柾近に弟子をとってくれないかと話を持ち掛けられたとき、私は当然断った。
もうだいぶ年をとったし、将棋の棋力も衰えている。
今更若い子を弟子にとったとして、プロになるまで面倒を見てあげられるか自信もなかった。
ただ、真面目で堅物、普段無理を言ってきたりしないあいつが、やたらと食い下がって話だけでもと聞かないので、とりあえずその子の話を聞くことにした。
桐山という名前を聞いたとき、すぐに桐山一揮のことを思いだした。
プロになれなかった弟子のなかでも一番惜しいとおもい、もっと何かしてやれたのではと思った奴だ。
医者になって、家を継ぎ、子どもも生まれたと耳にして、これで良かったのかもしれないと思っていた矢先の悲劇。
息子のように可愛い弟子の一人を失ったことは、私の中でまだ大きな傷を残している。
その一揮の息子が、東京の施設にいて、奨励会に入りプロを目指しているという。
なんと数奇なことだろう。
柾近が内弟子にしようともちかけた話は、すぐに断られたと聞いて、おまえはもっと自分の子どもの事も考えてやれと諭しておいた。
かりにその話がすすんでも、あまりうまくいったとは思えなかった。
一方でその息子の方への興味はさらに駆り立てられる。
棋譜をみせられたことで、その気持ちは大きくなるばかりだ。
これほどの才能。
放っておいても、勝手にプロになるだろうが、それでもやはり環境によってその速さは左右されるだろう。
一度会ってみても良いかもしれない。
私がそう呟くと、柾近はすぐに嬉しそうに頷いて、段取りをし始めた。
「失礼します。桐山です。会長がお呼びだと聞いたのですが……」
「おぉ!! 来たか、桐山!! まぁ、座れや。ちょっとだけ長い話になる」
会長室に入ってきたその子の姿を見たとき、あぁ間違いなく一揮の息子だと思った。
「存じています。藤澤邦晴九段。会長と名人位を何度も争われた方だ。お会いできて嬉しいです」
「君はお若いから、私のことなど知らないものだと思っていたが……そうかい。嬉しいねぇ」
柾近が紹介した私のことも知っていてくれたのは、思いがけず嬉しかった。
私が差し出した手を握り返してくる手は小さい。
「お二人の対局の棋譜はとても勉強になりますから、何度も並べさせて頂いてます」
「噂には聞いていたが、本当に勉強熱心な子のようだ。
そして、恐ろしくそつがない。これは、柾近の手にあまるのも分かるなぁ」
この子はただの小学生ではない、心構えはすでにプロの域に達しているのだろう。
何十年も前の記譜までさらうなど、なかなかこの歳で出来ることではない。
「私は、もう将棋を離れて久しいし、弟子をとる気は無かったんだが、柾近がどうしても一度会ってほしいと聞かなくてな。それに、自分が内弟子にと言った話は袖にされたという」
私の言葉に、零くんは少しバツが悪そうだった。
優しい子だ。柾近の想いも分かった上でそうせざるを得なかっただろうに、それを心苦しく思っている。
「何、君が気に病むことはない。話を聞いてみれば、なかなか道理が通ったことだ。いささか、小学生にしては出来過ぎだとも思ったがね……でも、今会ってみて分かった。
桐山にそっくりだなぁ……。あいつの子なら聡明で優しいのも頷ける」
一揮の名前を出すつもりはなかったが、言葉がこぼれてしまった。
「あいつのことは、残念でならん。私には娘だけで、息子はおらんかったから、弟子たちは皆、自分の息子のように可愛かった。先に逝くとは……親不孝なことだ」
葬儀に出られずすまなかったという私に、ただただ頷くその子は、必死に何かを押しとどめていた。
あぁ……そうか、君はそうやって堪えてくるしかなかったのかと、その様子からこの子の数年が透けて見えて切なくなる。
「もし、貴方と話せる機会ができたなら、一つだけお聞きしたいことがありました」
「おや? 何かな?」
続きを促すと零くんはおもむろに一つの駒箱を取り出した。
私はそれに覚えがあった。
間違いなく、一揮の退会駒だ。
あいつまだ、これを持っていたのか。
これで、息子に将棋を教えたなんて、なんて奴だろう。
でも、あいつらしいと面白くも思った。
零くんは父親の話を聞きたがった。
将棋道を志し、それでも道半ばであきらめなければならなかった彼の話を。
私は自分の覚えている限りの話をした。
「一揮が知ったらどんなに喜ぶだろう。息子が、もうすぐ自分が退会したときと同じ二段になると知ったら」
締めくくった私の言葉に、堪え切れなかったのだろう。彼の瞳からポロポロと静かに涙がこぼれた。
胸が締め付けられた。
声を上げることもなく小学生がこれほど静かに泣けるのかと。
「その桐山の息子をな。このまま放っておくのは藤澤門下一同としては、忍びない。
なぁ、零くん。私の弟子にならないか? あいつが此処で見て諦めた夢を、今度は君が叶えてやってほしい。私がそれを手伝っては駄目かい?」
私はそっと彼のまえにしゃがんで目線を合わせて問いかける。
声を押し殺すため、ギュッと口をむすんだまま、零くんは何度も頷いた。
右手でそっと彼の頭をなでる。
すこしだけ抱き寄せると、小さな手がキュッと私の服を掴んだ。
どんな言葉よりも雄弁に、その手が私の事を受け入れてくれた気がした。
零くんとの生活は予想よりはるかに円滑な滑り出しをみせた。
だいたいの理由が彼が良い子すぎるからだ。
妻の和子の手伝いもよくするし、注意しないといけないようなことも全くない。
おまけに家にいた猫どもまであっさりと懐柔されていた。
シロもクロも私にはそっけないのに、不思議なものだ。
気難しく、マイペースなシロがあれほど零くんの傍にいたがってべったり甘えているのには目を疑った。
動物は傷ついた心には敏感だというし、彼らが寄り添うことで少しでも零くんの癒やしになるなら良いことだろう。
あえていうなら、どうも気を遣いすぎな面がみられるのでそこだけは、追い追い慣れていってくれたらと思う。
門下との顔合わせも終わって、皆彼をあたたかく迎えてくれた。
柾近が零くんを気に掛けるのは予想できていたが、驚いたのは正宗がうちに顔を出すようになったことだ。
よっぽど零くんの将棋が気にいったのだろう。
ここ数年、ほぼ絶対参加だというような集まりにしか顔をださず、家によりつきもしなかったが、1ヵ月に一度はなんらかのたいしたことない理由をつけて、やってくる。
あいつが来ると零くんが指してもらえないかなと、少しそわそわするのを、満更でもないと思っているのは、私の目には明らかだった。
これは良い傾向だろう。
正宗は誤解されやすいが、根の底のそこの方では、優しい奴なのだ。
まぁもっとも滅多に外には出さないが……。
零くんと一緒にいると少し丸くなって、あいつのそういう面も目にとまりやすくなればと思う。
停滞し、ただ時が流れているだけになっていた私の家に、新しい風が吹いて、日々が目まぐるしく過ぎていく。
零くんの成長は目覚ましく、あっという間にプロになった。
小学生プロというその話題性から、うちにも随分取材がきたが、なるべくあの子を煩わせないようには気を配った。
神宮寺のやつにも、過度の取材は受けないようにと釘をさしておく。
あいつは、そんくらい分かっとる! と電話を叩ききったが……。
惜しむらくは、零くんが制服を新調して自分で買ってしまうのを阻止できなかったことだ。
それくらいいくらでも出してあげるし、子どもの成長を感じる親としてはわりと嬉しいことの一つなのだが……。
後手に回ってしまったのだから仕方がない。今度があれば絶対に先手をうとうと心に決めた。
あの子の対応は、あらゆることに卒が無かった。
自分が答えにくい質問や実家関係の答えたくない質問への対応も上手かった。
頭がよく回る子なのだろう。それにしても、出来過ぎのような気もしたが。
学校と棋戦との両立は大変だろうに、夜中まで対局が掛かろうが、関西の将棋会館から帰ってきたばかりだろうが、棋戦が無い日は必ず登校していた。
たいしたものだと思う。
将棋の研究へののめり込みようもすごく、プロ入り後半年たっても一度も負けていない。
A級棋士に勝っているところをみても、実力はもう若手の域をとうに超えていた。
私は彼の成長を見守るのが楽しみで、それが将棋のことだろうが日常にかかわることだろうがなんでも良かった。
ただ、健やかであってくれればそれで充分だった。
だから、警察から電話を貰った時の背筋が凍るような感覚は、子どもをもつ親なら誰しも分かるだろう。
なぜ、どうして、あの子が……と、動揺しながらも、とりあえずの無事を確認し慌てて迎えにいく準備をした。
偶然だが、柾近が居てくれて良かった。
車を出してくれるというし、私以上に憤って動揺している彼をみると、少しだけ冷静にもなれた。
交番についたとき、零くんのすこし気まずそうな顔をみて少しほっとしたと同時に、額の傷をみてカッと身体が熱くなった。
たまらず抱きしめた彼の身体は小さい。
そう、こんなにも小さいのだ。
どれほど、しっかりしていようと、どれほど大人びていようと、この子はまだ子どもだ。
何故こんなひどいことが出来るのだろう。
もっと守ってやることは出来なかったのだろうかと、自問自答を繰り返した。
頭を撫でられるときでさえ、そわそわと落ち着きがなく、自分がこれを受け取ってよいのだろうか? とでもいうような雰囲気を纏う彼は、抱きしめた腕のなかでびっくりして固まっていた。
こんな怪我をして……でも、これだけで済んでよかったと呟く私に、彼はご心配をおかけしてすいません、と言った。
そう思うなら、頼むからタクシーを使ってくれと言うと、迷ったあとに頷く。
この子は一度した約束は守る子だ。倹約的な性格だが、これで少しは安心だろう。
零くんを助けてくれたお嬢さんを送っていくついでに、見つけたときの状況を聞いておく。
つくづく、運が良かったとしか思えない。
見つけてくれたのが彼女のような、無垢で純粋な子で良かった。
そして珍しく、零くんが懐いていたのには少し驚いた。
この子の中にはなかなか、踏み越えさせてくれない一線がある。
私だって、その内側にいられているか、微妙なところだ。
けれど、間違いなく彼女は零くんの中で、線の中に入れて良い人と認識されていた。そうでなければ、妹さんのキーホルダーを任せることはない。
出会いはなんとも言えないものになってしまったが、これは喜ばしいことだろう。
零くんはどうも対人関係を希薄にしがちだ。少しでも、深く繋がっていける人が増えることは彼の支えになるはずだ。
おくり先で出迎えた、家族の方々も善良そうな方々だった。
私と同年代そうなおじいさんが、随分と熱心な将棋ファンだったようなので、ファンサービスもしておく。
心証がよくなったら、零くんも遊びに来やすいだろう。
病院での検査も問題なさそうだったから、帰宅後なるべくはやく眠るように零くんを促した。
寝つきがわるくないか、不安そうにしていないかと一応見守ったのが、意気揚々と彼の布団に潜り込んでいったシロと、あとからそっと足元の方で寝始めたクロと共に、スヤスヤと眠っていた。
前から思っていたけれど、結構肝が据わった子だ。
とりあえず良かったと思い、私も休もうと思ったときに家の電話がけたたましく鳴った。
何事かとおもうと、神宮寺からの連絡だった。
「ちょ、おい 藤澤っ! 桐山大丈夫だったのか? ひったくりにあったうえ、スタンガンで昏倒させられて、額から結構な出血したって警察から連絡あったんだけど!?」
あぁ……そういえば、あの交番の年輩警察官は私とも知り合いだったし、神宮寺とは飲み仲間だったなぁと思った。
一応連絡はしようと思っていたが、これほど早く情報がまわるとは。
「零くん自身はほぼ普段通りだったよ。今ももう寝たところだ。医者にも連れて行ったけれど、とりあえず傷も数日で治る程度らしい」
「そうか……。とりあえず安心したわ。あのおっさんやたら悲壮感たっぷりに言ってくるから何事かと……」
「ただなぁ……利き手の手首も痛めたようなんだが、明日の棋戦は出るといっとる」
「あぁ! 明日棋戦あるのか。獅子王の予選だな……相手はアマだし問題はなさそうだが、まぁ左を使うにしても違和感はあるな……」
些細なことでも気になれば思考力へ影響する。それは、繊細な対局や、高度のやりとりであればあるほど、顕著になる。
万全な状況でのぞませてあげたかったと思わずにはいられない。
「あの子なら、問題なく勝つとは思うがな」
「こういっちゃあ悪いが、マスコミもだいぶ注目してる……ここで連勝がとぎれると理由が話題に挙がらざるを得なくなってマズイ。まぁそうなったら、全力で阻止はするけどなぁ……桐山には是非いつもの調子でいってもらいたい」
大事にしたくないという零くん自身の希望もある。今回の事件は公にはならない。
そのかわり、彼が重ね続けている栄光に陰りがみえるのは、よろしくないのは間違いない。
そして、おそらく零くん自身がそのことを誰よりも理解している。あの子は、本当に聡い子だから。
なら、私に出来ることは一つだ。
「今日の明日だから、会館でも一応気に掛けてやってくれ。明日は柾近が送って行くとは言っとるがやはり心配だ。怪我のこともあまり詮索されないようにしてあげてくれ」
少しでも彼が指しやすいように、支援するしかない。
「あぁそれはもちろん。額の怪我は隠しようないだろうし、会館近くの事件だったから棋士にはそれとなく言っとく。外部には口外しないようにってな」
神宮寺の会長としての発言力や影響力は大きい。それなりに上手くやってくれるだろう。
零くんは次の日も快勝し、普段通りの日々を過ごしていた。
変わったことは、帰宅するときに門下以外の棋士に連れられて帰って来ることもあった。
車に乗せてもらったり、駅まででいいといったのに結局ついてきてくれたり、有り難いけど迷惑じゃないかなと、心配そうだった。
私からもお礼をいっておくから、気にせず甘えておきなさいと言っておいた。
あとから柾近からも聞いたが、どうも零くんの成長を見守るような小さな会があるらしい。なんだそれは ?とも思ったが、将棋界の子どもを温かく見守ろうといった趣旨のようなので、まぁいいかと放置することにした。
あの子がうちに来てからのクリスマス。和子は気合いをいれて色々と準備していた。
子どもが小さかった時をおもいだすのだろう。
私も、これから必要になるだろうと着物を贈ることにした。弟子たちにはこれまでも、何度も贈ってきたが、こんな小さな着物をつくったのは初めてだなぁと少し新鮮な気持ちだった。
そして、あぁ一揮には結局贈ってやれなかったと思い至って、零くんの着物姿をあいつもみたかっただろうにと胸が痛んだ。
せめて、少しでも良いものを、そして零くんに似合うものを贈ろうと気合いを入れる。
着物を零くんはとても喜んでくれた。
正月に身に付けた姿を見たときは、そこに一揮の面影もかさねて、少しだけ涙ぐみそうになった。
着付けは流石に、私がしたけれど、彼はすぐにでも覚えてしまいそうだと思う。
そして、一応ひととおり所作や簡単な注意事項を教えたものの、それが必要じゃなかったかと思う程、着こなしていた。
不思議に思って、長野で着たことがあったのかと尋ねたが、彼は初めてだという。
うーむ。初めてでここまで出来るだろうか。
疑問に思った私の雰囲気を察したのか、零くんは祖父が結構な着物の愛好家で、その様子をみていたからかもしれないと慌てて、言葉を重ねた。
身近にお手本がいたのなら、多少は違うかと納得して、他の兄弟子たちにも見せておいでと促す。
あの子は本当に出来た子で、和子の手伝いに走り回りながら、ちゃんと全員へ新年のあいさつをしていた。
私の弟子といっても、もうほとんど全員がおっさんなのもあって、あいつらも零くんのことは息子のように思っているのだろう。
大量のお年玉をもらって、戸惑っている零くんの姿をほほえましく思いながら、その光景を眺めていた。
柾近が良い案をだしてくれたから、零くんのお正月の伝統は着物でということになった。
神宮寺の奴は絶対に喜ぶだろう。
後からその時の様子を柾近に聞いたが、とっても良い写真をみせてもらった。
「写真をとっていたカメラマンに頼んで焼き増ししてもらったんです」
「おぉ! これは……なんとも癒やされる。零くんが公の場で、これほど自然体なのは珍しいな」
将棋盤を挟んで、無邪気に微笑む少年二人。
やわらかく差し込んだ日差しと、彼らの打ち解けた雰囲気が、穏やかな日常を切り取っていて、何とも言えず良い雰囲気だった。
「対面に居る子は、施設の時からの友人だそうで、彼が遊びに来てくれて零くんはとても嬉しそうでした」
「そうかそうか。それは喜ばしいことだ」
柾近の言葉に何度も頷きながら、本当に良かったとおもう。
同年代の気心しれた友人がいると分かり、正直すこしだけほっとした。
写真のなかの零くんは、対面に座った彼と何ら変わりない、小学6年生だった。
可愛い、かわいい私の最後の弟子。
彼の成長をこれからも見守っていきたい。
藤澤邦晴 67歳
会長や柳原さんより少し年上なので、10話の時点でこれくらいの年齢です。
桐山くんのお父さん一揮さんについては色々と、後悔や負い目がある。彼のかわりといってはなんだけれど、桐山くんの成長を見守っていきたいと思っている。
一応自分のお孫さんもいるんだけど、それとは別に桐山君のことも可愛くてしかたない。
彼がのびのびと過ごすために、支援は惜しまない。
もっと甘えてくれていいのにが最近の飲み会の時の愚痴の定番になりつつある。