小学生に逆行した桐山くん   作:藍猫

45 / 73
第三十九手 羽を休める場所

 

 ことの始まりは、棋神戦が終わり、僕を連れて帰った幸田さんが、念のためにと病院を受診させた事だった。

熱は、もう平熱レベルまで下がっていて僕自身としては、疲れたんでしょうと言われて終わりだと思っていたが、予想外の指摘を医者からもらってしまった。

 

「熱はもう下がりかけていますし、その他に風邪のような症状もみられないので、やはり疲れていたのでしょうね。タイトル戦は先日終わったのですよね?」

 

「はい、無事に終わりました」

 

 幸田さんのお知り合いの方だから、将棋に関しての話もはやい。

 

「でしたら、しばらくは身体の休息を優先して欲しいと、医者としては思います。それから、桐山さん、自分の体重どれくらいだったか覚えていますか?」

 

「体重ですか? 4月の測定では42kgだったと思います」

 

「あぁ、やっぱり。先ほど測った値が40を切ってしまっていたので、少し痩せすぎですね」

 

体重なんてそう頻繁に測らないので、予想外だった。成長期に減ること自体が珍しいのに、僕の体重はこの数か月で3kg落ちていたらしい。

 

「スポーツを熱心にはじめた子どもにも稀にみられますが……。君の場合は、身体の活動量で減ったというよりは、あんまり食べなかったのでは? 緊張してる場面も多かっただろうし、あとは集中しすぎて食べるの忘れたとか、無かったですか?」

 

身に覚えがありすぎた。特に棋神戦は都合の良いことに夏休みと被っていた。それはつまり、学校に行っていたら、食べる給食も当然お休みだった。四六時中、将棋に集中できるあまり、食事を抜いた回数は両手の数でも足りない。シロに怒られたり、猫たちのご飯のタイミングでふと、思い出して食べたりすることもざらにあった。

 そして、4月に一人暮らしをしてから、それなりに気を付けていた献立も流石に、適当になっていたと言わざるを得ない。とりあえず、ご飯だけは炊いていたけど、おかずまで作ってる暇があれば、研究をしたかった。

 

「人生においても、大事な時期で、とても忙しかっただろうとは思います。でも、身体においても成長するために、大切な時期ですからね」

 

先生は、僕に理解を示してくれた上で、そう諭した。全く持ってその通りでしかない。宗谷さんとの数か月にわたるタイトル戦は、かけがえのない経験だったが、それ故に削ってしまったものもあった。家に帰ったらまずは、掃除して、冷蔵庫の中を見直そうと思う。

 

 神妙に頷いて、心を入れ替えたつもりだったのだが、付き添ってくれていたのが、幸田さんだったことを僕はすっかり忘れてしまっていた。

 隣で診察結果を聞いていた幸田さんは、このまま僕が家に帰るのを良しとはしなかった。病院で測った体温が、まだ37度台だったこともあり、きちんと下がるまでは、うちに来なさいと言われて、断る事は出来なかった。

 

 

 

 マンションには一時的に寄り、荷物を置いたり、着替えを取ったりした。猫たちの様子をみるのも忘れない。和子さんが随分と気にしてくれてるおかげで、餌の心配はしていないけれど、この子たちとの時間も随分取れていないなと、少し反省した。

 

「今帰った。連絡した通り、零をしばらく家に泊める」

 

「おかえりなさい、用意はしてましたよ。迎えに行くと行った時から、こうなるような気がしてたわ」

 

幸田さんの奥さんは柔らかく笑って、出迎えてくれた。香子さんたちは、まだ学校から帰ってきていないと聞いて、僕はまた少しだけ、現実の時間に戻ったような気がした。  

 今日は平日の昼間で、もう新学期は始まっていて、学生は学校に行っている時間だ。当たり前の事なのに、何故か少し遠い話のような気がした。

長距離の移動だったし、疲れただろうから、眠たくなくても横になっているようにと言われて、気が付けば夜まで寝てしまっていた。いつもだったら、声をかけてくる香子さんも、今日は何故かとても静かだった。

 

 

 

 翌朝の土曜日、熱もしっかり下がると、流石にじっとしているのは時間をもてあます。なんとなく、リビングを覗くと、幸田さんの奥さんが昼食の用意をしているのが見えた。

 

「あの、すいません。良かったら一緒にしても良いですか?」

 

「あら、良いのよ。せっかく体調も良くなったのにゆっくりしていて」

 

「今、料理練習中で、他の方の作り方に興味があるんです。僕は、同じものばかり作ってしまって」

 

 本当は、懐かしくなってしまったのだ。何度、此処に立って料理をしている後ろ姿を観てきただろう。その時は、手伝わないとっていう使命感しかなかったけど、今は単に、また幸田のお義母さんの料理ってどんな感じだったかが興味があった。

 

「そう? 何処の家も似たようなものだと思うけど……。でもそうね、今は一人暮らししてるんだっけ。じゃあ時短でつくれるの、もう何品か作りましょう」

 

 簡単だからすぐに覚えられるわ、と優しくそう言ってくれた。教えてもらった料理は以前にも何度か食べたものだった。こんな風に作ってくれていたのかと、感慨深い。

 率先して手伝おうとする僕と、そのせいで更にやる気をなくす子どもたちとの間で、困ったように淡々と家事をこなしていた印象が強かったけれど。今の幸田家はどこか、まったりとした雰囲気で、幸田さんの奥さんが自分のらしさを出せているような感じがした。

 

「おはよう。なに作ってるの?」

 

「おはよう、香子。もうお昼よ。今日のお昼はちょぴり豪華になりそう。品目増やそうと思って」

 

「へぇ、そうなんだ? あれ、あんたも作ってるの?」

 

 お母さんに声をかけただけのつもりだったのだろう、一緒にいる僕を見て、香子さんは目を丸くした。

 

「もう少し料理もできないと駄目だなぁと思いまして、見学させてもらおうかなと」

 

「……そう言えば、一人暮らししてるんだっけ。料理もちゃんとしてるんだ」

 

「そういう約束だったので。もっとも最近はだいぶサボってしまっていたので、少し反省中です」

 

 香子さんは、しばらく僕に話しかけながら、料理をしている様子をじっとみているようだった。手元をみられるのは緊張する。この身体で料理するのにも慣れたものだが、僕はもともとそれほど上手いわけではない。幸田さんの奥さんの簡単な指示に従いながら、食材を切ったり、下ごしらえを手伝っていく。

 

「……私も何かしたい」

 

 見ていただけだった香子さんが、小さくつぶやいた。

 

「あら、珍しい。どういう風の吹き回しかしら」

 

「別にいいじゃない、やってみたくなったの」

 

 来年、高校生になるのに、包丁も碌に握ったことがないと、香子さんは小さくぼやいた。お菓子づくりはしたことがあるらしい。今になって知った新しい一面だった、でも、たぶんこれは、前の香子さんには無かった事だ。

 将棋を辞めて、彼女は少し身軽になった。そして、それは良い変化だと思う。

 

 三人で少し窮屈になりながら、台所で作業するのは新鮮で楽しかった。香子さんは、飲み込みがはやい。基本的に、この人は器用なのだ。多少ぎこちないながらにも、丁寧にこなそうとする様子に、幸田さんの奥さんも、何時まで続くかしらと言いながら、嬉しそうだった。

 作った昼食を皆で、囲んで食べた。歩とも話したのだけれど、少し口数が少なく、そんな彼を見て、香子さんは緊張しているのだと、軽く言ってのけた。奨励会員からしたら、あんたは気遅れする存在なのよ、なんてあっさり言われて面をくらってしまう。

 お腹が満たされた昼下がり、僕たちは三人で将棋を指した。最初は香子さんが、体調が良いなら、また駒落ちで指したいと、言い出したからだ、それをみて、歩が自分も……と参加してきた。もっとも、歩は奨励会員としてのプライドがあるといって、互戦だったけれど。

 不思議な気持ちだった。こんなふうに、穏やかに幸田家の居間で将棋を指せる日がくるなんて。歩は真剣だったけど、香子さんはどこかじゃれるように、楽しんで指しているのが良く分かった。

 

「タイトル戦、観てたのよ。一応ね」

 

 対局中、ぽつりと香子さんが呟いた。

 

「ありがとうございます。でも、今回は獲れませんでした」

 

「知ってるわ。宗谷名人に良い様に振り回されてた。あんた体力なさすぎでしょ。まぁ、風が吹いたら飛びそうな見た目してるけど」

 

 もっと威圧感も出さないと、しっかり食べなさいよね、と続けた彼女は、後半の対局は悪くなかったと、棋戦の感想もちゃんとくれた。 

 

「でもね、駄目よ、敗けたら。あんたは私に勝って、それで私は将棋を辞めたんだから」

 

「うっ。……はい。すいません」

 

 ツンとした表情でそう続けられた、思わず謝ってしまった。

 

「そうよ、また次、頑張んなさいよ。これから先何度だってあるわ、次は宗谷名人にだって敗けちゃだめなんだから」

 

 次の手を指しながら、彼女はいたずらっぽく笑ってそう言った。くよくよ、するな、次に行けと、その溌溂さに背中を押された気分だった。

 

 

 

 結局、幸田家には次の日もお世話になって、日曜日の夜に僕の部屋に帰った。

もう少し、引き留めたそうだった幸田さんには、連絡を絶やさないようにと念をおされた。奥さんは、僕に何枚か簡単なレシピをくれた。歩は少し、複雑そうに、何度も僕と指した対局を見ていたけど、最後に一言、自分は自分で頑張るから、とだけ宣言された。

 見送りに出てくるわけもなく、チラッと自分の部屋から顔を出した香子さんは、じゃあねと気軽に手を振ってくれた。幸田さんは、少し呆れていたけど、僕にはその軽さが心地良いと思えたし、またすぐくるんでしょうと、言外に言われた気がした。

 

 

 

 

 


 

 棋戦は無いが、事務的な手続きはたまるし、僕は初のタイトル挑戦の後、インタビューやらその他の仕事をほとんどこなせなかったので、まとまった時間が獲れる時に、将棋会館に寄った。

 

「よく来たなぁ、桐山、菓子いるか? 沢山食えよ、もういっそ全部持って帰れ」

 

 訪れた会長室では、開口一番、そう出迎えられた。

 

「ありがとうございます。幾つか、頂いて帰りますね」

 

そう多く人に会った訳ではないが、事務の人を始め今日は食べ物の貰いものがとても、多かった。

 

「幸田が嘆いてたよ。体重減っちまったんだって? じーさんなら良くあるが、成長期の若者がそれじゃ、心配もするわ」

 

「えっ。この話広まってるんですか? 」

 

「それもあるが、実際お前さん、身体の厚みが……だいぶ薄いぞ。それじゃあ、皆がなんかやりたくもなるわ」

 

 なんだか、記録係をしていた時の事を思い出した。プロ入りしてからは、ほぼ無くなっていたのだけれど、あの時も随分と沢山の人に、お菓子を貰って、ご飯も食べさせてもらった気がする。

 

「今日は晩飯は? 誰かと食う約束してんの?」

 

「いえ、今日は家に帰って作るつもりだったので」

 

「じゃあ、俺と肉食い行こうぜ。肉は良いぞ、スタミナがつく」

 

 決定な、とあっさり言った会長は、少し仕事が残っていると席を外した。

 

 僕は、事務の人といくつかのやり取りをしたあと、雑誌の取材を受けた。速さが売りの即日の記事のコメント取りは終わっていたので、後日発行されるコラムのものらしい。記者の方は丁寧だったし、僕も時間を置いた分、客観的に対局について語れたと思う。

 仕事を片付けて、会館を後にする頃には、いつの間にか柳原さんも合流していた。よくある事なのだが、本当に仲が良いお二人だと思う。

 

 

 

 連れて行って下さった焼肉屋は、下町の雰囲気を残した、個人経営のお店だった。お座敷の方は、仕切りもしっかりしていて、落ち着いて食べることが出来る雰囲気で、会長の馴染みのお店なのだろう。

幾つか、会長が注文した後に、好きなもん、好きなだけ頼めとメニューを渡された。お二人はお酒も飲まれるから、食べる量はそれほど多くない。僕がほとんど追加を頼まないので、柳原さんは小さく笑った。

 

「それだけで、いいのかい?せっかく徳ちゃんが奢ってくれるんだから、もっとバンバン頼んでいいんだよ」

 

「俺が奢るのは、桐山のぶんだけだぞ」

 

「食べ切って、足りなかったらお願いしますね。どれくらいの量が来るか、分からないですし」

 

「そういう所がなぁ。子どもは目についたもん好きなもん一杯注文しがちなんだが」

 

 俺らが子どもの頃は、店の肉食いつくしてやるって気分だった。当然ムリなんだけど、と会長は機嫌よくそう言った。飲み物が来て、こっちは好きにやるから気にせず食えよ、と言われた。

 

「無事にタイトル戦終わって会長としては、一安心。普段の三倍くらい盛況だったし、おまえさんも立派だったぞ。スポンサーの中には、中学生ってことで、心配してくれた人も居たが、前夜祭での立ち振る舞いをみて、実際に話した後は、皆ほめちぎってた」

 

「それは、良かったです。流石に緊張もしましたから。間が多少あったとはいえ、移動も多かったですし。でも、色んな県に行けたのは楽しかったですよ」

 

 タイトル戦は、様々な県に赴く、良い気晴らしになったと思う。

 

「タイトル戦の醍醐味の一つだ。その土地、人の良さに触れる。ま、俺としては各地の上手い酒飲めて万々歳!」

 

 会長は少し茶化してそう笑ったけれど、毎回タイトル戦の度に奔走してくれているのを知っている。宗谷さんの事も気にかけているし、今回は僕の事まであったのだ。地域の方、スポンサーをはじめ、関わってくれた多くの人のおかげで、タイトル戦は続いてきた。今後の継続のために、この人はいつも、笑いながら、方々で働きかけてくれている。

 

「どうだったよ? 初のタイトル戦は?」

 

「……準備不足だったかな、とは思います。良くやったと好意的に言ってくれた人も居ましたが、前半戦、僕は不本意でした。あの場に立たせて頂く権利を勝ち取ったのは僕です。それなら、何をおいても全局、指し切らなければならなかった」

 

 子どもだから、まだ若いから、それが許されて良い場面では無かった。大勢を押しのけて、その上で棋神に挑む事になったのだから。

 

「ま、そんなに気負うなよ、おまえさんの失着は珍しかったから目立ったが、普通にある事だ。前半の対局を惜しむ声はあれど、責めてるやつなんていない。その辺は置いといて、宗谷とタイトル戦終えて、今の心境は?」 

 

 会長と、それから柳原さんも、興味深そうに、僕の言葉を待っていた。今の素直な気持ちで良いのだろうか。だったら、それは決まっている。

 

「また、指したいです。第六局は渾身の対局でした。あんな対局を最高の舞台で、また宗谷さんと対局出来たらと思います」

 

 何度だって、盤の前で会いたくなる。どれほど身を削ろうと、そこに辿りつくまでに、幾千の時間を捧げても、あの人とまた、タイトル戦をしたい。

 

「言うねー! 俺は、安心したよ。そうか、やっぱりおまえさんは、そっちなんだな」

 

 僕の返答に、会長はバシバシと肩を叩いて、声を上げて笑った。そして、柳原さんと、いいねぇ若さだねぇ、眩しくて、こわいくらいだと、ささやき合い、お互いのお酒をつぎ合うのだ。

 

「いやね、タイトル戦やり終えて、敗けた後って色々、考えるわけだ。何十時間も何局にも渡り、同じ相手と戦って、自分の中の最大限をぶつけて、その上で、叩き潰される」

 

 勝負ってのは、はっきりしてるぶん残酷だと柳原さんはしみじみと呟く。

 

「特に宗谷との対局の後は、なんつーか、余計にへこむ。そこから、もう一度自分を、作り直そうと思うのには、時間がかかるもんなんだが、お前さんもう、しっかり次を見てんだよなぁ」

 

 確かに、以前は酷い敗け方をした後は、なかなかに調子を崩したこともあった。そうして、何度もくり返し、立ち上がってきたからこそ、今の僕があるのだと思う。それに、

 

「第六局の後に、宗谷さんが部屋にきてくれて、次の対局の話をしたんです。何の棋戦でも良い、また待ってるって」

 

 あんな風に言われて、くすぶってる場合じゃないと思えた。

 

「えぇ、あいつそんな事言いに行ったの? 前日にタイトル戦で叩き潰して、満身創痍で、寝込んでる相手に? 」

 

 会長の言いぐさに思わず噴き出してしまった。お見舞いに来てくれての事で、僕は嬉しかったけど、見ようによれば、止めを刺したようにもとれるかもしれない。

 

「いや、桐山は喜んでるみたいだし、別に良いけどよ。……でも、そうか。宗谷がわざわざね。良かったわ、ホントに」

 

 会長は一段声を落として、静かにそう言った。

 

「俺が引退する時、棋力は落ちてたし、年の影響もあったから、納得はしてたけどな。あいつ、たぶん少し失望してたよ。自分がじゃれ合える相手がまた一人少なくなることに」

 

宗谷さんと会長は、タイトル戦を含めて、幾つもの名局を残している。僕は、現役の会長と指す機会は無かったけれど、宗谷さんはきっと、とても楽しんでいたのではないだろうか。

 

「徳ちゃんの引退は俺も少し早かったと思うけどねぇ。俺だって、動揺した。まぁ、他にやりたい事あったから仕方ないけどさ」

 

 同期だった柳原さんがそう言うのも分かる。対局をしていたい相手が、現役を引退するのは、衝撃だっただろう。

 

「七冠獲ってしばらく経った頃、あいつも、流石に自分のモチベーションを保つのに苦労してるみてぇだったし、他にも色々あってな。俺は心配してたんだ」

 

 会長の言う、色々の中に、彼の耳の事や、将棋以外の不安定さが頭をよぎった。文字通り全てのタイトルを獲得して、名実ともに将棋界の頂点に立った時、彼の中に喜びはあったのだろうか。一抹の寂しさも、あったのでは無いかと思う。

 

「今となっては、あいつが全力でぶつかっても、折れずに向かってくる奴も何人か沢山出てきて、やっぱ将棋はこうじゃないとって思ってた。そこにさらに、桐山、お前だ」

 

「誰にも破られないだろうと思っていた、宗谷の記録をね、次々破っていくおまえさんを見たとき、おじさん達は、なんとなく次の風がきたと思った」

 

 柳原さんは、奨励会の記録を徳ちゃんと眺めた日が懐かしいよ、とそう言った。

 

「宗谷の時でさえ、現実離れした記録だと思ったんだが、おまえも大概だったぜ。おまけに、面白そうだと思って、対局させてみたら、あの宗谷が一回で新人の名前を覚えたんだ。あれには笑っちまった」

 

 炎の三番勝負の企画を考えたとき、会長は宗谷さんが受けるとは三割も期待してなかったらしい。もともと、テレビの企画などは彼がもっとも避けたがる仕事だったから。ところが、島田さんが棋譜をみせると、宗谷さんは予想外に快諾したらしいのだ。そして、あの時の対局は彼の記憶に残ってくれたらしい。

 

「新四段になるときに、騒がれる奴もいるにはいる。でも、その評判のまま活躍が続くのは、なかなか難しい。正直俺は、宗谷の時の記憶が強烈で、それ以上の奴が現われるって事がどこか、信じられなかった。でも、あいつだけは最初から、桐山の事を分かってた」 

 

 いつになく、真剣な表情で会長は続けた。

 

「将棋界としてとか、そんなのは今はどうでも良い。俺はお前に期待してる。宗谷と指してやってくれ。年の差とか、経験の差なんて関係ねぇんだ。誰と指したいかを望むのか、それに、たぶん宗谷はお前を選んだ。一生かけて、あいつと将棋を作っていく人間として」

 

 同期は特別だったり、相性があったり、誰しも思い入れがある相手はいるものだ。

宗谷さんには、土橋さんもいる。僕がそこに収まるとは、到底思え無かったが、会長は掛け値なしの本気でそう言ってくれていた。

 

「……今回、敗けた僕にその言葉は、過ぎるような気がします」

 

 でも、ずっと宗谷さんを見守ってきて、多くの棋士たちを見てきた神宮寺会長が此処まで言ってくれたのだ。

 

「宗谷さんが望まなくても、誰にも期待されてなくても、僕は何度でも、再びあの場所を目指します。最高の相手と、最高の将棋が指せる場所を。今回のタイトル戦はそれぐらい鮮烈でした」

 

 もう僕の意志の大きな一部は、たぶん将棋に捧げられている。

 以前の人生で、何度にも渡ったタイトル戦が、あの対局の熱が、忘れられなくなったその日からずっと。

 宗谷さんは最高の相手だ、もし、彼が僕に同じように望んでくれているなら、それに相応しくありたいと思う程に。

 

「そうか、いや、ありがとうな。ずっと面倒みてきた至上の才能が、更にもうひとつ上に行けるかも知れねぇ。それを可能にする相手が現われて、俺も嬉しいんだよ」

 会長は大きく一息ついてそう笑った。

 

「俺としては、楽しみ半分、恐さ半分だわ。棋匠のタイトルを、獲りに来てくれるのはどちらかねぇ」

 

 柳原さんがしみじみと呟く。

 

「いやいや、朔ちゃん、桐山が挑戦者になるくらいまで、頑張ってくれないと。俺たちの希望なんだから」

 

「はい! 柳原さんとも、是非タイトル戦してみたいです」

 

 会長に便乗して、続けた僕の言葉に、柳原さんは目を丸くした。

 

「こりゃあ、参った! この老体になかなか無体な事を言う。しかし、そう望まれるという事は、俺もまだまだやれるって事か」

 

 宗谷さんはもちろんだけど、沢山指したい人が居る。そのために、今も将棋を選んだ。彼らとの対局、一つ一つが今までの僕を作り、これからの僕を作っていくのだと思う。

 

 

 

 

 

 


 

 やる気は、充分すぎるほどに出てきたものの、僕はしばらく棋戦もないため、中学生らしく学業に勤しむ事になった。

 タイトル戦の対局にあわせて、思考が将棋に寄り気味だった僕の身体は、何日か授業を受けるうちに、やっと日常の方へと戻ってきた気がした。朝一から、フルで授業を受けるのが不思議な気持ちになるなんて、一般的とは言えないだろう。

 

部活にも顔を出すことができた。野口先輩たちは、夏休み一度も参加できなかった僕を、あたたかく迎えてくれた。

 将科部の面々には、本当に頭が上がらない。棋神戦は、ほぼ夏休みと被っていたとはいえ、その前後は授業があった。彼らは、野口先輩を中心に、ノートのコピーだったり、小さな連絡事をだったり、こまめに教えてくれた。

 

これが本当に助かるのだ。以前、ぼっちだった時など、休んだ日の事を職員室に逐一、聞きに行かなければならなかった。高校の時は林田先生のおかげで、随分と過ごしやすかったが、奨励会に通っていた中学の時の事は、あまり思いだしたくもない。

 

「野口先輩、随分と久しぶりの参加になってしまって、すいません」

 

「いやいや、事前に聞いていましたし、桐山くんの活躍は、我々も知っていますよ」

 

 野口先輩の他にも、中継をみていたよ、とかテレビに出ていたね、と部員たちは声をかけてくれた。

 

「ひとまずは、お疲れ様でした。で、良いのですかな? 将棋の棋戦は随分と多いようでしたが」

 

「はい、敗けてしまったので、また挑戦権を取るところからですね。同時並行していた棋戦も、ほとんど敗退しているので」

 

 それを聞いて、野口先輩はすこし難しい顔をした。

 

「タイトル戦……桐山くんのお仕事の様子は私も見ていました。勝負事の世界は厳しいですね。勝者は一人だ。貴方の頑張りを知っているだけに、残酷さにおもわず、ため息が出ました」

 

「良い知らせをご報告したかったです。応援して頂いてたのに、すいません」

 

「何を謝る事があるのです、同輩であることが誇らしいほどでした。聞けば、宗谷棋神とは、将棋界でも随分とお強い方だ。不思議な気持ちでしたよ、真っ向から挑む貴方の姿を観るのは。将棋とは、面白いですね。随分と大人と、私たちの同級生が同じ土俵で戦えるのです」

 

「僕の対局で、将棋に興味を持って下さったなら、嬉しいです」

 

 野口先輩の言葉に、思わず嬉しくなる。林田先生が、顧問をしている事と、部員からの声もあって、将科部では、夏休み、実験もしつつ、将棋の基礎についても触れていたらしい。

 

「私は元々、祖父にすこし習っていましたから。それゆえに二回も勝利してみせたこと、素晴らしいと思います」

 

「ストレート敗けもあり得たので、そこは良かったです。でも、また一からですから。次の棋戦にむけても準備をしないと……」

 

 深く考え込もうとした僕を見て、野口先輩はハッとして、手を打った。 

 

「ふむ。このまま将棋の話をしても良いのですか、一つだけ良いですかな?」

 

「はい? 何でしょうか?」

 

「貴方は、プロ棋士の桐山零であると同時に、私立駒橋中学校の桐山零でもあり、放課後将棋科学部の桐山零でもあるのです」

 

 その言葉に、首を傾げる僕に、野口先輩はすこしゆっくりと、言い聞かせるように続ける。

 

「我々も、ついつい貴方のプロ棋士の側面に目がいってしまう。その目覚ましい活躍のおかげでもありますが。学校に通い、成績も維持し、その上で働いて、至上初の記録を打ち出す」

 

 なかなか出来ることではありませんと、言った後に。

 

「ですが、厳しい世界で戦う貴方が、将科部の桐山零でありたい時にこそ、この場所は力を発揮できるという事を忘れていました」

 

 重い棋戦が続き、次の棋戦への想いも高まり、僕はずっと将棋について考えていた。それは決して、悪いことではないのだろうけど、たまには肩の力を抜いて良いのでは?と

彼は言いたいようだった。

 

「鳥もずっとは飛べないのです。桐山くんもたまには羽を休める時が必要です」

 

あれほど、一生懸命やったのですから。野口先輩は、そう眼鏡の奥でにっこりとほほ笑んだ。

 

「どうですか? 将棋も良いですが、今日は実験に参加してみませんか?」

 

 行き詰まっている事を、何となく察してくれたのかもしれない。気分転換してみては? と言われたのが分かった。

 

「もちろんです! 夏休みはどんな実験をしたんですか?」

 

「素晴らしい成果が……! と、言いたい所ですが、ローマは一日にして成らず。いずれは、学校での自給自足が可能かという論文を書くために、こつこつと実験を積み重ねねばなりませんな」

 

 頭を抱えながらも、野口先輩は楽しそうだった。

 部員の皆に、夏休みに行った実験の概要や、結果をまとめたノートを見せてもらう。よく教科書でみるような基礎的なものと、一風変わったもの、様々な実験を行っていた。その記録の端々にメモがあり、活動の様子が目に見えて伺えて面白かった。

 

 秋には小さな文化展もあるらしく、そこを目指して今は、結果をまとめているところらしい。その頃に僕の棋戦がどうなっているかは分からない、でも出来る範囲で協力させてほしいと言うと、もちろんと力強く頷かれた。

 フラスコを傾けながら、予想外に生まれた配色に、皆で笑って。あぁ、こんな時間が楽しいと、思えることが幸せだった。

 

 棋士としての僕にしか、価値が無いとは言わないけれど、今の僕には、学生で居られる場所がある。将科部の部員はもちろんだけれど、クラスの子たちは、僕を同級生として扱ってくれている。

 以前は、あんなに居心地が悪くて、苦手だった学校を悪くないって思えるのだ。

 

 

 


 

 対局が無い休日に、久々にひまわり園に顔を出した。青木くんとは、メールのやり取りはしていたが、流石にタイトル戦中には訪れる余裕が無かった。今日はお土産も沢山買っている。

 園長先生は、いつもおかえりなさいと出迎えてくれる。たった二年ほどしか居なかったけれど、ただいまと言える場所に違いなかった。

 大きな仕事をこなしたようで、誇らしいと言ってくれた後に、毎月の支援は、何時でも辞めてくれていいのよ、と少し困った顔で、気遣ってくれた。まとまったお金が入るたびに、幾らか寄付をさせて貰っていた。いつも、長いお礼の手紙が来るし、そこに自分の為に使って欲しいとも書いてあった。でも、多分これは、一生辞めることはないと思う。

 此処は、やり直した僕の最初に出来た居場所だ。そして、此処には当時の僕以上に、誰かの手が必要な子どもたちがいる。それを忘れる事は無い。

 

 また、何人か新しい顔が増えていた。逆にこの数か月で、引き取られた子はいないらしい。中々に、難しい世の中だと思う。

 でも、新しい子たちも、随分と馴染んでいる様子で、園全体の雰囲気も明るくなっているような気がした。僕の顔をみて、走り寄ってきてくれたのは、馴染みのちびっこたち。

 元気だった?

 最近忙しかったんでしょ?

 でもパソコンで観てたからかな? 久しぶりの気がしないかも。

と、声をかけてくれた。

 青木くんに聞いたところ、棋神戦の中継をパソコンで観れるようにしてくれたらしい。テレビでは中継しないから、ニュースの結果しか分からないからと少し不満そうだった。

 皆の近況を聞きたいというと、学校での出来事、最近出来るようになった事、今悩んでいる事を、一人一人が沢山、教えてくれた。たとえ時間が開いたとしても、過ごしてきた密度は変わることが無く。

兄弟……とは、少しちがうけれど、僕たちは不思議な絆で結ばれた仲間なのだと思う。

 

 

 

 お土産を渡して、皆と話した後に、青木くんが二人きりで話したいとこっそり、耳元でささやいた。僕は、すぐに頷いて、少しだけ散歩をしてくると二人で、園を出た。向かう先は、自然とあの公園だと分かっていた。

 

「あれ? 青木くん、背が伸びたね」

 

 公園について、青木くんと隣り合わせになると、ふと気付いた。彼は少しだけ、僕よりも背が高くなっていた。

 

「あ! 本当だね。桐山くん追い抜いた。皆、成長期だし、今だけかもしれないけど」

 

 最近、園のご飯がすこしグレードアップしたらしい。僕としても嬉しい知らせである。

 

「桐山くんの影響で、支援者増えてるって、園長先生が言ってたよ。君は園を離れた後も、ずっと僕らを助けてくれてるね」

 

 こっそり聞いちゃったと笑う彼は、随分と大人びた表情をするようになった。

 

「皆の応援も、僕を助けてくれてるよ。本当は、勝ってタイトルを獲るところを見せたかったけどね。がっかりして無かった?」

 

「うーん、少なくとも僕らはそんな事なかったよ。だって、最高にカッコよかった。色々言われてたのも、もちろん知ってる。でも君、ただの一度も諦めてなかったし、勝ちを捨てなかった」

 

 戦ってる姿を、ずっと見てきた僕たちは、結果云々より、それに感動したよと、力強く頷く。

 

「でも、桐山くんどんどん有名になって注目されてるからさ。結果だけみて、がっかりする人もきっといるんだろうね」

 

「それも、含めてプロの仕事だからね」

 

 応援してる人に勝ってほしいのは当然だろう。結果がつきまとう以上そこは避けられない

 

「でも、勝敗は君だけのものだ。戦ってるのは君なんだから。ごめんね、僕らは勝手に君に夢を見て、君が活躍するのを喜んでる。この期待が君の重荷になってて欲しくない」

 

 桐山くん、優しいから、背負わなくて良いものまで背負っちゃいそうで、と彼は少し俯いた。

 

「自由に将棋を指しててほしい。せっかく君が大きく羽ばたいてるのに、心無い声が、それを阻んで欲しくない」

 

 青木くんがそんな風に、思ってくれているのに驚いた。テレビで取り上げられるたびに、一部しか切り取られない、僕の姿に、どこか思う所があったらしい。

 

「ありがとう。人気商売な所もあるから、色んな声があるのは、仕方ないんだ。大丈夫だよ、僕は自分が持てるモノだけ、大事に抱えて生きていくから」

 

 どんなに耳をふさいでも、聞こえてくる声はある。それに振り回される時もあった。でも、僕は知ってる。全部が重たいわけじゃない。

 

「君たちの声援は、追い風だったよ、そんな声があるから、何があっても、また飛べる時があるんだ」

 

 僕のこたえに、青木くんは、少し目を見開いて、照れたように笑った。

 

「僕たちは、声は負担じゃない?」

 

「もちろん。僕が勝っても敗けても、全部、観ててくれるんだよね?」

 

「うん。そんな君の生き方に、憧れたから」

 

 あぁ、本当になんて優しい声だろう。揺らぎそうになるときに、折れそうになるときに、きっと何度だって、背を押してくれるだろう。

 

「桐山くんに、一つだけ聞いて欲しいことがあったんだ。忙しそうだったから、いつでも良かったんだけど」

 

「どうしたの?」

 

「僕ね、母の手のぬくもりは忘れないけど、もう、待つのは辞めたよ」

 

 もし、目の前に現われたら、その時は色々考えるんだろうけど、と彼は言った。

 

「信じたかったけど、誰かに縋ってるだけだと、足元が覚束なくなる。あのままじゃ、駄目だってずっと分かってた」 

 

 いつの日だったか、この公園で、ひっそりと君は僕に教えてくれたね。何度か手を握りながら、顔も覚えてないのに、その感触だけずっと忘れられないと。

 あの時、所在無さげだった少年は、もう何処にもいなかった。

 

「僕にも夢ができたからさ、それに向かって、まっすぐ突き進んでいく。何度でも諦めないで、戦ってる君をみて勇気をもらったから」

 

 これは、君への一方的な約束、そう続けた彼の瞳は、まっすぐに僕を見ていた。

 

 よく、泣いている子だった。誰かの後ろで、僕と会ってからは僕の後ろで、涙をこらえていた優しい子だった。

 僕が君にしてあげられたことなんて、本当に何もない。全部君が、君の優しさが受け取ってくれただけ。それが君をこんなにも強くした。

 

「青木くんが高く飛べるように、僕もずっと応援してるよ」

 

 

 ひまわり園からの帰り道、僕の携帯がメールの着信を告げる。川本家からのご飯のお誘いだった。このまま、マンションに帰るつもりだったから、すぐにむかう返事をした。

棋神戦後、一度あかりさんに会った時、桐山くんをふくふくにしないとって、呟かれた後、随分と頻度が増えた気がする。

 お祖父さんは、よく来たといつものように、出迎えてくれた。棋神戦の感想を何度でも教えてくれる。お祖母さんは、そんな様子をあらあらと、笑いながら見ていた。タイトル戦の最中に何度も、差し入れに来てくれたひなちゃんは、最近できるようになった料理について、教えてくれる。

 美香子さんが、作ってくれた晩御飯を皆で囲みながら、ここ数日、訪れた場所を想い返した。 

 

随分と沢山の居場所が出来たと思う。

 幸田さんの家で、あんな風に穏やかに昼食を囲む日がくるとは思ってもいなかった。おまけに、ふと顔を出しても、たぶん許されてしまうような関係を築けるなんて。

 同業者で、ライバルで、将棋の事を語りだしたらたぶん終わらない、棋士の人たちと沢山、ご飯に行くようになった。

 学校で、野口先輩たちと実験をした時間はたぶん青春の一ページというやつだ。将棋の関係ないことで、笑い合える友人ができた。

 ひまわり園の仲間たちには、カッコいいところ見せたいなってやっぱり思う。彼らの期待に恥じないようにしたいって、思うのは重荷なんかじゃ絶対にない。あれほどの、純粋な信頼を僕は知らない。

 

 

 

 

 羽ばたくために、羽を休める場所は、もう充分すぎるほどだった。

 この先の僕を観ていて欲しい人たちが沢山いて、僕は今日も将棋を指していく。

 

 

 

 

 

 

 




中学生プロ棋士編をまとめた際の書き下ろし。
幸田家を書くことが出来きよかったと思います。

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。