それゆけラーメン大好きJK妖狐と麺類妖娘たち 作:エビの衣風巻
太陽が一日の折り返しを意識して徐々にその出力を抑えつつあり、コンクリートとガラスでほとんどが構成された都市の一角も薄暗さが勢力を増してきている。中でも、周辺の地域を含む広大な土地の交通面で重用される駅の周りはそれなりにビルが並んでいるのもあって、人や車の往来に大きくその影が落とされていた。
駅の前ではタクシーやバスが乗客を待ち構え、或いは降りてきた人間を待つ乗用車も何台か見受けられる。駅舎の周りには手に持った携帯を必死に弄る老若男女らが陣取り、定期的に鳴る改札口の電子音が、利用客の多さとこの地域の発展を物語っている。
さて、現代社会の代表ともいえるこの場所、そこにいる人々は何の疑問も持たないが、客観視、観察するためのあらゆるフィルターを取り払った俯瞰視点で見てみると、不可解な存在が混じっているのがわかる。具体的に言えば、かなり浮いた奴が駅前で仁王立ちしているのである。
姿形は人間に非常に酷似している。二本の足で立ち、骨格や顔のパーツの配置はホモサピエンスと相違ない。背丈や顔つき、雰囲気は十六、七ぐらいの日本人女性のものだ。身に纏う紺色のブレザーとスカートの胸元にはどこの学校かは不明だが大層な校章が縫い付けられており、肩に掛けた鞄に飾られたキーホルダーの類は年頃の女性が好みそうな可愛らしいものが選ばれている。それの手にもスマートフォンが握りしめられており、インストールされたアプリを使いこなす様はまさにJKそのものである。
だが、JKには、と言うよりも人間には決してあることのない特徴が、彼女が人間とは別物の、非常識の世界の住人だということを証明していた。
純正日本人では生まれえない、白みがかった銀鼠色の髪の毛は背中まで伸ばされ、頭部には三角形のふわふわしたものが引っ付いていた。コスプレイなどで使われる作り物だったらどれだけよかっただろうか。周りの音に反応し痙攣したり伏せられたりするそれは、明らかに血の通った体の一部であり、耳と呼ばれる器官であることがわかる。
腰のあたりからはこれまた抱き心地のよさそうな尻尾がゆらゆらと揺れ動き、しっかりと神経の通っていることをアピールしている。その数なんと九本。
狐耳、九尾。その道の人間ならそれを聞いただけで卒倒してしまうような属性を持つ少女。
人に似て人に非ざる闇の存在、古来より人々に恐怖を振りまく妖と呼ばれ恐れられておきながら、一方である種信仰を得ていた日の本の代表的な化物。
まさに“妖狐”と呼ばれるものだ。
JKの格好をした妖狐はその奇異な見た目を隠匿しようとする素振りも見せず、白昼堂々駅前でスマートフォンを触りながら、鞄に括り付けた狐のキーホルダーを空いた手の指で弄ぶ。ちょっとした騒ぎになってもおかしくないとんちきな光景だが、誰も彼女に触れようとせず、日常として受け入れてしまっている。
恐ろしい存在である彼女は、一体何が目的で人間社会に溶け込み、その身を晒しているのか。その恐ろしい陰謀は何なのか。現代に甦った大妖怪が現代で為そうとしていることは一体……。
「あー、ラーメン食べたくなってきたな……今日もラーメン屋行くか!」
彼女は、妖として浮世に生を受け、九尾にまで上り詰め絶大な力を誇って地上を席巻した後、人類の発展、文明開化の音を聞いて妖怪から人間の天下への移り変わりを察知し、妖社会の古臭い慣習や泥の様な驕傲に彼らの終わりを感じ取り、彼らを見捨て人に混じり余生を過ごすことに決めた妖狐。人間を観察する中で、一番輝かしいと感じた女子高生に模すると決めた妖狐。
そして、人間の作るラーメンの大好きな、所謂ラーメン大好きJK妖狐なのである。
「バイト代も入ったし、ラーメン食べに行くか」
大妖怪であるという紹介をした直後、そんな上位存在が口にしてはいけないような単語を溢す妖狐だったが、彼女は今女子高生として振る舞い、周囲もまた彼女を学生と認識をしているため、誰もそれを疑問に思うことは無い。
ケモ耳とケモ尻尾というのは明らかに人の目を集めるパーツだが、人間の中に混じっても騒ぎにならないのには屁理屈染みた理由がある。
超常的な存在である妖らは科学の発展により存在を否定されるようになった。人々の信仰を神は失ったと同時に、妖も人からの畏怖を断たれたのである。もはや人間たちは、神や妖怪たちがこの世界に存在出来ないと思い込んでいる。今目にできるのは全て起こりうる現象の一つであり、人は信じるものしか認識しようとしないという概念理論を、他者や世界から自身の存在を観測する際のフィルターに使用することで、九尾の狐、妖狐など信じないという極大多数の人間からは狐耳や尻尾は見えないようにしているのだ。
人外存在を信じない人間しか現代社会にはいないから成り立つ擬態で、信心深ければ見えることもあるらしい。それほどの迷信深い人間は数えるほどもいないし、たとえどれだけそんな人間が喚こうが十中八九精神疾患と断定されておしまいなので、それほど問題でもないだろう。
閑話休題。
「あのクッソ性悪な白蛇の金ってのはどうも癪だけど……まあ、しょうがないか、ラーメン食べたいしね」
脳裏に浮かぶ忌々しくも現在進行形で恩義のある輩に眉根を寄せていた妖狐も、スマホの画面から顔を上げるとほんの少し口角を上げて歩き出した。
これから自身の好物を戴きに参るのだ。硬い表情をしていては味覚も縮こまって真に楽しむことはできないだろう。食というのはいかなる時も自分の心を高揚させるものでなければならない、というのが妖狐の心情の一つだった。
駅前のロータリーから続いている繁華街の道ではなく、それとは真反対の、少し落ち着いた雰囲気の家屋が散見できる通りの方へ、妖狐の軽い足取りは向かっていく。
駅前すぐの場所にも美味しいラーメン屋はいくらでもある。ラーメンチェーン店というのはある程度の味が保証され、適度なラーメン欲を消費するのであれば申し分ない。だが、今日の妖狐は給料日であり、懐が温かく、気分もかなり昂揚しているが故に、そのラーメン欲は計り知れないものとなっている。これを満たすには、当たるにしろ外れるにしろ、全く新しい領域を開発するしかないのである。
全くリサーチをしていないわけではなく、向かっている方面にラーメン屋が存在していることは知っているものの、普段あまり言っていなかった場所に行き、冒険をする高揚感というのも、JK妖狐はまた楽しんでいた。
丘を切り開くように通る線路を大きな橋が跨ぎ、再び街道に出る直前でやや狭めの道に差し掛かると、車両の往来も落ち着いた、民家がちらほら顔を見せる通りになる。遠目に見ても飲食店が何軒か発見できるなかなかいい景色で、妖狐は意気揚々と歩きだそうとしたが、幸か不幸か、通りのメニューを物色する間もなく愛しのラーメン店にぶつかってしまったのだった。
楽園行きの看板を速攻で見つけ、目を輝かせる妖狐だったが、この辺りではラーメンだけでなく、どんな種類の食事にありつけるのか探りを入れてみるのも開拓の楽しみの一つだとも彼女は考えていた。勿論、ラーメン屋に何店舗か目星をつけて、その中から悩みに悩んで今日の一杯を選ぶというのも至福の時だ。
だが、今宵のJK妖狐はラーメンに飢えている。忌々しい白蛇と呼ばれた何者かに呼び出され、要らない精神的疲労を負わされたことと、労働の対価を受け取り潤った財布に気分がやや上ずっていたこと、そして何より、妖狐がラーメンの中でも特に好んで食している『とんこつラーメン』という文字を彼のラーメン屋が看板に掲げていたことが、彼女の自制心を切り伏せいともたやすくその店に近づいてしまうのだった。
妖狐は、とにかくズルい、そう内心で溢した。まず、店の外観がズルい。チェーン店の様な華々しさやしっかりとした外観ではない。入り口からのぞき込める範囲内でも、店内はややこじんまりとした個人経営にありがちな内装だ。先述した店の看板もこれまた古臭く、安っぽいネオンで『豚骨ラーメン』と大きく書かれていて、自身またはその同族を調理されているというのにいい笑顔を外に向けている。小さなのれんの向こう側で、初老の男性が調理台と思しき場所で作業をしている様と合わされば、
「こんなもん行くしかないやん」
思わず飛び出したエセ関西弁を言い終えるや否や妖狐は暖簾をくぐり、狐耳を震わせながら常識的な範囲内で勢いよく戸を引いて心躍る戦地に足を踏み入れるのだった。
店内の様子は外から見た印象とほとんど変わらない。店の奥と中心を調理場にし、カウンター席がその周りをコの字で囲っている。必然的にどの席からでも店員との距離が近くなり、客の動向に目を光らせられるようになっている。
「いらっしゃい、ここ座ってください。」
店主の若干嗄れた声は意外にもかなりしっかりと店内に響き、入ってきた客が一見だとわかるとすかさず案内をしてくれた。妖狐的にこっそりプラスポイントを上げたくなるようないい声色であった。
背の高い椅子の下に鞄を置いて、用意された水を一口。
妖狐の他に客は三人ほどで、そのうち老齢の男女二人組はかなり仲睦まじく麺をすすっているので夫婦で来ているのがわかる。もう一人の壮年の男性は黙々と炒飯を頬張っている。店主はそのどちら共に気さくに話しかけていて、特に老夫婦の方はかなり気を許している様子だった。男性客の方もまんざらでもない様子で、かなり顔の知れた常連客なのだろうことが推測できる。
なるほどこれはもしかしたらアタリを引いたかもしれないと妖狐の中の期待は膨らみ、いよいよ注文を決めようかとメニューを探す。
卓上には箸と調味料の類しか載っていなかったので、ぐるりと店内を一望してみれば彼女の斜め後ろに、やはり木の札が壁にかかりメニューを一人一つ抱えて並んでいた。
『らーめん』と書かれた札を左端に、様々な味の発展系が続き、定番のサイドメニューも豊富に取り揃えてあるようだ。
「メニューはそこに書いてあるのしかないよ」
周りを見回す妖狐を店主は見逃さなかったようで、初めての来店を察してかにんまりとした味のある笑顔を向けてきていた。
ちょっと気恥ずかしさを感じて店主の目線から顔を逸らし、再びメニューに目を通すも、基本となる豚骨ラーメンとそのバリエーションはどれも捨てがたいもので、何故ラーメンは一回の食事につき一杯しか食えないのかという、不条理にも似た体の構造を恨めしく思うばかり。
一回思考と嗜好の迷路に迷い込んでしまうと、なかなか抜け出せないのが食事時ではかなり顕著になる。しかも、誰に言われているわけでも決められているわけでもないが、悩めば悩むほどその時間を咎められているような気がしてくる。それがたとえ一人の時であってもだ。
そこで沼に嵌らないようにするのが大切だと妖狐は分かっていた。
初めての店では店主のおすすめを頼もう。シンプルな答えこそ王道でベストなのだと。
「すみません、おすすめって何かありますか?」
店の奥で作業をしていた店主に声をかけると、何やら自慢げな表情でカウンターの縁に手をかけて木の札を一通り指差した。
「スープは一本しかないからとりあえず“らーめん”頼んでよ。メニューいっぱいあるけども、全部味が変わるから次来たときに挑戦してみて。味の変化を目いっぱい楽しめるようなの作ってるからさ」
「そりゃそうですよね、んじゃ“らーめん”で」
深く考えすぎていた自分は馬鹿だなぁとか、初見でこだわりを見せてやろうとか洒落たことをやろうとして何になるんだ? などというツッコミをJK妖狐は自分自身に叩き付け、注文を通してからは一人前の麺を取り分ける店主の背中を暫く眺めるのだった。
ラーメンが完成するまでの間スマホを触って時間を潰すのは、とても簡単な行為だ。特に一人で行動をしているときは、ただ呆けているよりもSNSを触ったり多種多様の記事を呼んだりと、その環境から孤立することで時間に意味を見出すことは悪くはない物だ。
JK妖狐も例に漏れず、ニュースサイトで大して興味もない記事の羅列を開いたが、彼女はそれで終わらなかった。スマートフォンをわざとらしく目線にまで持ち上げたのは、店内や店主を観察するのを目立たないようひっそりと行うためで、銀毛の耳はしっかりと麺が沸騰する湯の中で踊っているリズムを捉えていたし、和やかに談笑する夫婦や少し離れたところに座っている男性の背中、器にスープの下準備をする老人の雄姿などはしっかりと赤目が把握していた。
周りの人間からは見えていないからいいものの、妖狐の九つに分かれた立派な尻尾はかなりせわしなく先端を振っていて、見る人が見れば正気を失ってしまいそうな程の異様な光景を生み出していたが、ラーメンを待望し続ける妖狐はまるで気が付かない様子でカウンターの中を注視するばかり。人には見られないからと調子に乗っているのではないだろうか。
途中、店主と顔見知りらしい老婆が紙袋を持って入店してきて、中身のキャベツをおすそ分けするというイベントにも妖狐は出くわすことができた。ご近所付き合いもかなり活発に行われているようで、古くから変わらない人間の良い営みを都会の中で目の当たりにしたことに、長命者である妖狐も思わず顔を綻ばせずにはいられなかった。
この土地がまだ畑と山しかなかった時代にJK妖狐が思いを馳せている間にどうやらいよいよ、本日の主役が完成したようで、店主の手元を覗き込んでみれば盛り付けを終わった器がカウンターに上げられるところであった。
「はいお待ち」
短い言葉と共におかれた一品を両手でそっと持ち上げて、音を立てないように目の前に下ろす。
程よく昇る湯気の向こう側に広がる水面が黄金の輝きを放つのを、JK妖狐は確かに見た。
櫨染色のスープに、薄切りだが大き目のチャーシューが二つ陸地のように浮かんでいて、真ん中にメンマが小さく盛られてみずみずしい葱が散らされている。これぞとんこつ、まさしくとんこつ、と言った風貌にJK妖狐のテンションは鰻登りで、赤みがかった金色のその味わいはいかなるものかという期待に、彼女の空腹は今頂点に達した。
もともと髪の一部を縛っていた黒い髪ゴムを一旦外し、食事の邪魔にならないよう彼女の長い髪を後ろにひとまとめにしてから再度装着。ブレザーとワイシャツの袖をまくり、これで準備は万端。
まずはスープからとレンゲを手に取り、押し沈めるようにして窪みを満たして口元に運んだ瞬間、JK妖狐は微かに違和感を覚えた。それは本来なら感じるだろう強烈な気配が限りなく薄まっていたからであり、その真の姿を彼女はすぐに思い知ることになる。
舌先にスープが触れてすぐの事だった。JK妖狐は驚愕で身を震わせた。
確かに、とんこつスープの強み、特徴であるしっかりとしたコクや舌触りはしっかりしている。ただ、鼻腔を下から突き上げるような、嗅覚を総なめにする豚骨独特の臭みが全くと言っていいほど存在しなかったのだ。豚骨ラーメンが人の好みを二分する最大の特性が、顔を見せなかったのである。
スープが通った後に油膜が口内に張っていく感覚は流石豚骨といった具合だが、重厚感がありながら上品さが感じられ、あっさりと形容できてしまうほどの後味の良さに何度もスープだけ味わってしまいそうになりほどだった。
「かなりさっぱりしてるでしょ」
これまたほんわかした声を店主が妖狐に掛けてきた。
ラーメンに目を奪われていたJK妖狐は全く気が付いていなかったが、店主はどうやらずっと彼女のことを見守っていたらしく、目を丸くして頷きだした妖狐に微笑ましさを感じたのだろう。満面の笑みを浮かべてJK妖狐のことを見つめていた。
「はい、ビックリしました」
強がる必要もないので彼女は素直に答えたが、ちょっと照れくさい気持ちもあって店主の顔は直視できなかった。
「とんこつって匂いがきついイメージあるでしょ。でもね、それは嘘。ほんとは臭くないのよ。他のどの店も調味料を入れすぎてるから匂いがどんどんきつくなっちゃうんだけど、うちは違うの。骨をじっくり煮込んで、時間をたっぷりかけてスープを作るからね、そうすると匂いってあんまりしなくなるのよ」
強烈なにおいまでも楽しむのが豚骨の嗜み方だと思っていたJK妖狐は、どうしても食する身としても妥協しがちなところをしっかりと工夫して実際に変えてみせる、その手腕と心意気に惜しみない称賛を心中で送った。
前傾姿勢になってまで説明する店主の熱意は、今JK妖狐が口にしているラーメンが証明している。ならば客である自分も、それに応えねばならないだろうと、妖狐は意気込みを新たにする。
少量の麺を灼熱の海から救い、細身でコミカルに身をくねらせる縮れ麺と対面すると、何の躊躇も無く、上品さの欠片も無く豪快の音を立ててすすり上げた。豚骨の油でとろみを帯びたスープがわずか数ミリの糸にしがみつき、舌で踊り歯茎に染み渡り口蓋に鞭打つ感触が、何度味わってもさわやかな印象を残し、唇で簡単に断ち切れるがしっかり腰がある麺の大人しさとの絶妙な相性になっていた。豚骨がもう少しこってりめだったら、麺があと少し太く歯ごたえがあるものだったら、噛み合い悪くここまでスムーズに胸に入ってこなかっただろう。
もともと味がしっかりついているメンマも、舌にしっかりとできる油膜と豚骨のコクのお陰で癖無くコリコリした食感を楽しむことができるし、薄切りの大判チャーシューも徐々に上昇するガッツリ欲を程よく満たしてくれる。いかにさっぱりした風味とは言え、やはり豚骨は豚骨なのでしっかりと舌や喉、はたまた胃袋にしっかり乗っかってくるものはあるので、頃合いを見てみずみずしい葱を頬張れば、軽快なリズムで濁った下から咽頭をリセットしてくれた。
心臓が熱を持ち、全身くまなくその興奮を伝えていく中、額に汗が滲み顎にも伝わっていく。手の甲で幾度かそれを拭いながら、それでも箸を止めることは無い。
後半に差し掛かると注いだばかりのスープとはまた違った顔を見せ始めるのがラーメンの面白いところだ。舌が温度調整にリソースを割かなければならなかったところが、徐々に接触するスープが冷まされて来たことにより段々と味覚に力を注げるようになるからだ。
たいていの場合は味がかなり濃くなっていく。それは単純な出汁だけでない、ふんだんに使われた調味料が正体を現すようになるからだ。恐らくここで、スープを飲み干すことを断念する人間も増えることだろう。
JK妖狐は、美味しいと思ったラーメンはスープまですべて飲み干すことこそがマナーであり、調理人に対する敬意の払い方だと決めているのでそうそう残すことは無いのだが、それを考慮しないにしても、終わりが見えている段階なのに飲みやすさが持続していることを不思議に思った。
そして理解した。店主が最初に言っていたことの意味を。『豚骨はほんとは臭くない、調味料を入れすぎるから匂いが強くなる』という、その本質を。
具も麺も粗方味わい尽くし、さあ後は最後の一滴までその黄金を飲み干すだけだと両手で器を持ち上げかけた時、ちょうどまた店主が柔らかい口調でJK妖狐を呼び止めた。
「あんたスープ飲み干す人でしょ、そしたらね、そこにお酢があるでしょ」
言われて妖狐が探してみれば、確かに箸や爪楊枝、一味などの調味料が置かれている中に、檸檬色の透き通った液体の入った容器が置いてあった。
「僕が合図するまで入れてみて、んで飲んだら水飲んでみてよ。面白いから」
店主が言う面白いの意味が全く分からないままだったが、彼の言葉を信じるだけの材料が目の前に揃っているだけでなく身を持って体験していたので、言われるがままに容器を傾けて豚骨と酢を混ぜ合わせていく。若干入れすぎなのではと妖狐が心配になった直後に店主のストップがかかり、にやつくその視線を横目に恐る恐る器を持ち上げ、未知の世界と接吻を果たした。
確かに酢の穏やかな酸味が豚骨の癖を丸め、舌への労わりを感じる味わいへと変化はしたが、それまでの事だった。まだ何かからくりがあるに違いない、店主は水を飲めと言っていた、だがただの水に何があるというのか。JK妖狐は店主への信頼が若干揺らぎかけているのを自覚しながら、カウンターに置かれた水差しから水をコップに補給し、やや震えながら口に含んだ。
喫驚は既に通り越したものだとJK妖狐は油断していた。感嘆は慣れたものだと思い上がっていた。快楽の山場は過ぎたものだと勘違いしていた。
口内の熱気と体温で即座に温まった水を喉の奥に流すと、先ほどまで土砂降りの雨を降らせていた雲が遥か彼方に移動していたような、泥にまみれた尻尾を湖で洗い流した後のような、豚骨ラーメンを食べた後では考えられないような爽快感が喉元を通り過ぎていった。いくらあっさりとした味付けでも、豚骨のコクはなかなかリセットできるものではないとJK妖狐は思っていた。油膜が胃袋の辺りまで張っているような、そんな感覚と付き合っていくしかないものだと思っていた。
敗北だった。JK妖狐は今この場で完全に叩きのめされた。気が付けば、空になった器の底をJK妖狐はまじまじと見つめていた。補充したコップの水もいつの間にか尽きていて、舌の奥に残る幽かな酸味だけが、JK妖狐のお腹に収まった衝撃の残り香だった。
「僕が作りたかったラーメンはね、味が印象に残るラーメンじゃないの。ふとしか瞬間にまた来たくなるラーメンが作りたかったの」
そう語る店主の顔を見上げて見れば、人柄のいい笑顔が妖狐に向けられていた。
ああ、そういう道もあるのだなと、簡単なことながら気づくことの少ない事実が、妖狐の胸板を叩く。
物凄いラーメンを作り名を広め、全国各地から愛好家が集うような店にしたいという願望は非常に一般的だ。その向上心や競争心がラーメンという文化を絶えず流動させ、発展に寄与してきたのは間違いない。
その一方で、地域に寄り添って細く長く開いている店があることを忘れてはならない。近所の人間が何度も足を運び、店主や客同士で情報を交換する、コミュニティの中心になる。仕事終わりにビールを一杯ひっかけながら店主に愚痴り、まるで店と友人になった様な関係性になる。そんなラーメン屋も、全国に数多存在している。
妖狐の他に来ていた客を思い返してみれば、皆店主と顔見知りだったようだ。
ラーメンを通して心が重なっている。なんと清い世界だろうか。妖狐はかつて自分が愛していた、人間の営みの美しさの片鱗を見たような郷愁を噛みしめた。
「ごちそうさまでした、また来ますね」
JK妖狐は会計を済ませると、席を立って目を細める。九尾は満足そうに身をくねらせ、狐耳も後ろに寝かされていた。
「はい、まいど」
振り返ることなく店を出て、丸まっていた背中を伸ばして少しだけ冷えた空気で灰を満たす。空は赤らみを通り越し至極色の隆盛を展示し、ただ都会の放つ強烈な光りの群れがまだ人の時間が終わらないことを叫び続けていた。
「お酒買って帰るか」
JK妖狐はその見た目では到底許されない爆弾発言を、独りコンクリートで舗装された道に落とすが、呟きは誰に拾われることも無く、一筋のそよ風に吹かれて形を失っていった。
「あの、身分証明書のご提示をお願いします」
「あっ」
これから不定期に書いていこうかなと。
別に全部飯テロになる予定じゃないです。
あしからず。