小学生に逆行した桐山くん   作:藍猫

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第三十五手 脇道を征く

 

「――負けました」

 

 この言葉を、こんなにもはやく、この子に告げることになるとは、思いもしなかった。それも、タイトルの挑戦がかかった対局で。

 

 終盤、良い所などなかった。どうにもならないと分かってからは、ただ淡々とそこに向けて指し続けた。桐山は、最後の最後まで、気を緩めず慎重に正確に指し続け、決して手は抜かなかった。

 

 インタビューでは、当たり障りのない事しか答えられなかった。負けた直後は、中々にくる。ただでさえそうなのに、今回は久々の宗谷への挑戦権を逃し、その上、自分よりも随分と年下の若手に、完敗したのだから。

 

 ふと、宗谷と初めて対局して、負けた時の事を思い出した。

 やはりこの二人は似ている。こちらの将棋をこうも鮮やかに躱して、何食わぬ顔で叩き潰していく。

 桂の間のざわめきが、此処まで聞こえてきていた。中学生のタイトル挑戦者が現われたわけだから、仕方の無いことだろう。最年少記録、プロ入り後の最短記録、様々な輝かしい記録を引っ提げて、桐山は宗谷に挑む。

 

 炎の三番勝負の少し後に、会長室で宗谷と話した日の事が、嫌でも思い出された。なんの疑いもなく、桐山が自分の前に座りにくると、あいつは確信していた。

 初めて対局した時から、なるほど小学生でプロになるのも分かる。こいつは、たぶん一足飛びに強くなると思わせてくる子だった。

 

 ただ、俺たちの認識よりも、ずっと正確にそれを感じていたのは宗谷だったのではないだろうか。

 宗谷は、プロになってから、誰にも止められることなく、その頂きに立った。当時名人だった、神宮寺会長からその座を奪取してから、他のタイトルを総取りするまでに、そう時間はかからなかった。

 同じプロ棋士だ。皆、膨大な時間を将棋に捧げて、人生をかけてきた。

 けれど、どうしたって差は生まれる。才能、センス、環境、努力、運。様々な要素が関わってくる。

 宗谷はよく、将棋の神様に愛されていると、そう称されてきた。それほどの特別な強さだったし、正直に言って別格なのだ。その、宗谷が不思議なほどに興味を持っていた新人。

 

 同じなのだと、あいつだけは真っ先に気付いていたのだと、今なら思う。

 

 桐山の経歴は特殊だ。

 将棋をするのに、それほど金はいらないが、プロになるとなったら別の話になる。

 奨励会に入り勝ち進み、三段リーグを抜け、プロになる。奨励会費だけみても、一般家庭ではなかなかに痛い出費だ。本人も学生時代の時間のほとんどを捧げることになる。プロになるためには、周囲の理解や、支えは、当然必要になってくるはずだった。

 それを、保護者が不在に等しい子どもが、あっさりとこなしてみせた。

 あいつは自分がプロになることを疑ってもなかったよ、と当時をみていた島田が言っていたのを聞いた事がある。将棋しか、縋れるものがなかったのだろうと揶揄した者もいた。

 だからといって、此処まで突き抜ける事が出来るかは別問題だろう。桐山にはその適性があって、環境がそれに拍車をかけた。いや、他に許さなかったといっていい。

 

 そして、それは、宗谷と同じだった。

 

 あいつは、よく自分で将棋以外は、他に出来ることが無いと言う。だから、将棋しかしてこなかったし、それ以外は興味がないとも。

 本当に、世の中とは面白く出来ている。頂点にたったあいつが、これから先も一人であったなら、モチベーションを保つのは難しかっただろう。だから、現われたのだ。同じように将棋に魅入られ、将棋を指せと、そういう使命を持った存在が。

 

 

 

 会館内の奥まった所にある椅子で、そんなことをつらつらと考えていると、底抜けに明るい声がかかった。  

 

「よう、隈倉、流石にお疲れだな」

 

「会長……。そう思うなら、そっとしておくべきでは?」

 

 こういう時でも、声をかけてしまえる人柄は美徳だとは思うが、今は正直遠慮したいところだった。

 

「そう言うなって。なんつーかさ、俺も懐かしくなっちまって」

 

「懐かしい?」

 

「そ、お前さ、桐山と一緒に、宗谷の事も思い出してただろ?」

 

 図星だったので、思わず黙ってしまった。

 

「あっという間に、上がって来た自分の半分も生きてない若造に、俺の名人位はもぎとられた。ありゃあ、傍から観てたぶんには、痛快だっただろうね。でも、俺からしたら、今でも夢にみる衝撃だった」

 

 だから、何となく俺に声をかけたくなったらしい。

 

「誰だって、敗けるのは悔しい、特に台頭してきた若手に敗けるとな、あぁ遂に来たかって思うのよ。宗谷の時も、驚いたが、長生きはするもんだな、まさかまた一人こんな奴が現われるとは」

 

中学生のタイトル挑戦者が現れた。将棋界としては話題としては充分で、会長はもっと単純に喜んでいるのかと思った。けれど、今はどちらかというと、感慨深く、しみじみとこの結果を噛みしめているようだった。

 

「会長だって、充分にそうでしょう。名人位何期お持ちだったと?」

 

「嬉しいこと言ってくれるじゃねぇか。そんでももうとっくに、在位期間は宗谷に抜かれてるし。あいつが頭一つ飛びぬけてるのは、誰もが認めるところだろう」

 

 それは、そうだろう。宗谷は特別だ。とりわけ、将棋に熱をいれるほど、タイトルが欲しくなるほど、あいつは遠くて、けれどその背を掴みたい。

 

「そんな奴にさ、同じ道を征く奴が現われたんだ。そりゃあ、皆ざわつくよな。今までも、桐山は散々やべぇ記録を打ち立てて来た。でも、実際対局した奴じゃないと何処か侮ってるところがあった。宗谷よりはまだってな」

 

「分かってはいたんですよ、でも何処か認めたくないと思っていた棋士は多いと思います。でも、それも今日までだ。タイトル戦をするんですよ、宗谷冬司と、まだ棋士になって一年と少しの少年がね」

 

 何十年。桐山が生まれて、今日にいたるまでのその時間よりも長く、将棋に捧げてきた。

 こつこつと積み上げてきた何かが、鮮烈な強さによって今、揺らいでしまっている。これは敗けた直後だからだと、分かってはいる。けれど、また一から積みなおそうと思うには、少しだけ時間を要するだろう。

 

「将棋界の長い歴史でみりゃあ、宗谷は王道を征く覇者だ。そんで、たぶん桐山もそうだろ。あいつら二人で、将棋史に残るような華々しい記録をきっと幾らでも残す」

 

 会長は、珍しく神妙な顔でそうはっきり言い切った。

 

「でもな、だからって全員がその道を征く必要はねぇだろ。良いんだよ、後ろでも、下でも、脇でも、歩いてりゃあ、いつかは交わるし、自分が辿り着きたい所には着く。そんなもんなんだよ」

 

 文字通り、その一生を将棋に捧げたこの人の言葉だからこそ、重みがあった。

 

「隈倉よ、宗谷を……王者を組み伏す瞬間は最高だぜ」

 

 会長は至極楽しそうにそう笑う。

 

「長い将棋人生、そう何度もは無いかもしれねぇ。でも、進み続ければ何時かはそんな日がくる。お前ほどの奴なら絶対にな」

 

「今の、俺にそれを言うんですか?」

 

 今まさに、桐山に阻まれ、その機会を失ったばかりの俺に。

 

「今だからこそ、だ。忘れられなくなる。その一瞬の為に、将棋を指していたんじゃないかってくらいにな。認めているからこそ、知っているからこそ、あいつに勝ったその瞬間に、全てが報われた気がするんだ。人生に数度のその対局が、俺たちに将棋を指させてるんだろうな」

 

それは、少しだけ分かる。渾身の対局をした時のあの高揚、見事に作戦が決まった時の万能感、かけた時間が長いほどに、返ってきたときの喜びがある。

 ましてそれが、最高の相手とのタイトル戦だった時、どれほどの気持ちになるだろうか。

 

「名局ってのは、それぞれ進んできた道に極まれに転がってる。それが将棋を面白くしてるし、発展させていくんだよ。だから、宗谷だけでも駄目だし、桐山だけでも駄目なわけだ。今、プロ棋士って数百人だろ」

 

「えぇ、現役だけならそうなりますね」

 

「選ばれた数百人だけが、その瞬間のために、頭悩ませて、何年もひたすら将棋をやってんだ、全く天国か地獄かってんだ。でも、俺たちは、大なり小なり、人生を変える一局に出会って、そんでまた辞められなくなる。棋士ってもんは、ホントに難儀なもんだよな」

 

 自分の事ながら、その通りだと思った。そして、また、自分の事は置いておいて、名局が生まれる気配に、横を向いてはいられない。

 

「桐山は宗谷とどんな対局をするでしょうか」

 

「それに関しては、ほんと未知数だな。二日制の七番勝負……タイトル戦でもしんどい方だ。宗谷の方は心配してないが、桐山は初参戦のうえ、まだ中坊だし……、色々考えないといけないところはある」

 

 タイトル戦は長期戦だ、場所もいつもの将棋会館とは異なってくる。未成年のうえ義務教育中の桐山に、様々な制約があるのは、予想がつく。

 

「ま、法的なことは色々誤魔化してだな。芸事の世界と一緒で、将棋も、ことに歴史が古い分、融通は利く。桐山の保護者……の藤澤はムリでも、保護者代わりはいっぱいいるし。あいつは将棋の事だけ、考えてたら良い、後は俺の仕事だ」

 

 会長としては、桐山がプロになってから、盛り上がっている将棋界の行く末のためにも、考えていることは多いようだった。

 

「着物も持ってないだろうし、揮毫の事もあるしな。前夜祭とかも色々面倒は多いだろ。必要なことだけどよ。賢いやつだから、ちゃんとしようとしすぎないかも心配なんだよなぁ。実はあいつ、人見知りだろうから」

 

 テレビの企画の時もそうだが、充分すぎるほど落ち着いて、受け答えをしていた姿を知っている。会見でもそうだったが、桐山零に求められていることを、分かっている節もあった。

 

「宗谷はそのあたり、上手く力抜けてますからね。慣れもあるでしょうが」

 

「あいつなりに重責や負担もあるのは知ってるんだが。将棋一番であとは、まぁぼちぼちにっていうのが、出来る奴だから。でも流石に、今回は色々と桐山フォローしてくれそうな気はしてる」

 

「そういえば宗谷は、デビュー前からかなり桐山を気にかけてましたね」

 

 それは、珍しい事ではあった、基本あいつは将棋の内容しか見ない。

 

「あれは、俺も驚かされた。少しは興味持つかもしれんとは思ったが。年下が、挑戦者として上がってくるのは、宗谷にとっても初の経験だ。普通色々、考えるんだが……あいつ、ただ面白がってるだろ。やっぱ、ちょっと変わってるわ」

 

 自分も年とったと思ったり、若い才能の台頭に焦燥があったりするものなのだが、おそらく宗谷にそれは全く無い。

 

「お互いに良い刺激を貰って、バチバチにやりあって、盛り上げてくれりゃあこっちは、大歓迎だがな」

 

 俺たちにとっては、毎年ある一つの棋戦……けれど、世間の注目度と、異例の年齢の挑戦者の事を考えると、いつものようにとはいかないのかもしれない。色々と、考えを巡らす、会長を横目に、手伝える事があれば、協力はするつもりだった。

 

 

 

「そういえば、会長は、辿り着いたんですか?」

 

 名人位もとり幾つもの名局を残し引退した大先輩に、気が付けばふと、そう問いかけていた。

 

「あぁ? 俺? 馬鹿言っちゃいけねぇ、まだまだ道半ばだよ。だからこそ、会長なんて面倒なことやってんだ」

 

 そう、大声で笑ってみせた。この人は確かに今も、将棋界を牽引している。形を変えて、今なお将棋を愛し、その道を進んでいるのだ。

 

 

 

 今はただ、棋神戦で、桐山が宗谷とどんな対局を繰り広げるのかを、見届けようと思った。

 そうしているうちに、その熱にあてられて、無性に指したくなって、脇道だろうとなんだろうと、また進む気になっているのだろう。

 

 

 

 

 

 




中学生プロ棋士編をまとめた際の書き下ろし。時系列のところに挿入。

羽生先生が、29年在籍されたA級から降級されることが決定しました。
そして、10代で五冠を達成された方が現れました。
五冠は、最近では羽生先生以来のこととなります。

若手の台頭を嬉しく思う気持ちもありつつ、遂にか……という思いもありつつ。
なんとなく書いてみたくなったお話。

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