3月にプロ入りが決まった後、僕の未成年後見人は藤澤さんに移された。
菅原さんには一応連絡は取っていたんだけど、あの方も多忙なので、そのままになっていたのだ。
別に何が変わるってわけでもないんだけど、師匠というものはもう弟子の親のようなものだそうで、それに同じ家に住んでる人がなっている方が便利なことも多い。
菅原さんは時間を作り、藤澤さんの家まで来てくれた。
会うのは施設で別れたとき以来だ。
彼は、僕の姿をみると大きくなったなぁと嬉しそうだった。
そして、気が付いたら将棋をしていて、いつのまにか奨励会に入っていて、あっという間にプロになってしまったと苦笑していた。
菅原さんがくれた携帯はとても助かっていたし、彼にも節目節目で連絡をして、その度に丁寧な返信がきていたけれど、実際会うとやはり違うものなのだろうか。
あと、同席していた幸田さんと菅原さんが仲が良かった事にも驚いた。どうやら父は幸田さん経由で菅原さんと知り合っていたらしい。
幸田が同じ門下なら安心だとか、お前が零くんをこっちに連れて来てくれたんだなとか、お互い肩を叩きあっているのをみると、本当に気心が知れているようだ。
その他にも、記者会見があったり、インタビューがあったり、それなりに春休みは忙しかったと思う。
なんだか、テレビにも結構取り上げられてしまって恥ずかしかった。
施設にも顔を出したけど、みんなが大騒ぎだったのだ。やはりメディアの影響力は大きい。
それ以外はいつも通り、棋譜を並べたり藤澤さんと対局したりして、毎日を過ごしていた。
会長からちょっと仕事を頼みたいから、話をききに来てくれと言われたのは、3月末の事だ。
僕は家を出るのが遅くなってしまって、すこし急いで将棋会館の階段を駆け上がるはめになった。
だから少し前方不注意だったのだろう。
角を丁度曲がるときに、何か大きなものにぶつかって後ろにのけぞってしまう。
やばっ落ちる。って思ったのも一瞬。
すぐに腕を掴まれて、引き戻された。
「おっと……すまん。前をよく見ていなかった」
「わぁ! すいません、隈倉九段! 僕も良く確認してなくて……」
「ん、子ども……? ひょっとして会長室に用事か? ということは……君が桐山くんか」
「はい。桐山零といいます。この度、四段になりました」
「そうか……君か。対局するのを楽しみにしてる」
隈倉さんは僕の事を改めて、眺めた後にそう頷いて、階段を下りて行った。
対局?
彼とあたるのは、随分と先のことになりそうだけれど……。その疑問は会長室で解けることになる。
「炎の三番勝負……ですか?」
「おう! 奨励会無敗、初の小学生プロ棋士! 今、お前さんの注目度は上がりっぱなし! 実際どこまで指せるのか興味を持ってる人も多い。って、わけでA級棋士とあの宗谷と対局するイベントをやってみようってわけだな」
どうせ4、5月はお前さんの出られる対局なくて暇だしな。丁度、良いだろと続ける会長に僕は唖然とした。
「……宗谷ってまさか宗谷冬司名人ですか!?」
「他に誰がいるんだよ。あんなやつ二人もいたら、俺は嫌だぜ」
「プロになったばかりの僕なんかが、対局して良いんですか!? ていうか、その話本当に宗谷さんが受けたんですか? ……無理矢理だったんじゃ」
「最初は、ふーんって感じだったけど、島田に面白い棋譜があるぞーってお前の二海堂との対局みせられて、結構乗り気になってたぞ」
「島田さんに……あれ? まさかA級棋士二人って……」
「おう。島田と隈倉にした。島田はおまえさんと顔見知りだし、初戦にあてれば少しは、緊張せずに指せるかと思って」
宗谷さんに、島田さんに、隈倉さんだって!?
めちゃくちゃ、豪華な布陣だよ……こんな企画をうけてくれるなんて申し訳ない……。
「まぁあれだ、がっつりテレビ中継されるし、解説も入る。けど持ち時間は2時間で切れたら1分将棋な。こういう非公式の対局は総じて短めなんだよ。あとはまぁ……お前さんが望むなら相手の棋士は一枚落ちでも……」
「いえ。平手でお願いします。必ず、それでもみれる対局にしてみせます」
会長の言葉にすぐ返答した。
駒落ちだって? せっかくの機会なのにとんでもない!
非公式戦とはいえこれを逃したら、この人たちと戦えるのなんて半年は先になる。とくに宗谷さんなんて、マッチングに縁がなければ、1年以上は無理だ。
「おぉ~いいね、いいね。桐山くんやる気じゃん! その調子で頼むよ〜」
「……ご期待に添えるように頑張ります。あの……収録は土日でしょうか?」
「そうそう。毎週日曜な。あいつらの予定はこっちで何とかするから、おまえさんはとりあえず予定空けて準備しといて」
「分かりました。服装……制服でいいんですよね? それとも子供用ですけど、スーツみたいなの着た方がいいですか?」
「制服でいいよ。その方が受けが良いだろ。
あ、一応学校側に許可もらえよ。言いにくいなら俺から頼んでやってもいいぞ」
「いえ、大丈夫です。この地区にある小学校だけあって、校長はかなりの将棋好きだったので……むしろ喜ぶかと」
プロ入りが決まった小5の3月。
学校には桐山零くんプロ棋士おめでとうなんて垂れ幕は下がるし、春休み前の集会で激励されるしで、居たたまれなかった。
あの人だったら、録画した僕の対局を授業で流そうなんて言いかねない……是非ご自分だけで楽しんで頂けるようにお願いしておかなければ……。
「にしても、おまえさんの制服だいぶ着崩れた感あるからな……この際新しいの藤澤に買ってもらえば? この先一年まだかなり対局で着るんだし」
「そうですね……普段着るのとは別に、こういう時用にきれいに置いておくの新しく買います」
私服登校が普段だから、普通の子なら式典でしか着ない制服だけど、僕は、奨励会や記録係の時に常にこの格好をしていたので、だいぶよれた感じがある。
この際新調しておくのも必要な初期投資だろう。
「あのおまえのこと可愛がってる爺さんなら、何着でも買ってくれるだろうに……」
「ただでさえ、生活費を受け取って貰えてないんです。この辺は自分でします」
食費や光熱費……そのた諸々の費用……人が一人家に増えるということは、それだけ負担が増える。
僕は幾らかお金をいれようとしたけど、当然ながら断られた。お父さんのお金は君のために大切にしなさい。と言われたらもう何も言えない。
プロ入りしたし、これからはもっと安定してお金が入るようになるけど……この先も多分受け取ってはもらえない。自分で出せるところはちゃんとしたいものだ。
「生活費っておまえ……内弟子ってそういうもんだからな? 師匠にとったら子供みたいなもんなんだぞ」
会長は絶句していたけれど、僕としては、彼らにあまり負担はかけたくない。これでも、精神的には大人なのだから余計に申し訳なく思ってしまう。
「もう、プロになりましたし、たいていの事は自分でしますよ。えっと、話はこれでもう終わりでしょうか?」
「あぁ、俺からの話は終わり。あとはちょっとこの後、インタビュー受けてくれや。此処に記者来てくれるから」
「いきなりですか!?」
「宣伝。宣伝。せっかく番組やるんだからさぁ~ちゃんとその前から広めておかないと」
「はぁ……まぁそうでしょうけど……」
それから数十分もしないうちに、記者の方がやってきた。
最初の質問はもはやテンプレである。
いつから将棋を?
師匠もなしで大変じゃなかった?
施設での生活と両立はどうだった?
記録係の仕事も頑張ってたみたいだね?
師匠の藤澤さんとは上手くいってる?
とかそんな感じだ。
質問内容には慣れていたし、インタビュー自体も以前の経験でそれなりにこなせるので、スムーズに進んでいた。
ただ、長野の親戚のこととか、親の事故のこととかは、はっきりとは答えずに苦笑いで、濁して終わることが多い。
あからさまに駄目というわけでも無いが、あまり触れられたくないなぁという雰囲気をだすと、結構な人がちゃんと引いてくれるのだ。
その辺の距離感をちゃんと察してくれる記者の方は、信用が出来ると思う。
続けての質問は、今回の企画についての意気込みとかだった。
対局相手の3人の棋士についてどう思う?
あこがれの棋士たちと対局できてどう?
正直、勝つ見込みは?
とか、そのあたり。
島田さんはかなり奨励会でお世話になっているからその辺も推しておいた。宗谷さんは言わずもがな、将棋界の顔である。隈倉さんもタイトル戦の常連。普通に考えたら、プロになったばかりの奴が対局してもらえる相手ではない。
本当にありがたいし、楽しみにしていると伝えたおいた。
勝敗については、頑張ります、とだけ答えておく。
勿論僕は全力で勝ちに行くつもりだけど、久しぶりな高レベルな対局になる。相当な準備を重ねたとしても……果たして結果がどうなるかは未知数だ。
記者の方の質問が終わって、席を立とうとしたとき会長が呟く。
「意外だったなー。前から思ってたけど、桐山ってこういうのもっと苦手なのかと思ってたわ」
「好きではないですよ。でも、プロになったら必要なことだと理解していますから。少しでも将棋界にメリットがあるなら、ちゃんと仕事は受けます」
「あんまり気負いすぎるなよ。本当に嫌なら言えばいい」
会長は肩をすくめながらそういった。僕の意思を尊重してくれるのだろう。
この時期に僕をつかってガンガン広報すれば、それなりの効果が見込まれるだろうに……なんだかんだで、この人も優しいのだ。
「僕は……将棋のおかげで今があります。将棋を通じて知り合った方々のおかげで生きてます」
前はそれほど将棋が好きなわけではなかった。生きる手段というか他に選択肢がなかったから。
でも、将棋を通じてたくさんの人々と繋がれたし、棋士になっていなければ、川本家の人たちと出会うこともなかったかもしれない。
打ち込むうちに、いつのまにか将棋は生きがいになった。
戻った時に再びプロになることになんの躊躇もなかったほどに。
将棋を指すということは、僕の人生そのものなのだ。
「将棋界が盛り上がっていくことに貢献できるのが嬉しいんです。最近、観る人って増えてきてるみたいですし。ルールを良く知らなくても、自分じゃさせなくても将棋を好きだよって言ってくれる人が、増えるきっかけになれたらなって思います」
ネットの生中継などの公開方法が功を奏した形だろう。将棋を観て楽しむというファンが一定層すでに存在している。
「観る将ね……、指す側の俺からしたら、見てるだけで楽しいのか? て感じだけどなぁ」
「今は、中継の解説も充実していますし、ソフトの普及もあって、その一手が良かったのかどうか、一般の方にもわかりやすくなってます」
分かりやすい名解説をする棋士の方々も増えたし、ソフト片手にその手を解析すれば、一応悪手か良手かの見当はつく。まぁ……将棋は複雑だし、その後の展開によって、いかようにも変わってくるので、それが合っているばかりではないのだけれど。
「それに……スポーツだってそうでしょう。野球やサッカーを見るのが好きな人が全員そのルールや技術に詳しいわけじゃない。皆がそのスポーツをしてるわけじゃない。
自分じゃできない、技術や攻防を誰かがやっているのをみて感動するんだと思います」
僕は野球は全くできない。ルールだってたぶん基本的なところしかしらない。
でも、プロ野球選手になった高橋君の試合をひなちゃんと観戦するのはとても面白かった。たぶんそういうものなのだ。
「将棋にだって、もっとそういうファンがついてくれたら嬉しいです。生意気だけど、僕がその対象の一人になれるなら光栄だと思ってます」
タイトル戦やイベントに、棋士に会ってみたいだったり、歴史的瞬間に立ち会いたいだったり、そういう気持ちで全然かまわないから、来てくれる人が増えたら将棋界は盛り上がる。
「最初は観る将だった人たちの中で、数人でも自分が指したい、やってみたいって思った人がいたら最高ですけどね」
そして、その中で一握りでも良い。力をつけて、プロまで上がって来てくれて、心躍るような対局ができたなら、僕としては、それ以上の幸せはないかもしれない。
以前は早くに死んだから、若手はまだまだ育っている途中だったけれど、初めての対局をした子に、貴方のタイトル戦をみてプロになりたいと思いました……なんていわれたときの、言いようのない喜びは今も胸に焼き付いている。
ピッと何かのボタンが押される音がした。
ハッとしてそちらをみると、まだ室内に残っていた記者さんが申し訳なさそうにボイスレコーダーを手にしていた。
「いやーすいません。あまりに素敵な話をされていたので……つい職業柄……。あの、今のやりとりも記事に入れてしまっても良いでしょうか?」
「えっ!? あー……いや、ちょっと、生意気すぎませんかね……」
「いいよーいいよー。どんどんやっちゃって下さい。会長権限で許可します」
僕はうろたえて難色を示してみたが、会長は面白そうに手を振って、そうこたえてしまった。
その記者さんは嬉しそうに、絶対に良い記事にしますっと言って去っていく。
……あまり話を盛りすぎない、普通の記事に是非して頂きたいものだ。
最初の対局である島田さんとの第一局は4月の第2週の日曜日に決まった。
僕はその日までに、彼の棋譜……特に近年のものを集めて、並べまくった。
将棋にも流行があるし、同じ人でも時期によって、得意としている戦法や使いたがる技術が変わってくる。
注目したのは彼の昨年のB1順位戦だ。A級にあがるために、相当気合いをいれて一局一局指しているのが分かる。
夢中になりすぎて、なんど食事の時間をすっぽかしそうになったことか。
最近ではシロだけでなくて、クロも僕の事をよびに来てくれることもある。
あの子はシロと違ってまだ加減が下手だから、足の指を齧られたりすると普通に痛い。
まぁ……おかげで奥さんに迷惑を掛けずに済むので、有り難いんだけど。
あっという間にその日はやって来て、新調した制服に袖を通し、収録の現場に向かう。
少しだけ緊張していたけど、ほどよい高揚だったと思う。
早めに収録現場に入って、スタッフさんや、この対局のためにわざわざ記録係などをしてくれる将棋関連のひとたちに挨拶して回った。
皆頑張ってねとか、応援してますとか声を返してくれる。
期待に応えられるような将棋にしたいと思った。
後からやってきた島田さんは、僕をみつけると声を掛けてくれた。
「桐山、お疲れ。今日はよろしくな」
「お疲れさまです。今日はよろしくお願いします。それから、A級昇級おめでとうございます」
僕の言葉に島田さんは、ちょっと目を見開いた後に、優しく笑った。
「ありがとう。そっちも、プロ入りおめでとう。絶対なるだろうなとは思ってたけど、まさか一年半で奨励会を抜けるとはなぁ」
「はやく。出来るだけはやく皆さんと指したかったから……。だから、今日とても楽しみにしてきたんです」
「そっか。緊張してんのかと思ったけど、そうでもないみたいだし。いい対局にしような」
対局前にまたインタビューもあったけれど、僕は集中し始めていて、なんて答えたかはもうあいまいだ。
たぶん当たり障りのないこと答えて終わったと思う。
対局は僕が先手。
そして、戦局は将棋の純文学と謳われる居飛車の看板戦法、「相矢倉」になった。
そう。僕が以前島田さんと最初にした対局の時も相矢倉だった。
でも、今回は違う。
僕には島田さんしか見えていないし、他の対局のことなんて微塵も頭の中にはなかった。
序盤はおなじみの定跡手順を踏襲し、後手玉が、先手玉に続き、「矢倉囲い」の中へと入城を果たし、「相矢倉」が完成する。
僕が現代の矢倉の主戦ともいわれる4六銀3七桂型に構えると、島田さんは、先手である僕の「穴熊」をけん制する9五歩型で対抗。
戦況は拮抗して、局面は煮詰まりつつあった。
けれど、焦ってはいけない。
慎重になりすぎてもいけない。
ぐっとこらえつつ、好機を待ち続ける。
そして、60手目に島田さんが香車を一段繰り上げたのをみて、仕掛けた。
激戦地から、遠く離れた過疎地帯に後手の香車を釣り上げてから、あいたスペースに持ち駒だった、銀を投入。
先に指しておいた2五の桂馬も利いているし、その先で1三の地点を見据えて6八の角という手もある。
かなり好戦的な一手だ。
島田さんは、堅実な道をとった。玉を3一の地点へと引き下げた。
その一手を待っていたのだ。
玉の下がりをみて、僕は1三の銀を金との交換で捌き、島田さんの矢倉を力強く崩しにかかった。
矢倉の屋根をなしていた歩をバリバリとはがす。
その後も、手が途切れることなく攻め続けた。
島田さんはこのままだとジリ貧になるとおもったのだろう。9筋に桂馬を投入し、攻め合う姿勢を示してきた。
このあたりの柔軟さは流石としか言いようがない。
僕はこれに対し持ち駒を補充して、反撃を受け流し続けた。
全、115手目。
洗練された定跡とその一歩先をいった手がかみ合った、美しい純文学が、島田さんの投了で幕を閉じる。
すがすがしいほどの、高揚と達成感だった。
とても美しい棋譜になったと思う。
戻って来てから数年。
こんなに充実した対局はなかった。
「島田八段どうでしたか? 桐山くんとの対局は」
「彼の読みの深さは分かっていました。小学生と思ってはいけないことも、奨励会時代を傍でみてきた私は、痛いほど理解していたつもりでした。
けれど、見事にその想像の上をいかれましたね」
島田さんは苦笑しながら、記者からの質問に答えた。
「桐山四段はどうでしたか? 初めてのA級棋士との対局でしたが」
「島田八段と相矢倉で対局できたことがまず光栄でした。
これほどの掛け合いはなかなか出来ることではないですから」
相矢倉はお互いが、そうしようとしなければ成立しない形だ。島田さんがまず応えてくれたのが嬉しかった。
「途中拮抗していた戦況で先に仕掛けたのは、桐山四段でしたね? いけると思ったきっかけなどはありましたか?」
「……切っ掛けという程でもないですが、島田八段は去年のB1順位戦の第4局で同じように相矢倉を指されています。その時の戦況を少しだけ参考にさせて頂きました」
その対局のとき、島田さんは他の陣での戦局よりも、まずは自陣の矢倉の囲いを優先させていた。
今回も僕が、荒らしに一手でれば、玉をさげてくれるという読みがあった。
「と、いうことですが、島田八段いかかがでしょうか?」
「……いやぁ驚きましたね。確かに僕は去年の順位戦で相矢倉を指してますよ。言われてみれば、中盤のやりとりだけはその対局と似ています。それにしても、桐山四段は随分と研究されていたようだ」
「桐山四段は、やはり最初の対局というだけあって準備をされたのですか?」
「手ぶらでA級の方とあたって、どうにか出来るとは思っていませんでしたから。4月に入ってからは、ずっとこの対局のこと考えていました。僕には、少し情報が多くて時間があった。たぶん、それだけのことです」
たかが奨励会員の僕の棋譜は当然すくないし、こういってはなんだけど本気で指したものは、本当に僅かしかない。
情報量の差だ。
その後は感想戦になった。
島田さんの一手一手の深みはやはりすごい。
これが1分将棋でなければ、後半ひっくり返されていただろう場面が、後から考えれば沢山あった。
僕が見えていなかった、ともすれば死活にまでなりそうな手もあったのだ。
辛勝だったと思っている。
あぁ……また、公式戦で当たる時が楽しみで仕方がない。
対局のあと、会場を後にするとき島田さんに声をかけられた。
ついに研究会を開くらしい。
同期と同門の若手に声をかけているけど、桐山が嫌でなければ一緒にどうかと言われて、すぐに快諾した。
藤澤門下ではあるけれど、師匠は別に流派とか、門下のくくりに拘りをもつ人ではない。むしろ学びたいなら何でもしろ、というスタンスなので、僕が外の研究会にいくことも歓迎してくれるだろう。
また島田研で集まれることは楽しみだった。
次の隈倉九段との対局は、4月の下旬の日曜日だった。
島田さんとの対局からちょうど2週間あけてのことだ。
対局前に撮影をすることもあるんだけど、僕と隈倉さんの体格差といったら……。
ただでさえ、細身で小さいといわれている僕だけど、これではよりそれが目立ってしまう。
まぁ……言っても、仕方のない事なんだけど。
「あの時以来だな。今日は俺も楽しみにしていた。前回の島田との対局は見事だったよ」
「こんなに早く対局できるとは、あの時は思ってもみなかったです。今日はよろしくお願いします」
「ほら。これをやろう」
ポンッと差し出された袋に思わず手を出す。
「えっと……?これは……?」
「菓子だ。桐山は菓子が好きだと事務員からきいたんだが違ったか?」
それは……合っているような……確かに僕は事務の人からのお菓子を喜んでもらっていた。目的は施設の子たちへの差し入れだけど。
「あ、ありがとうございます。頂きます」
でも、有り難く頂いておく、べつに甘いものは嫌いじゃない。
「ああ。子供はちゃんと食べた方がいい。特に将棋は驚くほどエネルギーを使うからな。対局中も気を付けろ。菓子も飲み物も、自分で持ち込んでいいんだからな。どうすれば、最高のパフォーマンスができるのか、自分にあったスタイルを見つけていけばいい」
僕自身は、あまり食べ物をもちこむタイプではなかったけれど、対局中に食べるのは結構大事だったりする。
タイトル戦ですら、食事だけでなく、おやつの休憩があるくらいだ。
考えるということは、それだけ脳にエネルギーを使う。
それを補給しようとすることは、普通の事だ。
僕は、それすらあまりしないタイプだから……なんとなく、そんなんじゃ大きくなれないぞ、と言われてる気がした。
対局がはじまる。
今回も僕が先手。
まずは両者角道を開けて、僕は居飛車を明示した。
隈倉さんは、それに対して美濃囲いを完成させていく。
そのまま僕たちは、中盤までお互いに駒組みを続けた。
そして、僕が飛車を自陣最下段へと引き下げた次の瞬間、 隈倉さんは僕の角頭目掛けて歩を突き出し、仕掛けを開始した。
これはかなりまずかった。
戦況が一気に僕に不利な方へと傾く。
ここで、たった2時間しかない持ち時間を使って、僕は長考に入った。
経験上、この流れを止めないとマズイと僕の直感が言っていたから。
この先の何十手を見据えて、思考の海をおよぐ。
頭が擦り切れるような感覚が、懐かしかった。
いくつかの手数の中で一番可能性がありそうなものを選び出す。
そして、すこし前に出ていた自身の角を引いてみせた。
後ろ向きにも思える手だ。
たぶん僕が引いたと思ったのではないだろうか。
隈倉さんはすぐに、飛車を先にすすめてきた。
そう。そうしてきてほしかった!
僕は自らの飛車先を2筋の歩を突き合わせ、すかさず反撃に転じる。
大駒を押さえ込んでから桂交換し、多彩な差し回しで、主導権を握りかえした。
急転。
流れは僕の方へ傾き、その勢いで隈倉さんの玉を打ち取りにかかった。
105手目にして終局。
かろうじて逃げ切ることができた。
「桐山四段は長考してからその後は、畳みかけるような早指しでしたね。その後の展開はある程度予想通りだったのでしょうか?」
「はい。あの時、角を引いてうまく飛車を誘えれば、流れを引き込める自信はありました。
でも、隈倉九段に読まれてしまえば、完全にあのまま負けていたとおもいます。中盤はかなり苦しい展開でしたから」
正直中盤の形勢不利は僕の失着からだと言っていい。そこまで悪い手でもなかったのだが、A級相手には甘い手だったのは確かだ。
「隈倉九段はそのあたりいかがでしょうか? やはりあの長考後の一手が決め手でしたか?」
「それで、間違いないでしょう。長考後の手にしては、普通だなと思ったのですが……私が、甘かったですね。その後の展開は見事の一言です。終盤は難しい展開も多かったはずですが、桐山四段は、全く間違えなかった」
「敗因はなんだと思われますか?」
「侮っているつもりはなかったのですが……私の慢心でしょう。あの一手がA級の順位戦で指されたものなら、ぜったいに安易に飛車をすすめたりはしなかった。それをしてしまったのは、彼がそこまで読んでいると思わなかったからです」
隈倉さんは重く、静かにそう告げた。
「公式戦での対戦を楽しみにしている。次はきちんと君の将棋を研究してから挑ませてもらおう」
たぶんこれほど、嬉しい言葉は無いだろう。
A級棋士にはっきりと、研究させてもらうと言われたのだ。
「……はい。はやくそれが実現できるように頑張ります」
僕は静かに頭を下げた。
他に言葉が見つからなかった。
世間で、テレビ中継されていたこの対局は、二局とも僕が勝利したことでより一層の注目を集め始めた。
対局内容も申し分ないと将棋ファンの間でも人気らしい。
会長からもこの調子で頼むよ、と背中を大きく叩かれた。
そして、5月頭。
僕はついに宗谷さんと対局する。
この人の傍は、相変わらず湖の底のように静かだ。
今日は耳が聞こえている日かどうかは、分からなかったけれど前回の経験があるから、何か不都合がありそうならフォローに動くつもりはあった。
タイトル戦も常連となり、彼となんども対局するうちに、その辺のさじ加減も上手くなってしまって、前の時は会長に随分と有り難がられた。
でも、インタビューは何の問題もなく終わったし、どうやら今日は調子が良い日だろうと、会ってみればなんとなく雰囲気で分かった。
対局は静かに始まる。
今日は宗谷さんもスーツ姿だったけれど、やっぱり白い大きな鳥に似ているなって思った。
呑まれてしまうほどの威圧感。
それすらも懐かしいと思う。
再びこの人と対局できることが泣きたくなるくらい嬉しかった。
自然に指し合って、お互い相手を探るようにそっと対局が進んでいく。
そして、僕はある流れまで来た時に気づいた。
これは、前回の記念対局と全く同じ流れだ。
その瞬間、駒を持つ手が震えてしまった。
まさか、本当に?
この対局さえもやり直させてくれるのか?
将棋の神様はそこまでしてくれるというのか。
僕が今まで見てきた対局で、以前の記憶とまったく一緒になった棋譜は無い。
どれも途中で指し道が違ったり、勝敗すら変わってしまっていることもある。
そんななかで、63手まで同じということがあるなんて、奇跡としか思えなかった。
落ち着け。
冷静に指すんだ。
ずっと心残りだったじゃないか。
あの時の対局で、最善手を指し続けることが出来たなら、その先に広がっていた世界はいったいどんなものだったのだろうと。
それくらい、僕にとって宗谷さんと創り上げたあの記念対局での棋譜は特別なものだった。
そうして、やってきたその瞬間に、ぼくは敗着だった7四歩ではなくて、6六銀を指した。
さぁ。この先は未知の世界だ。
その中で1番心が惹かれる、そんな終局へと駒を進めて行く。
研究も経験も、重ねた時間の差も、圧倒的に及ばなかったあの時とは違う。
僕には、僕が重ねて来た時間があって、築きあげてきた将棋がある。
水が流れ隅々までいきわたって行く感覚。
真っ白な空間で、ただずっと二人で指し合っているそんな感覚。
そして、この対局は僕にとって特別だ。
何十通りだって、かんがえたもしもの世界。
間違うわけがなかった。
「負けました」
しんと静まった室内に、ぽつりと静かな声が響いて、僕ははっとした。
「あ……ありがとう、ございました」
慌てて頭をさげて、そしてあぁ……もったいないと思った。
終わってしまった。
とても、楽しい時間だったのに。
場は不思議な雰囲気に包まれて、記者の人は少し質問しにくそうだった。
「えーとても、混戦になっていたようで、戦況を把握するのが難しかったのですが、宗谷名人ペースだったのでしょうか?」
「序盤は、ほぼ拮抗していました。ですがどちらかと言えば、私のペースだったと言っていいでしょう。しかし、中盤以降。間違いなく戦況を握っていたのは桐山四段です」
記者は、はっきりと明言した宗谷さんの言葉に驚いたようだった。
慌てて僕に、水をむける
「と、いうことですが、桐山四段いかがですか? なにかキーポイントなどあれば」
「序盤は定跡通りの美しい流れだったと思います。変化があったのは宗谷名人が指された2八銀です。そこから、新しい展開が広がって行ったと思います」
「名人はいかがですか? やはりその一手が鍵を握っていたのでしょうか」
「すこし、流れを変えてみたいなと思って指した一手でした。桐山四段は綺麗に受けて応えてくれました。その後の、難しい局面の立ち回りも見事でしたね。……惜しいな。遊び手が過ぎました。こうなると分かっていたなら、2八銀は指さなかった」
記者の人も驚いていたけれど、僕も相当びっくりした。聞いたことがないような声だった。
本当に、この対局を惜しんでくれている。
「しかし、本当に美しい棋譜です。これがもし公式戦なら表彰の対象になった程でしょう」
感想戦は異様なほどの盛り上がりを見せた。
僕が示した手に宗谷さんが食いついて、そこからどんどん波及していったり、かと思えば別の場所が気になって、いきなり話がとんでみたり。
不思議なことに、彼が考えている事とか、やりたいことが良く分かるのだ。
波長が似ていると前から言われていたけれど、以前にも増している気がする。
楽しくて仕方なくて熱中していたのだけれど、会場の借りている時間があると、ついに会長が待ったを掛けに来てしまった。
「もー!! お前ら何なの!? 楽しそうなのは、俺も嬉しいけど、そろそろ終わりなさいっ!」
「え!? あ、すいません。そんなに時間経ってたんだ……」
「そーだよ。もう10時まわってんの。周りみてよ。ほとんど全部かたづいてるでしょ? あと、桐山、お前明日学校だろうがよ。藤澤から俺の方にまで催促の電話きたぞ。零と連絡がつかない。対局はもう終わってるんじゃないのかって」
「わー!!ほんとだ。通知が……。心配かけちゃったな……申し訳ない……」
慌ててカバンを探って、携帯を見てみると、確かに藤澤さんから着信が入っている。まさか、こんなに時間がたっているとは思いもしなかったのだ。
「宗谷もよ。ちゃんと気を付けてやってくれよ、お前良い大人なんだから。小学生をこんな時間まで引き止めるんじゃありません」
「小学生……」
宗谷さんは、会長の言葉に改めて僕の事を、上から下まで、まじまじと見つめた。
「ほんとだ。君、随分ちいさいね」
「小さいね……じゃねぇよ!! 俺ちゃんと話したよね? 小学生プロだって」
会長のつっこみに、彼はゆっくりと首を傾げると淡々と答えた。
「あぁ……確かに。そんな気がします。でも、棋譜しか目に入ってなかったからなぁ……」
この人。やっぱり天然なところは変わっていないようだ。
今、カメラが回っていなくて本当に良かった。
「そうか、学校があるのか。大変だ。でも、残念だな……このまま場所を移して、朝まで検討したかった」
その言葉は、ぼくにとっても魅力的すぎて、是非お願いします! と応えてしまいそうだったけれど、会長から馬鹿言ってんじゃねぇと突っ込みが入って、当然流れた。
あぁぁもったいない。宗谷さんと朝まで指せたのに……。
本当にこういう時は、この小さい身体が疎ましいのだ。
会長がついでに藤澤さんの家まで送って行ってくれるというので、ご厚意に甘えることにした。
会場を出たところで別れる際に、宗谷さんからもう一度声が掛かる。
「次は、檜舞台の上で。君が勝ちあがってくるのを待ってるよ」
「はい。必ず! そう長くはお待たせしません」
僕の返事に、彼は穏やかに微笑んだ。
炎の3番勝負は、結果的に僕の3勝で幕を下ろす。
このことで、世間からは実力がともなった小学生プロとして、より一層の注目を浴びた。
はい。というわけで、桐山くんの炎の3番勝負は全勝でした。
この企画は某棋士さんがプロになるときにもしてましたね。
このお話を初出したのは2017年の時。その炎の七番勝負の印象がまだ色濃く残っていたので、使わせて頂いた覚えがあります。
正直、宗谷戦はかなり桐山くんに有利でしたので当然の結果です。
まともに指せばこうはいきません。でもあの記念対局のネタは絶対どこかでやりたかったので、此処で使わせてもらいました。
隈倉戦も勝敗はわりとすぐに決めてました。問題は島田戦です。正直負けることも考えたんです。島田さんならちゃんと桐山くん研究してきてくれそうだなって。だけど、まだその時じゃないかなと思いました。
彼にもし黒星をつけるなら、ちゃんとした公式戦の大きな試合が良いなってちょっと考えてます。
次は宗谷さんの視点