小学生に逆行した桐山くん   作:藍猫

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こちらではじめましての方は、どうぞよろしくお願い致します。


振り駒

 

  桐山零(きりやまれい)

 職業プロ棋士。

 享年 35歳。

 人生のほとんどを、将棋に捧げてきたと言っていいだろう。

 

 20代中頃からタイトル戦の常連となり、様々なタイトルの挑戦権獲得最年少記録を塗り替えた。

 

 初めて獲得したタイトルは玉将で、当時10期連続で防衛していた宗谷玉将からの奪取だった。

 そのとき22歳。

 玉将戦の挑戦権獲得とタイトル獲得、その両方の最年少記録を塗り替えることとなる。

 

 その同じ年に、長年付き合っていたひなちゃんこと川本ひなたさんと、ついに結婚することになる。これは僕の人生において、もっとも輝かしい出来事だったと言っていいだろう。

 その後、二人の可愛い娘も授かることになる。二人とも将棋にはさほど興味を示さなかったけれど、そんなことは気にもならなかった。

 僕の大切な宝物。

 僕の全てを捧げても惜しくはなかった。

 彼女たちのために強くなろうと思ったし、家族が僕の事を強くしてくれた。

 

 初めて名人のタイトルを獲得したのは24歳の時。

 宗谷名人が持っていた最年少記録、21歳での獲得には3年届かなかったが、当時のA級順位戦はそれはもう、苛烈なもので、挑戦権を獲得することにまず必死だった。

 名人戦初挑戦にして、そのまま名人奪取となったのはかなりの話題をよんだものだ。

 自分としては、もう一度あの順位戦を勝ち抜くのも一苦労だと、相当な決意を持って臨んだ大舞台。第七局までフルセットでもつれ込んで、粘りに粘って勝ち取ったタイトルだった。

 

 僕がまだ20代の中頃までは、宗谷冬司その人が数多くのタイトルを独占していたし、せっかく奪取したタイトルをその翌年手放すということも、珍しくなかった。

 シーソーゲームのように取って取られて。

 その頃が一番、桐山零の棋士人生にとって激動の時期であり、同時に将棋を指すのが楽しくて仕方なかった時期だったと思う。

 

 ただ、僕が30代を目前にした頃、神の子と謳われたその人も、やはり年には勝てなかった。

 棋士としての衰えは早ければ40歳頃から始まると言われている。彼は一向にその気配を見せなかったものの、やはり50歳前になってくると、その冴えわたった一手に陰りが見え始め、そして何より体力的に、長時間の対局ではどうしても、失着が目立ち始めた。

 

 そこからの、世代交代はあっという間だったと世間では言われている。

 

 20代後半から次々とタイトルを手に入れ、平成20年代の後半に新設されたタイトルも併せて、八大タイトル全ての獲得を経験した。

 そして30歳の時、前代未聞の八大タイトルの同時保持、いわゆる八冠をなしとげて、宗谷冬司七冠以来の将棋ブームをもたらした。

 22歳の時に玉将のタイトルを手にしてから、ただの一度も無冠になることは無く、かつての宗谷名人のように棋士界の頂点に君臨することになる。

 

 35歳の時には、名人、棋神、棋竜、棋匠、玉将、聖竜という6つのタイトルの永世資格を持ち、残る獅子王と叡王の永世獲得も目前に迫っていた。

 

 その矢先の事故だった。

 

 タイトル戦に向かう途中のタクシーにトラックが突っ込んできた。即死だったと思う。

 運の無いことだった。桐山家はトラックに呪われているのかもしれない。

 まだ、沢山やり残した事があった、もっと将棋を指していたかった……けれど、こうなってしまってはどうしようもない。

 

 同じ車に最愛の家族が乗っていなかった事だけは救いだ。

 可愛い娘二人の成長が見られないことは、激しい心残りだったが、ひなたはきっと二人を立派に育て上げるだろう。

 そのために残せるものは残してきたつもりだし、それを手助けしてくれる人たちも彼女の周りには大勢居る。

 

 短命だったけれど、順風満帆な人生だった。

 

 でも、ほんの一瞬、ほんの少しだけ、死の間際に考えた。

 

 あぁ……もっともっと、強い人たちと指したかったと、宗谷さんと指したかったなぁと。

 

 僕がまだ駆け出しだった頃、A級に在位していた島田さんを始めとした棋士たち、そしてやはり宗谷冬司その人は僕にとって別格だった。

 宗谷名人が七冠を達成し、将棋界の神とも悪魔とも、称されていたその頃。

 自分はまだ棋士になる志半ば、彼らは雲の上の人々だった。

 その後、タイトル戦に挑戦しはじめた時期もそれはもう鬼のように強かったけれど、それも数年のこと。

 いわゆる全盛期の彼ともっともっと全力で対局したかった。

 成長して経験を積みそれなりに自信を持ち始めた僕と、まだ前線で戦っていた宗谷名人との全力対決は、本当に数えるほどしかなかった。

 

 なぜ、かの人と同じ時代に生まれることが出来なかったのだろう。

 10年いやせめて5年早く生まれていれば、もっともっと長い間、全力で戦い合うことが出来た。

 せめて、自分がもっと早く……そう5年くらいでいい、それくらい早くタイトル戦へ挑めるくらいに、強くなれていれば……。

 焦燥とともに、そんな渇望を抱いて。

 僕の記憶はそこで、途切れていた。

 

 

 

 でも……でもね、神様。

 僕は、満足していたんです。

 そりゃあ、人間ですから、多少の後悔と心残りはありましたとも。

 でも別に、こんなことを望んだわけではなかったんです。

 

 

 

 桐山零。

 職業プロ棋士で享年35歳だったはずの男。

 

 現在9歳、小学三年生。

 気が付けば、忘れもしなかったあの悲惨な事故の後。

 葬儀が終わり、喧々囂々と親戚たちが遺産争いをしている部屋の片隅で、小さく縮こまっておりました。

 

 

 

 

 

 

 

 これは、いったいどういうことですか!?

 

 

 

 

 

 

 


 

 状況を整理しよう。

 僕は確かに死んだはずだ。

 ということは、これは死後の世界なのだろうか?

 いや、それにしては感覚がやけにリアルだし、この場面も覚えがありすぎる。

 過去に戻ったのかもしれない……。考えたくもないけれど、冷静に考えるとそれが一番無難だ。

 なにやら前回の人生で読んだ小説の中にそんな話があったような気もする。

 とりあえずは、此処が夢の世界でも、死後の世界でもないとして、今後のために動かなければならないだろう。

 

 叔母さんが我が物顔で、今後のことを仕切っていて、親戚たちはそれに不満を示しながらも誰も大きな声では反対をしていなかった。

 僕の事を施設に預けるとはっきりと言う叔母の陰口をささやいている人たちの言葉から、どうやら今回僕はショックで倒れて、葬式には参加していなかったらしい。

 ということは、幸田のお義父さんにも会わなかったことになる。

 記憶が正しければ、たしかこの場にお義父さんが居てくれて、僕の事を預かると叔母と一戦交えてくれた。

 その時、残された遺産のことについても、父の友人だったという弁護士と共に、かなり力になってくれて、叔母に全てを奪われるのも防いでくれたのだ。

 

 その人が今、この場にいない。

 僕は、自分の今後を勝ち取るために、自分で立ち向かわなければならない。

 

 とりあえず、決めた。

 

 今回は幸田家にはお世話にならない。

 あの当時はそれに縋るしかなかったけれど、僕はもう良い大人だ。……見た目はただの小学生だが。

 少し寂しいし、心細いけれど、自立して社会に出た経験もある。

 あの家にお邪魔して、香子姉さんや歩に辛い想いをさせたくないし、僕と実子との扱い方にお義母さんを困らせることもないだろう。

 香子姉さんや歩がプロ棋士になれたとは残念ながら思わないけれど、僕という異分子があの家に混じらなければ、もう少し穏やかで優しい道の引き際が出来たのではないだろうか。

 

 何も、将棋で人生が決まるわけではないのだ。

 ただ、僕とお義父さんにとってそれしかなかっただけで。

 

 まだ幼い大事な時期にあんな終わり方をして後を引かないわけがない。

 あれが無ければ、二人は別の自分の道を見つけられたかもしれない。

 どうなるかは定かではないけれど、今回はあの一家を壊すきっかけには成りたくなかった。

 お義父さんとは、また将棋盤を挟んで会えるはずだ。

 

 今度もプロ棋士になろう。

 というか、棋士として生きる人生以外考えられないし、手っ取り早く、自立して生計を立てるためにはそれがベストだ。

 

 このまま施設に入れられるとしても、東京の施設がいいなぁ。

 そう、できれば将棋会館が近い所がいい。

 長野には辛くて居られないとか、理由を並べて説得しよう。

 叔母は僕のことは邪魔なはずだし、このあたりで預けようものなら、近所の目も多少は気になるだろうから反対はしないはずだ。

 

 

 

 そして、僕はふと思い至った。

 今は小学三年生。

 最短で奨励会に入って、三段リーグまで駆け上がれば、普通なら考えられないけれど、小学生のうちにプロ棋士になることが出来る。

 そうしたら、宗谷さんたちは何歳だろう、と。

 確か僕と17歳差……12歳でプロに成れたとしたら、宗谷さんたちは29歳。島田さんはA級に上がる頃のはずだし、宗谷さんは七冠達成後それほど経っていない。

 

 

 

 

 

 そう、まさに全盛期だ。

 

 

 

 

 

 心が震えた。どれほどの名局を、残すことが出来るだろう。

 結局僕は、どこまで行っても棋士なのだ。

 どれほど苦しくても、どれほど厳しくとも、あの一瞬の勝利を目指して、突き進むその過程に魅せられてしまっている。

 

 当時の僕の経験不足だって、今の僕の記憶には15歳でプロになってからの20年分の棋士としての記憶があるのだ。

 宗谷さんや島田さんたちとそう変わらない対局経験を持っていることになる。

 あぁ……堪らないくらいに心が惹かれる。

 

 やってやろうじゃないか。

 どうせ、失うものなど何もない、(ゼロ)に戻ってしまったのだから。

 思うままに突き進んでみようとそう想った。

 

 

 

 

 


 

 何とか弁護士の人を味方につけて、叔母と一戦交えた。

 このままだと、施設に支払うお金だ何だといって、僕に残されたはずの遺産がほとんど持っていかれるところだったからだ。

 いくらなんでも、それは困る。

 この先大会に出場するにしても奨励会に入るにしても、それなりに資金が必要になる。

 父や母、妹の持ち物を好き勝手にされるのも気分が良いものではない。

 今の僕でも守れそうな範囲でいい。少しは持っていきたい。

 

 それまでは、内気で大人に意見するなど考えられなかった僕が、話し合いに口を出しただけでも随分驚かれた。

 弁護士の人は想像よりも僕がしっかりしていた事と形見分けの内情、親戚たちとのしがらみなどを理解していることに気づくと、とても丁寧に対応してくれた。

 あまり記憶になかったけれど、父と相当懇意にしていた方らしい。一人残された息子が、粗雑に扱われているのが見るに堪えなかったようだ。

 

 結局、未成年だからと僕の遺産管理の権利を奪い取りたかった叔母の思惑は見事に外れ、僕はその弁護士の人に便宜上の未成年後見人となってもらった。

 これから先、高校を出るまでは充分生活していけるだけのお金は残してもらえていた。

 書類上の細々とした手続きと、その遺産を僕の意思で使えるように管理してくれるそうだ。

 ただ、やはり小学生が一人暮らしをするのは、無理があったので東京で僕の希望に沿った施設も探してくれるらしい。

 その時の書類を書いてくれるのもその人になった。

 叔母はこれにはかなりご立腹のようだったが、なし崩しでお金を使いこまれそうな身内より、よっぽど信頼ができた。

 

 心残りだったのは、家を手放さなければならなかった事だろうか。

 長野の実家には、沢山の想い出が溢れていた。

 もう遠い記憶だけれど、一つ一つの部屋をみて、家具に触れて、その空気を感じることで、懐かしい思い出がよみがえる。

 荷物を整理するときには、うっかり涙がこぼれてしまったほどに。

 それでも、棋士として生きると決めた以上、ここには留まってはいられないし、人の住まない家はすぐに傷んでしまう。

 しぶしぶではあったが、叔母さんたちに管理を譲渡する形になった。

 あの人たちのことだから、すぐに人に貸すか、悪ければ潰して土地を売り払われるだろう。

 どうか、せめて良い人が借りてくれないかなと、それだけを願うばかりだ。

 

 もっていく荷物も多くを持ち出せるわけでもなく、父の将棋の駒と、母のお気に入りだった扇子、妹とおそろいのキーホルダー、それからアルバムからいくつかの写真を抜き出した。

 将棋盤も持っていければと思ったけれど、脚付きの将棋盤はかさばるし重すぎて現実的ではない。

 前の人生では、服や勉強道具など必要最低限の荷物をもって、幸田家にいったが、写真の一つでも持ってくれば……と後悔したものだ。

 あの時は、思い出の品や、まして写真なんて、辛くなるだけだからと、とても持ち出せなかった。

 けれど、置いておいても叔母たちにすべて処分されてしまう。今回は少しばかり持っていきたい。

 

 

 

 葬儀の後からあわただしく、弁護士の菅原さんに連れられて、長野の地を離れた。

 

 

 菅原さんが探してきてくれた施設はこぢんまりとしたものの、それなりに長く続いている場所だった。

 園長先生と、入れ替わりで勤務してくる職員の方が数人。

 施設には小学生から中学生くらいまでの子供が30人ほどいた。

 当然ながら、お風呂も、食事も、何から何まで共同だし、寝るときは2、3人程度の部屋で分かれて眠るようだった。

 1人になる時間と空間が、全くなさそうなことに、覚悟はしていたものの少し気落ちする。

 でも、将棋会館から電車で一駅、歩いて30分ほどしか離れていなかったのが大きい。

 奨励会に入ったら、会館に入り浸って勉強しようと心に決めて、暫しの間我慢することにした。

 

 菅原さんは手続きが終わって施設の前で別れるとき、自身の連絡先を登録した新しい携帯電話を与えてくれた。何か困ったことがあったら、すぐに連絡してくれていいとのこと。

 友人の子供だった、ただそれだけの僕に、ここまでしてくれたことが本当にありがたかった。

 

 集団生活は苦手だけれど、施設での生活に少しずつ馴染んでいった。

 多感な年ごろの幼い子供たちに手を焼く職員の方々を、大変だなぁと尊敬しつつ手伝えることは、何でも進んで手伝った。

 僕自身のことを手のかからない優等生として認めてもらい、ある程度は自由にさせて良いと評価を頂くための打算もあった。

 

 子供たちは皆、大なり、小なり重い過去を持っていた。その分、支え合っているというか、傷をなめ合うというか、あからさまに僕のことを、疎外したり攻撃したりとする子はいなかった。

 少しでも新入りを受け入れて、仲良くしようとする意志が見られて、随分助かったものだ。

 少し主張が激しかったり、声が大きかったり、言うことを聞かなかったり、と問題児と言われるような子も何人かいたが、精神年齢が30歳を超えている身としてはかわいいもので、あしらったり流したり、落ち着かせたりするのも、そう苦労はしなかった。

 施設内での僕の評価が、落ち着いていてなんでもそつなくこなせる優等生として固まるのに時間はさほどかからなかったと思う。

 

 当然、学校も東京に来るにあたって転校した。

 同い年の青木くんという男の子が施設にいて、同じ地区内にある小学校へ一緒に通うことになった。

 僕と同じく、大人しめの静かな子で、同じ空間にいても、なんとなく息がしやすかった。

 突然やってきた転校生の僕はやっぱり奇異の目で見られたし、親なしで施設の子という噂があっという間に広まると、扱いに困ったように距離を置かれることは多かった。

 幸いにも、青木くんも同じクラスだったので、長い休み時間や、昼食の時は、特に話すわけでもないけれど、彼と一緒にいた。

 

 物静かで読書が好きな青木くんと、詰め将棋の本ばかり眺めている僕。

 不思議なものでしゃべっているわけでもないけれど、二人で一緒にいるだけで、独り教室の片隅で息を潜めていた前回の小学校生活よりも幾分楽な気がした。

 そして、それは彼も同じなようで、授業で分からないところがあったら、おずおずと尋ねてくれるようになった。

 勉強は前から得意だったし、今更2回目の小学生の授業で分からない事もない。

 ひなちゃんやももちゃんの勉強をみていた事もあったから、人に教えるのも苦手ではなかった。

 頼ってきてくれたことで少し心を開いてくれたみたいで嬉しかった。

 それがきっかけで、少し懐かれたのか、彼は施設内でもよく僕と行動を共にするようになる。

 

 一番困った事は、落ち着いて将棋の勉強をする場所が確保出来ないことだった。

 携帯用の折りたためる将棋盤と無くしてもよい駒を買って、施設の一角で棋譜を並べたりしたが、施設はどこかいつも騒がしいし、傍で遊んでいる他の子供たちに、悪気なく邪魔され、中断を余儀なくされることも珍しくなかった。

 形見として持ち出してきた、父の駒は無くなってしまっては困るから、使わずに大切にしまってある。

 いつか独り暮らしをすることが出来たら、使いたいと考えていた。

 

 そのため、落ち着いて指せる場所を求めて、休日はよく近隣の図書館へ遊びにいった。

 フリースペースの机のうえで、将棋の本を広げてそれを見るふりをしながら、机の上に置いた盤で駒を動かした。

 本の内容には興味がない、既に知っているようなことばかりだ。ただ、はた目からみれば将棋に興味がある少年が、本を広げながら実践的に駒を触っているように見えただろう。

 時々、青木くんも一緒に来て、僕の傍でただ黙々と自分の読みたい本を積み上げて、読み漁っていた。

 一人で行動するよりも、二人で動いている方が、施設の人も安心するようで、僕らが休日に図書館へ行くときは快く送り出してくれた。

 

 

 

 施設での暮らしに慣れた頃、そろそろ、奨励会を受けるために実績を作らなければと、僕は動き出す。

 プロ棋士に師事し、その師匠からの推薦があれば、大会への出場経験がなくても受験する事は可能だが、今の僕にはそれを望むことは難しい。

 大きい小学生大会で優勝するかそれに匹敵する成績がいる。

 

 僕は図書館のパソコンで、来年度の春に行われる小学生名人の大会について検索した。

 地区予選の開始は、今年度の冬ごろ、つまりはそろそろのはずだ。

 幸いにも、会場は東京地区だと大体将棋会館で開催される。

 将棋連盟のホームページから目当てのページを見つけだし、申請用紙をダウンロードして記入した。

 保護者の欄の時、少し迷ったものの参加費や移動も全て自分でこなせる自信があったので、勝手に施設の住所と名前を借りて記入を済ませてしまった。

 人生2回目の僕は、小学生では考えられないくらい字が達筆だ。まるっきり保護者が代筆したようにしか見えないだろう。

 

 

 

 そして、小学4年生の4月に、東西からの地区予選を突破した4人で行われた決勝大会を勝ち抜き、危なげなく優勝した。

 

「桐山君! 小学生名人おめでとう。今の気持ちを教えてくれるかな?」

 

「初めての大会で、緊張もありました。でも、一局、一局大切に指してきたので、それが結果につながったのかなと思います」

 

 記者の質問に無難に返しながら、僕は心の中で対戦相手の子供たちに謝っていた。

 

 大人げなく勝ってしまった。

 卑怯だという気がしないわけでもないけれど、棋士の推薦なしで奨励会の入会試験を受験するには、その年度の小学生名人を決める大会でベスト4に入ることが一番てっとりばやかったのだ。背に腹は代えられない。

 それでも無暗に圧勝するのではなく対戦相手の子の得意な戦法にのり、彼らがうち進めるのに合わせながら、それなりの棋譜になるように少し導きながら指した。

 相手も僕も楽しんで指すことが出来たし、良い棋譜になったと思う。

 

「今誰に一番気持ちを伝えたい? やっぱり家族とかかな?」

 

 質問した記者の横にいた、別の記者がギョッとした。まわりの空気がすこし固まったのがよくわかった。

 

「え? 誰にですか? そう……ですね、遠くから応援してくれてるだろう家族に……ですかね」

 

 事情を知らなかった記者の質問に、とりあえずこの場を白けさせないように、無難に答えた。

 そして、その記者が続けて質問しようとするのをそっと他の関係者が遮るのを眺める。

 

 僕からしてみれば、家族を失ったのは遠い記憶だ。30年近くも前のことになるし、 自分の中で整理をつけていたため、それほど問題ではなかった。

 

 だが、周囲の認識は違うのだろう。

 大会予選から参加していた小学生の男の子。

 東京ではそれなりに将棋イベントや小さな大会などが催されるので、勝ちあがってくる子は予想されていたにも関わらず、それを見事に打ち破ったダークホースだとか、期待の新星だとか、囁かれているのは知っている。

 

 おまけに、普通の小学生なら親が引率して連れてくるし、勝ち進めば家族と喜びを分かち合って次の対局に進むものだが、僕は予選の時も本戦のときも、いつも一人で来て帰っていた。

 

 大会の雰囲気に落ち着かなくなったり、戸惑ったりする様子も見せず、粛々と対局に臨み、勝っても大きく喜びを見せるわけでもなく淡々と盤上を片付けて帰って行くと、大会職員の間では密かに有名になっている……らしい。

 

 大会の申請書類を見れば、将棋会館近くの養護施設が住所に書かれているのは分かるだろうし、目を引くというか、気にかかる子どもであるのは間違いない。

 

「桐山君は今後、奨励会に入会したいとか、プロになりたい等の希望はありますか?」

 

「勿論です。今年の8月の試験を受験しようと思っています」

 

 奨励会の入会試験は年に一回。8月に行われる。

 東京に来たのは秋が深まった頃で小3では受験できなかったのだ。

 これを逃すなんて考えられなかった。

 

「小学4年生の受験だと、入会後なかなか大変かもしれませんよ?」

 

「僕には……将棋しかありませんから、覚悟の上です」

 

 奨励会は入会したら、昇級・昇段だけしていけるわけではない。成績が振るわず、降級・降段点を2回取ってしまうと、一つ級位・段位が下がってしまう。

 あまり力が付く前の幼いときから入会すると、入会後の6級で足止めを食らい、はたまた降級点がつくと目も当てられない状態になってしまう。

 そのため、ある程度の経験と力を付けた小学生の高学年か中学1年生くらいの入会が多くなってくる。

 

 もっとも、僕はそんな心配はする必要はなかったし、寧ろいかにして、三段リーグまで最短で駆けあがるか。

 今からそれしか考えていなかった。

 

 

 

 そして、その日大きなトロフィーと賞状を手に施設に帰宅し、職員の方々を驚かせることになる。

 そのまま、園長先生と面談をして頭を下げて、自分の想いを切々と訴えることで、8月の奨励会を受験する時に、保護者として名前を書いてもらうことを約束してもらった。

 

 なお無断で書類をかいて、大会に出場したことは、少し叱られてしまった。

 実績がなければ大会出場も止められるだろうし、奨励会の受験も止められるだろうと思っての行動だったが、一言相談してほしかったといわれて、ほんの少しバツが悪かった。

 

 奨励会の入会試験までの数か月、小さな将棋大会やイベントに参加しつつ、日々を過ごした。

 将棋会館に入り浸りたくても、奨励会員でもないうちからの利用は難しく、イベントにかこつけて棋譜をコピーしに行ったり、以前の記憶で一方的に知り合いのつもりでいる棋士や事務の人を見かけると嬉しくなった。

 

 

 

 

 

 

 熱心にイベントに通ってきて、出る大会すべてで優勝をかっさらっていく、ひまわり養護施設の桐山くんの名前は、奨励会入会前から密かに将棋会館で囁かれることになる。

 

 

 

 

 

 

 




次回 奨励会編 始動。はやく、プロ棋士の皆さんに出会わせたい。
面白ければ、ぜひ評価お願いします!

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