちゃんは首を傾げた。昨日、確かに鍵をフックにかけたのを覚えていたからだ。

 もしかすると、それは単なる気のせいで昨日、サーバルの小屋へ忘れて来たのだろうか。そう思ってかばんちゃんがサーバルの寝室であるコンクリートの小屋のドアを確かめると果たして鍵はかかっていなかった。中へ入ると果たして敷き詰められた寝藁にサーバルはいなかった。よもや脱走したかとかばんちゃんがサーバルの檻へ足を踏み入れると、そこにはサーバルと、檻の中で倒れ伏す男性飼育員の姿があった。

 かばんちゃんはすぐさまサーバルを運搬用の檻に入れ、園長に報告。それから警察と救急車が到着し、檻の中で倒れている男性の死亡を確認した。

 死亡した男性は状況から見て飼育員の瀬留里安次郎とされた。状況、と言うのはかばんちゃんが発見した際には血まみれで分からなかったが、遺体の顔面はサーバルによってかじり取られて判別が付かなかったからだ。

 そこで警察が動物園で働く従業員を確認したところ、飼育員の男性では唯一、安次郎の身元が判明しなかったこと、従業員の証言から安次郎と背格好が似ていることなどから、遺体が彼であると断定されたのだった。

 最終的に警察は安次郎の死が、サーバルの手によるものと判断した。

 

「しかし、あなたはその判断に疑問を感じているネ?」

 金剛が言うと、かばんちゃんはこくりと頷いて、

「はい、僕はサーバルちゃんが人を襲って殺すなんて、とても出来るとは思えないんです。僕だけじゃなくて、園長やみんなもそう思っているんです。もしかすると、別の可能性があるんじゃないか、って。そう警察に言ったら『そんなに言うんなら、こちらに頼んで見たらどうです』と言われて、この事務所を紹介されたんです。それで僕が代表でこちらへ………」

「あの~すいません」

 五月雨が手を挙げて言った。

「そもそもサーバルって、どんな動物なんですか?」

「ふむ、確かに聞きなれない動物デース」

 金剛は立ち上がって本棚から百科事典事典を取り出し、さ行のページをめくった。しかし『サーベル』という単語はあっても『サーバル』という動物は載っていなかった。

「うーん、この百科事典には載ってないデース」

「サーバルはあまり有名な動物ではありませんから」

 かばんちゃんは少し残念そうに言って、

「サーバルというのは、体長百センチほどの、少し大きい猫だと思って下さい。毛皮はヒョウに似て黄色い地毛に黒いつぶつぶがあって、大きい耳が付いているんです」

 かばんちゃんの説明を聞かされても、正直なところ金剛と五月雨にはあまりピンと来ない。だが体長百センチというと、大きさは五月雨よりも小さくなる。大きさからすると、確かに人間を襲って殺すのは難しいように思えた。

 だが、いくら体が小さいとはいえ狼だって大型の獲物を襲って殺すくらいのことは出来る。動物の膂力を侮ることは決して出来ない。ところがかばんちゃんの話によれば、サーバルはそれに加えて子供のころから人と暮らしているから人にとても慣れているのだという。

「なるほど」

 金剛は頷いて百科事典を本棚へ戻すと、再びソファーへ腰を下ろした。

「ところで、安次郎さんは何故、サーバルの檻へ入って来たのデース? 一体いつ? どうして? 何故、サーバルは寝室から解き放たれて檻へいたネ?」

「はい、そこも釈然としないんです。安次郎さんはオランウータンとシロテナガザルの飼育担当をしているはずなのに………飼育員は担当外の動物とは基本的にあまり関わらないんです」

「警察はそれに対してどう考えているんです?」

 五月雨がたずねると、

「はい。安次郎さんは、どうやらだいぶお酒を飲んでいたらしくて、その、単純に酔っ払って檻の中へ入ったんじゃないかと」

「動物園のセキュリティはどうなってるんデース?」

「セキュ―――?」

 かばんちゃんが金剛の言葉に首を傾げると、

「動物園の警備体制のことです。サーバルの檻の鍵は、どのように管理されていたとかですよ」

 と、五月雨がフォローした。するとかばんちゃんは納得したように頷いた。

「動物の小屋の鍵は、入り口近くにある中央管理棟で一括管理しています。事件が起こる前日も、僕がサーバルを寝室へ移して小屋に鍵をかけて、鍵を管理棟まで預けたんです。でも、管理棟に入れる従業員なら、誰でも鍵は持ち出せるので、そういう点ではあまり警備は厳しくないかもしれません。動物の檻に入ろうって泥棒はそういませんから」

「動物園の閉園時間は?」

「午後五時です。だから僕も五時には小屋の鍵を閉めて、管理棟で日誌を書いて、打ち合わせをして六時には帰りました」

「すると、夜になると完全に無人となる?」

「はい、いえ、そういうわけじゃありません。例えば、動物が病気になったり、妊娠して出産となると夜まで付き切りになって看病しなくちゃいけませんから。あの日はトナカイに赤ちゃんが生まれそうだったので、担当の夏目未来さんと獣医さんが徹夜で頑張っていました。未来さんの話では、簡単な夕食を摂るために一旦、管理棟戻ると、サーバルの鍵は確かに午後七時まで中央管理棟の鍵箱に下がっていたのを見たそうです」

「どうしてミライ=サンは鍵なんかみたネ?」

「鍵箱は管理棟の事務所の入り口のすぐ真横に合って、みんなつい癖で見てしまうものなのです。それに未来さんの担当であるトナカイの檻の鍵は、サーバルの鍵の真下にあるので、それで分かったんです」

「そうですか。あの、ちょっとお訊ねしますけど、多摩動物公園は無柵放養式展示をしているんですよね? 放し飼いとは違うんですか?」

「ああ、はい。柵が無くて、大きな堀で仕切ったりしているんです。ですから、トナカイのエリアに入るには管理者用通路を使って裏に回らないといけないんです」

 かばんちゃんの説明で五月雨は納得する。

「つまり、酔っ払った瀬留里安次郎は午後七時以降に職場に戻ってサーバルの鍵を取り、檻の中へ侵入してサーバルに襲われた、ということネ?」

「はい、警察はそう思っているみたいです」

「安次郎の直接の死因は何デース?」

「さすがにそこまでは教えてもらえませんでした」

「ふーむ」

 金剛は腕を組んで天井を睨んだ。

「お願いします金剛さん!」

 かばんちゃんはテーブルに擦り付けんばかりに頭を下げ、

「このままだと、サーバルちゃんは保健所の指導で殺処分されてしまいます! どうかサーバルちゃんを助けて下さい!」

 その声には涙と血が滲んでいた。それを聞いて金剛はただ一言、五月雨に告げる。

「五月雨、契約書を持ってくるネ」

 

 午前九時過ぎに東京駅から電車で中央本線に乗り、新宿から京王線へ乗り継いで高幡不動駅を下り、タクシーを拾って多摩動物公園に辿り着いたのは十一時頃だった。金剛と五月雨、そしてかばんちゃんは事件の起こったアフリカ園はサーバルの檻へと向かった。

 事件のせいだろうか。多摩動物公園は門に『臨時休業』の白地に赤い文字の看板を掲げて閉園していた。

「あれ? 閉園してますね?」

 五月雨が言うと、かばんちゃんが、

「はい。事故があったので、警察の捜査の為と、警備体制の見直しで昨日、今日は臨時閉園になっているんです」

 と答えた。すると門のところに、丁度、今来たところらしい子供連れの親子がいた。父親は臨時閉園の看板を見て、

「ああ、今日はやってないよ。だからこんなに空いてるんだな」

「でも今日は開園って広告には書いてあるよ?」

 母親が言うと、父親は、

「だから臨時なんだろう」

「どうぶつえん、やってないの?」

 まだ小学校にも上がってないような小さな女の子が、切ない目で父親を見る。

「そうみたいだね」

 父親が言うと、女の子はほっぺを膨らませて、

「やだ! どうぶつさんみたい! みるまでてこでもうごかないぞ!」

「難しい言葉を使うようになったな………しかたがない、ちょっと遠いけど上野動物園まで行こうか」

 傍から聞いてみれば微笑ましい親子の会話に聞こえるだろう。事実、金剛と五月雨はやんわりとした気持ちになったが、ふと金剛が見るとかばんちゃんの表情は暗かった。飼育員からすれば、来園を楽しみにしていた客をがっかりさせて申し訳ない気持ちになっているのだろう。しかも原因が自分の担当する動物の檻で起きた事件とあれば、なおさらである。

「さっ、いくネ、カバンチャン」

 金剛に肩を叩かれた拍子に魂が戻ったのか、

「は、はい!」

 と、かばんちゃんは二人を園内へ案内した。

 金剛と五月雨は、まず園長に挨拶へ行くため中央管理棟へと向かった。そもそも園長はかばんちゃんを金剛探偵事務所へ行かせた張本人であり、本来の依頼主と言っても過言ではない。現場を捜査するため、そして契約書にサインをしてもらうためにも一度、会う必要があった。

 園長と言うからには専用の部屋でふんぞり返っているものと金剛は考えていたが、意外にも園長の部屋は他の飼育員と同じ部屋で、デスクを並べて仕事をしていた。と言っても他の飼育員は全て動物の飼育のために出払っているらしく、園長は広い部屋の中で黙々と書類仕事をしている。

「園長、金剛さんたちを連れてきました」

 すると園長は本や書類の並んだ机からひょいと顔を上げた。園長は二十代後半らしい女性であった。髪は肩を越すほど長く、頭の上で白いリボンによってある程度まとめられていた。外見に頓着しない性格のか、あるいは地毛なのか分からないが髪にはくせがついていて、あまり櫛を通していないようだった。服装は紫色のシャツに洒落た黒いサブリナパンツを履き、その上から白衣を羽織っているところをみると飼育員と言うよりは獣医か学者のように見えた。

 いや、学者カナ? 彼女が獣医なら『トナカイの出産に獣医を呼んだ』はずはないネ。

 金剛はそう考えながら、園長の下へ歩み寄る。

「はじめまして、金剛デース!」

 そう言って金剛が握手を求めると、園長もこれに応じて、

「はじめまして、私はここの園長をしている加古初美と言います」

「こっちは助手の五月雨デース」

「はじめまして、五月雨って言います」

「ああ、どうぞはじめまして」

 五月雨と加古園長が挨拶をしている間に金剛は素早く加古園長の机の脇にある棚を盗み見た。そこには大学の動物学博士号の証書が無造作に置かれていた。

 ふむ、やはり学者の方ネ。

 それから何食わぬ顔で加古園長の方へ向き直り、

「カコ=サン、だいたいの事情はカバンチャンから聞いたネ。しかし、あなたの口から直接お聞きしたいことがいくつかありマース」

「はい、どんなことですか?」

「死んだアンジロー=サンのことについてです。彼はどんな人物だったのデスカー?」

「はい。ちょっと朴訥でしたけど、真面目な方でしたが」

「出身はどこか聞いてるネ?」

「ええ、職員名簿を作るときに住所から経歴まで書かせましたから」

 それによると瀬留里安次郎の経歴は以下の通りである。

 安次郎は元々、東京の生まれであるが幼い頃に両親と共に中国の方へ渡った。ところが安次郎が十四歳のときに両親が流行り病で死亡し、本土へ引き揚げたという。

 本土に引き上げた彼は、引き揚げ船に偶然乗り合わせた男性と親しくなり、そのつてで岩手県の牧場に住み込みで働き始めた。しかし四年後、牧場の経営が破綻して職を失った彼は、故郷である東京へ戻ることになった。動物の世話をしてきた彼は、その能力を東京でも生かそうと、上野動物園へ就職したのだという。

「この多摩動物公園の開園に際して、新しい職員を育てるのに各地で半年から一年の研修を受けさせていたのだけれど、安次郎くんはベテランだからみんなをもっと引っ張って欲しかったのに」

 加古園長がそう言って、残念そうに机の一つを見た。雑然とした机の中で、それだけが綺麗に整理整頓されて、机の真ん中に丸い焼香台と男の写真が黒縁の写真立ての中に飾られていた。どうやら、あの机が安次郎が生前使用していたものらしい。安次郎はあまり写真を残さなかったようで、集合写真を大きく引き伸ばしたものが使われていた。

「園長さん!」

 金剛が言った。

「アンジロー=サンを襲った本当の犯人、そしてサーバルの無実は私が必ず証明してみせマース! 戦艦に乗ったつもりで安心していてヨ!」

 金剛の頼もしい言葉に、かばんちゃんと加古園長が感動したように顔を輝かせていると、すかさず五月雨が、

「ああ、いけない」

 と、自分の鞄から契約書を取り出して加古園長に渡す。

「仕事の前にこれに署名と印鑑を下さい」

 五月雨はそう言って経費と契約料など諸々の注意を説明した。

「わかりました」

 と、加古園長は契約書を一通り読むと、サインと印鑑を押した。

「では、これで契約成立です」

 五月雨は丁寧に契約書を封筒に入れて鞄にしまう。

「さて、早速ダケドまずはサーバルの檻を調べるネ。カバンチャン、案内するデース」

「はい」

 かばんちゃんは頷いて、

「園長はどうしますか?」

「私も行きたいところだけど、まだ仕事が残ってるし遠慮しておくわ。何か分かったら知らせて頂戴ね」

 そう言って園長は自分の机に戻った。

 かばんちゃんは金剛と五月雨を連れて、部屋の入口のところにあるサーバルの檻の鍵を取って部屋の外へ出た。

 サーバルの檻は動物公園の入り口から真っ直ぐ進んで、最初の交差点を右に進んだところにあった。一口で言うと簡単だが、上野動物園の敷地面積の約四倍と言う数字はだてではなく、金剛と五月雨は結構な距離を歩くことになった。夏日の炎天下と言うこともあり、これはかなりの苦行となった。

「こんなに歩くと、奥の方にある動物を見に行くのも大変じゃないですか?」

 五月雨が思わずこぼすと、かばんちゃんは、

「ええ、ですから普段は園内でシャトルバスが運行しているんです。今日は休園ですからお休みなんですけどね。飼育員だと、自転車を使ったりもします」

 と、答えた。言われてみれば道幅はかなり広く、車線も引かれている。五月雨はてっきり資材搬入用の車両が使われるものと思っていたが、かばんちゃんの話からすると普段から頻繁に車両の往来があるようだ。

 近くに池がある交差点を右に曲がって、三人はアフリカ園と呼ばれる区画に向かった。文字通り、この区画ではキリンやアフリカゾウといった、アフリカの動物を展示しているという。サーバルの檻は入って右端にある、チーターの檻のとなりに位置していた。

「あれです」

 かばんちゃんが檻の中を指さした。確かに彼女が言う通り、サーバルは体長百センチほどの大きさで、猫より一回り大きいという程度である。毛皮は黄色い地毛に黒いつぶつぶがあり、ヒョウよりはチーターによく似ていた。耳は大きく、半楕円形の形状をしている。金剛はイメージからてっきり、ヒョウやチーターのような顔を想像していたが、サーバルの顔立ちはそれらよりももっとマイルドで、やはりほとんどイエネコに近いものだった。

 サーバルの檻の中は、出来るだけ自然の状態に近づけようとしているせいか小さな木や草が生えていた。また、運動不足解消のためか、平均台を高く、大きくしたような木のオブジェが檻を横断するように三つ連なって設置されている。金剛と五月雨が来た時、サーバルは草むらで寝そべっていたが、二人の姿に気が付くと高さ二メートルほどの台の上へ逃げるように跳躍した。どうやらサーバルは相当なジャンプ力を持っているらしい。更に飛び上がるときに見せた体は細く、長く、しなやかで、モデルのような美しさがあった。金剛と五月雨は、世の中にこんな動物がいたのかと、少しだけ見惚れてしまった。

「こっちです」

 かばんちゃんがサーバルの檻の横にある従業員通路へ続く金網の扉の鍵を開けた。その声で金剛と五月雨は我に返り、かばんちゃんの後に続いて通路へ入った。かばんちゃんの持つ鍵は、鉄の輪に鍵が何本か繋がって束になっており、鍵のかかった扉がいくつもあることを示俊していた。

 従業員通路はコンクリートの床だけで壁も天井も無く、サーバルの寝室の小屋や檻がある以外は木々が広がっているばかりで、どことなく家の裏庭といった雰囲気を醸し出していた。

 かばんちゃんがサーバルの寝室の小屋の鍵を開ける。

「表にある檻へどう行くネ?」

 金剛がたずねる。

「この小屋から専用の出口があります」

「他に出入り口はあるデース?」

「いいえ、ここからだけです」

 かばんちゃんが小屋の入口を開けた。サーバルの体臭らしい、獣の臭いがむわっ、とドアから立ち込める。

 ここで鼻をつまむのも失礼かと思い、金剛と五月雨は一瞬、息を止めてサーバルの寝室へと入った。

 サーバルの寝室は横十メートル、縦四メートル、高さ三メートルほどの大きさで、中央の鉄格子で二つに仕切られていた。こちら側は人間のスペース、向こう側はサーバルのスペースとなっているらしい。サーバルのスペースにはコンクリートに藁が敷き詰められており、隅にはすのこが置かれていた。鉄格子には、床の近くに餌を差し入れるスペースがあって、寝室と言うよりは独房を連想させた。天井は三角屋根になっていて、スロープに窓が付いており、自然光を取り入れて室内を明るくしていた。その他に電球が部屋の四隅についていて、暗い時や夜などはそれを点灯させるのであろうと思われた。

 ここから展示用の檻へ続く入り口は二つあり、一つはこちらから行く普通のドアと、もう一つはサーバルの檻側にある引き戸だった。引き戸は大きな金属製で、鉄格子を越えてこちらまで届いていた。つまりサーバル側の出入り口はここから操作出来るらしい。それを証明するかのように、

「じゃあ、僕はサーバルちゃんを向こうの檻へ入れてきますね」

 かばんちゃんはそう言うと、壁にかかった引綱を手に取って、引き戸を動かしてサーバルと寝室の檻の出口を開けた。無論、それだけではサーバルは檻の中へ入ってこないので、次にかばんちゃんは人間用のドアの鍵を開けた。

 ドアを開けた瞬間にサーバルの頭がにょっきりと顔を出すのではないかと、金剛と五月雨は後じさりする。かばんちゃんはドアを少しだけ開けて外の様子を伺うと、滑り込むようにその隙間からサーバルの檻へ入った。そしてすぐに、向こう側から引綱に繋いだサーバルを連れて檻の中へと姿を現した。その光景は大型犬の散歩させるのとあまり違いは感じない。

「ごめんね、サーバルちゃん。君を助けるためなんだ」

 かばんちゃんはそう言ってサーバルに声をかけるが、サーバルは不満そうに鼻を鳴らした。それでも、かばんちゃんを信頼しているようで、彼女が引き戸を閉めるときにも無理やり出て行こうとはせずに、すのこのところまでトボトボと歩いて、その上に寝転がった。そういう姿はやはり猫である。

「これで大丈夫ですよ」

 かばんちゃんがドアから姿を現す。

「よし、行くネ五月雨」

 金剛は五月雨と共に、サーバルの檻へと入っていった。

 

 当然ながら、サーバルの檻の中は既に掃除されていて、死体も血痕も残っていなかった。かばんちゃんの話によれば、死体は既に警察の手によって運び出されたとして、血痕の方は付着した土ごと捨ててしまったという。だがかえって、それが新しい土とそうでない土をくっきりと分ける結果となり、現場を見やすくしていた。どうやら瀬留里安次郎の死体は檻のほぼ中央で倒れたようだった。

「アンジロー=サンが倒れていたのはここネ?」

 かばんちゃんが首肯すると、

「どんな風に倒れてたネ? 仰向け? それともうつ伏せデース?」

「うつ伏せです」

「ふむ」

 次に金剛はかがんで檻の中の地面を丹念に調べ始める。

「足跡は………う~ん、たくさんの靴跡で踏み荒らされてて分かりまセーン」

「救急の方も来ましたし、警察の人もたくさん来ましたから」

「シット!」

 金剛は舌打ちして立ち上がり、次は平均台のオブジェ、檻の金網、寝室側にある壁を丹念に調べていくが、芳しい成果は得られなかったようだった。

「ここは駄目ネ。手掛かりがナッシング! 一旦、寝室の方へ戻るヨ」

「そうですか………」

 かばんちゃんが肩を落とす。

「大丈夫ですよ、捜査はまだ始まったばかりです」

 五月雨はそう言ってかばんちゃんを励ました。だが五月雨がそう言った傍から金剛は、

「今回はダメかも知れまセーン」

 と力なく言って、寝室のドアを開けた。

「ふええ………」

 かばんちゃんが涙目になる。

「ちょっと先生!」

 五月雨が非難がましく言うが、金剛はそれを無視して寝室の敷居を跨いだ。

「さてと」

 寝室に戻った金剛はコンクリートの床にかがんで五月雨へ手を差し出し、

「五月雨、ルミノールを頼むネ」

「はい」

 五月雨は鞄から霧吹きを渡した。

「何ですか? ルミノールって?」

 かばんちゃんがたずねる。

「窒素含有複素環式化合物の一つネ。アルカリ性の水溶液に溶けて、過酸化水素水と混ぜると波長四百六十ナノメートルの強い青紫色の発光を示しマース。この発光は遷移金属や金属錯体を触媒として促進されるデース。もちろん、人間の血液中に含まれる鉄分にもネ」

 説明しながら金剛は展示用の檻へ続く入り口から霧吹きを床へ吹きかけていく。それはやがて五月雨やかばんちゃんが立っている場所まで及び、

「はいはい、邪魔邪魔。外へ出てるデース」

 文字通り隅々に霧吹きを吹きかけた金剛は、最終的に自分も外へ出て、自分が立っていた場所にも最後の一吹きをかけた。

「あとは運を天に任せるネ。カバンチャン、上の窓は光が入らないように出来るネ?」

「はい、向こうへ天井へ続く梯子があるので、厚手の布をかければ十分に遮光できると思います。取ってきますか?」

「お願いするヨ」

 かばんちゃんが走り去ると、五月雨は金剛に、

「この事件、本当にサーバルがやってないって証明できそうですか?」

 と、耳打ちした。すると金剛は怪訝な顔をして、

「サーバルがやってないのは明らかネ。まず被害者は顔を食べられていたらしいですが、動物がそんなことをするとは思えまセーン。食べるならお腹や太ももから食べマース。どうしてわざわざ肉付きの少ない顔面を食べるのか理解に苦しみマース。それから被害者はうつ伏せに倒れていたと言いましたが、肉食獣はまず獲物の喉笛に噛み付いて窒息させるデース。すると人間なら大抵、仰向けに倒れマース」

「でも、サーバルの口が血に濡れているという証言はどうなります?」

「五月雨、もしユーが台所で指を切った時、思わずどうするネ」

「痛い! って言います」

「その後ヨ」

「傷を舐めて………あ!」

「そう、サーバルは血を流して倒れている被害者を気遣って顔を舐めていたネ。あるいは好奇心かもしれないデース。例えば牛などは、うずくまった人間を見ると好奇心から近寄って、顔を舐めてきマース」

「じゃあ、安次郎さんは、やはり誰かに殺されたあとでサーバルの檻の中へ入れられたんですね? でも、サーバルが顔を食べたんじゃないとすれば、どうして犯人は被害者の顔に酷いことを?」

「やれやれ、まだ分からないのかネ、五月雨。安次郎は死んでなんかいないヨ。顔を剥がしたのは身元の確認を防ぐためネ」

「えええ!」

 五月雨は驚きのあまりに思わず声を上げて、

「それじゃ、あの死体は誰だと考えてるんです?」

「さぁ? そこが問題ネ。何の証拠も無ければ今の推理も机上の空論に過ぎまセーン」

「お待たせしました~」

 かばんちゃんが黒い厚手のカーテンを小脇に抱えて戻ってくる。

「サンキューネ、カバンチャン」

 金剛はカーテンを受け取り、

「じゃあ、頼むヨ、五月雨」

 五月雨に手渡した。

「ええ? 私ですか?」

「カバンチャンは疲れてるネ」

「先生がやったらいいじゃないですか」

「私がいなくなったら誰が推理するネ。こういう仕事は助手の仕事デース。早く行くデース」

 ぶつくさと文句を言いつつ、五月雨はかばんちゃんに教えられた通り、小屋の横にある階段を上り、更に屋根へ続く梯子を昇って行く。一方、金剛とかばんちゃんは再び寝室へと戻った。サーバルは相変わらず、すのこの上でのんびりとくつろいでいた。

「ケッ、ケッ」

 するとサーバルは突然、げっぷとも咳ともつかない息を吐いた。

 金剛がかばんちゃんを見ると、彼女は心配そうな顔で、

「あの事件以来、あの調子なんです。食欲はあるし、特に他には体調が悪そうな部分も無いので様子を見ているんですが。動物もやっぱり、ああいう事件があると体をおかしくしたりするのでしょうか」

 金剛は再びサーバルの方を向く。サーバルは大きな耳をピクピクとさせながら、じっと二人の様子を伺っていた。

 次の瞬間、小屋の中が暗くなった。五月雨が窓をカーテンで覆ったのだ。突然の出来事にサーバルも驚いて立ち上がる。

 窓を厚手のカーテンで覆っても、今日の日差しは強いようで、目を凝らせば周囲の様子がうっすらと分かる程度には明るかった。金剛はルミノール試薬を吹きかけた床に膝をついて、丹念に調べていく。すると展示用の檻へと続くドアの手前で、青紫色に発光する小さな光を見つけた。

「これは………」

 かばんちゃんが金剛の肩から光を覗き込んだ。

「血痕デース! カバンチャン、事件が発生してから床の掃除はしたネ?」

「いえ、でも、さっき見たときは何の跡も無かったのに」

「血痕と言うものは、現場が焼け落ちない限りは掃除しても完全に消すことは不可能デース。おそらく真犯人がうっかり血を垂らして掃除したデース」

「それじゃあ、あの死体はやはり外部から持ち込まれたんでしょうか?」

「犯人の血痕と言う可能性もありマース。とにかく、サーバルはここへは入れませんから、彼女が付けたものでは無いことは確かネ」

「でも、一体、どうしてサーバルちゃんの檻でこんなことをしたのでしょうか?」

「それは、これから分かることネ。もういいデース五月雨! カーテンを取るデース!」

 小屋の中が再び明るくなる。サーバルも眩しそうに目を細めた。

「これで、サーバルちゃんも無罪と言うことになりますね!」

 かばんちゃんが言うと、金剛は残念そうに首を横に振って、

「そう甘くはありまセーン。ドアの前の血痕では決定力にかけマース」

「ではこれから、どうするのです?」

「簡単デース。真犯人を捕まえればいいのデース!」

 金剛が高らかに言うと、サーバルは、

「ケッ、ケッ」

 と、げっぷとも咳ともつかない息をまた吐くのであった。

 

 寝室の小屋に残った血痕から、いよいよサーバルの檻にあった死体が人間の手によって殺されたという確信を強めた金剛は、被害者とされる瀬留里安次郎の人間関係を探るため、彼の住所を園長に聞いた。すると安次郎はここから近くにある神奈川県相模原市のアパートに住んでいるらしい。早速、金剛と五月雨はタクシーを呼び、次の目的地へと向かった。五月雨がタクシーの中でメモした住所を広げた矢先、金剛は、

「日野警察署へ頼むネ」

 と、運転手に行き先を伝えた。

「安次郎さんの住所では無いんですか?」

 五月雨が言うと、

「まずは警察からもっと事情を聞くネ。遺体のことも知りたいデース」

 そういうわけで、二人はまず今回の事件を担当した日野警察署へと向かったのである。

 タクシーを警察署の外来用の駐車場で待たせて、二人は警察署の玄関をくぐる。受付で事情を話し、多摩動物公園での事故の担当刑事を呼んでもらう。すると現れたのは、何と軽巡洋艦の天龍であった。

「よぉ、金剛じゃねぇか」

「天龍さん! 警察に勤めるようになったって聞きましたが、まさかここだとは!」

 五月雨が驚いて声を上げるが、金剛の方は至って冷静に、

「ふむ、カバンチャンに私の事務所を推薦したのはユーのようネ?」

「まぁな。ここにノコノコ来たってことは、動物園絡みだろ?」

「イエス!」

「やっぱりな。さて、立ち話もナンだ。こっちへ来な」

 金剛と五月雨は天龍に案内されるまま、二階の応接室へ通された。黒いソファーに腰かけて、金剛は早速、事件について切り出した。

「天龍、動物園の事件について分かったことを聞きたいネ」

「まぁ、そうがっつくなよ。今から資料を取ってくるからさ。麦茶、飲むか?」

「あっ、お願いします」

 五月雨が挙手して言った。外の暑さに五月雨の喉はカラカラで、限界だったのだ。

 天龍が応接室を去ると、婦人警官が二人分の麦茶を盆に載せてやってきた。彼女と入れ替わる形で、脇に資料の束を挟んだ天龍が応接室へ戻ってきた。

「さて、警察が事件をサーバルによる事故と断定した根拠を聞かせてもらうネ」

「というと、そっちはあの飼育員と同じくサーバルの仕業じゃないと考えているんだな」

 あの飼育員とはかばんちゃんのことだろう。金剛が頷くと、

「いいぜ」

 天龍は不敵な笑みを浮かべて言った。どうやら、事故と断定する確たる根拠が警察の側にはあるらしい。

 金剛はそう考えるが、いやしかし、天龍は分が良かろうが悪かろうが万事、こんな調子だったことを思い出して楽に構えることにした。

「まず、被害者の死因だな。解剖の結果、死因は正面からの頚部圧迫による窒息死。頸椎の一部と舌骨に骨折があった。肉食獣ってのは、喉笛に噛み付いて獲物を仕留めるもんだろ?」

「喉に噛み跡はあったネ?」

「残念ながら顔と一緒に首元の皮もズタズタにされていて分からなかった」

「遺体はうつ伏せだったそうネ? 正面から飛びかかられたのなら仰向けになるはずデース」

「ライオンならともかく、サーバルの体は小さい。正面から飛びかかられたなら、振りほどくためにも前かがみになるんじゃねーのか?」

「なるほどネ。では、被害者は抵抗したというわけデース。遺体に防御創(被害者が加害者と争った際に出来る傷。ここではサーバルに負わされた傷を指す)などはあったのデスカ?」

「いや、残念ながらそれは確認できなかった。ただ死後に出来たと思われる小指の骨折だけがあったぜ」

 そう言って、天龍は木の机に写真を並べた。解剖時に撮られたものらしく服は無く、いずれも被害者の遺体の両腕部分を映したものだった。確かに天龍の言う通り、特に傷は見られないが、右手の小指だけが不自然な方向へ曲がっていた。

「防御創が無いなら、サーバルに襲われたとは断定できないデース」

「被害者は酒に酔っていた。ろくな抵抗も出来ずに、前かがみになるのが精いっぱいだったんだろ」

「それほど酩酊していた被害者が、どうしてわざわざサーバルの檻へ行ったネ?」

「酔っ払っていたからこそ行ったんだろ。おおかた、自分の担当のシロテテナガザルかオランウータンと勘違いしたんだろうよ」

「だったらサーバルの鍵を持ち出した理由はなんデース?」

「さぁな、偶然だろ」

「酔っ払った被害者が、理由は分からないが職場へ戻って、偶然サーバルの鍵を手に、間違ってサーバルへ行ったネ? 奇妙な話デース」

 金剛がそう言うと、天龍は、

「ふふん」

 と笑って、

「アンタの考えていることは分かるぜ名探偵、いや、戦艦探偵さん。あの遺体が本当に瀬留里安次郎かと考えているんだろう? 被害者の顔の皮膚は剥がされていて、安次郎が被害者を殺して、自分の替え玉にしたんじゃねぇかってな。ところが警察だって馬鹿じゃねぇ、ちゃんと証拠はあるんだ。人間には指紋ってもんがあるだろ。足もそうだ。こいつは双子だって、それぞれわずかに違う模様になるんだ。俺たちは遺体から指紋を採取して、サーバルの小屋のドアノブや、安次郎の使っていた机の持ち物や、自宅から採取したものと突き合わせた。するとどっちもピッタリ一致するものが出て来たよ。家の方は足の指まで取ったんだからな。サーバルの檻で倒れていたのは間違いなく瀬留里安次郎本人だよ」

 何ということであろう。警察は遺体の身元を指紋と言う確たる証拠から、瀬留里安次郎であることを完璧に割り出していたのだ。そうなると、金剛の唱える遺体の替え玉説が根本から覆ることになる。

「それに俺たちは、事件当日、安次郎が行きつけの飲み屋に行って酒を飲んで帰ったこともちゃんと調べてあるんだぜ」

「ほぅ、それじゃ死亡推定時刻も大分しぼられるネ」

「飲み屋の証言だと、安次郎が店を出たのが午後七時。だから死亡したのはだたい七時から十二時くらいの間だな」

「随分と死亡推定時刻に開きがあるようネ」

「判断基準が死後硬直の進み具合と死斑からしか分からなかったもんでな」

「しかし、天龍さん」

 五月雨が口を挟んだ。

「誰かが安次郎さんの顔を剥がして、サーバルの檻に放置したとは考えられませんか?」

「それは考えにくいな。第一、もし別な犯人がいるとしても檻の鍵の場所を知っているとは思えないし、よしんば鍵の場所をあらかじめ被害者から聞き出したとしても、だったら安次郎の飼育担当であるシロテテナガザルや、オランウータンの檻に放置しておくのが自然だろ。顔を剥ぐ理由も無い」

「うう、確かに」

 五月雨がしょんぼりとする。一方で、金剛は相変わらず表情一つ変えずに泰然自若としていた。その様子に、さすがの天龍も不審に思って、

「何だよ」

 と、たずねた。

「ふふふ」

 金剛は含み笑いをして、

「天龍、私たちはサーバルの小屋の中、展示用の檻のドアのところに血痕を見つけたヨ。綺麗に洗い流されて、見た目には分からなかったケド、ルミノールを吹きかけてばっちり見つけたネ!」

「血痕だって?」

 天龍はそう言って、わずかに眉を曇らせた。五月雨は血痕のことを思い出して、

「そうです、血痕を見つけたんですよね!」

「量は?」

 と、天龍が聞く。

「ほんの二、三滴ネ」

「はん、その程度じゃ、餌の肉から垂れたものかも分からないじゃねーか」

「確かに現状は大海の一滴かもしれまセーン。しかし、こうもいうデース」

 金剛はニタリと笑って、

「血は水よりも濃い、とネ」

 

 タクシーに乗り込み、金剛と五月雨は今度こそ相模原市にある瀬留里安次郎のアパートへ向かった。

「先生」

 五月雨が不安そうに金剛にたずねる。

「遺体の指紋は、安次郎さんのアパートから検出されたものと一緒なんですよね? 足の指紋まで一致したとなれば、やはりサーバルの檻の中で発見された遺体は安次郎さんということでしょうか?」

「いや、まだわからないヨ」

 そう言いながら金剛は手に持った一枚の写真を見つめていた。それは天龍から借りたもので、安次郎を写した数少ない写真の一つであった。写真は花見の時のものらしく、大きな桜が写っている。木の後ろには僅かに川が入り込んでいて、安次郎は数人の友人らと共に真ん中よりやや左に位置していた。

「でも、指紋が一致したんですよ?」

「指紋が一致しただけネ」

 金剛は事も無げに言って見せると、

「天龍の説明では、被害者がサーバルの檻にいた事実に納得がいかないヨ。それに、ドアの前に落ちていた血痕の説明がつかないネ」

「天龍さんの言う通り、やはり事件とは関係ない血痕なんじゃないですか?」

「五月雨、犯罪捜査は蓋然性の追求デース」

 金剛は言い聞かせるように言った。

「サーバルの檻に倒れていた死体、常識的にみれば確かに動物に襲われたと見るのが正しいデース。しかし、そういった先入観に囚われたままで捜査を行うと、時に信じられないほど単純な事実を見落とすことがありマース」

「はぁ………」

 タクシーは一路、神奈川県は相模原市に向けて突き進んでいく。

 

 安次郎のアパートは、典型的な東京都近郊の安アパートという感じだった。外観は木造で、築三十年は経っているであろう。塀に架けられた看板の文字は掠れて読みにくいが、風呂無し、トイレ共同と書いてあった。二階建てで、子持ちの家族が住んでいるのか、壁の傍には使い古した三輪車があった。動物公園の住所録では、安次郎はこのアパートの二階に住んでいるらしい。早速、金剛と五月雨は隣の一軒家に住む大家をたずねた。

 玄関の呼び鈴を押すと、五十代の夫人が面倒くさそうに玄関から出てきた。どうもこの人が大家らしい。金剛が、自分は探偵で、安次郎の事件について捜査を依頼されたこと、そのために安次郎の部屋を調べたいというと、大家は頭をかきながら、

「ああ、あれね。全く困ったもんだよ。鍵を取ってくるからちょっと待ってて頂戴ね」

 と言って奥へ引っ込んでいった。

 少しして鍵を持って来た大家と共に、金剛と五月雨はアパートの階段を登っていた。階段は金属製でさび付いており、一段一段上る度に嫌な音を立てた。アパートの階段を上りながら、大家はこのアパートが夫の父親から受け継いだものであり、家賃収入のほとんどが税金で持っていかれること、あまりにボロボロで次第に住民が減っているが、立て直すにせよ取り壊して更地にするにせよ金がかかるのでにっちもさっちも行かない、ということをぼやいた。

「安次郎さん、身寄りが無いんだってねぇ。家財道具とか、どうなのかね。売るか捨てるかしたいところなんだけどねぇ」

「ということは、まだ片づけてないんですか?」

 五月雨が言うと、大家は首を縦に振って、

「昨日、今日のことだから何にも手を付けてないよ。貯まってたゴミ出しと、流しの食器くらいは洗ってやったが、それだけだね。だいたい、昨日まで警察がさんざん荒らしていったんだから。ご近所には変な噂を立てられるし、ろくなもんじゃないよ」

 階段を無事に登り切ると、アパートの二階通路の入口へ入る。入口の傍には下駄箱があって、何だか不用心だった。五月雨がそう言うと、大家は笑って、

「盗まれるような靴を履いてる人はこんなところにいやせんよ」

 と、答えた。

 三人は安次郎が借りていた部屋の前に辿り着く。大家はドアの鍵穴へ鍵を差し込み、ガチャガチャと音を鳴らして玄関の戸を開ける。安次郎の部屋は、彼の私物や家具を除けば四畳半に台所だけのシンプルなものだった。台所の部分は板の間になっていて、足の指紋はそこから採ったのだろうと思われた。部屋の隅には布団が畳まれていて、中央にはちゃぶ台、廊下側の壁には箪笥があった。壁にはピンク映画のポスターが貼られていて、壁には飼育員の作業着が架かっていた。

「男の人の部屋にしては片付いてますね」

 五月雨が言うと、大家は腕を組んで、

「二月に引っ越してきたばかりだったからね。何だっけ? 動物園の飼育員だったんでしょこの人。世話してた動物に殺されるなんてねぇ」

「ああ、いえ、安次郎さんは、担当していた動物とは違う動物に殺されたんです」

 五月雨が訂正する。

「あれ? そうなの? 嫌だわぁ、てっきり警察が動物に襲われたっていうもんだから勘違いしちゃった。でも、なんで違う動物に襲われたりなんかしたの?」

「警察は酔っ払って、間違って入ったんだろうと考えているようですが」

「ああ、そう言えばあの人、お酒は全然駄目だって言ってたもんねぇ」

 金剛は五月雨と大家の会話を無視して、台所の下やタンスの中を丁寧に探っていく。

 何かあるはずネ! 警察が見落とした手掛かりが!

 すると旅行先で買ったお土産など、細々したものが入った引き出しの底が、二重底であることに気が付いた。

 これネ!

 金剛が小物を掻き出して、二重底になっている引き出しを開けると、そこには………何も無かった。

「シット!」

 結局、安次郎の部屋からは新しい手掛かりは発見されなかった。

 

「元気出してください、先生」

 安次郎の家の捜索を終えた金剛と五月雨は、近くの喫茶店で少し遅い昼食を摂っていた。二人とも、注文したのは同じカレーライスだった。モリモリと食べる五月雨に反して、金剛は腕を組んだまま、スプーンを取る気にもなれないらしい。

「うー」

「カレーが冷めますよ」

「何かあるはずデース。サーバルの檻の中にいたのはアンジロー=サンでは無いはずデース。きっと何かあるはずデース」

「何かって、何ですか?」

「何かは何かデース! チグハグな線を繋ぐスマートな解決法ネ! 犯人は指紋を残すために、わざとサーバルを選んで檻の中に入れたネ! ライオンやチーターなら本当に人を全部食べかねないケド、あのサーバルが人の手足を食べないことを計算していたデース!」

「そうですか、それで、次はどうします?」

 金剛は少し考える様子を見せて、

「アンジロー=サンを最後に目撃した居酒屋に話を聞くネ。五月雨、住所はちゃんと控えてるネ?」

「ええ、もちろんです」

 瀬留里安次郎が最後に目撃されたのは、立川駅近くの居酒屋だった。安次郎のアパートへ着いたときにタクシーを帰してしまった金剛と五月雨は、電車を使って立川駅へ降りたが、着いたときには午後五時に差し掛かっていて、ボチボチと仕事帰りのサラリーマンが通りに目立つようになっていた。それでも居酒屋が開くにはまだちょっと早いと見えて、多くの店はまだ暖簾を下ろしたままになっていた。

 五月雨が手帳に控えた店も、未だ暖簾の上がっていない居酒屋の一つだった。建物と建物の間に挟まって、横に押しつぶされたような狭い二階建ての建物だった。二階のベランダには手拭いが物干しざおにたくさんかけられて、風に揺られていた。木製の外壁は安次郎の住んでいたアパートと大差ないくらいに色あせてボロボロになっている。

「住所もだいたいこの辺りですし、この店ですよ、きっと」

 暖簾は上がっていないが、道端に設置された看板にははっきりと、手帳に書かれた名前と同じ名前が下手な字体で記されていた。

 金剛が曇りガラスの引き戸を開けると、外見の通り店の中は狭かった。席は全てカウンター席で、奥へ向かう通路は狭く、一度入れば手前の客が全部出るまで出てこれなそうだった。カウンターではおでんの鍋が並べられてグツグツと沸騰音を立てている。板前服を着た痩せた店主らしき老人が、おでんを煮込みながら髑髏を思わせる眼で金剛を睨み、

「まだやってないよ」

 と、掠れた声でそっけなく言った。

 素早く金剛が名刺を渡し、自分が瀬留里安次郎の事故死について捜査していること、この居酒屋で安次郎が最後に目撃されたと聞いて、改めて証言を聞きに来たことを話した。老人は迷惑そうな態度を隠さずに、仕込みを続けながら金剛に安次郎が最後にこの店に来た時のことを話してくれた。追い払うよりはさっさと話してしまった方が早いと考えたようだった。

 老人の話は以下の通りである。

 安次郎が現れたのは午後六時頃だった。彼はカウンターの奥の方の席へ座って(そこが彼の定位置だった)、焼き鳥とおでん、それから焼酎を注文して七時には帰った。それだけである。

「アンジロー=サンは一人で来たネ?」

「あいつはいつも一人だよ」

「常連だそうですが、安次郎さんはどれくらい前からここに通っていたネ?」

「贔屓にしてもらってるのは二年位前からだ」

「なるほどネ。しかし、安次郎さんは二月に引っ越したばかりと聞いたデース」

「ああ、職場が変わって近いところへ引っ越したみたいな話はちらっと聞いたな」

 確かに安次郎は上野動物園から多摩動物公園へ転職、というよりは多摩動物公園は上野動物園の分園だから移籍と言うべきだろう。それを考えれば確かに辻褄は合う。

「アンジロー=サンはどれくらいの頻度でここへ来るデース?」

 そう言われて店主は手を止めて考え込んだ。

「そうさな、月に二階くらいのときもあれば、一週間に三回ほど来たこともあったし。別に給料日だからって酒に金をつぎ込むような感じでもなかったな。ただ、ここに来るときはどうも疲れた顔して来るから、仕事の区切りに飲むって感じの客だな、ありゃ」

「ふーむ………」

 金剛は腕組みして考えを巡らせた。どうもこの店主と安次郎はそこまで親しくは無いようだった。この居酒屋にいても、やはり安次郎が七時ごろまで飲んでいたこと位しか分かりそうもない。そう思って金剛がその場を辞して帰ろうとした時だった。

「あれ? そういえば安次郎さんって、お酒飲めるんですか? アパートの大家さんの話によれば、全然飲めないと言っていたそうですが」

 五月雨が質問すると、店主は怪訝そうな顔で、

「まぁ、確かにガブガブ飲むようなのんべぇじゃないが、全然飲めないってこたないぞ、あの人は」

 と言った。その瞬間、金剛は人差し指を立てて、

「それネ!」

「ひゃっ!」

 突然のことに五月雨は驚いて、

「一体、何なんです?」

 五月雨がたずねると、金剛は、

「はっはっはっ」

 と、天井に向かって高笑いし、

「面白い、実に面白いネ! アンジロー=サンはなかなか、大胆なことをするネ!」

 すると金剛は警察から借りてきた写真を取り出して、店主へ見せる。

「アンジロー=サンというのはこの人ネ?」

「ああ、そうだよ」

「本当に、この人ネ?」

 金剛は写真に写った、動物園の事務室に飾られた遺影と、同じ顔を指して言った。

「そうだよ」

 金剛の勢いにやや困惑しながら、店主は答える。

「サンキュー! ご協力感謝しマース! 感謝感激雨霰デース! おかげで謎が一つ解決したかもしれないデース!」

 そう言うと金剛は五月雨の手を引いて、居酒屋を出た。後には、『何が何やら分からない』という顔をした店主だけが残されたが、すぐに彼は迫る開店時間に備えて仕込みの準備に戻った。

 

「ちょっと先生、説明してください」

 タクシーの中で五月雨が言った。居酒屋を出た金剛と五月雨は、立川駅前でタクシーを捕まえ、再び瀬留里安次郎のアパートへ向かっていた。居酒屋で店主の話を聞いてからと言うもの、金剛の眼は再び自信を取り戻し、両手をすり合わせてひたすらニヤつくばかりである。その様子を見て、五月雨も何だか不気味に思えてきたようだった。

「わからないかネ?」

 金剛が言うと、五月雨はふくれっ面をして、

「分からないからきいてるんです! 安次郎さんとお酒が、どう関わってくるんですか? いい加減、秘密主義はやめて下さい!」

「まぁ、すぐに分かるネ。ウフフ」

 タクシーがアパートの前に辿り着く。時刻は既に午後六時を回り、七時になろうとしていた。五月の空には宵の明星が光り、夕焼けから次第に薄暗くなり始めている。

「ちょっとここで待つネ!」

 言うや否や金剛はタクシーを飛び出して、大家の家の玄関を叩いた。五月雨が慌てて金剛を追いかけるのと、ドアが開くのは同時だった。先ほどの大家がエプロンを着けて現れた。どうやら夕食を作っている最中のようだった。

「あらアンタ、また来たの? こんな時間に困るんだけど」

 大家が迷惑そうな顔をして言った。

「時間は取らせないネ。質問は一つ、アパートに住んでいた男はこの人だったネ?」

 金剛が例の写真を見せて言うと、大家は首を縦に振って頷いた。

「五月雨、ペン!」

 そう言って金剛は五月雨に手を差し出す。言われるがまま、五月雨が手帳を書き留める鉛筆を渡すと、金剛はそれを大家に渡し、

「オオヤ=サン、これは本当に大事な質問デース」

 金剛は玄関に写真を押し付けて固定すると、

「あのアパートに住んでいた男の顔を、その鉛筆で指してくだサーイ」

 大家は怪訝な顔で鉛筆を掴むと、言われた通り、写真へ鉛筆を向けた。少し丸くなった鉛筆の芯の先は―――。

「ええ!」

 五月雨が思わず声を上げた。大家の持つ鉛筆が指し示した人物は、安次郎の隣にいる男だったからだ。

「一体、どう言うことなんですか先生!」

 五月雨の言葉に、金剛はただ勝ち誇った表情で答えた。

「事件現場に先入観を持って臨んではなりまセーン。今回はまさに蓋然性の悪魔が犯人に味方したデース」

 タクシーの中で、金剛は遺体が安次郎であると警察に誤認された経緯を説明した。

「警察はサーバルの檻で倒れていた遺体をアンジロー=サンだと確認するために指紋を用いたデース。それ自体は問題ないネ。しかしアンジロー=サンが住んでいたとされるアパートには、アンジロー=サンではなく、被害者がアンジロー=サンを名乗って住んでいたネ。大胆な犯行デース。警察は急いで確認を取るために、写真を用いたネ。しかし急いで用意できたのが集合写真なのがよくなかったデース。あるいはこの写真を使わせるために、わざと残したネ。警官はオオヤ=サンや居酒屋のテンチョー=サンに写真を見せて確認を取ったデース。写真には確かに見覚えのある男が写っていたから、二人とも『そうだ』と答えたネ。しかし実際には二人とも、別々の人間のことを言っていたデース。警察も檻の中の遺体をアンジロー=サンだと思い込んでいたから、そこまで追求しなかったんだろうネ。アンジロー=サンはそうやって指紋を偽装し、事件当日もあのアパートから被害者の持ち物をくすねて職場にある自分のものとすり替えて置いたに違いないデース」

「しかし先生、それだと被害者はある程度、安次郎さんに協力していたことになります。そもそも、何故、そんなことをするのか疑問を持たなかったのでしょうか?」

 五月雨の言う通り、金剛の推理では被害者は瀬留里安次郎の影武者になることを受け入れて生活していたことになる。

「一体、どうして?」

「それはこれから明らかにしていくネ」

 金剛は書類を手に言った。その書類は大家から預かったもので、被害者が部屋を借りる際に書いたものだった。そこには入居以前の住所も控えられていて、それによると被害者はあのアパートに入居する以前は、多摩川沿いのアパートで暮らしていたようだった。金剛と五月雨は現在そこへ向かっていた。五月雨は、

「明日にしませんか?」

 と言うが、善は急げである。するとタクシーの中で五月雨のお腹が鳴った。

「えへへ、お腹がすいちゃいました」

 恥ずかしそうに五月雨が言った。

 金剛が懐中時計を通り過ぎる街灯で伺ってみると、時刻は既に午後七時三十分を回っていた。

「もう少し我慢するネ」

 やがてタクシーは多摩川の近くでも街灯も少なく、人通りも無い区域へと向かって言った。

「お客さん、あれがそうじゃないですか」

 タクシーの運転手が、ヘッドライトに照らされる借家らしい、木造の平屋を見て言った。金剛はその近くにタクシーをつけるように指示する。

「ちょっと待ってるネ」

 タクシーにここまでの運賃を支払って、金剛と五月雨は車を降りた。

「ここがそうですか?」

 五月雨が言った。

「そのようだヨ」

 しかし、家は誰もいないかのように静まり返り、カーテンの隙間からは光さえ漏れ出ていなかった。

「とにかく、行ってみるネ」

 金剛がそう言って、五月雨と共に家の玄関へ立った時だった。

「動くな! 警察だ!」

 闇の向こうから鋭い声がした。

「手を挙げろ!」

「先生!」

 五月雨が金剛の袖を引っ張る。

「言われた通りにするネ」

 金剛と五月雨は手を挙げた。すると物陰から二人の私服警官らしき人物が、拳銃を金剛と五月雨に向けながら現れたのだった。

 

 時刻は午後八時四十二分。金剛と五月雨は、警視庁の応接室の黒皮のソファーへ並んで座っていた。二人の前には出前のかつ丼が並んでいて、その器は既に空っぽだった。付け合わせのたくあんですら無くなっている。

「警察署でかつ丼を食べるのって、私、夢だったんですよ~」

 膨れた腹を摩りながら、五月雨は満足そうに言った。

「こういうところで食べるかつ丼って、何だかおいしそうじゃないですか」

「何言ってるネ、五月雨」

 金剛が呆れたように言うと、応接室の戸が開いて刑事課長がやってくる。年齢は四十代後半、頭頂部の薄くなった髪に黒縁の丸眼鏡をかけている。着ているスーツは茶色で、体格は中肉中背、ズボンの裾が少し汚れていることから現場にもよく足を運ぶタイプのようだった。冴えない雰囲気に対してネクタイは新品で流行りの柄であることから、仕事を始めたばかりの子供からの贈り物なのだろう。

「どうもすいません、金剛さん。とんだ手違いがあったようで」

 刑事課長は頭を下げながら、二人の目の前のソファーへ座る。

「いえいえ、彼らは自分たちの仕事をしただけデース。どうか彼らを処罰することを止めて頂きたいネ」

「ははっ、そう言って頂けるとありがたいですな」

 禿げかけた頭をかきながら、刑事課長はテーブルの上に資料を並べる。五月雨は、それとなくかつ丼のどんぶりをどかした。

「まずはこちらの情報から」

 刑事課長は咳ばらいをして言った。

「もう新聞やラジオで知っているかもしれませんが、三日前、都内でも有数の資産家である仲手川氏の宝石が盗まれました」

「ええ、知ってるネ。確か盗まれたのは『サンドスター』という金剛石デース」

「はい。その事件直後に、仲手川氏の屋敷で働いていた成瀬リルという女中が姿を消しました。おそらく賊の一味だったのでしょう。それから二日かけて成瀬を追ったところ、新潟の旅館で確保しました。その際に、強盗に使われたピストルが発見され、どうやら強盗で最初に現れた女は成瀬だと判明したわけです。その後、厳しく問い詰めましたところ、偽警官を演じた二人の男の内、一人の男の名前と住所を吐きました」

「男の名前は何デース?」

「ええ、安瀬竜太郎と言って、何でも大陸で知り合った男だそうです」

「もう一人の男の名前は分かりませんか?」

 五月雨が質問した。

「それが、成瀬は知らないの一点張りでしてね。事件当日に会ったと言いますが、どうもこれは本当のことらしい。まぁそれで、とにかく竜太郎を確保しようと奴の家の前で張り込んでいたところ、あなたたちが来たという次第でして」

 そう言うと刑事課長は身を前に乗り出して、

「どうも、我々とあなた方は、同じホシを追っているようですな。よければそちらの話もお聞かせ願えませんか?」

「ええ、喜んデ」

 金剛は今朝、かばんちゃんから依頼された事件の内容から、これまで分かったことを刑事課長に話した。話すうちに刑事課長の額は汗ばんで、しきりに何かを考えるように顎をさするようになった。

「す、すると」

 刑事課長はどもりながら、

「サーバルの檻にあった顔のない遺体は、安次郎では無かったわけですな」

「イエス、おそらく彼はリュウタロー・アンゼだと思いマース」

「金剛さん、写真は持っていますか?」

「こちらにあるデース」

 金剛が写真を差し出すと、刑事課長はひったくるように写真を受け取って応接室を出た。数分後、刑事課長は興奮したように息を切らせて戻って来て、

「何と言うことだ………たった今、成瀬に確認させたところ、あなた方が調べたというアパートにいた男の顔を指しました。我々は安瀬の顔写真を手に入れていないから、はじめて顔を知りましたが。何分、奴の家を調べても写真の一枚も出てこなかったものでしてな。しかし何という犯人でしょうか、仲間を殺した挙句に、その仲間を自分の身代わりにするとは………」

「なかなか上手い手デース。死んだ人間は誰も探さないネ」

「早速、この写真を引き伸ばして全国指名手配しましょう!」

「あの、ところで」

 五月雨が質問する。

「宝石の行方はどうなっているのでしょう? もうどこかの宝石商に売ってしまったのでしょうか?」

「そんなすぐに足の着くような真似をする男では無いですよ。やるとすれば、犯罪組織と取引するとか、外国に持ち出すとかですかね」

「成瀬さんはどうして新潟にいたのでしょうか?」

「それについては、どうやら事件の後にそれぞれ東京に潜伏して、あとで指定の場所で落ち合う手はずになっていたようですな。ところが連絡が無い。そこであの女、竜太郎の家まで行って宝石を探したようですが見つからない。そこで裏切られたと知って、新潟まで逃げたというわけです」

「すると、宝石はまだ安次郎が?」

「どうだろうネ」

 金剛が言った。

「宝石を身に着けて逃げ回るなんて危なっかしいデース。仲間に裏切られ、殺すか脅されるかして取り上げられてしまいマース。また、万が一、警察に見つかって身体検査でもされれば言い逃れ出来ないデース。実際に、アンジローも最初からリュウタローを殺すことを前提に計画を行っていました。こういう人間は自分が裏切られることも当然考慮していマース。裏切られたときの保険として、ほとぼりが冷めるまで自分だけが分かる隠し場所に隠すに違いありまセーン」

「すると、やはり安次郎を確保しなければ宝石の行方も分からないということですか」

 刑事課長が肩を落として言った。しかし金剛は首を横に振って立ち上がった。

「ノー! 全ては逆デース! この事件は何もかもがアベコベなのデース! 全国指名手配などしてはかえって捕らえるのが難しくなりマース!」

「はぁ………?」

 刑事課長も五月雨も、怪訝な顔をして金剛を見た。

「私に任せなサーイ!」

 

 金剛が調査の依頼を受けてから三日後、六月六日午前十二時のこと。

 二十年ほど前に北多摩郡武蔵野町に出来たこの学校、日本畜産大学にその男は六日前から用務員として勤務していた。

 男は今、マスクと帽子を被り、作業着を着て薄暗い廊下を掃除道具を持って歩いていた。今の時間帯、この辺りはほとんど人は通らない。教室が遠いのもさることながら、ここにあるのは解剖室だった。そんなところの近くで昼食をとるなんて、慣れた学生でもやはり気分が良くないのだろう。血や臓物には慣れることが出来る。ただ、生臭い血の臭いや動物独特の獣臭、宿便から発生する糞尿の臭いはいくら換気してもしばらく体にまとわりついて残るように思えた。いわんや、動物の解剖実習室などはなおさらであろう。

 男は解剖実習室へ入る。ここには今朝、多摩動物公園から薬殺されたサーバルの死骸が黒い袋に入って運び込まれていた。普通、掃除は解剖された後に行うものだが、そうもいかない。学生共に先に見つけられては困るのだ。

 用務員という肩書から、掃除のために鍵を借りてくるのは容易だった。男はもどかし気に解剖実習室の部屋を開ける。

 解剖実習室は広く、飛び散った血を掃除しやすくするために床は一面タイル張りで、中央には三つの金属の台があった。通りに面した窓からは、さんさんと日の光が入っていて、そのせいかひんやりとした薄暗い廊下に比べて蒸し暑く感じられた。サーバルの入った黒い袋は、三つの内の中央にあった。傍らにはメスや鉗子が並べられた台もある。

 男は掃除用具を壁に立てかけて、素早く黒い袋の、サーバルというタグの結び付けられたジッパーを開けた。

 すると。

「シャー!」

 オレンジ色の猫が男へ威嚇する。

「うわっ!」

 男は飛びのき、その拍子に足がメスの並べられた台へぶつかった。ガチャガチャとメスの何本かがタイル張りの床へ落ちて鋭い音を立てた。その音に驚いて、猫は素早く台から降りて、部屋の隅へと逃げ去った。

「くそっ、何だ!」

 男が言うと、

「彼女はフーちゃんデース! どうか解剖するのは止めて下サーイ!」

 と後ろから声がした。再び男が驚いて振り向くと、解剖器具の入った戸棚の影から巫女服の様な服を着て、頭に金の飾りをつけた女が出てきた。

「何だお前は!」

「私は戦艦探偵・金剛デース。多摩動物公園から依頼されて、アンジロー・セルリに関する事故の調査をしていマース。ああ、仰らないでネ! あなたの名前は知っているネ、アンジロー=サン」

 金剛がそう言うと、解剖実習室の扉が開かれ、なだれ込むように拳銃を構えた警官が入って来た。

「アンジロー=サン、あなたはかなり面白い人デース。三人組で強盗を起こし、仲間の一人を身代わりにして殺した後は、ほとぼりが冷めるまで別人として潜伏する。何せ、警察が似顔絵で追っている人物は顔を剥がされて死に、もう一人は死んだことになっていマース。五月三十一日、どこで何をしていたか、どんな人間と交流があったのか、気にする者はいまセーン。更にどうやったかは分かりませんが、サーバルに金剛石を食べさせてその体内に隠しました。動物園の動物は、そう簡単に火葬したりはしまセーン。まして日本において希少なサーバルは、調査のために確実に解剖されマース。あなたはそれに乗じて金剛石を回収するつもりだったデース」

 安次郎は、自分の全てが白日の下にさらされて、観念したように俯いてため息をつき、そして言った。

「お酒でしょう? あいつが全然飲めないなんて、飲ますまで知らなかった。あいつ、ウィスキー一杯でぶっ倒れちまうんだもんなぁ。辻褄合わせに居酒屋に行ったのは失敗だったかな。家に酒瓶でも転がすんだったぜ」

「それは違いマース」

 金剛は言う。

「あなたの正体を暴いたのは、カバンチャンと加古園長デース! 警察の調査員に納得せず、私に調査を求めた二人のバーニング・ラブを見くびった、それがあなたの敗因なのデース!」

「連行しろ」

 扉から刑事課長が現れて命じると、警官の一人が安次郎に手錠をかけ、大勢の警官と共に解剖室を後にした。それから五月雨が解剖室へやってきて、

「フーちゃーん」

 と、猫なで声で呼ぶと、猫は尻尾をピンと立てて五月雨の方へ走ってくるのだった。

 

 その後の警察の調べで、瀬留里安次郎は全ての犯行を自供した。それに加えて、警察は彼の驚くべき正体を知ることになる。

 瀬留里安次郎は中国で両親を亡くした後、似たような境遇にあった安瀬竜太郎と知り合って二人で強盗団を結成し、中国で様々な悪事を働いていたのだ。しかしあるとき、安次郎は竜太郎に裏切られ、強盗団を追われて逃げるように日本へ帰国した。

 帰国した安次郎はそれまでの生活を忘れて真面目に働いていたが、東京へ戻ると何と思いがけず竜太郎と再会した。竜太郎も安次郎と同じく、仲間から報奨金と引き換えに密告されて日本へ落ち延びてきたのだ。

 再開した竜太郎は、当時、仲手川義彦の家で働いていた女中、成瀬リルを情婦にして、仲手川氏の所有する金剛石『サンドスター』を盗み出す計画を立てていた。当初、安次郎は計画への参加に難色を示していたが、

「参加しなければお前の過去をばらすぞ」

 と、脅されてやむなく参加した。その際に安次郎はこう思ったという。

「この男を殺さなければ、俺は生涯、こいつに食い物にされる………」

 そこで安次郎は、もし、強盗が成功して警察に追及されても逃げやすいようにお互いの名前と住所を交換して生活を始めるころを竜太郎に提案した。

 五月三十一日、強盗を成功させた安次郎は祝杯と称して自宅で竜太郎に料理と酒を勧めた。本来なら、充分酔いが回ったところで殺害を決行しようと思ったが、竜太郎が酒に弱いと断った。それでも無理に飲ませると、わずかウィスキー一杯で昏倒した。昏倒した竜太郎の首を、あたかも肉食動物にやられたかのように圧迫して窒息せしめた安次郎は、首と顔の皮膚をズタズタに切り裂いた上で剥ぎ取った。その上から包帯を巻いて血が出ないようにし、バッグへ入れて夜の動物園へ運び込んだというわけである。

 しかしその間に竜太郎の家へ文房具をとりに行くなどして想定よりも時間を食い、その間に竜太郎の死後硬直が進んでいった。結果、ドアノブに竜太郎の手をあてがった際に小指を折ってしまった。さらにサーバルの檻へ死体を運び、顔の包帯を取って小屋へ引き返した際に、包帯から血が滴ってコンクリートの床に付着して慌てて拭き取ることになった。金剛と五月雨がドアの近くで発見したのはこの血痕である。

 全てが終わったあと、竜太郎の顔の皮膚と、それを剥がすのに使った器具、包帯一式を強盗に使った偽パトカーにしまい込んで東京湾へ放り込んだ。これについては警察が安次郎の証言をっもとに東京湾をさらったところ、確かに車と、内部に血痕の付着した包帯、器具を発見した。

 そして安次郎は、犯行前にあらかじめ偽名で日本畜産大学に用務員として潜り込み、サーバルの検体が到着次第、金剛石を取り出すつもりだったのである………。

 一方、そのサーバルはというと、その後、無事に肛門から糞と共に金剛石を排泄した。それ以来、例の、

「ケッ、ケッ」

 という妙な動作はしなくなったという。

 この事件は新聞で大々的に報じられ、

「サーバルってなんだ?」

 と思った東京の人々はサーバルを一目見るために檻の前に押し掛けて、大盛況であると、金剛と五月雨はあとでかばんちゃんから聞いた。

 金剛もサーバルを救った上に、無事、仲手川氏の金剛石を取り戻したことから直々にお礼の言葉が屋敷の前で言い渡され、その写真は全国紙の一面を飾ることになった。




『戦艦探偵・金剛、金剛石を奪還する!』
 新聞の見出しを読んで、金剛は少し眉をひそめた。何だか自分の名前がダジャレに使われているような気分になったからだ。
「それに何だか読みにくいデース!」
 金剛がそう言うと、五月雨が給湯室からティーセットを持って現れた。
「また新聞ですか先生。全くナルシストなんですから」
「ナルシズムとは違いマース。私の場合は厳然たる事実デース!」
 五月雨は金剛の言葉を無視してティーセットを机の上に並べていく。
 すると、カリカリという音がドアの向こうから聞こえた。
「あら」
 五月雨がドアを開けると、オレンジ色の猫が事務所の中へ入ってくる。その首には赤い首輪と鈴が付いていた。
 事件の後、あのエジプシャンマウの雑種フーちゃんは、無事に大淀によって飼われることとなった。本当なら五月雨が飼うところであったが、
「あなたたちはしょっちゅう事務所を空けるでしょ」
 との一言で親権はあっけなく大淀へ移った。それでもフーちゃんは五月雨に懐いているらしく、紅茶の時間になると決まって五月雨を求めて事務所に来るようになった。
「もー、フーちゃんたら可愛いんだから」
 五月雨がフーちゃんを抱くのを見て金剛も、
「私もフーチャンを抱っこするネ!」
 と、手を伸ばす、が、
「シャー!」
 猫は威嚇して金剛の手を叩いた。
「何するネ!」
「袋に入れられたことをまだ根に持ってるんですよ。全く、犯人の居場所が分かってるんだったらさっさと警察に言えばいいのに、劇的な逮捕を演出しようとするから」
 そう、サーバルの代わりにフーちゃんを袋に入れて大学の方に手配したのは他ならぬ金剛であった。
「いいじゃないかネ、それぐらい許してよ。ネ?」
 そう言って金剛はフーちゃんの顔に自分の顔を近づけると、
「シャー!」
 手を振りかざしてくるのだった。
「ウウウウウウ」
 しまいにはバイクのエンジン音じみた唸り声まで上げ始める。
「あはは、嫌われちゃいましたねー」
「うるさいネ!」
 すると事務所の電話がなった。金剛が不機嫌そうに受話器を取る。
「はい、金剛探偵事務所デース」
「あの、実は金剛石さんに折り入ってご相談があるのですが………」
「ノー! 私は金剛石じゃありまセーン! 戦艦探偵・金剛デース!」

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