小学生に逆行した桐山くん   作:藍猫

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第二十五手 盤に縋って前を向け

 平穏な日常。

 変わり映えのない毎日。

 それがどれだけ尊い日々だったか、唐突に思い知る。そんな日が来ることがある。

 

 

 

 

 

 

 対局を終えて、家に帰った時居間から聞こえた怒鳴り声に、一瞬身体が固まってしまった。

 この声……後藤さん?

 どうしたんだろう……藤澤さん相手にこんなに声を荒らげるなんて珍しい……。

 

 気になってしまって部屋にも上がれず、廊下で立ち尽くしてしまった。

 聞こえ漏れてくる声に、奥さんとか病院とか医者がどうとかいう単語が目立つ。

 そして、後藤さんの荒れ具合から察してしまった。

 

 そうか、この頃なのか……彼の奥さんが倒れるのは……。

 聞いた感じだと、まだ入院とかそういう段階じゃないみたいだ。

 でも、命にかかわる病気が分かって動揺してる。

 前の時期、香子姉さんが、後藤さんについて回るようになったのは、彼女の高校卒業間近の頃だったから……それまでの数年間、彼は悩み続けたんだろう。

 そして、その後も奥さんが亡くなるまで、何年も何年も、ずっとずっと奥さんに時間を捧げる。

 香子姉さんとの関係は、当時の僕には理解できなかったし、潔癖の気があった中学生には難しすぎた。

 

 でも大人になってみて分かった。

 無理もなかったと思う。

 二人ともただ、寂しかったのだ。

 どうしようもないほど、空いた胸の穴をどうにかして埋めたかっただけ。

 特に、いつかくるその日をくるな、くるなと思いながら日々を過ごしていたであろう後藤さんには、必要だったのかもしれない。

 お子さんがいたら違ったんだろうけど、どういうわけか二人の間には子供がいなかったみたいだし。

 

 そんなことをぼーっと考えていると、足音も荒く廊下にでてきた後藤さんと鉢合わせしてしまった。

 

「……ちっ、どけよ。ガキ」

 

 身が縮こまりそうになるほどの声だ。

 これは相当きてるな……。でも、僕は引かなかった。

 

「落ち着いてください。酷い顔ですよ、そんな状態で運転する気ですか?」

 

 自分で事故るか、誰かを巻き込んでしまいそうなほど危うい雰囲気だった。

 今、彼を帰してはいけない気がする。

 

「いーからどけっ、俺は今、気が立ってる。おまえの相手は出来ん」

 

 ビクッと肩が震える。これほど荒れた彼を見たことがなかった。

 

「奥さん……倒れたんですか……」

 

 僕の言葉に、彼が眉を寄せた。凄いな、もう最大限に寄っていたと思うのに、まだ寄るんだ。

 

「盗み聞きか? いい趣味だな」

 

 鼻で笑われたけど、気にしない。

 

「そんなに、悪いんですか?」

 

「おまえには、関係ない」

 

 ますます、彼が苛立ってきてるのが分かった。

 

「病院……まだ、一軒だけでしょ。違う医者にも見てもらった方がいいと思うんですけど」

 

「知ったような口をきいてんじゃねぇよ」

 

 あぁ……だめだ。全く届いてない。

 彼の頭の中は怒りと悲しみでもういっぱいなのだろう。

 

 つられてはいけない。

 僕までヒートアップしたら収拾がつかなくなると分かっているのに、上手く気持ちが抑えられない。

 

「……なんで分かんないかなぁ。最初がどれだけ肝心だと思ってるんですか」

 

 僕のいた未来ではそれが本当に顕著だ。早い段階での治療選択が、その後数年の闘病生活を、ひいては治癒の有無を決める。

 この時代だってそのはずだ。

 医者だって間違えることがある。なんのためのセカンドオピニオンだと思ってるんだよ。

 医者からの一方的な治療じゃなくて、患者と医者とで治療を選ぶためだろう。

 そりゃあ、ショックだよ。直視なんてしたくもないのも分かる。何度も何度も、キツイ現実を突きつけれられるだけかもしれない。

 でも、新しい可能性が見つかるかもしれないのに……。

 それをしないで、諦めるなんて馬鹿だ。

 

 そして、何より僕が腹が立つことが一つ。

 

「だいたい、何であんた、今ここにいるんだよ! 奥さんは家で一人? 傍に居てあげろよっ」

 

 彼は痛いところを突かれたような表情をした。

 

「うっせーな、分かってるよ。動揺してる俺が傍に居たら、余計不安にさせるだろうが!」

 

「あんたが、情けない所みせたくないだけだろっ。彼女を不安にさせるかもしれない? それでもいいだろ! 誰よりも、傍に居てほしいはずなんだからっ」

 

 分かる。わかるんだよ。

 動揺を悟られてはいけない。自分だけは揺らがずどっしり構えていないと、一番不安なのは奥さんのはずだから。

 でも、だからって逃げてきたら駄目だろ。

 悟られてもいい、それでもいいんだ。動揺して当たり前なんだから。

 そのうえで、一緒にいてあげないと、一人で待ってるその人がどれだけ心細いか……。

 

「絶望して、足止めんな。みっともなく何でも縋ってあがいてよ! あんたが信じなくて、誰が信じんだよ」

 

「何を信じろってんだよっ、あぁ? 神様でも信じろってか!?」

 

 怒鳴り返した彼に、僕も負けじと声を荒らげる。

 

「奥さんと自分とに決まってんだろっ」

 

 こんなに叫んだのいつぶりだ? 彼が虚を突かれたように固まった。

 

「神様なんて、信じたって縋ったって何もしてくれない。残酷な運命を突きつけてくるだけだ……」

 

 理不尽なことを、残酷なことを、さもそれが仕方ないことのように、まるで決まっていたことのように、淡々と突きつけてくる。

 だってそうだろ? じゃないと、何で俺の家族は死ななきゃならなかったんだよ。

 

「病院行って、沢山話聞いて、選択肢はいっぱいあるはずだ。奥さんとよく話して、どうするか決めるべきだろ。可能性がゼロじゃないのに、全部終わったみたいな顔しないで」

 

 今日、明日どうこうなるわけじゃない。

 今できる最善手を選び続けたら、数年後画期的な治療法が見つかるかもしれない。後藤さん、あんたの人脈と財力があったら、それを選ぶことも絶対に可能だ。

 治る見込みは今はないのかもしれない。

 でもだからって、諦めてほしくなんかなかった。行き着いた先を僕は知ってしまっているけど、その未来だって変えられる可能性もゼロじゃない。

 

 だって、僕の未来は変わって行ってるんだから。

 

 先の見えない日々を、闘うのは哀しいかもしれない、苦しいかもしれない。

 でも……その時間が与えられていることが、……どうしようもなく羨ましかった。

 

「俺には……縋れる可能性すらなかったのに……」

 

 全部、あっという間だったんだぞ。

 家に帰ったら、ある日突然全部奪われて、全部無くなってた。

 こんな理不尽なこと他にないだろ。

 

 だから、あんたには無駄にしてほしくない。

 その時間がどれくらい貴重なものか、あんた以上に分かってるっ。

 

「……っ、おい……」

 

 後藤さんのギョッとしたような表情に、自分の失態に気づいた。

 

 

 

 抑えきれなかった、感情が頬を伝って零れ落ちていた。

 

 

 

 ……っ、駄目だ!

 此処で、泣くなんて卑怯すぎるっ。

 

 此方に手をのばそうとしてきた彼の手を振り払って、慌てて自室へ駆け込んだ。

 

 後ろ手に扉を閉めて、ずるずるとドアに背を付けて座り込む。

 

「癇癪起こした、子どもかよ……ばかか、俺は……」

 

 傷ついてる人に、更に塩塗り込んでどうするんだよ。

 説得して、冷静になってもらいたかったのに、このざまだ。

 ほとんど感情のままに吐き出してしまった言葉を思い出して、へこんだ。

 はぁ……と大きく溜め息をついて、頭を抱える。

 

 

 

 どのくらい時間がたっただろうか、数分だったかもしれないし、もっと長かったかもしれない。

 

 にゃーんと、小さな声がして顔を上げた。

 いつの間にか、部屋にいたシロが僕の足へ頭を押し付ける。

 ザリザリの舌で、僕の手の甲をなめるその子を、座り込んでいた膝の上に抱き上げた。

 

 ぐっと小さな身体をのばして、僕の顔をなめる。涙の痕をぬぐわれているみたいだ。くすぐったくて、一生懸命なその姿が可愛くて、ささくれ立っていた心が和んだ。

 

 慰めてくれてる。

 彼らは、優しくて賢い。僕たちの心の機微に驚くほどに敏感だ。

 ごめんね。ありがとう、もう大丈夫だよ。

 何ども声をかけながら、彼の頭を撫で続けた。

 

 やりきれない感情と、ぶつけようのない口惜しさと、自分の無力さをなんとか消化しようとしていた。

 

 

 

 

 

 数時間たって、晩御飯のために下に降りたとき、藤澤さんからあの後の後藤さんの様子を聞くことができた。

 かき乱すだけ、かき乱して現場を放棄してしまった僕としては、その後フォローをしてくれたであろう藤澤さんに頭が下がる。

 

「あいつも、少し頭が冷えたようだった。もう一度居間に戻って来てな。わしに知り合いの医者を紹介しろと言ってきたよ」

 

「そう、ですか……。良かった……」

 

 あの人の神経を逆なでして終わっただけだったら、どうしようかと思っていた。

 

「あいかわらず、苛立っていたし、どこかにカチコミにでも行きそうな顔だったがね」

 

 その言葉に思わず、噴出してしまう。

 

「確かに、凄い顔でしたからね……」

 

「わしは、あれに引かなかった零くんに驚いたよ」

 

 よく言ってやったと僕の頭を撫でて、君は間違ってはなかったよと言ってくれた。

 そして、僕の背に手を回しておもむろに引き寄せる。

 

「大丈夫さ……、君がこんなに一生懸命想ってるんだ。正宗も奥方も諦めてない。きっと大丈夫さ……」

 

 見透かされた気がした。

 自分の事を重ねてしまったのも、これから失ってしまうかもしれない後藤さんの事を思って、怖くてしかたなかった事も。

 

 なまじ、その後の彼を知っているぶん、思い出して辛かった。

 奥さんを失った後の数年間の荒れようはすさまじかった。将棋が無ければ、たぶんどうにかなっていたのではないだろうか。

 

 変えられない未来なのかもしれない。

 それでも、信じてみたかった。

 もしくは、この数年が変わることで少しでもその時を穏やかに迎えてほしかった。

 哀しみが変わるわけがない事をしっていても、そう思わずにはいられなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 そんなことがあったけど、僕の日常は進み続けるし、棋戦も勿論当たり前にやってくる。

 後藤さんはあの日から、一度も藤澤家には顔を出していなかった。

 僕もなんとなく、気まずいのでその方が助かる。

 

 けれど、なんとも間の悪いことに……棋神戦の決勝リーグで後藤さんと同じ組に割り当てられた上、その対局が今月なのだ。

 

 8月からの予選トーナメントを突破して、本戦入りを決めた棋神戦は、前期七番勝負の敗者および前期の各リーグでの成績上位者のシード枠4名と、今期の予選突破者8名の合計12名が、紅白2つのリーグに6名ずつ振り分けられ、総当たり戦を行う。

 2つのリーグの優勝者が、挑戦者決定戦に進み、その対局の勝者が棋神への挑戦権を得る。

 

 リーグ戦ということは、勝率が一番良ければいい。

 各リーグで全戦は5戦。5勝すれば文句なしの優勝で挑戦者決定戦に進めるけど、強者ぞろいの中でなかなかそれは、難しいので、4勝1敗での優勝もあり得るし、勝率が並んだ場合プレーオフもある。

 実力が拮抗してるので、プレーオフになだれ込むことも珍しくはない。

 

 とりあえず大事な一戦目になる。初回から黒星スタートは苦しすぎるから、なんとか勝ちを掴みたいところだ。

 色々あったけど、全部今はわすれて、目の前の対局だけに集中しよう。

 

 後藤さんとの公式戦初対局になる。

 ひょんなことから弟弟子になってしまったから、非公式な対局数はプロ棋士の中では一番多い。

 もちろん全部が全部、本気で指し合ってるわけじゃないけど、僕たちはお互いに負けず嫌いだから、手を抜いてるわけでもない。

 棋譜は全て置いてある。全部さらった。

 彼の直近の公式戦でA級とあたったものや、本戦や挑決の対決のものなど、目ぼしいものを時間が許す限り研究した。

 久々に寝食を忘れて咎められるくらいには、のめり込んだ。

 

 勝ちたかった。

 

 彼との初の公式戦だとか、リーグ戦初戦だからとかそんなことよりもなによりも、勝者の言葉じゃないと重みが減る。

 

 だから、何としても勝ちたかった。

 

 

 

 

 

 

 


 

 その日は、雨だった。一面厚い雲に覆われて、昼間から薄暗い。

 じっとりとした空気は重く、2月の寒さが余計に身に染みた。

 

 いつも通り、先に対局室に入って下座につく。

 時間ぎりぎりに来た後藤さんは何も言わなかった。

 

 時間になりましたのではじめて下さいの合図で対局は始まる。

 今日は僕が先手だ。

 

 後藤さんは予想通り、「穴熊」への準備をはじめていた。

 何パターンか考えていたけど、5手目に飛車をふったあと、迷うことなく僕も「穴熊」を組む。

 

 重厚が売りの彼の棋風。真正面からぶつかってみせる。

 棋神リーグの持ち時間は4時間、長くはないけれどそこそこの時間が与えられている。

 じっくり指し合うことが可能だ。

 

 後藤さんは角まで取り込んで、がっしりとした「居飛車穴熊」を組んでいた。相変わらずの手堅さだ。

 

 この対局は僕の「振り飛車穴熊」vs後藤さんの「居飛車穴熊」の相穴熊勝負となった。

 

 盤面の右側に両者の穴熊がかっちりと組み合う。後藤さんの穴熊はもう見るからに強硬。

 この牙城を崩せなければ、僕の勝ち目はない。

 

 先手らしく、果敢に攻めていく。

 51手目、5八飛車、飛車を中央に移動させた僕の揺さぶりに、後藤さんは揺らがず、焦らず、淡々と対応をする。

 いくら強硬とはいえただジッと構えている訳ではないのが、彼だ。

 

 62手目、7七飛成。後藤さんが切り込んできた。

 角と飛車の交換になる。

 

 さらに畳み掛けてきて、交換した角を6九に打ち込み、飛車・銀交換へ。

 

 焦ってはいない。僕は飛車を切った。

 大丈夫。局面的には不利にみえるけど、まだ手はある。

 

 じっと、潜んで、息を堪えて。

 長考の後に、71手目、8三角と指した。

 

 後藤さんも警戒しているんだろう。その後、時間を使って応手を考えていた。

 大丈夫、まだ気づかれてない。

 成らした角を、79手目に5五馬へ移動する。

 

 そして、81手目。決めにかかった。2二馬、これ以上ないほど鋭い切り込み。

 

 中盤以降、ほぼ読み通りにさせた。

 これだけ、上手くさせたことは彼との対局でも珍しい。

 

 97手目。僕の5四龍の後、後藤さんは静かに投了した。

 

 

 

 感想戦は、拍子抜けするくらい何時もの感じだった。

 

 8三角が痛かったと、予想していなかった手だけに、意図が読み取れなかったらしい。

 完全に裏をかけたということなので、嬉しくてにやついていたのがバレたのだろう。

 生意気な奴めと毒づかれた。

 

 対局後に送っていくと言われて、素直にうなずいた。

 ここで断ったら、こっちだけ気にしてるみたいで癪だし。

 

 先を歩く彼の背中を追っていると、ぽつりと言葉を掛けられた。

 

「……悪かったな」

 

「え?」

 

「じじぃにあの後、なじられた。子どもに当たるなってな。大人げなかったわ」

 

 溜め息をつく彼は、珍しいくらいにバツが悪そうで、そしてとても疲れているように見えた。

 

「……良いですよ。僕も不躾でしたし、あんなに怒鳴ることもなかった……お互い様です」

 

 僕の返事に、おまえのそういうとこが気に入らんと後藤さんはめちゃくちゃに僕の髪をかき回した。

 

 なんだよ、何がいけなかったんだ?

 

「美砂子とも話した。あいつは、普段おとなしいのになぁ。こういう時は強かったわ、俺よりずっと心決まっていた」

 

 彼女の事を話す、後藤さんの目が、声が、見たことも、聞いたこともないくらい優しくて、僕はグッと口を噛みしめた。

 

「なんつー顔してんだよ」

 

 いつもの彼の憎まれ口なのに、そんな優しい声で言わないでほしい。

 

「……っ、元から、こういう、顔です」

 

 湿った声にならないように、何とか返した言葉。

 抑えたいと思っている僕の意思を汲んで、彼は気づかないふりをしてくれた。

 

「たっく、おまえも大概だけど、じじいも幸田さんもお節介だし、全くたいしたもんだよこの門下は」

 

 棋士に医者の知り合いは多い。

 自分の伝手だけじゃなくて、色々頼ってみることにしたようだ。

 あぁ……良かったなと思った。

 一人で抱え込むには辛すぎるから。

 

 

 

「将棋指すか、零」

 

 

 

 暫く無言で歩いていて、唐突に聞こえたその言葉が、信じられなくてぼくはポカンと口を開けてしまった。

 立ち止まった僕に気づいて、前を歩いていた彼が呆れたように振り返る。

 

「なんだよ、勝ったら名前で呼べってあんなにしつこかったろうが」

 

「いや、確かに名前でって言いましたけど……そっちですか」

 

「そっちも何も、門下の奴らはみんなこう呼んでるだろ。何だ? 俺に呼ばれるのは不満ってか?」

 

「いや、そういうわけじゃ……ないんですけど……。なんか慣れなくて」

 

 僕が戸惑っているのが、分かって彼はますます面白そうにした。

 しまった! これは、嫌がらせを兼ねて嬉々として呼ばれるパターンだ。

 

「俺は、約束を破りたくないので、これからは零って呼ぶわ」

 

 神妙な顔してるけど、口元わらってますからね!

 

「良いですよ! どうせすぐなれますから。指しましょう。今日の感想戦も含めて、めっちゃめっちゃにしますからね」

 

 売り言葉に買い言葉で、返事をした僕は、はっとして止まった。

 

「えっと、でも帰らなくて大丈夫ですか?」

 

「あぁ。今日はお義母さんが来てくれてるし、俺がいない方がいいときもある」

 

 母と娘で話したいこともあるだろうとのことだ。

 

「それにな、指してる間だけは無心でいられる」

 

 小さく呟かれた彼の本心に痛いほど覚えがあった。

 

「それ、ちょっとだけ分かります。将棋を指してる間は、そのことだけを考えていられる」

 

 以前の僕がそうだった。幸田家に居場所を見つけられなかった僕は、将棋を指している時間だけが、全てを忘れられて、それだけで良くて、その時間が救いだった。

 

 後藤さんは、唐突に僕の頭をかき回したけど、それ以上は何も言わなかった。

 

 僕らは、プロ棋士だ。

 指して、指して、指して、盤に縋ってその先に進めるなら、それの何が悪いのだろうか。

 彼がもとめるなら、その時は何があっても相手をしようとそう決めた。

 この先の、苦しい数年間を応援したいと思ったのは僕なのだから。

 

 

 

 

 


 

 2月中旬に合格発表もあり、僕の進学先は無事に私立駒橋中学校に決まった。

 藤澤さんの家からは将棋会館を挟んで真逆になるので、ちょっと遠いが仕方ない。

 

 何故だかしらないけれど、普通科のなかでも進学クラスに配属されるところだったのを慌てて連絡して、辞退させてもらった。

 どう考えても、余計な労力を使うのは目に見えていたから。普通の勉強だけでも手間だ。

 制服だとか、教科書だとか、諸々の準備を自分ですませるつもりだったのに、ある日対局から帰ったら、ぜーんぶ揃っていた。

 藤澤さんに、詰め寄ったけど親の仕事だと言われたら、もう有り難く受け取るしかない。

 後手に回ってしまった……どうも、小学校の制服を勝手に新調したときから、こういう事に対しての僕への信頼は地に落ちているらしい。

 記憶を合わせた年齢でも敵わない藤澤さん相手に、出しぬけるわけないし、もう甘えておくしかないだろう。

 

 あわただしい私生活だったが、対局は宗谷さんに負けた影響もなく順調だった。

 これで調子を崩すのではと、一部で言われていたらしいが大きなお世話である。

 戻った後の僕には、確かに初めての黒星だったが、前の記憶では散々負けているのだ。

 今更立ち直り方や、立て直し方に迷うようなことは少ない。それほど酷い対局だったわけでもないのだから。

 

 順位戦は9戦目まで終わって全勝。

 3月の最終戦を残して、昇級が決まった。4月から僕はC級1組になる。

 それに伴い昇段するので、四段でいるのは3月末日までだ。

 そのせいか、やたらとサインを頼まれて困っている。

 学校でも、クラスメイトや何故かその保護者分、そして校長。イベントに顔を出せば、しばらくは離してもらえない。

 そんなに欲しいものなのだろうか……。四段ってプロでは一番下なのに……。大事なファンサービスなので、ちゃんと対応するけど。

 

 青木君から言わせると、たった一年しかなかった四段期間は貴重だし、小学生プロ棋士の時間も終わるから尚更だと言われた。

 そういえば、その一文を入れてほしいと言われることも多い。

 そういうもんなのか、思った僕に、彼がうんうんと頷いたのが印象的だった。

 

 2月末といえば、MHK杯の予選が一気に行われる時期でもある。

 タイトル戦ではないものの本戦はテレビで放送されるとあって、注目度と知名度が高い棋戦だ。

 

 本戦シード以外の棋士は東西の将棋会館でトーナメント方式の予選を行い、通過した18名が本戦に出場できる。

 予選は持ち時間各20分・切れると一手30秒の早指し戦を1日3局で、一気に予選を終わらせてしまう、タイトな日程である。

 

 本戦には、宗谷さんたちA級棋士はシードで出てくるし、テレビ放映の時間枠内に対局が終わってほしいため、持ち時間は各10分で、それを使い切ると1手30秒未満となる。他に見ない早指しの将棋となる。

 

 ある意味とても面白いのだ。

 僕は持ち時間が長い対局のほうが好みではあるけど、早指しは得意だし、MHK杯の空気は嫌いじゃない。

 あまり、理解されない例の感覚のおかげで、考えるよりも先にスッと手が浮かぶことがあったりして、20代の頃、優勝を宗谷さんと取り合っていたなぁと懐かしく思った。

 

 東京の将棋会館で行われた予選を三戦きっちり勝って突破を決めた。

 これで、視聴率が上がると会長は大喜びだったし、翌日学校で会った青木くんも、来年テレビで桐山くんが観れると、喜んでくれた。

 施設の皆で応援してるからと言われて、これは下手な対局は出来ないなぁと気を引き締める。

 折角彼らが、憧れていてくれてるのだから、カッコ悪いところを見せたくないと思うのは別に悪いことじゃないよね?

 

 来月はいよいよ年度末。

 長かった冬がさり、別れと出会いの季節が訪れようとしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




この話は、書きながら、泣いちゃうというなかなか貴重な経験をさせてもらった回です。
後藤さんと兄弟弟子にしたなら、避けては通れないしな……と。
個人的にはタイトルも珍しく気に入っています。

次は後藤さん視点。
当時は需要あるのか?とかも思いましたが、意外と後藤さん人気で驚いた気がします。
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