充実していた毎日で、周りの人たちは優しくて、本当に有り難いくらいの環境で将棋を指させてもらっていて、僕は幸せだった。
まぁ……だから、ほんの少しだけ気も緩んでいたんだと思う。
災難というものは、いつ何時、降りかかるものなのか、それは誰にも分からないし、世の中に理不尽な出来事というものはいくらでもあるのだから。
僕はその日、対局はなかったけれど会館でちょっとした取材を受けていた。
主として、朝日杯への意気込みとかそんな内容だ。
ついでに棋譜のコピーをして、軽くその日あった人たちの対局を見てから帰った。
まだ時間も19時を少し過ぎたくらいだったから、駅まで歩くことにした。藤澤門下の人たちの対局はなかったから、一人だったけれど、まぁ別に大丈夫だろうと思って。
寒さも深まって、日が落ちるのもはやくなっていた。
世の中は、良い人ばかりではないということを僕はすっかり失念していた。
前から注意されていた僕の悪い癖。
棋譜のながら読みをして、駅へ歩いていた時だった。
突然ドンッと後ろからぶつかられて、そしてバチッという音とともに体に衝撃がはしった。
なんだかわからないうちに意識はブラックアウト。
失う瞬間に覚えているのは、アスファルトにぶつかった感触と、倒れて開けた薄目がとらえた、黒く汚れた大人のスニーカーだった。
「……ねぇ……い……ぶ?」
遠くで声が聞こえる。
柔らかく優しい声色。懐かしいなとぼーっとする頭で思った。
「ねぇ! あなた大丈夫?」
今度ははっきり聞こえて、ぼくはハッと覚醒した。
目に入ったのは、すっごい美人な女子高生。
セーラー服だ。かわいい。
見間違えるわけがなかった。
彼女は川本あかりさんだ。
そうか、まだあかりさん高校生なんだな……。
ま、まぶしくて、直視できないレベルだこれ。
まさか、またアスファルトに寝っ転がった状態で初対面になるとは思わなかった……。
ぼーっとしていた僕だったけど、慌てて身体を起こして返事をした。
「あ……はい、大丈夫です。……っ、いた!」
起き上がる瞬間についた右手が痛かった。
どうもひねったかもしれない。
「無理に起きない方がいいかも……頭も打ってるみたいよ……? 血は、とまってるけど、シャツがすごいことになってる」
そういわれて、僕は首をおって自分の服を見てみた。
肩口にかけて何やらぽたぽたと赤黒い点々が……鼻血をだしたときよりは明らかに多い。
まいった、これ洗濯でおちるのだろうか……、そんなことをぼーと思っていると額に柔らかい何かが押し当てられた。
「汚れますよ……」
あかりさんが、ハンカチを使って拭ってくれようとしてることに気づいてそういった。
「いいの。気にしないで、あーパックリね……。だいぶ打ったみたい……あとから腫れてくると思うわ」
痛ましそうな表情をしてこちらの様子をうかがう彼女の姿をまじまじと見返した。
「あの、私あっちから歩いてきて、このリュックが歩道のわきの茂みに引っかかってて、それで、おかしいなってみたらこっちに君が倒れてたの……これ君のリュック?」
あかりさんは困惑したような様子でリュックを見せてきた。
間違いなく僕のものだ。
口が開いているそれをみて、僕はようやく状況が整理できてきた。
「はい。僕のです。拾ってくれてありがとうございました。たぶん財布とられてるな……」
悪質なひったくりだ。
あの感じはたぶんスタンガンかなにか……傷害罪もつくぞこれ。
こんな子供を狙うなんて普通ありえないから、おそらく僕だとわかってやられた。
プロ棋士の稼ぎはなかなか多い。
まだ、早い時間だったし、相当急いでいて、足がつくのを恐れたのだろう。
取られたのは財布だけだ。
中に入っていたのは、2万少々。今日は本屋によるつもりだから多めに持っていた。
それから、口座のカードはすぐに連絡しておいた方が賢明だな。
携帯が無事なのは不幸中の幸い。
あ!それから……僕の一番大事なもの!!
「よかった。……駒箱無事だ……たいした衝撃もなかったみたい。あ……でもこっちはだめだな……」
今日も持ち歩いていた、父の駒は無事だった。
ただ、妹とおそろいのキーホルダー。
落とさないように内側にあるファスナーのところにつけて、持ち歩いていたんだけど、当たり所がわるかったのか、チェーンとトップが離れてしまっていた。
さいわいちぎれたトップはカバンの底にあって、無くしてないだけ良かったかもしれない。
でも、やっぱり少し悲しいし、やりきれない。
「キーホルダーちぎれちゃったの? 大切なものだったんだね」
手にしたそれを、無言で見つめている僕にあかりさんが、そっと声をかけてきた。
「……はい。妹とおそろいのキーホルダーだったんです」
もう一つの片割れは、あのとき妹と一緒に灰になり空にのぼったのだけれど。
「見せて……うん! これくらいだったら、お姉さん直せるよ。ちょっと部品かわっちゃうかもだけど……それは大丈夫?」
気落ちしていた僕を見ていられなかったのだろう。
あかりさんがそう提案してくれた。
「ほんとですか!? ぜひお願いします」
差し出したキーホルダーをあかりさんが受け取って、任せといて! と力強く答えてくれた。
それから、僕に立てそう? と聞いた後、一緒に交番に行こうといってくれた。
僕の様子から、だいたい何があって、こんな状況だったのか察してくれたようだ。
ついた先の交番で、担当についてくれた若い警察官は、色々親切にしてくれた。
手際よくケガの手当てを先にしてくれて、被害届の書き方を丁寧に教えてくれた。
「このあたりで用事があったの? おうちの人は一緒じゃなかったのかな?」
「将棋会館からの帰りだったんです……。よく行ってるので一人でした」
「はぁ将棋……。将棋!? 名前が……桐山……っ!!」
僕の言葉に、突然驚いたように立ちあがり、被害届に書いた名前を確認すると、急いで部屋を出て、誰かを呼びにいく声が聞こえた。
先輩! 先輩と響き渡った声の後、連れてこられたのはベテランそうな年配の警察官。
やってきたその人はひとめ僕をみると食い気味に尋ねてきた。
「き、桐山四段……ですよね? プロ棋士の」
「あ……はい。一応。そうです……」
そこからのてんやわんや具合はすごかった。
若い警官にもだいぶ丁寧に接してもらっていたけど、もうそんなの目じゃなかった。
とくに手は大丈夫なのか? 頭をうった!? 救急車をよんだほうがいいんじゃないか。とだいぶ怪我については心配された。
いくらとられたの? ほんとに財布以外は無事? ちょっとでも犯人で覚えてることはある? 等、だいぶ親身になって聞いてくれた。
なんでもこのお方。
かなりの将棋好きで、若い頃にこの交番に配属になった時、会館の人たちとも随分親しくなったらしい。
そのあと、何度か職場の移動はあったが、定年間際またここに戻ってきたそうだ。
とくに会長とも仲良くしてるらしく……僕の活躍を本当に楽しみにしてくれているらしいのだ。
自分の管轄区域でこんなことになって……とだいぶ落ち込んでいた。
そばでついていてくれたあかりさんは、一応テレビで僕のことは知っていたようで、あのスーパー小学生! と今になって気づき、何故かそわそわしている。
僕が一番しぶったのは、自宅への連絡……未成年者だから仕方ないけれど、藤澤さんの耳にいれるのは気が重かった。
連絡を受けて、もう文字通り飛んでくる勢いで、迎えに来てくれた。
幸田さんがちょうど遊びにきていたようで、車をだしてくれてそれにのって、藤澤さんもきてくれた。
僕の姿をみるなり、財布だけで済んでよかったと安心して、それから顔やら手やらのけがをみて、憤慨していた。
もう絶対、一人だったらタクシーを使うようにと言われた。会館と懇意にしてるタクシー会社も多いから、そこだったら安心だし……。
あかりさんにはすごく丁寧にお礼をいったあと、ついでに自宅まで送った。20時をすぎて、だいぶ遅くなってしまっていたから。
はじめて会ったあかりさんのお母さんや、お爺さんは何事かと驚いていたけれど、事情を知ると、僕に災難だったなーと声をかけてくれた。
あとお爺さんの藤澤さんへの興奮具合はすごかった。
ちょうど世代だし、現役を知ってるファンからするとたまらないだろう。
藤澤さんはにこやかに対応していたし、今度和菓子屋にも寄りますよと声をかけていた。
あかりさんは別れるときに、キーホルダー直しておくから、いつでも遊びにおいでね、と声をかけられた。
前回の時もおもったけれど、彼女には本当にお世話になりっぱなし。
かっこ悪いところもみられちゃったなーと思った。
そのあと、藤澤さんの知り合いがしているという病院にもよってもらって、一応検査もした、無意識でもちゃんと手はついていたが、頭をうったのは確かだし……。
幸い異常はなし。もし、気分が悪くなったり、患部が痛む以上の頭痛がするような異変がみられたら、すぐに病院へ来るように言われた。
額の傷は、縫うほどでもなくすこーし大き目のガーゼでふさいでおいた。幸い前髪でだいぶ隠れる。
右手もたいしたことない。
二、三日もすれば違和感はなくなるだろう……。
ただ、明日ある対局は左手で指した方がいいかもしれないな、と思った。
幸田さんは明日、僕と同じで対局があるらしく、送っていくし、帰りも一緒に帰ろうと約束した。
本当は、休んだ方が……とも思ったようだったけれど、僕がそれを受け入れるわけないし、せめて傍で見ておくつもりなのだろう。
12月に入って、獅子王戦のランキングが始まる。
獅子王戦は現在あるタイトル戦の中でも、いちばん賞金金額が高く、予選もかなり長い。
獅子王ランキング戦といい、1組から6組までに分かれたトーナメント戦で始まり、1組の上位5名、2組の上位2名、3組から6組までの優勝者各1名の合計11名が本戦に出場する。
最初は皆6組からである。
昇級や降級の規定が細かく決まっており、1組から3組までは定員16名、4組と5組は32名、6組はその他全員で、6組以外は人数の制限もある。
当然1組のほうが、本戦に出られる人数も多いし、予選トーナメントの段階から対局料も高い。
毎年みんな、自分が昇級するように、または降級しないように必死だ。
獅子王は名人と並び、将棋界の代表として、アマチュア段位の免状への署名等、対局以外の多くの業務を課せられる。
この二つのタイトルは他のタイトルより少し特別で、名人をその時代の象徴とするなら、その年の最強棋士は獅子王という人もいるくらいだ。
つまり将棋界の偉大な二大柱である。
今は、宗谷さんが名人で獅子王でもある。
もうどれほどこの人が強いのか、よくわかるだろう。
ちなみに6組の予選突破枠は優勝の一枠で、その優勝者の昇級は決定する。
本戦は面白そうだし、とりあえず予選トーナメントの突破は目指したい。
今日の対局はその獅子王戦6組のトーナメントの初戦なのだ。
相手はアマ枠の方だったし、あまり気負わずに対局にのぞんだ。
もちろん彼の棋譜を探し出して、ある程度の検討はしたけれども。
さて、問題は対局よりも、どこか騒ついているこの会館の空気である。
まず最初に僕に会った馴染みの事務員の人など、僕の顔をみるなり、声をあげて驚いて、大丈夫? 対局に影響はない? と本当に心配された。
その騒ぎで人はやってくるし……。記者の人で嗅ぎ付けそうな人がいたけれど、僕が焦ったそぶりをみせると、その人がさっと匿って対局室へと促してくれた。
あまり大事にしたくはないのだ。
表向きには転んだくらいのことにしておきたい。
対局はやはり左手で指した。
少し、違和感はあるけれど、さして影響はない。
問題は昼休憩である。
外にでるのも億劫だったから、出前を頼んでいつもの部屋でほかの棋士の方々と食べていたのだけれど、たまたま隣にすわった一砂さんが心配する声が大きくてちょっと困った。
左手を使って食べてたら、目ざとくスミスさんが気づいて、右手も怪我したの? って聞かれるし……。
転んだ……といったのだけれど、そういうことにするのは知ってるといいつつ、夜は気を付けろだとか、メンタル的には大丈夫なのか? とか随分心配された。
スミスさんの前では以前、やらかしてるから余計気にかけられている気がする……。
土橋さんには良かったらとシップを渡されたし、隅倉さんには茶菓子と一緒に、妙なやからがいたら威嚇しとくからと言われた。
要は、何故か、ほとんどの棋士が知っていたのだ。
みなさん情報早すぎませんか……。
おまけに対局が終われば、会長に呼び出された。
「よう、桐山お疲れさま。今日は勝てたのか?」
「はい。大丈夫でした。あ、柳原棋匠もこんばんは」
うなずいて見せたあとに、部屋にいた柳原さんにも気づいてあいさつする。
「こんばんはー。よかったね。徳ちゃんこんなことで連勝がとぎれたら、外野が絶対うるさいって心配してたから」
「まー桐山に大事なかったのが、一番だけどな……。そうか、勝てたのか。
で、ぶっちゃけ、どうなんだ? 大人が怖いとかない? 暗いところも平気か?」
会長はいつものおちゃらけた雰囲気はなりを潜めて、本当に真剣に、慎重に僕のことをうかがっていた。
「あ、はいその辺は全然。犯人がどんなだったかまったくわかりませんし、かえってそれが良かったのかも……」
「良くはねーけどな。そうか、とりあえず日常に問題はないんだな?」
「はい。傷も数日で全快すると思います。大丈夫です」
力強く答えて見せると、会長はようやくあー良かったと息をはいた。
「あの交番のおやじとは飲み仲間なんだけどさ。昨日連絡きて驚いた。ワシのひざ元で将棋界の宝が穢されたーってもう大騒ぎ。こっちは何事かと慌てて藤澤に連絡とったわ」
なるほど、あの交番のおまわりさんと会長が懇意ということを失念していた。
その辺から話が繋がったのか。
会館近くであった事件だから、将棋会館への警戒を呼びかけるのも間違いではないけれど、できたら僕の名前は出さないでほしかった……。
まぁ……さすがに会長には藤澤さんから話がいっただろうから時間の問題だけど。
「僕ももっと気を付けるべきでした。奨励会のころからこの辺はうろうろしていたので、なんとなく大丈夫だと先入観があって……」
実際、良い大人になって、狙われる弱者からは遠い存在になっていたから、その辺の危機感は薄かった。自分が小学生だという自覚が無い。
「桐山は、わりと有名になってるからな。プロ棋士でそれなりに稼いでるのはわかってる人にはわかるし。くそ野郎ってのはどこにでもいる。おまえだって分かってやったんだ。
普通、小学生の財布なんか狙わねー」
「まぁそうでしょうね……。誘拐とかならともかく」
「……おまえね、ほんと気を付けてよ! これだけで不幸中の幸いだけど、ほんと変なやつ多いんだから。あのまま連れ去られてたり、なんかあったかもしれないんだから!」
会長に叱られてそうか……とも思った。
たまたまあかりさんが割とすぐ声をかけてくれたけど、僕に気づいたのが良い人とは限らない。
僕を昏倒させたやつも、人が通らなければひょっとしたら……。
わざわざ、スタンガンなんか使う過激派だし、何かあったとも限らない。
……ぞっとした。
いま、僕は非力で弱い小学生なのだ。
本気で気を付けようと思う。
対局に差し障りがあるようなことがあってからでは遅い。
今度は、神妙にうなずいて見せた僕に、会長はよしよしと頭をなでてきた。
「お前は悪くねぇんだけど、世の中にそういう屑がいる限り、自衛するしかないんだ。
とりあえず、今後しばらくは駅まで誰かが一緒じゃないなら、だめだから。このこと知ってる奴は多いし、藤澤門下じゃなくてもいーから声かけろ」
「おじーさんでも良いからね。大人といるってのが大事だ。
まぁ後藤とか、隅倉とかがたいの良い奴だったら最高なんだろうけどさ」
柳原さんも優しくそう声をかけてくれた。
おまえさんがタイトルとりに来てくれたら、話題性抜群で大歓迎なんだから、頑張ってねとも言われた。
幸田さんに連れられて、家に帰ると最近では珍しいことに後藤さんが来ていた。
僕の額を見ると顔をしかめる。
そのあと、アホっと小さくつぶやかれた。
ちびすけなんだから、その辺自覚しろよっとくぎを刺されて、何も言い返せなかった。
ちょっとむくれつつも、うなずいてみせると、満足そうだった。
気晴らしに、一局指してほしいと頼むと、あきれた後に左手で指せよ。と言われた。
自分も左で指すからイーブンだとも。
ちょっと不思議な感じだったけれど、久々の対局は楽しかった。
その日の極めつけは、宗谷さんからのメールだ。
土橋くんから聞いたけど、大丈夫? と。
些細なことでも、高度なやりとりの最中には気になって集中できないこともあるから、手は本当に気を付けてね。とのことだ。
あと、東京は物騒みたいだから、こわくなったらこっち(関西)においでね。とも。
……驚いた。宗谷さんも冗談言うんだなー。
今日、朝日杯の本戦のトーナメント表が公開された。
僕と宗谷さんは勝ち進めば、準決勝であたる。
それまでに2回。勝たなければならない。
準決勝と決勝は毎年2月に公開対局として、東京のホテルで行われる。
宗谷さんと公式戦で対局できる今年度最初で、最後のチャンスになる。
勝ちすすみたい。勝って彼の前に座りたい。公式戦の試合は特別だから。本当にそう思った。
12月の島田研究会があったのは、そのすぐ後のことだった。
島田さんの家にお邪魔してそうそうに、怪我のことを聞かれた。
もう右手は問題なかったし、額の傷もほぼふさがって前髪をあげないとわからない程だ。
島田さんにも、それから驚いたけど重田さんにも、とても心配されて、研究会の仲間だから、頼ってくれていいからな、と言い含められた。
有り難いことである。
その日の研究会が終わったころに僕は島田さんに聞きたいことがあった。二海堂のことだ。
彼は10月に快勝し、二段への昇段を決めた。
でもそのあと、11月にあった奨励会を2回続けて、休んでいた。
「あー二海堂か。ちょっと休んでるけど、大丈夫だ。また復帰したら、元気に指すだろうよ」
島田さんは少し困った顔でそう答えた。
やはり体調を崩しているらしい。彼が幼い頃から持病と付き合い、過酷な生活を強いられていたのは知っている。
「お見舞いとか……いったら迷惑ですか?」
「え? 桐山がか……。うーむ。どうだろうな……」
悩んでるその様子をみて、僕は一歩踏み出すことにした。
「お願いします。たぶん大体の事情は分かってますから、それでも行きたいんです。僕にとって、彼はライバルだから」
島田さんは僕の目をしばらく見た後に、ため息をついて。それから、今度の土曜日に病院へ一緒に行こうと言ってくれた。
やっぱり入院していた。あまりよい状態ではないのだろう。
約束のその日に、病室に現れた僕をみて二海堂は本当に驚いていた。
興奮しすぎるのはよくないから、すかさず島田さんが止めていたけど。
「な、なんで桐山がここに……」
「島田研究会のメンバーだから。メンバー候補の様子を見に来た」
「そ、そうか。俺は大丈夫だからな! すぐ元気になって、三段リーグにも上がって、おまえにだって、追いついてみせる」
空元気もあっただろうけど、しっかりと僕の目をみて二海堂は宣言した。
この意思の強さにはいつも驚かされる。
「知ってるよ。でも、身体も大事にな。目の前の数局だって、大切だし、無駄にしたくないのもわかるけど……何十年後でも、ちゃんと二海堂と指していたいから」
後半、少しだけ目を伏せて告げた言葉に、二海堂が息をのんだのが分かった。
僕はあとから聞いて知ったのだけど、彼はこのころから相当焦って、無理をしていた時期もあったそうだ。
自身の限られた時間を将棋にすべて当てたかったのだろう。
体調をおして、対局を優先したことも何度もあったそうだ。
彼の人生だし、その気持ちもわかるのだけれど、僕としてはもっと長く指しあっていたかったから……。
せめて少しでも、彼が体を酷使する歯止めになりますように。
「俺はもっと登りつめて、タイトルも持って最高の状態で、君が前に座るのを待ってる。この先何十局だって、対局したい。だから……あんまり焦って自分をいじめるなよ」
「なんで……なんでそこまで……? だって、俺、桐山と対局しても負けただけだし。今の俺じゃ、お前とは肩を並べられない」
ベッドの上でギュっとこぶしを握り締め、悔しそうな彼に、なんとか気持ちを伝えたくて、精一杯言葉をつくした。
「俺が誰と指したくて、誰をライバルだと思うのか、それを決めるのは君じゃないよ。同年代でライバルだと思えたのは、君だった。棋力とかそういう問題じゃない。将棋に関する熱意と向き合い方が同じだと思った」
子ども将棋大会。あの暑いデパートの屋上で出会った時に受けた衝撃と喜びは忘れてはいない。
俺も初めてだったけど、おまえにとってもそうだったんだろ?
自分以外で、将棋しかなかった奴に初めて出会ったんだ。
俺たちにはこれしかなくて、だからこそ真剣で、夢中で、ただひたすらに上を目指していた。
でも、この道は険しく孤独だ。
同年代で、それほどすべてを捧げている子はいなかった。
だからさ、嬉しかったんだよ。
おまえだけじゃない、俺だって嬉しかった。
前回ライバルたれと言ってきたのは、二海堂からだったけど、今回は俺から言うよ。
「将棋は一人じゃ指せないから、俺の前に座ってくれる一人に二海堂がいてほしい」
前は口がさけても、こんなこと言えなかった。
でも、二海堂には必要だったんじゃないかと後から後悔したんだ。
あいつは、いつも俺に、まっすぐに言葉をくれたのに、俺がかえせたのはその半分にも満たないんだから。
僕の言葉に、彼はその大きな目からぽろぽろと涙をこぼすと、そのままパッと笑った。
「そこまで言われたら仕方ないな。ちゃんと前に座ってみせるから、首を洗って待ってろよ!」
彼らしい良い笑顔だった。
その顔がみられたから僕は少し安心した。
帰り道、島田さんは僕に二海堂との出会いについて話してくれた。
知っているけど、改めてきくとやはり壮絶だ。
でも、だからこそ彼の将棋があると言える。
そして、そのあと小さくありがとうな、と言われた。
「坊のやつ、最近思い詰めてたし、張り詰めてたから。今日、いい表情になった。だから、兄弟子としてお礼をいいたい」
「僕も、無理言ってすみませんでした……」
「いいよ。なんか二人には必要なことだった気がするから。
あーあ。ちょっとおじさんには眩しかったわ、でも羨ましくもある」
島田さんの表情は柔らかくて、優しかった。
「桐山ってさ、奨励会の時の無口っぷりをみてたら将棋以外で饒舌になることがなさそうだったから、ちょっとびっくりした」
「いつでも伝えられそうな言葉でも、案外それが難しいって気づいたんです。ちょっと遅かったですけどね」
35年生きて、一回戻ってやっとなんだから。
苦笑して答えた僕に、島田さんは、気づいて行動できてるだけ、立派だよと、優しく肩をたたいてくれた。
知っているから。
当たり前にあった日常が、今目の前にいる人が、唐突に失われることがあるということを。
以前の僕はそれが怖くておそろしくて、ちゃんと向き合うまでに随分と時間がかかったけれど、もう迷いはしない。
この人生では後悔しないように生きるってそう、決めたから。
気にしていた方もいましたが、ここからちゃんと川本家とかかわります。
出さないわけが無い〜。原作の桐山くん支え続けた方々ですよ。
相変わらずあかりさんとの出会いは、道路上で拾われる所から笑
桐山くんの一人称は原作でも時々揺れてますが二海堂くん相手だと結構その頻度高めのイメージ。同年代の子相手だと、感情が揺れやすいのかな。
次は、あかりさん視点です。