棋神戦が終わったその日、僕は熱を出したらしい。
うつらうつらとする意識の中で、誰かが額に冷えピタをはってくれたり、水を飲ませてくれたり、頭を撫でてくれたのが分かった。
明け方うっすらと意識が覚醒して、その誰かが島田さんだと分かって、慌てて飛び起きた。
馬鹿! 寝てろと、すぐに布団に押し込まれたけれど。
迷惑をかけてと謝る僕に、彼はあっさりと気にするなと言ってくれた。
なにか軽く食べられそうかと、言われたけれど、どうにも食欲はわかなかった。
でも、薬を飲むにしてもお腹に何か入れた方がいいのはたしかで、差し出されたゼリーだけは何とか口にした。
この物資を全部後藤さんが買って来たんだと聞かされたときには、驚いたけれど。
後藤さんはタイトル戦が決まってから、少し僕とは距離を置いている雰囲気だった。あの人なりのエールだと思う。たぶん僕に余計なことで煩わせたくなかったのだ。
これを買ってきてくれたあと、夜のうちに対局の関係で東京へとたったらしい。僕にかまったせいで遅くなっていなかったかだけが、心配だ。
結局僕は次の日もホテルで休養させてもらった。
当然学校も休んだ。
第5局までは夏休み中だったからなんとかなったけど、第6局は9月の一日と二日目で、新学期が始まっていた。
小学生に戻って以降、対局以外で学校を休んだのは初めての事だ。
意識してなかったわけではないが、前回にくらべたら随分真面目に通っていると思う。それだけ学校も楽しめているということかもしれない。
欠席の連絡が……と言ったら、島田さんが代わりにしてくれた。
こういう時は、学校にかけるのが通例だが、僕は棋戦関係の欠席が多いし、林田先生の携帯に掛けることが多い。何も知らない先生が対応するより話がはやいし助かっている。
ただ、突然、憧れの棋士からの電話を受け取った林田先生の心臓が心配である。
午前中のことは朦朧としててあまり覚えてないけど、藤澤門下の人達が入れ替わりたちかわり、部屋に来てくれていたそうだ。
敗者ははやめに現地から立ち去るのが通例なのに、余計な手間まで掛けさせて、もうほんとすいません……。
あまりに人が来るものだから、その対応にいちいち席をたつのが面倒になったのか、はたまた、ノックの音で僕が微妙に覚醒しそうになるのに気付いたのかは分からないが、島田さんは、ドアのチェーンを挟んで半開きにして、その扉に「病人が寝ています。静かにはいって、静かに出てください」と張り紙をしたらしい。
僕の寝ている姿であろうとも、顔をみれば満足して帰っていくそうだ。
心配をかけているということなのだろうか? 見守る会の奴らがどうとか言われたけど、良く分からなかった。
夕方頃には、だいぶ熱も下がり、ホテルの人が用意してくれたお粥を食べることが出来た。
一流なだけあって、もとからこういうサービスもあるらしい。
もう大丈夫だから帰れると、そう告げたのだけれど食事中に顔を見に来た会長までが、一泊していけと厳命してきた。
宗谷さんの五期連続の獲得を祝って、記者会見などをここで行った関係でまだ連盟の関係者も多く残っているから気にするなと言われた。
薬の効果もあってか、はたまた足りていなかった睡眠を貪ろうとしているのか、僕はそのあとも眠り続けた。
夢のなかで、昨日の対局の盤が浮かんだ時には、自分の将棋脳っぷりに笑ってしまった。
だから、晩御飯時に、うっすらと覚醒した目線の先で、宗谷さんがすぐそばの椅子に座っていても、夢の続きだと思ってしまった。
「あ、起きたんだ? お水飲む?」
手元の紙からふと顔あげて、目線があった彼にそう問いかけられてようやくそれが現実だと気づいた。
「え? ……えっ? なんで、宗谷さんが……」
うろたえて体をおこす、僕をそっと支えてくれて、手元にストローを挿したペットボトル渡してきた。
「たまたま様子を見に来たら、島田が買い出しにでるから、その間傍に居てくれって。看病なんかは期待できないけど、見とくだけなら問題ないだろって」
ちょっと失礼だよね、僕だって人並みの知識はあるよ、と呟く彼に僕はなんと返していいか分からなかった。
流石島田さん……同い年だから遠慮が無い……。名人にこんな事中々頼めませんよ。
「んー。まだちょっと高い?」
額にあてられた、彼の手はひんやりと心地よかった。
「もうだいぶ下がりましたよ」
「無理しないでね。経験者から言わせてもらうけど、将棋にばっかりかまけすぎるのも問題らしい。僕自身はもう結構手遅れだとおもうけど」
君は心配する人も多いし、何よりまだ幼いからと。そう告げる彼の瞳は優しくて、少し驚いてしまった。
宗谷さんに自覚があったことが意外だった。
ふと彼の手元をみるとそこにあるのは、一枚の棋譜。
「それ! 昨日の第六局の棋譜ですか?」
「うん。ずっと見てるんだ。どれだけ考えても、次から次に別の手が浮かぶ。本当にいい将棋だった。僕が勝てたのは運の味方もあったね」
この人は、なんて表情で棋譜を眺めるんだろう。けど、好奇心が隠し切れていないその瞳が、なによりも彼の気持ちを表していた。
失礼かもしれないけど、新しいおもちゃを貰った子供でさえ、ここまで純粋な喜びを見せるだろうか。
表情の動きは普段の彼とそれほど変わらない。けど、好奇心が隠し切れていないその瞳が、なによりも彼の気持ちを表していた。良く知っている人がみたらその機嫌のよさに驚くだろう。
「嬉しいです。……他の誰にそう言って貰うよりも、一番うれしい」
序盤の事をかんがえると、あまりいいタイトル戦だったとは言えないと思っていた。
でも、今の宗谷さんの表情をみて、それは違うってちゃんと分かった。
対局相手に認められること、それがどれほど嬉しいことか。
他の人に何を言われても、この言葉だけで僕はたぶん振り返らずに進むことが出来る。
「昨日の対局の駒音が、僕の耳から消える前に、またちゃんと前に座りに来て」
「え……でも、他のタイトルは……」
「新人戦の記念対局でもいい。MHKだってまだ勝ち残ってる。待ってるから」
棋神戦の途中で、他のタイトルのリーグは敗戦を重ねていたけれど、宗谷さんは僕が何に負けて何に勝ち残っているのか把握しているようだった。
ゆるく頭を撫でられたあと、僕は彼とそう約束した。
宗谷さんが持っていた棋譜を眺めながら、自然と検討のようなことをしてしまって、島田さんが帰ってきたとたん、叱られてしまった。
ヒートしてる頭に負荷をかけてどうするとのことだ。
島田さんが宗谷さんに小言を言っても、彼の方はうん。と頷きながらも、まったく堪えたようすが無くて、なんだか二人の気安さがうかがえて可笑しかった。
島田さんと宗谷さんは、仕事の関係上、今日ホテルをたつらしい。
島田さんは本当なら泊まる予定はなかっただろうに、申し訳ないことをしてしまった。
今度研究会がある時にも、またお礼をしたいと思う。
宗谷さんにいたっては、棋竜のタイトル戦がすでに始まっている。棋神戦が第六局までもつれなければ、重なることはなかったのだろうけど。
複数のタイトルを保持し、そして、それを維持していくことは並大抵のことではない。
一人でもまったく問題は無かったのだけど、入れ替わりに幸田さんがこちらまで来てくれた。
体調を崩したと後藤さんから聞いて、居ても立ってもいられなかったそうだ。
僕が移動するのに公共交通機関を使うより楽だろうと、わざわざ車で来てくださった。
翌日、東京にもどってから、一応病院も受診した。
喉にも鼻にも炎症はみられず、発熱以外の目立った症状も無かったために、予想通り疲労からくるもので間違いないだろうと言われた。
ただ、その後の医師の一言は余計だった。
子どものうちは診察の前に、身長と体重を測ることは通例だけど、僕はすこし痩せ過ぎだと注意されたのだ。
……まぁ、体重は記憶していた4月の身体測定の時よりも、3キロは落ちていて、流石にマズイと自覚はある。
しっかり食べるようにと、釘を刺された。
病み上がりだったことと、近く棋戦がないということで僕は3日ほど幸田家にお世話になる。
一人にさせられないと言われれば断れなかったのだ。
もっと嫌がるかとおもった香子さんは、そう……と一つ頷いただけで何も言わず、もし時間が合えば駒落ちでまた指してってそれだけ頼まれた。随分と時間がたっていたけれど、まだその約束が生きていたことに少しだけ驚いた。
丁度週末だったので、土日御厄介になったあと日曜日の夜には久々に家に帰った。
タイトル戦中は、和子さんに面倒を見に来てもらっていた猫たちは、やっと帰ってきたのかとしばらく、僕の傍を離れなかった。
聞き分けの良い子たちだけど、少しは寂しかったのだと思う。
時間もあるし、思う存分遊んで、撫でて、そして一緒に寝た。
久々に、袖を通した制服は、少しだけ余裕が増えた感じがして、やっぱり痩せたのかと、この時ようやく身に染みた。
幸田さんや藤澤門下の人達の、家庭訪問もタイトル戦中は遠のいていたけれど、僕の体重の事が広まったらたぶん、しばらくは頻繁に食事に連れ出されるだろうし……折角だから、ちゃんと食べようと思った。
9月の2週目になってようやく登校した学校は、7月の時と何も変わってなくて、なんだかほっとした。
提出が遅くなった夏休みの課題と、欠席の届けを出しに少し朝の早めに伺った職員室では、
出会う先生方、一人一人にお疲れ様、と声をかけられる。
提出が遅れた件に関して謝っても、寧ろあのスケジュール中に、ちゃんと仕上げて出してくるのが凄いよと言われて咎められはしなかった。
林田先生には、島田さんの事で心臓にわるいから、急には勘弁してくれと注意された。でも、話せたこと自体は嬉しいらしい。難しいファン心理だ。
タイトル戦の内容にも熱く感想を語られた。これだけ熱心に見てくれる人が身近にいるのも、嬉しいことだし励みになる。
テレビのニュースで取り上げていたからか、僕のタイトル戦の行方はクラスメイト全員が知っていたが、ほとんどの子がそのあと体調を崩して学校を休んでいた事の方を心配してくれた。
優しい出来た子たちである。
学校から帰ろうとする道すがら、少し先の道路わきに黒いベンツが止まった。
一瞬何事かと身構えたけど、心当たりは一つしかなかった。
「桐山―!! 見たぞ、宗谷棋神との熱き戦い。俺はもう、猛烈に感動した」
予想通り降りてきたのは、二海堂だった。タイトル戦の間は島田研究会もすこし不参加気味だったから、会ったのは久々になる。
「こんにちは。二海堂。対局を見ててくれたのは嬉しいけど、ここに来たのはたまたま? それとも僕に何か用事があって?」
「あぁ、お前に少し相談があってだな。自宅の方へ伺おうかと思っていたのだ」
昔から、予想外の行動力は変わっていない。
「いいよ。今日は別に用事もないし。ただ、こういう時は先に携帯に一報いれてくれ」
「むっ、すまん。別に今日でなくても良かったのだが、近くを通ったついでに時間が合えばと思ってな」
花岡さんが是非にというから、近くまで車で乗せてもらった。
相変わらずいい車である。
「どうぞ、散らかってるけどそこは目をつぶってくれ」
「お邪魔します。……っと、おおぉう! 桐山の家の猫か?」
ピューッと弾丸のように部屋の奥から飛び出してきた、うちの番猫のシロは二海堂をみるなり身体を大きく膨らませて、唸り声をあげた。
「シロ、落ち着いて。おかしいな、なんでこんなに威嚇するんだろう……」
いつもなら、一度かるく唸った後は、例のくるくる回る審議に入るんだけど、その様子もない。
「俺の家には、エリザベスがいるからな……犬の匂いが気になるのかもしれん」
「ありえる。シロは藤澤さんの家の近くのダックスと凄く仲が悪かったんだ……。まぁ犬と猫ならよくある話だけど……。
シロ、此処にはいるのは二海堂。前少し話しただろ。僕のライバルだよ」
僕の言葉にひとまず唸るのは辞めたものの、どうにも警戒の色はとれない。
「ふむ。シロ殿。突然お邪魔してすまなかったな。今度ここに来る時は新品の装いで、なるべく匂いが無いようにしよう。今日だけは勘弁してくれないだろうか」
二海堂は一つ頷いたあとに、しゃがんでなるべくシロに視線を合わせてそう言った。
しばらく一人と一匹は見つめ合っていたけど、シロの方が警戒をといて、いつものようにクルクルと彼の周りを2回ほど回った後、にゃんと一声鳴いて部屋の奥へと引っ込んだ。
「上がっていいって。二海堂はたぶん気に入られたよ」
「そうなのか? 初対面で随分驚かせたと思うのだが……」
「先導するときは入って良いってことなんだ、つまりは迎え入れてくれたってこと」
後藤さんとか、宗谷さんとか何故かあんまり懐いて無い人達だと、ずっと尻尾を膨らませてるし、しばらくは後をついてまわる。本猫としては、監視のつもりなのかもしれない。
あんな風に鳴いたりしないし、部屋に招き入れることは絶対にない。
部屋を様子みた二海堂は意外と物があることに驚いていた。
桐山の部屋なら机すらなくて、将棋盤がポツンとあるイメージだったと言うのだ。
僕は心外だと言い返しながら、内心ではあたっていると頷く。
幸田さんが、引っ越しの時買い物に付き合ってくれてなかったら、前回同様、味気ない部屋になっていたと思う。
「それで、僕に用事ってなんだったの?」
お茶を入れて一息ついた後に切り出した。
研究会で会うようになり、話すことも増えて、二海堂の方からも以前のような遠慮のない絡みが多くなってきていた。
「そのな……宗谷名人と桐山の対局をみて、だいぶ触発された。忙しいのは分かってるんだが……良かったらVSに付き合ってくれないか? 三段リーグも大詰めなんだ」
二海堂は最初の三段リーグの真っ最中。自分のタイトル戦が忙しくて、詳しくはみれてなかったが、成績は悪くなかった。
いくつか落としていたものの、最終日の残り2戦勝てれば十分に昇段可能性があったはずだ。
逆を言えば、一つでも落とすと昇段はないと思ったほうがいい。最初のときは順位が低いから勝率で勝らなければ厳しい。並んだ場合圧倒的に不利になる。
「いいよ。今月はそれほど忙しくないし、対局は来週末までないから、好きな時に来てくれて」
「ほ、ほんとか!? ほんとにいいのか?」
二海堂は信じられない、といった表情でなんども問い返してきた。
「なんだよ……そんなに意外だった?」
「桐山はあまり、こういう事は好きそうじゃなかったから。奨励会の時も他者との会話はすくなかったし。正直、受けてもらえないかと……」
「タイトル戦中ならともかく、終わった今は一番余裕あるし、断らないよ。それに、はやくこっちで指してほしいし」
三段への昇段前、体調を崩していた彼を見舞ったときの言葉に嘘はない。
焦って体調を崩すのは困るし、身体は大事にしてほしいけど、それと同時にチャンスがあるなら物にしてほしいと思ってしまう。
三段リーグは嵌まると長いときがある。狭き門だけに実力は充分でも抜けられない事がある。
そうなってほしくはなかった。
「次の相手だれだっけ? 奨励会員のデータは少ないんだけど、得意戦法とか分かれば似たようなの引っ張ってこれるかもしれない」
パソコンを起動させながら言った僕に、二海堂は少し悩んだあと首を振った。
「いや……対局相手の研究は自分でももう嫌というほどしてるから、出来たら桐山とたくさん指したい。それがなにより刺激になるし、新しい発想が生まれる気がする」
「分かった。今日も今から時間ある?2局くらいは出来るだろ」
「いいのか! オレは勿論大丈夫だ」
「明日は学校だし、あんまり遅くまでは付き合えないけどな……。けど、僕はそんな大したものでもないと思うけど」
宗谷さんやA級棋士ならともかく、僕と指すだけにそこまで価値があるとは思えなかった。
けど、その言葉に二海堂はそんなことない、と強く言い返してきた。
「本当に感動したんだ。俺よりもいくつも年下の桐山が、あの宗谷名人相手に一歩も引かずに、タイトル戦を戦いぬいてた。……序盤体力的に不利だって言われても、諦めなかった。自分なりに考えて、くらいつく道を見つけて、やり方なんていくらでもあるって、俺の希望になったんだ」
噛みしめるような、一言だった。
そうか、二海堂は常に身体的にはリスクを抱えて対局に挑む。
体調が良いときは問題ないけれど、他のひとよりも万全の日はすくないだろう。
僕の場合は少し体力をつけて、成長すれば問題なくなるけど、彼の場合は一生それが付いて回る。
それでも、少しでも、何か彼の琴線に触れたなら、それでもっと将棋へ打ち込めるのなら、嬉しいことだと思う。
その日は結局そのあと三局ぶっ続けで対局した後に、シロのストップがはいってお開きとなった。
この子は本当に凄い……。タイトル戦後は、いっそう厳しくなった気がする。
後日、二海堂は何回かうちにやって来た。三段リーグの最終日までそれほど対局が出来たわけではなかったけど、いい結果に繋がってほしいと思う。
棋神戦後の初めての対局があったのは、9月中旬のことだった。
新人戦トーナメントの一局だ。
棋神戦の挑戦権を得たときに六段に昇段したことで、次からは制限にかかり出場資格はない。よって最初で最後のチャンスとなる。
新人王のタイトル自体にそれほど、固執はしていないけど、記念対局はタイトル保持者との対局となる。今のタイトルはほぼ宗谷さんが持っているので、非公式ながら、ちゃんとした場で対局できる貴重な機会だ。
久々の将棋会館での対局は、スムーズに進んで、一勝を重ねた。
本当は少しだけ、緊張もしていた。
タイトル戦後はともすれば、気負いすぎたり時間の使い方を間違ったり、とその影響が強すぎて、調子を崩したりすることもある。
杞憂に終わって良かった。
帰路についていた僕の携帯が着信を告げる。
こんな時間に誰だろうと手に取ってみると、あかりさんからだった。
「はい。桐山です」
「あっ!良かった零くんっ!? 急にごめんなさいね」
常からは考えられないくらい焦った声だ。なんとなく嫌な予感がした。
「どうしたんですか?」
「あの……あのね。ひなをみなかった? 実はさっき家を飛び出していってしまって……探してるんだけど見つからないの。もう、日も落ちてきてるのに……。もしかしたら零くんのところに行ってないかと思って」
「ひなちゃんがですか!? すいません、今対局が終わったところで……急いで一度、家に帰ってみます」
ただ、喧嘩をして出て行ったとか、そんな事態ではない事は彼女の様子から充分に察せられた。
ひなちゃんは優しい子だから、あかりさんやお母さんに心配をかけるような行動をそうそうとったりしない。
……考えられる可能性としては一つだった。
「……お父さんと何かあったんですね?」
電話の先で、あかりさんが小さく息をのんだ。それがもう答えだった。
「私もちょっとまだ、信じられなくて……」
「いえ、大丈夫です。今はひなちゃんを見つけることを優先しましょう。事情は後からお二人が良ければ聞かせて下さい」
なるべく、いつもと同じ声でそう告げるように努力をした。
僕まで動揺してはいけない。頭が熱くなりすぎたら、冷静に行動が出来なくなってしまう。
「ごめんなさい……。桐山くんだって、疲れてるのに……」
「連絡をくれたことが嬉しかったです。あかりさんはあまり動かないで、これからどんどん夜が更けて来ます。その前に、絶対に見つけて連絡しますから」
今の僕は、まだたかが中学生だ。だから頼ってくれるのかずっと自信が無かった。
でも今日この携帯は鳴ったから。
それだけで、もう理由はいらなかった。
急いで家に帰ろうと思ったのだけど、なんとなく僕の足は別の場所にむかった。
家には来ていない気がした。
彼女が私的な理由でこんな夜更けに押しかけてくる可能性は低い。
むしろ一人だけで、膝を抱えて、ぐっといろんな感情を飲み込もうとしている気がした。
だとしたら……
6月町と3月町を結んだ中央大橋をひた走る。
渡り切ったら、隅田川沿いにずっと、川辺に人影を探した。
きっといる気がした。
彼女は独りで泣くとき、いつも川の傍に居たから。
「ひなちゃん! ……良かったっ」
どんなに遠くからでもちゃんと分かった。僕が彼女を見逃すはずないから。
僕の声に驚いたように顔を上げた彼女が振り返る。
涙のあとに心が痛んだ。
「れいちゃん……なんで……?」
「……はぁっ。あかりさんから、連絡があって……心配してたよ、ひなちゃんのこと」
柄にもなく全力で走ったから、息が切れた。大事なところで格好つかないな、と思う。
「そっかぁ。お姉ちゃんに悪いことしちゃった」
所在無げに伏せられた彼女の瞳からまた一滴涙が零れ落ちた。
「見つけたってことだけ言ってもいい? ……落ち着くまではここに居よう」
ゆるく彼女が頷いたのを確かめてから、僕はあかりさんにひなちゃんを見つけたことと、落ち着くまで傍にいることをメールした。
電話をかけたら、ひなちゃんにも代わることになるかもしれない。なんとなく、今の彼女に、それは酷な気がした。
「ねぇ……どうして、来てくれたの?」
「約束したから。何かあったら頼ってほしいって」
「零ちゃんはすごいね。ほんとに来てくれるなんて、見つけてくれるなんて思わなかった」
お父さん、追いかけてきてくれるかなってちょっとは思ったんだけど。と、小さく呟かれたその言葉に彼女がどれだけ傷ついたことだろうと思った。
寂しそうなその背中に寄り添いたかった。
抱きしめたかった。
ただ、それをする権利がまだ僕にはないような気がして、動けない自分が歯がゆくてしかたなかった。
グッと手を握りしめる。
どういう言葉をかけたらいいのか、ぐるぐると考えることしかできない。
「お姉ちゃんから、もう話聞いちゃった?」
彼女の言葉に静かに首を振った。
「ひなちゃんに会ってから、決めようと思ってた。話したくないなら、無理に聞く気はないよ」
「そっか……。私は……聞いてほしいかな。もう何が正しいのか、何が悪いのか全部分からなくなっちゃった」
思いだしたら、また泣きそうになったのだろうか。
彼女の眼のふちにはまた、涙がせり上がって来ていた。それを手荒に拭うと、
「新しい彼女と一緒に住みたいから、うちを出ていきたいんだって。
一緒にいるだけで幸せをくれる素敵な人なんだって。
もう、ひなたちのお父さんはやりたくないんだって!」
川に向かって叫ぶように彼女は早口でそう言い切った。胸にくすぶる言いようのない理不尽さを必死で消化しようとしていた。
「お母さんの顔見てられなかった。あんなにお父さんのこと、信じてたのに……」
唖然として固まるお母さんの美香子さんの前で、まるでそれの何が悪いのかというような表情で、新しい彼女のことを語り続けていたらしい。
愛して信じていた人から、それを告げられることほど、残酷なことがあるだろうか。
「ひなたちのことなんて、もう頭にないみたいだった。もう、俺の事なんて好きじゃないだろって。ずっと笑いかけてなんてくれなかったなんて。……そんなこと無いのに、嫌いだったらとっくの昔に、諦めてたよ」
ずっとずっと、信じて待ち続けていたのだ。
ひなちゃんも、あかりさんも、川本家の人々は全員。いつかまた、誠二郎さんが仕事を見つけて、立ち直って、また家族全員で毎日ご飯を食べられる日がきっと来ると。
「私、気が付いたらお父さんに怒鳴ってた。家に居なかったのはお父さんじゃないって。ずっと、信じて持ってたのにって。そうしたらね……お父さんなんて言ったと思う?」
川辺の柵に捕まった彼女の手が、力を入れすぎて真っ白になっていた。
背を向けられて、表情は全く見えなかったけど、それだけどんな気持ちなのか良く分かった。
「重いんだって。ずっと自分が責められてるみたいで、息苦しいって。あの人は俺に、そんな風にあれこれ望まないって言われちゃった……。
零ちゃん……私たち、間違ってたのかな? そんなに、お父さんには苦しかったのかな?」
そして、もうその先の言葉は聞きたくなくて、思わず家を飛び出してきてしまったそうだ。
小さくなっていくか細い声と、揺れる肩と、彼女がどんどん萎れて小さくなってしまいそうで。
僕は、堪らなくなった。
「間違ってなんかない。娘が父親を信じて待ってた! なんにも悪くなんてない。父親であることを放棄したのは、あの人の責任だよ」
気が付いたら、さっきの躊躇なんてどこかに行ってしまって、そっと彼女を抱きしめていた。
自責の念に押しつぶされてしまわないように、行き場のない感情に呑まれてしまわないように、その一心だった。
背中からだったから、ひなちゃんの顔は見えなかったけど、一瞬びっくりしたように肩が揺れたあと、前に回した僕の手に小さな手が重なった。
それだけで十分だった。
川に向かって、緊張が解けたように、声をあげてなく彼女が落ち着くまで、時折彼女の頭を撫でながら、何度も大丈夫だよと傍に居るからと、そうぽつりぽつりと声をかけた。
「……ご、ごめんね。でも、大きな声で泣いたらすっきりした」
少しだけ、落ちついた彼女と川辺にそって置いてあったベンチに座って一息つく。
「お父さんのこと……これからどうなるんだろう」
決定権は、両親にある。
結局いつだって、子どもはそれに振り回されるしかない。
「ひなちゃんは……どうしたい? それを伝えるのも大事だよ」
前の人生で僕に、その機会はほとんど与えられなかった。長野を出るときもそれからも、ずっと大人に流されて、その中でなんとか生きる道を探し続けた。
だからこそ、今はかなり自由にさせてもらったと思う。でも、やっぱり子供であることに変わりはないから、いつも大人に訴えかけた。
菅原さんに、園長先生に、会長に、藤澤さんに、自分がどうしたいのかを、必死に伝えた。僕が一歩踏み出せば耳を傾けてくれる大人もいることを、知っていたから。
「零ちゃんはいつだって、私の気持ち聞いてくれるね。そうだな……もう、お父さんとやり直すってあんまり想像がつかない。あれだけはっきり拒絶されたんだもん。……お母さんと、お姉ちゃんと、お祖父ちゃんと、お祖母ちゃんがいたら私はそれで大丈夫」
「そっか、じゃああかりさんとお母さんともよく話し合ってみて。二人とも、きっとひなちゃんの声を聞いてくれるとおもうから」
美香子さんは深く傷ついているだろうけれど、娘の声が届かないほど盲目になっていない事を今は祈るしかない。
夜も更けて来たのもあって、そろそろ帰ろうかと持ち掛けたんだけど、それにひなちゃんは難色をしめした。
「嫌だな……うちには帰りたくないよ。だってまだお父さん居るんでしょ?」
「え……どうだろう。おそらくは……」
「零ちゃんの家に行ったらダメ? いきなりは迷惑かな?」
「えぇ!?いや、迷惑ではないけど……でも狭いし……」
遊びにくるのは全然かまわないんだけど、泊まるってなると流石に不味い気がする。
小学生と中学生だから。うん……別に友達感覚で良いと思うんだけど……。
いやでも、僕の精神年齢的には非常にマズイような……。
ぐるぐると迷っていたところに、あかりさんから連絡がきた。
伯母さんである美咲さんのお家に今日は泊まらせてもらうらしい。
彼女も、いまは父親と距離をあけたいのだと思う。
「ひなちゃん、あかりさん伯母さんのお家に泊まるんだって、そっちなら大丈夫?」
「美咲伯母さん! うん。伯母さん、最近家にもあんまり顔出してなかったから会いたい」
どうやら、誠二郎さんのことで妹の美香子さんとすこし、揉めてから足が遠のいていたそうだ。
以前から誠二郎さんの行動には目を光らせていたようだったから、妹さんになんとかあの男の事を諦めるようにと説得しようとしていたのかもしれない。
「ひなちゃん。最後に一つ約束してくれる?」
あかりさんを待つ間、僕は彼女に尋ねた。
「なあに?」
「独りで泣かないで。どうしようもないことが出来たら、僕のところにきてほしい」
ひなちゃんは目を丸くして固まっていたけれど、そのあとボンッと赤くなった後に、そっと小指を差し出してきた。
「じゃあ、指切り。零ちゃんも辛いことがあったら、うちにご飯食べに来てね。ひなも頑張って、いっぱい料理作るから」
指を差し出しながら、彼女は今日初めて笑ってくれた。
あぁ……やっぱり笑顔が似合うなって、そう思った。
前の時も何度かこうやって彼女と約束を交わした。
指切りをした彼女の手は記憶よりもずっと小さくて、でもその暖かさは変わらなかった。
また、ひなちゃんと交わせた繋がりはずっとずっと尊く思えた。
合流したあかりさんに、何度も何度もお礼を言われた。
ふたりのことを伯母さんの家まで送っていく。
大丈夫だと言われたけれど、ここまで来たら最後まで、と押し切らせてもらった。
「助かったわ。桐山くんが、あの子たちの傍にいてくれて」
美咲さんの家について、二人が家に入ったのを確認したあとに、そう声をかけられた。
大分疲れているようだった。
この人は以前から誠二郎さんの異常さを、妹さんに伝えていたらしいし、今回の事もいずれおきてしまうだろうと予想がついていたのだろう。
記憶にある2回目の騒動のときも、間に入ってくれて頼りになった。
「ひなちゃんからはおおよその事情を聞きました。……中々、円満にとは難しいと思いますが、第三者が入ることも検討してくれないでしょうか?」
「第三者……?」
「有り体にいえば、弁護士とかです。客観的に、立場ある大人から事実関係を確認されれば、だいぶ冷静に話が運べるのでは」
「そこまで大事にしなくても……。それに、弁護士なんてお金がかかるわ。伝手もないし」
「最初が肝心です。……といっても、ひなちゃんの様子からして、すでに拗れてしまったみたいですが。弁護士の方は、頷いて頂ければ僕からご紹介できます。お金のことは相談するくらいなら、かかりません。それくらいのお願いは聞いて頂けると思います」
後半は少しだけ、嘘だ。もし必要なら、支払いは僕がしてもいい。けど、たぶん一局指したり、一筆書いたりするだけでも充分だと以前言われた。
プロ棋士の桐山零の価値はそれなりに高い。滅多に使わないけれど、今回ぐらいこの立場を利用させてもらおう。
美咲さんは、ぽかんとした表情で僕の顔を凝視していた。
「あの……どうでしょうか?」
あまりに微動だにしないので、流石に出しゃばりすぎたかと焦ってしまう。
「……凄い子だと思ってたけど、ここまでとは思わなくて。そっか、そうよね。貴方はタイトル戦もこなしたプロ棋士だものね。父さんが熱心に応援してるのも分かるわ」
感心したように、頭の上から足の先までまじまじと眺められて、僕はすこしだけ後ずさった。こう……改めて、見られるとどうにも恥ずかしさがまさる。
「あの男のことで進展を望むにはそれもいいかもしれないわ……このままじゃ平行線……いいえ、下手をしたらこっちが泣きをみるだけよ」
美咲さんはそう言って、何度か自分に言い聞かせるように頷いた。
そして、その後に決して無理はしないようにと念押しをされてから、とりあえず知り合いの方に声をかけてみてほしいと言われた。
僕は任せて下さいと、大きく頷いてその場を後にした。
調査の依頼は前から動いていた。
いざとなったら任せてくれと、言質も頂いている。菅原さんに連絡をしよう。
ひなちゃんが泣かないといけないなら、せめて、この一回だけで済むように。
二度とあの男のせいで悩む日が来ることが無いように。
正念場だと気合いを入れた。