小学生に逆行した桐山くん   作:藍猫

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第三十四手 僅か二ヵ月

 

 6月上旬、僕に再びチャンスがやってきた。

 棋神戦の挑戦者決定リーグでの勝率が良かったため、挑戦者決定戦へと進むこととなったのだ。

 挑戦者決定戦は一回勝負。紅白2つのリーグの優勝者が対局し、勝者は棋神への挑戦権を得る。

 

 2月に始まった挑戦者決定リーグの初戦の相手は後藤さんだったなと思いおこす。初戦を良い内容で勝てたから勢いがついた。

 僕が振り当てられた白組には後藤さんのほかに、土橋さんもいて、その対局だけは落としてしまったけれど、4勝1敗で留まれたのは充分な成績だろう。あとの5人が食い合ってくれたおかげで、次席が3勝2敗となったのだ。

 

 対戦相手となる紅組の方の優勝者はプレーオフになったらしく、まだ決まっていない。

 そろそろその対局が行われるはずだから、連絡が来るだろう。

 

 対局がなく、朝から学校で授業を受けて将科部の活動にも参加できた日、ひなちゃんからメールがきた。

 ご近所さんから貰った食材の一斉消費を行うのでよかったら、一緒にご飯を食べませんか? というお誘いだ。

 対戦相手が決まれば、対策と研究に明け暮れて、しばらくは会いに行けないだろうから、僕はそのお言葉に甘えさせてもらった。

 

 川本家の人々はお祖父さんの相米二さん以外は将棋にそれほど詳しくはない。

 けれど相米二さんがかなり、色々話しているようで、皆が僕に近々大事な対局があることを知っていた。

 

 ひなちゃんたちのお母さんの美香子さんは、試合に勝つってことでベタだったかしら……と言いながらトンカツを作ってくれたし、あかりさんも手伝って沢山の料理が食卓にならんだ。

 相米二さんが対局は体力勝負だからと、あれもこれもと沢山食べ物を薦めてきて、あまりに熱心なものだから、お祖母さんの彩さんに呆れられている。

 

 ひなちゃんはそんなみんなの様子をニコニコ見ながら、猫たちの相手をして、僕に部活の事を聞きたがった。

 一年生だけで作った部活なんだよって言ったらとっても驚いていた。

 でも、実際に野口先輩を会わせたらまた、先生と間違えたりするんだろうか。それはそれで、面白そうだし、いつかまた会ってほしいなぁと思った。

 

 賑やかで、暖かくて、楽しくて。

 僕が知ってる川本家の食卓となんら変わりなかった。けど今この場には、前の僕は会えなかった二人がいる。

 知らないはずの光景なのに、あまりに自然で、ここからこの人達が居なくなってしまうのが信じられなかった。

 いつまでも、この光景を見ていたいと、そう思った。

 

 

 

 穏やかな団欒は、突然開いた玄関の扉の音で終わりをつげた。

 

「ただいま。いやー疲れたなぁ。母さん、僕のごはんはあるかい?」

 

 その人は急に現れた。

 いや、なにも可笑しい話ではない。

 普通は帰ってくるのが当たり前なのだ。

 ただ、それがあまりにも久しぶりの事であることは、居間に走った緊張と、ひなちゃんたちの表情で分かった。

 

「お帰りなさい。もう皆食べちゃったわ。家で食べるなら連絡くらい、くれても良かったのに」

 

 美香子さんが、一番に声を返した。そう言いながら、いそいそとありあわせで料理を作り始めようとしていた。

 戸惑いつつも、その表情には喜びが浮かんでいて、ほんとうにこの男のことを愛してしまっているのだなぁと、僕はその様子をみて実感した。

 

「ん? 誰だい、君。ひなたのお友達?」

 

 席に着いた誠二郎さんは、僕の存在に気づいたようで不思議そうに尋ねてきた。

 

「初めまして、桐山零といいます。あかりさんとひなたさんには、仲良くして頂いてます」

 

「これは丁寧に。川本誠二郎です。しかし……何処かで聞いた名前だな」

 

 入り婿だったというこの人の現在の苗字は川本だ。

 川本誠二郎……ひなちゃんたちと同じ苗字を名乗るその姿に、ほんとうにまだ父親なんだと、嫌な汗が背中をつたった。

 

「坊主、飯食い終わったなら、暗くなる前に帰った方がいいんじゃないか?」

 

 考え込む誠二郎さんをよそに、相米二さんがそう僕に促した。

 この時間に帰宅を促されるのは、初めての事だ。でも、それが何故か分かった。

 なるべく彼と僕を関わらせないようにと、そういう心遣いだ。

 

「あぁ、思い出した!! プロ棋士の桐山四段だ!」

 

 腰を上げた僕の動作を遮るように、彼が手をうってこちらをみた。

 

「誠二郎、いきなり失礼だろう。それに、もう桐山五段だ」

 

「あぁそうでしたね。最年少昇段とニュースになっていた。へぇ……まさか、うちにこんな有名人が来ているなんてなぁ」

 

 なめるように僕を見るその視線には、純粋な好奇心以外に打算なようなものが感じられた。

 知っている。

 こんな視線は嫌と言う程経験してきた。

 

「まぁそんなに急いで帰らなくてもいいだろ。折角だから僕とも話をしてほしいな」

 

 表面的には人好きのする笑みを浮かべる彼に、僕は頷いた。

 見極めたかった。

 この男がもう手遅れの本当にどうしようもない奴なのかどうかを。

 その為に、多少の時間を割くのはしかたない。

 

 意外なほど、会話は軽快に進んだ。

 この辺の口の上手さは流石だと言うべきだろうか。

 テレビや雑誌の事を引き合いだして、あれはホント? これは? っと、さりげなく僕の情報を集めていた。

 おそらく一番気になっているだろう、対局料とか収入のことも。いまは本気になって調べたら公開してる対局も多いからある程度のことはばれてしまう。

 天涯孤独な子供、親が残した遺産もある。

 

 そして、あかりさんが怪我した僕を助けてから、よく三日月堂やこの家に来ていることも伝わってしまった。

 この人は思ったはずだ。この子どもは、自分の娘に少なからず好感をもっていて、そのために何度もここを訪れていると。

 

 実際のところは前の人生でお世話になった分の恩返しがしたいっていう絶対に分かりようがない理由だけど。

 

 使えると思ったはずだ。

 上手く利用できると。

 別にそれはいい。

 僕に興味をもって何か仕掛けてくるなら、その方がやりやすいから。

 

 

 

 表面上は和やかに終わった会話のあと、彼は僕を送っていくと家をでた。

 軽快なトークはその道筋でもやむことはなかったけれど、人気のない道にきたときに、それはきた。

 

「なぁ……それで、ほんとの所どっちが本命なの?やっぱりあかり? それともこれからにかけて、ひなた?」

 

「は?」

 

 ビックリするくらい色のない声がでた。

 

「だからさ……どっちか、好きなんじゃないの? じゃなきゃ、こんな下町の和菓子屋を御用達になんかしないでしょ。まぁ僕としては二人のどちらでも応援するけどね」

 

 二人とも気立てが良い子に育つよ、美香子の子どもだから。

 そう笑う男の言葉を、脳内で処理をするのを拒否していた。

 

 妻の実家のお店をこんな風にいうか普通。

 その上、僕が二人を何だって?

 そんな言葉で片付けていい感情じゃない。

 そんな単純で無邪気な感情じゃない。

 何よりも、そんな風に言われてしまったら、今のこの関係すら酷く俗物的なものに思えてしまった。

 繊細で、神聖な場所を土足で踏み荒らされるような感覚だ。

 

「奥さんのご実家のことそんな風に言うのはいかかでしょう。三日月堂の和菓子は、あそこでしか生み出せない価値があると僕は思います」

 

「へぇ……そこまで、かってくれてるのか。これは失礼しました。

 ……じゃあさ、店がやばくなったら多少は期待していいの? 御用達のお店だもんね」

 

 来た。どんなアプローチだろうと、絶対に金の無心はあると思っていた。

 けれど、随分早いな……。それだけ甘く見られてるってことか。

 

「最近は、売上伸びてるでしょう。経営が黒字なのは確認してます。お金が必要なのはお店じゃないですよね?」

 

 気分はよくなかったけど、この男の素行調査を依頼した時についでにお店の方もほんとうに軽くだけど調べて貰った。

 ここ最近は大口の仕事が増えているし、新しいお客さんも増えているらしい。

 ……プロになってからずっと、ちょっとした対局のおやつに三日月焼きを持ち込んでみたり、テレビや取材がある度にそれとなく推してきた効果が、多少はあるかもしれない。

 もちろん、お店の和菓子が美味しいのと、相米二さんと彩さんの対応が素晴らしいのが大きな要因だ。

 

「まいったな、ちょっとした冗談のつもりだったんだけど、そんな風に真面目に返さないでくれ」

 

 誠二郎さんは肩をすくめてそう言った。

 

「あまり、甘くみないで下さい。あなたが何を考えているのか、大体のことは予想がつく。娘さんに熱をあげる、世間知らずの子ども。良い金づるになりそうだと思いました?」

 

 僕の言葉に彼は、サッと顔の色をかえた。

 取り繕って、何を言ってるのかサッパリだ、とそう笑ってみせたけど、一瞬のその表情で知れてしまう。

 

「甘い汁をすすろうと寄ってくる大人はたくさんいた。独りになって東京に来てから、そんな手を振り払って、真に僕のことを想って延ばされた手だけに、なんとか縋ってここまできた。

 そうやって、生きて、いま自分の足でたっている。貴方の手で踊らされるほど、僕は安くない」

 

 彼は僕のことばに肩をおとして、自分の髪をぐしゃぐしゃとかき回した。

 

「まいったな……嫌われたもんだ。ま、別にいいけどね。ひなたやあかりとはこれからも仲良くしてやってよ」

 

 そう。自分がどれほど嫌われようと、僕にとって二人が特別であり続ける限り、関係が切れることはない。

 この男は、それが分かっている。

 ……そして、本当にどうしようもなくなったら、僕が手を出すであろうことも。

 

 じゃ、この辺でもういいだろ。と来た道を帰り始めようとする。

 旗色が悪くなったら退散しようとするところも相変わらずだな……。

 僕は、我慢できなくなって、彼の背中に問いかけた。

 

「あえて聞かせてもらいますけど……どうして定職につかないんですか? 家にも帰らず……僕には、考えられない」

 

 どんなに自分がどん底でも見捨てないで愛してくれる奥さんと、あんなに可愛い娘がいて、こうなってしまう理由が本当に分からなかった。

 あんなに素晴らしい場所を蔑ろにできる気持ちが理解できない。

 

「……責任とか、義務とか色々、面倒なことが多すぎてさ。もっと楽に生きたいんだ。誰だって、自分が一番かわいいだろ」

 

 君だって、いずれ分かるよ。と、振り返って笑っていた彼の言葉が耳から離れなかった。

 そう、笑っていたのだ。

 一体それの何が悪いのだとでも言うように。

 

 

 

 気が付いたら全力で走っていた。

 立ち止まってしまったら、男の背中をひっつかんで全力で殴りに行ってしまう気がして。

 あいつの気持ちが分かる日なんて一生来ない。

 あれは、僕には理解できないモノだ。

 今日それがはっきりした。

 そして……、美香子さんには悪いけど、あの人が家庭を顧み、改心する日はこないことも。

 

 走り続けて、自分の家のドアを突き破ってしまいそうなほどの勢いで開いた。

 転がり込むように中に入って、玄関でようやく息をつく。

 頭の中も、心の中も、見事にぐちゃぐちゃだ。

 

「他人を自分のペースに巻き込んで……引きずり落とす……あんたその才能だけは最強だよ……」

 

 呟いたぼくの言葉に、にゃーんとシロが答えた。

 顔をあげると、いつまでも玄関で座り込んで動かない、飼い主の様子を見に来たのだろう。

 なにしてるの? といった雰囲気で僕の横にちょこんと座っていた。

 その姿になんだか、泣きそうになってしまって、膝に抱えあげて、そっと抱きしめる。

 シロは少し窮屈そうに身じろぎをしたけど、仕方ないなぁといった雰囲気で、僕の自由にさせてくれた。

 小さな、小さなそのぬくもりに、冷え切っていた心が少しだけあたたかくなった。

 

 ぐるぐると、色んなことを考えて、頭の中はフル稼働。

 寝てるんだか起きてるんだか分からないような夜を過ごした次の日の朝のことだ。

 ポストを開けると、対局の通知が来ていた。

 棋神戦の挑戦権をかけて戦う相手は、隈倉さんに決まったようだ。

 通知を開ける自分の手が、酷く遠いような気がした。

 

 

 

 あかりさんやひなちゃんの気持ち。

 美香子さんの想い。

 あの男の動向。

 これから起こってしまうであろう、川本家の亀裂。

 僕に何が出来て、何が出来ないのか。

 どこまで手をだしていいのか、いけないのか。

 

 目の前の対局のこと。

 大事な一戦だ。

 今年、宗谷さんのまえに座りたいならそう何度もチャンスがあるとは限らない。

 相手は隈倉さん、公式戦は初対局。

 当然気合いも入れてくるだろう。炎の三番勝負の後にかけてくれた言葉を僕は忘れてはいない。

 

 色々考えすぎて、頭が爆発しそうで、擦り切れそう。

 でもそのぶん、限界まで容量を使っている感覚。

 僕はあんまり器用な性質じゃない。

 目の前の対局も、川本家の事も、全部ひっくるめて考えることしかできない。

 

 

 

 とても良いとは言えない、精神状態のまま、気が付けば対局の日を迎えていた。

 

 

 

 

 


 

 桂の間、将棋会館にある一室で、今まさに行われている対局の検討に用いられることが多い部屋だ。

 対局中の棋士の弟子だったり、ライバルだったり、近々対局する相手のようすをみるために様々な棋士が訪れる。

 

 期待の新人桐山零が初の挑戦権を獲得するかもしれない。

 そうでなくても、A級棋士の隈倉さん相手にどんな対局をするか興味がない棋士はいない。

 いつもより多くの人であふれていた。

 それぞれが、馴染みの棋士と将棋盤を囲み、対局室を映し出しているテレビを見ている。

 

 僕は、人が多い所が苦手だ。

 そもそも耳が聞こえづらい日もあるから、あまり親しくない人との会話だって避けたい。

 だから、タイトルを獲得するようになってからあまりこの部屋を訪れなくなった。

 タイトル戦以外の対局となると高位の僕にあわせて対戦相手が関西にやってくることがほとんどだから、東京には免状を書いたり、対局以外の仕事で訪れることが多い。

 けれど、この日ばかりは……他になんの仕事もなかったけれど、この部屋を訪れた。

 

 あの子が上がってくるかもしれない。

 たった数か月前に、きっと僕の前に座ってみせると、そう言っていたあの子が、本当にもうあと一歩と言うところまできている。

 対局を見てみたいと思った。

 

 僕が顔を出すと、その場にいた記者や棋士がざわついていたけど、特には気にしない。

 廊下であった会長は信じられないと言った風に目を見開いていたし、島田にいたってはポカンとした顔で僕をみて固まっていた。失礼な人達だ。そこまで驚かなくてもいいだろう。

 土橋君だけは、僕に気づいて、一瞬ビックリしたような顔をした後、宗谷くんも来たんだねと、自分が駒を並べていた将棋盤の傍に呼んでくれた。

 

 A級棋士が集まっている。

 少し離れたところに後藤さんや辻井さんもいた。関東所属のA級棋士がほぼ勢ぞろいだ。

 柳原さんはきっと会長室に居るんだろう。

 

 対局が中盤に差し掛かったころ。何時もならもっと、今の手はありかなしか、どちらが優勢か、と一手一手に声が上がって、ざわついているはずなのに、対局室は不自然な静寂に包まれていた。

 

 それも分かる。

 一体、誰がこんな展開を予想しただろうか。

 僕だって、想像もしなかった。

 どちらが勝ってもおかしくない。一瞬だって、目を離せないようなそんな対局になるだろうとそう思っていた。

 

「信じられねぇ……」

 

 若手の誰かの小さな呟きが、部屋に響いた。

 思わずこぼれてしまったようなささやきだった。

 けれど、この場にいる。全ての棋士の気持ちを表していた。

 

「隈倉さんを相手にこんな一方的な展開になるなんて……ね」

 

 僕がこぼしたことばに、誰かがグッと喉をならして唾をのみ込んだ音が響く。

 そこに居るだれもが、食い入るように盤面を映し出すテレビに注目していた。

 

 

 

 そう。

 対局は中盤に差し掛かる頃、桐山くんが仕掛けて以降、ただの一度もその主導権を渡すことなく、一方的に盤上を支配する展開になっていた。

 

 

 

 挑戦権が掛かった大一番。

 先手を取ったのは桐山くんだった。

 その初手は、7六歩。

 2手目に隈倉さんは8四歩で「居飛車」を明示する。そして、戦型の選択戦を先手へとゆだねた。

 3手目は「角換わり」を指向する2六歩で、隈倉さんにも異存はなかったのだろう。

 定跡手順の進行となり、10手目に、後手の隈倉さんの方から手損のない角交換へとつながっていった。

 角交換成立後、双方の右の銀が中央5筋へと繰り出し、自軍の歩に腰掛ながら天王山5五の位を挟んで睨みあう陣形の「角換わり相腰掛け銀」となった。

「角換わり」の現代の主流であり、現在進行形で最先端を行く形だ。これは面白い対局になると誰もが思っただろう。

 

 そこからの展開は、お互い慎重に慎重に、指し合っていく。

 当然だ、大事な一局。僅かなミスが命とりになる。

 持ち時間を使いながら、一手一手が重かった。

 

 ひときわ長考になったのは、桐山くんの41手目だった。

 隈倉さんが先手玉に続いて、玉の入城を完成させた局面のあと、持ち時間を1時間つかっての長考に入った。

 そして、指されたのは6八金右。

 その時点では、それほどの時間をかけて指す手かどうかと疑問視する声が上がった。

 僕もその時点では、意図に気づけなかった。

 

 分かったのは、43手目。

 隈倉さんは、用心深く桐山くんの出方を窺い、「穴熊」を示唆する1二香とした。

 それに対する43手目で、桐山くんは、玉頭の圧力を強める2五歩とした、僕はこの時ようやく彼の意図が分かった。

 周りの誰もまだ、気づいてはいなかったけど。

 

 待ちの姿勢を貫いた隈倉さんは、その圧力に対応すべく動きはじめる。

 44手目に6五歩としたのだ。これ対して桐山くんは同歩とする。

 そして、46手目、隈倉さんが7三桂と指したその瞬間、すかさず6四角と、桂馬を跳躍させできてしまった、狭い隙に角を投入させたのだ。

 

 47手目の6四角。

 対局室の誰もが唸った。

 局面をひっくり返す痛烈な一手だった。

 あの長考からここまで、よんでいたのかと、驚愕した声が響く。

 

 僕は確信していた。

 間違いなくよんでいた。

 この手を指すためのあの6八金だった。

 

 そこからはもう、終始桐山くんの独壇場だった。

 隈倉さんの切り返しも、反撃も、全て予想の範囲内と言えるような鮮やかな対応でいなして見せた。

 たった一手で出来た差が、どんどん広がっていった。

 

 そして、83手目、3三角成。

 これ以上ないほど、鋭い踏み込みだった。

 

 これを見て、隈倉さんは大きくひとつ息をついたあと、負けましたと頭を下げた。

 41手目以降、隈倉さんが攻めに転じることはただの一度もなかった。

 

 桐山くんは瞬き2つ分固まったあと、ハッとしたように慌てて有り難うございましたと頭を下げた。

 その様子で、此方に戻ってきたのが、僕には分かった。それだけ彼は、盤上の世界だけにのめり込んでいたのだ。

 

 

 

「……勝っちまった……。最年少挑戦者の誕生だ」

 

 誰かがこぼしたその一声を皮切りに、一気に場が騒然とした。

 

「中学生の挑戦者だって、信じらんねぇ」

 

「プロ入り後一年二ヵ月……最速だよ。こんなん誰も、破れない」

 

「ちょっと待て、桐山これで六段に昇段なんじゃ……」

 

「うっわ、まじかよ、このまえ五段になったばかりだろ」

 

「たった2ヵ月だったな……」

 

 僕の耳には、もうその会話は入ってこなかった。

 最年少挑戦者とか、六段昇段の最年少記録の更新とか……周りはなんだか、ざわついてるけどそんなこと、どうでもいい。

 

 彼が、僕の前に座る。

 棋神戦は、持ち時間8時間2日制の7番勝負。これ以上ないほどの最高の環境で、じっくりと時間をかけて彼と指し合う。

 たとえストレートで僕が防衛したとしても、4局は指せる。

 もし、彼が今日のような集中力を見せてくれたのなら、防衛だって充分に危うい。

 

 あぁ……どうしよう。今から楽しみで仕方がない。

 第1局は7月上旬になるだろう。それまでに、どんな対策を練ろうか、僕の頭はもうそのことでいっぱいだった。

 

 

 

 

 


 

「――負けました」

 

 そう下げられた頭をみて、ようやく現実に戻ってきたような気がした。

 慌てて自分もそれに応える。

 

 驚くほど、研ぎ澄まされて、あっという間の対局だった。

 まともに指せるか昨日まではあんなに不安だったのに。

 勝負事の世界で、メンタルが及ぼす影響は大きい。

 特に僕は結構、その影響を受けるタイプだ。前の人生では、その辺を自覚するのに随分かかってしまった。

 今は、自覚してる分だけはマシだ。だからってどうすることも出来ないけど、それを踏まえて心積もりができる。

 

 でも、今日対局が始まるまさにその瞬間、なんとなく勝てるような気がした。

 根拠はなかった、でもその瞬間に、将棋以外の思考は全部シャットアウトできた。

 ここ数年で、一番集中して指せた対局だったことは間違いない。

 

「桐山五段、棋神戦の挑戦権の獲得おめでとうございます」

 

 考え込んでいたら、いつの間にか周りに記者が集まってきていた。

 そうか、インタビューあるよな。対局前もあったような気がするのに、何を答えたか全く覚えていなかった。

 

「ありがとうございます。……なんだか、まだ現実味がないですね……」

 

「今日は、一段と集中されていたような気がしますが、やはり相当な気合いを入れて臨んだ対局だったのでしょうか?」

 

「直前まで、色んなことが頭の中にあって……全く集中できていなかったんですけど……。不思議と初手を指した時から、対局にのめり込めた気がします」

 

「中盤以降、終始桐山五段の優勢だと言われ、勝利を収めました。完勝といってもいい内容だったのでは?」

 

「将棋の内容は、今はまだ客観的にみれていませんので、また振り返ろうと思います。ただ、自分の思うように指せたとは感じています」

 

「初めてのタイトル挑戦となります。意気込みを聞かせてください」

 

「宗谷棋神は、誰もがみとめる棋界トップの実力者です。二日制の七番勝負……僕がどれだけ食らいつけるかわかりませんが、挑戦権を得た以上、見劣りするような内容にならないよう頑張ります」

 

 インタビューに答えてるうちに、ようやく少しだけ、実感がわいてきた。

 その後も、入れ替わりたちかわりやってくる人たちの質問に答え続けた。

 

 

 

 

「桐山くん、おめでとう」

 

 ようやく、一段落がつき対局室を出たところで、声がかかる。

 まさかと思いながら、聞き間違えようのないその声に、ハッとして顔をあげた。

 

「宗谷さん……、見てくれてたんですか?」

 

「うん。君は、約束どおり僕の前に座ってくれる。

 不思議だ。こんな気持ち久しぶり。たぶんこれが高揚してるってことなんだろうな」

 

 初戦から全力で行く。ストレートで終わらせないでね。楽しい時間は長い方がいい。

 

 そう、耳元でそっとささやかれた。

 小さな声だったけど、まぎれもなく興奮と歓喜が混じった声だった。

 

 シャンと自分の背中がのびる。

 そっと僕の肩に手を置いた後、立ち去っていく宗谷さんの後ろ姿をみながら、気が付けば手が震えていた。

 気圧されたわけじゃない、僕だって嬉しいんだから。

 

 ここ数日、沈みがちだった気持ちが、あっという間に浮上してくるのが分かった。

 時間はない。

 一分一秒だって惜しい。

 今できる自分の最善で準備をしなければならない。

 

 宗谷さんと最高の環境で対局ができる。

 再びその日がくることを、待ち望んでいた。

 少しでも早くその日を迎えるために、今までがむしゃらに走ってきたのだから。

 

 

 




棋神戦挑戦権の獲得にともない、六段に昇段。
五段だった期間は僅か2ヵ月ということに。しかし、リアルの方がすごくて、何故かあまりすごく感じない気も……。

誠二郎さんとのコンタクトが桐山くんの、心理状態にもたらした影響は少なくありません。
様々な葛藤にフル回転する頭を、上手く将棋モードに切り替えれたことが勝因です。原作11巻の脳内フィーバー状態をイメージしながら書きました。
これが、上手くいかない日もきっとあるんでしょう。
自身の感情を完璧にコントロールするなんて、不可能です。それが出来たら最強なのだろうけど……。
一番良いのは、大事な対局前に、そんな風に心を揺らしてしまう出来事が起こらないようにすることですが、人生なんていつ何が起こるかなんて決めれませんから。
その点において宗谷さんは、凄く有利な気がします。まず、将棋以外で心揺らすことなさそう。
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