小学生に逆行した桐山くん   作:藍猫

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奨励会編
第一手 懐かしの奨励会


 小学4年生の8月中旬。

 ついに将棋会館で奨励会の入会試験が行われる日がやってきた。

 

 順当に受けるなら6級だが、師匠の推薦があり、自信があるのならもっと上の級位、1級を受けることもシステム的には可能だ。

 だけど、今の僕にはまだ師匠がいないため、6級の受験しか認められない。

 師事をする棋士の方を探して、そのうえ上級位の受験の推薦を頂けるほど認めてもらうのは絶対的に時間が掛かる。

 順当に6級を受けてさっさと昇級した方が速いという結論に至った。

 今の環境だと将棋教室に通えないし、伝手もないのに師匠を探すのは、ただの小学生には難しい話だった。

 

 級位受験の内容は一次試験として、まず受験者同士で1日3局を2日間、つまり計六局の対局が行われ、二次試験は、筆記試験と現奨励会員との対局3局、面接試験が行われる。

 

 さて、本当なら一次試験からの受験が普通だが、僕は今年度の小学生名人戦で優勝しているので、有り難いことに免除されている。

 二次試験も前回のうっすらとした記憶しかないが、特に苦戦した印象もない。

 一般的に格上となる奨励会員との対局は別に勝ち越さなくても、1勝して他の内容もよければそれで合格となる。

 最終合否は、一次・二次試験の総合評価で行われるからだ。

 

 それでも駒落ちで対戦となる奨励会員相手に勝負を落とすことは、ただの小学生ではなく、なぜか人生をやり直している僕にはあり得ない。

 3局とも全勝しておいたので、合格は問題ないだろう。

 

 ちなみに受験料3万円、受かった上で入会費10万が必要になる。

 今更ながらにかなりの出費だ。

 幸田のお義父さんも内弟子に迎えたとはいえ、何も言わずによく払ってくれたと思う。

 今回は未来の自分への投資として、父の遺産を使うほかない。

 更に入会後は毎月一万を超える奨励会費を払わなければならない。基本的に一括払いなので毎年12万程度会費として納めることになる。

 

 施設の人にはあまりお金に関しては、はっきりとは伝えていない。

 こんな大金目を丸くして驚くのが関の山。

 僕としては、奨励会を抜けてプロになる事は、既に確定した未来だからこの出費は必要経費として何の問題もない。

 でも、一般的に考えれば、師匠もいない、たいした将棋歴も無いただの小学生。おまけに孤児ともなれば、慎重になって、と止めたくなるような額であるのは予想が出来る。

 

 奨励会に向かう時の服装はスーツか、学生なら学生服になる。

 基本的に僕が通っている小学校は私服登校だが、一応式典用に制服があるので助かった。

 他の子は着る機会が少ないため新品同様で卒業になるが、これから奨励会の度に着ていたら、流石に草臥れてくるかもしれない。

 

 

 

 


 

 合否の結果はすぐにやってきた。

 受かった子は9月の奨励会から参加になるからだ。

 郵便で施設に届いたその合格通知を、職員の方をはじめ皆が喜んでくれた。

 僕が、他の子が夢中になるテレビやゲームに何の興味も示さず、本当に将棋ばかりやっているような子だったからだと思う。

 桐山君が好きなことを思いっ切りできる場所に行くんだね、と無邪気に喜んでくれる子供たちが可愛かった。

 一緒に遊ぶことが無く大体が一人でいて、勉強の時だけ口を出すうるさい奴だと思われていただろうに、それでもこんなに喜んでくれるとは……この子たちは本当に優しい子だなぁと勝手に誇らしくも思った。

 

 奨励会は月に2回。多くが学生であるので土日祝日で行われる。

 級位までは1日三局の対局を同じ級位か、1級位差程度の相手と対戦する。

 ちなみに段位からは1日二局だ。相手も自分もかなり高レベルになってくるので、時間をかけて指せるようにということなのだろう。

 

 この1日三局という対局数だが、圧倒的にまだ集中力、体力ともに拙い年少者に不利だ。

 三局目になるとどうしても疲れが出てくるし、その状態で自分とほぼ同じか、少し棋力が上の相手と指すことになると白星を挙げるのは難しくなる。

 僕としても大会の時に日に何局も指してはいたが、奨励会レベルの相手と三局……今のこの幼い身体ではどうかなと、体力配分も考える必要も懸念していた。

 

 けれど、蓋を開けてみればその懸念は杞憂だった。

 特に、集中力に関してはなんの問題もなかった。やはりフィジカルよりもメンタルの影響が大きいからだろう。

 タイトル戦で1日十何時間、棋界トップの実力者と対戦してきた記憶がある身としては、この程度で切れる集中力では無かったようだ。

 

 もう一つの問題の体力面だが、対局をしている間は気にもならなかったが終わった後はその分ドッと疲れが押し寄せて来た。

 運動は苦手だけれど、体力もつけるように今から意識していかないとなぁと、奨励会が終わり親や友人たちと帰路につく会員を横目に見ながら、ため息をつく。

 

 自動販売機の前の椅子で、目をつぶりながら少しだけ休憩をすることにした。

 施設の夕飯時までにはまだ余裕がある。

 せっかく会館に来たのだから、最近の対局の棋譜をコピーして帰りたかった。

 

「おーい、大丈夫か? まだ帰らなくて」

 

 声を掛けられて、びっくりして目を開けた。

 そこにいたのは前回の人生でも大変お世話になった島田さんだった。

 

 そう今日、奨励会にきて一番驚いたのが、幹事をしているのが島田さんだったことだ。

 現在27歳B級1組の島田七段。

 奨励会の年齢制限が26歳なのでそれより少し上の年齢で、人当たりも良い。

 以前の記憶でも将棋の普及に熱心だった。

 奨励会員の世話役といえる幹事をしていても何ら不思議ではない。

 

 幹事の人の仕事は大変である。

 毎月2回ある奨励会での対局のマッチングを考えているのは彼らだし、勝敗の結果の管理をしたり、対局中に見回りをしたりもする。

 会員の年齢層は、下が小学生から上は社会人と幅広いので、上手に全員とやりとりしていくのは骨が折れることだろう。

 前の時の僕の奨励会入会は小5の時だったので、ひょっとしたら1年早く入会していれば、もっとはやく知り合えていたのかもしれない。

 

「大丈夫です。ちょっと休憩してから帰ろうと思いまして……。

 今日は一日ありがとうございました。桐山零といいます。これからよろしくお願いします」

 

 自分は一方的に良く知っているけれど、島田さんにとったら新しく入会したばかりの少年の一人にすぎない。ちゃんと名乗っておくべきだろう。

 

「知ってるよ。君の事はちょっと前から耳にしてたから。

 今日はお疲れ様。初日から全勝とは幸先が良かったなぁ」

 

「ありがとうございます。この調子で頑張ります」

 

 対局を褒めてくれたあと、島田さんはわしわしと僕の頭を撫でた。

 すこし冷たい大きな手だ。懐かしさも感じつつも、前よりもっとずっと大きく思えて、あぁやっぱり小学生に戻ってしまったんだなぁと実感した。

 

「家は遠いの?」

 

「歩いて30分くらいです」

 

「徒歩できてるのか!? いやまぁ……30分なら歩けないこともないか」

 

「バスとか電車とか使ったらもっと速いんですけど、僕は歩いて来る方が楽しくて」

 

「そっか……。まぁ暗くなる前に帰れよ。この辺は人通りがある方だけど、夜となるとまた別だからな」

 

 その後島田さんは、目の前の自販機でココアを買うと僕に渡してくれた。

 すみませんと恐縮して断ろうとすると、安いけれど入会祝いだ貰っておけと言われて有り難く頂いた。

 

「そんな大層なもんじゃないのに……」

 

「……嬉しくて、施設の人以外で島田七段が初めてです。入会をお祝いしてくれたの」

 

 大事に大事にちまちま飲んでいる僕を穏やかに見つめていた島田さんは、僕の返答に目を丸くした。

 固まってしまった彼を不思議そうに眺めていると、そうか……と小さく呟いてもう一度おめでとうと、頭を撫でてくれた。

 

 そして、奨励会のことでも将棋のことでも困ったことがあったら、相談してくれていいからなと念を押された。

 前の時もそうだったけれど、世話好きで優しい人なのはこの頃から変わらないのだなぁと、嬉しく思いながら、その去っていく後ろ姿を見送った。

 

 

 

 毎回奨励会では対局前に、幹事の人がいくつかのお知らせとともに、昇級・昇段した人の名前を読み上げる。

 昇級には6連勝か9勝3敗・11勝4敗・13勝5敗……とはやい話、その級で7割以上の勝率を収める必要があった。

 

 9月の初回で3連勝、2回目も当然連勝を重ねて6連勝をした僕は、10月初頭に5級に昇級した。

 1ヵ月での昇級である。

 新入りがどんな奴だろうかと様子見していた奨励会員たちが、島田さんに読み上げられた僕の名前に少しざわついたのが分かった。

 それでもまだ、低級位であるのでそんなこともあるだろうとすぐにその場は静まった。

 

 だが僕としては、このまま負けるつもりはない。

 1敗でもしてしまうとグッと昇級へかかる時間が長くなる。

 なんせ奨励会は月2回。毎月6局しか出来ないのだから。

 

 そういうわけで、10月に行われた対局でも全て勝って、11月頭に4級に昇級した。

 今度は、もうはっきりとその場の空気が変わったのがわかった。

 入会以来の12連勝である。

 いくらなんでも、運が良いとか調子が上がっているでは済まされない。

 とんでもない奴が入ってきた、と特に上の級位に居る人たちに緊張が走った事が感じられた。

 

 

 

 そのせいかどうかは、分からないけれど僕は前回の時よりも、周りから遠巻きに見られている。

 会員は全員しのぎを削るライバル同士なので、学校のように皆で仲良くしようとする雰囲気では無い。少し、ピリッとしたドライな関係が多くなる。

 それをふまえたとしても、どうにも避けられているし、会話と言えば挨拶程度だ。

 特別声を掛けてくれるような人は幹事の島田さん以外はいない。

 

 でも、僕は会館に通うのが楽しかったし、日々の奨励会も懐かしくて毎回待ち遠しいほどだった。

 小学生に戻ってから1年と少し、やっと安定して将棋をさせるのだ。これで楽しくないわけがない。

 

 相手の棋力はまだ少し物足りないけれど、今まで大会で当たってきた子たちとは違う。流石に奨励会員だなと感心するような一手も多かった。

 

 ふと、前の時でも奨励会に来るのは嫌いじゃなかったなぁと懐かしく思う。

 以前の僕は、学校にいても幸田の家にいても、どこか周りを気にしていて息がつまった。

 

 どうにもならない事だと分かっているのに、自分が変わればなんとかなるんじゃないかと、頑張ってみたけど、やっぱり難しくて、ままならない現状に、叫び出したいような、消えてしまいたいような葛藤を抱いた。

 それを少しでも掻き消したくて、将棋にひたすら打ち込むしかなかった。

 

 奨励会に来れば、頭の中は将棋の事だけ考えていれば良かった。

 何もしなくても、盤の前には誰かが座ってくれて僕と真剣に勝負をしてくれる。

 その間は、普段の悩みや葛藤を忘れ、ただひたすら勝利への一瞬に没頭できるのだ。

 その時間だけは、自分自身のことだけを考えて居られた。そのことがより一層僕を将棋へとのめり込ませたのだと思う。

 

 

 

 

 

 

 順調に奨励会を昇級していた僕は島田さんに一つ頼みごとをした。

 

「え? 記録係をやりたい? うーん……桐山にはまだ早いんじゃないかな……」

 

 記録係。リアルタイムで対局の内容を記録して棋譜を残すための係である。

 昔は主に奨励会員が行っていたが、今は学生が多くなり平日の記録係の確保が難しく、四段などプロになりたての棋士も駆り出されるようになっている。

 

「まぁおまえさんが書く棋譜は、小学生にしてはびっくりするくらい綺麗だが……奨励会と違って対局時間は長いし、昼休憩以外まず席を動けないんだぞ。大丈夫か?」

 

 心配するのも当然である。

 記録係の仕事は長丁場……持ち時間6時間などの長い対局になれば、夜終電がなくなってそのまま会館に泊まっていく人が出るくらいだ。

 おまけに、対局者はトイレだったり頭を切り替えるためだったり、自分のタイミングで席を立つことが可能だが、記録係は基本的にずっとその場にいなければならない。そうしないと、対局が進められないためだ。

 少なくとも小4の集中力や忍耐力だと懸念されることもあるだろう。

 

「大丈夫です。じっとしておくのは得意だし、対局を見るのも好きですから。それに僕は遠くから来てる人と違って、家も近いですし」

 

 奨励会員は、かつての島田さんのように県外から通ってきている人も珍しくない。そんな人たちが記録係のためにわざわざ東京まで出てくるのは、一苦労である。

 その点、僕はいま奨励会員のなかで、一番会館に近いところに住んでいるんじゃないだろうか。

 

「分かった。最初は持ち時間の短い対局とかでやってみるか。年の割に落ち着いてるし、仕事もすぐ覚えるだろ。ただまぁ……無理はしなさんな」

 

 島田さんの仲介により記録係の仕事に勤しむことになる。

 

 奨励会が行われない休日は、ほぼ会館にきて仕事を受けた。

 生でプロ棋士の対局をみるのは、久々で楽しかったし対局の空気感が懐かしくて、愛おしいほどだった。

 はやくあそこで自分が指したいと思いながら、棋譜をつける。

 その棋譜をみながらこの対局はこの後どう進んでいくのか、あそこで自分ならこう指すかな……そうしたらどんな展開になっただろうと、ひたすら何十通りの展開を考え続けた。長いはずの対局時間などあっという間だった。

 

 対局する棋士は、明らかに小さい小学生が記録係をしている事に、最初は不安そうだった。

 ポカをやらかしはしないかと、結構な序盤で棋譜を……と棋譜を見せてと要求する人も多かった。

 それでも、丁寧に記入された何の問題もない棋譜を目にすると、一瞬驚いた後にすぐ満足そうに返してきて、その後は対局の続きに集中してくれるようになる。

 

 お昼休憩の時などは、君何年生? よかったらお昼一緒にいく? と声を掛けてそのまま奢ってくれる親切な人もいた。

 以前の僕は内気でおとなしかったから、こういう時に気後れしがちだったけれど、流石に数十年メディアにもでて取材もうけて、鍛えられた社交力は健在だった。

 そのせいか以前よりも、構われることが増えた気がする。

 

 ちなみに記録係は手当てとして、一日に1万ほどの支給がある。

 現在収入がない僕にとったらこれはとても大きい。

 休日の全てを潰して月に何十回と記録係をしている僕に、事務員の方が大丈夫なのかと聞いてくることもあったが、これで来年度の奨励会費がたまりましたよ、報告すると何とも言えない表情で、ただ僕の頭を撫でてその場にあった大量のお菓子をくれた。

 

 それからは、僕がやりたくて仕方なくて記録係をしていることが広まったのだろう。

 心配する声は減り、逆にいつもご苦労様とお菓子や飲み物をくれる人が増えた。

 

 ちなみにこのお菓子、施設の子供たちに大好評である。

 職員の人たちは桐山くんにくれたんだから、食べていいんだよ、と言ってくれたが、自分だけで消費しきれないくらいの量だったし、精神的にはいい大人なのでそれほどお菓子に拘りはなかった。

 むしろ小さい子たちが、喜んで食べているのを見ていると、娘たちを想いだして癒やされるのだ。

 

 

 

 1ヵ月も経った頃には、僕の事は棋士たちの間で、奨励会の桐山くんというより、小さい記録係の桐山くんとして知られるようになった。

 

 

 

 

 


 

 

 12月。

 連勝記録を伸ばし続けている僕は、3級に昇級した。

 

 奨励会では同じ級位同士で常に指せるわけではない。

 様々な相手の対戦経験を積むため、級位差が1つ2つはある相手と対局することもある。

 

 1級差だと平手と香落ちを交互に指し、2級の差があると常に香落ちでの対局となる。

 この、駒落ちで指すというのはすこしばかり癖があって、相手も自分も少し考えなければならない。

 

 香落ちは角側の香を落とすと決まっていて、居飛車系統の将棋は指し難くなる。

 矢倉も香がないと弱く責められやすい。

 駒を落としている上手はある程度、振り飛車を採用することになる。それまであまり、振り飛車を指していなかった子には厳しい戦いとなるだろう。

 自分が上手の対局も下手の対局も経験しはじめる、3級より上位になるとこの駒落ちに慣れずに一度伸び悩む子も多い。

 

 まぁ……僕にとっては、一度通った道であるし、プロとして指導するときに駒落ちは随分指してきた。

 当然なんの障害にもならなかった。

 

 

 

 その日の対局が終わって帰ろうとしたとき、僕は島田さんに呼び止められた。

 

「桐山、そろそろ入会して数ヶ月経ったんだが……師匠のあては出来たのか?」

 

「師匠……ですか?」

 

「あぁ、おまえさん入会したときは師匠推薦無しで、入ってきただろ。それでも、入会後1年以内に誰かにつくことになってるんだが……」

 

 しまった。

 入会の時に確かにそう言われたし、僕も誰か良さそうな人を探さなければと思っていた。

 今の生活が思った以上に安定していて順調だったので、すっかり忘れてしまっていた。

 

 将棋界では古くからこの師弟の関係が大切にされていて、奨励会に入会後、誰にも師事することなくプロになることはありえない。

 師匠推薦なしで入会した子も、入会後一年以内に師匠を決め、連盟に提出する規定がある。

 

「えぇっと……ちょっとまだ探せてないんですけど、でも来年の8月までにはちゃんと見つけますから」

 

「そうか……たしか将棋教室とかも通ってないんだっけ? それだと中々難しいだろうからなぁ……。俺の方でもちょっと探しといてやるよ」

 

「あの……島田七段は、弟子をとるつもりは無いんでしょうか?」

 

 駄目元だろうと、一度聞いてみたかった。

 島田さんとは、気心が知れているし前回同様うまくやれていると思う。

 そして、その棋力も棋士としての心構えも尊敬できる人だ。

 

「俺!? いやぁ、そう言って貰えるのは嬉しいけど……まだちょっと早いだろ。

 A級に上がれてないし、タイトル戦もいいとこまでいってるけど、挑戦権までは取れてない。俺自身が未熟だよ。落ち着いたら研究会くらいは、開けたらとは思ってるけど」

 

 やっぱりまだ早いと断られてしまったか。

 一般的に棋士が弟子を取り出すのは、早くても自分の身の周りが、落ち着きだした40歳を過ぎたころだ。

 A級在位で棋界のトップで戦っている人達などは、自分の対局や研究に集中したくて弟子を取らずにいる人も何人もいる。

 島田さんはまだ30歳前、もうすぐA級にあがれそうな大事な時期だ。自分の事に集中したいだろう。

 

「そうですよね。今は幹事もされてますし、お忙しいですよね。すいません、変なこと聞いて」

 

「いや、こっちこそごめんな。あ! 代わりと言っちゃあ何だけど、大内先生に紹介してやろうか? 俺の師匠だよ」

 

 大内先生とは以前にも少し面識があった。既に引退された方だったが、大きな会場で行われたイベントなどで時々お見かけした。

 僕は島田さんと二海堂と懇意にしていたし、顔合わせと軽く話したことくらいはある。

 性格は大らかで、気さく、懐が大きい人だなという印象だった。

 けれど、この時期となると……。

 

「大内先生は素晴らしい方だとはお聞きしてますが……確か最近新しくお弟子さんを取られたばかりですよね?」

 

「お! よく知ってるなぁ。1年ちょっとくらい前に、桐山より2歳年上の子が弟子になったよ。面白い奴だぞ。いつか奨励会でも当たると思う」

 

 あぁ……やっぱりそうだ。丁度二海堂を弟子に取る頃だろうと思っていた。

 彼と兄弟弟子になるのも面白そうだけれど、どちらかというとライバルでいたい気がする。

 それに、大内先生はご高齢だ。二人も新しい弟子の面倒をみるのは、大変だろう。僕の場合は、一般的な子を弟子にとるのとはまた違った面倒をかけるだろうし。

 

「有り難いお話ですが……、遠慮させてもらいます。新しいお弟子さんのこともありますし、僕まで弟子になったら大変でしょう。大丈夫です! 師匠のことは会長にも頼んでありますから」

 

 確か入会する時に会長と話した際、最悪見つからなければ、師匠になってくれるという軽い口約束をかわしていた。

 あの時は1年以内に段位まで上がれそうだったらなぁと冗談交じりに笑い飛ばされたが、このペースなら一年どころか、今年度の小4のうちに初段に上がるはずだ。

 そういう約束だったと詰めよれば、たとえそれが口約束でも駄目という人ではない。

 豪快で強引、言わなくていいことまでばっさり言っちゃうような人だけれど、なんだかんだ会長職を長く牽引してきた方だ。人間性は信頼できる。

 それに、お子さんはもう手が離れて久しかったし、弟子も会長職についた頃から取っていないはずだ。

 

 

 

 

 

 冬休みに入り、時間に余裕ができた僕は、記録係の仕事を一層いれてもらった。

 毎日会館にいたと言っていいし、それが出来てとても満足だった。

 

 事務の人に桐山君は、将棋会館に住んでるみたいだねと言われて、僕も本当にそれが出来るならそうしたいです。と本気で答えたら、また黙ってお茶とお菓子をふるまわれて頭を撫でられた。

 

 冬休みなので、小学生らしく宿題が出ることもあったけど、晩御飯のときに帰宅してから寝るまでの時間で充分片づけてしまえた。

 自然とその時間が、青木くんをはじめとした小学生たちの勉強タイムになってしまったのは良かったのか悪かったのか。

 別に答えを教えているわけでは無いが、すぐにヒントを聞ける桐山君が居るときは捗るといわれると、付き合わないわけにはいかないだろう。

 

 けれど、連日出かけていく僕に、子供たちは少し不満げだったので、クリスマスの日に大量のチキンとお菓子とケーキを買って帰ったら、それはもう凄い大歓迎をうけた。

 子供はこれくらい無邪気で良いと思う。

 

 去年も居たのでだいたい施設で、どのくらいの規模のイベントと料理をしてくれるかは予想がついたし、それが一般家庭よりもずっとずっと質素なものでも、仕方ないとは分かっていた。

 もともと経営だってカツカツなのだ。なにかイベントを考えてくれるだけで有り難い事だろう。

 

 だから、せめて今年くらい少し豪華でも良いんじゃないかなぁと。

 僕には結構な実入りがあったし、それなりに居心地よく過ごせているこの環境に感謝しての事だった。

 それに、お菓子はその日会館で仕事をして帰るときに、出会う人出会う人に渡されて集まったものだったので、僕の懐は痛んでいない。

 毎年、年末は人を集めるのが一苦労らしい、対局さえも少な目になるくらいだ。

 こんな日まで有り難うね、と随分ねぎらわれた。

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 年が明けて、寒さが身に染みる頃、相変わらず愛用の黒いダッフルコートに顔を埋もれさせながら奨励会へ通い続けた。

 以前から寒そうだから、マフラーの一つでもすればどうかと島田さんに苦言を呈されていたのだが、買いに行くのも面倒でそのままにしていた。

 

 その年最初の奨励会の帰りに、僕は彼から昇級祝いだと言われて、マフラーを貰う。

 最初は遠慮して断ったのだが、島田さんはそんな高いもんじゃないし、ちゃんと使えよ、と僕の首にそれを巻いてくれた。相変わらず、よく気が付く方だ。

 

 僕はその日から、ちゃんと毎回、島田さんに貰ったマフラーも付けて将棋会館へ通うようになった。

 それをみた、事務の人からは、桐山君はあんまり大人を頼らないけれど、島田七段に言われたことはよく聞くねと笑われてしまった。

 

 前の記憶があるせいだろうか……精神的には大人のつもりなので、人に頼らず何でも一人でしてしまいがちだ。

 島田さんには前からお世話になりっぱなしだったので、今更というか抵抗が無いのかもしれない……。

 

 

 

 成績は順調で1月最初の奨励会で2級へ昇級していた。

 これによって、2級昇級者の最年少記録を更新したことになるらしい。

 会館で事務の人が自分の事のように嬉しそうに教えてくれた。

 

 僕としては、若干居たたまれない気持ちだった。

 精神的な将棋経験年数でいえば奨励会員の誰よりも多いのだ。こんな奴が記録を更新して申し訳ないと思いつつ、この先も記録更新はついてまわってくるだろう……。

 

 僕は開き直って気にしないことに決めた。考えても仕方ないのだ。よく分からないけれど、精神年齢は40歳間近なんです、とか言っても信じてもらえるわけがない。

 その分別の場所で将棋に貢献することで許してほしい。

 

 

 

 記録係の仕事にもすっかり慣れて楽しんで取り組んでいたのだが、次に記録を付ける対局の対局者の名前をみて、どうしようかと少し考えてしまった。

 そこには幸田柾近八段としっかりと書かれていた。

 

 そう、幸か不幸か僕はまだこの会館で幸田さんとは出会っていない。

 会えばすぐあの人は僕に気が付くだろう。

 親友の忘れ形見だと。

 

 でも、いつかはその機会はくるわけで、そう避けてもいられない。

 

 いつものように対局者が来る前に、その場を整える手伝いをして、記録係の席に着く。

 後から入室してきた幸田さんは、僕の姿を見て一瞬動きを止めた。

 けれど、対局前だったからだろう。その場で声を掛けて来るようなことはしなかったが、流石にお昼の打ちかけの時にはそうはいかなかった。

 

「零くんだよな? 桐山の息子の。覚えてるかい? 何度か君の家で指した事もあるんだが……」

 

「はい。覚えています。父はよく幸田先生の話をされてましたから。あの日、式に参列して下さってありがとうございました。父も喜んでいたと思います。すいません、僕は式に出られなかったので、お礼も言えずに……」

 

「いやいや、とんでもない。私も、残念で仕方なかった……。未だに信じられないよ」

 

 幸田さんの声は、本当に悔しそうで哀しい色を帯びていた。

 つられて、僕にとっての古い記憶と感情が呼び覚まされてしまいそうで、ギュッと胸が苦しくなる。

 良い大人が歪む表情を見せるわけにもいかない。僕は慌てて顔を伏せた。

 

「どうして、東京に? 今はこっちにいる親戚の家に?」

 

 この質問は当然だろう、普通なら長野にいるはずなのだから。

 

「いえ、今は会館の近くの施設でお世話になっています。急にこども一人を引き取るのはどの人も難しかったみたいです」

 

 あまり気は進まなかったものの、答えないわけにもいかず正直に施設暮らしであることを打ち明けた。

 

「何だって!? お葬式の際に、君の叔母さんと少し話したが……零くんにとって良いようにするから口出し無用と言われたんだが……。君はその……、本当にそれで良かったのか?」

 

「はい。僕の意思でもありましたし、施設の希望も聞いてくれましたので、大丈夫です」

 

 もっとも、そのように計らってくれたのは、叔母ではなく弁護士の菅原さんだったけど。

 幸田さんはそれでも、僕の親戚たちに思うところがあったようだったが、今更言ってもしかたないだろうと、言葉を飲み込んだようだった。

 

「記録係をしているということは、奨励会に入ったんだね。君の将棋は前からどこか、普通の子とは違っていたし……。今はだれに師事をしてるんだ?」

 

「いえ、まだ、決まっていなくて……」

 

「誰にも師事しないでここまで来たのか!? 凄いな……」

 

 いえ、人生2回目なので別に凄くはないんです……とも言えず、曖昧な笑みを浮かべることしか出来ない。

 そして、幸田さんは少し考え込んだようだったけれど、すぐにこう切り出した。

 

「零くん。きみさえ良ければだけど……私の内弟子にならないか? 桐山の息子をこのままにしておくのは、忍びない」

 

 きた。そう持ち掛けられるような気はしていた。

 前の時でさえ、数回会っただけの子供を葬式場でみて、引き取ることを決意するような人なのだから。

 

 だから、今日会うことになると分かった日に、覚悟は決めていた。

 

「有り難いお話ですが……遠慮させて下さい」

 

 はっきり断る覚悟を。

 

「……少し、性急すぎたかな。だが、もう少し考えてみてはくれないか。君にとって、今の環境が将棋に集中できるとは思えない」

 

 幸田さんは僕の返事に、困ったように眉を下げてそう言った。

 

「幸田八段には……奨励会に所属している娘さんがいらっしゃるでしょう。息子さんも入会を考えていると耳にしました」

 

「あぁ、確かにそうだが……」

 

 僕のこの言葉が、どうつながるのか幸田さんはすこし不可解そうな顔をして相槌を打った。

 

「僕は施設でたくさんの仲間に出会いました。みんな優しくて良い子です。でも……やっぱり、どこか寂しがっています」

 

 あまりこの手の話題は出したくなかったけれど、納得してもらうためには仕方ないだろう。

 

 僕と仲の良い青木くんは、小学校に上がる前の頃、迎えにくるからここで待っていてと母親に言われて、公園に置いていかれた。

 青木くんはずっとずっと、母親が迎えにくるのを待っていたけれど、彼女が再び迎えにくることはなかったそうだ。

 その後警察に保護されて、色々調査もしてもらったらしいが、戸籍登録さえも曖昧で、結局母親の行方は分からず、施設に預けられることになったらしい。

 父親の記憶は全くないし、母親の顔は忘れないようにと頑張っていたそうだが、今はうろ覚えだと言っていた。

 ただ、あの日繋いで歩いた、母の手の感触は今でも忘れられないらしい。

 

 他の子たちだってそうだ、皆様々な事情がある。

 必死に前を向こうとしながら、記憶に残る両親の影を振り払うことはできない。前の僕がそうだったように。

 

「笑顔の裏で誰もが、親の庇護を、家族の愛を求めています。

 だから、せっかくそれを手にしてる幸田八段のお子さんから、少しでも取ったりしたくないんです」

 

「では……君は? 君がそれを求めてはいけないのか? 私がそれを与えることは出来ない?」

 

 哀しげな顔でそう言われて、僕は当時のことを思い出した。

 守ってくれる親を、無償で愛を注いでくれる家族を、心休まる家を失ったあの時の僕は、僅かながら幸田家にそれを求めてしまった。

 

 でも、それはやっぱり良くなかったと思う。

 

 幸田のお義父さんもお義母さんも良い人だった。突然引き受けることになった、他所の子にも不器用ながらも愛情を注いで、優しくしてくれた。

 本来、受け取るべきだった感情の幾何であったとしても、急に現れた他人にとられた子供たちは、動揺しただろう。哀しかっただろう。割り切れるはずがないのだ。

 どうして? と思わずにはいられなかっただろうと、今なら分かる。

 

「……子どもは親にとって自分が一番であってほしいと思います。それが自然で、そうあるべきです。幸田さんのお気持ちは嬉しいですが、その気持ちも2人のお子さんに注いであげて下さい。僕が受け取ることは出来ません」

 

 生意気言ってすみませんと深く頭を下げて断った。

 幸田さんは、僕の固い意志を感じ取ったのだろう。

 それ以上は、内弟子の件を持ち出そうとはしなかった。

 

 ただ、何か力になれることがあったら、遠慮なく言ってほしいと、連絡先を交換した。

 師匠の事も、幸田さんの方で僕に良さそうな方がいれば繋ぎを付けてくれるそうだ。

 

 前と違って、弟子にはならなかったけれど、結局気に掛けてくれることに変わりはないようで、頭が下がる思いだった。

 

 

 

 

 

 それからしばらくして、島田さんにも声を掛けられた。

 幸田さんから僕の話を聞かせてほしいと持ちかけられた時、内弟子の事を耳にしたようだ。

 

「良い話だっただろうに。そんなに早く断らなくても良かったんじゃないか?」

 

「いいんです。どれだけ考えても答えは変わりませんから」

 

 僕のきっぱりとした物言いに、島田さんは微妙な顔をした。

 

「桐山はさぁ……。頑張ってるし、周りの事もよく考えてる良い子だよ。だからこそ、もっと自分の事だけ考えても良いんだぞ」

 

「大丈夫です! もう慣れてますから」

 

 島田さんは僕の様子を見て、そうか……と一つ溜め息をつくと僕の頭を撫で回した。最近こうされることが多い気がするが、気のせいだろうか……。

 そして、幸田さんも協力してくれると言っていたから、周りにとっても桐山にとっても良い師匠を見つけような、と言ってくれた。

 俺も協力するからと、なぜか以前よりも決意を込めた口調だった。

 

 

 

 

 

 そして、2月。

 僕はついに1級に昇級する。

 依然として、入会以来30連勝の負けなしだった。

 前代未聞の、スピード昇級である。

 これから春にかけては昇段を争うことになり、その先にまっているのは三段リーグだ。

 再び近づいてきたプロへの入り口に、僕の心は期待で弾んでいた。

 

 

 

 

 

 




次の話は島田さん視点

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