「何この人の多さ……。ひょっとして、俺はめられたの?」
居間に入った瞬間に誠二郎さんは眉をひそめた。
今後の大事な話をしたいと彼を呼び出したこの部屋には、川本家の皆さん全員と僕と菅原さんがいた。
菅原さんに連絡を取ったのは数日前、その手の調査に強い方にたのんでいてくれたようで誠二郎さんの、身辺調査はすでに完璧といっていいほど情報が揃っていた。
ご家族に話すのは僕からするよって、簡単に請け負ってくれたし、本当に有り難い。
中学生の僕がいきなりこんな話をしたって、どうにも説得力が欠けてしまうから。
調査をしてくれた人にもお礼を……と言おうとしたら、相当な将棋のファンの方らしく、将棋盤へのサインとそのときついでに一局指すだけで、充分すぎるとのこと。
桐山くんのファンで、棋神戦も観に行ったような奴だから、会ってくれるだけであいつからしたらお金以上の価値がある、なんて言われてしまった。僕としても、それくらいなら、全然問題なかった。
「おかしいよね。家族で話をしようって時に部外者がいる。なんだよその男は」
「私が頼んだの。弁護士の方よ。専門家にきていただいた方が、話が進むと思って」
美咲さんがきっぱりとした口調でそう言った。
きっちりとスーツを着込んだ菅原さんの姿に、誠二郎さんは顔色を曇らせた。
「弁護士って……そんな大げさな。だいたいお金がかかるんじゃないのか?」
「ご心配なく。桐山くんの紹介ですし、今日はあくまで相談ということなので、料金は発生しませんので」
誠二郎さんの懸念に、菅原さんがにこやかに答えた。
「ふーん。流石にプロ棋士様ってところか……」
居間に入ってきた時とは打って変わって、そわそわと落ち着きがない。
弁護士というその菅原さんの肩書きが彼に動揺を与えているのは、一目瞭然だった。
「では、私の方から、事実確認の方をいくつかさせて頂きます」
菅原さんは、机の上に次々と資料を並べはじめた。
「じ、事実確認ってなんだよ。俺はちゃんと話してるぞ!」
「事前に奥様のほうから、お話をお聞きしましたが……随分と曖昧というか、お話していないことがあるようでした。
此方の方で調査して分かっている事実との、照らし合わせも必要かと」
毅然とした態度でそう言った菅原さんに、その場の空気が変わった。
誠二郎さんが今の彼女と付き合い始めたのは春ごろであること。
最初は妻子がいることを隠して、付き合い始め“深い仲”になり、女性の方が完全に“本気”になってしまった後に、自分の素性を明かしたこと。
川本家に帰っていない間は、ほぼその相手の家に転がりこんでおり、既に半同棲状態であること。
女性のほうは、自分を選んでくれるはずだと、そう信じ切ってしまっていること。
彼女側のご家族はこの事実をまったく知らないということを。
そして、彼女への贈り物や、デート費用の工面のためにいくつかの借金をしていること。
借金の金額はそこまで高くはなかったけれど……一般の会社員の給料何か月分かはあった。返還が滞るようなことになれば、それも増えていってしまうだろう。
「事実無根だ! 言いがかりだろう。だいたい俺とあの子のことなんて、本人たち以外分からないだろう!」
ガラっと雰囲気を変えて、誠二郎さんが大きく机をたたいた。
「お相手の方の友人など、身辺から情報を集めて行ったのでそれなりに信憑性はあるかと。写真の日付のこともありますしね。それに、この借金のことは、言い逃れはできませんよ」
「それは……、俺が無職だったときに家にいれる金がなかったから、とりあえずは工面しないと、と思って……」
「この一年以内に、旦那さんからこれだけの額が生活費として渡されましたか?」
しどろもどろに、言い訳する彼の言葉を受けて、菅原さんはすかさず美香子さんの方に尋ねた。
彼女の顔は可哀想なくらい真っ青になっていた。
こちらの声が聞こえているのか怪しいくらいだったけれど、ゆっくりと首を振った。
「奥さんは受け取っていないようです。一体どこでお金をお使いになられたのか」
菅原さんは、あくまで淡々と事実を確認してそれを提示し続けた。
決して、声を荒らげることもなく、感情的にならず、その姿はまさしくその道のプロだった。
誠二郎さんお得意の、自分の都合のいいように、話が通りやすいように、そう持っていくことなど到底不可能だった。
良く分からないルールで場を縛って、何となく聞いてはいけないような雰囲気を作って、自分の汚いところには踏み込ませない。
身内だから、優しい人達だからこそ、躊躇してしまうその場所に、次々と切り口が加えられていった。
「俺の人生だ! 俺がどうしようとそれは自由なはずだろ」
もうどうにもならなくなったのだろう。
取り繕うことをやめて、そう叫んだ男に僕の頭はカッとなった。
「貴方のご家族ですよ。貴方が望んで手に入れた、優しくて尊い場所のはずだ。それを……あんたはどうでもいいって言うのか?」
世の中にはいろいろな人がいることは知ってた。それぞれ事情を抱えている人もいるだろう。
でも、だからってこれはあんまりだ。
奥さんの美香子さんが何をした? 娘のあかりさんやひなちゃんが何をした?
何もしてない。
ただずっと、この男を信じて待ち続けただけだ。
美香子さんにいたっては、頼りにならない夫の代わりに家計を支え続け、家事をして育児をして……、ただ愛したその人の事を信じていただけなのに。
「もう……さ、面倒なんだよね。夫の責務? 父親の義務? 重すぎるだろ。割に合わないんだよ」
頭をかきむしりながら、呻くように告げるその言葉は、おそらく本心だ。
この人に同情する余地なんてなかった。
「だったらあんたなんかに、この家にいる資格はないっ!」
気が付いたらそう叫んでいた僕の声は、
「もう、止めてください」
居間に響き渡った、女性の悲痛な声にかき消された。
「そんな人でも、私が愛した人なんです。もう、これ以上は……」
美香子さんは泣き崩れていた。
「あ……」
何との言えない静寂が部屋に満ちた。
美咲さんがちょっと、と美香子さんの肩をゆすっている。
失敗したとそう思った。
「すいません、出過ぎた真似をしました……」
それ以上その場にいても、誠二郎さんと言い争ってしまうだけで逆効果な気がした。
気が付けば、後の事は、ご家族で……と、僕は頭をさげるとまるで逃げるように、川本家を飛び出していた。
後ろから、零ちゃんと僕を呼びかける声がしたけれど、もし彼女たちにまで拒絶の言葉を告げられたら耐えられない気がして、振り返ることは出来なかった。
……踏み込み過ぎただろうか。
僕は前から、こうと考えたら一直線なところがあった。
美香子さんの気持ちを考えるなら、あそこまでする必要はなかったのかもしれない。
もしくは、先に美咲さんや相米二さんと話しておいて、それとなく伝えたほうがダメージが少なかっただろうか。
けど、あの男は口がうまいし、絶対に言い逃れができない状態をつくって突きつけた方が……。
ぐるぐると後悔が頭の中をよぎっていた。
飛び出したその足を止めることなく歩き続けた。
「桐山くん、大丈夫かい?」
僕の後を追いかけてきた菅原さんに、そう声をかけられてハッとする。
「すいません、菅原さん。僕の方からお願いしたのに……」
「あぁ、大丈夫あれくらい慣れてるよ。クライアントが、感情的になってしまうことはよくある。特に受け入れがたい事実だとね。すこし時間がたてば冷静になれることもあるし、後は、あのご家族で決めることだ」
お祖父さんやお姉さんの方は、落ち着いておられたからそんなに心配しなくて大丈夫だと思うと、彼は僕の肩を叩いた。
流石に慣れているというか、相手の反応をしっかりと確認しながら情報を出していたのだなと、実感する。
「本当に助かりました。僕一人ではとても……」
「君から頼って来てくれて、嬉しかったよ。以前は碌に力になれなかったからね」
「そんな事ないです! 菅原さんがいたから、僕は東京にまで来れました。その後だって、ずっと気にかけて下さったじゃないですか」
長野で、遺産管理や僕の処遇でもめたとき、この人がいてくれなかったらどうなっていただろうかとゾッとする。
離婚の手続きをとるなんて話になったら、また連絡してくれ、と菅原さんは言ってくれた。
もう充分ですよ、と断ろうとしたのだけれど、一度受けた仕事は最後まで見届けたいと押し切られてしまった。
……川本家からの連絡はまた来るだろうか。
とりあえず少し時間をおこう。美香子さんは無理でも美咲さん達の方からは連絡があるかもしれないし……。
家に帰って、余計なことは考えないように無心で、棋譜をさらっていた。
明日は順位戦の日だ。
タイトル戦が行われていた最中にも一局あったけれど、なんとか勝利をもぎ取っていたので、今のところは全勝できている。
連続での昇級を狙うなら、10戦全勝を目指したい。
だから、明日の対局も落としたくはないのだけれど……。
どうにもこうにも、集中しきれていない気がした。良くない傾向だ。
僕は以前から、精神面に影響されることがままあった。
良い方にあらわれるか、悪い方にあらわれるか、それは自分でも制御できることではない。
昼休憩をしながら、出前をとった棋士たちが控え室でそれぞれ腹を満たしていた時、俺は、後輩の桐山の事が気にかかっていた。
味噌煮込みうどんを黙々と食べているその様子は、どうにもいつもと違って元気がない気がする。
「桐山、ひょっとして体調悪い? いつにもましてペース遅いけど」
隣に座って一声かけてみる。タイトル戦後に体調を崩していた姿は記憶に新しい。
「あ、スミスさんお疲れ様です。体調は別に大丈夫です」
キョトンとした顔で、こちらをみる桐山は、確かに顔色は悪くないみたいだった。
「えー、なんかいつもはシャキーンって良い姿勢で淡々と食べ進めて午後に備えてるじゃん。なんとなく集中してるなって感じで声かけ難いときもあるんだけど、今日はなんか……」
おなじくついてきた、いっちゃんが納得いかないように、そう声をかける。
確かに、今日の桐山は精彩を欠いているような気がした、自分の対局があるから詳しくこいつの朝の対局内容は知らないけれど、チラッと見えた盤面は珍しく劣勢だったように思える。
いっちゃんの声が大きかったのもあって、同じく出前をとって食べていた棋士たちが少しこちらをみた。
「なんだ、桐山、腹でもいたいの? せっかく体重もどってきたんだから気を付けろよ」
丁度休憩に入ってきた、島田さんも気づいて寄って来て声をかけはじめる。
こいつの事は、みんな本当に心配してるんだ。
将棋は鬼みたいに強いけど、まだ子どもだし、今一人暮らししていることもあって、気に掛けている棋士は多い。
この才能あふれる棋士が、このまま真っ直ぐにすくすくと成長していってほしいと思っているのだ。
だからこそ。先日のタイトル戦後に幸田さんから、桐山の体重がめちゃくちゃ減ってた事が、見守る会の情報で出回ってから、食事に関しては特に口出しする自称保護者が増えた。
出会いがしらにお菓子やらなにやら、あげる人がやたらいるのもそのせいだ。
「いえ、ホントに体調は大丈夫なんです。ただ……ちょっと自分の不甲斐なさに落ち込む出来事があったと言うか……」
「え? 桐山レベルで?」
思わず素の声が出てしまった。
「え? 何ですか、僕レベルって」
「いやーだってさ。小学生でプロになって、中学生になってタイトル戦も挑戦してって絶好調じゃん」
お前で不甲斐ないって言われたら、俺たち立つ瀬ないぞっといっちゃんも、少し拗ねたようにそう告げる。
「いえ、将棋の事じゃなくて……その、すこし人との距離感のとりかたとか、踏み込んでいいかどうかの見極め方って、とても難しいなぁと思いまして」
「何? 友達と喧嘩でもしちゃったの?」
「友達……とも少し違うんですけど、僕が勇み足で傷つけてしまったので……」
しゅんと落ち込んだような表情は年相応だった。
将棋じゃ本当に中学生なのか疑いたくなる桐山も、こんな風に悩むのかとなんだか少し、微笑ましくなる。
「相手の事を想ってのことだったんじゃないのか? おまえが、何の理由もなくそんなことをするとも思えない」
島田さんも同じ気持ちだったのだろう。穏やかな優しい声で桐山にそう声をかけた。
「そのつもりでした。でもこれが正しい選択だったのか、自信がなくなってしまって……」
「それも含めて、もう一度話してみればいい。大丈夫だよ、相手もきっとそう思ってる」
「そうだったらいいんですけど。もし、もし拒絶されたらと思うと……。相手が特別だとそれだけ、難しいですね……」
「え? まじで? そういう話?」
思わず声をあげてしまって、島田さんと桐山がこちらを向く。
これは、ひょっとしてそういう事なのか? 特別ってそういう意味? 男同士だと、友達とのことでこんなに、落ち込んだりしないよな。
いっちゃんと思わず視線を交わしてしまった。
将棋以外に、興味なんかないんじゃないかと思っていた桐山にひょっとして、これは春の訪れなのかと、若干そわそわしてしまう。
此処は、人生の先輩として背中を押してやるべきだろうと、咳払いを一つしたあとにこう続けた。
「桐山! 相手が大切なら、それだけ妥協するな。諦めないでちゃんと話してこい」
「そうそう。それでどんな結果になっても、そうやって悩んでるよりはずっといいから!」
俺たちの言葉に俯き気味だった、あいつの背中がシャンと伸びた。
「そう、ですよね……僕もこのままは嫌です!」
「だろ? その気持ちがあるなら大丈夫さ」
目の力が戻ってきたようなあいつに俺たちは力強く頷いた。
願わくば、その誰かと上手くいってほしいものだけど。
俺といっちゃんはその日の対局が終わったあと、会館の傍で二人の女の子が、困ったように佇んでいるのを見かけた。
俺たちが出て来たのをみて、声をかけようかどうしようかと迷っている風だったので、こちらから声をかけてみる。
「お嬢さんたち、会館に用事?」
「あの……桐山六段ってまだ対局中ですか?」
少しだけ悩んだ後に、高校生くらいの女の子の方に尋ねられた。
そんじょそこらじゃ、お目にかかれないくらい綺麗な子で、何気なく声をかけたけど妙に緊張してしまう。
「あ。えっと桐山? 桐山は……もう対局は終わってたと思うよ。な?」
「感想戦やってたと思う。……俺! 一声かけに行ってくるよ」
同意を求めたいっちゃんは、俺の言葉に頷くと一目散に会館の方へ走っていった。
止める間もなかった。
あれは、美人を前にしてかなり舞い上がってたな……。
「す、すいません。お手数おかけして、ではもう少し待たせて頂きます」
「いいよ、俺達もう帰るだけだったから、たいした手間じゃない。桐山六段とは知り合いなの?」
ただのファンってわけないよなって思った。
二人の表情は硬くて、とても不安そうだったから。
「昨日、彼のことをとても傷つけてしまったから……謝りたくて」
その言葉を聞いただけで、お? と思った。
なるほど。俺達が余計な気を回さなくても、大丈夫だったということだ。
桐山の奴め、羨ましい。
いっちゃんはすぐに戻ってきた、桐山ももうすぐ出てくると思うよと彼女に声をかけていた。
そのあと、桐山とどういう話をするのか、それはもう、ものすっごく気になったけれど、その場にとどまるのは不自然すぎるので、俺たちは彼女たちに手をふって、会館を後にする。
「なぁ……スミス」
「なんだ、いっちゃん」
すこし、離れたところでいっちゃんがポツリと呟く。
「すっげぇ美人だったな」
「そうだな、高校生のくらいの子すっげぇ美人だったし、小さい子も可愛かった」
「桐山の特別な人ってどっちなのかな……」
「さぁな。どっちにしろ、あんな女の子たち二人とお知り合いってだけで、もう激しく負けた気分だ」
「……飲みにでも行こうぜ」
俺達は、寂しく肩を叩きあった。
一砂さんから会館の前で、女の子が二人待ってるぞっと声をかけられて、僕は慌てて感想戦を終わらせて階段を駆け下りた。
そこに居たのは、予想を裏切らずあかりさんとひなちゃんの二人。
とりあえず昨日のことを謝ろうと僕が口を開こうとした瞬間。
ごめんなさいっと二人そろって頭を下げられて、面を食らってしまう。
「なんで、あそこで零ちゃんがすいませんって、帰らなきゃいけなかったの? 謝る必要なんて全くなかったよ!」
ひなちゃんは少し涙声で、でも力強くそう言い切ってくれた。
「そりゃ、ショックだったよ。お父さんのこと最悪だって思ったし、これ以上ないくらい酷いと思った。でも私はそれを知れて良かったと思う」
「あのまま、何も知らないままだったら……少しは父に、心を残してしまっていたかもしれない。でも、もう私たちの事なんて、とっくの昔にどうでも良くなってたんだなって分かったから」
お父さんにとって、どうなっても構わない「何か」になってしまったんだって。
あかりさんは静かに目を伏せた。
「母の事はごめんなさい。あの後すっごく後悔してた、桐山くんを責めたかったわけじゃなかったのよ。ただ、それ以上もう聞きたくない一心だったみたいで」
あの後、家族で話し合ったらしい。
勿論、誠二郎さんにもしっかりと話を聞いて。
そうして、美香子さんはこの男の心がもう自分の元にないことを、他の誰かの物になっている事を、受け入れざるを得なかった。
これ以上一緒に居ても苦しいだけだと、別れましょうと静かに告げたそうだ。
あかりさんたちにも、それでいいかとちゃんと聞いてくれたそうだ。
そして、二人もそれに同意した。
「あの、またお家にいってもいいですか? ここまで来たら、最後までお手伝いしたいです」
声を出すとき、少しだけ震えてしまった。
でも、どんなに怖くてもぼくは彼女たちを関わることを諦めたくなかった。
「もちろん! 寧ろ、私たちの方が零くんの方に、愛想つかされちゃったかと思っちゃった……」
「そんな! そんなこと絶対ありえません!」
「良かったぁ。メールにも返信なかったから、零ちゃん怒ってたらどうしようって」
「え……?」
ひなちゃんが心底ほっとしたように、そう告げたので僕は慌てて携帯の確認をした。
色々ありすぎて、充電するのを忘れていた。
画面は真っ暗で沈黙をしている。
「す、すいません、昨日からちょっと充電切れてたみたいで……」
「なんだ、そうだったの。零くんいつもは、返信はやいから、ちょっと心配になっちゃって」
「お祖父ちゃんが今日の対局らしくない……なんて中継見ながら言ってるし、昨日の事気にしてたらどうしようって、迷惑かもとは思ったけどとりあえず謝りたくて」
二人で思わず、会館の傍まで来てしまったのはいいものの。どうしたらいいのかもわからず、出て来た棋士に声をかけられたらしい。スミスさん達にはまたお礼を言わなくては。
「大丈夫だった? 対局の方は?」
「はい。無事に勝てました。すいません、あかりさんたちだって大変なのに、ご心配までお掛けして……」
昼休みの時、島田さんやスミスさんと話せたことが良かったんだろう。
午前中は些細なミスを重ねてしまって劣勢だったけれど、午後は粘りに粘った。終盤、相手のミスもあって、なんとか辛勝、といったところだ。
「あぁ! ホントに良かった。これで負けたら絶対昨日の出来事のせいよ! うちの事で、こんなに迷惑をかけてどうしようかと」
「とんでもないです! 私情を挟んで、対局に影響がでるなんて未熟な証拠で……」
なんて、会館の前でお互いぺこぺこ、謝り合っていたら、対局が終わって出て来たらしい島田さん達に笑われてしまった。
もう遅くなるから、そんなところで話していないで帰りなさいと、促される。
耳元で小さく、仲直りできたみたいでよかったな、と言われた。
後日、川本家で離婚の手続きが行われた。
協議離婚ということで、それほど難しい手続きではない。
借金、不倫、相手側に非があるのは明白で、慰謝料と養育費の請求も行った。
そこまでしなくても良いだろうと向こうは騒いだけれど、これからの事を考えたらやはり貰っておくべきだろう。
誠二郎さんの支払い能力に、全く信頼ができなかったので、菅原さんは向こうの親御さんにも連絡してくれたらしい。
これは、前の人生で誠二郎さんが一番嫌がっていた事だ。けれど、向こうの両親にとってもあかりさんたちは孫のはずなので、何も可笑しい話ではない。
あちら側のご両親はそれなりに、常識のある方々のようで、息子の不祥事を恥じて代わりに、だいぶ立て替えてくれたようだった。
印象に残ったのは美香子さんの雰囲気が変わったことだ。
「貴方が去るというのなら、私は娘たちと生きていきます。もう二度と私たちの前には現れないで下さい」
ときっぱりと、誠二郎さんを切り捨てていた。
吹っ切れた女性というのは……なんというか強いなぁと思う。
お前はそれでいいかもしれないが、娘たちは? と諦め悪くそう告げるその人に、
「お父さんは、他所の家のお父さんになることを選んだんでしょ? そこでちゃんと責任もって生きて」
「もう、一緒に暮らしたいとは思わない。会いたいとも思いません。どうぞ、何処かでお幸せに」
ひなちゃんと、あかりさんはそれぞれ拒絶の意思を示した。当然だと思う。先に手を離したのは誠二郎さんの方だ。
彼も、それ以上何も言わなかった。
いや、言えなかったのだろうと思う。
あとは、淡々と手続きは滞りなく終わった。
そして、川本誠二郎はこの家から居なくなり、甘麻井戸誠二郎という赤の他人になった。
お暇しようとする僕を止めたのは、美香子さんだった。
こんな日だからこそ、皆でご飯を食べたいと、桐山くんが嫌じゃなければ一緒にどうかと、そう持ち掛けられた。
あの時と同じ餃子だった。
ひなちゃんと一緒に、葱とキャベツをいっぱい刻んで、あかりさんと生姜をすって、お肉と混ぜてボウルで練った。
いつものちゃぶ台を囲んで、みんなで一心に餃子を包んだ。
「ごめんなさいね、桐山くん」
ポツリと美香子さんがそう言った。
「どうかしてたわ。いつまでも、優しかったあの人の面影を追い続けていた。夢から覚めた気分」
恋をして、結婚をして、子どもを産んで、僕には知り得なかった、美香子さんとあの人の物語があったのだろう。
そして、その想い出はほんとうに素敵なものだったと思う。
「私には、こんなに可愛い娘たちがいるもの。それだけで生きていけるわ。想い出だけは綺麗なまま抱えて、あの人の事はもう忘れるの」
そう言ってほほ笑む彼女は、強く優しい母親の顔だった。
みんなでいっぱい焼いて、お腹いっぱい食べた。
この場に美香子さんと彩さんがまだいることに、僕は少しだけホッとしていた。
僕の大事な、大事な人達が住むこの小さな街で、どうかこの時間が長く続きますようにと、そう心の中で願った。
川本家の秋の捨男事変は終了しました。菅原さんとても有能。
全部終わった後に、みんなでご飯食べてほしかったのでそこが書けて良かったです。
あと、桐山くんはなんかスミスさん達にまさかの恋バナ系のいざこざ!?て勘違いされちゃったけど、本人は全くそれに気づいてません(笑)
ももちゃんはもう、このときには美香子さんのお腹にいます。その辺のことはまた追々。