小学生に逆行した桐山くん   作:藍猫

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第二十七手 川が見える部屋

 3月上旬。

 小学3年生の頃に転校し、通い続けた学び舎を旅立つ。

 

 前回とは違う小学校だったし、何より青木くんという友人がいた日々は楽しい学校生活だったと言える。

 6年生の時の修学旅行は対局が重なっていたため不参加だったが、5年生の時の林間学校は大変だったけれど良い思い出だ。

 枕投げに誘われるなんて、前回から考えたらありえない。先生の見回りがきた! と言われて、サッと布団にもぐって寝たふりをした時、目が合った青木くんとお互い笑いをこらえたことは、たぶんずっと忘れないだろう。

 

 対局が過密スケジュールになって、休みがちになった秋ごろからは、随分青木くんに助けられた。どういう宿題がでたとか、明日の授業はこれがいるよとか、僕の対局スケジュールもよく把握してくれていて、その日あったことから、次の時のことまで、様々な情報をくれた。

 

 将棋に詳しい彼が分かりやすく僕の仕事のことを、周りに話してくれていたようで、クラスメイト皆が、なんとなく応援ムードだったのも過ごしやすかった理由の一つだ。

 テレビの撮影が入ったこともあったし、番組の特集がいつの間にか組まれていたりと、目に入りやすい形で、メディアで伝えられていたことも大きかったかもしれない。

 

 

 

 卒業式が終わって、教室で担任から一人ひとり改めて卒業証書を貰う時、みんなどんなことでもいいから夢について語るように言われた。

 一番手は青木くん。

 こういう事は苦手な子だけど、大丈夫だろうか……。

 

 少し戸惑ったようなそぶりを見せた彼は、僕と目を会うと、しゃんと背筋を伸ばして、大きくはないけれど教室の隅までとどく声で宣言した。

 

 小説家になりますと。

 

 なりたい。じゃなく、ハッキリとなりますと宣言したことにとても驚いた。

 教室隅で、小さくなって本を読んでいた男の子は、もういなかった。

 ……そうか、君も、君の道を見つけたんだね。

 

 それからあと、皆の夢は様々だった。

 プロ野球選手、歌手、パティシエ……小学生らしい夢から、公務員なんて手堅く言う子もいて、今時だなぁと思った。

 

 僕の出席番号もそれなりはやいから、順番はあっと言う間に来た。

 

 夢か……。

 職にはついてしまっているしなぁ、と思いながら前にでて、卒業証書を受け取る。

 振り返って教室の後ろに並ぶ保護者たちの中に、藤澤さんを見つけた。

 わざわざ、来てくれている。良い所を見せたいな、とちょっと思った。

 

 棋士にはなってしまっているから……だったら今後の展望だろう。

 

「僕は……名人になります。いつか必ず、そのタイトルを取ります」

 

 他にもタイトルはいっぱいあるけど、やっぱり名人位は特別だ。

 僕の宣言に教室は盛り上がった。

 青木くんは、嬉しそうに拍手してくれたし、藤澤さんは優し気に目を細めた。師匠が元気なうちに、挑戦権をとりたいなぁと思った。前夜祭でスピーチしてくれたらなって思うのは、少し贅沢かな?

 それが実現できるように頑張ろうと思った。

 

 帰りは久々に青木くんと帰った。師匠には事前に断りを入れている。晩御飯はご馳走だから帰っておいでねと、とだけ言われた。

 

 もうこの道を通ることはないんだろうなぁと二人して少し、しんみりしながら施設へと向かう。

 園長先生や、馴染みの職員の方々にもちゃんと卒業の報告をしたかったのだ。2年ほどとはいえ、此処は僕を受け入れてくれた大切な場所だったから。

 

 今日を境に、青木くんと会える機会は少なくなるけど、連絡は頻繁に取り合おうと約束した。

 青木くんは、桐山くんの対局の中継をみるから寂しくないよ、と笑っていた。

 以前、この玄関で別れたときに泣いていた彼の様子とつい比べてしまって、大きくなったなぁと感慨深い。子どもの成長ってすごいと思う。

 

 

 

 

 

 一応、小学校最後の春休みに入ったけれど、僕は相変わらず対局に勤しむ毎日だ。

 

 将棋界では年度末に毎年度功績を残した棋士に日本将棋連盟から与えられる賞である将棋大賞を決める選考会が行われる。

 最優秀棋士賞、優秀棋士賞、敢闘賞の3つの賞は有名だし、重複の受賞が認められていない。

 

 このほかにも、新人賞、東京将棋記者会賞、升田幸三賞、名局賞……などのいくつかの賞がある。

 これらは、棋士の成績や活躍を総合的に判断して3月31日頃の選考会で決められて、受賞式は4月上旬になる。

 

 そして、記録部門の4つの賞である、最多対局賞、最多勝利賞、勝率一位賞、連勝賞は成績の数字で決定される。

 

 タイトル戦の本戦に常連になる棋士ほど、予選が免除され対局数はすくなくなるし、予選から勝ち上がらなければいけない若手は、本戦進出を決めきれなかったりして対局数が抑えられるのが通常である。

 薄々気が付いてはいたが、一次予選から勝ちぬいて本戦入りを果たし、いまだに負けていない僕の対局数は異常なほど多くなっていた。

 

 その上、対局数は多いけれど、上半期は若手との対局ばかりで、本戦入りをしだした冬からようやく、危ない対局が増えだしたので、勝率も下がらなかった。

 

 結果、最多対局賞、最多勝利賞、勝率一位賞、連勝賞の受賞が確定してしまったらしい。まだ数局残っているが、全て負けたとしても揺らがないそうだ。

 

 前回の記憶から考えてもあり得ない記録だ。

 このことを会長に聞かされて、4月の授賞式は、おまえが出ないと始まらないから絶対出ろと念押しされたとき、僕は初めてちょっとやりすぎたなと実感した。……だからといって、わざと負けるなんてあり得ないのだけれど。

 

 

 

 

 

 春休みのうちに私立駒橋中学校へも行く機会があった。

 簡易的な健康診断や、新学期に向けての説明会が行われると聞いたからだ。

 その時また軽くテストも行われた。

 クラス分けとか、今後の教育カリキュラムへの参考にするらしい。こういう勉強熱心なところは、私立っぽいなぁと思う。

 

 僕は4月からの大まかな対局スケジュールについて話しておきたかったのと、対局で休む時の申請の仕方などを聞きたくて、帰宅前に職員室を訪れた。

 

 すぐにあの面接の時の教頭先生が気づいてくれて、対応をしてくれた。

 ついでに、担任も少しフライングになるけど、紹介しておこうと、引き合わせてくれた。

 欠席のことなんかは、その人と詳しく話しておくといいとのことだ。

 

 

 

 引き合わされたその人にあまりに覚えがありすぎて、僕は驚愕してしまった。

 

「林田先生……どうして……」

 

「あれ? 何で俺の名前知ってんの?」

 

「えっ!? えぇぇと……。あ! 学校を見学に来た時にお見かけして……でも、その……高等部側の教員じゃなかったんですか?」

 

 駒橋高校一年で担任をしてくれた、林田高志先生に間違いなかった。

 驚いてうっかり名前を呼んでしまったから、慌てて適当に取り繕う。

 

「この春に担任をしてた高3を卒業させてなぁ……中学の方で急遽、産休の欠員がでたから、その補充で一時的に移動したんだ」

 

 高校教師は中学の教員免許も持っている人は多いし、私立ならではの事だろう。

 でもまさか、また担任になってもらえるとは思ってもみなかった。

 

「俺の将棋好きは有名だったし、桐山くんが入学してくるのは面接で分かってたからなぁ。教頭の采配だろう。棋界のことを良く知ってる奴が持った方が、君も相談しやすいだろうってな」

 

「そうだったんですね……、有り難いです。一年目よりは忙しくなることは確定していますから」

 

 教頭先生……協力するから是非うちにおいでと言ってくれたが、本当にここまでしてくれるとは……。

 

「ここは校長も将棋が好きなんだよ。高校の教員にも将棋好きが多くてなぁ。たぶん落ち着いたらめちゃくちゃ声かけられると思うよ」

 

 林田先生は苦笑しながらそう言った。前の時のようにアウトレイジの将棋教室みたいなことにならないと良いけど……。

 

「あ、そうだ。俺、朝日杯の対宗谷戦な、会場のホテルにいって見てたんだよ、凄かったなぁ」

 

「え!? そうなんですか……そんなわざわざ……」

 

「都内に住んでるのに行かないなんて将棋ファンならあり得ない! あそこで名人相手に、一歩も引かずに指し合っていた子が教え子になるなんてな……感慨深いよ。本戦入りしてるタイトル戦もあるもんな。聖竜戦なんて新学期そうそう大事な時期だろう」

 

 流石によく分かってくれている。そして僕の対局状況もすっかり把握されているようだ。

 これは想像以上に、楽かもしれないと思った。

 林田先生には高校の時、本当にお世話になったから。

 

「桐山くんは成績も問題なさそうだし、休む事はあんまり気にしなくていいよ。テストと対局が被りそうだったら……というか間違いなく何処かは被るだろうから、その時はまた考えよう。担当の教科の教員にはちゃんと話をつけるから」

 

「本当に助かります。勉強するのは嫌いじゃないんですけど、やっぱり対局が僕にとっては優先なので……進学クラスの件も辞退させてもらいましたし」

 

「あぁ……あれな、君の入試の成績があまりによすぎてなぁ……事情を知らなかった教員が進学クラスに入れたいって言い出してな」

 

 なるほど、それで合格通知がそうなってたのか……。

 

「ま、無理強いはできないから、君が辞退した時にすっぱりその話は流れたから心配するな」

 

 良かった、高校の進学すら今からどうするか微妙なところだし。そんなクラスに配属されたら正直困る。

 

 そのあと、今後の真面目な話と、雑談も半分交えながら林田先生とはしばらく話をした。

 流石にもう帰る時間になって、4月から宜しくお願いしますと、立ち去ろうとしたときに、少し迷ったような彼からサインが欲しいと言われて笑ってしまったけど。

 四段でいられるのは、ちょうどこの3月まで。是非欲しかったんだと、満足そうに色紙を眺められるとこちらとしても、少し照れくさいけど嬉しかった。

 

 

 

 

 

 

                                     

 

 懐かしい人に出会って、新生活へのスタートも順調に迎えられそうだった矢先……僕にまた大きな転機が訪れる。

 

 

 

「え……? 救急車で運ばれたんですか!? どうして……」

 

 対局が終わって、送ってくれるという幸田さんに落ち着いて聞いてほしいと前置きされ伝えられたのは、藤澤さんが救急車で運ばれて入院することになったという事だった。

 

「階段から落ちたらしくてね……もともと悪かった膝を完全に壊してしまったらしい……。大丈夫、命に別状はないよ。意識もはっきりしていて、電話で私にちゃんと零くんを迎えにいけと言ってくるくらいには元気だったよ」

 

 落ち着いて、と僕の肩に手をのせて引き寄せると、そのまま背中を優しく叩いてくれた。

 驚いた衝撃で、詰めていた息をはっと吐き出す。

 

 外から帰ったら家族が……と、いうのは僕の中ではあまり良い記憶では無い。

 一瞬で悪い方に考えてしまっていた。

 

 幸田さんは伝え方が悪かった。驚かせてしまったなぁとすっかり血の気が引いた僕を落ち着かせてくれた。

 そして、零くんが大丈夫ならこのまま病院にお見舞いに行こうと。

 僕は何度も頷いた。

 何よりも、自分の目で確認したかった。

 

 

 

 病室について、ベッドの上で上体を起こしてこちらに手を挙げた藤澤さんに駈け寄った。

 震えていた僕の手を握って、驚かせてすまんな、といつもの柔らかい声で言われて、やっと安心できた。

 安堵で力が抜けてしまって、その場でへたり込んでしまったのは、情けなかったけど……。

 後ろでみていた幸田さんが慌てて、椅子を探して持ってきてくれた。

 

 藤澤さんは今までも膝を痛めていて、手術しようか微妙なところだったらしい。

 それを、本人の希望から薬でだましだまし、なんとかやっていたそうだ。

 今回足を踏み外したときの衝撃で、左の膝関節は骨折。どうせ手術をするならと、人工関節をいれる方向で、話を進めていると言われた。

 そうなると、術後の回復を待ってのリハビリ、再び歩けるようになって退院するまでを考えると、半年近くは覚悟しなければならない。

 また右足の方も膝は今回折れなかったものの、悪いことには変わりないのでどうするかという問題も浮上してくる。

 

 長い入院生活になることが予想された。奥さんの和子さんは運転が出来ず、車もお持ちでないので、近くに住んでいる娘さん夫婦の力を借りることが多くなるだろう。

 おまけに娘さんは、第2子の妊娠中、和子さんの力を借りるべく、いっそのことしばらくあちらの家で一緒に住まないかと話している場面にも出くわした。

 和子さんは僕の名前をだして、零くんが一緒にいけないなら無理だと伝えていた。

 娘さんは少し悩んでいるようだった。上の子はまだ4歳らしいし、旦那さんの意見もあるだろうからすぐに返答出来ないのは当然だろう。

 

 

 

 娘さんご夫婦の家に御厄介になる選択肢は、僕の中では存在しなかった。

 デリケートな時期の娘さんの負担にはなりたくなかったし、彼女たちに僕は扱いにくい存在であることは間違いない。

 そして、和子さんは娘さんの家に行った方がいいような気がした。

 実際娘さんの妊娠がわかって、本格的につわりなどが始まるころは少し家を空けることが多くなるかもと前もって言われていたのだ。その時は、藤澤さんとお留守番をしていますよ、と話した覚えがある。まさかこんなことになるとは思わなかったけれど。

 和子さんが躊躇しているのは、僕が一人になるからだ。だったらその要因を丸ごと無くせばいい。

 

 動くときが来たかなと思った。

 このまま、藤澤さんの家で、師匠と奥さんと猫たちと過ごせるなら、一般的に一人暮らしが許されるであろう年齢まで、そうするつもりだった。

 でも状況は変わってしまった。だったら、自分の周りの環境は自分で整えないと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                    

 

 師匠と奥さんに今後の事で相談したいことがあると切り出した。たまたま来ていた幸田さんと、後藤さんも同席していたけれど、もし僕の要望が通れば二人にはすこし手伝ってもらうことになると思うので、丁度いいと思った。

 

「一人暮らしをしたいです。学校と会館から近いマンションで。もう目星はついていて……あとは、保証人がいれば契約できます」

 

 その場の空気が固まった。

 

「何っているんだい。零くん、君はこんどやっと13歳になるんだよ。一人暮らしなんて……」

 

 真っ先に止めたのは幸田さんだった。うん、それが普通の反応だとは思う。でも僕は引きたくなかった。

 

「学校の附属寮に入ることも考えました。……けれど、一人部屋ではないみたいですし、流石に対局前は一人になりたいですから」

 

「私と一緒に娘のところに行くのは……やっぱり嫌?」

 

 和子さんの寂しそうな声が、響く。これは結構こたえた。

 

「娘さんはこれから大事な時期でしょう……一番流産もしやすい時期になります。僕のような部外者が行くことは負担にしかなりません」

 

 それに……棋士の娘の家とはいえ、今は将棋と全く無縁のその家庭で、まともに研究やら対局の備えができる気はしなかった。それなら以前の幸田家にお世話になっていた時のほうがまだましだろう……。

 

「それなら、これまで通り和子と零くんで、家に居たらいいだろう。和子は頻繁にあいつのところに行けばいい、零くんはしっかりしてるからその間くらいは問題がないだろうし」

 

 確かにそれなら僕も賛成だ。

 家の手伝いなら僕にも出来るしなんなら数日家を空けられても留守番くらいできる。藤澤さんが退院できるまで、あの家でいられたらとも一応考えた。

 けれど……

 

「それは、和子さんのご負担が大きいでしょう。長期になるわけですから、藤澤さんの病院に通ってくるのに、娘さんの協力はあったほうがいいのでは?」

 

 病院と娘さんのお家と自宅と……ずっと行き来するのは負担だろう。藤澤家はあまり交通の便が良い場所ではない。ご高齢の和子さんが一人で頻繁に移動するのは骨が折れると思う。だからこそ、娘さんが手伝いたいと申し出ているわけだし。

 

「それに、2回目とはいえ、娘さんもやはりお母さんの和子さんがお側にいた方が心強いのではないかと思います。上のお子さんもまだ小さい。お一人で面倒をみるのは妊婦さんには大変でしょう。ならいっそ、一緒に居るべきだと思います」

 

 そもそも、そうして欲しいと思わなければ、娘さんは和子さんに家に来たらいいとは言わないはずだ。近くに頼りになる母親がいて、その手を借りたいと思うのは当然だと思う。

 記憶の中でひなたが妊娠した時の事が思い出された。あかりさんは随分助けにきてくれたし、もう家族ぐるみみんなで彼女を支えた。命を育み、産むということはそれだけ尊く、大変なことだ。

 

「それなら、うちに来たらいい、もう香子も大きいし、歩もわかってくれるだろう」

 

 幸田さんがそう提案してくれたけれど、それはやはり遠慮したい。子どもたちの事も気になるけど、それよりも僕はもうプロ棋士だから。

 

「本戦へ出場が決まった棋戦も多くなりました。幸田さんと当たる日もあると思います。そんな日はやはり気まずいですし……」

 

 プロ棋士同士が同じ家に住んでる事例なんてめったにないだろう。師弟なら無くはないだろうけれど、普通は避ける。

 幸田さんはそんな日があったら、自分がホテルか何かとるからと言ってくれたけど、家主を追い出すのはいかがなものか……。

 

「あーもう、まどろっこしい。もう建前は色々並べただろ。お前のホントのところちゃんと言えよ、零」

 

 痺れを切らした後藤さんがそう言ってこっちをみた。

 建前……ちゃんとした理由だったと思うんだけど……。

 でも、そうだな賢そうな理由をいくら並べるよりも、もっと感情にうったえる理由も必要だろうか……。

 

 

 

「僕の……僕だけの城が欲しいんです。生意気だけど、これでも棋士だから」

 

 

 

「いーんじゃねぇの。認めてやっても」

 

「正宗!」

 

 幸田さんが咎めるように後藤さんの名前を呼んだけれど、彼は少し手を挙げてそれを制して続けた。

 

「何もすっぱり家を出て、完全に独り立ちしろってわけじゃない、週の何日かは藤澤さんの家や、娘さんの家にでも飯を食いに顔を出すことにしたらどうだ?」

 

 数時間でも顔をみたら、安心するだろうし、それくらいなら負担になるなんてこいつも言わないだろ、と後藤さんが続けた。

 

「こいつが子どもなのには変わりないが、いっぱしに稼いでるのは確かだ。棋士として戦っていくのに、どうするのが一番過ごしやすいか、考えた結果でしょう。尊重してやってもいいと俺は思いますよ」

 

 やってみてあまりにも自活が出来ていなかったら、幸田さんの家に連れて行ったらいいんじゃないかと、執り成してくれた。彼からの援護射撃があったのは本当に意外だったが、とても有り難い。

 

「そうだな……何より、零くんの意思を一番に尊重してあげるべきか……。柾近、正宗。すまんがわしの代わりに、物件探しや引っ越しを手伝ってあげてほしい」

 

 しばらく静観していた藤澤さんがそう言ってくれた。

 あぁ……良かった。

 高校生ならともかく中学生では流石に厳しいかとも思っていたから。

 藤澤家の居心地は決して悪いものではなかったけれど、僕のなかにはあの川沿いのマンションの部屋に帰りたいという気持ちも少なからずあったのだ。

 

 幸田さんはまだしぶしぶと言った感じで、隙あらば自宅に僕を迎え入れようという雰囲気だ。これはちゃんと家事もしないと不味いな……と気を引き締めた。

 

 動きが取りづらい藤澤さんのかわりに、保証人は幸田さんがなってくれた。何かあったら真っ先に連絡が行くと言う事なので、万が一でもそんなことが起こらないようにしないと……。

 

 いくつかの約束事もした。

 毎日どんなに短くてもいい、朝起きたときの挨拶や家に帰ったという報告でもいいから、連絡をすること。

 毎週何日かは、誰かと食事をすること。

 和子さんのところに食べに行ってもいいし、門下の誰かと食べてもいい。

 僕の部屋には幸田さんを中心に門下の人が時々、抜き打ちで様子を見にいくとのことだった。

 

 

 

 

 

 物件は六月町の川沿いにあるあのマンション。

 幸運なことに、まったく同じ階の同じ部屋が空いていたのは少し、嬉しかった。

 

 幸田さんは引っ越しにも随分と手を貸してくれた。

 必要最低限の家電や家具だけの予定だったが、ベッドをはじめ勉強用のちゃんと座れる椅子と丁度いい高さの机、棋譜や本を整理するための棚、たんす、それから以前一番困ったカーテン!

 やっぱり必要なものは、一度引っ越しを経験したり、一人暮らしをしたことがある方が、ちゃんと分かると思う。

 大きい窓だから、あけると気持ち良いだろうと、遮光カーテンだけでなくて内側のレース状のものまで買ってくれた。

 

 そう……買ってくれたのだ……進学祝いだとかなんとか言って、お金は出させてくれなかった。

 門下全員からだと思ってくれたらいいと言われたから、出資者は一人ではないみたいだけど……。

 

 それから、シロとクロだけど……藤澤家が無人になる期間が長くなってしまうので、試しに僕のマンションに連れて来た。

 猫は人より家につくといわれるくらい、住む場所と自身の縄張りを大事にする生き物だから、あまりに落ち着かなければ、藤澤家にかえして、エサやりや世話は僕か和子さんが様子を見にいって、行えば良いだろうという話になっていた。

 

 クロは落ち着かないようで、ケージの中でじっとしているけれど、シロは部屋中を歩き回って、色々と確認をしているみたいだった。

 君たちと一緒だと心強いよ、狭いけど許してくれるかな、と声を掛けた僕に、二匹がにゃーんとタイミングよく鳴いたのには笑ってしまった。

 この2匹とも仲良くやれそうだ。

 

 色々とバタバタしてしまった年度末だったけれど、4月の年度始まりまでになんとか落ち着けた。

 

 僕の対局状況は、獅子王戦のランキング戦6組はベスト8まで勝ち上がって、本戦出場の権利がある1位までは後3勝。

 棋神戦は決勝リーグの真っ最中。

 棋竜戦は2次予選の突破を決めて、本戦入りを果たした。

 棋匠戦と玉将戦も順調に予選を勝ち上がっている。

 順位戦以外で、最初に予選が始まった聖竜戦は決勝トーナメントでベスト4まできていた。あと2勝してトーナメントの勝者となれば、宗谷聖竜への挑戦権を獲得することができる。

 新人戦トーナメントも順調に勝ち進んでおり、貴重な記念対局の権利のためにも頑張りたい。

 

 そして、僕が一番落としたくなかった順位戦はC級2組を10戦全勝で昇級を決めた。

 4月から僕は五段となり、C級1組で戦うことになる。

 

 

 

 

 一通りの片づけが終わって、窓を開けてベランダに出たとき、懐かしくて少しだけ、ほんの少しだけ泣きそうな気持ちになった。

 

 この場所から見える水面と、音と、景色を見て生活をして、戦い続けた。

 この部屋は僕にとっての原点だ。

 

 以前の僕が東京に来てようやくたどり着いた、少しだけ息のしやすい場所。

 

 川本家というもっともっと暖かい場所を知った後も、やっぱり自分だけのこの部屋は特別だった。

 

 

 

 川辺のこの部屋と、新しい学校と……再出発をするつもりで頑張ろうと決意を新たにした。

 

 

 

 




桐山くん、家を出る。
オリキャラを師匠にした理由の一つに、早めに一人暮らしをさせてあげたいという気持ちもありました。
もし既存キャラが師匠だったら、なかなか理由づけが難しそうだと思いまして。

六月町のあの家は彼にとっての原点だと思います。
川本家とは別、大切な場所では無いでしょうか。

次はシロの視点です。
そうです。まさかの猫の視点です。

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