将棋指しの妻って大変でしょう、そう声をかけてくる人もいる。
時と場合によるけれど、大体は余計なお世話よって言い返したい事がほとんどね。
私はあの人が、プロの将棋指しだったから結婚したわけじゃない。
あの人を、その生き様込みで、丸ごと全部愛しているから、一緒になったの。
思えば知り合ったきっかけだって、師匠の藤澤さんの紹介だった。
不器用な人、そう思った第一印象は変わることは無く、けれど知れば知るほどその不器用さすら愛おしかった。
なんとなく、会ったときから一緒になる気がしていたなんて言ったら笑うかしら。
でも、それくらい波長というか、気が合ったの。
一つ残念なことがあるとするなら、子どもが望めなかったこと。
これは私もあの人も悪いわけじゃなかった。
授かりものって本当にそうね。
一度流れてしまってから、その後、私の身体に命が宿ることは無かった。
私は子どもが好きだったから、それはもう落ち込んだのだけど、お前が居ればそれでいいって貴方が言うから、だから諦めもついたのよ。
悲しみも乗り越えて、二人きりのこの先の生活も見通せて、あの人は将棋に、私は仕事に生きながら、そんな風に暮らしていけたら漠然とそう思っていた。
宗谷名人が台頭してきてから、良く悪くも揺れた将棋界。
勝てなくなった夫に、心無い言葉をかける人もいて、私は、あなた達に何が分かるのよって、夫に代わって言い返してやりたかった。
でも、あの人はそんなことは望んで無いって知っていたから。
語るなら、盤の上で。一貫してそう言う人だった。
一度降級したこともあったけれど、再びA級にあがり、タイトル戦に顔を出すようになったあの人は少し忙しそうだけれど、やりがいがありそうだった。
たまに、愚痴もいうけれど、宗谷名人の事は認めていることが言葉の端々から分かったし、他にも何人か、対戦するのが楽しい棋士が居るみたいだった。
師匠の藤澤さんが引退されてから、少し遠のいていた足が再びそこに向く様になったのはそんな頃。
なんでも、弟弟子が出来たらしい。
それには将棋界にそれほど詳しくない私も驚いた。
藤澤さんのお年を考えて、新たな弟子をとるのは大きな決断だったのではないかと。
なんだかんだ上手くやっていると話に聞いていたけれど、新年会にも顔を出せなかった私は、結局その弟弟子さんに会う機会を逃していた。
その子、……プロ棋士をそんな風に呼んでは失礼だろうけど、どうしても正宗さんの言い方と年齢からそう表現してしまう。
桐山くんという、その男の子と指すようになって、あの人の雰囲気は少し変わった。
相変わらず、硬く鋭い感じは残すものの、どこか柔軟な面が表に出るようになったと思う。
目をかけている……というより、純粋に年下の弟子を可愛がっているようにしか、私には見えなかった。
そして、それは私にとっては嬉しいことだった。
性格的に合わないのだろうとは思っていたけど、子どもと触れ合うことを私に遠慮していたわけじゃなかったと分かったから。
車をだしてあげることもあったし、送った先で、ご飯をご一緒してくることもあった。
私も自分の仕事もあったから、外で食べてきてくれる機会が少し増えたのは、寂しい気もするけど助かる面もあった。
たまの被った休みで最近の動向を聞いた時、その小さな弟弟子くんの話題があがることが増えた。
もちろん、私が聞きたがるのもそうなんだけど、子どもの成長や変化は目覚ましく、話題に事欠かないからというのもある。
弟弟子になって季節一つすら回らないうちに、その子は正宗さんと同じプロになった。
ニュースやテレビでよく見るようになって、まだ直接はあった事が無いのに、随分と知っている子のように思えてくるから不思議。
テレビでは、真面目で愛嬌のあるかわいらしい男の子といった印象。
でも、私は知ってる。
初めて対局した兄弟子に、可愛げのかけらもないと言われたことを。
それに対して、将棋には可愛げはいらないと返事をしたことも。
お茶の間の皆さんは、今はあの子の経歴と、鮮烈な小学生プロという肩書きにしか目がいっていないだろうけれど、いずれ気づくのだろう。ただの可愛い男の子では無いことに。
強かに、しなやかに、あの子はきっと上にいく棋士になるのだろうと、そう思った。
私の仕事も軌道に乗り、夫もなんだか最近楽しそうで、こんな日々が続けばいいと思っていた矢先。
どうにも身体の調子が良くなくて、のばしにのばした病院を訪れることになったのはその年の冬だ。
いやに、冷え込んだ日だったことを今でも覚えている。
一通りの検査を終えて、診察に入ってすぐ、先生はこう言った。
「旦那さんもお呼びになりますか? どれくらいの事を聞いておきたいですか?」
その言葉に、私は、続けばいいと思っていた日常が壊れてしまった事を悟った。
「結果、良くなかったのですね」
「残念ながら、そうです。こちらとしてはご家族とご一緒にお話をしたいのですが」
「先に聞いておきたいです。自分のことは自分で決めます。私たち夫婦はお互いに、それを尊重してきました」
私の言葉に、先生は一つ頷いた。
「乳がんです。細胞診をしなくても間違いないでしょう。大変言いづらいですが、すでに転移もありそうです。治療は出来るだけはやくはじめましょう」
「……そう、ですか。そうなんですね」
告げられた言葉は、するすると耳を流れて、全く頭に残らなかった。
自分が場違いな場所にいるような気がして、どこか遠い世界の話のようで。
ただ、ただ漠然と、あぁ悪いんだなって事だけが、先生の言葉の感触から、ひしひしと伝わってきた。
検診を受けていたのに、といった私に、先生はどれくらい前ですか?と尋ねた。
婦人科の検診に最後にいったのは4年前だった。
それ以降は、会社で毎年受けさせられる簡単なものしか受けていない。
若い人は進行がはやいことも多い、2年以上もあけばそれは、致命的な時間になることもあると、そう答えにくそうに続けられた。
でも、それを知っていたとしても、私は検診を受けに来ただろうか、きっと大丈夫だと思って忙しさにかまけて後回しにしただろう。
結局そう思い至って、自分の事なのに、なんだか少し笑えてしまった。
簡単な現状の説明と、いくつかの治療方針を示された。
後日また、夫と来ます。それだけ言って病院を後にした。
その場で決めることなど不可能だった。
帰ってきたあの人に、結果を伝えると、そうかとだけ呟いて、押し黙ってしまった。
そして、出来る治療はいくらかかってもしようとだけ言うと、彼は仕事を残してきたと家を後にしてしまった。
動揺が目に見えて伺えて、なんだか却って私は冷静になってしまった。
あの人は、意外と繊細な人だから。
自分の気持ちに整理をつけて、ちゃんと私の前では動揺しないでいられる心の整理ができるまで、戻ってはこないだろう。
行ったのは師匠藤澤さんの所かしら、今日は帰ってこないかもしれないと、そう覚悟をしていた。
結果をもとに、色々と調べた。
なるほど、生存率はそれほど悪くないらしい。
でも、その分、再発も多い。そして、転移をしているとやはり色々難しくなってしまう。
手術と化学療法、放射線治療、多岐にわたる治療のそれぞれのメリット、デメリットを調べた。
覚悟を、決めなければならない。
大丈夫、二人に一人は癌になる時代だって言うじゃない、何もわたしばかりじゃないわ、そんな風に思いながら、必死で可能性に縋ろうとした。
あぁ、でも、すこし怖いし、寂しい。
調べればしらべるほどに、命の期限を突き付けられた気がした。
明日にならないと帰ってこないと思っていた正宗さんは、日付が変わる前に、まるで走り込むように帰宅した。
そして、私の顔をみるなり謝るのだ。
一人にしてすまなかったと。
思わず、どうしたの?って聞いてしまった。
こんな風に自分の弱さをさらけ出してまで、言葉をかけてくれるとは思ってなかった。
一緒になって絶望して泣くんじゃなくて、絶対の自信をもって、こっちだって手を引いてくれる人だったから。
聞けば、弟弟子くんに、奥さんを一人にするなって怒られたらしい。
仏頂面でそういう彼に、私はおもわず噴き出してしまった。
言うその子も凄いけれど、それで落ち込んで、ちゃんと帰って来て謝ってくれるこの人も凄い。
まだ、諦めたくない、一緒に頑張ってほしいと言われて、私は笑顔で頷くことができた。
頑張れじゃなくて、頑張ろうと言ってくれるこの人のことが、本当に好きだとそう思った。
何軒か病院を回ってから、治療の方針は決めた。
とても、残念なことに、もう原発部位以外への転移も確認されてしまったので、手術はせず、化学療法を選ぶことになった。
転移した臓器に、まだ目に見えた症状が出ていないため、取ったところで負担ばかりで意味がそれほどないかららしい。
早期発見が出来ていれば、原発部位の片胸だけとって、それでこの先何十年、生きていけたのにって、今になって知れば知るほど、後悔が募った。
それでも、はるか昔は手術ができなければただ、”その日”を待つだけだっただろう。
そう考えると今は薬一つとっても、多くの種類があるだけ救いなのかもしれない。
乳がんにも種類があるなんて、たぶん罹らなかったら一生知らなかった。トリプルネガティブという私のタイプを聞いた時に、もうなんだか名称だけで悪そうに思えてしまった。実際、予想は外れていなかった。
数あるタイプの中でも、悪い方を引いてしまった。ひとしきり落ち込んだあとに、此処までくると、もうどれでも同じだと思う事にした。
使う薬にもタイプがあるらしく、その薬が私の癌に効果があるかを判断するために、数か月ごとに検査を繰り返した。
正宗さんは結果を聞く日は絶対についてきてくれた。
抗がん剤の副作用はそれなりに強く、別の意味でも、身体と心が削れていった。
それでも、辛抱強く続けていった。
2回目に変えた薬が思ったよりも当たったのは、幸運だったのだろう。
その後しばらくは、一時退院できるほどに回復した。
ただ家ですごす穏やかな日々が、これほど大切に思える日がくるとは。
あまり長い時間ではなかったけれど、かけがえのない時だった。
効果があったとしても、私の中の病魔が消えるわけではなく、肺に転移していた腫瘍が再び増大しはじめ、また長い入院をすることになった。
呼吸がだいぶ苦しくなり、一時期は話すことも辛い時期もあった。
投薬のおかげで、その少しだけ症状が落ち着いていたとき、正宗さんが何かしたいことはあるかと私に尋ねた。
私は、ふと弟弟子くんとお話がしてみたいと願った。
何度か機会はあったのだけれど、逃している間にわたしの病院生活は長くなり、そして、夫は、彼を病院に連れてくるのはあまり、気が進まないようだった。繊細な奴だからと度々言っていた。
でも、どうしてもお話してみたかった。
このまま進行すれば、ゆくゆくは気管切開になるだろう。自分の声で、言葉で、話せるうちに彼に伝えたい事があった。
結局折れたのは正宗さんの方だった。
昨年、自身初のタイトルを獲得した弟弟子くんは、今年も破竹の勢いで活躍していた。
対局スケジュールの合間をぬって、正宗さんはその子と会う機会をくれた。
「はじめまして、桐山零です。後藤さんにはお世話になっているのに、ずっと挨拶できなくてすいませんでした」
開口一番、そう丁寧にあいさつをしてくれたその子は、中学3年生になるという。
想像していたよりも背も随分と高く、落ち着いていて、大人っぽい子だった。
きっと、正宗さんのなかの彼は出会ったときの印象が強いから、その話を聞いていた分、私の想像も引っ張られていたのだろう。
「初めまして、ずっと会いたかったのに、正宗さんちっとも紹介してくれなくて」
「タイミングが無かったんだよ」
「ねぇ、ちょっと飲み物でも売店で買ってきて」
「あぁ? たく、おい。なんでも良いよな?」
「え、僕ですか? はい、出来たらお茶とか普通のが良いです」
少し圧の強い正宗さんの言葉にも、桐山くんは普通に返事をしていて、なんだか微笑ましいと思った。
「桐山くん、良かったらこっちにきて座って」
所在なさげに立っていた子を、近くの椅子に呼び寄せた。
「ずっとお話してみたかったの。ごめんなさいね、こんな格好で」
「いえ、それは気にしないでください。……あの、どうして、僕だったんでしょうか? 後藤さん抜きで話したい事もあったんですよね?」
正宗さんに席を外させたことも、ちゃんと分かってる。
本当に賢い子だ。
点滴をして、いろんな管につながれて、やせ細った女。
こんな状態の人をもし初めてみたのなら、子どもは怖気づいてもおかしくないのだけれど、とても落ち着いている。
「ありがとうを、言いたくて」
「ありがとう? 僕にですか?」
きょとんとした顔は年相応。あぁほんとうにまだ中学生なのね。
「えぇ、貴方もそうだけど、藤澤門下の人にもね。私は、将棋に関してはほとんど分かってないから、正宗さんの将棋の世界での事は支えてあげられない」
もちろん対局に関係ない所では、精一杯支えてきたつもりだ。
でも……。
「こんなことになって、ついに彼の私生活ですら支えてあげられなくなった」
「そんな! そんなことは……」
「うん、それでも良いって、もちろん言ってくれたわ。でもね、やっぱり色々としんどいと思うの。そんな時に、ふらっと姿をくらませて、そしてまた元の厳めしいけど優しい彼に戻って帰ってくる」
治療がしんどかったり、私に余裕がない時、あの人も疲れてしまうこともあるだろう。
そんな時に、切り替えるきっかけがあるのが気になった。
「どこに行ってるの?って聞いたら将棋を指してるって言うんだもの。笑っちゃった。ほんとに、そればっかり。てっきり兄弟子の幸田さんとか、師匠の藤澤さんが多いのかと思うじゃない、それで前に藤澤さんにきいたら、一番指してるのは桐山くんだって教えてもらったの」
おまけに、ご飯まで一緒に食べることもあるときいて、本当に驚いたのだ。
一部のプロ棋士くらいしか知らないが、桐山くんは一人暮らしをしている。
中学生ですら自炊が出来ていることに、少し落ち込み、最近正宗さんも、こっそりはじめた事も私は知っている。
「コワイおじさんの相手だもの、ましてや苛立ってることもあったでしょう。それでも、断った事はないって聞いて、私、本当に嬉しかった」
傷つけられるかもしれない相手と話すことは、誰だって恐い。それでも良いと思ってくれる人がいったい、どれくらいいるだろう。そう何人もいるわけがない。
「他人に弱みをみせることなんて、絶対にない人だったから。他にもちゃんとそういう場所が出来たんだって、安心したの」
素の自分を出せる場所なんて貴重だ。そして出せる相手も。
そんな相手をちゃんと見つけられていることに酷く安心した。
黙って、聞いていた桐山くんは、何度か口を開いては閉じてを繰り返したあと、静かに言葉を紡いだ。
「僕は、たしかに後藤さんと将棋は指せます。ひょっとしたら、小さな支えにはなれているのかもしれません。でも、代わりになんて絶対になれません。僕は、貴女の代わりにはなりえない」
どこか苦しそうに、一語、一語、噛みしめながら続けるのだ。
「僕と指す、何千という対局よりも、貴女がそばで笑ってくれてる、その事が、後藤さんにとったら全てでしょう」
「それは……、すごい殺し文句ね」
驚いてしまった。本当に、なんて言葉をくれるのだろう。
「頑張って、なんて言えません。でも、何があっても、どんな状態でも、ただ、生きて傍にいて欲しい。それが、愛してるってことなんだと、なんとなく僕も分かります。後藤さんは、貴女の事を……」
「いいの、ありがとう。それ以上は言わないで」
思わず、言葉を遮ってしまった。
泣いてしまいそうだったから。
絶対にこの子の前で泣くまいと、そう決めてあったのに。
「……。正宗さんは、私と貴方を会わせる気はなかったわ。なんでか、それが今、分かった気がする。貴方は優しすぎる」
たかが兄弟子の初めて会う妻、それだけの女にどうしてこうも寄り添えるのだろうか。
正宗さん、貴方は、私と、それからこの子の両方が心配だったのね。
じんわりと、滅びゆく私の気配を、おそらくこの子は感じている。
どうしようもない段階の悪あがきを知っている。
そして、その先の果てで、残される人の想いすらも。
そんな子が、今の私と話すことが、どれほど“あてられる”のか、あの人はちゃんと分かっていた。
「ねぇ、こんなことを貴方に頼むのは酷だと思う。でもお願いします。正宗さんに、あの人に将棋を絶対に辞めさせないで」
「後藤さんは、辞めないと思います。何があっても」
彼は、私の懇願にどこか困惑したようにそう返事をした。
「そうね、たぶんそうだと思うけど、万が一があるといけないから。時間が掛かっても絶対に、将棋を指させてほしい。そうしたら、きっとあの人は生きていけるわ」
私がいない世界でも。
言葉にしなかった、続きを正確に読み取ったのだろう。
俯いた桐山くんは、ギュッと口を結んで、息をつめた。
そんな風に泣くまいとしているこの子に、私は残酷なお願いをした。
喪った先の世界で、将棋を指すことで生きているこの子に、同じ道を辿る兄弟子の手を引いてほしいと願ったのだ。
「ずるいおばさんでしょう。ごめんなさいね、本当に」
私の言葉に、桐山くんは、ただ大きく首を振った。
そして、そのあと大きく息を吐いて、何度か深呼吸して、やっとその顔をあげた。
翠の瞳のふちは赤くなっていて、薄く張った水の膜はいまにも決壊しそうなのに、この子は絶対に泣かなかった。
私が泣いていないのに、自分は泣けないと思っているのだろう。
「やくそく、します。その時の最初の一局は、責任をもって僕が指します。絶対に、駒を取ってもらいます」
あぁ、神様がこの子を、あの人の弟弟子にしてくれて良かった。
本当に心からそう思った。
大丈夫ですも、そんな事言わないで下さいも、そんな言葉じゃ駄目だったの。
“いつか”は、絶対やってくる。
私はあの人より長くは生きられない。それが数ヶ月先か、数年先かの違いだけ。
だから、保証が欲しかった。
私がいなくなった後の、最初の一局。
おそらく、一番、指させるのが大変なその一局を、必ずこの子が指すと言ってくれた。
大丈夫、あの人はもうこれで大丈夫だ。
「あいつに、何言ったんだ?」
あの後、すぐに帰ってきた正宗さんは、あの子を送って帰ってきた後にそう言った。
「秘密よ、一つだけ、未来の約束をしたの」
たった数十分の会話で、私はどれほど救われただろう。
「……、あんまり重いこと話すなよ。送っていくとき、絶対振り返るなって言われた。ありゃ、後ろの席でぼろぼろ泣いてたぞ」
ドカッと、桐山くんがさっきまで座っていた椅子に腰かけながら、大きくため息をついた。
「繊細なやつなんだ。他人の事情に心を砕きすぎる。大事な棋戦も近いつーのに」
「でも、とても強い子だと思うわ。貴方よりよっぽど心配いらないと思う」
「……俺に、そんな風に言えるのはおまえだけだわ」
「褒め言葉と受けとっておくわ。こんな軽口もしばらくしたら、言えなくなっちゃうかもしれないから」
押し黙ったこの人に、ちょっと意地悪しすぎたなって思った。
私は、まだ大丈夫な感覚があるけれど、それは私にしかわからないし、保証なんてどこにも無い。
「ねぇ、落ち着いてまた一時退院が出来たら、遊園地に行きましょう」
「はぁ? なんでまたそんなところ。行きたいなんて言った事、若い時だってなかっただろう」
「いいじゃないの別に。二人で行くのが恥ずかしいなら、桐山くんも誘いましょうよ」
「いや……あいつも、そういう所を喜ぶタイプじゃねぇけど、まぁたぶんあいつの友人も一緒にって言えば……」
突拍子もない無茶な願いも真剣に検討してくれるの、そういう所よ、ほんと。
貴方の中に、私を沢山、残していきたいの。
絶対貴方が行かないような場所だって、万が一があるでしょう?
だから、いろんなところに行って、いろんな事をして、そのすべてに私の想い出を刻みたい。
ずるい女でしょう。
貴方に憂いなく、今後も生きて欲しいと願いながら、貴方にだけは私を忘れて欲しくないと思うのよ。
でもきっと、貴方はそのすべてを大切に抱えながら、その先を歩んで行ってくれるでしょう。
私が愛した男は、そんな良い男なんだから。
後藤美砂子
どれくらい、先かは私にもわかりませんが、桐山くんが高校卒業するくらいまでは、"大丈夫"だといいなぁと思っています。
原作での情報は少ないですが、あの後藤さんの奥さんをできてた人なので、きっと彼に言い返せるような女性だろうと想像して書きました。
思えば、私が桐山くんに最初に惹かれたのが、彼が向こう側をしっている子だったからでした。だからこそ、美砂子さんは桐山くんに頼んだのだと思います。