結婚願望があるかと聞かれたら、正直に言うと「ある」になる。
もっとも、老後の心配をしている訳でも身を固めたい訳でもない。特段子供が欲しいとも思っていない。ただ、自分が〝この人〟と選んだ好きな人と共に長く過ごせるのならば幸せだろう、と若造ながらに思うのだ。
朝8時、もうすぐ1限。
身体を起こそうとしても、右腕が妙に重く上手く上がらない。目線をやると、俺の腕を枕にスヤスヤと寝息を立てる黒江の姿があった。
昨晩は随分とお盛んだった。
やれサークルでナンパされたとか、ゼミの先輩から声をかけられただとか、こいつが挑発的に言うもんだから。まあ、受験が終わってからこうなることを見越して、筋トレその他運動を習慣化していて良かった。予想通り、黒江は相当に体力があった。
高校生のときにあれだけ真面目に勉強していた俺たちはもう見る影もなく、今は堕落怠惰な大学生として身をやつしている。
さらりと、無造作に流れている黒江の茶髪をなぞった。
キューティクルが一切失われていない触り心地。同じシャンプー使ってるはずなんだけどな。
右腕に痺れを感じ、起こさないようにそっと抜いた。
自分の胸に黒江の顔が来るよう抱くと、鼻先に髪が触れる。そのくすぐったさに幸せを感じて思いっきり黒江の身体を抱き締めた。毎朝のこの瞬間。自分の好きという気持ちを相手に伝えて、その全てを相手が受け入れてくれるこの瞬間が最高に好きだ。
「ちょっ、痛い痛い」
「ああごめん。おはよう」
「おはよ」
寝起きブッサイクだね、なんて。
同棲して最初の方は言われることも多かったが、今はそんなこと露ほども気にされなくなった。
寝起きの顔の浮腫みなんて当の俺が百も承知なのだが、そんな小言を言わなくても、つまり外見を整えていなくても俺を好いてくれている事実はただ嬉しい。
ただし、黒江は寝起きも可愛い。
今でもこの生活が夢なんじゃないか、と時々思う。
起きたら好きな人が隣で寝ていて、同じ大学・学部に登校して、同じ授業を受けて、お昼も一緒に食べて、晩御飯の献立を一緒に考えて、それを作って、夜は談笑して、その後は割愛。その繰り返し。
今まで出会った人の中で、黒江が一番好きで一番一緒にいて落ち着く人だと断言できる。そんな人が彼女として隣にいてくれる。
夢でなくて何と言うのだ。
「朝ごはんどうする?」
「コンビニでいいよ」
「了解。買ってくるよ、準備ごゆっくり」
「いつもあんがとね、夜」
ベッドの上でキスをされる。
歯を磨いてないのに汚い、と最初の方はお互い拒否していたが、「口を閉じていたらOKだろう」という暗黙の了解がいつしか出来上がっていた。
コンビニに着く。
塩むすびを2つ買い、雑誌コーナーで従姉妹が表紙を飾るファッション雑誌の新刊を見て、元気そうだと安堵する。
従姉妹──風間ちえるは高校卒業後、着の身着のまま海外に出て、現在はバックパッカー兼モデルとして活躍している。
ちなみに彼氏(ちえる称)の先輩とやらは付いて行ってくれなかったらしい。その先輩はどうやら相当にモテるらしく、俺の従姉妹は恋愛戦争に負けたのだろう。
その報告を受けて、ちえるが一晩中泣いていた時はどうなることやらと思ったが。
さすが風間ちえる。一晩で吹っ切れて、その次の日に海外に飛び立った。東北旅行でちえるには数々の恩義があったから、俺が一晩中こいつの愚痴を聞き続けたことが、将来に少しでも役立ったのなら嬉しい限りだ。
ピコン、とメッセージが届いた。
『私が表紙の新刊発売してるでしょ、買っといて』
『会社から貰ってるんじゃないのか?』
『少しでも売り上げ上げて次の仕事もかっさらうんだよ!』
商魂たくましい。どこに行ってもこいつは生きていけるんだろうな。
『あ、花子先輩にやさしくしてる?』
『もちろん』
『泣かしたらマジ殺すからね』
『あれ以来泣かせたことは無いよ』
『なら良し。元気で』
あれ以来。
東北旅行2日目、
1回振られてOKされるなんて、とか、俺の傷ついた気持ちはどうなるんだ、とか、告白された時は思ったものだけど。
その背景──黒江の父親の話を聞いてから、そんな思いはどうでも良くなった。
俺は一般家庭出身で特別な経験は何もしていない。当然、誰かを失った経験もない。そんな俺が黒江の気持ちを推し量るなんて無理な話だ。
俺も俺の将来の保証はできない。仕事で海外に出ていつかどこかで死ぬかもしれない。それでも、傍にいる間は黒江のために尽くそうと決意した。泣かせないというのもその一つだ。
塩むすびを食べつつ家に帰ると、黒江は髪を乾かしている最中だった(黒江は朝もシャワーを浴びる)。
後ろから手を回す。ちょっと、という声を無視してそのまま抱き締め、髪の匂いを吸った。
「ちょいちょい。髪乾かせないんだけど」
「頑張って乾かして」
「めんどくさ……」
ぶつくさ言ってるけど、鏡に映る顔がニヤついてるの見逃してないからな。
「てか急にどしたん?」
「
「いや。あのさ。別に恥ずいこと言わんで良いんだけど。でも何か今日の違くない?」
鋭い。ただ、改めて黒江を大事にしようと思った、とか、ちえるから連絡が来た、とか、全部が全部野暮な話だ。理由があるから黒江を抱きしめた訳じゃない。いつもこうしたいと思っていて、今日はたまたま気持ちが昂っただけだから。
「大好き」
伝えることはそれだけだ。
その瞬間、ピタっとドライヤーの音が止まった。
髪を乾かし終えたのだろう、俺の手を振りほどいて、黒江がドライヤーを元の場所にしまう。
そこで黒江は振り向いた。改めてお互いにハグをすると、狭い洗面台の前で俺たちの身体はそれなりに密着した。シャワー後の火照った身体から立ち上る湯気が目に見える。じわりと伝わる体温が脳を掻き回すようで、自然とまばたきが多くなった。
黒江の首筋を伝う汗が右手の指に滲んだ。鏡越しに見える無造作に束ねられたポニーテール、うなじから僅かに跳ねた産毛。こちらを見つめる蕩けた目。舌ひとつ分だけ入りそうな唇の隙間。爪に引っかかる下着のホック──。
おもむろに首元に腕を回され、黒江の口に唇を寄せられた。
目を瞑り、そのまま互いの口元を近付けキスをした。スイッチが入ったように、その途端に俺も黒江の後ろ頭に手を回した。舌先を口の中にねじ込まれると頭から腰にかけて電気が走るような感覚に襲われる。
呼吸が無意識に速くなり、互いの口の狭い隙間から逃がすように息を零すと、背中に指文字で「続きは夜ね」となぞられた。
その後数十秒見つめ合って唇を離すと、黒江は何事も無かったように「学校行こ」と手を引いた。
半ば放心状態で俺は黒江の背中を追い、塩むすびの味もわからないまま学校へのバスに乗った。黒江がどんな顔をしていたかは見ていないが、バスの中でも手が繋がっていたからきっと上機嫌だったのだろう。
さて、説明することでもないのだが、黒江と俺の関係は、少し黒江の立場の方が上である。
☆
そんな訳で、学校終わり。
夜、ベッドの上、ピロートーク。
黒江は終わった後、いつも恥ずかしそうに身体を布団の中に隠す。数分前は全てをオープンにしていただけに、そのギャップには感じ入るものがある。この時間、ひょこっと出てきた頭を猫を撫でるように触るのが好きだ。黒江も満更ではなく、猫の鳴き真似をしながら反応する。にゃー。なでなで。にゃー。なでなで。にゃー。にゃーにゃー……。
「いや何か反応しろよ!! 恥ずかしいだろ!!」
にゃん。
24時間のうち、深夜1時から60分くらいだけ俺の立場が上になれる。
ベッドから起き上がったと思うと、黒江ははだけた姿を見られることを物ともせず俺の頬をつねろうと躍起になっていた。
そうすると黒江が俺に覆い被さるような体勢になり、俺の視線は苺のような何かに自然と向かう。本人の名誉のため、あまり暗くてよく分からないと前提をつけておく。
そして実際に頬をつねられるまで身体が密着すると、口元にそれがすっぽり嵌る。途端に「ひゃん!」という萌えキャラのような声を出して、黒江はまたもぞもぞと布団の中に帰っていった。さながら芋虫のよう。
「いじわる」
「ずっと今の可愛い黒江ちゃんでも良いよ」
「……アンタ、終わった後だけ妙に余裕出してくるよね」
恥ずかしさで黒江が顔も布団の中に埋める。ふと背中に寒さを感じ俺も布団に籠ると、暗闇に慣れた目がはだけた鎖骨と胸を捉えた。枕元から差すオレンジ色の常夜灯からでも、胸元に付着した唾液が反射して光って見えた。朝シャワーを浴びる理由に改めて申し訳なさを感じつつ、ずっと眺めているのも忍びないので、布団から出てベッドの下に無造作に落ちている下着を黒江に渡した。
それを受け止め、黒江は目を尖らせながら真顔でシャツを着た。
「そういや今日もナンパされたんだっけ」
「ん? ああ。授業中に連絡先紙で渡されたっけ、たしか。あんま覚えてないけど」
「相変わらずモテますねえ黒江さん」
「別にどうでもいいっつーか……。てかアンタにだけモテてれば良いし。知んないけど」
「あら可愛いこと言う」
「あ? やんのかコラ。こちとら2回戦3回戦行けるんだからなコラ」
高校の頃に比べて随分と会話が生々しくなった。
「……てか、そういやアンタさ。いつまでうちのこと〝黒江〟って呼ぶの?」
と思ったら、急に核心を突いた一言を投げかけられた。
新幹線以来、花子と呼んで良いというお墨付きは貰っているのだ。実際車内ではそう言っていた。けれど、あそこで振られてから俺は一度も黒江を花子と呼んでいない。
トラウマが蘇るのと、それに──。
「黒江の方が響きがかっこいいんだよな」
嘘だ。
──実は恥ずかしいだけなのだ。
高校2年間で完全に定着してしまった呼び名は、いざ変えようと思っても口から出てきてはくれない。変に花子と呼ぼうとして、仮に噛んだりしようものならそれが関係が拗れるきっかけになったりもする。
たった一言で男女の関係は終わってしまうことがある。
「けど、いつか黒江じゃなくなる日が来るかもだし」
「風間になるってこと?」
こういう言葉は躊躇わず出てくるというのに。
「それ以外にあんの」
「無いな。そんじゃまあ、……はなこ」
「なんかたどたどしくない?」
ほらみたことか。慣れないことはするもんじゃない。
しかし名前を呼んだは良いものの、急に黒江は腕組みを始めた。
言葉の響きに納得がいかないようだ。
「ちょっと聞きたいんだけど。〝はなこ〟ってさ、可愛い?」
む。
正直に言うと、可愛くはない。
ああそうか。黒江はきっと。
「俺が花子って呼ばないのをそういう理由だと思ってるってことか」
「……なんかゴメン。気遣わせちゃってるね」
「そうだなあ、正直に言うと可愛くはないんだと思う」
「…………」
見てわかるくらいに黒江がしゅんとした。
花子。アストルムでわざわざ〝クロエ〟って名前にしてるらしいし、確かにハナコよりクロエの方が恰好良いかもしれないが、多少なりとも自分の名に思う所があるのだろう。けれど、「両親から貰った大切な名前だから」とそれなりに愛着も持っているようだった。
それを俺が呼んでくれない。理由は俺が慣れてないからだ。黒江との関係がこじれるのが怖いからだ。これは神に誓って間違いじゃない。
ただ嘘も方便と言うくらいだ。きっとここでの最適解は、花子でも可愛いと言ってこれから花子呼びを定着させていくことなのだろう。
「けど、ちょっと待ってくれ。続きがあるんだ」
俯きながら黒江が目線だけこちらに向けた。
俺が逡巡している間に目頭に溜まった涙が見えた。
それに身の毛が逆立つほどの焦りを感じ、考えがまとまらないまま口を開いた。
「でも、ちょっと、良い言葉が思いつかないんだけど。俺は名前はその人そのものを表すと思ってて」
自分でも何を言ってるのか分からなくなってきているが、それでも心に思ったことを真っ直ぐに言葉にした。
「多分黒江は花子って名前に少しコンプレックスがあると思うんだけど」
「アンタのさっきの反応で少しじゃなくなったけど」
「……ごめん。けど、別に花子って名前だけなら可愛いとか可愛くないとか、そんな感情そのものが湧かないんだけど」
名前は単に名前だ。それ以上の価値もそれ以下の価値もない。
人は名前を通してその人自身を見る。そうして〝その人が〟可愛いとか格好良いとかの判断のもと、その印象が名前への印象にも反映される。
だが自分となると話は違う。自分の思い込む自分像と名前は強くリンクしている。つまるところ、自分の名前がダサいと思ってしまったら自分自身のことまでもダサいと思ってしまう。
でも、そんな名前を呼んで欲しいという二律背反がある。
俺が夜なんてキラキラネームだからこそわかる気持ちだ。夜という名前を呼ばれることは恥ずかしいけど、黒江の口から呼ばれるこの名前はとても心地良い響きだった。
だから。深呼吸を一息。きっと俺は今まで出したことのない感情を言葉にしようとしている。
「……湧かないんだけど?」
「だけどさ。……黒江が──花子が、俺の彼女が、俺の一番大切な人が、その名前で居てくれて、俺に花子と呼んで良いと言ってくれることを、俺は心から愛しく思うし、ありがとうと思ってる」
俺の一番大切な人。
花子。
そのコンプレックスのある名前を、俺だけには呼んで欲しいと言っている。
名前を呼ばれないというのは辛い。でも呼ぶ方が呼び慣れていなかったら、結局会話が不自然になり最終的にその名前を呼ばなくなる。それが関係の拗れるきっかけになる。
いつか慣れたらその時にと思っていた。でも、それではダメなんだ。
「……だから、これから花子って呼んでもいいか。慣れてないから、噛んだり詰まったりするかもだけど」
部屋がしんと静まり返る。
どんな顔をするだろうか、怒らせただろうか。傷つけたのは間違いないのだ。言い訳がましかっただろうか。本心なのは間違いないのだ。
しかし、気付いた瞬間顔が暖かいものに包まれた。
頭が締め付けられる。痛さもあるけれど、精一杯の愛情を込めた言葉をこのハグで受け止めてくれたのだと思うと、嬉しさが込み上げた。
ああなんか、俺、泣きそう。
黒江──花子のことが心底好きだ。
「よくさ、〝うちのことどれくらい好き?〟って聞くじゃん」
「ん。毎回濁されてるやつ」
「世界一とか宇宙一とか、なんか薄っぺらい言葉だと思っちゃってさ」
「……んで?」
「でまあ。今回も例に漏れず、世界一とか言わねえんだけど」
言葉を聞いて、花子が苦笑する。
ああこいつは変わらないなという、ある種安心めいた笑いが出ていた。
それでも俺が何かを言いたそうにしているので、予定調和のごとくこちらの目を見て口を開いてくれた。
「〝うちのことどれくらい好き?〟」
「……まあ、どれくらいとかわかんないんだけどさ。今この瞬間、花子の体を抱いて、髪の匂いとか熱を感じてるこの時。俺にとって一番大切な人が花子なんだなって思う」
今なら気恥ずかしい言葉でも何でも言える。
それを聞いて、花子の俺を抱く力が強くなった。
「有り体に言うと、愛してる」
「……てか。うち今すごい幸せかも」
言葉を詰まらせながら花子が返す。
きっと多分、俺も同じくらい同じことを思っている。
「アンタを好きになれて良かった。夜」
そして月日は流れ7年後。
「海外、初めて来たわ」
「俺もだよ、まあ新婚旅行なんだし奮発しようぜ」
「なんかうちらってテンション高い会話しなくない?」
「そんな夫婦もいていいんじゃないの」
愚痴を言うことはもう、無くなった。
ここからの俺のストーリーは、そうだな。「奥さん──花子に愛情を伝えるだけの人生」になんのかね。
ま、それはこのタイトルに合わないので、これにて。
おしまい。
長らくのお付き合い、ありがとうございました。
書いてて楽しい作品でした!
感想待ってます〜