小学生に逆行した桐山くん   作:藍猫

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第三十六手 棋神戦

 初の挑戦権を獲得した後、僕の周りは、予想をはるかに上回るお祝いムードで、正直少したじたじだった。

 

 初登校の時には、教室に足を踏み入れた瞬間拍手で迎えられるし、校長や教頭に廊下で呼び止められ激励されるし、放課後で将科部では軽くお祝いのパーティが開かれた。

 

 久々に、青木君から呼び出されて施設に顔を出してみれば、此処でもまた小さな祝勝会が開かれる。

 特にもう青木くんの喜びようが、僕もびっくりするくらいで、その笑顔を見ているとようやく、挑戦権を取ったんだと実感がわいてきたほどだった。

 

 川本家に顔を出せば、お祖父さんにこの前は誠二郎さんが悪かったなと頭を下げられて、あれで調子を崩しでもしたら申し訳が立たなかったから勝ってくれて本当に良かったと両手を握られてとても喜ばれた。

 あかりさんやひなちゃんも新聞でもテレビでも零ちゃんのことばっかりだったよってニコニコと報告してくれて、ひなちゃんにいたっては、最近スクラップブック作り始めたんだと、集めた雑誌の記事や新聞を見せてくれた。

 過剰とも言えるほど、僕の事を褒め称える記事が多くて正直居たたまれないが、彼女がとても楽しそうだから、それでもいいかなと思ってしまう。

 

 

 

 そうこうしている間に、一ヶ月なんてあっという間に過ぎてしまった。

 

 棋神戦、七番勝負の第一局は7月の一周目に三重県にある旅館で行われる運びとなった。

 

 タイトル戦は将棋界の一大イベントと言っていい。

 番勝負は全て、将棋会館ではなく、全国のホテル・旅館で行なわれ、その際にほぼ毎回行われている恒例のイベントとして、前夜祭まである。

 

 タイトルホルダーと挑戦者はもちろん、地元の関係者や来賓、報道関係者、施設側の関係者、ゲストの棋士も出演するし、一般に公開する場合は、全国から集まった将棋ファンが参加することもある。

 概ね、タイトル戦の後半になるほど、関係者のみになることが通例だが、それでも場合によっては数百人が関わる大きな催しだ。

 

 お偉い方の挨拶から始まり、鏡開きや乾杯もあるし、当然両対局者の挨拶もある。一般参加の方がいる場合は、プレゼントがあたる抽選会の余興があることも。

 タイトルホルダーとその挑戦者は、主役であると同時に、来て頂いた方々に対してもそれ相応の敬意を払って対応するのが当然である。

 慣れていたとしてもかなりの体力と気力を消耗することになる。

 

 立会人は驚いたことに、柳原棋匠だった。

 概ね八段から九段のある程度の年齢を重ねたベテラン棋士が行う事が多いが、タイトル戦に出ているような第一線で活躍している棋士がすることはまずないのだけれど……。

 どうも本人が希望したらしい。

 副立会人は幸田八段。

 これは、どう考えても僕のためだろう。

 慣れないことがおおい初のタイトル戦の第一局目、副立会人は立会人の補佐が主だ。滅多なことがなければ仕事にかかりきりなんてことにはならない。

 幸田さんは会長から、僕の面倒をみるようにとはっきり伝えられたそうだ。

 

 


 

 前夜祭の前に行われる大切な行程の一つに検分がある。

 両対局者の立ち合いのもと、対局に使う盤と駒に触れて確認し、照明や空調の具合、襖など対局する部屋の環境全てに目を配る。

 ようは対局者が、将棋に集中できる環境かどうかの確認である。何か要望があれば、よっぽど無理難題でなければ、対局者の希望が通る事が多い。

 空間が広い方がいいから襖を外してほしいだったり、鹿威しの音が気になるから対局中は止めてくれだったり、過去に様々な要望があったようだ。

 2日制のタイトル戦では、封じ手を記入する場所の確認なども行われる。

 

 この時に使用される将棋盤や駒は大体において、現地で購入されたり、所有されているものを借用して使われる。

 当然、タイトル戦が終わればホテルに寄贈されたり、持ち主に返却される。

 そのため、このタイトル戦でつかいましたよ、という記念もかねて、将棋の盤の裏や、駒箱に両対局が「揮毫」を行う事が多く、大体がこの検分の時ついでに行われるのだ。

 

 事前に会長から言われていたし、前回の経験から絶対に書くことは分かっていたので、筆で書く練習をしておいた。

 会長は別に下手でもそれはそれで、味があっていいなんて言ってきたけど、せっかくの記念品だ。ちゃんとしておきたい。

 

 宗谷さんが慣れた手つきで揮毫した後に、僕も筆をとる。

 書く言葉は決めていた。以前から何度も書いてきた言葉。

 一筆一筆大切に、想いをこめて。

 自分自身に言い聞かせるように。

 

「䨩瓏」

 

 “れいろう”と読む。漢字は当て字。

 元は八面玲瓏という言葉から拝借した。「どの方面も美しくすき通っているさま。心に何のわだかまりもないさま」という意味らしい。

 

 当てた漢字の「䨩」は「すぐれている・たましい・ 不思議な力・神秘の力」という意味を持ち、

「瓏」は「玉などが透き通るように美しいさま。触れ合って美しく鳴るさま」という意味を持つ。

 僕としては、不思議な力が研ぎ澄まされますように……魂をこめて、美しい棋譜を残せますように……というような気持ちでこの漢字を当てた。

 

 これが意外と前回のときは好評だった。

 言葉の響きと僕の名前の零と兼ね合いも良かったのだと思う。

 持っている揮毫はいくつかあったけど、すっかり代名詞と定着していた。

 今更変える気にもならなかったので、今回もこれが浸透してほしいなぁと思う。

 

 前夜祭の前、対局者入場の前に宗谷さんから声を掛けられた。

 

「慣れない事も多いと思う、困ったら頼ってくれていい。僕じゃなくても、会長とか幸田八段とか」

 

「ありがとうございます。とても、心強いです」

 

「僕はこの手のことは苦手でね……、前夜祭のとき耳の方は絶不調なことが多いんだけど、今日は君が居るからかな。調子がいいんだ」

 

 先輩に良い恰好させてくれ。と僕の頭にポンッと手を置いて、彼は先に会場に入った。

 僕も慌てて後を追う。

 宗谷さんの背中は、大きくて、彼の周りだけなんだか明るくて、やっぱりこの人は特別だと思った。

 

 

 

 両対局者の入場後は、主催者挨拶、将棋連盟代表として会長の挨拶、開催地の代表者の挨拶と続いていく。だいたい形式にはまった挨拶が多いけれど、こういう行事はきちんとこなすことに意義があるし、伝統を重んじ将棋という文化を大切にする意味もこめて、必要な事だ。

 その後は、タイトル戦を行う棋士の紹介。

 宗谷さんはもはやお馴染みの華々しい戦績だけど、僕のほうも随分と盛った紹介をされて恐縮してしまう。

 両対局者への花束贈呈後は、いよいよ僕らの挨拶である。

 

 久々だ。歴史あるタイトルの挑戦権を得たものとして、無様な姿はさらせない。

 大きく一息ついて、僕はステージに上がった。

 

「三重の皆様、こんにちは。このたび、有難くも棋神への挑戦権を頂きました桐山零といいます。……このような場に立たせていただいて、正直、少し緊張しています。同時に、これからついにタイトル戦に臨むのだと実感して、身が引き締まる想いです」

 

 会場にいるすべての人が僕の事をみていた。

 多くの人に見られていることへの緊張と高揚。懐かしい感覚だ。

 

「プロになりたいと決意してから、ただひたすらにこの道を突き進んできました。本当に多くの人に支えられて、今この場所に立つことが出来ています。支えてくれた全ての人に、感謝の気持ちで一杯です」

 

 施設の人に、藤澤門下の人に、将棋に関わる全ての人に、学校の関係者の人に、川本家の人に、……数えきれないほど沢山の人に応援してもらってきた。

 

「最年少の挑戦者、響きはいいですが、裏を返せば経験に乏しい若輩者です。対して、宗谷棋神は、誰もが疑わない将棋界のトップの実力者。

 やはり力不足だったかと、そう言われる事がないように、歴代の棋神戦に恥じない棋譜を残せるように。

 その一心で、このタイトル戦に挑んで行きたいと思っています」

 

 前の人生の初挑戦は、22歳の時、それから考えたら随分とはやくこの場所に戻ってくることができた。

 貴重なタイトル戦だ。挑戦権をつかむだけでも難しい。宗谷さんとの対局だってそうそう得られる機会ではない。

 

 一礼して下がる僕に、会場の方々はあたたかい拍手をくれる。

 期待、声援、激励……。様々な想いが込められていた。

 

 その想いに応えたい。

 今の僕の全てを出し切りたいと思った。

 

 僕の次は宗谷さんの挨拶だけど、開口一番驚かされる。

 

「棋神のタイトルを懸けての対局は、もうこれで何度目かになります。皆様の中には、また私が防衛したと、変わり映えのない風景に、変革を求める方も居たのではないでしょうか」

 

 宗谷さんの挨拶と言えば、大体が定型文。お手本のように型にはまった挨拶が多いのに、今日は序盤から随分と毛色が違った。

 

「今回の挑戦者である桐山くんは、小学生プロから始まり、歴代の連勝記録を塗り替え、数々の最年少記録を更新し続けている、将棋界の変革者です。このたびも、棋神戦の挑戦者の最年少記録を塗り替えました。私としても、非常に興味をそそられている相手です。

 若さ、経験不足……それを補って余りある才能を秘めている存在だと確信しています」

 

 ちらりとこちらを振り返った宗谷さんと目が合って、僕は背筋がピンッと伸びる。

 普段は静かなその瞳の奥に、まぎれもない闘志が感じられた。

 

「ただ、私にも矜持があります。長きにわたってこのタイトルを守り続けてきたタイトルホルダーとしての、矜持が。そう簡単にこの座を明け渡すつもりは、毛頭ありません。皆様には是非、激闘を期待して頂ければと思います」

 

 お辞儀をした彼に、会場はにわかにざわめき出す。

 これほど好戦的というか、意欲をあらわにするのは本当に珍しいことだった。

 

 両対局者の挨拶のあとは、すこしだけフリータイムだ。

 この間に、僕たちはインタビューに答えたり、挨拶にまわったりする。

 立食形式で食事の提供もあるが、まず僕らが食べることはない。

 

 隣にはずっと幸田さんが居てくれたおかげもあって、随分と行動しやすかった。

 宗谷さんがいつにもまして、周りに丁寧に対応しているのであちらに人が流れたからでもある。

 あれだけ、機嫌がいい名人は珍しいと小さく、幸田さんが呟いた。

 耳の調子が良いからというのもあるだろうけど、たぶん僕の事を気に掛けてくれたのだろうとも思う。

 

 会長の計らいもあって、閉会後僕はすぐに部屋に帰された。

 すぐに寝て明日へ備えろ。とのことだ。

 頭が冴えてしまって眠れるかは怪しかったけど、とりあえず布団に入る努力だけはした。

 


 

 翌朝、まだ空が暗い頃に目が覚める。

 これ以上は無駄だろうと、僕はいくつか持ってきていた棋譜を手に取りながら最後の確認をした。

 運ばれてきた朝食をかきこめるだけ、かきこんで、しっかりと栄養を取っておく。

 対局は体力勝負でもある。頭を使うということは想像以上にエネルギーを消費するから。

 

 良い時間になった時に、幸田さんが部屋を訪れた。

 何も言わずに、淡々と僕の着付けを手伝ってくれる。

 自分ひとりでも、着れるようになっていたけど、人の手を借りた方が時間がたっても着くずれが少なく、きちんと着れるのだ。

 

 初戦は、師匠から送ってもらった深藍の着物一式がお披露目になる。

 二戦目以降は、同じものを着るのは外聞が良くないからと、幸田さんと門下の方々、そして師匠からもまた新しい着物が贈られている。

 僕は大きくなって、着られなくなってしまうからそんなに数はいらないと言ったのだけど、大事なのは今だからと言われて、断り切れなかった。

 幸田さんなんて、桐山の代わりに贈らせてくれなんて、言い出す始末。そんなの断れるわけないじゃないか。

 

 着付けが終わった後、幸田さんは僕の背中をポンと押した。

 それが、何よりも雄弁な激励だった。

 何があっても見ているからと、背中に残った僅かなぬくもりにそう感じた。

 

 扇子を片手に、下座につく。

 僕が扇子を持つことは少ないけれど、今日は特別だ。

 長野からもってきたお母さんの形見の一つ。

 この扇子は、タイトル戦の時だけ手にすることに決めていた。

 

 すこし遅れて宗谷さんが上座につく。

 ふわりと広がった着物の袖と真っ白なその色をみて、あぁ……やっぱり大きな白い鳥みたいだとそう思った。

 

 振りごまの結果先手は僕。

 初手7六歩に対して、宗谷さんも2手目に同じく角道を開ける3四歩とし、その後、飛車先を決め合い、宗谷さんが誘導する形で「横歩取り」を目指す出だしとなった。

 

 予想の範囲ではある。

 そのまま定跡手順の進行をお互いゆっくりと指し合う。

 七番勝負の第一局目だ。

 慎重になるのは当然のこと。

 

 歩得を重ねながらゆさぶりをかける宗谷さんに対して、僕が抑え込みを図る構図がはっきりとしてきた一日目は、宗谷さんが次の手を封じて、終了となった。

 

 封じ手は二日制のタイトル戦で用いられる。

 この時点で宗谷さんが次の手を指して、明日へ備えることになると僕が一日中次の手について考えることが出来てしまい、持ち時間の制度は崩れるし、圧倒的に僕が有利になってしまう。

 そこで、封じ手を行うわけだ。

 規定時間になると、手番の棋士は次の一手を決め、相手の棋士に知られないよう紙に記入し、封筒に入れて封をする。

 これを翌朝の再開後に開き、記入しておいた手を指して続行する。

 この方式により、中断中は双方とも相手の次の手がわからない状態で局面を考えなくてはならない。

 

 今日は宗谷さんの手番の時に時間が来てしまったので、宗谷さんが封じ手を行った。

 

 この封じ手好き嫌いは別れることが多い。

 あまり自分がしたく無い人もいれば、なるべく自分が決めておきたい人もいる。

 若手で慣れないうちは、あまり率先してやりたくないという人もいた。

 僕はどちらでもない。

 封じ手をしても、しなくても、僕自身の勝率にあまり関係しなかったのは前回の記憶でも立証されているし、意識しすぎる方が却って良くないから。

 

 一日目が終わって、一応床に就くけれど、頭のなかではずっと今日の盤面が浮かんでいる。

 明日はきっと激しく動いてくるだろう。

 此処まで予想外の動きは出ていない。

 だからこそ、いつ仕掛けてくるのか、そこが鍵になる。

 うつらうつらとする意識の中で僕はずっと、駒を動かし続けた。

 

 

 

 順調に見えた一日目。

 けれど二日目、僕は思い知ることになる。

 記憶の中のタイトル戦と、ある一点において違いすぎた現状を。

 

 

 


 

 封じ手の開封後、指された一手は検討していた手の一つだった。

 僕は大きく一息つく。

 ここで、全く予想していなかった手を指されると、出鼻をくじかれる形になって、酷く時間を使ってしまうから。

 

「横歩取り」は開戦するやいなや、あっという間に終盤戦に突入する激しい戦型といわれているけれど、今回は50手を超えてもまだ、本格的に駒がぶつからない、難解で複雑な展開となってきた。

 

 

 

 そして、昼休憩の後にそれはきた。

 

 

 

 どうにも頭がぼーっとする。

 対局中にもかかわらず、瞼が落ちそうになる。

 集中力が散漫になっているのが分かった。

 こんなことは、初めてだった。

 たとえどんなに、疲れていても、どれほど睡眠が足りていなくとも、大事な一戦の途中に、盤上から思考が離れるなんて。

 

 深くふかく、思考の底に沈んで、次の手を考えようとするたびに、僅かな頭痛が邪魔をした。

 どうにか食らいついて、数手先をよんで次の手を指し続けていたけれど、日が落ちはじめたその時に、僕はついにやってしまった。

 

「……あっ」

 

 指したあと一呼吸おいて、気づいた。

 どこからどうみても、この手はない。

 誰がみても言うだろう、これは悪手だと。

 

 盤上が混み合ってきた終盤戦での致命的なミスだった。

 どちらに転ぶか分からなかった対局はそこから、一気に宗谷さんの方へと傾く。

 

 昼前までは拮抗しどちらが勝ってもおかしくないと言われていた盤面は、僕が投了した122手目では、まぎれもなく大差になってしまっていた。

 

「負けました……」

 

 下げた頭をあげられないほどの疲労感だった。

 二日制の番付勝負ってこんなに消耗するものだっただろうか。

 記憶との落差が激しすぎて動揺した。

 僕が初めてタイトルに挑戦したのは22歳の時……、その時は体力的には全盛期、僕のようにたいして鍛えていない男でも、それでも成人男性なみの体力はあったのだと今更実感する。

 対して今は13歳。どれだけ精神が成熟していようとも、身体はそれに追いついていなかった。

 

 対局後にはインタビューがあるのが通例だ。

 たとえ、どんな心境だろうともそれには答えるのがプロの仕事。

 

「まずは宗谷棋神、一勝目おめでとうございます。本局を振りかえってみて如何ですか?」

 

「序盤は定跡通りの探り合いと言った感じでしたね。

 私から動いてみようと少し、揺さぶりもかけたのですが、ちょっと押さえ込まれている形になってしまったと思います」

 

「封じ手は最初からされようと考えていましたか?」

 

「いえ、あまり意識はしてなかったです。たまたま私の手番だっただけで。封じ手自体は悪くない手だったと終わったいまでは思いますね」

 

「終盤はいかがでしたでしょうか?」

 

「じっくりと受け手に回っていた桐山六段は流石でしたよ。昼過ぎまでは私の方が、悪かったと思います。ただ、98手目ですね……桐山六段も気づいていたようですが、そこから一気にこちらに流れが来ました」

 

「桐山六段、長時間にわたる対局お疲れさまでした。初のタイトル戦でしたが、後半はやはり緊張も出てしまいましたか?」

 

「……不甲斐ない、将棋を指してしまいました。緊張はしていなかったと思います。一日目は自分の思う将棋が指せたと思うので。ただ、最後まで集中を持たせることが出来ませんでした」

 

「やはり敗因は98手目だったのでしょうか?」

 

「はい。宗谷棋神のおっしゃる通り98手目の8四歩……ほんとうに何であんな手を指してしまったのか……私の未熟、その一言に尽きます。」

 

 負けたことよりも。

 途中まで素晴らしかったあの棋譜を、自分で壊してしまったその事実が受け入れ難いほどに悔しかった。

 

 最悪の出だしとなった初戦だが、気持ちを切り替えて次に……とはなかなかいかなかった。

 そう。この先のあと6局とも二日制だ。僕はその事実に頭を抱えた。

 まともに行けば、今日のような事態は避けられないかもしれない。あんな状態で、ミスなく指しきれるのは、不可能に近い。

 

 第二局目までに何か手を考えなければならない。

 

 

 

 


 

 

 棋神戦第二局 中継

 

 

[棋神戦第二局開始―]

 

[一局目みれなかったから、今日は有給取った]

 

[桐山六段今日着物違うね]

 

[今日は深緑か]

 

[相変わらずいい趣味してるし、良い着物だ]

 

[質感からして違う]

 

[深藍の着物はお師匠様から贈られたらしいけど、今日のは誰からなんだろ]

 

[桐山くん保護者多いから、誰でもくれそう]

 

[俺も貢ぎたい]

 

[貢ぐ言うなw]

 

[宗谷棋神は相変わらず白いな]

 

[この人毎回狙ってんじゃないかってくらい着物威圧感あるよな]

 

[オーラましまし]

 

[桐山くんのまれないか心配だったわ]

 

[そんな心配はいらなかったけどなぁ]

 

[第一局予想外といえば予想外だったな]

 

[昼まで素晴らしかっただけに……な]

 

[本人が一番悔しいだろ]

 

[俺らから見ても、消耗は激しかった]

 

[あの後大盤解説までちゃんとやってるのが凄いわ]

 

[意地だろ、プロとしての]

 

[なんていう正直拍子抜けではあった]

 

[時期がはやかったと思わざるを得ない]

 

[まだ一局目なのに、さっそく掌返す奴出て来た]

 

[なまじな、一日目よかっただけに、目立ったんだわ]

 

[悪手なんて誰でも指すだろ]

 

[いやーあれは俺でも指さないぞ]

 

[でたw何様だよw]

 

[そもそも宗谷棋神相手に一勝あるかもって思わせただけでも大健闘なのに]

 

[もとめられる水準が高くなってる]

 

      ・

      ・

      ・

      ・

      ・

 

[ちょっとまって、序盤からみない形なんだけど]

 

[研究手?]

 

[解説も珍しいって言ってる]

 

[桐山六段が中飛車、宗谷棋神が向かい飛車で相振り飛車だとおもったんだけど]

 

[15手目……手損覚悟で桐山六段が居飛車にしたな]

 

[損してまで対向型に構えたかったのか]

 

[うーん先手だからこういう事もまぁ可能だと思うけど]

 

[タイトル戦なのに思いきりいいな]

 

      ・

      ・

      ・

      ・

      ・

 

[うっわー今の角交換はすごい!]

 

[小考だったな、決断までに数分]

 

[宗谷棋神相手にキレッキレッだな]

 

[とった角をすかさず投入。桐山くんは宗谷さんの飛車を狙ってるのか]

 

[うまいな。相手の囲いを上手く崩そうとしてる]

 

[もう序盤の手損なんて全く関係ない]

 

[宗谷棋神も動き出したな猛攻]

 

[いや、でも主導権は桐山六段がまだ持ってる]

 

[かーうまくいなすな]

 

[あくまで狙いは飛車ぽいね]

 

[うん。さばいて相手にしてない]

 

[宗谷棋神……長考かな?]

 

[そりゃそうだろ。うかつにここは攻めれないわ]

 

[妙手冴えわたってるな桐山六段]

 

[一局目に続いて先手握れてるからね]

 

[今日はこれで封じ手になりそう?]

 

[まだ桐山六段自分で封じ手してないよね]

 

[初めてのタイトル戦のときは極力したくない人多いらしい]

 

[この子はあんまり気にしなさそうだけど]

 

[それよりも、今日はしっかり寝てほしい]

 

[熟睡は無理でも……]

 

[せめて少しでも回復できますように]

 

[あーこれが1日制だったらなぁ]

 

      ・

      ・

      ・

      ・

      ・

 

[棋神の封じ手は5七桂成]

 

[予想どおり?]

 

[俺にはわからん]

 

[桐山六段に動揺はみられない]

 

[すぐ応手指した]

 

[解説的にもこれはまぁ順当な手らしい]

 

[飛車のまもり固めてる形だね]

 

[うーんこれで大分深いところに入っちゃったよ]

 

[手が出しにくくなった]

 

[でも逆に宗谷棋神はこの飛車を身軽に使えなくなった]

 

[あーそういう見方も出来るな]

 

[うっわ逆からの桂馬]

 

[六段、端から攻める気か……これはあり?]

 

[ない……いや、ありだな]

 

[ありあり!全然あり!]

 

[棋神の玉、9筋まで引きずりだしたじゃん]

 

[いやでも、駒得は宗谷棋神側だ]

 

[銀打ちで王手かけてくるな]

 

[うわー強烈]

 

[ここで引いたら自分が食われるから仕掛けるしかない]

 

[こんな好戦的な宗谷さん中々みれないぞ]

 

[しっかし桐山六段冷静だな]

 

[見事に全部受けてる]

 

[こりゃあ途切れたときにどう出るか]

 

[防戦一方じゃ勝てないもんな]

 

      ・

      ・

      ・

      ・

      ・

 

[きった!やっぱり桂馬!]

 

[後手玉の頭への鋭い打ち込み]

 

[決めに来たか桐山六段]

 

[逆にこれをしのぎきれば、ジリ貧で宗谷棋神に分がある]

 

[いや、俺は信じてるぞ桐山六段]

 

[細かすぎて……俺にはさっぱり]

 

      ・

      ・

      ・

      ・

      ・

 

 

[111手目桐山六段の4八香で宗谷棋神投了―]

 

[88888888888]

 

[すっげぇオレ大興奮だった]

 

[有給取った甲斐あったわ]

 

[88888888888888888888888888888888888]

 

[888888888]

 

[今何時?]

 

[8888888888888888888]

 

[12時過ぎ]

 

[888888888888888]

 

[8888888888888888888888888]

 

[昼休憩前に終わらせやがったw]

 

[午前中からめっちゃ飛ばしてた感はあったな]

 

[88888888888888888888]

 

[その甲斐あってか、切れ味は鈍らず]

 

[これは見ごたえあったな]

 

[要所、要所で桐山六段の判断が光ってた]

 

[うーん、でも相当疲れてるねやっぱり]

 

[これでもギリギリってとこ?]

 

[インタビューにはちゃんと答えてるけど]

 

[急戦なら充分に戦えることを見せたわけだが]

 

[第一局と第二局で違いすぎた]

 

[長期戦へのリスクを浮き彫りにした形になったな]

 

[そりゃそーだよ13歳だよ]

 

[俺中学生の時なんて夜は9時間くらい寝てた]

 

[まーな。前夜祭から考えたらかなり長丁場だし]

 

[次も急戦で行けばいいんじゃないの?]

 

[先手とれないと難しいし、相手が乗らなけらばそれまで]

 

[オレが宗谷棋神なら乗らないけど、この人そんな小さいことで戦法は変えないからな]

 

[圧倒的に長時間に持ち込んだほうが有利でも、面白そうだったら絶対急戦に乗ってくれる]

 

[ようはその時の流れ次第]

 

[面白くなってきたな]

 

[ただ、桐山六段が不利なことには変わりない]

 

[どこまでそこを対応して食らいつくのか楽しみではある]

 

 

      ・

      ・

      ・

      ・

      ・

 


 

 気が付けば8月も終盤。

 世は夏休みらしいけれど、棋神戦にかかりきりの僕にとっては縁のない話だ。

 有難い話ではある。学校の事を一切気にしなくていい夏休みに、初のタイトル戦がかぶっていたのは僥倖だろう。

 

 集中力切らした悪手で沈んだ第一局目。

 急戦をしかけて、押し切った第二局目。

 第三局目はまた長期戦となり、終局間際に一局目ほどではないけれど些細なミスを重ねて、敗戦。

 第四局目は、再び戦局の形を握れたので急戦に持ち込んだものの、勇み過ぎて宗谷さんにひっくり返された。

 

 これで1勝3敗……僕はあっという間に、カド番に立たされていた。

 急戦ならあるいはとも思ったが、宗谷さん相手にそう易々と勝たして貰えるわけが無かった。

 

 次の対局どうしようか……。

 自分の戦略はもう何十通りと考えた。

 思いつく限りの宗谷さんの戦法を研究した。

 将棋に向かう気持ちだって充分に整えられている。

 

 なのに……それなのに、身体がついてこない。

 

 こんなことなら、島田さんに付き合ってもらって二日制の対局の練習でもしておくべきだったか……?

 いや、それもほぼ無意味だろう。

 前夜祭からの一連のながれ、一日目の封じ手の後の冴えた頭で寝たのか起きてるのか分からないような睡眠をとった後で迎える二日目……あれはタイトル戦として体験して初めて成り立つ。

 それに、一カ月やそこらで体力が増えるわけでもない。

 

 次も急戦をしかけるか?

 いや、戦法を意図的に左右することは難しい。

 それに、宗谷さんとはちゃんと棋譜を作りたい。

 第一局が終わって、僕の体力の無さと二日目に集中力が途切れていることは周知の事実となった。

 第二局目の急戦の棋譜が素晴らしかった分、より長期戦の一局目が際立ってしまった形だ。

 それでも、宗谷さんは決して、僕に合わせてムリ急戦に持ち込んだり、かといってわざと長期戦にするようなこともなかった。

 これまでの全四局とも、僕が戦局を決めれるときは乗ってくれたし、宗谷さんが決めるときはおそらくより面白そうな方を選んでいる。

 

 遠慮が無い、配慮がないなんて声もあったけど、それがどれほど嬉しかったか!

 彼は認めてくれているのだ。

 ちゃんと一人の棋士として、君なら大丈夫だろうと。

 だからこそ戦況において甘さは微塵もなかった。

 

 対局時間を短くしたいという意思が根底にあって、良い対局になるわけがない。

 僕も、最初からそんな気持ちは捨てておくべきだ。

 四戦終わって、ほんの少しだけ自分の限界を見極めてこられた気がする。すこしだけ身体も慣れて来た気がする。

 あとは、どれだけ盤面に食らいつけるかだ。終わった後、倒れたってかまわない。

 彼の期待に応えたかった。

 

 マンションの一室で、ひたすら前回の対局までを振り返りながらそんなことを考え続けていた、僕の耳にインターフォンの音が響く。

 

 ……誰だろう?滅多にここに来る人なんていないのに。

 新聞かなにかの売り込みかな……と居留守を使おうとしたのもつかの間。

 

「こ、こんにちはー?零ちゃんいるかな?」

 

 少しだけ戸惑ったように、ドアの向こうから聞こえた声に慌てて応えた。

 この声!間違えるわけが無かった。

 

「い、今開けます!」

 

 周りにあった棋譜を慌てて整えて、ベッドで上でぐちゃぐちゃになっていた布団を直す。

 中にいたクロが驚いたようにみゃっ!?と声を上げた。……ごめんよ、落ち着きがない飼い主で。

 台所もきれいとは言えなかったけれど、あまり待たせるわけにもいかないだろうと、急いで玄関のドアを開けた。

 

「ひなちゃん、こんにちは」

 

 僕の予想を裏切らず、扉の前でまっていたのはひなちゃんだった。

 

「急にごめんなさい……、零ちゃんが大事な対局の最中だっていうのはお祖父ちゃんから聞いてたんだけど……これだけ、渡したら帰るから!」

 

 少しだけ迷ったような表情で佇んでいた彼女は、僕の顔をみると慌てて風呂敷包みを差し出した。一体何が入っているんだろう。

 

「せっかくだから、少しだけ上がっていって。今、結構散らかってるんだけど……」

 

「え?いいよ!ほんとに、忙しいでしょ?」

 

「全然、ちょっと煮詰まってて、休憩しようと思ってたとこだから」

 

 なんとか空間をあけて、机の前に座った彼女の前にお茶を出して、風呂敷を開けさせてもらった。

 出て来たのは以前の記憶で何度かみた、お重箱。

 あけるとそこには、沢山のお稲荷さんが敷き詰められていた。あぁ……懐かしいな。川本家の料理の中でも、大好きなものの一つだ。

 でも、こんなに沢山いったいどうしたんだろう。

 

 僕の疑問を、察したのだろう……。彼女は少しだけ、照れくさそうに視線を伏せながら、ぽつりと話始めた。

 

「お祖父ちゃんがね。次が踏ん張りどころだって……話してたの聞いちゃって。美味しいもの食べて、ちょっとでも元気で対局してくれたらいいなぁって、気が付いたら作ろうと思ってた」

 

 マジマジと見つめる僕の視線に気づいたのだろう。彼女は、ちゃんとお祖母ちゃんと一緒に作ったから、味は保証するよ!っと慌てて付け足した。

 上気して赤くなった頬が愛おしかった。

 

「……どうしよう。すっごく嬉しい。もったいなくて食べれないかも」

 

 こんなにも、僕に心を砕いてくれていることに、堪らない気持ちになる。

 

「えぇ!?ちゃんと食べてね!というか……零ちゃん、きちんとご飯たべてるの?」

 

 彼女の言葉にハッとする、そう言えば今日は朝に食パン一枚食べてから……その後の記憶がない……僕は慌てて、お昼すっかり遅くなっちゃったから、これから食べるよっと言葉を濁した。

 ひなちゃんはちょっと疑わしそうな顔をしたけど、今ここでちゃんと食べてくれるなら許す!って笑ってくれた。

 

 甘辛くて、味がよく沁みた、馴染み深い味だった。中に詰まっているごはんの種類が色々でこの辺も変わってないんだなぁって嬉しくなる。

 にこにことこちらを見ている彼女の表情をみて、久しぶりに食事を楽しんだ気がした。

 お腹を満たすだけじゃなくて、心まで満たされた気がする。

 

「零ちゃん、あんまり無理しちゃだめだよ。食べれるときにいっぱい食べて、寝たい時には寝てね!楽しむためには身体が資本って、お祖父ちゃんもお祖母ちゃんも良く言ってたから」

 

「……寝たい時には……寝るか」

 

 彼女の言葉に、少しだけ思うところがあった僕は、次の第五局で試してみようと決意する。

 

 棋神戦にかかりきりになっていた僕は、同時期行われていた他のタイトル戦のトーナメントをことごとく落としている。

 棋竜戦トーナメントはベスト4で後藤さんに、獅子王戦は決勝トーナメントの2回戦で辻井さんに、棋匠戦は本戦の一回戦で隈倉さんに、そして、プロ入り後に初参戦の七大タイトル戦で唯一、玉将戦だけは本戦に到達できずに、2次予選の途中で敗退となった。

 

 タイトルに挑戦するということはそういうことだ。

 他に目を向けていられる余裕はない。

 あまり取りたい手段ではなかったのだけれど……なりふり構っていられる状況でないことは自分が一番よく分かっていた。

 

 

 

 

 

 


 

 棋神戦第5局。

 二日目、今日もし桐山が負ければ、宗谷の防衛となる。

 

 棋界史上初となる中学生のタイトル挑戦は随分と話題をよんでいる。

 会長の俺としても、近年まれにみるスポンサーの数と注目で、正直有難い話だった。

 

 ただ、やはり少し早かったかとは思う。

 棋力は申し分ない、立ち居振る舞いもそこらの大人にまけてない。充分に挑戦者の役目を桐山は果たしていた。

 足りないのは……体力。幼い身体が長期戦についていけていないのは、誰の目にも明らかだった。

 初戦、中盤までは桐山ペースといって良かった。

 昼休憩後、何度かあいつの身体が揺らいだ。どうにも集中できていないようなのは、その様子から察せられた。

 悪手を指した時の動揺はすさまじかった。

 本人も指した直後になんでこんなところに……と自分でも信じられなかったのだろう。

 

 桐山が目に見えた失着をしたことは、これまで一度もなかった。

 後から考えればとか終わってみたらあそこが失着だったかなと話に上がることはあってもだ。

 プロ入り後、初めて誰の目にも明らかなミスをおかした。

 充分凄いことだとは思う。あいつの将棋はそれだけ丁寧で綿密なものだった。

 

 対局後気丈にふるまっていたし、その後の大盤解説までこなしていたけれど、憔悴具合は明らかで、部屋に帰った途端、すぐに寝入ったと幸田から聞いた。

 其れも仕方ないと思う。

 前夜祭から考えればまる三日。緊張状態にあるうえに、常に頭は動き続けるのだ。

 大の大人だって、そうとう疲弊するし、ミスもする。

 あいつはまだ、13だ。宗谷とまともな将棋にしてるだけでも充分に賞賛に値する。

 特に第二局は素晴らしかった。

 もう数年すれば、七番勝負のタイトル戦でもなんの心配もなく戦え抜けるようになるだろう。

 

 ただ、今回は……。

 第5局目も急戦はもうない。

 昼休憩前までの流れでそれは否定された。

 となると夕方……下手をすれば夜まで対局は続くだろう。

 今の局面は桐山有利の声が多いが……、このまま勝ち切れる可能性は低い。

 

 おまえは良くやったよ。

 なんてあいつは絶対に認めたくない言葉だろうな……と俺は自分の髪をかき回した。

 

「会長!」

 

「お?どーしたスミス。あーそろそろ、午後開始の時間か」

 

 第5局目の副立会人をしている三角が、俺の元に駈け寄ってきた。

 

「いや、もう始まってるんですけど……桐山がその……戻ってきてなくて」

 

「はぁ!?そりゃまたなんで?」

 

「分かんねーすよ!宗谷棋神がまだ指されてないけど、指したら桐山の持ち時間が減っちまう」

 

「昼休憩のあいつの控室、見に行くぞ。中でぶっ倒れてんじゃねーか」

 

「ちょ、縁起でもないこと言わないで下さいよ。ただでさえ最近、線が細くなったような気がしてるのに」

 

 棋神戦の昼休憩は12:30-13:30の一時間。

 両対局が顔を合わせないように各々に個室の控室が用意されており、昼食もそこでとる。

 トイレに行っていたら遅れたとか、すこし外の空気を吸いに出て遅れたとかも、これまでになかったわけでは無いが、桐山の性格上それは考えにくし……。

 

 扉に手を掛けようとした瞬間。目の前でパッとそれが開いて、人が飛び出してくる。

 

「わっ!ごめんなさい会長」

 

 勢い余って、俺とぶつかりそうになったのは桐山だった。

 その様子に俺は少し安堵した。

 

「なんだ。元気じゃん。急げよ桐山、もう始まってんぞ」

 

「すいません!手間取ってしまって……すぐ行きます」

 

 一体何に手間取ったのか聞こうかとおもったけれど、パタパタとせわしなく駆けていく桐山を止めるわけにもいかず、そのまま見送る。

 

「……桐山、後ろ髪跳ねてましたよ。朝はそんなこと無かったと思うんですけど」

 

 スミスの呟きに俺はひょっとして、と部屋の中を覗き込んだ。

 不自然にならんだ座布団と、その傍らにある薄い布。

 

「ひょっとしてあいつ、寝てたのか……?」

 

 昼休憩をどう使おうか個人の勝手だが、随分と思い切ったものだな。

 さてはて、これが一体対局にどう左右するのか。

 

 

 

 一日目に先手の宗谷から始まった第5局は、序盤の駆け引きのあと、手損のない「角換わり」から派生していった。

 角交換成立後も神経質な駒組みは続き、桐山が「腰掛銀」を下げたあと意表の「右玉」を採用したのが昨晩のハイライトと言っていいだろう。

 宗谷が「矢倉囲い」を完成させたのをみて、桐山が4筋から突っかけた局面で封じ手となった。

 

 二日目の午前中50手に差しかかるころ、宗谷は小考ののち4五歩と打ち込み、攻勢に転じようとした。

 けれど、桐山は追われた銀を5筋に引き冷静な対応をみせる。

 結局開戦……とまではいかずお互い粘り強く指しあう結果となり、勝負の行方は午後にかかっていた。

 

 混戦になることは必至だ。

 それゆえに桐山の集中力は気がかりではあった。

 

 午後の対局開始の一手で桐山は手持ちの角を先手陣に投入5九角とし、攻撃の形を整えはじめる。

 この手に対して、宗谷が2筋に迫り出したままの角を一旦引き戻し4六角とする。

 それをみて、60手目、桐山は2八歩成と2筋の歩突き出して、開戦の意思を告げた。

 

 序盤の重い展開から一転。

 流れるような指し回しだ。

 受けに忙しくなった宗谷が、ひとまず桂馬を引いて69手目に5八金としたのをみて、

 軽快に桂馬を使って、相手の陣を荒し、それと同時に形勢をしっかりとつかんだ。

 

 じりじりと詰め寄り、途中で角・桂と金・銀の二枚換えを実現し、駒得になったあたりからは、息をのむほどの猛攻だった。

 細かい局面であったものの、一歩も引かずに果敢に攻め込む。

 

 そしてついに桐山の114手目6一玉で、宗谷が投了を告げた。

 

 終局は18時をまわる長い対局だった。

 これで2勝。多くの予想を翻して桐山が取った貴重な一勝だった。

 

「こりゃあ……後2局、分からなくなったな」

 

 ひとりでにそう呟き、おれは自然とにやける口元を隠した。

 これだから、将棋ってのは面白いんだ。

 

 

 


 

 

 

「負けました」

 

 そう頭を下げる宗谷さんの姿に僕は、ようやく終局していたことに気づいた。

 

「あ、ありがとうございました」

 

 慌ててこちらも頭を下げる。

 久々だ。

 此処まで長く掛った対局で、一度も思考が現実に戻らなかった。

 ずっとこの盤上の世界にもぐり込むことが出来た。

 終わった瞬間に押し寄せる疲労は半端なものではなかったけれど。

 

「桐山六段……インタビュー大丈夫ですか?」

 

 脇息にもたれかかって、顔を伏せていた僕に窺うような声がかかる。

 

 あぁ……そうだ。

 対局後のインタビューとそれが終わったら、感想戦をして、大盤解説の会場に移動だ……。

 考えすぎると気が遠くなりそうだったので、とりあえず目の前の仕事からこなさなければと、頭を切り替える。

 

「えぇ……すいません。大丈夫です」

 

「2勝目おめでとうございます。長期戦でしたが、見事な対局でしたね。本局を振りかえって如何ですか?」

 

「一日目は待ちが濃厚な展開になってしまって、僕も攻めあぐねました。

 二日目のそうですね……桂馬を使ったあたりからですね、流れを引きこめたと思うのは」

 

「終盤の指し回しお見事でした。本日の昼休憩後すこし遅れての対局室入りとなりましたが、理由を伺っても?」

 

「あ、あぁ……それは、ですね。昼食は軽く済ませて後の時間、すこしその……仮眠をとりまして……。間に合う時間には起きたのですが、着物を着るのに手間取ってしまいました」

 

 昼休憩の時には、食事で汚さないようにだったり、すこしでもくつろぐために与えられた控室で着物を脱ぐ人も珍しくない。

 二日目の午後、どうにも睡魔に襲われるし、集中が途切れるだろうと分かっていた僕は、昼寝を決行することにした。

 控室にあらかじめ薄いブランケットと、ゆったりとした服を置かせてもらっていたのだ。

 ちゃんと目覚ましはかけていたんだけど……30分といえど寝起きは寝起き、予想より着付けに手間取ってしまった。

 

「あぁ……それで、髪がはねてるのか」

 

 クスクスと笑いながら告げられた宗谷さんの言葉に、僕はギョッとして頭を押さえる

 

「えっ?跳ねてますか?」

 

「うん。左後ろの方」

 

 記者の方や部屋にいた関係者全員が、笑いをかみ殺せていない。

 自分の顔が赤くなるのがわかった。

 

「つ、次は気をつけますから……本当すいません」

 

「君なりにどうすれば、将棋に打ち込めるのか、真剣に考えた結果だろう。休憩時間をどう使うなんて自由なんだから。ただ、遅れないようにだけは気を付けて、自分の持ち時間が減るのは困るだろう。

 今日の将棋の内容は最高だった。何度だってまた並べると思う」

 

「良かったです……第2局以外、良い所がない状態でしたので……」

 

 宗谷さんの言葉に、安堵する。ようやく夜までかかった長期戦で僕は、自分も及第点を出せる将棋が指すことが出来た。

 

 

 

 大盤解説の会場に向かう前に、髪を直したかったのに、会長がその方が面白いからそのままで行けと聞かなくて結局その通りにした。

 解説の前にまたひとしきり笑われたけど、場が盛り上がったから良しとすべきだろう。

 

 

 

 これで2勝3敗……。

 次を取ることができたら、振りだしに戻すことが出来る。

 一局目が終わった時点では、ここまで持って来れるイメージは出来なかったけど、今は一応おぼろげながら自分が勝てるビジョンを描くことが出来る。

 これだけでも、進歩だろう。

 あとは、それに現実がついてくるかこないか、それだけだ。

 

 

 

 

 


 

「すげぇ……桐山、食らいついてる」

 

「一日目、終わった時点ではすっかり宗谷棋神ペースだったけど……」

 

「これでまた分からなくなった。終盤どちらが踏み切れるかな」

 

 棋神戦第6局、棋士たちが集まる控室には常よりも多くの人で溢れかえり、そしてあちらこちらから、対局に対する声が上がり続けていた。

 

 俺もその一人、研究会の後輩の大一番だ。観戦にくるのが道理だろう。

 

「島田さんはどっち持ちですか?やっぱり可愛い後輩の桐山?」

 

 傍にいた松本が、盤上をうつす画面を食い入るように見つめながら、そう問いかけていた。

 

「別にどっちってわけじゃないけど、ただこの一手で桐山側に形勢は傾いたかなって」

 

「ほんとすげーっすよ。俺だったら昨日の時点で諦めちまうのに。こんな手がまだあったなんて」

 

 松本の言葉に同意せざるを得ない。

 宗谷は間違えることが少ない。常に粛々と淡々と最善手を突きつけてくる。

 だからこそ、自分のミスは致命的で、そして一度戦況があちらに傾くと、起死回生の一手に頭が回らなくなる。

 あぁ……やってしまったと。そう諦めてしまう奴が多い。

 

 この棋神戦の反響は凄かった。

 第一局が終わった時点では、やっぱりまだ早かったんだと落胆するものもいた。

 第二局が終わった時点で、棋力は充分だが、それだけに、体力がと惜しまれた。

 そして、先日の第5局、多くの人の予想を上回り、桐山は宗谷と見事に長時間指しあってみせた。

 

 本人は前半戦を不甲斐ないと評価しているようだが、それでも充分すぎる内容だった。

 それはタイトル初参戦の中学生にしてはという、前置きがついていたことはいなめない。

 

 けれど、あの第5局あれをみて、そんな声はピタリと止んだ。

 一人の棋士として、桐山は十二分に宗谷と相対する資格を持った存在だと、体現して見せた。

 これで、力不足だったとか若すぎたなんて言う奴がいたらそいつがアホだ。

 

 この第6局もひたすらに食らいついている。

 

 後手の桐山が誘導した「角交換振り飛車」の形から始まったこの第6局は、玉頭戦の構えをみせる彼に対して、序盤に宗谷が1四歩と1筋の端から仕掛けを開始し、動きのある将棋となった。

 

 すかさず桐山の方も桂馬を跳ねて応戦へと動き始める。

 激しい攻め合いになったものの、65手目に宗谷が3五桂と起点に据えた角の真下に、手持ちの桂馬を投入すると、一気に先手有利へと傾き、その模様は攻撃的な迫力を増した。

 

 この難しい局面で桐山は長考。

 そのまま自らが封じ手をして一日目は終了。

 

 序盤から能動的に仕掛けていった宗谷棋神優勢というのが、周りの見解だった。

 

 

 二日目。

 桐山の封じ手は5二金だった。

 おそらく多くのものが意表を突かれる形になった。

 宗谷が予想していたかどうかは分からないが、その後彼も長考しているため、あまり有力手とはしていなかった可能性が高い。

 

 これを宗谷は、受けることなく67手目に9四歩を厳しく端歩を突き出した。

 初日の流れをひきつつ、攻撃手を緩めるつもりはないとの意思表示だったのだろう。

 ただ、この後の桐山の一手が効いた。

 8三銀と、激しく威嚇したのだ。宗谷としても僅かにあった自陣の傷を守りにまわらざるを得なくなる痛烈な一手だった。

 

 昼休憩の後も、二人の攻め合いは続いた。

 踏み込み過ぎれば、自陣が崩れ。かといって守りすぎればジリ貧で負ける。

 どちらも決め手にまでたどり着かない。

 

 終盤戦、100手を越えた時点でさえ、どちらが勝つのか分からない。

 息をのむほどの接戦だった。

 

 

 

 

 


 

「負けました」

 

 沢山のフラッシュがたかれる。

 この瞬間を切り取るために、随分と多くの報道陣があつまったものだ。

 勝者を撮影するためにと自分の肩の上にのるカメラが重たかった。

 あー懐かしい。

 嫌というほど敗戦を自覚させるこの重みが。

 30歳を超えたころから防衛が当たり前だったから、久しく感じていなかった感覚だった。

 

 棋神戦第6局。

 137手目宗谷さんの7三金にて、僕は投了を余儀なくされた。

 二日目は20時がせまる長期戦だった。

 ただ今回の対局、お互いに目立ったミスはなかった。

 

「まずは、宗谷棋神、防衛おめでとうございます。本局を振りかえっていかがでしたか?」

 

「大変興味深い対局でした。130手をこえるまで自分の勝利は確信できませんでしたね。

 今日の対局はどちらに転んでも可笑しくはなかった」

 

 大きく息をついてからそう答えた宗谷さんにも珍しく疲労の色が濃く見えた。

 

「シリーズ全体を振り返っては、如何でしょう。桐山六段とは初めてのタイトル戦だったわけですが」

 

「彼の若さと勢いに、私も良い刺激を貰いました。お気づきの方も多いと思いますが、一つとして、同じ戦法が取られた対局はなかった。お互いが試行錯誤しながら様々な手を試せた、そしてまたそれが良い棋譜を残せたと思います」

 

「この防衛により、棋神戦は5期連続の獲得になります。これについてはどう思われますか?」

 

「あまり記録は意識していませんので……光栄なことだとは思います」

 

「桐山六段、お疲れ様でした。惜しくも敗れた形にはなりましたが、本局について思うところはありますか?」

 

「……そうですね、シリーズ全体を通して一日目主導権を握れることが多かったのですが、今回は序盤あまりうまく動けなかったかと思います」

 

「二日目の午前中の切り返しは見事だと、控室からは声が上がっていました」

 

「自分でもどこかで巻き返さないと、と思っていたので、そこは上手くはまりましたね。ただ終盤一歩及ばなかったと思います」

 

「初のタイトル戦でした。全体を通しての感想などありましたらお願いします」

 

「前半戦は不甲斐ない対局も多かったので……そこは反省して次に生かしたいと思っています。ただ、宗谷棋神と6局対局することが出来た経験は、良い糧になりました」

 

 それから、感想戦を終わらせて大盤解説の会場に移動するとき、僕に小さく宗谷さんが声を掛けて来た。

 

「顔色がよくない。……大丈夫?」

 

「え、そうですか?平気です。ちゃんと最後までやらせて下さい」

 

 たしかに頭はフワフワするし、なんだか地に足がついてない感じだったけど、もう少しだから頑張りたいと思った。

 

「……分かった。無理しないで。なるべく僕がしゃべるから」

 

 宗谷さんは少しだけ困ったような表情をしたあと、かるく僕の頭を撫でてそう言った。

 大盤解説の会場で、自分たちの対局を振り返るのも6局目ともなれば、この体でもだいぶ慣れたものだった。

 ただ、長期戦が終わった後に会場のライトを浴びるのは、残りの体力をガリガリと削られていたような気がしたし、多く人の様々な意図を含んだその視線が、遠慮なしに僕に突き刺さった。

 

 宗谷さんは珍しく、自ら話題をリードしながら丁寧に対局について解説し、たまに僕の方にも話題を振った。

 僕はそれに、反射的に言葉を返すだけでよくて、だいぶ楽だったとおもう。

 ただ、終わってみればその時何をしゃべっていたのか曖昧なほどだった。

 

 

 宗谷さんに声をかけてもらって、会場から帰してもらったあと、ふらふらと自分の部屋へと歩き始める。

 

 あぁ……。終わってしまった。

 結局2勝4敗。そのうち満足できた対局は、後半の第5局と第6局だけだ。

 最後まで指すためにどうすべきか……手探りで臨んだタイトル戦になってしまった。

 けど、次はきっと大丈夫。

 二日制の七番勝負でこれだったんだから、一日制はなんとかなるだろうし、もし仮にまた二日制の挑戦権をとったとしても、今回の経験を生かすことができる。

 あと数年もすれば、体力だって気力だって記憶の自分に少しは追いついてきてくれるだろう。

 

 部屋のドアを開けるとき、こんなにも重かっただろうかと難儀した。

 なんとか身体をすべり込ませた。

 酷使した頭がガンガンする。

 なんだか、この感覚は少しだけ覚えがある。

 嫌な汗もでてきて、慌てて着物を脱いだ。残った力を振り絞って、壁にかけたハンガーにつるしておく。

 ホントは綺麗に畳んで、呉服屋さんに送るようにしておくべきなんだけど、……もう明日でもいいよね。

 着替える気力もなくて、長襦袢のままで布団の上に倒れ込んだ。

 せめて潜り込むべきなのはわかるのに、それすら億劫で力が出ない。

 全身全霊の満身創痍。今の僕に出来る全てをぶつけた証だ。

 

 沈み込んだ意識の中で、ドアがたたかれる音がしたような気がしたけど、僕はそのまま泥のように眠り込んだ。

 

 

 

 

 

 

 


 

 大盤解説の後、棋神戦も滞りなく終わりをつげたが、会場はどこか熱気が収まらずにいた。

 それだけ、見るものの心を揺さぶる対局だった。

 

 2勝4敗。内容はこの勝敗だけでは図れない。

 近年、宗谷にここまで食らいついた若手がいただろうか。A級棋士相手にもストレートで防衛することが多かった彼から2勝もぎ取っただけでも凄い。

 それに、今日の対局はどちらに転んでも可笑しくはなかった。

 第5局にしても第6局にしても、名譜として表彰される可能性をもった対局だったと言える。

 

 俺も頑張らないとな、と気合を入れたところで声が掛った。

 

「島田ちょっといい?」

 

「お、宗谷おつかれ。防衛おめでとう。……なんだ?お前まだインタビューとかで忙しんじゃ」

 

 桐山を先に離脱させた分、防衛したこの棋神様は色んな人に声をかけられていた。

 

「僕もそろそろバックレたいとは思ってるんだけどね。桐山くんなんだけど……どうも、体調良くなさそうだったから、ちょっと気に掛けてあげてほしくて」

 

 島田は研究会の先輩だろ、とそういう彼に俺は目を丸くした。

 宗谷冬司が他人に気を配ることは少ない。良くも悪くもマイペースで、空気が読めないのか読む気がないのかと、会長が頭を抱えるようなそんな男だ。

 

「桐山が?そういえば……あんまり顔色良くなかったな。解説の時も口数少なめだったし」

 

 疲れているだろうからとそう思っていたけれど、最近の桐山は顔色が良かったためしがないので、見落としてしまった。

 

「僕は一番近くで見続けてきたから、なんとなく分かる。毎回凄く疲弊してたけど、今日の終局後は何時にもまして良くなかった」

 

「分かった。ちょっと後で部屋に寄ってみるわ」

 

 頼んだよ、とそう声をかけられて宗谷と別れた。

 

 

 

「あれ?後藤さんじゃないですか。どうしたんです。こんなところで」

 

 桐山の部屋に向おうとしたエレベータホールで、見知った後ろ姿を目にする。

 

「……島田か。あいつのとこへ行くのか?」

 

「あいつって桐山ですか?えぇ、宗谷にも頼まれたのでちょっと様子見に」

 

「じゃ、俺はいいや。頼んだぞ」

 

 俺の返事を聞くやいなや、踵を返して立ち去ろうとする後藤さんを慌てて呼び止める。

 

「ちょっと、ちょっと、どうせここまで来たんだし、顔見て行ってあげたらいいじゃないですか。あんた同門でしょ」

 

 俺の言葉に、しぶしぶと言った体で彼もエレベーターに乗り込んだ。

 幸田さんは今日対局があって此処に来れなかった。おそらく後藤さんは、自分の代わりに、よく見ておいてほしいと頼まれているのだろう。何気にこの男は律儀なのだ。

 

 

 

「桐山ーいないのか?」

 

 部屋のインターフォンを鳴らして、ノックをしてみるも、中からは物音ひとつしなかった。

 

「そんなわけねぇだろ、会場からは出たんだから」

 

「んースペアの鍵使わせてもらうか、相当疲れてたっぽいし、寝てたならそれでいいけど」

 

 一応フロントで借りてきていた、スぺアキーを使わせてもらう。

 未成年が一人というわけで、将棋関係者であることと、身分証明書をみせることで借りることは出来た。

 

「うわ、真っ暗だ。ちょっとだけ明り付けさせてもらって、と」

 

 部屋の中は静まり返っていて、少しだけ物も散乱していた。

 なにより着物がかろうじてかけてはあるものの、らしくないくらい乱雑な置き方だった。

 

「あのガキ、力尽きやがったな」

 

「まぁまぁ、掛けてあるだけましですよ」

 

 後藤さんは悪態をつきながらも、着物を降ろして丁寧に畳み始めた。こういうところ、ほんと素直じゃないというか……。

 

 部屋の主は……っと見まわしたところで、布団の上に小さな塊を見つけた。

 掛け布団の上にそのまま丸まってしまっている。

 潜り込む力もなかったのだろうか。夏場とはいえあまりいい状態ではないだろう。

 

「桐山ーせっかくだし、着替えてから寝たら?」

 

 声をかけてみるものの、身じろぎすらしなかった。

 これは無理だな。

 とりあえず、長襦袢のままなのはいただけないし、着替えさせてやるか。

 

「後藤さん、桐山の荷物に適当な部屋着っぽいのないですか?」

 

「あー?たく、面倒だな。……ほら、よっ」

 

 鞄をあさる音がして、ばさばさといくつかの布が投げられた。

 

「あぁ!投げないで下さいよ。起きちゃうでしょうが」

 

「死んだみてーに寝てるし大丈夫だろ」

 

 小さな声で抗議した俺に、彼はフンッと鼻で笑ってそう返した。

 

 まったく起きる気配のない彼を着替えさせながら、俺はふと違和感を感じて眉をひそめる。

 

 熱い。

 子どもの体温といってもこんなに熱いのはおかしい。

 

「……後藤さん、フロントに行って体温計借りてきてもらえませんか?」

 

「あぁ?」

 

「桐山、いくらなんでも熱すぎる。たぶん熱でてますよ、これ」

 

 首元や額に手をあてて確信する。

 

「かーー。遠足ではしゃぎすぎた子どもかよ」

 

 彼は呆れたようにそう一言呟いた後に続けた。

 

「分かった。ついでに、会長にも一声かけといてやる。場合によっちゃ明日のチェックアウト遅らせるか、いっそ泊まることになるだろうからな」

 

「お願いします。俺は、こいつについててやりたいんで。夜中に熱が上がったら可哀想だし」

 

 悪態をついたものの、後藤さんの動きは早かった。

 体温計だけじゃなくて、近くのコンビニでスポドリだとか冷えピタだとかまで買ってきてくれる手厚い対応。

 この人もなんだかんだ、心配しているのだろう。

 

 着替えさせる時に気づいたけど、おそらく体重も落ちている。

 第一局から数えて2ヵ月近くの長丁場。様々なものを削って、こいつは戦いぬいた。

 

 

 お前は凄かったよ、桐山。

 だから、今はしっかり休め。

 

 

 

 

 

 

 

 


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