小学生に逆行した桐山くん   作:藍猫

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奨励会編をまとめる際におまけとして書いた話です。


第九手 小さい記録係とお昼ご飯

「桐山、今日は俺と飯いくか?」

 

 何度目かの記録係をしていた時、島田さんにそう声をかけられた。

 

「僕は嬉しいですが、貴重なお昼休憩ですよ?」

 

 あまり長くない休憩時間、出前を取る人も多い。外に食べに行く人はだいたい気分を切り替えたい時が多く、そんな時に僕が居ては邪魔ではないだろうか。

 

「いいんだよ、連れが居た方が、気がまぎれる。一人で食ってるとあれこれ考えて行き詰まっちまうからな」

 

 島田さんはそう言うと僕を連れ出した。

 僕がタイトルホルダーになる頃には規定が変わり、対局中の外出は禁止になっていたけれど、今はまだ、お昼に外食することは構わない。

 でも、島田さんはそうなるまえから出前派だったと思うので、今日は気を遣ってくれたのかもしれない。

 対局自体も予選だし、内容も圧倒的に島田さんのペースだったから余裕もあるのだろう。

 

 島田さんは、何がいい? と僕の希望を聞いてくれた。

 彼はお昼に、胃に優しい麺類を頼むことが多かったので、蕎麦が良いですと応えておいた。

 会館の近くには出前をしてくれている蕎麦屋がある。

 

「記録係の仕事はもう慣れたか? ここのところずっとだろう。あんまり根詰めてしなくていいんだぞ」

 

 島田さんはうどんを、僕は中華そばを頼んでのお昼、彼がそう尋ねてきた。

 

「休みの日、会館に来ている方が楽しいんです。僕の趣味ですよ」

 

 入れるようになってから、土日はほぼ記録係をさせてもらっている。正直に言わせてもらうと施設にいると、色々とごたごたがあって落ち着かないのだ。

 ゆっくり将棋について考えるなら、会館に来た方がいいし、記録係の仕事は楽しいと思える。

 そもそも僕は前だって、家にいるより将棋を指しにきていることの方が多かった。

 

「それなら、良いんだけど。学校の方は? 宿題とかもあるんだろ? 俺はもう小学生の時に自分が何してたかなんて、ほとんど覚えてないけどさ」

 

「宿題は、学校でほとんど終わらせてしまうので。持ち帰っても平日、晩御飯の後に皆でやってるんです。教え合えて楽しいですよ」

 

 もっとも、僕が持ち帰りになることはほとんどないし、いつも教える側だけれど。

 青木くんに教えていたら、いつの間にか皆に聞かれるようになってしまった。

 勉強を面倒に思ってしまうと後々大変だから、皆には少しでも苦手意識を持ってほしくないし、教える分には問題ない。

 

「しっかりしてるなぁ、ホントに。一応施設の人にも説明に行ったんだけどさ、桐山の事、とても信頼してたよ。いつも助かってるって言ってた」

 

 島田さんは、僕が記録係をできるように保護者、つまりは園長先生の方にも説明をしに来てくれた。

 その時、僕の話になったのだろう。

 

「お世話になってますし、自由にさせてもらっていますので。それに、家の事を手伝うようなものですよ。ほら、農家の子とか、お店の子もよく、お家の事を手伝うでしょう」

 

「あぁ……なるほど、そういう感覚か。それなら俺もちょっと分かるよ。田舎でさ、農家ばっかりだったから、よく手伝ってたなぁ」

 

 島田さんはそれから、少しだけ山形のご実家の話をしてくれた。

 奨励会に通ってくる時、高速バスの代金を稼ぐため、島田さんも沢山、村のお手伝いをしたらしい。

 たいした事は出来なかったけれど、皆応援してくれたと彼は笑っていた。

 

「今になって、恩返しをしたいと思って色々やってるんだけどさ。皆そんなこと考えなくていいって言ってくれるんだよなぁ。開の夢は、村の皆の夢だって。俺はほんとその辺、恵まれてたよ」

 

「僕も、お世話になってる人が沢山いるので、いつか恩返ししたいって思ってます。まずは、プロにならないといけませんけどね。今のままでは、何もできないので」

 

「急がなくていいよ。桐山はたぶん大丈夫だからさ。むしろ、本当にこの道でよかったのか一度よく考える時間もいると思うぞ」

 

 島田さんはどこか心配そうだった。彼も、悩みに悩んでプロになり、そして今も色々葛藤があるのだろう。

 でもきっと、考えない棋士なんていない。

 それでも、皆プロになった。

 

「奨励会が楽しいんです。記録係も面白くて。だから、このままの気持ちで進んでいけるなら、もうそれでいいんじゃないかと思っています」

 

 今更、変えられない。

 僕はもう、何年もずっと将棋ありきで生きてきたから。

 他の生き方を知らない。

 そして、それを不幸だとも思わなかった。

 

「……そうか。じゃあま、午後も頑張っていこう。俺もかっちりいい締め方をしたいところだ」

 

「はい! 勉強させてもらいますね」

 

 その日、島田さんは綺麗に勝ち切った。

 夕方になる前に終わった対局に、感想戦もきちんと参加する。あまり遅くなるとここで帰されてしまうので、良かった。

 

 帰りは島田さんが方向も一緒だからと、施設の傍まで一緒に帰ってくれた。

 道すがらも、今日の対局の話をしてしまうのは、本当に棋士の性というか、笑ってしまうくらい将棋しかないのだと思う。

 

 

 

 

 


 

「零くん。良かったらお昼、一緒に食べるかい?」

 

 幸田さんの記録係をした日、僕は彼にお昼に誘われた。

 師匠が決まり、藤澤門下になってから、日常生活でも随分とお世話になっている。

 もう何度か、藤澤家に顔を出していて、僕の部屋もだいぶととのった。

 夏休みになれば、何の問題もなく引っ越すことが出来るだろう。

 

 幸田さんが連れてきてくれたのは、近所のお寿司屋さんだった。

 並みでも1000円以上はするし、ランチにしては高めではないだろうか。

 ただ、気合を入れるために出前を取る人もいるので、棋士にとっては馴染みが深い。

 

「魚は大丈夫? 生は苦手だったりしないかい?」

 

「大丈夫です。むしろ好きな方です」

 

 当然ながら、お昼代を受け取ってもらえるわけもなく、有難くご馳走になった。

 

「記録係の仕事はもう慣れたかい? 私の対局ももう何度目かだね」

 

「だいぶ慣れました。順位戦とかもつかせてもらえるようになりましたし」

 

「藤澤師匠の所はどう? 部屋に必要なものはもうないかい?」

 

「えぇ、充分すぎると思います。園長先生が、引っ越す前に何度か泊りに行くように言われて、今度の週末泊まる予定です」

 

 練習というか、本格的に移る前の準備だそうだ。今までも里子に出す子はそうしてきた場合が多いらしい。

 

「そうか、その日はきっと和子さんが張り切るな。藤澤さん以上に君がくるのを楽しみにしているから」

 

 藤澤さんの奥さんの和子さんは、僕が来ることをとても喜んでくれている。

 孫がはやくに出来たみたいだと歓迎された。

 

「それから、香子の事をありがとう。あの子は今、何か新しい事をはじめたようで、前よりずっと明るくなったよ。私とも少しは話してくれるようになった。もっとも君の話題が多いんだが」

 

「え? 僕の話をしているんですか? 香子さん嫌がりませんか?」

 

「いや、寧ろ聞きたがっていたよ。そうだ、今後うちにも食事をしにおいで」

 

 香子姉さんが、幸田さんと穏やかに僕の話をする図が全く思い浮かばなかったのだが、ここまで誘われたら行かざるを得ない。

 歩が嫌がらなければいいのだけれど。

 いや、まだ面識がないんだから、それは無いか。

 日取りはまた調節する事となったが、近いうちに幸田家でもご飯を食べることになりそうだ。

 

 

 

 


 

「よし、桐山、俺と飯いくぞ」

 

 急に駆り出された記録係の仕事は、藤本さんの対局の日だった。

 慌てて出てきたため、何の準備もしていないし、誘っていただけるのはありがたい。

 

「おや、残念だ。では、今日は藤本くんに譲るよ」

 

 自分も声をかけてくれようとしていた田村さんがおどけたようにそう笑っていた。

 

「すいませんね、田村さん。俺は滅多にこっちには来ませんので」

 

 高段位者で過去にタイトルを獲得したこともある藤本さんは、基本上位者となることが多く、あまり関東での対局は組まれない。

 今日はその珍しい日だったのだろう。

 

 北参道駅に近い場所に、中華料理がメインのお店がある。

 今日はそのお店で食べるようだった。

 

「ここの天津飯や炒飯は意外といける、あとカレー。子どもはカレー好きだろう」

 

「そうですね。カレーは定番メニューです」

 

 ただ、施設でカレー率がとても高いので、今日は五目中華丼にしておいた。

 藤本さんは、担々麵だ。辛くないのだろうか。刺激物は控える人が多いのだけれど、この方はあまり気にしないのかもしれない。

 

「いっぱい食えよ。餃子も頼むか?」

 

「いえ、僕はそれほど食べれないので」

 

 この丼ものでさえ、全部食べ切れるか怪しいのだ。

 

「遠慮するなよ。子どもは愛想ふりまいて、甘えとけばそれでいいんだ」

 

 藤本さんはあっさりとそう言い切った。

 

「皆さん、とても優しくして下さいます。僕はただ、お礼を言う事しかできません」

 

 本当に将棋会館の人たちも、棋士の皆さんも優しい。

 前は中学生で、今は小学生で、内弟子だったか施設だったかで、色々違いはあるけれど、たぶん僕が受け取れるかどうかそれだけの話だった。

 嫉妬や、ほんの少しの出来心で、酔わされて道において行かれた時もあったけど、たぶん、あれは僕の方も多少の問題があったと思う。

 意地を張らなければよかったのだ。

 その時からだってよくしてくれていた先輩はいたし、幸田のお義父さんの名前を出せば、引いてくれただろう。

 ただ、ぼくは意固地に一人で立っているしかないとそう思い込んでいたから。

 

「礼を言えるだけたいしたもんだ。おまえさん素直だからな。大人は可愛がりたくなる。俺には娘が二人いる、下の子も桐山のすこし上くらいか。最近ちょっとお父さんとは、もうお風呂入らないとか悲しいこと言ってきたが。もうそんな年頃になったんだなぁと感慨深い」

 

 そういえば藤本さんには、娘さんが二人で、息子さんはいなかったかな。奥様がしっかりした方だったし、娘さんもしっかり育っているのだろう。

 この方将棋は強いけれど、こと女性に関してと、私生活に関しては……。うん。

 でも、家族を大切に思っているのは間違いないのだろう。

 

「地元は九州でしたっけ。一度行ってみたいですね」

 

「こいこい! 鹿児島は良いところだぞ。 そういうおまえさんは、東京の出身ってわけじゃないだろ」

 

「僕は、長野です。……いつか、一度行かないとって思っています」

 

 今は、まだその決断は出来ないけれど。

 

「東京での暮らしは慣れたのか? 地元との違いに戸惑ったりもするだろう。俺も上京したりした時期もあったが、なんだかんだこっちに帰ってきたしな」

 

「いえ、今の生活にもだいぶ慣れました。師匠もよくしてくれていますし」

 

「あーーーそう言えば、今は、藤澤のおっさんの家に住んでるんだっけか。おっかねぇだろ、あの人」

 

「……? そうですか? 僕は怒られたことがまだないので、そこはちょっと分からないです」

 

「え。そうなの。あの人も丸くなったのか……?」

 

 僕と藤本さんの間で師匠の認識に大きな隔たりがあるようだったけれど、そこは深くは聞かなかった。

 師匠と藤本さんなら公式の対局で何度か対戦しているだろうし、印象も違うのだろう。

 

 そのあとも藤本さんはとりとめもなく、しゃべり続け、僕はそれに答え続けた。

 この人と話すのは慣れてしまえばある意味では楽だとおもう。

 此方がボールを投げる必要はなくて、ずっと延々と受け続ければいいから。ただ、対局中はできたら話しかけないで欲しいとは思う。

 

 

 

 


 

「桐山~。良かったらどうよ、一緒に昼飯」

 

「あ、是非! よろしくお願いいたします」

 

 とある台風の日に知り合ってから、スミスさんは会館で僕をみかけると積極的に声をかけてくれるようになった。

 おそらく、あの時の印象がどこか不安を与えてしまっているのだと思う。元々、面倒見が良いというか、後輩に優しい人だったから猶更に。

 

「どこが良いかね。あそこの定食屋にするか、洋食も和食もあるしな」

 

 千駄ヶ谷駅からおよそ5分ほどの場所にあるそのお店は、会館からも近い。

 

「俺は、何にしようかね~。生姜炒め定食にしよう。桐山何が良いの?」

 

「えっと、オムライスにします」

 

「いいよな、おすすめだわ。デミグラスソースも濃すぎないでちょうどいいしボリュームあるし」

 

「え、スミスさん良いですよ。自分で払います」

 

「いいのいいの。誘ったの俺だからね」

 

「……ありがとうございます。ごちそうさまです」

 

 こういう時に、謝るよりも、お礼を言って受け取る方が喜ばれる事を、僕はもう知っていた。

 

 昼時はそれなりに混んでいるのだけれど、てきぱきと働く店員さんが注文をスムーズにさばいていた。

 

「いや~まいったわ、今日の対局。まだ予選なのに、あんまいい内容にできてないし。最近の勝率は落ちてきてるし。肉でも食わないとやってらんない」

 

「内容……悪いんですかね。スミスさん、最近すこし棋風かわりましたか?」

 

「あ、やっぱり分かる? 色々思う所もあって模索中、それで余計勝てないのかもな」

 

 彼の棋風が以前のものにより近くなってきていると感じていた。

 軽やかで鮮やかな棋風。それは、ずっとスミスさんに合っていたし、彼はそれで上まで上がってきた。

 

「変化があるのは良いことだと思います。僕も色々試すのは好きです」

 

「桐山は、そういえば相手の戦法に乗るのが好きだったよな。あんまりこだわる戦術もないみたいだし、オールラウンダー?」

 

「あまり、何派とかは考えたことはないですね。どれも面白いと思います」

 

「……迷った時とかどうしてるの? これだけ勉強してるんだから、何手か思い浮かぶだろう」

 

「時と場合によりますが……、一番試したことない方に、いきなり行ってしまうかもしれません」

 

「え。意外だな、安定感あるから手堅いのかと思ってた」

 

「今は、まだ不測の事態がおこる対局が無いので。でも、僕はけっこう意地っ張りで、頑固で、無計画らしいですよ」

 

 昔、二海堂にそう言われたなぁと思って告げる。

 スミスさんは、あんまりそんな風に見えないと言ってくれたけど、それはたぶん今が余裕があるからだ。

 いつかまた、先のみえない真っ暗闇を、手探りですすむようなそんな対局をする日がくる。

 それを楽しみにしているなんて、前の自分がみたらなんて言うだろうか。

 

「意地っ張りで頑固か……。将棋指しってそういうもんだよな。俺も、もう少しみっともなくしがみつく事も必要かなぁ」

 

「一つとして、同じ指し方は無いと思うし、だからこそ良いんだと思います。らしくないとかあんまり考えなくても良いんじゃないかと。たまたま今日はそういう日だったんです」

 

「そういう日か……。いいね、あっさりしてて。後に引くこともなさそうだ」

 

「落ち込むときはめちゃくちゃ落ち込みますけどね。布団から出てきたく無くなります」

 

「まじ? 桐山でもそんな落ち込むんだ。おまえさんそんな酷く敗けたことなんてないだろう」

 

「ありますよ。将棋やってて負けたことないわけがない。ぼっこぼこにされて、泣いて帰ったこともあります」

 

 もっともそれは、今世ではないけれど。

 いったい何度この将棋会館から逃げるように走って帰っただろうか。

 僕は落ち込み方がとても下手で、そのたびにふらふら、ぐらぐらと迷ってしまって。

 やっと落ち着ける場所を見つけるまで、随分と不安定に進んだものだ。

 

「まぁそうか。勝負事で負けたことない奴なんていないもんな。さぁて、俺ももうちょっと頑張ってみるか」

 

 その日の午後、スミスさんは相手に随分と食い下がり、終盤相手側が指した失着を見逃さず、その日の勝利を掴んだ。

 感想戦の後、今日は泣いて帰らないで良さそうだと笑った彼に、僕はただ、その勝利を祝った。

 

 

 

 


 

「桐山くん、良かったら今日はおじさんと食べるかい?」

 

「え。良いんですか?」

 

「もちろん、いやぁ良かった。俺は初めましてだからな、断られるかと思って」

 

 僕が今日、記録についたのは、田中さんの対局だった。

 今日の対局者は両者ともに、今はまだ知り合いになっていなかったので、流石にコンビニご飯のつもりで来ていたのだけれど。

 

 今日行ったのは、メニューが豊富な定食屋、出前もしているのでここの料理を食べている棋士はとても多い。

 

「おでんの定食にでもしようかな。出前じゃちょっと頼みにくいし。桐山くんは?」

 

「僕は、味噌煮込みうどんにします」

 

「おぉ、なかなか渋い味を選ぶね。うちの息子たちなんかは、肉がいいっていつも言うんだ」

 

「息子さんがいらっしゃるんですね」

 

「うん、二人いるよ。下の子は君と同じ年だ。だからさぁ、驚いちゃって。じっと座ってるのは意外と難しいだろう。今日の対局は順位戦だ。午後も長いけど、だいじょうぶかい?」

 

「はい、あまり遅くなるなら車を使うように師匠にも言われています」

 

 師匠は必ず僕の帰りを待ってくれている。それは対局の日も、ただの記録係の日も変わらなかった。

 

「藤澤九段のお家に住んでいるんだったね。あの方の手は広いし優しい。君は安心していいと思うよ」

 

「はい。有難いことです。将棋も指してくれるし、棋譜も沢山あって、楽しい。猫も飼われているんですよ。やっと仲良くなれました」

 

「そうかい、それは良かった。幸田さんともよく会うのかい?」

 

「えぇ、同じ門下ですし、元々父の友人だったそうで、僕の事をとても気にかけてくれています」

 

「そうだ、幸田さんと桐山さんは仲が良かったからなぁ。……君にこの話をしていいのか、分からなかったんだが。君のお父さんとは奨励会で一時期一緒でね。こんな風にお昼を食べたこともあったよ」

 

 田中さんは静かに目を伏せながらそう言った。

 そりゃあ気もつかうだろう。まだあの事故があってから2年も経っていない。

 僕としては、父の話がきけるのはとても嬉しい。

 

「そうなんですか! お父さんは何を食べていました? うどん結構好きだったんですが、若い時からそうだったのかな」

 

「そうだな、桐山さんは胃にくる重いものとかはあんまり得意じゃなくてね。うどんとか蕎麦とかが多かったよ。幸田さんといつも楽しそうに将棋の話をしていた」

 

「……幸田さんは、長野に遊びにきてくれるくらい、父と仲が良かったですから」

 

 その繋がりがなければ、僕は前世で棋士になることはなく、そして今も東京にいることはなかっただろう。

 ふと、もし棋士になっていなければどうしていただろうかと思う。あまり考えたこともなかった。

 社会性はあまりなかったから、普通に進学し会社にはいれば苦労しただろうなと思う。

 それに、大学にいくまで叔母は面倒はみてくれなかっただろう。

 結果論として、棋士になれたことはやはり良かったのではないかと思う。

 

「お父さんの将棋はファンが多かったよ。棋士に慕われるそんな人だった。僕ももちろん好きだった。だから、奨励会を辞められたときは随分と残念に思ってね。幸田さんなんかもうずっと勿体ないって言ってたよ」

 

 僕は、あまり父の将棋を覚えていない。幸田さんに言えば前回だって棋譜をきっとみせてくれただろう。

 けれど、それをしなかったのは僕だ。出来なかったが正しいかな。

 そこにどんな気配を見つけても、おそらく平静ではいられなかっただろうから。

 

「棋譜を……」

 

「ん?」

 

「良ければ、棋譜を見せて頂けますか? いつでも構いませんので」

 

 でも今は、見たいと思う。

 父の将棋の世界を、少しでも理解が出来たらと思う。

 

「もちろん良いよ。こんど会館に持ってきて、事務の人に預けておくよ。もしまだなら、幸田さんにも聞いてみると良い。彼と桐山さんは研究仲間だったからね」

 

「はい。実はまだ、言い出せてなくて。でも、これがきっかけで話してみようと思います」

 

 父と幸田さんは本当に仲が良かったから、思い出の品を見せてほしいと言ってしまっていいものか、少しだけ悩んでしまった。

 あとはやっぱり、見たいようで、見たくないという自分の中の弱さだ。

 

「君と将棋の話をする幸田さんは、楽しそうだよ。たぶん君が思っているよりずっとね。聞いてみると良い。喜んで色々話してくれるさ」

 

 田中さんはそう言って、僕の背中に小さく触れる。暖かく優しい手だった。

 

 沢山、たくさん聞きたいことや、知りたいことがある。

 前は、聞けなくて、知りたくなかった事。

 でも、やっぱりそれは駄目だと思う。想いや記憶は繋いでいかなければ、薄れて消えてしまうものだから。

 

 

 

 

 


 

「桐山くん、今日のお昼は、爺さんと一緒に食べようや」

 

 柳原さんの、何度目かの記録係の時にそう声をかけられた。

 

「ありがとうございます、ご一緒させてもらいますね」

 

「もう、朝からそのつもりでさ。丁度徳ちゃんも今日は会館で手が空いてるっていうから、頼んどいたのよ」

 

 柳原さんは大変機嫌がよさそうで、外に食べに行くのかと思うと向かっているのは会長室だった。

 

「俺は出前とった時に、よく徳ちゃんとこっちで食べるのさ。広々食えるしな」

 

 会長と柳原さんはずっとともに戦ってきた同志だ。気兼ねなく食べれるならその方が良いのだろう。トップ棋士が控室で食べていると、新人も緊張するし。

 慣れればどうってことは無いのだけれど。

 

「徳ちゃん~もう届いてるか?」

 

 ドアを開けながら、柳原さんは会長にそう尋ねた。

 

「お、朔ちゃん、待ちくたびれたぜ。いい匂いがしてるしよぉ。ちょうどさっき来たからまだあったけぇよ」

 

「よしよし、リーグの初戦だし気合い入れないとな」

 

 桐山もこっちきて座れっと会長に呼ばれる。

 部屋に入った時の香りからまさかとは思っていたが、これは。

 

「鰻じゃないですか、出前とったんですね」

 

「今日はそんな気分だったんだ。ほれ、お前さんもコレ」

 

「松だぞ、沢山食えよ」

 

「え⁉ うわ、すいません、ありがとうございます」

 

 松ってたしか、この店のうな重のメニューの中で一番高くなかったっけ?

 

「そういえば、……鰻はじめて食べるかも」

 

 以前は、もう何度も食べてきたし、何なら松永さんにおごることにまでなったけど、今世では初の鰻だ。

 

「えぇ、そうなの。まぁそうか、子どもはあんまり食べないか」

 

「桐山は、魚きらいか? 焼き魚苦手な子も多いよな」

 

「僕は好きですよ。施設でも嫌いな子はいますが、味というより食べにくいから苦手なんでしょうね」

 

 頂きますと、一声かけて、蓋をあける。

 食欲をそそる実に良い香りだ。

 あまり、がっつりした出前を頼む機会は少なかったけれど、僕も時々は注文していた。

 どこか懐かしい気がする。

 

「どうだい、鰻好きそうかい?」

 

「はい! とっても美味しいです」

 

「そりゃあ良かった。なんでか棋士には鰻が好きな奴が多いよなぁ」

 

「まぁ焼肉は出前だとちょっと味気ないし、スタミナついて精がつく食べ物っていえばなんとなくコレだよな」

 

 雑談をしながらもくもくと食べ進める。

 二人と同じ量だけあって、かなり多い。正直食べきれる気がしなかった。

 

「桐山は腹いっぱいか」

 

「食細くないか? 小学生ってもっと食べなかったっけ」

 

 あっさり全部食べ切っているお二人に、元気で働き続けている理由が垣間見えた気がする。

 

「まぁ、無理に全部食べるなよ。午後眠くなるぞ」

 

「そりゃ困る。俺の記録ちゃんととってもらわないと」

 

「はい、この辺にしておきます。あの、器は返さないといけないと思うので、ラップとかってあります……?」

 

「ん? あーどっかにはあるかもな。おーい、どっかにラップなかったけ?」

 

 会長の問いかけに、ありますよと事務の方が出してきたラップに、残ったご飯と鰻を包む。

 見た目がちょっと悪いが、四角い感じのおにぎりにした。

 

「お。うまいもんだな上に、鰻のせたのか」

 

「はい、あまったご飯よくおにぎりにするので」

 

 施設では余ることは滅多にないので、よくおにぎりを作っていたのは川本家での記憶だけれど。

 紙皿もくれたので、会長室の机の上に対局が終わるまでおかせてもらうことにした。

 夕方にはまたお腹もすいてくるだろう。

 

「ここの鰻の味は覚えておいて損はないぜ。どうせ長い付き合いになる」

 

「そうですね。今度は自分で注文できるようになりたいです。柳原さん、ごちそうさまでした」

 

 言うね~とちゃかす会長を横目に、柳原さんに改めてお礼を言う。

 

「いやいや、良い話相手だったよ。徳ちゃんとだけだといい加減飽きてきてね」

 

「酷いな、朔ちゃん。入り浸ってるのはそっちだろう」

 

「それにね、桐山くん。君を誘うと良いジンクスがあるんだよ?」

 

「え、何ですかそれ」

 

「一緒に昼食を食べた棋士の勝率が高いの知らないかい? すでにちょっと噂になってるよ」

 

 全くの初耳である。そりゃあ、僕と食べたことで集中が切れなければいいとは思っていたけれど。

 そういえば、確かに感想戦でお昼一緒に食べた人が勝ってる事の方が多かった気がする……。

 でも、それは、僕が以前の知り合いに懐いているし、以前からの知り合いといえばそりゃあ強い人が多いからっていうのもあると思うのだけれど。

 

「小さい記録係が幸運を運んでくるってね。お前さん、記録係の時の昼飯は、たぶん困らないぜ。もう買ってくるのやめたら?」

 

 会長にそんな風に言われてしまって、曖昧に笑うしかなかった。

 そういえば、ここ最近、誘われることが多く、前もってコンビニで買ってくるのはやめてしまった。

 昼休みに買いに行っても間に合うからというのもあったけれど。

 

 

 

 それから僕は、おおよそ一年、三段リーグを突破し、小学6年生でプロ入りを果たすまで、記録係の仕事を受け続けた。

 多くの人の対局をみて刺激をうけ、そしてまた多くの人と食事を供にした。

 “小さい記録係とお昼を食べると、その対局は勝てる”そのジンクスが、どれほど効果があったかは、分からないけれど。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




奨励会編をまとめる際におまけとして書いた話です。時系列のところに挿入。
お店は参考にしてるお店があります。将棋飯に興味がある方は調べてみて下さい。


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