夢と現の境界の向こう、隠された東方の楽園、幻想郷。魔力漂う森のそばに、年季の入った道具屋がある。提げる看板は【香霖堂】、扱う商品は珍品ばかり。まだ見ぬ外界の道具を求め、店主は辺境の道をゆく。ふと、草陰に目を止めて、拾い上げたのは……軽くて重い、小さくて大きな、落し物。

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雨雲クレイドル

 雨は、まだ止まない。

 強まる雨勢に屋根が不平の声を上げているが、今のところ雨漏りの心配はないようだ。煌々と燃えるストーブの前に立ち、僕は眼鏡の位置を正しつつ安堵の息を吐いた。せっかく服が乾いてきたばかりだというのに、肩を濡らすなど御免こうむる。半人半妖である僕は人間のように風邪を引くことなどめったにないが、寒いものは寒いのだ。

 僕は、森近霖之助(もりちか りんのすけ)。見ただけで道具の名前と用途が判る程度の能力を活かして、この万屋、香霖堂(こうりんどう)の店主をやっている。間違えないでもらいたいが、店名は香霖堂であって()()()ではない。確かに雨を呼べるであろう道具を持ってはいるが、雨乞いは僕ではなく、巫女の仕事だ。もっとも……

 

「霖之助さん? いるんでしょ、入るわよ」

 

 僕のよく知っているこの自称素敵な巫女、博麗霊夢(はくれい れいむ)は、巫女らしいことなどろくにしないのだが。らしくないといえば恰好もそうだ。色合いこそ紅白主体だが、ノースリーブにスカート、長い黒髪をまとめる大きなリボン。加えて今は黒のブーツをはいている。もはや巫女装束以前に和装ですらない。袖代わりの白布を腕に巻きつけているのが、最後の一線なのだろうか。仕立てたのは僕だが、図案を渡されたときは驚いたものだ。

 

「いるんなら返事くらいしてよ。ああもう、相変わらず散らかってるわね」

「いようがいまいが、返事をしようがしまいが、君はいつも勝手に上がり込んでくるじゃないか。別にそれは構わないけど、できれば今は少し静かにしてくれ」

 

  "準備中" の札がかかっているはずの戸を無駄に勢いよく開いた霊夢は、赤い番傘を適当な場所に立て掛けると、居間に近づいてきた。所狭しと置かれた商品を、邪魔臭そうに見回している。その視線が、ある一点で止まった。ついでに全身も固まっている。

 

「え、何、それ」

 

 ストーブから二尺ほど離れた位置。そこに鎮座するゆりかごの中で、幼い少女が穏やかな寝息を立てている。

 なめらかな短めの金髪に、灯光に染まるみずみずしい雪肌。着ていた赤いドレスは乾かしている最中なので、今は白い毛布に包まれている。どこか儚げというか、そこにいるのにいないような奇妙な雰囲気と容姿が相まって、月並みな表現だがまるで天使だ。

 

「誰、誰と、誰との。この髪、まさか魔理沙(まりさ)……!」

「呼ばれた気がしたぜ。霊夢がきてるんだろ、香霖(こうりん)

 

 噂をすればなんとやら。本日零人目の客、普通の魔法使いこと霧雨魔理沙(きりさめ まりさ)、ご登場だ。霊夢といい魔理沙といい、この少女たちは毎度毎度財布も持たずに店にくるとはどういう了見なのか。そもそも今は臨時休業中だ。

 黒白のエプロンドレスに薄水色のケープ、手には長い箒。寒い時期の魔理沙の標準装備だが、腰辺りまであるウェーブの掛かった金髪の上には、いつもの魔女帽子がない。傘を差すのに邪魔だったんだろう。その傘だが、はっきり言って趣味が悪い。一言で表すなら、茄子だ。うちの商品になんてしたら、店より永く残りかねない。

 

「やっぱりここにいたか、れい、む……」

 

 水滴が飛び散るのも気にせずにズカズカと店内に入ってきた魔理沙だったが、器用にも片足を上げたままピタリと静止した。ぎこちない動作で首を巡らせて赤ん坊、僕、霊夢、の順に目線を動かす。一拍置いて、涙がこぼれた。なぜだ。

 

「香霖の馬鹿ー! うわあぁぁぁん!」

 

 箒にまたがり、疾風のごとく飛び去ろうとする魔理沙。待て、玄関をブチ抜く気か。

 

「ちょっと待ってよ魔理沙ー、()()返してよー!」

 

 魔理沙を追ってきたらしい新たな訪問者が、扉を開けて現れた。どういうわけか魔理沙の帽子をかぶっている。

 

「うお、邪魔だ、ぜっ!?」

 

 暴走魔女にはねられた青い服の少女は、下手人共々意識を失ってしまった。

 

「んううー、ふあうあ、うー!」

 

 ここで、こんなときに赤ん坊が起きた。さて、どう収拾をつけようか。思案する僕の前で、ストーブの上に置いたやかんが笛を吹いた。

 

 

 

 少女に説明中……

 

 

 

「いやー、びっくりしたぜ。私はてっきり香霖と霊夢が、えーと、うん、そんな感じになったのかと」

 

 売り物の壺に腰掛けた魔理沙は、湿布を張った額をさすりながらお茶を飲んでいる。まったく、勘違いも甚だしい。どういう思考回路を持っているんだ。もう一発くらい頭打てば直るだろうか。

 

「私はあんたと……かと思ったわよ。あ、霖之助さんお茶ありがとう」

 

 いつのまにか彼女専用になっている湯飲みを受け取り、霊夢はこれまた売り物の椅子に腰を下ろした。勝手に封を切ったそれなりの値段の煎餅をかじり、お茶をすする。この二人はお互い頭突きし合ったほうがいい。

 

「君たち二人はよく顔を合わせているんだから、子供なんかできたらすぐにわかるだろうに」

「あー」

 

 今のは霊夢たちの相槌ではなく、赤ん坊の声だ。彼女の見つめる先で、小さな大道芸人が踊っている。

 青髪青ベスト青スカートに青い右目で、左目だけが赤い少女。多々良小傘(たたら こがさ)と名乗った彼女は唐傘お化けであり、雨の中を飛んできたにも関わらず、まったく濡れていない。撥水性があるのだろう。ただし魔理沙の帽子だけは犠牲になり、絞って部屋干し中だ。自業自得とはこのことだな。

 

「うーらーめーしーやー」

 

 あの残念な傘は小傘の本体だったようで、彼女が握った途端に巨大な単眼と舌が現れた。今はその妖怪傘をクルクルと回し、赤ん坊をあやしてくれている。言葉とは裏腹に、彼女の人懐っこそうな笑顔からは恨みつらみなど欠片も感じられない。

 

「うきゃっきゃ、いあいーいあいーはいー!」

 

 起こされてご立腹だったお姫様も、小傘のおかげでこのとおり。服を着せるのも手伝ってくれた。妖怪なのに、この場においては人間よりも良識的で常識的だ。

 

「それで、どうするの霖之助さん。捨て子なんでしょ、その子」

「おそらく、ね」

 

 僕はよくものを拾う。目的はもちろん、香霖堂の品ぞろえの充実だ。今日も無縁塚(むえんづか)と呼ばれる墓地にいき、墓参りの()()()に珍しいものを探していたところ、件の赤ん坊を発見したのだ。地元の人間はあの辺りには寄りつかず、代わりに凶暴な人喰い妖怪が出没する。そんな所に置き去りにするわけにもいかないので、僕は突然の雨に襲われながらも赤ん坊を抱えて店に戻った、というわけだ。

 

「おそらくってどういうことだよ香霖。捨て子だから、拾ったんだろ」

 

 この世界、幻想郷(げんそうきょう)は、結界によって外界から隔絶されている。が、何ヶ所か結界が緩みやすい地域が存在するのだ。無縁塚もその一つ。つまり。

 

「この子は外の世界から迷い込んだのかもしれない。場所が場所だけに、ありえない話じゃないよ。もしそうなら、厄介だ」

 

 この子が普通の捨て子なら、親を探して引き渡せばいい。幻想郷の人間は、そのほとんどが人間の里に住んでいる。探せば親なり親族なりがいるだろう。もし誰も名乗り出なかったら、とりあえず近くの寺に預けるという手もある。いや、あの寺は妖怪だらけだからまずいか? まあとにかく、何らかの解決策は見つかるだろう。ところが外の人間となると、事情が変わってくる。

 

「もしそいつが外来人(がいらいじん)だったら、外で親が心配してるかもしれないわけか」

「うーん、外に返すだけならできるけど、親元に正確に送れるわけじゃないし。そもそも外来人だっていう確証もないし、そうだったとしても親がいるかどうかわからないし……」

 

 やれやれ、とんでもない拾い物をしてしまったな。本当にどうしようか。

 

「わちきは小傘ー、貴方は誰さー、わっちゃーねーむ?」

「めあえいえいー、きゃっきゃ!」

 

 どこの誰かは知らない。義理もない。それでも、なんとかしてやらなくては。ガラじゃないとは思うが、子供を見捨てるなんて真似は僕にはできない。

 

「とにかく、天気がよくなるまではこの店で面倒を見よう。場合によっては、そのままここで育てることになるかもね」

「おいおい、こんなカビ臭い所で生活してたら、私くらい体が強くないと病気になるぜ」

 

 カビどころか、化物茸の胞子が舞う森に住んでいる人間に、とやかく言われる筋合いはない。言っていること自体は間違っていないが。

 

「じゃあ、あんたの実家はどう。そこそこ大きな家でしょ」

 

 魔理沙の実家とは人里にある道具屋、霧雨店(きりさめてん)のことだ。珍品奇品の品ぞろえなら香霖堂こそ幻想郷一だと自負しているが、普通の人間向けの道具に関してはあの店が最大手と言えるだろう。ちなみに現在の店主と僕は、先代のもとで一緒に商い修業をした仲だ。

 

「あー? 知らんがな」

 

 その店主の娘が魔理沙なのだが、二人は数年前に大喧嘩した末に絶縁状態になっている。だから魔理沙は、実家のことが話題に上るのを嫌がるのだ。

 

「何よ、その言い方。ケチつけるだけで協力する気がないなら、どっかいってちょうだい」

 

 霊夢の言動に違和感を覚える。魔理沙が実家のことをよく思っていないのは、霊夢も知っている。僕もたまに冗談半分、諭し半分であえて藪をつつくことがあるが、それは今やるべきことではないだろうに。

 

「べ、別に、ケチつけるとかじゃ……ちょっと茶化しただけだろ」

「それをやめなさいって言ってるの! 霖之助さんはあんたと違って真剣なのよ」

 

 やはりおかしい。霊夢は感情の起伏が激しいタイプだが、他人のことになると比較的冷静なのだ。それは自己中心的で冷たいという短所でもあるが、裏を返せば意志が強く他者に流されないという長所でもある。要するに、彼女は自分以外のことで怒るような人間ではないということだ。

 

「うっさい、私だってちゃんと考えてるぜ! お前こそ、私につっかかってくるばっかでなんもしてないじゃんか!」

「あんたが余計なこと言うからいけないんでしょ!」

「そこまでだ。二人とも頭を冷やし――」

「ううー、いー、いー! あぁぁうぅ!」

 

 いよいよ、赤ん坊が泣き始めてしまった。これにはさすがの霊夢たちも口をつぐみ、うろたえるほかない。

 

「あーん、泣かない泣かない、べろべろべろー、ぶるるるあぁぁぁ」

「うあぁぁぁぁ! いー!」

 

 効果はいまひとつのようだ。困ったな。現状、最高戦力だと思われる小傘が玉砕とは。残りの二人はどうだ。

 

「よし、このパワフルなドラッグで魔法の花火を見せてやる」

「没収」

 

 魔理沙の手から怪しげな瓶をさらう。見た瞬間、爆発物だと判ったのだ。店を吹き飛ばされでもしたら、たまったものではない。

 

天宇受売命(あめのうずめのみこと)よ……」

「それはやりすぎだ」

 

 僕は霊夢が袖口から出現させた御幣を手で押さえ、暴挙を阻止した。珍しく巫女らしいことをしてくれるのは大いに結構だが、こんなことで笑いの神を降ろそうとするのはどうかと思う。

 仕方ない、うまくやれるか不安だが、僕があやしてみるとするか。決意を胸に、慟哭する少女に相対する。

 

「うぎゃあぁぁぁ! いあ! いあ!」

 

 今日の最大音量だった。顔を見ただけなんだが。僕はフラフラとゆりかごから離れ、うなだれた。

 

「いい子、いい子、泣かないでー。どうしよう、この子のしてほしいことがわかったらいいのに。誰か助けてー」

「話は聞かせてもらったわ!」

 

 あまり聞き慣れない声だ。何事かと顔を上げると、商品の一つである机の引き出しから身を乗り出す少女と目が合った。木兎(ミミズク)の羽角のような形をした亜麻色の髪に、紫色の耳当て、右手には笏。ああ、彼女か。

 

「いらっしゃいませ、太子(たいし)様。その服、気に入っていただけたようで何よりです」

 

 豊聡耳神子(とよさとみみの みこ)。飛鳥時代初期に活躍し、数々の伝説を残した聖徳王(しょうとくおう)、その人だ。永い眠りについていたが、少し前に尸解仙(しかいせん)として蘇ったという。神格化された聖人であり道教を深く修める仙人で、とにかく一言では言い表せないほどすごい人物のはずだが、いかんせん今の服装では威厳に欠ける。

 

「ええ。このジャージという洋服、とても動きやすいわ。いい買い物をしました。ところで店主さん、そんなにかしこまらなくてもいいのですよ。今日の私は客ではありません。このとおり、お店の玄関をくぐっていないもの」

 

 客であってもなくても、できればちゃんと扉を使ってもらいたい。突然現れる人は苦手なのだ。

 

「今回は、迷える民の助けを呼ぶ声に応えるべくはせ参じました。よっこいしょうとくっと」

 

 机から下りた神子は瞳を閉じ、左手を開いて耳に添えた。

 

「聞こえる、聞こえるわ、この幼子の欲が。十の声を捉えるこの耳が導く答えは、これよ」

 

 まさか、この子の気持ちがわかるのか。豊聡耳の呼び名は伊達ではないらしい。

 双眸をカッと見開き、神子は泣きじゃくる赤ん坊を指差した。

 

「空腹。そう、彼女はお腹が減っているのです」

「いー、いー! うあうぅぅ」

 

 これはうっかりしていた。それならどれだけあやしても意味がないな。さっきの悲劇も、僕の顔が怖いからではなかったのだろう。そうに違いない。

 

「腹減ってんのか。確かに、もう昼だしな。えーと、赤ちゃんの食い物ってことは……」

 

 魔理沙は一瞬視線を落としたあと、霊夢に目を向けた。神子でなくても、魔理沙の考えていることはわかる。

 

「どこ見てるのよ、張り倒されたいの?」

「駄目?」

「無理。多分」

 

 こういうことにはとことん疎いんだな、彼女たちは。やはりまだまだ子供だ。ここは、年長者ががんばるしかないか。

 僕は赤ん坊の口をそっと開き、歯を確認した。前歯はそろっているが、臼歯は二対だけ。犬歯はない。

 

「見たところ、乳離れできていてもいい年頃だ。これだけ歯があれば、食べられるものは多いだろう」

 

 さて、善は急げだ。とはいえ、食材はそれほど豊富ではなかったはず。あれらを使って、栄養をバランスよく摂れる献立を考えないと。

 

「太子様ー、お食事のよう痛っ!」

 

 先ほどの机から、白い水干と紺のスカートをまとう少女が現れ、引き出しの端に足をひっかけて転倒した。無言で起き上がり、落ちた烏帽子を灰色のポニーテールの上に乗せる。澄ました顔をしているが、涙目に赤い鼻では滑稽なだけだ。

 確か、物部布都(もののべの ふと)だったか。神子と同じ尸解仙で、彼女の側近のようなものだ。額を押さえて天井を仰ぐ聖人様を見るに、悩みの種でもあるのだろう。

 

「はあ。布都、昼餉の支度ができたのね。ではすぐに戻るとしましょう。せっかくの挽肉(キーマ)カレーが冷めないうちに」

 

 これはいいことを聞いた。

 

「太子。頼みがあるんだが」

「……わかりました。いいでしょう、分けてあげますよ。いえ、どうせならここにいる皆で一緒に食べませんか?」

 

 僥倖だ。さすがにそのまま赤ん坊に食べさせるわけにはいかないだろうが、それでも調理の手間と時間を大幅に減らせる。

 

「そちらが構わないのなら、そうしようか。食器と飲み物はこっちで準備しておこう。恩に着るよ」 

「気になさらず。仁義を重んじ、徳を積む。これもまた修行の一環なのですから。布都、鍋と釜を一組、こちらに」

「承知いたしました、しばしお待ちを。すぐにいってま痛あぁぁぁ……」

 

 僕もそれなりに永く生きているが、引き出しの中に落ちていく人間? を目の当たりにするのは初めてだ。

 

「様子を見てきます」

「賢明だね」

 

 疲れたような表情を浮かべつつ引き出しに身を躍らせた神子を見送り、僕は湯飲みを回収して台所に向かった。

 

「霊夢、魔理沙。ストーブの周りを片づけて、大きいほうのテーブルと椅子を出してくれ。小傘は引き続き赤ん坊の相手を頼む」

「わかったわ」

「あいよー」

「りょーかーい!」

「ううー! いー、いー!」

 

 赤ん坊は依然としてご機嫌斜めだ。悪いね、もう少しの辛抱だ。

 湯飲みを流しに置いて手を洗い、食器棚の前に移動する。聖徳王様がご同席とあらば、可能な限り豪勢にしよう。とりあえず、とっておきの陶磁器(ブルーオニオン)でも出そうか。確かここにしまったかな? 正解だ。次は年代物のボヘミアングラス、それと……尸解仙はアンデッドと見なすべきだろうか。念のため、銀食器はやめておこう。

 

「店主さん、戻りましたよ。どこです?」

「こっちだよ」

 

 ドスンという音がしたかと思うと、鍋つかみをはめた神子が、重ねた羽釜と鍋を片手に持って台所に入ってきた。細腕からは想像もつかない膂力だ。さすが仙人。というか、布都が運ぶはずじゃなかったのか。主に追随する手ぶらの従者に目を向けると、手と鼻が真っ赤だった。

 

「苦労しているようだね、太子」

「いやまあその、平気です。いつものことですから」

 

 鍋と釜をかまどに置いてもらい、蓋を開けた。ある程度汁気のある、和製キーマカレーだ。幻想郷では珍しい。

 小さじを用いて味を拝見。おいしいが、やはり赤ん坊には辛すぎるな。予定どおり、ひと手間加えるとしよう。

 

「じゃあ二人とも、席で待っていてくれ。霊夢、魔理沙、配膳を頼むよ。牛乳も出してくれ。ああ、僕の分はいいよ」

「はいはーい」

「お、いいにおいだぜ」

 

 尸解仙たちと紅白黒が入れ替わる。僕は赤ん坊の分のカレーと、ほどよい大きさの具材を小鍋に移した。冷蔵箱から林檎ジャムとヨーグルト、それにチョコレートを取り出して少量ずつカレーに投じる。

 

「なんか甘ったるくなりそうだな。うまいのか?」

「量を間違えなければ、まろやかになって食べやすくなるよ。大人が食べるようなカレーだと香辛料の刺激が強すぎるから、こういう工程は重要なんだ。本当は最初から赤ん坊用の味つけで作るべきだけど、非常時ゆえやむなし、さ」

「ほうほう」

「サボってるんじゃないわよ魔理沙、これ持っていってちょうだい」

「ん」

 

 カレーの熱でチョコが溶けきるまで、へらでゆっくりとかき混ぜていく。そろそろいいか。小さじにすくって口に運んでみると……少し、酸味が強いかな。砂糖を追加しよう。

 

「いろいろ大変なのね。()()()()はどうだった?」

「君はあまり手のかからない子だったよ。たまに零時間移動(テレポート)する以外は」

「霊夢のとき? どういうことだ」

 

 そういえば、魔理沙には言っていなかったな。まあ、話す必要もなかったのだが。

 

「先代の巫女は忙しい人だったし、他に身寄りもなかったから、霖之助さんがよく世話してくれてたのよ。先代が死んじゃってからしばらくは、自分の店をほったらかしにして、ね」

「……ふーん」

 

 よし、いい味になった。久々にしては上出来だろう。小ぶりな皿にご飯とカレ ーをよそい、グラスに牛乳を注ぎストローを落とす。

 

「なあ、香霖」

 

 振り向くと、すでに霊夢はおらず、うつむき加減の魔理沙が一人残っていた。

 

「何かな」

「さっきは、ごめん」

 

 口が悪くてひねくれていて、でも根はまっすぐで、努力家で。彼女のことはよくわかっている。霊夢もそうだが、魔理沙とも長いつき合いだ。よく、わかっているとも。

 

「親父さんに言ってあげたらどうだい」

「あん?」

「さ、早く食べさせないと」

「この野郎……」

 

 それでよくて、これでいい。

 ストーブのそばに設置された円卓に、料理を運ぶ。さすがに疲れてきたのだろう、グズっているものの、赤ん坊はいくらか静かになっていた。

 

「ご苦労さん、小傘。君も席についてくれ」

「にゃっほーい! ごっはっん! ごっはっん!」

 

 小傘と魔理沙が座り、席はあと一つだけ。僕は食器を置き、抱き上げた赤ん坊を膝に乗せつつ着席した。同時に気づく、ナプキンを忘れてしまったと。一度台所に戻るか。

 

「いーいーいー!」

 

 不可能。しかたないな。僕は懐から、アレンジした陰陽対極図を四隅にあしらった、青い風呂敷を取り出した。商品の梱包用に自作しているもので、珍しい拾い物との出会いに備えて数枚、持ち歩いているのだ。

 赤ん坊の首に風呂敷を巻き、準備完了だ。小さな手を包むようにしながら、一緒に合掌する。

 

「それじゃあ」

「いただきます!」

 

 さっそく始めよう。小さなスプーンでニンジンをすくい、軽く冷ましておく。

 

「んーおいしー。癖になる辛さってやつ?」

「そうだろう、うまかろう、唐傘の! 錬丹術(れんたんじゅつ)にも造詣が深い太子様の、特製カレー粉だ。きっと不老不死に近づけるぞ!」

 

 僕は赤ん坊に近づけようとしたスプーンを止めた。何か、とてつもなく不穏な発言が聞こえた気がする。

 

「うまいなこの、えっと、UMA(ユーマ)カレー」

「キーマね。UMAって確かあんたや吸血鬼姉妹のとこのペットのことでしょ。嫌よ、あんなのが具材のカレーなんて」

「みんな、言っておくけど変なものは入れてませんからね? 普通の調味料と小麦粉と野菜と、朱鷺(とき)ですよ」

 

 神子がああ言っているんだ。硫化水銀(丹砂)、つちのこ酒、チュパカブラのガラが隠し味、ということはないだろう。僕はスプーンを再び動かし、赤ん坊の口に入れた。

 

「あーん、んう。あみー、あみー!」

 

 とびきりの笑顔が咲く。どうやら、お気に召したようだ。自然とこちらの口角も上がってしまう。

 挽肉と共に、米、タマネギ、グリンピース。ジャガイモは軽く潰しながら。差し出す端から、次々と吸い込まれていく。顎の力が弱く、歯も生えそろわない赤ん坊にとって、肉は食べにくいものの筆頭だ。しかし挽肉なら筋などを気にしなくて済むから、実に都合がいい。この手の知識は昔、外来本(がいらいぼん)を読んで学んだのだが、また役に立つとは思わなかった。本の名は確か "秘横倶楽部" だったかな。

 

「霖之助さん、本当に食べなくていいの?」

「今はこの子を優先しないと。もし残っていたら、あとでもらうよ」

 

 半人半妖であるところの僕は人間と違って、食事を摂らなくても体に異常をきたしたりはしない。食を娯楽の一種と捉える人は多いが、僕はその極端な例と言える。

 

「おかわり!」

「おっかわりー!」

「よしきた」

 

 突き出された布都と小傘の器を、神子が受け取った。布都、主人に働かせてどうする。娘か君は。神子は神子でうれしそうだからいい、のか?

 

「一口分も残らないかもね。というわけで、はい、あーん」

「あ、んむ、ありがとう」

「がっ、う……!?」

 

 おいしい。味見の段階でわかってはいたが、ご飯や具材と絡めるとまた格別だ。それにしても、魔理沙は大丈夫だろうか。苦しそうだが。

 

「魔理沙、牛乳牛乳!」

「んく、ん……ふー、はー、す、すまんな小傘。一瞬、昼寝してる死神が見えたぜ」

 

 つまり、放っておいても問題なかったということか。

 

「ところで香霖。私も赤ちゃんにメシ食わせてみたいんだが、いいよな」

 

 これは意外だ。魔理沙は子供になど興味がないものと思っていたが。女性の本能が何かをささやいたのか、いい心がけだ。彼女を少し見直さなくては。

 

「ああ、あと半分くらいだけど、ぜひやってみるといい。未来のための修行だ」

 

 席を立ち、赤ん坊を魔理沙の膝に移した。僕よりずっと小柄な魔理沙だが、赤ん坊が座るくらいなら問題ないようで、しっかり安定している。

 

「よっしゃ、任せろ。香霖はその、わ、私のカレーを食べてていいぜ」

「おや、悪いね。いただくよ」

 

 僕と魔理沙は食器一式を交換して、昼餐を続けた。なぜか霊夢が魔理沙を睨んでいるが、自分もやってみたいならそう言えばいいのに。

 

「お待たせ」

 

 神子が戻ってきて、青と白の雛鳥二羽の前に皿を置いた。やけにニヤニヤしているな。彼女の立場を考えれば、こうして家庭的な食卓を囲む、ということはそうそうないはず。新鮮味を感じているのかもしれない。

 

「ずいぶん楽しそうだね」

「あらあらうふふ、わかります? ええ、本当に面白い」

 

 僕、魔理沙、霊夢の順に目線を走らせる神子。なんだか知らないが、聖徳王様はご満悦だ。

 

「やいー、もあー、いー!」

「へへ、そうかそうかうまいかー」

 

 嬉々としてスプーンを動かす魔理沙の表情は、赤ん坊に負けないくらい明るい。こういうことは多分初めてだろうに、存外うまいじゃないか。相手の行儀がいいというのもあるにせよ、風呂敷をまったく汚さないのはたいしたものだ。

 

「な、なんだよ香霖、ジロジロと」

 

 悪態をつきながらも、頬は緩みっぱなしだ。やはり赤ん坊には、周囲を笑顔にする程度の能力があるな。

 

「ん、最後の一口、と」

 

 使命を遂げ、魔理沙は少し残念そうにつぶやいた。器をグラスに持ち替え、ストローを赤ん坊の口に含ませる。

 

「ん、ん、んぱ。けぷっ」

 

 牛乳を飲み干し、満足げにかわいらしいゲップを一つ。誰からともなく笑いが広がる。

 

「ははは、これで全員完食だな。満腹、満足である!」

 

 台所から顔を出した布都が、カラになった鍋の内側をおたまで打ち鳴らした。霊夢の予想どおりだ。グリンピース一粒残っていない。

 

「ちょ、もうないの。布都、あんた一人で何杯食べたのよ」

「いっぱい!」

 

 あの矮躯のどこに大量のカレーが入っているのやら。頭か。頭なのか。

 

「じゃあ、皿とスプーンをこっちに。霊夢、グラスを運んでくれ」

 

 名残惜しいが、お開きだ。僕と霊夢は席を立ち、食器を集め始めた。

 

「我も手伝おうぞ」

「お前は皿を割るから駄目だ布都。私がやるぜ」

 

 赤ん坊をそっとゆりかごに乗せ、魔理沙はグラスをまとめて持とうとした。

 

「おっと、落とすとこだった」

「おいおい、君こそ気をつけてくれよ魔理沙。そのグラスは九十九年も前のものなんだからな」

「へえ、じゃあ夜になったら九十九(付喪)神になって動き出すかもね」

 

 霊夢の言葉を聞いたと同時に、魔理沙は硬直した。表情からして、何かよからぬことを思い出したのだろう。

 

「ああ、忘れてたぜ……霊夢、鈴奈庵が付喪神に占拠されたんだ。それで力を貸してもらおうと思ってお前を探してたんだった!」

 

 鈴奈庵は里の貸本屋だ。外来本を中心に取り扱う店で、香霖堂と取引をすることもある。商品の中には妖怪が封じられた妖魔本(ようまぼん)まであるそうな。

 

「はあ!? そういうことは早く言いなさいよ!」

「やっちゃったぜ」

 

 どうやら、片づけは一人でやることになりそうだ。口論を始めた霊夢たちを尻目に、僕は店内にあるいくつかのものをつかみ上げた。

 

「霊夢、魔理沙」

 

 まずは、新調を頼まれていた黄色のマフラーを霊夢に投げ渡す。彼女が今日店にきた理由は多分これだろう。

 

「ありがと。お代はツケといてね」

 

 今のは "払う気はない" と訳す。

 次だ。僕は魔理沙の箒に乾かし終わった帽子を被せて、槍投げの要領で放った。

 

「サンキュー香霖」

 

 魔女セットを受け取った魔理沙は帽子を小傘に被せ、代わりに椅子に掛けてあった茄子傘を借りていった。

 

「持っていかないでー」

 

 小傘は慌てた様子で二人を追う。妖怪退治に臨むのに、しんがりが妖怪とは。

 マフラーを巻き、番傘を右手に、霊夢は玄関を開け放った。

 

「いってくるわ」

「じゃあな、香霖」

「ごちそうさまでしたー」

 

 赤黒紫の三角形が、雨を切り裂き飛んでいく。小さくなっていく少女たちの背をしばし眺めたあと、僕は静かに玄関を閉めた。

 

「苦労しているのですね。あ、食器は流しに置いておきましたよ」

 

 振り向くと、同情するような笑みを浮かべた神子が台所から出てきたところだった。

 

「すまないね。それと、平気だよ。いつものことだから」

 

 残念ながらこれが日常で、不本意ながら慣れてしまった。

 

「太子様、準備できました」

 

 釜と鍋を積み上げて抱え、布都が神子の後ろに続く。顔が隠れてしまっているが、ちゃんと前は見えているのだろうか。

 

「もう帰るのかい。食後のお茶でも、と思ったんだけど」

「気持ちだけいただいておきましょう。布都はもとより、私もまだまだ修行中の身。果てなき(タオ)の途上へ戻らねば」

 

 君が手をかけたその引き出しには、宇宙の真理でも隠されているのか。

 

「今日はありがとう。カレー、おいしかったよ。またいつでもきてくれ」

「礼をもって(もと)とせよ。君が礼節を忘れない限り、君のもとに集う少女たちも正しき道をたがえないはず。年功ある者として、これからもよき手本でいてください。では」

 

 過大評価されている感が否めないが、まあいい。悪い気はしないからな。

 空中で身を丸めクルクルと前転しながら、神子は引き出しの中に消えていった。布都があとを追う。

 

「さらばだ店主殿。そくさ痛あぁぁぁ……」

 

 息災で、と言おうとしたのだろう。こちらの台詞だ。

 人が去り、声が消え、雨垂れの音がやけに大きく聞こえる。ふと赤ん坊に目を向けると、目蓋を閉じてゆっくりと胸を上下させていた。歯を磨いてやりたかったのだが、起こしてしまうのも気が引ける。洗い物でもしていようか? 水音で目を覚ましたらどうする。

 結局、彼女が夢の世界から帰るのを待つことにした。傍らの椅子に腰かけ、健やかな寝顔を見つめる。

 なんだか、僕も眠くなってきたな。子守りなど久々だ、自分で思っていた以上に疲れたんだろう。僕はストーブの火を消し、眼鏡をテーブルに置いた。

 まどろみに歪む視界の端、窓の外に、舞い落ちる黒い羽根が見えた気がした。

 

 

 

 

 

 

 

「やっぱり、貴方だったのね」

 

 誰かのつぶやきが聞こえた。意識を手繰り寄せ、五感を取り戻していく。眼前に、薄笑いを浮かべた少女の顔があった。

 

「うおっ!?」

 

 驚きのあまり思わずのけぞり、座っていた椅子ごとひっくり返った。寝ぼけた頭を貫く衝撃に悶絶していると、白の長手袋をはめた右手が差し伸べられた。

 

「ひどい反応。心が傷つきますわ」

「僕の心臓のほうが重傷だ」

 

 せっかく()()()()を見ていたというのに、目覚めがこれでは台無しだ。僕は最大級の溜息をつきながら、少女の手を取って立ち上がった。

 

「やれやれ。赤ん坊の世話をするほうがずっと気が楽だ……」

 

 椅子を立て直し、眼鏡をかけた。時計が告げるにはまだ夕方だが、雲が日差しを遮っているせいで店内はかなり暗い。僕は毘沙門天の宝塔を模して作った魔法の照明をテーブルに乗せ、明かりを灯した。光に追いやられて急速に失われていく夢の断片を想起しながら、少女に目をやる。

 紫色のドレスに白いナイトキャップ、小さいリボンがいくつも結ばれた、豪奢な長い金髪。今はどことなく疲労の色があるように感じられるが、それでも不気味なほど美しい顔立ち。彼女は、八雲紫(やくも ゆかり)。幻想郷を覆う結界の形成に関わったとされる妖怪の賢者であり、僕がもっとも苦手とする人物でもある。

 

「赤ん坊? ベビーシッターでも始めたのかしら。万屋に業務内容が増えて八百万屋ね」

「夢の中の話だよ、そんなに仕事があったら過労死する」

「じゃあ八百くらいに減らします?」

「野菜も果物も売らないよ。で、なんの用だい。灯油ならまだ大丈夫だけど」

 

 そういえば部屋が暖かいな。紫がストーブを点けていたようだ。この機械の燃料は幻想郷では手に入らないので、外の世界と行き来できる彼女に頼み、調達してもらっている。だから本来なら彼女を邪険に扱うべきではないのだが、報酬と称して大事な非売品を問答無用で持ち去っていくような輩には、こんな対応で充分だ。

 

「夢現の境界は曖昧なもの。幻想の蝶が生んだ微風が、遠き時空を越えて現世に至り、嵐となって吹き荒れることもある」

 

 僕の質問を無視し、真顔で何かを口走る紫。どこかに通訳できる人はいないだろうか。二ヶ()語のできる人が望ましい。

 

「けれどその嵐はときに、凪いだ魔の海で藻に捕らわれた、小さな箱舟を救う追い風となる。誰も気づかぬ烏揚羽(カラスアゲハ)の功を知るのは、世界を見巡る大翼の(カラス)だけ」

「……で、用事はなんだい」

 

 考えてもしかたのないことは、考えないほうがいい。何もかも聞き流した僕は、考えるに値する話題を提供することにした。

 

「ささやかな酒宴のお誘いですわ。会場はわたくしの家。賓客は紅白巫女と黒白魔女と、尸解仙と唐傘お化け、それに貴方です」

 

 何事もなかったかのように、紫は相好を崩して話しだした。今度はまともな言語だが、それでもひっかかる箇所がある。

 

「勝手に決めないでくれ、参加するなんてひと言も言っていないだろう。いや待てよ、君の家?」

 

 紫の屋敷といえば、その所在は不明、そもそも結界の中にあるのかどうかすらわからないという謎の邸宅だ。この機を逃したら二度と拝めないような、珍しい外界の品などがあるかもしれない。

 

「きていただけますわよね」

 

 満面の笑み。どのみち、僕に選択の余地などないらしい。強い者はたいてい、笑顔なのだ。

 

「わかった、招待を受けよう。どうやっていけばいい」

「日が落ちる頃に、わたくしが直接お連れしますわ。まだ、早いですわね」

 

 紫は優雅な動作で椅子に座り、どこからともなく一本の赤ワインを取り出した。ラベルを見たが…… Bourgogne (ブルゴーニュ)…… Maëlie (マエリー)? ほとんど読めない。フランス語には暗いのだ。

 

「騒がしい宴の前に、二人だけで静かに飲みません?」

 

 どうせ拒否権はないのだろう。逡巡ののち、僕は示された席に腰を下ろした。紫の隣だ。

 

「何を企んでいるのか知らないが、さっきのような禅問答が肴でなければ、つき合うよ」

「ご心配なく。貴方の気に入りそうなものを用意しましたわ」

 

 言いながらテーブルに置いたのは、切り分けられた羊羹と二本の菓子楊枝(黒文字)を乗せた、白い皿。

 

「こちらは外の銘菓。ご覧になって、これがお店の名前ですわ」

 

 手渡された包み紙に書かれた文字を見て、僕は紫の意図を理解した。

 

「読みがうちの店と同じ。それで僕が気に入りそうだ、と。なかなか粋な計らいだけど、洋酒に和菓子なんて合うのかい」

「酸味が強めのお酒に、繊細な甘みの和菓子。意外と相性のいい組み合わせ(マリアージュ)なんですよ」

 

 次に紫は、ふちの辺りに薔薇の描かれた一組のワイングラスを並べた。紫色の薔薇を手もとに残し、青は僕の前に。

 

「そのグラスはお祝いとして差し上げますわ」

「お祝い? はて、今日は何か特別な日だったかな。誕生日なんかはもう憶えていないし……」

 

 いつの間に栓を抜いたのか、紫はボトルを傾けた。グラスに注ぎ込まれる赤い液体から、芳醇な香りが漂ってくる。

「誕生日とか節目とか。そんなものはただの口実にすぎないのではなくて? 祝福、謝罪、感謝、愛慕。伝えたい想いがあるなら、些事に捕らわれて出し惜しみをするべきではありませんわ」

 ボトルをわきにやった紫は、くたびれた青い風呂敷をナプキンのように膝かけた。

 

「思い立ったが吉日。お祝いがしたくなったら、なんでもない日だって記念日ですわ。なぜならここは幻想郷。非常識な不思議の国ですもの」

 

 茶目っ気のある微笑みを浮かべ、紫はグラスを持ち上げた。今日の彼女は、いつもの胡散臭い雰囲気が和らいでいるように思える。それが気のせいでないことを信じ、僕は警戒を解いた。グラスを掲げ、かすかに笑う。

 

「違いない。じゃあ、このなんでもない特別な日に……」

「乾杯」

 

 雨は、まだ止まない。



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