小学生に逆行した桐山くん   作:藍猫

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第三十二手 嵐の前の……

「こんにちは! お邪魔します」

 

「れいちゃん、こんにちは~」

 

 快活な声が部屋に響く。今日は嬉しいお客さんが部屋にやってきた。

 

「いらっしゃい。迷わなかったですか?」

 

 僕の声もいつもより弾んだ気がする。

 二人が来るからと、朝から念入りに掃除もして、片付けもした。

 

「大丈夫よ。このあたりは、知らない場所でもないしね」

 

 二人にと新しく買ったスリッパを勧めていると、にゃ~ん、と鳴きながら我が家の門番が、とことことやってくる。

 まずい! あかりさんたちからは川本家にいるにゃー達の匂いがするし、とても嫌がるかもしれない、と焦ったのもつかの間。

 

 珍しいことに、シロは彼女たちを威嚇することはなかった。

 初めてくるお客さんへの恒例の、何度もその人の周りをくるくる回る動作はしたものの、その後すぐすり寄って甘えている。

 

「あ、シロ。駄目だよ。服に毛が付いちゃうだろ」

 

「わ~可愛い。れいちゃんのお家のにゃーだ! 懐っこい子だね」

 

「……藤澤師匠のお家の猫を預かってるんです。すぐ慣れたみたいで良かった」

 

 ひなちゃんはすぐに喜んで、首の回りや頭を撫でてあげていた。

 懐っこい……? 絶対にありえない評価だけど……まぁ、二人の事をシロも気にいってくれたのなら一安心だ。

 ……この子の中の、判断基準がどうなっているのか気になる所だけど。

 

「とっても、綺麗に片づけてるのね。男子学生の一人暮らしとは思えないわ」

 

「今日は何時もよりは気合いをいれて、片づけましたけど」

 

「それでも、学校もいって、昨日だって対局あったんでしょ? 家の事ちゃんとするだけでも大変なのに……」

 

「きちんと生活してないと、此処の更新を認めてもらえないかもしれないんですよ。抜き打ちで門下の人が来ることもありますから。慣れたらそれほど大変でもないです」

 

 感心してくれるあかりさんに、苦笑しながらそう答えた。

 

 冷蔵庫の中の物は、以前よりも常に充実している。自炊もちゃんとしているし、食生活の乱れはないと思う。

 和子さんは藤澤さんのお見舞いにいく合間をぬって、週に一回は見に来るし、その時に食材を買い足してくれたり、作り置きをしてくれたりもする。

 その時に、あまり使っていなかったりすると一発でばれてしまうから、自然と消費する気になった。心配はかけたくない。

 

「そっか、でも今日は私たちが入学祝いに腕を振るうから、桐山くんはゆっくりしててくれていいんだからね! 台所借りていい?」

 

「いえ、僕も手伝います! 作ったことない料理だったら勉強になるし」

 

 ひな、手伝ってっと、声を掛けるあかりさんについて行きながら、僕はそう答えた。

 

 そもそも二人が家に来たのは、突然の僕の一人暮らしを心配したのと、あとは入学祝いをしたいと言ってくれたからだ。

 

 

 

 

 発端は数日前、三日月堂に顔を出した時に、晩御飯に誘われたことに始まる。

 年度末にバタバタした僕が訪れたのは一カ月ぶりくらいだったし、久しぶりに御厄介になることにした。

 誰かが食事を作ってくれて、誰かと囲む食卓というのは、とても暖かいものだ。

 一人飯が続くと、少し恋しくなってしまう。

 

 そしてその席で、相米二さんに師匠の家の晩御飯は良かったのかと問われて、うっかり今は一人暮らしですと答えてしまったのだ。

 当然、優しい川本家の人々は驚愕した。

 ひなちゃんたちのお祖母ちゃんやお母さん、そしてあかりさんとひなちゃんも、それはそれは心配してくれた。

 割となんとかなってるとか、自炊もしてると言ってもどうにもその表情は晴れなかったので、良かったら遊びに来てくださいね。と持ち掛けたのは僕の方。

 そして、あかりさんがそれじゃあ、今度入学のお祝いも兼ねて、ご飯を作りに行くわ! と声をあげて、ひなちゃんもそれに賛同。

 とんとん拍子で今日の訪問が決まっていた。

 

 僕としては、二人がまたこの部屋に来てくれたのは、不思議な感じがして、それ以上にとても嬉しかった。

 変えてしまいたいこと、忘れてしまいたいことが多かった以前の記憶の中で、川本家の人々との関わりは、失いたくなかった数少ないものの一つ。

 まっさらに戻ってしまった関係をまた繋げて、こうして一緒に笑いながら、料理が出来ていることを実感するとギュッと胸の奥が暖かくなった。

 気を抜くと嬉しくてちょっと泣きたくなるほどだ。

 

 あかりさんは、作り置きができるからとカレーを作ってくれた。僕のリクエストでもある。

 カレーって市販のルーを使っていても、各家庭ですこし味が違ってくる。中に入っている具の違いとか、ちょっとした味付けの癖とか。

 川本家のカレーの味が僕はとても好きだった。僕にとっての幸せの味。

 あと、それだけじゃちょっと味気ないからとから揚げも揚げてくれた。これはひなちゃんの好物でもあるし、僕もずいぶん食べたなぁと懐かしい。

 

 普段は料理なんてめんどくさくて、義務でしているようなものなのに、二人と一緒だとあっという間だった。

 なんで楽しい時間ってこんなにすぐ過ぎてしまうのだろうか。

 

 

「さ、完成ね。桐山くんとっても手際が良いから驚いたわ。ひなよりずっと包丁使うの上手ね~。ちゃんと日頃からお料理してるのが良く分かったわ」

 

「もう! お姉ちゃん! 私だってすぐ上手くなるもん」

 

「慣れないところはピーラー使ったりもしますけどね。ひなちゃんもすぐ上達するよ。ちゃんとその年でお手伝いしてるのって凄いと思う」

 

 ひなちゃんは、ちょっとふくれた様子だったのから一転、パッと照れたように笑った。

 実際、小学校中学年で進んで台所仕事を手伝っているのは凄いことだと思う。

 しっかり手伝っているあかりさんの背中をみて育ったからだろう。

 

 3人分の料理を並べると机の上は一杯になった。

 この机だとこれが限界だな……もう少し大きい机でかつ収納しやすいものを、買っておくべきかもしれない。

 前の時は、この机すらなかったけれど、今回は人が来ることが予想以上に多いし、僕もそれが嫌じゃないから。

 

「あ、見てみて! 桐山くん、もう一匹のにゃーが出て来た」

 

「え?クロが人がいるときに、出てくるなんて……」

 

 未だかつてなかったことだ。

 座布団の上に座ったひなちゃんにそろそろと寄っていったクロは、撫でようと伸ばされた手を享受して、なんとその膝の上に乗った。

 

「うちのにゃー達と違って、ご飯に手を出してこないなんて、賢いわね」

 

 感心したようなあかりさんの声を聞きながら、僕は生返事をする。

 それぐらい驚いたのだ。

 クロがこれだけ気を許すのは珍しい。

 和子さんに一番懐いていたけれど、僕にも少しは懐いてくれて、たまにだったら抱っこもさせてくれる。

 ……ちなみに、僕が家にいた一年ちょっと、藤澤師匠の膝に乗っているのは見たことがなかった。

 この子はどうも自分の好みもあるようだから、ひなちゃんの事を気にいったのだろう。

 

 食事中も会話は弾んで楽しかった。

 あかりさんの高校生活や、ひなちゃんの小学校での出来事を聞くのは新鮮で、ついつい僕の方から質問もしてしまった。

 前だったら出会う以前の事だ。少しでも二人のことを知ることが出来て嬉しい。

 二人からは、棋士って何をするの? と仕事の事を尋ねられた。

 対局一つとっても、タイトル戦だったり、イベントの一環だったりで扱いは当然違うし、解説の仕事や、地方で行われるイベントにも参加すると伝えると、すごいすごいとはしゃいでくれた。

 

 

 

「れいちゃんは……さ。凄いね」

 

 食後のお茶を飲んでいた時にひなちゃんがポツリと呟いた。

 

「お家の事も全部して、学校にも通って、お仕事もして……この部屋も、生活費も、全部自分で払ってるんでしょ?」

 

「……うん。僕は一応学生だけど、半分は社会人みたいなもんだからね。将棋のおかげで、お給料も貰ってるから」

 

「社会人……大人ってこと?」

 

 ひなちゃんは僕の言葉に少し考え込むような素振りを見せた後に、尋ねてきた。

 

「うーん、ちょっとその辺はまだ曖昧だね。僕、パッと見は子どもだし……まだ成人はしてないし。ただ、自分で身を立ててちゃんと自立はしたいってずっと思ってたから」

 

「私と……4つしか変わらないのに……」

 

 僕の答えに、ひなちゃんは何故かとても、落ち込んでしまって、肩を落とした。

 

「突然どうしたの? ひな?」

 

 何かまずいことを言ってしまったかと、おろおろする僕に代わってあかりさんがひなちゃんに問いかける。

 

「……お父さんのこと考えてた。……やっぱりちょっとおかしいよ。れいちゃんの方がずっと大人みたいだ」

 

「……ひな、お父さんのことは……後でまたお話ししましょう」

 

 あかりさんは、困ったような表情でそう答えた。

 けれど、ひなちゃんはその言葉がどこか琴線にふれてしまったようで、ちょっと怒ったようにこう続ける。

 

「だってお家だったら、話題にも出来ないじゃん!」

 

 あかりさんが怯んだように言葉に詰まったのが、分かった。

 

「お母さんは哀しい顔するし、お祖父ちゃんの機嫌は悪くなるし……。私たちには心配しないでって言うけど、夜真剣な顔でこっそり話してたり、通帳みてたりするの、私だって知ってるんだからね」

 

「だからって、桐山くんの前で話す話題でもないでしょう!」

 

「えぇ……と、二人とも落ち着いて下さい! 僕は全然良いんですけど……まずは一回、深呼吸しましょう」

 

 なんだか、ヒートアップしてしまった二人に慌てて声をかける。

 二人ははっとしたように僕の方を見た後に、次の言葉は飲み込んで大きく一つ深呼吸をしてくれた。

 そして、少しだけ気まずそうな表情をする。

 

「もし……お二人が嫌じゃないなら……話していきませんか? 聞くぐらいしかできませんけど……」

 

 踏み込み難い話題ではあったけど、以前のあの男の所業は知っている。もし、また二人が困っているなら、力になりたかった。

 

「桐山くんは、もう何度か家に来てるけど……私たちのお父さん見たことある?」

 

 あかりさんは少し迷ったような素振りを見せたあとに、真剣な表情でそう切り出した。

 

「いえ……一度も、あまり聞いてはいけないことかと思いまして」

 

「離婚したとか、死別したとかそういうんじゃないの。私たちのお父さんはちゃんと居るんだけど。……その、ちょっと前に急に仕事を辞めてから……あまり家に居つかなくなってしまって……」

 

「そうだったんですか……えっと僕があかりさんに会ったのは半年前くらいですが……それより少し前に?」

 

「今から2年前くらいかな。それからは非常勤とかアルバイトとか色々してたときもあったの。でも……続かなくて。去年の夏頃に、お祖父ちゃんの三日月堂を手伝ってすぐやめて、それで大喧嘩してから、家をあけることが多くなったの……」

 

 相米二さんは厳しい方だ。生半可な気持ちで仕事をされるのは許せなかったのだろう。

 

「お母さんはなんておっしゃってるんですか?」

 

「お母さんはね! ずっとお父さんのこと信じてるの。今はちょっとお休みしてるのよってそればっかり」

 

 大変な思いをしているのは……お母さんなのに……。と、母親の苦労を想い、ひなちゃんは心を痛めていた。

 

「私たちもね。変だなって思ってるの。でも言えなくて。言ってしまったら本当に、お父さんが、私の知ってるお父さんじゃなくなる気がして……」

 

 俯いたあかりさんが、力なくつぶやいだ。

 優しい彼女たちは、信じてしまう。

 いつかはきっと、もう少ししたらきっと。

 そうやって今ずっと苦しんでいるのだ。

 

「ちょっとって言い続けて、もうどれくらいたった? 家にいない間どこでなにしてるの? って最近ずっと思っちゃって。

 れいちゃんなんか、その間にプロになって、働いて、一人暮らしまでしてるのに。って……上手く言えないけど……すっごい変な気持ちになった」

 

 ギュッと眉を寄せて、そう言うひなちゃんの手は震えていた。

 自分の父親に、不信感を持つって、相当キツイのではないだろうか……。

 

「家にいないお父さんより、今はちゃんとお母さんを支えてあげたいと思ってるの。お母さんはまだ、お父さんの事信じてるし、愛してるから」

 

 目を伏せながら、あかりさんははっきりとそう言った。

 まだ、高校生なのに……強く、強くあろうとしているその姿は、眩しくて、そして少しだけ寂しい。

 

「あかりさんと、ひなちゃんがいるから、お母さんは頑張れてるんだと思いますよ。二人はちゃんと支えになれてます」

 

 月並みな言葉しか言えないけれど、ちゃんと伝えておきたかった。自分は無力なのかもしれないってそう思うのは、辛すぎるから。

 

「そう……かな。そう、だったらいいなぁ」

 

「大丈夫です。僕がみた川本家の皆さんは、支え合って、励まし合って、毎日笑顔でご飯を食べてる。そんな素敵な皆さんでしたよ。正直すっごく憧れました」

 

 小さく呟いたあかりさんに力強く、頷く。

 何時だって川本家の居間は、明るかった。

 またそこにお邪魔できるのが、どんなに嬉しかったか。

 陽だまりのようなその場所が、僕には尊かった。

 

「そっか……。れいちゃん! いつでもご飯食べにきていいんだからね。私ももっと、色々作れるようになるし」

 

「うん。桐山くんが来てくれると、皆はりきるから、お土産とかなくても全然来てくれていいんだからね。誰かと一緒に食べるご飯って美味しいでしょ?」

 

「ありがとうございます。

 ……じゃあ、お二人も。もし本当にお父さんの事で何か困ったり、悩んだり、お家じゃ話しにくいこととかあったら、うちに来てくださいね。

 たいしたことは、出来ないけど……一緒に考えます。力になりたいんです」

 

 ほんとは……もしかしたらとも思ったのだ。

 ひょっとしたら、まっとうな父親をしてくれているのではないかと。

 でも、それはやっぱり望めそうになかった。

 だったらいずれ……その日が来てしまう。その時に力になれないなんて、真っ平だ!

 

「……うん。うん! ありがとうね。今日も話聞いてもらえて、なんかちょっとスッキリした」

 

「ありがとう桐山くん。ほんと、年下に思えないなぁ……私ももっとしっかりしないとね」

 

 何度もなんども頷いてくれたひなちゃんと、すこしだけ肩の力を抜いてくれたあかりさんをみて、僕は一息ついた。

 よかった。これで、何かあった時に、知らずに終わるという事態は避けられそうだ。

 

 食べ終わった食器を片付けて。

 日が暮れる前に二人を送り出した。

 送っていくと言ったのだけれど、明日学校早いんでしょ? 二人で帰るから大丈夫だと、断られてしまった。

 

 二人が帰ってしまって、静かになった部屋でふと考えた。

 ひょっとしたら、そろそろなのかもしれない。

 あの父親が出ていくと言い出すのは。

 ……モモちゃんの妊娠もまだ確認されていないみたいだったから、まだ時間があるのかと思っていたけど。

 

 なるべく、優しいこの姉妹が傷つくことがないように……でも禍根は残したくない。

 また数年後、あの時のようにやって来られたら困るんだ。

 お母さんや、お婆さんが亡くなるきっかけにこの騒動が関係ないわけないし……。

 どこまで、関わらせてもらえるか分からないけれど、準備はしておこう。

 

 僕は密かに、菅原さんに連絡をとった。

 素行調査に定評のある事務所か探偵か、その手の専門職の人を紹介してほしいと。

 いい気はしないけれど、情報と証拠は多いにこしたことはない。

 もう既に別の彼女さんを作っている可能性は大いにある。

 

 僕の最優先はあかりさんとひなちゃんの気持ちだ。

 亡くなるその間際まで、ずっとあの男の事がすきだったというお母さんの気持ちには寄り添えないかもしれないけれど……。

 少しでも、穏便に、傷つかないように……そのために出来ることは何でもするつもりだった。

 

 

 

 遠い、遠い記憶の中で、僕の心を救ってくれた彼女に忠誠を誓った。

 それは、たとえ死んで戻ったくらいで、消える気持ちじゃない。

 

 

 

 

 

 

 


 

 少しだけ、不穏な気配がし始めた日常だが、棋戦は待ってはくれない。

 僕にとって今年度最初の山場といえる。

 聖竜戦決勝トーナメント準決勝が迫っていた。

 これに勝てば決勝……そしてもし、トーナメントで優勝すれば、僕は聖竜戦の挑戦者の資格を得る。

 現在の聖竜をもっているのは宗谷さんだ。

 聖竜は持ち時間4時間の五番勝負……最低でも三戦は対局できるし、フルセットにもつれこめば五戦、もしそれが実現したらどんなに楽しいだろうか……。

 

 でも、そう易々とはいかない。

 今回の対局相手は島田八段だ。

 研究会では何度も顔を合わせているけれど、公式戦では初対局になる。

 島田さんだって、昨年A級にあがって勢いがついている今、挑戦権をとりたいと思っているはずだ。

 

 僕は島田さんの棋譜をさらうと同時に、ここ最近の研究会での対局や研究手についても、なんども反復して思い出した。

 手の内をさらしきるわけがないけれど、それでも少しでも情報がある方がいい。

 今、島田さんのなかでの流行や、決め手はなんなのか、ひょっとしたらこういう戦法でくるのじゃないかと、何度も何度も考えた。

 

 時間を忘れて、シロに足やら腕やら齧られた回数はもう両手を超える。

 あの子のおかげで、とりあえず食事だけはちゃんととることが出来る。

 

 そしてあっという間にやってきた対局の日。

 少し早めに会館に入ったつもりだったけど、ロビーで島田さんの姿を見かけた。

 お互い、対局相手が来ているのは分かったけれど、一礼するにとどめ声はかけなかった。

 

 大事な一戦だ。

 言葉を交わすのは対局の後でいい。

 

 対局室には先に入って下座につく。

 じっと目をつぶって、開始の時間を待った。

 ほどなくして、僕の目の前に座った島田さんは、良く知っているけれど全く違う人だ。

 

 纏っている空気が違った。

 当たり前だ、挑戦権がその先に見えている大切な対局。

 これに気合いが入らない棋士はいない。

 雰囲気にあてられて、武者震いしそうだった。

 

 振り駒の結果。

 先手は僕に決まった。

 

 先手をとった時の初手は決めていた。

 まずは角道をあける、7六歩。

 

 これに対して、島田さんの応手は、同じく角道を開ける3四歩。

 もし、この2手目が8四歩なら「矢倉」か「角換わり」になるのが濃厚だったのだが……この選択で、後手からの「振り飛車」か、「横歩取り」になるだろう。

 

 そして、4手目に島田さんが、飛車先の歩を突き返し、8四歩としたことで、この対局は、「横歩取り」から展開していくことが決まった。

 

 主戦に据えられることも多く、日々、実戦と研究が繰り返される「横歩取り」は常に最新形の理解と応用が求められる。

 少しでも後れを取れば急転して、あっさり負けていたなんて事すらある、危険が潜む激しい戦型。

 敢えて後手番で「横歩取り」へと先導したのには……なにか相当の準備があると見た方がいい。

 

 といっても戦型が固まるまでは、定跡通りお互い指しあい、陣形を固めていく。

 動きがあるなら中盤以降だろうと思っていた僕は、26手目の島田さんの7二金に唸ることになった。

 

 島田さんは、右の金を玉の下に構えてよくある「5二玉型中原囲い」にするのではない、銀の外側に開くことで、「中住まい」調に構えたのだ。

 

 前例がない。

 

 26手目にして……互いの読みあいと、見解、感覚、全てがぶつかり合う、力比べになった。

 

 いいな、とっても面白い。

 自然と頬が上がりそうになるのをなんとか堪える。

 全力でやりあおうと誘われたわけだ、乗らないわけがない!

 

 僕は、33手目で3三角で、角交換を行った。自ら動いて主導権を奪いたい。

 島田さんの応手は、同桂で僕の角を払った、それを見て、僕は争点となりそうな7筋方面の守りをあつくするため、8八銀とする。

 

 中盤は僕が積極的に、敵陣を攻めたてて、揺さぶりをかける展開になった。

 けれど、島田さんは終始自然な対応をし続ける。

 

 別れ道になったのは68手目。

 島田さんは僕の陣形の8筋に、陣形を乱すため歩を叩きいれる。

 この手をそのままにしてしまうと後が苦しくなるので、僕は、同金と応じてこの歩を払った。

 

 主張が通った形になった島田さんは、続けて7筋に垂らしておいた歩を成り込む。

 僕は、ここでも同金と応じざるを得なかった。

 

 でもこのまま、応じているわけにもいかない。

 79手目5四歩、攻勢に転じる一手をさして、島田さんの玉に一気に襲いかかった。

 

 85手目に8一飛、捕獲していた飛車を後手陣の8筋最下段に打ち込んで、相手の玉の可動域を厳しく制限した。

 

 追い詰めたと、そう思った。

 でも次の一手。

 86手目8八角。僕の陣へ、角の一手を打ち込んだ。

 

 あぁ! そうか。さっき陣を崩そうとしていたのは、このためか!

 終盤に入っての流れを一気にもっていく強烈な一手だった。

 

 手持ちの駒を切らした。時間もない。

 そして、それを補えるほどの余裕を僕に与えてはくれなかった。

 

 94手目、8二歩と指されたとき、一気に寄せにはいったことがわかった。

 相手は、盤石の体勢だ。

 

 僕は大きく息をついて、お茶を一口飲むと、その続きを指した。

 勝負を投げてはいけない。

 たとえ最終的に読み切ったとしても、棋譜に軌跡をのこすため、その瞬間まで、淡々と指していくのも、棋士の矜持だ。

 

 

 

 そして、島田さんの106手目5七馬で、僕は、負けましたと頭をさげた。

 

 

 

 僕の言葉に、島田さんは大きく息をつくと、あー疲れた。と一気に体勢を崩した。

 はりつめた空気がふっと弛んだ。

 

 感想戦は一転して穏やかなものだった。途中で研究会をしている気分になるほど。

 改めて、考えると86手目の8八角にだって、手がないわけではなかったのだ。ただ、この状態になってしまった時点でもう駄目なので、そこに至るまで当然手を打っておくべきだった。

 完全に終盤は島田さんの手の上だったなと悔しく思う。

 

 感想戦が落ち着いたのを見計らって、記者の人達もやってきた。

 準決勝とはいえ、注目カードだったらしく、人数が多い。

 

「まずは、島田八段おめでとうございます。対局全体をみて如何でしたか? 桐山五段とは公式戦、初対局となりましたが」

 

「えぇ……もう。本当に疲れました。一瞬でも気を抜けば持っていかれてましたね。

 実際、終盤もどうなるか微妙なところでした」

 

「桐山五段はどうでしたか? 持ち時間全てを使いきっての長期戦でしたが」

 

「力戦模様になってしまって……難しい将棋だったと思います。序盤はおそらく先手ペースだったと思うので……中盤ですね。ミスがあったとするなら」

 

「具体的にはどのあたりだと分析されますか?」

 

「そうですね……また帰って、見直しますが……75手目付近の歩の打ち込みに対して、払うしか無かったのは痛かったですね。あそこから崩されていったと今なら思います」

 

「島田八段はいかがでしょうか? 終盤に取り返せるのは計算のうちでしたか?」

 

「いやー正直、我慢して、我慢してやっとか。という感じの将棋でした。上手く86手目につなげられたから良いものの、危ない橋でしたね。後ろ手からの横歩取りで、あまり無い形にもっていって、揺さぶったつもりだったんですが……桐山五段の柔軟性は本当に凄い」

 

「次の対局で勝てば、聖竜戦で初の挑戦権の獲得となりますが」

 

「まずは、今日の対局を見直して。それからですね。得られたものは大きかったです」

 

 島田さんのその言葉で、その場はお開きとなった。

 

 おそらく僕の方には、中学上がってすぐの挑戦権獲得も期待がかかっていただろうが、今回は見送りだ。

 前の時も、初の挑戦権をとるときは、もうそろそろ、次こそ! と囁かれつつも、時間をかけてしまった。

 

 それだけ難しい。

 一年でそのタイトルを獲得できるのもたった一人だけれど、挑戦権を獲得するのだって保持者を除いた全棋士の中から一人なのだから。

 

 マンションについて、出迎えてくれたシロの頭を撫でたあと、上着すら脱がずにベッドへと倒れ込んだ。

 あーあ。負けちゃったよ。

 頭のなかでは、ずっとぐるぐると今日の対局の盤面が回っている。

 身体はすごく疲れているのに、頭だけ冴えわたったこの独特の感じ。

 力戦の後ではよくあることだった。

 

 耳元でクロがちいさく鳴いたのが分かった。

 あぁ……そうかご飯をあげないと。そう思うのに、身体は動かなくて、僕はそのまま寝入ってしまった。

 

 夜中に起きて、慌ててあげる羽目になる。

 二匹とも、仕方ないご主人様だなと言う感じで、一声鳴いただけで許してくれた。

 

 変な時間だったけど、そのままお風呂に入って、ご飯を食べて、明日の準備をすることにする。

 一眠りしたから、頭の中は切り替わっていた。

 内容は悪くなかった。

 目一杯、反省して、悔しがって、それでまた次につなげてみせる。

 

 

 

 

 

 

 


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