2月に1級に昇級した僕は、これから初段を目指し、その先にある三段リーグまで到達しなければならない。
昇段の規定は昇級の規定よりも厳しくなる。
連勝であれば8連勝。または7割以上の成績を長い目でみて出す必要が出てくる。具体的に言うと12勝4敗・14勝5敗・16勝6敗・18勝7敗といった具合だ。
当然だが負けてしまうと、それだけ昇段までに時間がかかってしまう。
三段リーグは半年ごとの区切りでの開催になる。僕はこのまま勝ち続ければ、一番早くて小5の秋からのリーグに参加できる計算だ。
もし、仮に負けが続いて、昇段がのび小5の9月までに三段昇段を決めることが出来なければ、半年また待つ必要がある。
それは絶対に嫌だった。
今までも、手を抜いたわけじゃないが、より一層気合いが入る。
その月、最初の奨励会の帰り道。
僕は会館近くの公園で、懐かしい顔を見かけた。
声を掛けるかどうかは、随分と迷った。
けれど、ブランコに座ってゆらゆらと足を揺らしながら、所在なさげなその姿に、見て見ぬ振りは出来なかった。
「帰らなくて、良いんですか?」
僕の言葉に反応して彼女は顔を上げた。
「……驚いた。あなた自分から話しかけたりもするのね。私の事が分かるの?」
「はい。今1級の幸田香子さんですよね。良くして頂いてる方の娘さんですし、僕も今日から1級ですから」
彼女が前回の知り合いだからというだけでなく、流石に自分がこれから当たるかもしれない人の名前は覚えている。
「ふーん……将棋以外には全く興味がないのかと思ってたけど。
帰らないのかって? 嫌なのよ。今日の対局2敗もしちゃった……せっかく最近は勝ち越せてたのに、また昇段が先送り」
「でも、暗くなって来ますし、お家の人も心配しますよ」
この言葉に、キュッと彼女の目が細くなる。
「あなたには家がないものね。羨ましい?」
キツイ切り返しだった。
普通の小学生なら何も言えなくなるのではないだろうか。
でも、僕には彼女の少し毒を含んだはっきりとした言いようが、懐かしい気がした。
「……はい。とっても羨ましいです」
「そんな顔しないでよ。別に虐めたいわけじゃないの」
素直に答えた僕の返事に、虚を突かれたような顔をして彼女は少しバツが悪そうだった。
そう、激しい一面を持っているけど、根はとても繊細で優しい人なのだ。
「あんたはそう言うけどね、親がいたって、家があったって、父さんが私の事を見てないことが分かるの。期待に応えられない私は、あの人の視界にさえ入れない」
そう言って目を伏せた彼女は、とても寂しそうだった。
幸田さんは自分には特に厳しい方だったけれど、周りにもどこかシビアなところがある人だ。
殊に将棋に関しては、妥協するような人ではなかった。
子供に強要することはなかったけれど、それほどストイックに将棋に打ち込む父の背中を見ていたら、どこかプレッシャーも感じてしまうだろう。
でも、娘が大事じゃないわけがない、可愛くないわけがないのだ。
僕だってそうだったから良く分かる。
幸田さんも不器用な人だし、口数もそれほど多い方ではない。なんとなく二人の間で早くも、すれ違いが起きているような気がした。
「綺麗だし、自分に自信もあってカッコイイし、貴女の事を羨ましいと思ってる人はいっぱい居ますよ。他の人が持ってないものを沢山持っていると思います」
「そんなこと分かってるわよ。でも、私は今一番あなたほどの棋力が欲しいわ」
「僕には、逆に将棋しかありませんから……」
「人間ってどうして、こう無いものねだりなのかしらね」
僕の返事に彼女は、大きく溜め息をついた。
「幸田さんは……」
「やめて、その呼ばれ方は嫌」
強い口調で遮られてしまった。……難しいお年頃だ。
「……香子さんは、女流棋士になるつもりは無いんですか? 奨励会で1級になれるほどの実力なら充分望めるでしょうし……かなり強いと思うのですが」
将棋界には研修会という機関がある。
主として女性たちがそこで将棋の勉強をして、女流棋士になるのだ。
女流棋士もまれに、僕たちプロ棋士のタイトル戦に参戦してくることもあるが、基本は女流棋士同士で女流のタイトルを争うことになる。
奨励会で1級にいる彼女には、充分に研修会で勝ち上がって女流棋士になるだけの棋力があるはずだ。
「それで? あなたがこれからなるプロ棋士たちに、影で馬鹿にされろって?」
男は奨励会を勝ち抜いて三段リーグを抜けて棋士になるしかない。それは、研修会で女流棋士になるよりもはるかに厳しい規定だ。
それゆえにその狭き門を突破してきた矜持を持っている人が多い。
どうしても女流という枠のなかだけで勝ち抜いてきて、女流棋士同士で対局し合う彼女たちの事を、下に見る棋士がいるのは事実だ。
実際、女流のタイトルを持っている女流棋士のトップと、奨励会の二段、三段程度が対局すると、奨励会員が勝ってしまうという事例が普通にあったりする。不思議なもので棋力の差になぜか男女差がみられるのだ。
そのことに関して、科学的になにか解明されているわけでもないし、単に男性の方が圧倒的に将棋人口が多いからかもしれない。
「そんな事ないですよ! 女性への将棋の普及に女流棋士さんは絶対に必要です」
そもそも、女流棋士制度が出来たのはその目的が大きい。
同性が頑張っていれば、女性だって将棋に興味を持つ機会が増えるだろうし、美しい着物をきて真剣に盤へ向かうその姿に、幼い少女が憧れを持ったりするだろう。
将棋界が男社会なのは事実だけれど、それだけに甘んじていられる時代ではもう無い。
実際、将棋人口は日々縮小していっているのだから。
「今のあなたはそうでも、心の中で下にみてるプロ棋士は多いわ。でもそれも分かるのよ、歴代で誰一人として奨励会の三段リーグを抜けて棋士になった女性はいない。
だからこそ、私はそれを実現したかった……」
そうじゃなきゃ意味が無いのよ。と、彼女はつまらなさそうに土を蹴った。
その姿に、彼女は将棋に拘りがあるのではなくて、将棋を通じて父親に自分のことをもっと見て欲しいと思っている、一人の女の子なんだと分かった。
「お父さん、あなたの事をとても気にしてたわ。弟子にしようとしてたんですって? 結局私にも、歩にもそんなに期待してないのよ。実子がだめなら他所の子かしら」
「それは、違いますよ。幸田八段は優しいから……親友の子どもだった僕を放っておけなかったんです」
香子はこの言葉に少しも納得していないようだった。
「あなた、すぐに断ったそうね……どうして? 将棋をやるには最高の環境が手に入るのよ」
「……将棋だけじゃなくて、他にも大切にしなきゃいけないことがあるって思ったからです」
「アハハッ、自分には将棋しかないって言ったその口でそれを言うんだ?」
「すいません……」
彼女は大きくひと漕ぎしてから、ブランコから飛び降りた。
そして、傍にいた僕のコートの胸元を掴んで引き寄せる。
「……ほんと、生意気ね」
身長は4つ上の彼女の方がずっと高かった。グッと引き上げられた首元が少し苦しい。
きつく吊り上がったまなじりが、前の人生で僕に負けて手が出たときの彼女の瞳と重なった。
「奨励会であんたと指す日。楽しみにしとく」
小さく囁くほどの声だったけれど、とても鋭く耳にささった。
そう言い捨てると、パッと手を離して、ツカツカと公園から去っていく。
このまま、まっすぐ家に帰ってくれるといいのだが……。
やっぱりどうにも上手く、話せなかったことが少し残念だった。
その次の奨励会で、僕の対局相手の3人目が香子さんだった。
この前があっての今日だったので、流石に少し気まずい。
お互いに駒を盤上に交互にならべながら、対局の準備をしていた時だった。
彼女が囁くようにポツリと俺に告げる。
「ねぇ……この対局に負けたら、私奨励会を辞めるわ」
静かだけれど、毒をはらんだ声だった。
これには、流石に駒を置く手を一瞬止めてしまったけれど、何の反応も返さずに粛々と対局の準備を進める。
本気か、はったりか、定かではないけれど、一種の盤外戦術だろう。
以前も彼女には、次に僕が対局する予定の棋士の事情を聞かされて、随分心を揺さぶられたものだ。
静かに始まった対局だったが、内容はかなり激しいものとなった。
香子さんと対局するのは、小学生に戻ってからは初めてのことだったが、その棋風は以前と変わりなかった。
彼女はその気性も相まって、待ったりじっくりと囲ったりする戦法はあまり好きではなく、相手の陣に踏み込んで、駒を荒らしていく乱戦が得意だった。なんというか攻撃的な棋風なのだ。
僕は、当然彼女の戦法に乗った。
奨励会での僕の対局は、相手の戦法にのって指し進めたいであろう対局の内容をなぞりつつも、最終的には主導権を頂いて、勝つというパターンが多い。
このくらいの子たちが、この型がくればどういう風に駒を持っていくかはある程度経験で解るし、上手く指し合って気持ちよく終わらせたかった。だから、棋譜も綺麗に整ったままの事が多い。
でも、今回はすこし違う。
彼女が自陣に踏み込んでくるのに合わせて、僕も果敢に攻め込んで見せた。防御なしの殴り合いだ。
盤上はびっくりするくらい荒れたし、終盤になるとこれはいったいどう落ち着くのかと思われただろう。
けれど僕は詰みまで読み切っていたので最後はそれなりにまとめられたと思う。
お互い攻撃に走ったために、手数はおどろくほど短かった。
一瞬僕は前の時のように、張り手がとんでくるかと身構えもしたけれど、そんなこともなく、終局を悟った彼女は静かに負けました。と告げた。
その姿はとても新鮮で、僕は有り難うございましたと、返すことしか出来なかった。
「ねぇ、……ちょっと! 待ちなさいよ!」
会館から出てしばらく歩いたところで、追いかけてきた彼女にそう呼び止められた。
「あの……」
「負けたわ!! 完敗よ。あんた強すぎ」
「えっ!?」
驚いた。彼女が僕にこうもはっきりと負けたという日が来るなんて。
「お父さんと指した時みたいに、勝てる気がしなかったわ。……でもね、癪なんだけどここ最近で一番良い将棋が指せたって思う。久しぶりだったの。将棋を面白いなって思ったのも」
「そうですか……僕としては、そう言ってもらえると嬉しいです」
「でも、やっぱり決めたわ。奨励会は辞める」
その言葉に、僕が困ったような顔をしたのをみて、彼女は続ける。
「あんたに負けたからじゃないわよ。そりゃあ、対局前にちょっとは動揺すれば良いと思ってそう言ったけど。
単純に敵わないなって、思い知らされた。あなた自分には将棋しかないって言ってたわよね……」
「……はい」
「やっぱり、それくらいじゃないと駄目ね。この先には行けないわ」
まるで憑き物が落ちたような表情で、彼女はあっさりとそう言った。
けして、短い道ではなかったはずだ。
男がひしめく奨励会に所属し数年。1級まで登りつめるのに彼女だって相当の努力と時間を捧げただろう。
そのうえで、こうもあっさりと認めてしまえたことが不思議だった。
それほどまでに、何かをかえる対局だっただろうか……。
「それにね。この前、女流棋士の道を示された時、一瞬でも迷わなかった自分にも驚いた。結局私は、何が何でも棋士になりたいわけじゃないのよ。だって本当に将棋が好きで、それがしたい子だったらその道を選ぶはずだわ。
私はただ……将棋を通して、お父さんに近づきたかっただけ……」
その気持ちも分かる気がする。将棋の世界で生きている父さんのことを理解するには、やはり一番この世界に飛び込んでみるのが近道だったのだろう。
でも、それ以外の道でもこの二人は分かり合えるとおもうのだ。
なんせ、父と娘なのだから。
僕は、結局彼女の言葉に何も返せず、二人の間に不思議な沈黙が流れた。
彼女はその沈黙の後に、唐突に尋ねてくる。
「ねぇ……本当に私の事、綺麗だと思う?」
「えっ!? あ、はい、嘘は言いませんよ」
「それでいて、自信があってカッコイイ?」
「えぇ、僕よりずっと」
「そう……。いいわ、まだ何も決まってないけど、将棋以外の道で、もっともっと輝いてお父さんに認めさせてみせる」
そう宣言した彼女は、やっぱり綺麗で美しいと思うのだ。
これでもう、奨励会で会うのは最後ねと、まぁ応援しておいてあげるから頑張ったら、と背中を強く叩かれた。
有り難うございます。と返してその場を離れる。
「ねぇ、零!」
と、後ろから以前のように名前を呼ばれ、驚いて振りかえった。
「私に勝ったんだから、この先も負けんじゃないわよ!!」
ふん、と仁王立ちで腕を組んでそう言い切る姿に、懐かしい義姉の姿をみた。
「はいっ!」
彼女の前で発した声で一番、力強く返事が出来たと思う。
たった一言だったけど、その答えに、彼女は満足気に頷いていた。
以前の時のように、父に引導を渡されて将棋から離れたのではなく、自らこの道に別れを告げるのだ。
幸田さんとこの後どういう話をするのか分からないけれど上手くいってほしい。
この先の、彼女の進む先に幸があらんことを。
そう願わずにはいられなかった。
3月最初の奨励会。
2月で1級に入って6連勝をしている僕は、この奨励会で続けて2勝すれば昇段となる。
この日僕の昇段を左右する二人目の対局者は、二海堂晴信だった。
二海堂とは以前、良いライバル関係を築けていたと思う。
暑苦しくて真っ直ぐでちょっと口うるさい奴だったけど、彼と指す将棋は本当に楽しかった。
病と闘いながらの彼の人生は短かった。その分将棋に命を燃やしていたように思える。
二海堂と戦った唯一のタイトル戦の事を思いだす。
僕が初めて勝ち取ったタイトルの玉将戦の防衛2年目。挑戦者になったのは彼だった。
近年稀にみる若者同士、しかも幼い頃からのライバル同士の対局とあって世間の注目も随分浴びた。
結果は4勝3敗で僕の防衛だった。
今でも全ての対局をはっきりと思い出すことが出来る。僕はまたこの玉将戦か、はたまた別のタイトル戦で彼とやりあえる日が来るだろうと楽しみにしていたものだ。
けれど、それが二海堂にとっての最初で最後のタイトル戦だった。
一度はA級にまで昇級し彼がずっと憧れていた名人戦の挑戦権の獲得だって射程の範囲に収めた。
けれど20代の後半に差し掛かり体調が悪化する。入退院を繰り返し、不戦敗も多くなり、特に持ち時間の長い対局での成績が振るわなくなった。
それでも彼は諦めなかった。
一度病院を勝手に抜け出して、対局に来たことがあったほどだ。
B1に降級したこともあったが、彼は戦ってまたA級復帰を決めていた。
でも、28歳のその年、ついに一度休んで体調を整えることに専念すると言っていた。
僕は仕方ないとは思ったけれど、やりきれなくて複雑で堪らなかった。
絶対に戻って来いよと声を掛けた僕に、二海堂は当たり前だろと笑って、桐山おまえは、頂点まで登りつめて俺を待ってろ、必ずそこに行ってやるから、と力強く宣言した。
その翌年、29歳の若さでその人生に幕を閉じる。
死の間際に、棋譜を諳んじて、彼の最後の言葉は2七銀だったという。
彼の生前の希望だったらしく、葬式は身内だけでこぢんまりと行われ、僕らがその死を知ったのは、全てが片付いた後だった。
そのことが僕に与えた精神的な衝撃は相当なものだったが、その反面翌年から成績は右肩上がりになった。
頂点で待っている。
そう彼と約束した。
30歳のときに八冠を成し遂げたことに、二海堂の事が大きく影響していたことは間違いない。
8つ目のタイトル戦の後に、僕は初めて彼の墓参りに行った。
それまではとても無理だった。
墓前で約束を果たしたぞ、と告げた後に、彼ともう盤を挟んで会うことが出来ないことを実感して、静かに涙がこぼれたことを覚えている。
席について対局の準備をしようとしていた時、彼から声がかかった。
「ついにこの日がきたか! 桐山零。俺はお前と対局できる日を心待ちにしていたのだっ」
その声と言葉が二海堂らしくて、僕は嬉しくなった。
あぁ……また、会えたんだな。また、こうして将棋を指せるんだなと。
「僕も……楽しみでした。よろしくお願いします」
その言葉に彼が嬉しそうに笑ったのが分かった。
1級同士の対局になるので、当然平手打ち。正真正銘真剣勝負ができる。
今日は僕が先手だった。
二海堂の棋風は知っている。
この時から彼は居飛車党だったはずだ。だったらそれを誘わないわけにはいかない。
彼は少し虚を突かれたような顔をしたけれど、すぐ乗って来てくれた。
やっぱりそうじゃないと面白くない。
戦法は相居飛車の相掛りとなった。
お互いに角道を開けないまま、飛車先の歩を伸ばしていき、まず先手が歩を交換する。
つまり、お互いにその気が無ければ取られる戦法じゃない。
中盤お互いに駒を組み合うような形になった。
僕は中盤少し考えて、すぐに桂馬を取りに行かないで玉の懐を広げるために、9六歩とする。戦う前の下準備だ。
二海堂は後半に差し掛かるころに、7六桂を打った。歩を打って攻めるのでは遅いのでスピードアップの手筋で良くみられる手だ。しかし、この場面では、歩を打って攻めたほうが堅実だったと思う。
形勢はそこから僕のペースに傾きだした。
決め手は167手目で僕がさした1一角成だった。
同飛車は香車から歩で叩いて桂馬でつかまるし。同玉にしても、1三香に角の間駒。
金銀なら取ってそれをとって、馬で捕まえに行ける。歩なら2三桂から4三馬。
金でも2三桂から1二香成など、銀でも1二香成から2二馬、4四角から詰みに持っていける。
それでも、二海堂はなんとか生きる道がないかと諦めずに指し続けた。彼のこういうところは本当に凄いと思う。
結局177手目に彼は、振り絞るような声で負けましたと告げた。
奨励会での対局で、此処まで長く指した対局はなかった。
小学生に戻ってから、初めて少しだけ本気になって、自分の勝ちだけを取りに行った将棋になった。
席を立つとき、僕は迷ったけれど彼に一言告げる。
「……先に行って待っています。君とは棋士になってから、また指したいです」
たぶん奨励会に入って初めて、感想戦以外で対局者に声を掛けたと思う。
二海堂は悔しそうに俯いていた顔をパッとあげて僕をみた。
「俺と? 俺とまた指したい?」
「はい。だから、すぐに上がって来てくださいよ」
その言葉に、彼の表情はパッと明るくなった。
「勿論だ! すぐに追いついてみせるからなっ」
二海堂の棋力は高い。昇段しても充分やって行けるだけの力はもう持っている。
ただ、体調のこともあって奨励会を欠席してしまうことが他の子よりも多い。
奨励会は家の都合や、学校の都合で休む子もいるので、不戦勝にはならなくて、欠席したときも連勝はとぎれないが、一回休んでしまうと、その分3局か2局か出遅れてしまうのは避けられない。
彼が昇段に少し時間が掛かっているのはその為だろう。
いや、入会後1年で1級まできているのは充分凄いことなのだが。
だから、大丈夫だ。前回同様すぐプロになるだろう。
そうして退出しようとした、僕の背中に今度は彼から声が掛かる。
「なぁ……桐山、俺はお前のライバルになれるか?」
あぁ……やっぱり二海堂は変わらない。いつだって真っ直ぐだ。
「そうだと、良いなぁって思ってます」
僕はまた、二海堂がそう言ってくれるのが嬉しくて仕方なかった。
振り返って頷いてみせた僕に、彼がみせたはじけるような笑顔が眩しかった。
この対局に勝ち、入会以来38連勝。
ただの一度も負けることなく初段になるという伝説を棋界に刻むことになる。
3月2回目の奨励会。
今回から僕は段位者なので、この奨励会からは一日二局の対局になる。
8連勝して、2段になるためには最短でも2ヵ月かかるのだ、負けるわけにはいかない。
その日の奨励会の帰りに、たまたま会長をみかけたので声を掛けることにした。
そう、困ったことに僕の師匠は未だに決まっていないのだ。
「神宮寺会長、お時間少し大丈夫ですか?」
「ん? おぉ!! 誰かと思えば期待の新人を通り越して、人間じゃないモノノケの類じゃないかとささやかれ始めた桐山きゅんじゃないか」
「……僕、そんなこと言われてるんですか!?」
そんな風に言われていたとは、初耳だ。
「まぁな、そんな小さいなりで鬼みたいに強いんだから仕方ねぇだろ。
気にすんな、このままお前さんが勝ち進んで小学生プロにでもなってくれりゃあ話題性抜群。将棋界としてはありがてぇ話だよ」
「僕は本気でそれを目指してますので。あの……それで一つお願いがあるんですけど……」
会長は僕の宣言を、口笛を吹いてはやし立てた。面白がりつつも期待をしてくれているらしい。
「いいねいいね、未来ある若者の頼みだったら叶えてあげるかもよ」
「僕まだ、師匠が決まっていなくて。会長はたしか入会する時に、一年以内に初段まであがれたら、考えてやっても良いとおっしゃってましたよね?今月頭に昇段しました。師匠の話を受けて頂けないでしょうか?」
この言葉に、会長は相当驚いたようだった。
「え? もう初段まできちゃったの? 桐山おまえ、入会してからまだ半年くらいだろ……。
負けなしって比喩じゃなくてホントだったんだな……」
多忙だから、流石に一奨励会員の詳細な成績までは、把握していなかったんだろう。まだ三段リーグに到達しているわけでもないので、それも当然だ。
会長は頭をかきながら、すこし考え込んでいるようだった。
「あ……えっと、お忙しくて難しいなら、大丈夫です」
「あー違う、違う。確かお前の師匠の件は幸田からもちょっと話があったなぁと思い出してな」
「幸田八段からのお声かけは、有り難かったですがお断りしたんです……」
「知ってるよ、あいつちょっと落ち込んでた。で、自分の代わりにおまえさんに合いそうな師匠探してるんだよ。確か……結構いい話まとまりそうだった」
「え!? 僕何も聞いてませんが……」
「そのうち、話がいくだろ。まぁ……その話も嫌だったら、俺が弟子にとってやるよ。会長職もあるから、あんまり構ってやれないが、将棋に関して教えることはほぼなさそうだしなぁ……。優秀な弟子がいるっていうのは、師匠にとっても有益だし」
会長はそう言って、僕のあたまを撫で回して、笑いながら去っていた。
頭がふらふらするほどの勢いだ。
幸田さんが紹介してくれそうだという方も気になるけれど、それが駄目なら会長もなってくれると言ってくれた。
ひとまず、師匠の件は安心だろう。
春休みに入り、相変わらず記録係の仕事を沢山入れてもらった。
将棋づくしで、充実した休みだったと思う。
4月に入り、僕は小学5年生になった。
学校はクラス替えもあったりしたけど、青木くんとはまた同じクラスでほっとした。
奨励会での連勝も伸ばし続けている。
そして、4月下旬の奨励会が終わった時に、島田さんから会長室に寄ってくれないかと声が掛かった。
おそらく師匠の件だろう。
何故かは分からないけれど、なんとなく僕は思った。
今日、師匠を決めるだろうと。