小学生に逆行した桐山くん   作:藍猫

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第二十六手 その先を知る子ども

 

 元来俺は、子どもが好きではない。

 此方が何もしてなくても、ビビってるのは一発で分かるし、騒がしいし、落ち着きもない。

 関わると余計に疲れるし、他人を慈しむような繊細なたちでもない。

 だから新たに、末の弟弟子が出来ると聞いてもたいした感慨はなかった。

 

 藤澤師匠には、世話になっているし、あの人がいなくてもプロにはなっただろうが、あの人が師匠だったから俺は、平均よりはやくプロ入りを果たし、その後も順当に棋力を伸ばし、ここ数年はA級というトップクラスで対局が出来ていると思っている。

 

 もう随分と歳を取り引退した師に、穏やかな日常を過ごして欲しいと弟子としては思っていた。

 そんな時、今更新しく弟子をとるなんて、わざわざ面倒なことを……と考えるのも当然だろう。

 しかも内弟子に迎えるという。

 数年前に家族を亡くした施設育ちの子ども……手がかかりそうな気配がした。

 幸田さんの親友の子ということで、うっすらと父親のことは思いだせたが、その人が弟子として東京にいた間と、俺が弟子入りした期間はあまりかぶっておらず、印象は薄かった。

 

 それでも師がそれを望むのであれば、俺に止める権利はないし、幸田さんも自分が持ち込んだ話なら、手を貸すだろうから、俺の出番はないだろうと……そう思っていた。

 

 

 

 そいつの門下への顔合わせが行われた時、俺もしぶしぶ師匠の家へ出向いた。

 最近足が遠のいていたし、たまには顔をださないとまずいだろう。

 

「すいません、少し遅れました」

 

 俺の声に、反応して部屋の中央にいた子どもがパッと顔を上げた。

 

「おぉ! 来たか正宗。今日の対局も勝ったのか」

 

「えぇ、問題なく。それで、幸田さんにせっつかれて、わざわざとることにした弟子はどいつです?」

 

「あぁこの子だよ。おいで、零くん。大丈夫、ちょっと顔は厳ついが別にとってくわれやしないよ」

 

 藤澤さんが促して、俺の前に小さな子どもを連れてきた。

 

「桐山零です。よろしくお願いします」

 

 澄んだ翡翠色の瞳がまっすぐに俺を見ていた。

 子どもと目があったのは、久々な気がした。

 

「ふーん。後藤正宗だ。おまえ、小さいな、歳いくつだ?」

 

 幸田さんから一応話は聞いていたような気もするが、まったく興味がなかったので、覚えていなかった。

 

「10歳になりました。背はこれから伸びるからいいんです」

 

 へぇ……、まともに返事が返ってきたのは意外だった。これくらいの年齢の子どもと会話が成り立ったことは少ない。気が弱そうな見た目の割に、しっかりとした物言いだった。

 周囲が、予想外の反応にざわついているのも分かる。

 

「正宗。零くんはこの歳で、もう三段リーグに到達するくらい有望だよ。あんまり威嚇するんじゃない」

 

「そんなつもりはないですけどね、相手がいつも勝手にビビってるだけで。それにしても、三段リーグですか……このチビがね……」

 

 10歳で三段リーグね。にわかには、信じられない。

 

「あぁ、そうだ! 良かったらちょっと一局指したらどうだい? 零くんもA級棋士と指せるのは、勉強になるだろう。正宗は今、門下の中じゃ一番の棋力を持っとるだろうしな」

 

「はい! 是非お願いしたいです」

 

 また、面倒なことを……と、俺が断ろうとする前に、勢いよくそいつが頷いた。

 こうなってしまっては、いささか断りづらい。場をしらけさせるのも、本意ではないし。

 

「まぁ……俺は別に良いですけどね。で、角落ち? 飛車落ち? それとも2枚落とそうか?」

 

 俺が半分本気で、告げたそのことばに、キュッと子どもの目が吊り上がった。

 

「……平手でお願いします」

 

「へぇ……後悔するなよ。俺は手加減が下手なんだ。先手はゆずってやるよ、おちびさん」

 

 指し出すと一気に雰囲気が変わった。

 こういう奴は、だいたいにおいて強い。

 これは……ひょっとしたら、それなりに楽しめるかもしれないと、そう思った。

 

 そして、そんなふうに考えているうちに、あっという間に持っていかれた。

 本腰を入れようとしたときには、既にあいつのペースで、そこから巻き返させてくれるほど、この子どもの終盤が弱くもなかった。

 

「……なるほどな、負けました。確かに、小5で三段リーグに入るわけだ。

 これじゃあ、奨励会員で相手になる奴はそういねぇな」

 

 本心から出た言葉だった。

 久々に才能の塊に出くわした気がして、俺はふと四段になったばかりの宗谷と初めて対局した時のことを思いだした。

 

「しっかし、可愛げのかけらもねぇ将棋だな、おい」

 

「社会で生きていくのには可愛げもいるでしょうけど……将棋にまで持ち込んだら、上にいけませんので」

 

 ツンとした顔で言い返す姿は、年相応だった。

 その返答が面白かったのだろう。対局を観戦していた奴らがドッと笑って、子どもへ声をかけていた。

 

 最初から本気でやってやりゃよかったのに、と俺にも声を掛けられたが適当に流しておいた。

 

 本気だったさ。

 途中からは、公式戦と変わらない気分でいつの間にか指していた。そうさせたのは、あのチビだ。

 

「零くん、楽しそうに指してたねぇ」

 

「え? そうでしたか?」

 

「あぁ、私が見たなかで一番いきいきとした表情で指しておった。やはり、強い子は強い相手を求めておるんだな。正宗、おまえの時間があえばまた、指してあげなさい」

 

 藤澤さんは穏やかな表情で、子どもの事をみていた。

 あんたそんな顔するようになったのか……。すっかり好々爺だ。

 

「そりゃあ、隠居じじぃと指すよりは、俺と指したほうが楽しいだろうよ。……ま、俺も暇じゃないから、気が向いたらな。お前もさっさとプロになれよ、ちびすけ」

 

「なりますよ! あと、その呼び方止めてください」

 

「おまえがプロになったら考えてやるよ」

 

 俺にとってなんの得にもならない対局であれば、師匠の言葉だろうが絶対に受けはしなかっただろう。でも、このチビとの対局はなかなかに面白かった。

 こいつは絶対にプロになるし、そうなれば公式戦でもあたるわけで、今から指し合っておくのも悪くない。それに、柔軟に見せて意外と強気で大胆なこの棋風に興味もそそられた。

 藤澤さんや幸田さんをはじめとした他の門下の前では、ただの大人しい良い子でいるチビが、俺には食って掛かってくるのも、まぁ面白かったのだ。

 

 それから、俺は足が遠のいていたはずの師匠の家に顔を出すようになった。

 自分から主張をしてくることはないが、師匠と俺が話しているのをそっと伺って、今日は指してくれるのだろうかと、少しそわそわしている姿をみると、らしくもなく絆されてしまった。

 

 俺に対しても委縮せずに自然体。

 桐山零は、そういう不思議な子供だった。

 

 

 

 

 

 気が付けば、あっという間にプロになり、会長の良く分からん企画で、島田や隈倉、そして宗谷とまで対局していた。

 なんとまぁ贅沢な経験だろう。

 プロ入り前にそれだけの人物と対局できるのは、更にあいつの感覚を研ぎ澄ませているようだった。

 

 小学生プロ棋士。

 俺の弟弟子の話題性と実力は相当なもののようで、あいつは全く負けなかった。

 そのことがより一層の注目を集める要因となった。

 

 とはいえ、対局でいくら勝とうが、稼ごうが、あいつはまだ12歳の子どもで、幼く頼りない。

 過保護に拍車がかかっている藤澤さんは、対局後の帰宅をとても心配していた。

 幸田さんは、積極的にあいつの送り迎えをしたし、門下の奴らも気にしているような風潮だった。

 俺もあまり気のりはしなかったが、頼まれれば自分の対局があった日くらいは送ってやった。

 

 口が悪い自覚もあるし、優しくしてやってるつもりもないが、不思議なものであのチビは、周りからすれば俺に懐いているように見えるらしい。

 

 あいつは将棋馬鹿で、どこかずれてるところもあるから、単に強い対局相手を気にいっているだけだろうと俺は思う。

 おそらく、俺があまり子どもから好かれない数々の要因を、気にしてないのではないか。宗谷がそうだったし、なんとなくそんな気がした。

 

 

 

 

 

 順調に対局をこなし、プロとしても落ち着いていた時期に、事件に巻き込まれたのはあいつの油断と周囲の慣れもあったからだろう。

 

 藤澤師匠から連絡があって、地方の仕事の帰りに何故か師匠の家に寄ってしまった。

 

 対局を終えて、幸田さんに連れられてかえってきたあいつは、少しだけ大きくなった気もしたが、それでもちびのままだった。

 額の傷と、右手の包帯が目につく。本人はケロっとしたものだが、これは相当会館でも話題になったことだろう。

 

 ガキなんだから、気を付けろという悪態に、拗ねたように頷いたそいつは、珍しく一局指してほしいと言ってきた。

 大体は、藤澤さんが促すか、俺から水を向けなければ滅多に言ってくることはない。

 視線をずらした先で藤澤さんが頷いていたので、俺は受けてやることにした。

 

 お互い利き手ではない、左手で指し合ったその日の対局はいつもと違う雰囲気だった。

 

 感想戦の途中でうつらうつらとしはじめた、ちびにやっぱり疲れてたんじゃねーかと少し呆れた。

 暫く無言で眺めていると、盤に頭がついてしまいそうなほどだった。

 

 眠いなら、布団にいけと声をかけると、もごもごと対局の礼のようなことを言って、立ち上がり部屋を出ようとしていた。しかし、どうにも、ふらふらと足元が覚束ない。

 結局俺は、襟首を掴んであいつを引き止めて、そのまま抱き上げて運んでやった。

 適当に布団に押し込むと、すぐにどこからともなく猫が2匹やってきて、あいつの布団に潜り込む。

 白猫の方は、すこしだけ隙間から俺の方を伺って、眠りを妨げるなら容赦しないとでも言うような雰囲気だ。

 はいはい。邪魔はしませんよ。と適当に声を掛けて部屋を出る。

 

 あの猫たちはどうにも俺には懐かないが、ちびにはよく懐いていた。白猫の方は、あいつのことを守ってやらなければならない存在のように考えているようで、黒猫は自分と同類のように思っているようだった。

 

 柄にもないことをした気がしたが、師匠は足が悪い。これくらいしてやるのは、兄弟子の仕事の範疇だろう。

 知られると面倒な気がしたので、藤澤さんには、あいつが自分の足で布団に行って寝たと報告しておいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 対局をこなし、妻のいる家に帰る毎日。

 最近は師匠の家に行ったり、あのちびの事を構ったりすることもあったが、そんな変わり映えのしない日々がこれから先も続いていくのだろうと、そう疑いもなく信じていた。

 

 

 

 美砂子から、病院でした検査の結果が癌だったと報告されたのはその頃だ。

 

 

 

 足元が、ガラガラと崩れ落ちたような気がした。

 何故、どうして、冗談だろ、間違いであってほしいと、そんなことばかり頭をよぎった。

 

 現実は非情だった。

 乳癌で、すでにリンパ節への転移があるらしい。若い年代で発症してしまった癌の進行は、はやい。

 検査で見つかった時にはもう疑いようがないレベルだった。

 

 あいつは何度も、何度も謝った。

 俺に謝る必要などないのに。

 

 ただでさえ、結婚後子どもが出来にくい身体であると分かり、結局子宝に恵まれなかったことで、彼女は俺にうしろめたさを感じている。そのうえ今回のことで酷く動揺しているのが分かった。

 

 気に病むな、大丈夫だ、きっと治る。俺は出来ること全てするから、とそう声をかけた後、会館に残してきた仕事があると家を飛び出した。

 

 耐えきれなかった。

 恐怖、絶望、怒り、悲しみ、焦り、混ざり合った感情が膨れあがって、爆発しそうだった。

 彼女の前だけでは、それは避けたいという一心だった。

 

 適当に入ったネットカフェのパソコンで調べまくった。

 治療法、都内の有名な病院、医師、妻の進行度がどれほど不味いのか、治る見込みはあるのか。

 そして生存率はどれくらいなのか。

 結局、最後の単語を入力することが出来なかった。具体的な数字を目にして正気でいられる自信がなかった。

 

 抜け殻のようにふらふらと店を出て、気が付けば藤澤さんの家の前で立ち尽くしていた。

 

 迎え入れてくれた師匠は、俺の顔を見るなり、すぐに居間へと引き入れ、何があった?大丈夫か?と尋ねて来た。

 そんなにひどい顔らしい。

 

 

 

 その時の俺は、自分が何を話したのかほとんど覚えていない。

 理不尽な事態に対する怒りをぶつけ、どうしようもない現実を嘆き、美砂子の気持ちを思うと、心が痛んで仕方なかった。

 

 師匠は、ただただ俺の話を受け止め、聞いてくれていた。

 

 ひとしきり吐き出して、廊下に出た俺は、そこで突っ立っていた桐山の姿を見たとき、冷静ではいられなかった。

 

「……、どけよ。ガキ」

 

 ぞんざいに吐き捨てる。

 視界から消えてほしかった。

 まともに相手が出来る気がしなかったし、そんな状態の自分から離れてほしかった。

 

「落ち着いてください。酷い顔ですよ、そんな状態で運転する気ですか?」

 

「いーからどけっ、俺は今、気が立ってる。おまえの相手は出来ん」

 

 あいつの肩が震えた。気圧されているのは間違いないのに、それでも俺に向かってこようとするのが理解できなかった。

 

「奥さん……倒れたんですか……」

 

「盗み聞きか? いい趣味だな」

 

 あいつの問いかけが一気に俺の神経を逆なでした。

 

「そんなに、悪いんですか?」

 

「おまえには、関係ないだろっ」

 

 踏み込まれたくない領域にずけずけと入ってくる。

 

「病院……まだ、一軒だけでしょ。違う医者にも見てもらった方がいいと思うんですけど」

 

「知ったような口きいてんじゃねぇよ」

 

 もう何でもいいから、そこをどいて通してくれとそれしか頭になかった。これ以上この場にとどまると、なんとかとどめている全てが剥がれ落ちてしまう気がした。

 

「……なんで分かんないかなぁ。最初がどれだけ肝心だと思ってるんですかっ!」

 

 怒鳴る俺にたいして、淡々と答えていたあいつが、声を荒らげて怒鳴った。

 出会ってから、一年と少し経つが、聞いたことが無いほど大きな声だった。

 

 そこからは、お互い怒鳴り合い。

 後から思えば、いい大人が小学生相手になにやってるんだと、自分で呆れた。

 

 病院に行けと言う。

 もっと多くの医者の意見を聞けと。

 情けなかろうが、不安だろうが、妻の傍に居ろと言う。

 自分と美砂子を信じて、足掻けとそうあいつは叫んだ。

 

 目を背けたかった全てを、突きつけてくるあいつの言葉に耳が痛かった。

 

 そして、どんな言葉よりも俺の心に突き刺さったのは……

 

 

 

「俺には……縋れる可能性すらなかったのに……」

 

 

 

 思わず零れ落ちたような小さな言葉だった。

 行くあてを無くした迷子のように頼りないその声が、あいつの本心を映し出していた。

 

 そして、スーッと静かにその瞳から零れ落ちた、しずくを見たとき。

 血の気が下がり、一気に頭が冷えた。

 

「……っ、おい……」

 

 自分でも驚くほどに動揺した声に、あいつは自分の状態に気づいたようだった。

 本意ではなかったのだろう。

 しまったと顔に出ていた。

 あっという間に、引き止めようと伸ばした俺の手を振り払って、自分の部屋へと駆け込んでいった。

 

 振り払われた手が少し痛んだが、それ以上の衝撃があった。

 

 泣いていたのだ。

 あの桐山零が。

 

 大人しく、冷静で、感情の揺れをほとんど見せない、あの子どもが、声を荒らげて怒鳴って、そして涙を流した。

 

 

 

「正宗、いくらなんでも、子どもにあたったら駄目だろう」

 

 茫然と指先を見ていた俺に、藤澤さんがそう声をかけた。

 

「……そうですね、どうかしてました」

 

「少しは頭が冷えたか?」

 

「えぇ……まぁ、……あいつも泣いたりするんですね」

 

 俺の言葉に藤澤さんは肩を落とした。

 

「わしが見たのも一度きりだから、今回の事で2度目だな。あの子は隠すのがとても上手だ。本当はもっと不安定であっても何らおかしくない年頃なのにな」

 

 弟子入りの時、父親である桐山さんの話を藤澤さんがした時以来、一度も涙は見せていなかったという。その後も、何度かせがまれて、桐山さんの話を藤澤さんがしたこともあったそうだが、瞳を揺らしそうになっても、絶対に師匠の前で泣くことはなかったらしい。

 

 そういう子どもなのだ。

 分かっていたつもりだった。

 

「そんなあの子が、お前の事でこれほど心を揺らしたんだ。分かるか? 正宗」

 

「えぇ……それはもう、嫌というほどに」

 

 自分のためには泣けなくても、他人のためには泣くような子どもだ。

 繊細で優しい、甘ちゃん。

 そして、当時のあいつにとって何よりも大切だったであろう全てを奪われ、失った、寂しい子ども。

 

 知っていたつもりだった。

 だが、所詮は他人事だったのだ。零れ落ちたあの一滴をみて、それをようやく痛感した。

 

 あいつの目に俺はどれほど、贅沢にみえただろうか。

 失うかもしれない掛け替えのない唯一を前に、絶望していた自分が情けなかった。

 まだ、美砂子は俺の隣に居てくれるのに、それすら見えなくなるところだった。

 

 縋れる可能性すらなかった。というあの小さな叫びが、頭の中でこだましていた。

 

 失うかもしれないと思うだけで、これほど痛く、恐ろしく、身動きが取れなくなる。

 

 既にその先で、ポツンと取り残されたあいつの気持ちが、推し量れるわけがない。

 この痛みは、体験してみなければ、理解できるわけがない。その喪失感も絶望も本当の意味で分かるなんて不可能だ。

 心に深く爪痕を残していくこの傷は、自分で乗り越えていくしかない。

 

 使えるものは何だって使って、足掻いてみようと思った。

 そうしなければならない。俺と美砂子にはその時間がある。

 

「藤澤さん、厚かましいですが、知り合いの医者紹介してください。俺より伝手も多いでしょう」

 

 ぼそっと尋ねた俺に、師匠は優し気に目を細めた。

 

「もちろんだとも、いくらでも協力する。話も聞く。いつでも、此処に来なさい。お前の行く道は険しいものになるだろうからな」

 

 有り難い言葉だった。やはりこの人にはかなわない。

 

「それから……、あいつのフォローお願いします」

 

 抉らなくてよい傷を抉ってしまったのは俺だが、今はまともにあいつと話せる気がしなかった。

 

「あの子はね。次にここに降りて来た時には、何でもないような顔して普通に過ごそうとする。それが出来てしまう子なんだ」

 

 藤澤さんは俺の言葉に、困ったように肩を落としてそう告げた。

 

「悪いとおもったのなら、正宗。また将棋を指してあげなさい。それが一番喜ぶことだ」

 

 美砂子と話して、落ち着いたらまたその機会も来るだろうとおもった。

 改まった話なんて、今更できないが、将棋を指せばそれが代わりになるような気がした。

 

 

 


 

 

 その後せわしなく、動き回っているうちに、公式戦で先にその機会がきてしまった。

 いつもより少しギリギリの時間に対局室へ足を踏み入れたとき、自分の前の席に既に座って待つ、あいつの姿があった。

 

 公式戦初対局。

 情けない内容にはしたくなかった。

 

 俺の戦法は得意の「穴熊」。

 重厚が売りだとか言われている俺の棋風に、あいつは真っ向からぶつかってきた。

 俺の「居飛車穴熊」にたいして、あいつは「振り飛車穴熊」を選択した。素直に面白いなと思った。

 

 

 

 その時の俺の頭の中には、こいつとの将棋の内容しかなかった。

 美砂子のこと、今後のこと、ここ最近の俺の全てだったことを、全く考えもしなかった。

 

 しっかりと固めた俺の布陣にあいつは果敢に攻めてくる。

 決して捨て身なわけではない。自分の玉の守りは維持したまま、絶妙なタイミングで踏み込んでくる。

 こういうところが生意気なのだ。

 

 あいつが長考の末に指した8三角の一手が対局の行方を決めた。

 勝負手なのは理解できたが、その後の俺の応手は見劣りするものだっただろう。

 

 この対局に相当な気合いを入れ、準備をしてきていたのが分かった。

 俺とはかけた気持ちの大きさと、時間が違ったのだろう。対局がはじまる前から、俺は出遅れていたわけだ。

 

 送っていくと声をかけた俺の後ろを、軽い小さな足音がずっとついてくる。

 

「……悪かったな」

 

 何の含みもなさそうなその様子に、毒気を抜かれて自然とそう呟いていた。

 

「え?」

 

「じじぃにあの後、なじられた。子どもに当たるなってな。大人げなかったわ」

 

 あの俺の精神状態で、まともに相手ができたとは思えないが、それでも泣かしたことには罪悪感があった。

 

「……良いですよ。僕も不躾でしたし、あんなに怒鳴ることもなかった……お互い様です」

 

 こういうところが、子どもらしくない。

 他人の事情に心をくだいたせいで、自分も傷つけられただろうに、こうもあっさりと引けるのだ。

 

「美砂子とも話した。あいつは、普段おとなしいのになぁ。こういう時は強い。俺よりずっと心が決まっていた」

 

 家に帰った俺が、もう何軒か病院をまわろうと告げたとき、美砂子は静かにうなずいた。

 俺がいない間にネットでも随分と情報を調べたらしい。

 最近は闘病記を乗せているブログも多い。そんなものを一人で見ていたあいつの心境を思うとたまらなくなった。

 目をそらすことなく真っ直ぐに、自分の今後を見据えているあいつが眩しくて、どうしようもなく愛おしかった。

 

 

 

 俺の言葉を聞いていたそいつが黙り込んだから、ふとその顔を見るとなんとまぁ情けない顔をしていた。

 

「なんつー顔してんだよ」

 

 もうひと押し、何かがあれば泣くんじゃないかというような表情だった。

 

「……っ、元から、こういう、顔です」

 

 グッと唇をかみしめて、必死で堪えようとしているのが分かった。

 自分のためには泣かないくせに、こいつはホントにお人よしだ。

 

「たっく、おまえも大概だけど、じじいも幸田さんもお節介だし、全くたいしたもんだよこの門下は」

 

 師匠から話を聞いたであろう幸田さんも、俺の様子を伺いながら、力になりたいと言ってきてくれた。桐山を泣かせたことまで、耳に入っていてそれには少しお小言を貰ったが。

 

 

 

「将棋指すか、零」

 

 

 

 ふと問いかけた俺の言葉に、キョトンとしたあいつの顔は傑作だった。

 

「なんだよ、勝ったら名前で呼べってあんなにしつこかったろうが」

 

「いや、確かに名前でって言いましたけど……そっちですか」

 

「そっちも何も、門下の奴らはみんなこう呼んでるだろ。何だ? 俺に呼ばれるのは不満ってか?」

 

 どいつもこいつも、零、零と煩いから、すっかり苗字よりも名前の印象が強かった。

 

「いや、そういうわけじゃ……ないんですけど……。なんか慣れなくて」

 

 照れている。

 これまでも、散々いろんなことで揶揄してきたが、全く動じていなかったこいつが、目に見えて動揺していた。

 

「俺は、約束を破りたくないので、これからは零って呼ぶわ」

 

 これはしばらく面白そうだ。無駄に名前を呼んでやろう。

 

「良いですよ! どうせすぐなれますから。指しましょう。今日の感想戦も含めて、めっちゃめっちゃにしますからね」

 

 以前の日常のように、俺に噛みついてきた零は、すぐにハッとしたようにこちらを伺ってくる。

 

「でも帰らなくて大丈夫ですか?」

 

 こういう、気をまわしすぎるところがなぁ……。

 

「あぁ。今日はお義母さんが来てくれてるし、俺がいない方がいいときもある」

 

 美砂子も俺の前では、気をはっていたいという意地もあるだろうし、母親の前でなら素直に泣けるのではないだろうか。

 

「それにな、指してる間だけは無心でいられる」

 

 今日は彼女の傍には俺の代わりに居てくれる人がいる。

 それなら、その時間を悶々と答えのない問題について、頭を悩ましているよりも、さっきのような対局をしていたかった。

 

「それ、ちょっとだけ分かります。将棋を指してる間は、そのことだけを考えていられる」

 

 少しだけ、寂しそうな様子でそう答えた零の頭をかき回した。

 

 そうか、お前もそうやって、前に進んできたのか。

 家族を失い、単身東京の施設に預けられた期間をおもうと、流石に少しだけ胸にくるものがあった。

 

 盤に縋って必死で生きて、努力して、いま俺たちと同じプロになっている。どれほどの想いを将棋にかけてきたのだろうか。

 

 そして、おそらく俺もそうしていく他ないのだろう。

 俺たちは、プロ棋士はそういう生き方しか出来ない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




この話を書くときに、映画後編の後藤さん病室のシーンとか改めて見直したんですけど……号泣して堪らなかったです。伊藤英明さんの演技が素晴らしすぎる。
映画に編集というか内容に関しては、いろいろとえ?って思う所もあるのですが、俳優さんたちの演技はどの方も最高に素晴らしいです。

そういえば、後藤さんと香子さんの関係性ですが、原作のようになる予定は無いので。
まず香子さん側が桐山くんの事であれてるわけでも無いですし、家を頻繁に空けたりもしません。他に夢中になる事も出来ましたしね。
後藤さんも幸田さんの家に行く暇があるなら、今は師匠の家の方に興味が移ってます。
奥さんの事で色々あったとしても、将棋を指す事の方でそれを発散しようとします。相手はその辺にいるA級だったり師匠だったり桐山くんだったり。内容が酷い対局になることもあるけど、別にいいんです。気持ちの整理をつけるための物ですから。
それを分かって、相手をしてくれる人が周りに沢山いることを彼は知りました。

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